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花燃ゆ 総評

2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』の全50話が終わりました。今年も、なんとか全話レビューを起稿することが出来て安堵しているところですが、最後に、あらためて本作品を総括してみたいと思います。

 大河ドラマ史上最もマイナーな人物といってもいい楫取美和子(杉文)を主人公とした物語で、当初、「幕末のホームドラマ」「幕末の学園ドラマ」「幕末男子の育て方」などといったポップなキャッチフレーズを掲げていたため、放送前からコアな大河ファンより批判的な声が多く上がっていた同作品でしたが、わたしは、なるべく先入観を持たずに、出来るだけドラマを楽しもうと思って視聴してきました。わたしの好きな幕末維新モノであり、しかも長州目線での幕末モノとなると、昭和52年(1977年)の『花神』以来38年ぶりのことで、吉田松陰松下村塾の門下生たちがどのように描かれるか、たいへん楽しみでした。

 で、全話を観終えての感想を率直にいえば、「しんどかったなぁ」というのが正直なところです。やっぱ、マイナーすぎる主人公では無理があったのか・・・。わたしは、同じくマイナーな女性を描いた一昨年の作品『八重の桜』の総評の稿で(参照:八重の桜 総評)、主人公の有名無名は関係ない、どれだけ主人公の魅力を引き出せるかが重要で、『八重の桜』は、史実を丁寧に描くあまり、主人公・八重の存在感が薄かったと述べました。もっと、主人公を前に出すべきだと・・・。まさか、NHKさんがわたしのような素人の声を拾ったとは思えませんが、『花燃ゆ』では、その声を聞いてくれたかのように、主人公である美和子(文)が前に出てきました。そうすると、こういう描き方になっちゃうんですね・・・難しいところです。

 わたしは、視聴率も含めて世間で酷評されるほど酷い作品だったとは思っていません。少なくとも、近年の作品でいえば『天地人』『龍馬伝』『江~姫たちの戦国』などよりは、はるかに良かったと思っています。とくに前半、松蔭が生きていたときはたいへん面白かった。吉田松陰という人がここまでフィーチャーされたのは、先述した『花神』以来だったんじゃないでしょうか? 松蔭の死後、少し物足りなくなった感がありましたが、それでも、久坂玄瑞高杉晋作を中心に、他の幕末作品では省かれてしまう長州藩内の政局を丁寧に描いていましたし、周布政之助椋梨藤太など、他の作品ではあまり描かれない人物にもスポットがあてられ、新鮮でした。でも、それらの人物たちがすべてこの世を去ったあたりから役者不足の感は否めず、「奥御殿編」に入って、ぜんぜん面白くなくなっちゃいました。あそこ、いりましたか?

 「幕末の学園ドラマ」という当初のキャッチフレーズに批判的な声が多かったと思いますが、わたしは、できればそれを最後まで貫いてほしかったと思います。長州藩には、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞など、知名度も人気も高い幕末の志士がたくさんいますが、そのほとんどが、大河ドラマの主役にはなり得ない。なぜなら、彼らは皆、維新を迎えずして早世してしまうからです。たとえば戦国モノでいえば、一番人気の人物は織田信長ですが、物語として人気なのは徳川家康。なぜなら、戦国時代の終わりまですべて描けるからです。高杉晋作がいくら人気が高くても、歴史はここから面白くなるというところで死んじゃいますから、大河ドラマの主役にするのは難しいんですね。その意味で、わたしは松蔭の妹である美和子(文)が選ばれたのだと思っていました。彼女の目線で、松下村塾の門下生たちを描いていくドラマなんだと。だから、「幕末の学園ドラマ」大いに結構じゃないか、と思っていたんですね。

 ところが、高杉晋作の死去とともに松下村塾の火は消えたかのごとく、奥御殿でのくだらない女の確執物語や、世話係となった興丸の偏食の話など、世の中は幕末から明治へと移りゆく激動の時代のなか、どうでもいい話ばかりがしばらく続き、一気に覚めてしまいました。たしかに、美和子(文)は一時期、奥女中として銀姫に仕えていたことは事実で、そこをスルーするわけにはいかなかったでしょうが、それまでの物語とまったく異質な設定になってしまい、何が描きたかったのかよくわからなくなった。テーマがブレ始めたように思えました。大奥を描いた作品でいえば『篤姫』がありますが、あれが成功したのは、最初から最後まで一貫して大奥の話だったからです。今回の物語の場合、奥女中の話はある一時期のエピソードに過ぎず、とくに重要なポイントではないはず。兄・松蔭を敬慕していた美和子(文)が、維新後も、消えることのない松下村塾の火を見守り続けるという物語が見たかった。その意味では、晋作の死後も、役者は落ちるかもしれませんが、前原誠司、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎など、松蔭門下生は多く残っていました。「幕末の学園ドラマ」「幕末男子の育て方」というならば、美和子(文)の目線を通した彼らをもっと描いてほしかったと思います。率直なところ、ストーリーに一貫性がなかった

