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花燃ゆ 総評

2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』の全50話が終わりました。今年も、なんとか全話レビューを起稿することが出来て安堵しているところですが、最後に、あらためて本作品を総括してみたいと思います。

 大河ドラマ史上最もマイナーな人物といってもいい楫取美和子(杉文)を主人公とした物語で、当初、「幕末のホームドラマ」「幕末の学園ドラマ」「幕末男子の育て方」などといったポップなキャッチフレーズを掲げていたため、放送前からコアな大河ファンより批判的な声が多く上がっていた同作品でしたが、わたしは、なるべく先入観を持たずに、出来るだけドラマを楽しもうと思って視聴してきました。わたしの好きな幕末維新モノであり、しかも長州目線での幕末モノとなると、昭和52年(1977年)の『花神』以来38年ぶりのことで、吉田松陰松下村塾の門下生たちがどのように描かれるか、たいへん楽しみでした。

 で、全話を観終えての感想を率直にいえば、「しんどかったなぁ」というのが正直なところです。やっぱ、マイナーすぎる主人公では無理があったのか・・・。わたしは、同じくマイナーな女性を描いた一昨年の作品『八重の桜』の総評の稿で(参照:八重の桜 総評)、主人公の有名無名は関係ない、どれだけ主人公の魅力を引き出せるかが重要で、『八重の桜』は、史実を丁寧に描くあまり、主人公・八重の存在感が薄かったと述べました。もっと、主人公を前に出すべきだと・・・。まさか、NHKさんがわたしのような素人の声を拾ったとは思えませんが、『花燃ゆ』では、その声を聞いてくれたかのように、主人公である美和子(文)が前に出てきました。そうすると、こういう描き方になっちゃうんですね・・・難しいところです。

 わたしは、視聴率も含めて世間で酷評されるほど酷い作品だったとは思っていません。少なくとも、近年の作品でいえば『天地人』『龍馬伝』『江~姫たちの戦国』などよりは、はるかに良かったと思っています。とくに前半、松蔭が生きていたときはたいへん面白かった。吉田松陰という人がここまでフィーチャーされたのは、先述した『花神』以来だったんじゃないでしょうか? 松蔭の死後、少し物足りなくなった感がありましたが、それでも、久坂玄瑞高杉晋作を中心に、他の幕末作品では省かれてしまう長州藩内の政局を丁寧に描いていましたし、周布政之助椋梨藤太など、他の作品ではあまり描かれない人物にもスポットがあてられ、新鮮でした。でも、それらの人物たちがすべてこの世を去ったあたりから役者不足の感は否めず、「奥御殿編」に入って、ぜんぜん面白くなくなっちゃいました。あそこ、いりましたか?

 「幕末の学園ドラマ」という当初のキャッチフレーズに批判的な声が多かったと思いますが、わたしは、できればそれを最後まで貫いてほしかったと思います。長州藩には、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞など、知名度も人気も高い幕末の志士がたくさんいますが、そのほとんどが、大河ドラマの主役にはなり得ない。なぜなら、彼らは皆、維新を迎えずして早世してしまうからです。たとえば戦国モノでいえば、一番人気の人物は織田信長ですが、物語として人気なのは徳川家康。なぜなら、戦国時代の終わりまですべて描けるからです。高杉晋作がいくら人気が高くても、歴史はここから面白くなるというところで死んじゃいますから、大河ドラマの主役にするのは難しいんですね。その意味で、わたしは松蔭の妹である美和子(文)が選ばれたのだと思っていました。彼女の目線で、松下村塾の門下生たちを描いていくドラマなんだと。だから、「幕末の学園ドラマ」大いに結構じゃないか、と思っていたんですね。

 ところが、高杉晋作の死去とともに松下村塾の火は消えたかのごとく、奥御殿でのくだらない女の確執物語や、世話係となった興丸の偏食の話など、世の中は幕末から明治へと移りゆく激動の時代のなか、どうでもいい話ばかりがしばらく続き、一気に覚めてしまいました。たしかに、美和子(文)は一時期、奥女中として銀姫に仕えていたことは事実で、そこをスルーするわけにはいかなかったでしょうが、それまでの物語とまったく異質な設定になってしまい、何が描きたかったのかよくわからなくなった。テーマがブレ始めたように思えました。大奥を描いた作品でいえば『篤姫』がありますが、あれが成功したのは、最初から最後まで一貫して大奥の話だったからです。今回の物語の場合、奥女中の話はある一時期のエピソードに過ぎず、とくに重要なポイントではないはず。兄・松蔭を敬慕していた美和子(文)が、維新後も、消えることのない松下村塾の火を見守り続けるという物語が見たかった。その意味では、晋作の死後も、役者は落ちるかもしれませんが、前原誠司、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎など、松蔭門下生は多く残っていました。「幕末の学園ドラマ」「幕末男子の育て方」というならば、美和子(文)の目線を通した彼らをもっと描いてほしかったと思います。率直なところ、ストーリーに一貫性がなかった

