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坂の上の雲 第7話「子規、逝く」

 秋山真之が外国勤務を解かれて帰国したのは、明治33年(1900年)秋のことだった。翌34年には海軍少佐に昇進した。この頃彼は、いよいよ海軍戦術の研究に熱中していたらしく、その熱心さを人に感心されると、やや照れ隠しもあってか「一生の道楽」といっていたという。軍人も官僚である以上、そういうことをしなくても日々の任務を真面目に勤めていればちゃんと昇進していける。そういう意味では、彼の戦術研究は「道楽」であったかもしれない。この当時、日本海軍には戦術家と自他ともに認められている人物は、驚くほど少なかったという。自然、真之は全てを自分でやらねばならず、中国の兵書の「孫子」「呉子」をはじめ、欧米の戦史、戦術書はもちろん、日本の戦国時代の軍書から水軍(海賊)古法まで、あらゆる兵学・軍学書をことごとく読んだ。あるとき人から、真之の戦法は古来の水軍のようだと笑いながら指摘されると、彼は無愛想に「白砂糖は、黒砂糖から出来るのだ。」と答えたという。真之が、いわゆる「秋山軍学」を作り上げてゆくプロセスは、これだったのだろう。

 明治35年(1902年)7月、海軍大学校戦術講座が設けられ、真之はその初代教官に選ばれた。「秋山以外に適任とすべき者はいない。」というのが、海軍内部の定評だった。海軍大学校の校長・坂本俊篤がアメリカ勤務時代の真之にワシントンで会ったとき、「君は海軍大学校に入らんのかね?」と聞いたところ、真之は不思議そうな顔をして「私に教える教官がいるのでしょうか?」と反問したという。なんとも太々しい答えだが、真之にしてみれば自惚れでもなんでもなく、当然の答えだった。坂本は素直に納得して、「これは学生というより教官だ。」と思い直し、考慮するまでもなく戦術講座の初代教官に指名したという。

 真之の講義は、不朽といわれるほどの名講義だったらしい。彼自身が組織して体系化した海軍軍学を教えただけでなく、それをどのようにして組織しえたかという秘訣を繰り返し教えた。彼が兵学校の学生だったころの教官・八代六郎も、選科の受講生として入校し、真之の講義を熱心に聞いた。豪傑をもって知られた八代は、疑問に思うところは容赦なく質問し、しばしば講義の壇上と壇下で喧嘩のような議論になった。あるとき双方譲らず、ついに真之はこのかつての恩師に対して、「愚劣きわまる。八代という人はもっとえらい人かと思っていたが、これしきのことがわからぬとは、驚き入ったことだ。」と罵った。翌日、目を真っ赤にした八代が真之のもとを訪れ、「秋山。君のほうが正しかった。」と、教室の中で大声であやまった。昨夜寝ずに考えたという。普通なら上級者が折れて恥じ入っている場合、下級者としては答えようがあるように思うが、真之は「そうでしょう。」と、にべもなくいったという。愛嬌もなにもない。「どうも天才だが、人徳がない。」と、一部ではこの応対を見て思う者もいたようだが、真之にいわせれば、「戦術に愛嬌がいるか。」ということであった。

 そんな愛嬌もくそもない合理的な現実主義者の秋山真之の講義を受けた学生たちが、日露戦争で各戦隊の参謀として配置され、真之の指示のもとに秋山戦法を個々に実施し、このため、作戦面ではほとんど一糸乱れずに全軍が動く結果を得ることになる。

 原作小説では、正岡子規の死は驚くほどあっさりと書かれている。その原作の記述を大筋でしっかり守りながら、ドラマならではの演出で見事に見せてくれた。
 「子規は自分の死期が近いことを悲しむというふうなところはなかった。」
と、作者は小説の中で語っているが、志半ばでその生涯を終えることは無念だったに違いない。
 「まだまだええ句がうかんできよるんじゃあ・・・。」
 ドラマ中、見舞いに訪れた真之に言った子規の言葉が、まだまだ死にたくないという彼の心の叫びだった。