 ひとつ疑問なのは、今回、大河オリジナル作品にも関らず、脚本家がコロコロ変わりましたよね。しかも、最初の方を書いていた大島里美さんと宮村優子さんは後半ほとんど書いてなくて、後半は金子ありささんと小松江里子さんにバトンタッチ。大河で脚本家が途中で変わるなんて、過去なかったんじゃないですか? これが結局、ストーリーに一貫性を欠く要因になったんじゃないでしょうか? はっきりいって、後半は迷走感ありありでした。もしそれが、低視聴率が原因のテコ入れだったのなら、それこそ、火に油を注いだだけの大失策だと思います。

 あと、物語終盤の主役といっていい楫取素彦という人についてですが、正直、わたしはこのドラマの制作発表までこの人のことをまったく知らず、にわかに関連本を読んで予習したのですが、実に有能な人だったんですね。たいへん勉強になりましたが、ただ、大河の準主役的人物かといえば、やはり地味ですよね。このドラマが、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、楫取素彦の四部作だとすれば、明らかに四部目は、格落ちかな・・・と。演じた俳優さんは一番格上ですけどね。一昨年の『八重の桜』のときにも思ったことですが、幕末と明治に入ってからでは、どうも話がスケールダウンした感が否めない。楫取素彦という素晴らしい地方官がいたということは勉強になりましたが、物語としては、一地方史になり下がってしまった気がして、群馬県の人以外は、イマイチ入り込めなかったんじゃないでしょうか? これも難しいところです。

 それからキャスティングについてですが、主役の井上真央さんについては、何も文句はありません。12~3歳から40歳過ぎまでの美和子(文)の生涯を、実に上手く演じられていたと思います。主役の役者さんというのは、作品の評価をもろに受けますから、少々気の毒ですね。楫取素彦役の大沢たかおさんはさすがの存在感でしたし、高杉晋作役の高良健吾さんや、久坂玄瑞役の東出昌大さんは、最初は「う~ん!ちょっとイメージ違うよなぁ・・・」といった感想だったのですが、回を追うごとに高杉や久坂に見えてきたから不思議です。俳優さんが役に入っていくのか、役が俳優さんに乗り移っていくのか、わたしら素人にはよくわかりませんが、その意味では、今回もっとも良かったのは、やはり吉田松陰役の伊勢谷友介さんでした。最初は、ちょっと「カッコ良すぎるんじゃない?」と思っていましたが、最後の方は、ほとんど憑依しているとしか思えなかった。獄舎で正座する姿は、松蔭の肖像画そのものでした。俳優さんってスゴイですね。あと、毎回1人は出ている大河主役経験者ですが、今回は北大路欣也さん、松坂慶子さん、三田佳子さんと三人も出ていましたね。やはり、大河の主役を演じた方は、存在感があります。井上真央さんも、将来きっとそうなるんじゃないでしょうか?

 最後に、歴代ワーストタイなどと酷評される低視聴率についてですが、わたしは、これについては特に問題視していません。たしかに、ドラマがエンターテイメントである以上、視聴率をひとつの指標として評価することは間違っていないと思いますが、高視聴率=名作低視聴率=駄作というレッテルの貼り方は、いささか短絡的すぎるのではないかと思っています。実際、先述した『花神』は、当時の視聴率でいえばかなり悪かった作品でしたが、大河ファンに名作大河のアンケートを取ると、いつも上位にあがる作品です。NHKは民放と違って、スポンサーや視聴者に媚びることなく作品づくりに臨めるところに良さがあると思います。だから、視聴率の悪さをネタに批判したくはないんですよね。

 ただ、もうひとつの伝統あるNHKドラマの朝ドラの方は、ずっと高視聴率の作品が続いていますよね。じゃあ、朝ドラの方は大河に比べていい作品を世に出しているかといえば、特に違いはないと思います。では、何が違うのか。それはたぶん、朝ドラの方は、ターゲットがブレてないからじゃないでしょうか? 朝ドラのターゲットは言うまでもなく主婦層で、まずはその軸がしっかりしているから、大きくはずさない。で、その中でもいい作品になると、わたしのようなオジサンまでもがハマっちゃうこともあります。

 大河ドラマの元々のターゲットは、歴史好きのオジサン層だったはず。もちろん、それ以外の若い人や女性にも観て欲しいという思いはあって然りですが、そこにターゲットを広げたあまり、従来のターゲットであったはずのコアなファンたちが離れていってしまった・・・。というのが、昨今の大河ドラマの状況だと思います。昨年の『軍師官兵衛』なんて、往年の大河作品を彷彿させる王道の作品だったと思いますが、今年また、女性目線の作品に戻ってしまい、作風に一貫性がない。ターゲットが絞れてない。これでは、結局すべての層から支持されなくなるんじゃないでしょうか? もし、この『花燃ゆ』が朝ドラだったら、きっと大ヒットしてたと思いますよ。でも、日曜夜8時には合わなかった。それが、低視聴率のいちばんの理由だと思います。

 気がつけば、ずいぶんと長文になっていました。いささか勝手なことばかり述べてまいりましたが、大河ドラマを愛する者のひとつの意見として捉えていただければ幸いです。この辺りで総評の稿を終わりにしますね。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。

1年間の主要参考書籍
『杉文と楫取素彦の生涯』 大野富次
『吉田松陰と文の謎』 川口素生
『幕末史』 半藤一利
『もう一つの「幕末史」』 半藤一利
『日本の歴史19~開国と攘夷』 小西四郎
『日本の歴史20~明治維新』 井上清
『明治という国家』 司馬遼太郎
『幕末維新のこと』 司馬遼太郎
『明治維新のこと』 司馬遼太郎
『幕末』 司馬遼太郎
『世に棲む日日』 司馬遼太郎
『花神』 司馬遼太郎