 ひとつ疑問なのは、今回、大河オリジナル作品にも関らず、脚本家がコロコロ変わりましたよね。しかも、最初の方を書いていた大島里美さんと宮村優子さんは後半ほとんど書いてなくて、後半は金子ありささんと小松江里子さんにバトンタッチ。大河で脚本家が途中で変わるなんて、過去なかったんじゃないですか? これが結局、ストーリーに一貫性を欠く要因になったんじゃないでしょうか? はっきりいって、後半は迷走感ありありでした。もしそれが、低視聴率が原因のテコ入れだったのなら、それこそ、火に油を注いだだけの大失策だと思います。

 あと、物語終盤の主役といっていい楫取素彦という人についてですが、正直、わたしはこのドラマの制作発表までこの人のことをまったく知らず、にわかに関連本を読んで予習したのですが、実に有能な人だったんですね。たいへん勉強になりましたが、ただ、大河の準主役的人物かといえば、やはり地味ですよね。このドラマが、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、楫取素彦の四部作だとすれば、明らかに四部目は、格落ちかな・・・と。演じた俳優さんは一番格上ですけどね。一昨年の『八重の桜』のときにも思ったことですが、幕末と明治に入ってからでは、どうも話がスケールダウンした感が否めない。楫取素彦という素晴らしい地方官がいたということは勉強になりましたが、物語としては、一地方史になり下がってしまった気がして、群馬県の人以外は、イマイチ入り込めなかったんじゃないでしょうか? これも難しいところです。

 それからキャスティングについてですが、主役の井上真央さんについては、何も文句はありません。12~3歳から40歳過ぎまでの美和子(文)の生涯を、実に上手く演じられていたと思います。主役の役者さんというのは、作品の評価をもろに受けますから、少々気の毒ですね。楫取素彦役の大沢たかおさんはさすがの存在感でしたし、高杉晋作役の高良健吾さんや、久坂玄瑞役の東出昌大さんは、最初は「う~ん!ちょっとイメージ違うよなぁ・・・」といった感想だったのですが、回を追うごとに高杉や久坂に見えてきたから不思議です。俳優さんが役に入っていくのか、役が俳優さんに乗り移っていくのか、わたしら素人にはよくわかりませんが、その意味では、今回もっとも良かったのは、やはり吉田松陰役の伊勢谷友介さんでした。最初は、ちょっと「カッコ良すぎるんじゃない?」と思っていましたが、最後の方は、ほとんど憑依しているとしか思えなかった。獄舎で正座する姿は、松蔭の肖像画そのものでした。俳優さんってスゴイですね。あと、毎回1人は出ている大河主役経験者ですが、今回は北大路欣也さん、松坂慶子さん、三田佳子さんと三人も出ていましたね。やはり、大河の主役を演じた方は、存在感があります。井上真央さんも、将来きっとそうなるんじゃないでしょうか?

 最後に、歴代ワーストタイなどと酷評される低視聴率についてですが、わたしは、これについては特に問題視していません。たしかに、ドラマがエンターテイメントである以上、視聴率をひとつの指標として評価することは間違っていないと思いますが、高視聴率=名作低視聴率=駄作というレッテルの貼り方は、いささか短絡的すぎるのではないかと思っています。実際、先述した『花神』は、当時の視聴率でいえばかなり悪かった作品でしたが、大河ファンに名作大河のアンケートを取ると、いつも上位にあがる作品です。NHKは民放と違って、スポンサーや視聴者に媚びることなく作品づくりに臨めるところに良さがあると思います。だから、視聴率の悪さをネタに批判したくはないんですよね。

 ただ、もうひとつの伝統あるNHKドラマの朝ドラの方は、ずっと高視聴率の作品が続いていますよね。じゃあ、朝ドラの方は大河に比べていい作品を世に出しているかといえば、特に違いはないと思います。では、何が違うのか。それはたぶん、朝ドラの方は、ターゲットがブレてないからじゃないでしょうか? 朝ドラのターゲットは言うまでもなく主婦層で、まずはその軸がしっかりしているから、大きくはずさない。で、その中でもいい作品になると、わたしのようなオジサンまでもがハマっちゃうこともあります。

 大河ドラマの元々のターゲットは、歴史好きのオジサン層だったはず。もちろん、それ以外の若い人や女性にも観て欲しいという思いはあって然りですが、そこにターゲットを広げたあまり、従来のターゲットであったはずのコアなファンたちが離れていってしまった・・・。というのが、昨今の大河ドラマの状況だと思います。昨年の『軍師官兵衛』なんて、往年の大河作品を彷彿させる王道の作品だったと思いますが、今年また、女性目線の作品に戻ってしまい、作風に一貫性がない。ターゲットが絞れてない。これでは、結局すべての層から支持されなくなるんじゃないでしょうか? もし、この『花燃ゆ』が朝ドラだったら、きっと大ヒットしてたと思いますよ。でも、日曜夜8時には合わなかった。それが、低視聴率のいちばんの理由だと思います。

 気がつけば、ずいぶんと長文になっていました。いささか勝手なことばかり述べてまいりましたが、大河ドラマを愛する者のひとつの意見として捉えていただければ幸いです。この辺りで総評の稿を終わりにしますね。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。