 6年余りの病床生活を経て、子規の病態はいよいよ悪化し、耐え難い苦痛が彼を苦しめていた。死の直前の明治35年(1902年)9月12日から14日にかけての「病牀六尺」には、そんな苦痛の声が記されている。
 「百二十三 支那や朝鮮では今でも拷問をするそうだが、自分はきのう以来昼夜の別なく、五体なしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。」(9月12日)
 「百二十四 人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身に来るとはちょっと想像せられぬ事である。」(9月13日)
 「百二十五 足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大般若の如し。僅に指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫、女媧氏いまだこの足を断じ去って、五色の石を作らず。」(9月14日)
 しかし子規は、そんな苦痛の中にあっても文学者としての感受性を失わなかった。死の前日の9月18日には、庭先の糸瓜を写生するべく、傍らの画板に三首の句を書いた。

 「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
 「をととひの糸瓜の水も取らざりき」
 「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」


 これが子規の絶筆となった。

 正岡子規がこの世を去ったのは、明治35年(1902年)9月19日の午前1時。ドラマのとおり、誰にも看取られずに静かに逝った。子規の病床を献身的に看病していた高浜虚子が、わずかに眠っていたあいだだった。子規の母・八重がふと蚊帳の中が気になりのぞいてみると、子規はもう呼吸をしていなかった。虚子は、近くに住む河東碧梧桐らに知らせるため外に出た。この日は旧暦の十七夜だった。虚子が外に出ると、十七夜の月が、子規の生前も死後も変わりなく輝いている。
 「子規逝くや十七日の月明に」
と、虚子が口ずさんだのはこのときであった。生前の正岡子規は、「俳句とは写生だ。」と、その文学的生命をかけてやかましく言った。その写生を、虚子はいま行ったつもりだった。

 正岡子規。享年35歳。
 彼は辞世の句を作らなかったが、彼の35年の生涯を表しているような一首がある。
 「世の人は四国猿とぞ笑ふなる 四国の猿の子 猿ぞわれは」
 子規は、自分が田舎者であることをひそかに卑下していたが、その田舎者が日本の俳句と和歌を革命したぞという叫びたくなるような誇りを、この歌にこめている。
 「正岡子規はとんでもない楽天家であった。明治というオプティミズム(楽天主義)の時代にもっとも適合した人間であったといえる。」
 作者・司馬遼太郎氏はそう評しているが、そんな彼だけに、誰よりも坂の上の雲を見つめながら、ついには頂上まで上り得なかった切なさがある。


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-13 03:04 | 坂の上の雲 | Trackback(2) | Comments(9)  

坂の上の雲 第5話「留学生」

 ひと月あまりの従軍を終えた正岡子規は、帰国の途の船中おびただしい喀血をした。ドラマでは省かれていたが、帰国後松山で療養する前に、3カ月ほど神戸で治療をしている。現在の神戸大学付属病院の前身で、兵庫県立神戸病院に2カ月入院している。この間の苦しみは想像を絶するもので、このとき子規は死を覚悟したという。知らせを受けた陸羯南は、子規の弟分でもある高浜虚子を介抱に行かせる。このときから虚子の子規に対する献身的な介護が始まる。
 「須磨の灯か明石のともし時鳥(ほととぎす)」
という俳句をこのとき記した。時鳥とは無論、血を吐く自身のことであろう。

 喀血が治まった子規は、同じ神戸の須磨保養院に移り、約1カ月間療養する。この保養院は現在の須磨浦病院だったとされている。この近くの鉢伏山の中腹に、子規と虚子の句碑が建てられている。碑には、
 「虚子の東帰にことづてよ須磨の浦わに晝寝すと 子規」
 「子規50年忌 月を思い人を思ひて須磨にあり 虚子」
と記されている。