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-16 00:01 | 花燃ゆ | Comments(5)  

花燃ゆ  最終回「いざ、鹿鳴館へ」 ~エピローグ~

 日本初の鉄道が開通したのは明治5年(1872年)10月14日、新橋~横浜間でしたが、その後、明治10年(1877年)の西南戦争によって膨大な戦費がかさみ、政府による鉄道敷設は進んでいませんでした。そのため、明治14年(1881年)に岩倉具視らが中心となって民間鉄道会社『日本鉄道株式会社』が設立されます。日本初の私鉄の誕生です。

 当初の計画では、大宮~高崎間での営業路線として発表され、前橋への延長計画はなかったそうです。ここで立ち上がったのが群馬県令の楫取素彦。県庁所在地である前橋まで路線を延ばさなければ無用の長物になるとして、早速、計画の延長を求めて東京に赴き、鉄道局長・井上勝に懇請したといいます。そして、同じく沿線の埼玉県令・白根多助に協力を仰ぎ(白根も元・長州藩士でした)、さらに、前橋生糸商人たちにもはたらきかけ、日本鉄道の株式買付を行い、それを餌に、前橋までの路線延長を約束させました。さすが、実行の人ですね。

 ドラマで、鹿鳴館の舞踏会に出席していた美和子が、毛利安子のはからいで貴族婦人たちに群馬の生糸産業をプレゼンテーションし、素彦の鉄道開通交渉に援護射撃をしていましたが、まあ、それはドラマの演出だとして、でも実際この当時、毛利元徳第十五国立銀行の頭取をしており、日本鉄道の敷設にあたっての資金面で大いに協力する立場にいたのは事実です。素彦と元徳、あるいは美和子と安子の昵懇の間柄が、多少は有利にはたらいたかもしれません。

 群馬県の就学率が全国でトップになったと喜んでいましたが、これも事実で、素彦が県令在任中の明治9年(1876年)から明治17年(1884年)までの就学率は66.7%で、全国2位だったそうです(8年間のアベレージですから、1位になった時期もあったでしょう)。国の教育行政がモタモタしている中で、素彦は豪商や資本家から寄付金を集め、小学校の建設を地方独自で進め、施策として中学校の授業料を無料化しました。その結果、群馬県は全国トップクラスの教育県として、「西の岡山、東の群馬」と称されるまでになります。そのせいか、のちに群馬県からは大物政治家がたくさん生まれ、鈴木貫太郎、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三、福田康夫と、5人の内閣総理大臣を輩出しています。

 素彦が群馬県令を辞職したのは明治17年(1884年)のことでした。ドラマのとおり、県令としての職務を全うしたという思いがあったのでしょうが、55歳という年齢にも限界を感じていたのかもしれませんね。ただ、辞表を提出したのはこの1年前だったそうですが、この情報が漏れ、前橋住民を中心に留任運動が巻き起こったといいます。明治初期の各県令の在職期間は1、2年と短いものでしたが、素彦の群馬県令在職期間は群を抜いて長く、足掛け9年、熊谷県令時代を含めれば13年に及んでいます。それだけ長く職に就きながら、なおも惜しまれる素彦という人は、本当に地元民から信頼されていたんでしょうね。素彦が群馬県を去るときには、県庁より前橋の停車場までの道端を、数千人の県民が見送りに参列し、道を塞いで別れを惜しんだと伝えられます。

 その後も、素彦は大正元年(1912年)に84歳、美和子は大正10年(1921年)の79歳まで大往生します。しかし、ドラマではそのエピローグは描かれませんでしたね。まあ、ダラダラと余生を描いても仕方がないといったところでしょうが、このあと、二人の人生はまだまだ余生とはいえず、素彦は元老院議官、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任し、また、貞宮多喜子内親王御養育主任も務めました。美和子も、素彦とともに幼稚園の設立にたずさわったり、素彦が内親王の御養育主任を命じられると、美和子も貞宮御付として仕えています。まだまだ、世の中は二人を必要としていました。

 明治22年(1889年)、美和子の兄・杉民治が総額230円をかけて荒廃した松下村塾の修理を行った際には、明治の高官となった伊藤博文山縣有朋ら元塾生よりも多額の30円を素彦は出資しています。その松下村塾が、今年、世界文化遺産に登録されましたね。昨年、世界文化遺産となった富岡製糸場と合わせて、素彦は2つの世界遺産の保存に尽力したことになります。

 素彦が逝去してから10年間、美和子がどのように過ごしたかの確かな記録は残っていません。吉田松陰の妹、久坂玄瑞の妻、楫取素彦の義妹、そして後妻として、めまぐるしい日々を送ってきた美和子でしたが、きっと最後の10年間は、穏やかな暮らしの中で、洛陽のときを迎えたことでしょう。まさか、100年後に自身が物語の主人公になるなど、夢にも思わなかったでしょうね。

 さて、本稿をもって大河ドラマ『花燃ゆ』のレビューは終わりとなります。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。今年は最後までレビューを続ける自信はなかったのですが、なんとか完走出来て安堵しています。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-14 16:34 | 花燃ゆ | Comments(2)  