1年間の主要参考書籍
『杉文と楫取素彦の生涯』 大野富次
『吉田松陰と文の謎』 川口素生
『幕末史』 半藤一利
『もう一つの「幕末史」』 半藤一利
『日本の歴史19~開国と攘夷』 小西四郎
『日本の歴史20~明治維新』 井上清
『明治という国家』 司馬遼太郎
『幕末維新のこと』 司馬遼太郎
『明治維新のこと』 司馬遼太郎
『幕末』 司馬遼太郎
『世に棲む日日』 司馬遼太郎
『花神』 司馬遼太郎


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-16 00:01 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(5)  

花燃ゆ  最終回「いざ、鹿鳴館へ」 ~エピローグ~

 日本初の鉄道が開通したのは明治5年(1872年)10月14日、新橋~横浜間でしたが、その後、明治10年(1877年)の西南戦争によって膨大な戦費がかさみ、政府による鉄道敷設は進んでいませんでした。そのため、明治14年(1881年)に岩倉具視らが中心となって民間鉄道会社『日本鉄道株式会社』が設立されます。日本初の私鉄の誕生です。

 当初の計画では、大宮~高崎間での営業路線として発表され、前橋への延長計画はなかったそうです。ここで立ち上がったのが群馬県令の楫取素彦。県庁所在地である前橋まで路線を延ばさなければ無用の長物になるとして、早速、計画の延長を求めて東京に赴き、鉄道局長・井上勝に懇請したといいます。そして、同じく沿線の埼玉県令・白根多助に協力を仰ぎ(白根も元・長州藩士でした)、さらに、前橋生糸商人たちにもはたらきかけ、日本鉄道の株式買付を行い、それを餌に、前橋までの路線延長を約束させました。さすが、実行の人ですね。

 ドラマで、鹿鳴館の舞踏会に出席していた美和子が、毛利安子のはからいで貴族婦人たちに群馬の生糸産業をプレゼンテーションし、素彦の鉄道開通交渉に援護射撃をしていましたが、まあ、それはドラマの演出だとして、でも実際この当時、毛利元徳第十五国立銀行の頭取をしており、日本鉄道の敷設にあたっての資金面で大いに協力する立場にいたのは事実です。素彦と元徳、あるいは美和子と安子の昵懇の間柄が、多少は有利にはたらいたかもしれません。

 群馬県の就学率が全国でトップになったと喜んでいましたが、これも事実で、素彦が県令在任中の明治9年(1876年)から明治17年(1884年)までの就学率は66.7%で、全国2位だったそうです(8年間のアベレージですから、1位になった時期もあったでしょう)。国の教育行政がモタモタしている中で、素彦は豪商や資本家から寄付金を集め、小学校の建設を地方独自で進め、施策として中学校の授業料を無料化しました。その結果、群馬県は全国トップクラスの教育県として、「西の岡山、東の群馬」と称されるまでになります。そのせいか、のちに群馬県からは大物政治家がたくさん生まれ、鈴木貫太郎、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三、福田康夫と、5人の内閣総理大臣を輩出しています。

 素彦が群馬県令を辞職したのは明治17年(1884年)のことでした。ドラマのとおり、県令としての職務を全うしたという思いがあったのでしょうが、55歳という年齢にも限界を感じていたのかもしれませんね。ただ、辞表を提出したのはこの1年前だったそうですが、この情報が漏れ、前橋住民を中心に留任運動が巻き起こったといいます。明治初期の各県令の在職期間は1、2年と短いものでしたが、素彦の群馬県令在職期間は群を抜いて長く、足掛け9年、熊谷県令時代を含めれば13年に及んでいます。それだけ長く職に就きながら、なおも惜しまれる素彦という人は、本当に地元民から信頼されていたんでしょうね。素彦が群馬県を去るときには、県庁より前橋の停車場までの道端を、数千人の県民が見送りに参列し、道を塞いで別れを惜しんだと伝えられます。

 その後も、素彦は大正元年(1912年)に84歳、美和子は大正10年(1921年)の79歳まで大往生します。しかし、ドラマではそのエピローグは描かれませんでしたね。まあ、ダラダラと余生を描いても仕方がないといったところでしょうが、このあと、二人の人生はまだまだ余生とはいえず、素彦は元老院議官、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任し、また、貞宮多喜子内親王御養育主任も務めました。美和子も、素彦とともに幼稚園の設立にたずさわったり、素彦が内親王の御養育主任を命じられると、美和子も貞宮御付として仕えています。まだまだ、世の中は二人を必要としていました。

 明治22年(1889年)、美和子の兄・杉民治が総額230円をかけて荒廃した松下村塾の修理を行った際には、明治の高官となった伊藤博文山縣有朋ら元塾生よりも多額の30円を素彦は出資しています。その松下村塾が、今年、世界文化遺産に登録されましたね。昨年、世界文化遺産となった富岡製糸場と合わせて、素彦は2つの世界遺産の保存に尽力したことになります。

 素彦が逝去してから10年間、美和子がどのように過ごしたかの確かな記録は残っていません。吉田松陰の妹、久坂玄瑞の妻、楫取素彦の義妹、そして後妻として、めまぐるしい日々を送ってきた美和子でしたが、きっと最後の10年間は、穏やかな暮らしの中で、洛陽のときを迎えたことでしょう。まさか、100年後に自身が物語の主人公になるなど、夢にも思わなかったでしょうね。