 療養のため松山に帰省した子規を、秋山真之が見舞いに訪れる。正岡家の屋敷は、母・妹を東京に呼んだ際、人手に売り渡しているため母の実家にて療養。そこの2階には松山中学の英語教師として赴任していた夏目漱石が下宿していた。原作では真之は漱石に会うのを嫌い帰ってしまうのだが、ドラマでは顔を合わせていた。実際には、漱石と子規は深い交友関係があったのだが、真之と漱石は大学予備門時代の同級生という以外には、特別交友はなかったようである。

 子規の松山での療養は約2カ月間。その後、帰京するべく松山を発ったが、まっすぐには戻らず上方のあちこちを見てまわった。その道中にあの有名な句が生まれる。
 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
しかし、この名句の誕生とともに、子規の晩年を苦しめたカリエスの症状もこのときから始まる。

 真之と固い友情で結ばれていたという広瀬武夫という人物。風変わりな男で、兵学校の頃から柔術に熱中し、あの嘉納治五郎から直接指導をうけていたという。講道館紅白戦で黒帯相手に5人抜きという同館始まって以来の記録をたてている。この男も独身主義で、嫁は海軍と柔術と漢詩だと言っていた。人生の概念も素朴で簡潔で、簡潔に生死することだけを日常の哲学としていたそうである。ドラマ中にあった、素っ裸で写真館で撮影して祖母に送った話は実話のようである。その時写真に添えた一文がある。
 「吾ヲ生ムハ父母、吾ヲ育ムハ祖母、祖母八十ノ賀、特ニ赤条々、五尺六寸ノ一男児ヲ写出シテ膝下ノ一笑ニ供ス」
変わった男である。

 真之は米国へ、広瀬は露国への留学が決まった。彼らの現地視察が、後の日露戦争において大いに役立つことになる。兄・好古のフランス留学のときもそうだったが、この時代の日本は国家の規模が小さいだけに、その部門部門においてたった一人の人物の肩に国家を背負わされる。その人物はその部門において先駆者になるわけで、そのやりがいは大きく、しかしその責任は重い。現代ではエリート官僚といえども、これほどの重責を担うことはないだろう。しかしこの時代のエリートたちは皆、自らを国家の代表として戦っていた。それが司馬遼太郎氏のいう明治という国家である。

 広瀬とロシア海軍・コヴァレフスキー少将の娘・アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤとの出会いがあった。広瀬と彼女は、日本に帰国後も文通を続ける関係にあったという。その後、悲しい物語となるのだが、ここでは触れないでおこう。

 渡米の報告に訪れた真之に、子規は心をこめて激励をする。
 「日本人は猿マネの民族と言われておるが、外国へ行っても卑屈になってはいかんぞな。西洋とて模倣を繰り返してようやく猿マネが終わったところじゃ。イギリスもフランスもドイツもロシアも、真似しあい盗み合うて文明を作り上げた。西洋は15世紀にそれをやって、日本は19世紀にそれをやったというだけの違いじゃ。猿マネの何処が悪い。日本人がいかに素晴らしい吸収力と消化力を持っとるか、あしらは十分に誇ってええんじゃ。日本には大きくて深い皿がある。そこに乗っかるものがいろいろあるゆうんが日本の面白さよ。」
 「そういう国を滅ぼしてはならん。」
 「ほうじゃ。国が滅びるゆうことは、文化が滅びるゆうことじゃ。」
 子規は、余命幾許もない自身の生涯で、どうしてもやり遂げたい仕事、俳句の探究という日本文化の探究を無駄にしないためにも、日本を、日本文化を守ってくれと真之に頼む。子規にとって真之は、病で動くことの出来ない自分の翼のような存在だったのかもしれない。

 真之が渡米した後、新聞日本に「秋山真之ノ米国ニユクヲ送ル」という詞書のもとに、
 「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」
という俳句を載せた。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-28 02:16 | 坂の上の雲 | Trackback(1) | Comments(0)  