花燃ゆ 第49話「二人の再婚」 ~楫取素彦と美和子の再婚~

 楫取素彦の年譜よれば、美和子再婚したのは明治16年(1883年)5月3日とされていますが、別の書簡などによれば、その1年半ほど前には既に同居していたことがわかっており、しかも、明治15年(1882年)4月には、湯之沢温泉(現・赤城温泉)にふたりで3泊滞在している記録もあるそうで(ドラマでは、嵐に巻き込まれてやむを得ず1泊という設定でしたが)、ふたりが結婚したのは、その頃だったんじゃないかという見方もあるようです。前妻の寿子が没したのは明治14年(1881年)1月30日のことでしたから、後者の説を採れば、妻に先立たれてから1年余りでの再婚ということになります。現代の感覚で言えば、ちょっと早すぎるんじゃないの?・・・という気がしますが、当時のそれなりの地位の男でいえば、1年以上も後妻を迎えないというのは、むしろ遅いくらいでした。そのうえ、亡き妻の遺言どおりに妹と再婚したわけですから、素彦がいかに寿子のことを思っていたかが窺える気がします。

 一方の美和子は、前夫の久坂玄瑞と死別してから20年近い年月が過ぎていましたが、その間ずっと独り身を通しており、この再婚話にもはじめは乗り気ではなかったといいます。ドラマでは、阿久沢権蔵・せい夫妻から再婚を勧められていましたが、実際には、山口県で存命だった美和の母・杉滝子からの再三の勧めだったようです。しかし、美和子はなかなか首を縦に振りませんでした。というのも、美和子は20年近く経った今なお、玄瑞から送られてきた手紙を後生大事に保管しているほど、亡き夫のことを忘れられずにいました。「貞女二夫まみえず」といった貞操観念も強かったのでしょう。実姉の夫だった人というのも、抵抗があったかもしれません(ドラマでは初恋の人という設定でしたが)。でも、素彦との再婚は亡き姉の遺言でもあったこと、県令としての激務をこなす素彦を間近で見ていたことなどから、最終的には、素彦との再婚を決意したのでしょうね。素彦54歳、美和子39歳のときでした。

 再婚を決意した美和子が、玄瑞からの手紙を燃やしかけて素彦に止められるシーンがありましたが、実際にも、京のまちで政治活動をしていた玄瑞から美和子(当時は)に宛てた書状は21通が現存しているそうです。そこで留意すべきは、その21通が、後夫である素彦関連の書状、著作などを収録している『楫取家文書』に載せられていることです。つまり、妻となった美和子が前夫からの手紙を大切に保管していることを、素彦は許していたということですね。「前の夫のことなど早く忘れろ!」なんて狭量なことは、素彦は言いません。

 そればかりか、素彦は美和子が持参した21通の書状を装丁して3巻にまとめ、『涙袖帖(るいしゅうちょう)』と名付けて大切に保管することを決めました。『涙袖帖』というタイトルは、美和子が玄瑞の自刃後、折にふれてこの書状を読み返し、落涙して袖を濡らしたという意味が込められているのでしょう。妻の前夫に対する思いを十分に理解し、決して忘れないよう手助けをしていた素彦。彼は、ドラマのとおり大きな包容力を持った優しい男だったのでしょうね。それと、素彦自身も、亡き妻・寿子のことを忘れたくないという思いが強かったのかもしれません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-07 16:48 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第48話「富岡製糸場の危機」~楫取素彦の功績~

 平成26年(2014年)にユネスコ世界文化遺産に登録された富岡製糸場は、明治5年(1872年)に創業した官営製糸工場でした。場内には繰糸器300基も設置され、工女200人(のち約400人)が雇用されるなど、当時としては世界屈指の規模を誇っていました。また、労働条件は1日8時間の週休制で、食事や寮も完備され、医療費も無料という当時の日本では異例の好待遇だったそうです。そんなこともあって、全国から集った工女のなかには、元士族の娘も多く、長州藩出身の長井道子長井雅楽の娘)の姿もあったそうです。「産業」と呼べるものがほとんどなかった当時の日本にとって、富岡製糸場で生産される生糸は、日本が唯一世界に誇れる国産品でした。

 ところが、明治13年(1880年)11月5日、富岡製糸場は採算を度外視した経営が祟り、明治政府は民間への払い下げを決定します。当時の明治政府には、赤字続きの官営工場を維持するだけの体力はありませんでした。今でいえば、民営化推進の構造改革ですね。この時点での政府の判断は、決して間違いではなかったでしょう。明治政府は、民営化が上手く運ばなければ、閉場も辞さないという強硬な態度を示します。

 当時の群馬県令だったかとり楫取素彦も、当初は民間払い下げについて賛同の意向だったそうですが、しかし、閉場には大反対。払い下げが上手く運ばない状況を見ると、これは猶予ならぬ事態として、即座に官営の継続を政府に請願しています。明治14年(18881年)11月、素彦は農商務卿・西郷従道の元を訪れ、官営存続の請願書を提出しました。その際、民間払い下げのメドがつくまで官営を継続するよう強く口頭で要請したそうです。