 さて、本稿をもって大河ドラマ『花燃ゆ』のレビューは終わりとなります。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。今年は最後までレビューを続ける自信はなかったのですが、なんとか完走出来て安堵しています。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-14 16:34 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(2)  

花燃ゆ 第49話「二人の再婚」 ~楫取素彦と美和子の再婚~

 楫取素彦の年譜よれば、美和子再婚したのは明治16年(1883年)5月3日とされていますが、別の書簡などによれば、その1年半ほど前には既に同居していたことがわかっており、しかも、明治15年(1882年)4月には、湯之沢温泉(現・赤城温泉)にふたりで3泊滞在している記録もあるそうで(ドラマでは、嵐に巻き込まれてやむを得ず1泊という設定でしたが)、ふたりが結婚したのは、その頃だったんじゃないかという見方もあるようです。前妻の寿子が没したのは明治14年(1881年)1月30日のことでしたから、後者の説を採れば、妻に先立たれてから1年余りでの再婚ということになります。現代の感覚で言えば、ちょっと早すぎるんじゃないの?・・・という気がしますが、当時のそれなりの地位の男でいえば、1年以上も後妻を迎えないというのは、むしろ遅いくらいでした。そのうえ、亡き妻の遺言どおりに妹と再婚したわけですから、素彦がいかに寿子のことを思っていたかが窺える気がします。

 一方の美和子は、前夫の久坂玄瑞と死別してから20年近い年月が過ぎていましたが、その間ずっと独り身を通しており、この再婚話にもはじめは乗り気ではなかったといいます。ドラマでは、阿久沢権蔵・せい夫妻から再婚を勧められていましたが、実際には、山口県で存命だった美和の母・杉滝子からの再三の勧めだったようです。しかし、美和子はなかなか首を縦に振りませんでした。というのも、美和子は20年近く経った今なお、玄瑞から送られてきた手紙を後生大事に保管しているほど、亡き夫のことを忘れられずにいました。「貞女二夫まみえず」といった貞操観念も強かったのでしょう。実姉の夫だった人というのも、抵抗があったかもしれません(ドラマでは初恋の人という設定でしたが)。でも、素彦との再婚は亡き姉の遺言でもあったこと、県令としての激務をこなす素彦を間近で見ていたことなどから、最終的には、素彦との再婚を決意したのでしょうね。素彦54歳、美和子39歳のときでした。

 再婚を決意した美和子が、玄瑞からの手紙を燃やしかけて素彦に止められるシーンがありましたが、実際にも、京のまちで政治活動をしていた玄瑞から美和子(当時は)に宛てた書状は21通が現存しているそうです。そこで留意すべきは、その21通が、後夫である素彦関連の書状、著作などを収録している『楫取家文書』に載せられていることです。つまり、妻となった美和子が前夫からの手紙を大切に保管していることを、素彦は許していたということですね。「前の夫のことなど早く忘れろ!」なんて狭量なことは、素彦は言いません。

 そればかりか、素彦は美和子が持参した21通の書状を装丁して3巻にまとめ、『涙袖帖(るいしゅうちょう)』と名付けて大切に保管することを決めました。『涙袖帖』というタイトルは、美和子が玄瑞の自刃後、折にふれてこの書状を読み返し、落涙して袖を濡らしたという意味が込められているのでしょう。妻の前夫に対する思いを十分に理解し、決して忘れないよう手助けをしていた素彦。彼は、ドラマのとおり大きな包容力を持った優しい男だったのでしょうね。それと、素彦自身も、亡き妻・寿子のことを忘れたくないという思いが強かったのかもしれません。


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-07 16:48 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第47話「姉妹の約束」 ~寿子の死~

 楫取素彦の妻・寿子病没したのは明治14年(1881年)1月30日のことでした。寿子が健康を害しはじめたのは、明治初年に移り住んだ山口県の二条窪時代からだったようですから、およそ10年近く病魔と戦っていたことになります。素彦が足柄県(現在の神奈川県西部、静岡県伊豆地方)の参事となって同地に赴任した際も、当初は寿子を二条窪に残して単身赴任だったようです。その後、素彦が熊谷県(のち群馬県)権令(県令)に赴任した頃に妹の美和子を同伴して同地に移り住みますが、明治10年(1877年)頃から、療養のため東京に移っていました。

 なぜかドラマでは描かれていませんでしたが、寿子は浄土真宗の熱心な信者だったと伝えられています。二条窪時代には観音堂を建立し、ここで月に二度、地元に人々を集め、僧侶を招いて法座を開くなど、活発な布教活動を行っています。その傍ら、寿子はこの堂宇で、二条窪村の子どもたちに裁縫読み書きを教えていたそうです。また、熊谷県に移り住んでからは、現在の前橋市に本願寺開設を発案。地元山口県から浄土真宗の僧侶・小野島行薫を呼び寄せて酬恩社教会を設立、その説教所(出張所)の造営を支援しました。当時、素彦の赴任した熊谷県は、気性の荒い「上州人気質」が根強く残った「難治の県」と呼ばれていましたが、寿子はその上州人の荒々しさを少しでも鎮めようと、浄土真宗の布教に尽力したようです。まさに「内助の功」ですね。