坂の上の雲 第3話「国家鳴動」

 子規が喀血した。肺結核である。当時、この病気は不治の病とされており、この病気にかかれば死を意識せざるを得ない。子規が最初に喀血したのは明治21年のことで、以後14年もの長い間、この病気と闘うことになる。雅号とした子規とはホトトギスの異称で、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。病になっても決して悲観的にはならない強さを持った彼だったが、残り少ない人生を急いでいたかのようには感じられる。苦労して入学した帝国大学を中退、陸羯南に頼って新聞「日本」に入社、執筆活動に没頭しだす。陸羯南という人物は、ドラマでは本話で初めて登場したが、原作では子規が上京した当初から彼の力となっている人物である。羯南の言論はのちに政府を震え上がらせるほどに鋭かったが、子規に対してはあくまで優しかった。羯南は子規という一個の才能のために自分が砥石になってやろうと、書物を貸したり、議論をしたりして子規の面倒をみた。子規も夏目漱石に宛てた手紙に「羯南のように徳のある人は類がない。」と書いている。いわば、子規の個人教師だったと、司馬遼太郎氏は言う。

 真之が鎮台さんと喧嘩沙汰を起こした場所は、旧松山藩政時代の水練用のプール「お囲い家」である。真之は松山に帰省すると必ずこの「お囲い池」に通った。この場所にいつも座っている番人のような老人がいた。水練神伝流師範正岡久次郎老人がそれであった。老人は死ぬまで曲げを結い、いつも袴をつけ、夏羽織を着、扇子を膝に立て、このプールを見守っていた。藩政が瓦解し、お役もお禄もなかったが、旧松山藩領での水練は自分が面倒を見なくてはという責務感があったのか、毎年夏が来ると、報酬もないのにこの場所に来ていたそうである。この正岡老人の努力もあって、松山の水泳は当時全国でも群を抜いて水準が高かったそうである。大正になってクロール泳法が入ってくるまでは、この神伝流が主だったらしい。

 このプールでの喧嘩沙汰と、そしてその後、父が警察と談判したエピソードは、真之の攻撃的な性格と、父の人柄を垣間見ることが出来るいい話である。このあとしばらくして父八十九翁は永眠する。息子二人は父の死に目は見ていない。父は最後まで父らしくあった。

 好古は平素、独身主義と語っており、それを自身の哲学としていた。軍人が所帯を持てば、判断や覚悟が鈍るといった考えからである。この時代、このような考えを持った軍人は少なくなかった。これは、お家第一とした封建時代の武士の心とは少し違ってきているようである。しかし、その好古も年貢の納めどきが来る。男にとって結婚=年貢の納めどき・・・などと誰が言い出したか知らないが、平成の現代では女性の方にその感が強いようである。しかし好古にとっては、結婚とはこの言葉がぴったりだったのかもしれない。

 好古の妻となったのは、以前の下宿先だった佐久間家のお姫(ひい)さま、名を多美という。佐久間家は旧旗本で、旗本といえば大名と同格、将軍家直臣で、大名の家来である秋山家などとは身分が違い、このときより二十数年前まではありえない縁談である。このドラマの第1話で、多美の乳母は好古・真之兄弟のことを「陪臣」と言ってさげすんでいた。多美自身も、そういうふうに教えられてきていたので、好古に対して好意は持っていたものの差別意識は多少あったようだ。縁談話があったとき、「陪臣のところに・・・。」と彼女は大まじめに驚き、「清水の舞台から飛び降りる気持ちで決心した。」と、後年になるまでそのときの動揺を子どもたちに語ったそうである。

「今でも茶碗ひとつでお暮らしですか?」
「いや、母と暮らしておりますけん、今はふたつほど・・・。」
「そうですよね(笑)」
「・・・もうひとつあっても、ええかもしれません・・・。」 
 独身主義で不器用なはずの好古にしては、なんとも粋な求婚の言葉だ。