 また、素彦は富岡製糸場を閉場させないために、元前橋藩士で、この当時、農商務省に出仕していた速水堅曹と協力して、県内の生糸産業の有力者に直輸出専門の商社創立を説いてまわりました。そして、明治13年(1880年)12月には、生糸直輸出商社である「横浜同伸会社」を資本金10万円で創設しています。社長には速水堅曹が就任し、会長には星野長太郎。そしてその長太郎の弟・新井順一郎は取締役兼ニューヨーク支店長となり、直輸出の体制をつくりあげました。幕末の安政6年(1859年)に幕府大老・井伊直弼によって開港されて以来21年、楫取県政によって日本の直輸出がようやくスタートします。

 その後、直輸出の向上とともに富岡製糸場の経営も好転し、やがて10数年が過ぎた明治26年(1893年)に三井家が払い下げに応じ、以後、経営母体が代わりながら、昭和63年(1987年)に閉鎖となるまで、実に105年間操業し続けました。閉鎖後も最後の所有者である片倉工業が毎年1億円のコストをかけて保全修理につとめ、そして昨年、ユネスコ世界遺産に登録されるに至ります。

 もし、素彦が閉場差し止めの請願を行っていなければ、あるいは明治政府によって富岡製糸場は破却されていたかもしれません。そうなっていれば、世界遺産・富岡製糸場は存在しなかったわけで、素彦の大きな功績のひとつといえるでしょうね。民間でできることは民間で・・・小泉政権のときによく耳にした言葉ですが、まあ、間違いではないと思いますが、それもタイミングが必要ということでしょう。明治初期の富岡製糸場は、赤字経営でも国が面倒を見る必要があった、ということですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-30 17:26 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第47話「姉妹の約束」 ~寿子の死~

 楫取素彦の妻・寿子病没したのは明治14年(1881年)1月30日のことでした。寿子が健康を害しはじめたのは、明治初年に移り住んだ山口県の二条窪時代からだったようですから、およそ10年近く病魔と戦っていたことになります。素彦が足柄県(現在の神奈川県西部、静岡県伊豆地方)の参事となって同地に赴任した際も、当初は寿子を二条窪に残して単身赴任だったようです。その後、素彦が熊谷県(のち群馬県)権令(県令)に赴任した頃に妹の美和子を同伴して同地に移り住みますが、明治10年(1877年)頃から、療養のため東京に移っていました。

 なぜかドラマでは描かれていませんでしたが、寿子は浄土真宗の熱心な信者だったと伝えられています。二条窪時代には観音堂を建立し、ここで月に二度、地元に人々を集め、僧侶を招いて法座を開くなど、活発な布教活動を行っています。その傍ら、寿子はこの堂宇で、二条窪村の子どもたちに裁縫読み書きを教えていたそうです。また、熊谷県に移り住んでからは、現在の前橋市に本願寺開設を発案。地元山口県から浄土真宗の僧侶・小野島行薫を呼び寄せて酬恩社教会を設立、その説教所(出張所)の造営を支援しました。当時、素彦の赴任した熊谷県は、気性の荒い「上州人気質」が根強く残った「難治の県」と呼ばれていましたが、寿子はその上州人の荒々しさを少しでも鎮めようと、浄土真宗の布教に尽力したようです。まさに「内助の功」ですね。

 寿子は行薫を招いて二条窪時代と同じく月に二度の法座を開き、県庁の官吏の妻たち地元有力者の妻たちに出席を促し、仏教の教義、念仏の功徳などを説きました。また、寿子の死後に発足する「上毛婦人教育会」という仏教系の婦人会の基盤づくりにも尽力したと伝わります。さらに、寿子は行薫に依頼して刑務所における教誨活動にも力を入れていたといいます。ここまでいえばわかるかと思いますが、ドラマでの美和子の活躍というのは、実はすべて寿子の功績なんですね。もちろん、寿子の身の回りの世話をしていた美和子も、何らかの手助けはしていたでしょうが、美和が姉のような熱心な念仏者だったという話は伝わっておらず、美和子は単に姉の協力者に過ぎなかったのではないかと・・・。

 「姉上も、ぜひ病気が治ったら手伝うてください。」
 「もちろんです。わたしたち姉妹で、母親たちの松下村塾をつくりましょう。」

 この姉妹の約束の会話。実はだったんですね。

 病状がいよいよ深刻化した明治13年(1880年)暮れ、家族は前橋にいる素彦に連絡しようとしますが、「公務の妨げになる」といって連絡させなかったといいます。そして年が明けた1月30日の朝、見舞いに駆けつけてくれた親族が見守るなか、正座し、念仏をとなえながら往生したといいます。享年44歳(異説あり)。若く惜しまれる死でした。

 寿子は死の直前、長男、次男それぞれの妻たちに宛てた訓戒状ともいうべき遺言状を残しています。自筆にして5,000字を超える長文で、念仏の功徳などを説いたたいへんな名文だそうです。そのなかで、寿は自分の死後、叔母である美和子に孝養を尽くすよう嫁たちに遺言しています。妹思いの優しい姉の一面がうかがえますね。また、同じ時期に山口県に住む実兄・杉民治に宛てた書簡では、妹の美和子を夫の素彦と同居させ、身の回りの世話をさせてほしいと依頼しています(ドラマではすでに同居していましたが)。ドラマのように、「美和子を後妻に」とといった直接的な表現ではありませんが、自身の死後、妹を夫の後添えにしてほしいという思いが感じ取れます。自身の死期が迫るなか、夫と妹のその後の幸せを願う気丈な寿子の人物像がうかがえますね。やはり、吉田松陰の妹です。