 寿子は行薫を招いて二条窪時代と同じく月に二度の法座を開き、県庁の官吏の妻たち地元有力者の妻たちに出席を促し、仏教の教義、念仏の功徳などを説きました。また、寿子の死後に発足する「上毛婦人教育会」という仏教系の婦人会の基盤づくりにも尽力したと伝わります。さらに、寿子は行薫に依頼して刑務所における教誨活動にも力を入れていたといいます。ここまでいえばわかるかと思いますが、ドラマでの美和子の活躍というのは、実はすべて寿子の功績なんですね。もちろん、寿子の身の回りの世話をしていた美和子も、何らかの手助けはしていたでしょうが、美和が姉のような熱心な念仏者だったという話は伝わっておらず、美和子は単に姉の協力者に過ぎなかったのではないかと・・・。

 「姉上も、ぜひ病気が治ったら手伝うてください。」
 「もちろんです。わたしたち姉妹で、母親たちの松下村塾をつくりましょう。」

 この姉妹の約束の会話。実はだったんですね。

 病状がいよいよ深刻化した明治13年(1880年)暮れ、家族は前橋にいる素彦に連絡しようとしますが、「公務の妨げになる」といって連絡させなかったといいます。そして年が明けた1月30日の朝、見舞いに駆けつけてくれた親族が見守るなか、正座し、念仏をとなえながら往生したといいます。享年44歳(異説あり)。若く惜しまれる死でした。

 寿子は死の直前、長男、次男それぞれの妻たちに宛てた訓戒状ともいうべき遺言状を残しています。自筆にして5,000字を超える長文で、念仏の功徳などを説いたたいへんな名文だそうです。そのなかで、寿は自分の死後、叔母である美和子に孝養を尽くすよう嫁たちに遺言しています。妹思いの優しい姉の一面がうかがえますね。また、同じ時期に山口県に住む実兄・杉民治に宛てた書簡では、妹の美和子を夫の素彦と同居させ、身の回りの世話をさせてほしいと依頼しています(ドラマではすでに同居していましたが)。ドラマのように、「美和子を後妻に」とといった直接的な表現ではありませんが、自身の死後、妹を夫の後添えにしてほしいという思いが感じ取れます。自身の死期が迫るなか、夫と妹のその後の幸せを願う気丈な寿子の人物像がうかがえますね。やはり、吉田松陰の妹です。

 最愛の妻を亡くした素彦は、ひとつの和歌を詠んでいます。

 「今はただ 甲斐こそなけれ もろともに 花のうてなに 住まんちぎりも」

 天国の蓮のうてなで、また一緒に暮らそうと約束した哀悼の歌だそうです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-23 15:47 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第41話「いざ群馬へ」 ~楫取素彦の地方官出仕~

 旧長州藩主・毛利敬親の死去に伴い、山口県の権大参事の職を辞した楫取素彦は、山口県二条窪村の山荘で開墾に汗を流しながら隠棲していましたが、そんな穏やかな暮らしは長くは続きませんでした。廃藩置県改革の施行に伴い、地方行政にも優れた人材が必要とされ、そこで、隠棲していた素彦にも、その白羽の矢が立ちます。とくに木戸孝允が素彦の出仕を強く望んだようですね。しかし、ドラマのように、素彦は政府からの要請をいったんは辞退したといいます。その理由はわかりませんが、妻・寿子の健康状態のことも気になっていたでしょうし、素彦自身もこのとき既に47歳に達しており、当時の平均死亡年齢からいえば結構な高齢ですから、気力・体力的にも積極的になれなかったのかもしれません。何より、素彦は二条窪村での山荘暮らしを気に入っていたようでした。しかし、悩んだすえ、結局は地方官への出仕を決意します。

 政府から素彦に正式に辞令が出たのは明治5年(1872年)2月3日。彼が山口県への出仕を辞したのが前年の4月ですから、二条窪村での隠棲生活は1年もなかったんですね。でも、そのわずかな期間に、素彦は自ら鍬を持って荒地を開墾し、不毛の地を田畑に変えたそうです。ドラマのように、村人にも率先して溶け込み、慕われていたとか。この時代、元武士が百姓になる例は少なくありませんでしたが、大概は不慣れな農作業に四苦八苦し、うまくいかなかったたといいます。素彦は相当器用な人だったのでしょうね。

 こうして素彦は山口県を離れることになるのですが、最初に就いた出仕先は群馬県ではなく、足柄県参事(現在の副知事)でした。足柄県とは、現在の神奈川県西部と静岡県伊豆半島にあたります。そしてその2年後の明治7年(1874年)7月に熊谷県(現在の埼玉県の大半、群馬県のほぼ全域)の権令(のちの県令・知事)となり、その後、明治9年(1876年)8月に熊谷県改変に伴って群馬県が新設され、その初代県令に素彦が就きます。なんで足柄県と熊谷県をすっ飛ばしちゃったんでしょうね。ドラマの進行が明治何年の設定なのかわかりにくい描き方になっていますが、素彦が地方官として山口県を離れたのは明治5年(1872年)で、素彦が群馬県令に就いたのは明治9年(1876年)。足柄県、熊谷県時代には特筆すべき話はなかったのかもしれませんが、だとしても、4年もの歳月を有耶無耶にしてしまうのは、ちょっと乱暴すぎではないでしょうか?