 結婚式の活劇のような演出は面白かった。
「独身最後の砦も、ついに落ちたか!陸大一期生、これにて・・・・全滅っ!どぉーん!!」

 時代は日清戦争に向かおうとしていた。伊藤博文、陸奥宗光、川上操六、山県有朋、東郷平八郎、児玉源太郎。史実における様々な立場での主役たちが動き始める。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-14 02:23 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(0)  

坂の上の雲 第2話「青雲」

 幼い頃から常に肩を並べて、ともに遊びともに学んできた真之と子規。しかし二人の進む道は分かれることになる。ドラマでは省かれていたが、原作では真之も一時期文学に励み、子規と二人で生涯文学をやろうと誓い合ったほどである。そしてその才も真之の方が長けていた。学問においても真之の方が上で、子規にとって真之は、幼馴染であり、親友であり、しかしライバルでもあり、それでいて憧れでもあったのかもしれない。置き手紙を残して去っていった真之。いろんな思いがこみ上げてきたであろう子規の心中が、香川照之さんの無言の演技の中に込められていた。
「戦をも厭わぬ君が船路には 風吹かば吹け 波立たば立て・・・気張れ!ジュン淳さん。」

 子規は生涯友人との交流を大切にした。
「人間は友人がなくとも十分に生きていけるかもしれない。しかし、子規という人間は、切ないくらいにその派ではなかった。」
 これより少し後年の石川啄木などに代表する、歌人・俳人の持つ孤独で神経質なイメージとは異なり、晩年病床に伏しても友人たちとの時間を一番大切にした子規。このドラマに描かれているとおり、生涯少年のような人物だったのかもしれない。

 成績優秀で行動力もあり、子規をはじめ友人たちにも頼られる真之だが、その分、要領が良く、何においても子規のように純粋に夢中になれない自分に悩む。「男は単純明快でいろ!」という兄の教えを胸に、自身にとって居心地のいい大学予備門を中退し、海軍兵学校に入学。軍人の道を進む。心から軍人になりたかったわけではない。しかし、
「一身独立、一国独立。」
 まずは自分の身を一人前に食っていけるようにして、その上で国の存立に関わるようになれ・・・ということ。兄・好古の尊敬する福沢諭吉の言葉で、好古の座右の銘でもある。
「一身独立するには、まず質素を旨とし、単純明快な生活を体に叩き込め!」
 兄の言葉を胸に、一身独立してしかも単純明快であるために、軍人の道を選んだ。

 旧藩主、久松家からの仰せでフランス留学を余儀なくされた好古。原作では、フランス行きが好古のその後にどう影響するかなど、久松家はまったく気にしていない様子だった。ドラマでは多少気にかけてくれていたようである。が、断ることはできない。新しい世になったとはいえ明治維新からまだ20年ほどしか経っていないこの時代。旧下級藩士の微妙な立場がよくわかるエピソードである。好古のフランス留学生活は、途中から官費留学になったことがナレーションで伝えられたが、それまでは私費留学だったことや、そのために困窮していたことなどが省かれていたことが少々残念である。

 ドラマ中にもあったが、子規は野球を愛し、野球のルールや訳語を最初に示した随筆を著し、ここで使用された訳語(打者・走者・飛球・死球等)が現在でも生きている。明治22年(1889年)、帰郷の折りに松山中学の学生であった河東碧梧桐に野球を教え、その後、松山では野球が非常に盛んになった。その流れか、のちに始まった全国高校野球大会創生期の大正から昭和初期にかけて、松山商業は全国屈指の強豪校だったそうである。子規の死後100年経った平成14年(2002年)、野球の普及に貢献した人物として野球殿堂入りを果たしている。

 それぞれの進むべき道が定まった。彼らの選んだ道が、やがて日本の歴史を変える事になる。
それはまさに「一身独立、一国独立」の言葉どおりである。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-08 22:50 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(2)