 最愛の妻を亡くした素彦は、ひとつの和歌を詠んでいます。

 「今はただ 甲斐こそなけれ もろともに 花のうてなに 住まんちぎりも」

 天国の蓮のうてなで、また一緒に暮らそうと約束した哀悼の歌だそうです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-23 15:47 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第44話「運命の糸つなげて」 ~学制発布と幕末明治の教育事情~

 今回は明治初期の教育事情についてお話します。明治5年(1872年)8月2日、明治政府はわが国最初の近代的学校制度を定めた学制を発布します。その内容は、全国を8つの大学区に分け、その8つの大学区を32の中学区に分けて256の中学校を置き、さらにその中学区を210の小学区にわけて、53,760の小学校を置き、そしてその小学校を義務教育にしようというもの。その後、区分けの数字は修正されますが、こんにちのわたしたちの社会に繋がる教育制度の礎が、このときに築かれます。

 それ以前の日本の教育制度は、武士階級の公的教育機関としてそれぞれの藩単位で「藩校」が置かれ、儒学を中心とした教育が行われていました。本ドラマでいえば、小田村伊之助と名乗っていた頃の楫取素彦が教官を務めていた「明倫館」が、それにあたります。また、有能な学者が私費で開いた私塾も数多くありました。吉田松陰松下村塾がそうですね。松蔭の塾では主に儒学が中心でしたが、ほかにも、西洋医学としてはシーボルト鳴滝塾蘭学としては緒方洪庵適塾などが有名です。これらの私塾からは、多くの人材が輩出されています。

 さらに、庶民の子どもたちの学び舎としては、僧侶や浪人らが読み書きそろばんを教えた「寺子屋」があり、その数は日本全国で15,000ほどあったとも言われます。就学率5割近くあったと言われ、江戸だけでみれば、7~8割の就学率があったといわれます。また、日本橋、赤坂、本郷などの地域では、男子よりも女子の就学数が多かったという記録もあるそうです。日本人というのは、元来、勉強熱心、教育熱心だったんですね。

 そんなわけで、幕末の識字率は武士階級がほぼ100%、庶民層でも、男子は約50%、女子も20%が読み書きができたといわれます。この数字は、世界的に見ても驚異的な高水準だったそうで、当時、多くの外国人が、日本人の識字率の高さに驚愕し、記録を残しています。黒船で日本の鎖国を開いたマシュー・ペリー提督も、自身の手記『日本遠征記』のなかで、「読み書きが普及していて、見聞を得ることに熱心である」と記述しており、日本の田舎にまでも本屋があることや、日本人の読書好きと識字率の高さに驚いたと語っています。当時、世界一の大国といわれたイギリスですら、国民の識字率は20%程度だったそうですから、さぞ驚いたことでしょうね。一説には、この日本人の教養の高さを見て、日本の植民地化は不可能と考え至ったともいわれます。

 しかしながら、それぞれの藩単位での教育でしたから、カリキュラムもバラバラで、標準語も存在しませんでした。それを一元化し、士族も町人も農民も同じテキストで一緒に勉強しようというのが、明治5年の学制発布でした。もともと学校というものには馴染みのあった国民ですから、これほどいい法制度はない・・・と思いきや、この法令が発布されるや否や、庶民層から猛烈な反対運動が起こります。その理由はいくつかありますが、いちばんの理由は、授業料を徴収されたことでした。寺子屋にも授業料に相当するものはあったようですが、その額は一定ではなく、その家の格や財力によって払える額を払っていました。しかし、新しく設立された小学校は、事情に関係なく授業料を義務付けられます。当時、地租改正などで重税を強いられていた下級層にしてみれば、このうえ授業料をとられるなどたまったものじゃなかったでしょう。

 また、ちょうど同じ頃に、国民皆兵を掲げた徴兵令が発令され、そのことと重ねあわせて、小学校は徴兵のための教育を施すところだという誤解が広がり(まあ、後年の大日本帝国教育をみれば、あながち誤解とも言えませんが)、各地で「小学校反対」「徴兵反対」「太陽暦反対」をスローガンに一揆が起こります。ひどいところでは、学校焼き討ち事件まで発生しました。楫取素彦が群馬県令として教育改革に臨んでいたのは、そんな学制の揺籃期だったわけです。

 そんなこんなで、当初の小学校就学率は、寺子屋の就学率にも及ばない30%程度でしたが、その後、学制は教育令、学校令と内容が改善されていき、明治33年(1900年)に義務教育の授業料廃止によって就学率は90%を超えるようになります。もともと勉強好きな国民でしたから、法整備さえ成されれば、受け入れるのにそう時間はかからなかったわけですね。いずれにせよ、世界一の識字率と勉強熱心な国民性が、明治維新後の急激な近代化を可能にした最大の原因であることは確かでしょう。その子孫として、誇るべき歴史ですね。現代にもその精神は残っているかな?