 ちなみに、素彦の足柄県への出仕は、単身赴任だったようです。この頃から妻・寿子は健康を害しはじめていたようで、ひとり残った二条窪村の山荘には、美和がたびたび通っていたようです。その後、熊谷県に転任するにあたり、妻を呼び寄せたようです。そのとき美和が同行してきたかどうかはわかりませんが、どこかのタイミングで、美和も群馬を訪れ、姉の看病や家政全般を取り仕切るようになったようです。

 一方、山口では、中央政府より下野してきた前原一誠が、政府に不満を持つ士族たちと徒党を組み始めていました。一説には、前原らの不穏な兆しを察知した木戸孝允が、前原と気脈を通じた仲であり、不平士族に人望のある素彦を萩から遠ざけるため、地方官への出仕要請をしたとも言われています。そして素彦が群馬県令に就いた同じ年の10月、前原の主導する「萩の乱」が勃発するのですが、それはまた、次回以降ということで。あそこまで描いたんだから、まさか、スルーってことはないですよね?


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-13 20:34 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第12話『戻れないふたり』 ~文と久坂玄瑞の新婚生活~

 安政4年(1857年)12月、久坂玄瑞は晴れて夫婦となりますが、ふたりの新婚生活の場は、文の実家である杉家でした。その理由は定かではありませんが、おそらく、玄瑞は若くして親兄弟と死別しており、孤独な身であったこと、久坂家と杉家は直誠意距離で約1里半離れており、松下村塾の門弟として通い詰めるには遠かったことなどが理由だったのでしょう。一説には、吉田松蔭に目をかけられていた玄瑞は、結婚前から杉家で暮らしていたともいいます。文と玄瑞を結婚させたのは松蔭の意向だったといいますから、あるいは、ふたりを結婚させて、これまで以上に玄瑞を身近において指導したかったのかもしれません。いずれにせよ、ふたりの新婚生活は、玄瑞のマスオさん状態でスタートします。

 玄瑞の「不美人」発言の件、やけにひっぱってましたね。まあ、数少ないふたりの馴初めのエピソードですからね。この話は前話の稿で紹介したとおり(参照:第11話)、同じ松下村塾生だった横山幾太という人物が明治24年(1891年)に執筆した随筆『鷗磻釣餘鈔』に書かれていたものです。実際にこんな発言があったかどうかはわかりませんが、少なくとも、本人の耳に入れることはなかったでしょう。ドラマでは酔った高杉晋作KYな爆弾発言を吐いちゃってましたけどね(笑)。あのシーンは笑っちゃいました。

 ちなみに、伊藤利助が凍りついた空気をフォローするために「不美人はおすみちゃん」と言っていましたが、その“おすみちゃん”こと入江九一の妹・すみ子は、のちに利助のとなる女性です。他愛もないシーンですが、いちおう伏線をはってるんですね。もっとも、ほどなく「最初の妻」という言い方になるのですが・・・。

 そんなこんなで、文と玄瑞の夫婦生活がスタートしますが、年が明けた安政5年(1858年)2月、玄瑞は予てから希望していた江戸遊学が許され、萩を発ちます。そのため、ふたりの新婚ホヤホヤの生活は、わずか2ヵ月ほどで別居状態を強いられることとなります。こののち、玄瑞は江戸、京都、下関を拠点に志士活動を活発化させていくため、夫婦は事実上の別居状態となります。ふたりの夫婦生活は、玄瑞が自刃する禁門の変までの約5年半でしたが、実際にひとつ屋根の下で暮らしたのは、延べ数ヶ月ほどだったとも・・・。それが理由だったのか、ふたりの間に子宝は恵まれませんでした。決して、屋根裏部屋で寝ていたからではありません(笑)。

 椋梨藤太周布政之助の政権争いによって、奥方たちの勢力図も一変したようです。もちろん、奥方たちの記録など残っておらず、ドラマのフィクションではあるのですが、現代社会でも、社宅住まいなどの奥様方は、似たようながあると聞きますよね(まるでドラマ『半沢直樹』の奥様会を見ているようでした)。当時の武家社会は狭い社会ですから、実際にも、あんな感じだったんじゃないでしょうか? そんななか、夫・小田村伊之助のために、妹の文のために、懸命に椋梨の奥方に取り入る寿。なんとも健気じゃないですか・・・。なんで、伊之助はこの妻の内助の功を評価してあげられないのでしょうね。文の縁談にしても、妹のことを思ってやったこと。責められることではないですよね。なんか、寿が不憫になってきました。

 文と玄瑞の馴初め話で2話ほど歴史が停滞していましたが、江戸では赤鬼・井伊直弼大老に就任しました。いよいよ、安政の大獄の始まりです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-23 19:47 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第11話「突然の恋」 ~文と久坂玄瑞の縁談~

 久坂玄瑞が結婚したのは、安政4年(1857年)のことでした。ときに玄瑞18歳、文の生年は諸説あるので定かではありませんが、13~15歳あたりだったと思われます。当時としても若い夫婦ですが、すでに玄瑞は両親と兄を亡くして家督を継いでいる身でしたから、できるだけ早く嫁をとって子をつくる必要があったのでしょう。

 萩城下英才で知られた玄瑞でしたが、その容貌も麗しく、身の丈6尺(約180cm)の長身で、面構えはすこぶるイケメン、しかも美声で、立ち居振る舞いも同世代の男のなかでは抜きん出ていたといいます。玄瑞がその美声で詩吟を唸りながら歩くと、付近の女性が群がるように彼を覗き見たとか。ちょっとしたスターですね。しかも、萩城下きっての秀才だったわけですから、容姿端麗にして頭脳明晰、まさに非の打ちどころのない人物だったようです。

 そんなミスターパーフェクトと文が結婚に至った馴初めについてですが、ドラマでは、お互いにほのかな恋心を抱いていたことになっていましたが、そこはドラマの設定。実際に伝えられる話では、玄瑞ははじめ、この縁談に乗り気ではなかったようです。その理由について、同じ松下村塾生だった横山幾太という人物が明治になってから執筆した随筆で、次のように語っています。

 「久坂時尚ほ甚だ荘、拒むに夫の妹氏醜なるを以てせり」

 妹氏醜なるを以て・・・すなわち、文がブスだから嫌だ!・・・と。ひじょうにわかりやすい理由ですね(笑)。実際に文がブスだったかどうかはわかりませんが、モテモテのイケメン玄瑞ですから、周りにもっと美人がたくさんいたのかもしれません。そんななか、いくら師匠の妹御といえども、なんでこんな幼い小娘と・・・と思ったのかもしれませんね。男として、わからなくもないです(笑)。

 ふたりの縁談を仲介していたのは小田村伊之助ではなく、松下村塾生のなかで最年長の中谷正亮という人物でした。ブスだから嫌だと玄瑞がいったのも、この正亮に対してだったようです(当然ですが、松蔭や文に直接いったわけではありません)。幾太の随筆によると、玄瑞の言葉を聞いた正亮はすぐさま、

 「之れは甚だ君に似合はざる言を聞くものかな、大丈夫の妻を妻とる。色を選ぶべきか」

 と、強く叱責したといいます。まあ、18歳ですからね・・・。健康な男子ならば色を選びたいですよね(笑)。しかし、この正亮の叱責に玄瑞は言葉に詰まり、考えなおして縁談を承諾した、と幾太は続けています。この切りかえの速さと決断力は、さすが君子といえるでしょうか。そんな人格も含めて優秀な愛弟子・玄瑞を、吉田松蔭は義弟にしたかったのでしょうね。松蔭も罪なことをするものです(笑)。

 今週の塾生スポットライトは、前原一誠でしたね。一誠は久坂玄瑞や高杉晋作ら主だった塾生のなかでは年長の天保5年(1834年)生まれで、このとき24歳でした。塾生といっても、瀬戸内海側の厚狭郡船木村という遠方からやってきた一誠は、松下村塾で学んだのはわずか10日間ほど。しかし、その10日間で見た、松蔭の塾生から学ぼうとする姿勢に、たいそう感銘を受けたといいます。一誠は、主だった塾生のなかでは数少ない明治まで生きる人物ですが、わずか10日間に学んだ松蔭の遺志を深く継承し、やがて非業の死を遂げることになるのですが、それは、物語のずっとずっとあとの話です。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-16 20:01 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ キャスト&プロローグ

 2015年の大河ドラマは『花燃ゆ』。ときは幕末、同時代の若者たちに大きな思想的影響を与えた長州藩士・吉田松陰の末妹で、のちにその松陰の愛弟子である久坂玄瑞の妻となり、玄瑞の死後、松陰の信頼が厚かった楫取素彦の妻となる、文(ふみ)の生涯が描かれます。文の生まれ育った杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす大家族で、多い時には11人が小さな家に同居していたと言います。そして、杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎、山縣有朋ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、やがて彼らは、幕末の動乱のなかに身を投じていきます。そんな幕末から明治にかけての動乱を生きた長州藩士たちの足跡を、文目線で描いたドラマが『花燃ゆ』です。