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-03 14:17 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第42話「世界に賭ける糸」 ~生糸直接輸出の支援~

 維新を経て近代国家を目指していた明治初期の日本でしたが、「産業」と呼べるようなものはほとんどなく、相変わらず農業を主体とした貧しい国でした。そんな中、上州産生糸だけは、その優れた品質が欧米諸国で高い評価を得ていました。しかし、当時は来日中の欧米商人が生糸を買い付けた上で輸出するという間接輸出だったため、買い付けの段階で買い叩かれてしまい、品質に見合った対価を得られていませんでした。群馬県(当時は熊谷県)の県令に赴任してきた楫取素彦も、どうにかして買い叩きを防ごうと頭を悩ましていたようです。

 ちょうどその頃、県内屈指の生糸業者だった星野長太郎、新井領一郎兄弟が、欧米諸国に生糸を直接輸出することを思い立ち、領一郎がアメリカに赴く希望を抱きます。しかし、当時、アメリカへの渡航、滞在には巨額の資金が必要で、とうてい長次郎たちに捻出できるレベルではありませんでした。そこで、その支援を熊谷県庁へ嘆願したところ、県令の素彦は彼らの考えに賛同し、支援対策に奔走します。直接輸出することができれば、買い叩きが防げるだけでなく、輸出増加も期待できる。怜悧な素彦はそう考えたのでしょうね。そんな素彦の奔走の甲斐あって、領一郎は渡航の公的支援を得ることができました。その後、領一郎はわが国ではじめて生糸の直接輸出に成功することになります。

 ナレーションにもありましたが、この領一郎の孫娘ハルは、アメリカの駐日大使を務めたエドウィン・ライシャワーに嫁ぎます。また、領一郎の娘でハルの母にあたる美代は、領一郎がアメリカ滞在中に生まれた娘で、わが国最初の帰国子女ではないかと言われています。あと、ドラマにはまったく関係ありませんが、ほかにも、領一郎はわが国で最初にゴルフをした人物と言われています。そんなこんなのエピソードからも、領一郎が当時の人として実に先進的グローバルな人物だったことがわかりますね。それもこれも、素彦の尽力がなければ、なかったことかもしれません。人の出会いが歴史をつくる・・・そんなエピソードです。

 吉田松陰の短刀が領一郎の手によって海を渡った話は、ハルの著書『絹と武士』の中にある記述です。それによれば、素彦の尽力でアメリカ渡航の支援を得ることができた領一郎が、そのお礼かたがた素彦のもとを訪れた際、妻の寿子が、兄・松蔭の形見だという布にくるまれた短刀を差し出し、これを携えて渡航して欲しいと依頼されたといいます。曰く、「果たすことが出来なかった兄の渡米の夢を叶えてほしい・・・」と。松蔭が没してから20年近い歳月が過ぎていましたが、未だ亡き兄の思いを忘れずにいた寿子は、素晴らしい女性ですね。いい話です。

 刀は武士の魂。松蔭の魂は、新井領一郎というバイタリティあふれる若者によって海を渡りました。能動的なところでいえば、松蔭と領一郎は少し似ていたのかもしれません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-19 22:37 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第41話「いざ群馬へ」 ~楫取素彦の地方官出仕~

 旧長州藩主・毛利敬親の死去に伴い、山口県の権大参事の職を辞した楫取素彦は、山口県二条窪村の山荘で開墾に汗を流しながら隠棲していましたが、そんな穏やかな暮らしは長くは続きませんでした。廃藩置県改革の施行に伴い、地方行政にも優れた人材が必要とされ、そこで、隠棲していた素彦にも、その白羽の矢が立ちます。とくに木戸孝允が素彦の出仕を強く望んだようですね。しかし、ドラマのように、素彦は政府からの要請をいったんは辞退したといいます。その理由はわかりませんが、妻・寿子の健康状態のことも気になっていたでしょうし、素彦自身もこのとき既に47歳に達しており、当時の平均死亡年齢からいえば結構な高齢ですから、気力・体力的にも積極的になれなかったのかもしれません。何より、素彦は二条窪村での山荘暮らしを気に入っていたようでした。しかし、悩んだすえ、結局は地方官への出仕を決意します。

 政府から素彦に正式に辞令が出たのは明治5年(1872年)2月3日。彼が山口県への出仕を辞したのが前年の4月ですから、二条窪村での隠棲生活は1年もなかったんですね。でも、そのわずかな期間に、素彦は自ら鍬を持って荒地を開墾し、不毛の地を田畑に変えたそうです。ドラマのように、村人にも率先して溶け込み、慕われていたとか。この時代、元武士が百姓になる例は少なくありませんでしたが、大概は不慣れな農作業に四苦八苦し、うまくいかなかったたといいます。素彦は相当器用な人だったのでしょうね。

 こうして素彦は山口県を離れることになるのですが、最初に就いた出仕先は群馬県ではなく、足柄県参事(現在の副知事)でした。足柄県とは、現在の神奈川県西部と静岡県伊豆半島にあたります。そしてその2年後の明治7年(1874年)7月に熊谷県(現在の埼玉県の大半、群馬県のほぼ全域)の権令(のちの県令・知事)となり、その後、明治9年(1876年)8月に熊谷県改変に伴って群馬県が新設され、その初代県令に素彦が就きます。なんで足柄県と熊谷県をすっ飛ばしちゃったんでしょうね。ドラマの進行が明治何年の設定なのかわかりにくい描き方になっていますが、素彦が地方官として山口県を離れたのは明治5年(1872年)で、素彦が群馬県令に就いたのは明治9年(1876年)。足柄県、熊谷県時代には特筆すべき話はなかったのかもしれませんが、だとしても、4年もの歳月を有耶無耶にしてしまうのは、ちょっと乱暴すぎではないでしょうか?

 ちなみに、素彦の足柄県への出仕は、単身赴任だったようです。この頃から妻・寿子は健康を害しはじめていたようで、ひとり残った二条窪村の山荘には、美和がたびたび通っていたようです。その後、熊谷県に転任するにあたり、妻を呼び寄せたようです。そのとき美和が同行してきたかどうかはわかりませんが、どこかのタイミングで、美和も群馬を訪れ、姉の看病や家政全般を取り仕切るようになったようです。

 一方、山口では、中央政府より下野してきた前原一誠が、政府に不満を持つ士族たちと徒党を組み始めていました。一説には、前原らの不穏な兆しを察知した木戸孝允が、前原と気脈を通じた仲であり、不平士族に人望のある素彦を萩から遠ざけるため、地方官への出仕要請をしたとも言われています。そして素彦が群馬県令に就いた同じ年の10月、前原の主導する「萩の乱」が勃発するのですが、それはまた、次回以降ということで。あそこまで描いたんだから、まさか、スルーってことはないですよね?


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-13 20:34 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第34話「薩長同盟!」 その1

 長州藩正義党の革命から薩長同盟成立まで、本話で一気に1年も話が進んじゃいましたね。そこで本稿では、その間の流れを足早に解説します。

 高杉晋作ら反乱軍のクーデターが成功し、元治2年(1865年)1月27日、藩主・毛利敬親は藩政改革を約束します。こうして長州藩の政権は再び正義党が握るのですが、かつての正義党政権のときと根本的に違うのは、中心人物たちが「攘夷」という思想を捨てていたことでした。とくに、彼らを牽引する立場の高杉晋作が、率先して開国論を唱えはじめ、下関の開港を推し進めようとしたため、攘夷・俗論両派から命を狙われます。そんなわけで晋作は、一時、愛妾のおうのと共に、四国へ身をくらませていました。

 同時に新政権は、武装恭順という藩是を掲げます。武装恭順とは、表向きは幕府への恭順を装いながら戦闘準備をすすめるということで、いずれ幕府とやり合わなければならないと覚悟を決めた政策です。そこで長州藩は、兵力の近代化をはかるため、大村益次郎を起用して軍制改革を任せ、水面下で軍事力の強化をはかります。しかし、そうした長州藩の動きを、幕府がだまって見過ごしているわけはありません。長州藩内の政局を敏感に察知した幕府は、再び長州征伐軍を編成すべく、将軍・徳川家茂が大阪に入ります。元号を元治から慶応に改めた5月のことでした。

 ところが、2回目の長州征伐の号令に対して、薩摩藩が出兵を拒否します。その理由は、「このたびの長州再征は幕府と長州の私闘である」というものでしたが、実は水面下で薩摩藩と長州藩の手を握らせようという勢力が働き始めていました。その中心となっていたのが、土佐藩士の中岡慎太郎土方楠左衛門、そして坂本龍馬でした。ドラマでは龍馬ひとりが働いていたかのようでしたが、薩長同盟の構想に向けて最初に動き出したのは、中岡と土方でした。龍馬は、土方から構想を聞き、途中から協力することになります。

 5月、三条実美ら五卿に拝謁するため筑前太宰府を訪れていた龍馬は、たまたま密使として太宰府に来ていた長州藩士・塩間鉄蔵と名乗る人物に会います。この人物は、このとき変名を使っていた小田村伊之助でした。あまり知られていませんが、龍馬がはじめて長州藩士に薩長同盟の構想を語ったのが、このときの伊之助だったという説があります。伊之助は龍馬の話に強い関心を抱き、桂小五郎宛に龍馬との面会を勧める手紙を送っています。龍馬関係の物語などでは、龍馬と小五郎は若き日の剣術修行の頃からの旧知の仲で、薩長同盟時にもふたりの友情関係が大いに役だったように描かれることが多いですが、実際には、江戸で剣術修行をしていた時期も異なり、ふたりが知り合いだったことを裏付ける史料は存在しません。あるいは、このとき初めて知り合ったのかもしれません。

 桂と面会した龍馬は、土方とともに3日がかりで説得を重ねます。一方、薩摩には中岡が赴き、西郷吉之助を説得していました。そして同年閏5月21日、下関で西郷と桂の会談が行われる手筈が整います。ところが、約束の日に現れたのは、中岡ひとりでした。聞けば、実は下関港まで一緒に来たものの、突如京都にいる大久保一蔵から「至急上京すべし」との一報が入り、約束をほっぽっていっちゃった、とのこと。これには温厚篤実な桂も激怒。中岡と土方が構想した薩長同盟は暗礁に乗り上げてしまいます。

やはり1年分の話を1稿でまとめるのは無理でした。
続きは明日にします。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-24 23:32 | 花燃ゆ | Comments(0)