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杉家
杉文(楫取美和子)・・・・・・・井上真央(少女期:山田萌々香)
小田村伊之助(楫取素彦)・・・・・・・大沢たかお
吉田寅次郎(松陰)・・・・・・・伊勢谷友介
久坂玄瑞・・・・・・・東出昌大
杉百合之助(常道)・・・・・・・長塚京三
杉滝・・・・・・・檀ふみ
玉木文之進・・・・・・・奥田瑛二
杉梅太郎(民治)・・・・・・・原田泰造
杉寿(楫取寿子)・・・・・・・優香(少女期:香音)
杉敏三郎・・・・・・・森永悠希(幼年期:山田瑛瑠 / 少年期:大橋律)
杉亀・・・・・・・久保田磨希
玉木彦介・・・・・・・冨田佳輔
長州藩
毛利敬親・・・・・・・北大路欣也
毛利都美子・・・・・・・松坂慶子
桂小五郎(木戸孝允)・・・・・・・東山紀之
周布政之助・・・・・・・石丸幹二
椋梨藤太・・・・・・・内藤剛志
椋梨美鶴・・・・・・・若村麻由美
来島又兵衛・・・・・・・山下真司
長井雅楽・・・・・・・羽場裕一
来原良蔵・・・・・・・松本実
松下村塾の塾生たち
高杉晋作・・・・・・・高良健吾(少年期:山崎竜太郎)
吉田稔麿・・・・・・・瀬戸康史
伊藤利助(博文)・・・・・・・劇団ひとり
前原一誠・・・・・・・佐藤隆太
入江九一・・・・・・・要潤
野村靖・・・・・・・大野拓朗
品川弥二郎・・・・・・・音尾琢真
寺島忠三郎・・・・・・・鈴木伸之
赤禰武人・・・・・・・阿部亮平
松浦亀太郎・・・・・・・内野謙太
野山獄の人々
高須久子・・・・・・・井川遥
富永有隣・・・・・・・本田博太郎
福川犀之助・・・・・・・田中要次
大深虎之丞・・・・・・・品川徹
吉村善作・・・・・・・日野陽仁
長州の人々
小田村志乃・・・・・・・かたせ梨乃
松島剛蔵・・・・・・・津田寛治
高杉小忠太・・・・・・・北見敏之
吉田イク・・・・・・・芳本美代子
吉田ふさ・・・・・・・小島藤子
入江すみ・・・・・・・宮崎香蓮
高須糸・・・・・・・川島海荷
金子重輔・・・・・・・泉澤祐希
金子ツル・・・・・・・麻生祐未
肥後藩
宮部鼎蔵・・・・・・・ビビる大木
薩摩藩
西郷吉之助(隆盛)・・・・・・・宅間孝行
小浜藩
梅田雲浜・・・・・・・きたろう
徳川幕府
井伊直弼・・・・・・・高橋英樹
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 主人公・文役は井上真央さん。朝ドラの主役から大河ドラマの主役という流れは、大ヒットした『篤姫』宮崎あおいさんと同じですね。彼女は、アカデミー賞主演女優賞の受賞歴があるほどで、実力・実績は申し分なく期待できそうですが、ただ、文という女性は、お世辞にも美女とはいえなかったようで(最初の夫となる久坂玄瑞が、縁談が持ち上がった当初、不美人だという理由で難色を示したというエピソードもあるほどで)、その意味では、実在の人物とはかけ離れているようです。まあ、ドラマでそこまで忠実に再現する必要はないでしょうし、なにより、美人な女優さんじゃないと観る気がしませんしね(笑)。彼女の演技力に期待しましょう。

 その文の兄である吉田松陰を演じるのは伊勢谷友介さんですが、これまた実際の松陰とは似ても似つかない二枚目ですね。松陰の肖像画をご存知の方はわかると思いますが、あの極端に長い顔の馬面にしてキツネ目の表情は、千原ジュニアさんを思わせます(笑)。あと、元阪神タイガースの猪俣隆投手も・・・(って、わからない人が多いでしょうね)。伊勢谷さんといえば、どちらかといえばクールなイメージの役が多いと思うのですが、激情家の松陰をどう演じるのか楽しみです。

 文の最初の夫となる久坂玄瑞は、身の丈六尺(約180㎝)で長州藩きっての美男子だったといいますから、東出昌大さんはハマリ役なんじゃないでしょうか? それから、文の二人目の夫となる小田村伊之助役の大沢たかおさんは、実在の人物像云々というより、予告編を観る限り、南方仁先生にしか見えませんでした(笑)。あのとき相手役だった綾瀬はるかさんは、『JIN』『八重の桜』では、姿勢から発声から表情に至るまで、まったく違う人物に演じ分けておられましたが、大沢さんはどう演じるのか注目してみましょう。

 あと、登場人物の名前についてですが、幕末と明治ではまったく名前が変わっちゃう人がいるので、この時代の物語はややこしいんですよね。主人公の文でいえば、杉文→久坂文→楫取美和子と改名しています。結婚して姓が変わるのは当然としても、姓名ともに変わっちゃいますからね。ほかにも文のまわりでは、小田村伊之助→楫取素彦、杉寿→楫取寿子と改名しており、有名どころでは、桂小五郎→木戸孝允もそうですよね。前作の主人公・黒田官兵衛も、官兵衛、孝高、如水と複数の名がありましたが、それぞれが通称、諱、号といった使い分けであり、如水と号してからも官兵衛という通称がなくなったわけではありません。ですので、当ブログではすべて官兵衛の呼称で通したのですが、本作ではどうするか、まだ迷っています。たぶん、前半は「文」で、後半は「美和子」でいくことになるでしょうね。

 いずれにせよ、わたしは文という女性のことを全く知らなかったので(ドラマの制作発表があってから、にわかに何冊か関連本を読みましたが)、本作のレビューでは、彼女について書くことは少ないと思います。本作では、ウンチクの少ない感想文的な起稿になると思いますが、よろしければまた覗いてやってください。本年の起稿は、おそらくこれで最後となります。来年もよろしくお願いします。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-30 15:39 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(2)