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真田丸 第2話「決断」 ~裏切り者たちの末路~

e0158128_22451998.jpg 小山田信茂の寝返りによって逃げ場を失った武田勝頼は、武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、天目山麓の田野村まで来たときに織田軍の追撃を受け、抵抗及ばず自刃して果てます。新府城を発ったときには200人ほどいた家臣団も、最後は43人になっていたとか。『甲陽軍鑑』『甲乱記』などの記述では、勝頼主従の最期は華々しく戦って討死したとありますが、『信長公記』では、「落人の哀れさ、なかなか目も当てられぬ次第なり」とあります。実際には、43人の手勢ではなすすべもなかったでしょう。享年37歳。このとき、16歳の嫡子・武田信勝もともに自刃しました。ここに、450年の歴史を誇る名門武田氏は滅亡します。

 戦国の世のならいとはいえ、凋落しはじめた武田家内での裏切り、寝返りは酷いものでした。とくに、木曽義昌、穴山梅雪という二人の武田信玄の娘婿の寝返りが、武田氏の崩壊を一気に加速させたことは間違いありません。その事実から、武田勝頼という武将を「無能」と評する見方がありますが、一方で、同時代の書状などによれば、武勇には優れた武将だったともいわれ、評価の分かれるところです。ただ、勝頼のいちばんの失敗は、この前年に兵糧攻めにあっていた高天神城の城兵を見捨てたことだったでしょう。これにより、主従の信頼関係は致命的に瓦解したと言われています。

 立て続けの謀反によって滅亡の一途を辿った武田家でしたが、寝返った武将たちも、結局は厳しい末路をたどります。最初に反旗を翻した木曽義昌は、その戦功により織田氏傘下で知行を得ますが、ほどなく本能寺の変が起きると行き場を失い、その後、上杉氏、北条氏、徳川氏の間を渡り歩きながら、最後は豊臣政権のもと、不遇の扱いを受けます。また、徳川氏に内通して寝返った穴山梅雪は、その後、徳川氏の傘下に入りますが、本能寺の変が起きると、家康とともに畿内の脱出をはかりますが、その途上で落ち武者狩りの百姓に襲撃されて落命します。

e0158128_22492256.jpg そして、最後の最期に裏切って武田氏滅亡のとどめを刺したといっていい小山田信茂は、ドラマで描かれていたとおり、織田信忠本陣に投降して傘下に入ろうとしますが、その不忠を責められ、一族すべて処刑されました。信茂にしてみれば、多少、知行は減らされても、義昌、梅雪のように織田氏傘下で生き延びられると見込んでいたのでしょうね。ところが、織田家は信茂のみ不忠者とみなした。ドラマでは、義昌、梅雪は織田方の調略によって寝返ったが、信茂は最後に主君を見捨てた不届き者、という理由でした。そんな卑怯な奴は仲間に入れてやらない!・・・と。まあ、どちらも裏切りには違いないのですが、勝敗が決したあとの寝返りというのは、たとえ戦国の世であっても、卑劣な行為だったのでしょうか。それとも、ただ単に、信茂は利用価値がないとみなされたのかもしれないですけどね。

 さて、真田家です。『長国寺殿御事績稿』によると、真田昌幸は勝頼の死を知ると泣き叫び、小山田信茂に復讐しようといきり立ち、周囲に止められたと記されています。でも、どうもこの話は昌幸らしくないですね。実際には、昌幸は早くから武田氏の滅亡を予測しており、生き残りの道を模索していたことが史料で明らかになっています。そのひとつが北条氏からの書状。昌幸は、勝頼の死の5日前に、叔父の矢沢頼綱沼田城の守りを強化するよう指示した書状を送っていますが、一方で、勝頼の死の翌日付で北条氏邦が昌幸宛に送った書状が残っており、それによれば、昌幸が以前から北条氏に接触をはかり、帰属を打診していたことが確認されます。つまり、昌幸は、沼田城の守りを固めて北条氏を警戒しながら、一方で、北条氏に帰属する道を模索するという、両道の外交策を採っていたんですね。

 自家の生き残りを再優先に考えていた点では、真田家も小山田家も同じこと。昌幸が岩櫃城への退避を勝頼に勧めたのも、北条氏を頼って武田氏存続を考えたのかもしれませんし、あるいは、はじめから勝頼は岩櫃城に来ることはないと読んで、自家防衛のために岩櫃城退避を献策したのかもしれません。もし、勝頼が昌幸の進言を聞いて岩櫃城に来ていたら、あるいは昌幸も信茂と同じことをしたかもしれませんよ。戦国の世を生き延びるには、忠義なんて何の役にも立たなかったでしょうから。



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by sakanoueno-kumo | 2016-01-18 22:50 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第1話「船出」 ~武田家滅亡への道~


 さて、2016年大河ドラマ『真田丸』がはじまりました。第1話の設定は天正10年(1582年)2月、本能寺の変の4ヶ月前ですね。真田信繁16歳のときでした(異説あり)。今回は子役時代がありませんでしたね。わたしは予てから、お約束のように幼少時代を描くことに違和感を覚えていました。その後の物語の伏線となるべき逸話がないのであれば(たとえば、子供時代どこかの人質になっていたとか)、無理に幼少時代を描く必要はないんじゃないかと。真田信繁は、武田家傘下の一武将の次男ということもあって、子供の頃のエピソードはほぼ皆無です。今回、いきなり16歳から始まったのは、わたし的には好印象でした。

 天正10年(1582年)1月、武田一族の木曽義昌織田信長の調略に応じ、武田家に反旗を翻しました。これを好機ととらえた信長は、武田家への総攻撃を開始。ここから、武田家滅亡劇の幕が上がりました。名将・武田信玄の死から9年後のことです。


 義昌の反逆に激怒した武田勝頼は、人質を惨殺して即座に木曾討伐の軍勢を送り出しますが、武田方の諸城はことごとく戦わずして降伏してしまいます。その理由はいろいろありますが、ちょうど織田軍の侵攻が始まった2月14日に、浅間山が噴火したことも影響したようです。当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられていたそうで、それが織田軍侵攻朝敵指名に重なったため、武田軍内は大いに動揺したといいます。運に見放されると、間が悪い不出来事が起きるものです。

 それでも、勝頼は抵抗する意志を見せますが、2月28日に駿河国江尻城で徳川軍を迎え撃つはずの穴山梅雪の謀反が発覚し、勝頼はやむなく新府城に撤退します。木曽義昌、穴山梅雪という一族の立て続けの謀反に武田家将卒は激しく動揺し、隙を見ては次々と逃亡し、もはや軍隊としての機能は果たせない状態になります。


 追い詰められた勝頼は、3月2日、新府城において最後の軍議を開きます。この席で、今後の方針について三つの意見が対立しました。武田家の軍学書『甲陽軍鑑』によると、新府城に籠城して潔く城を枕に討死すべきと説く勝頼の嫡男・信勝と、都留郡の堅城・岩殿城に移って、ここで決戦すべしと主張する重臣の小山田信茂。そしてもう一つは、吾妻郡の岩櫃城に移って決戦に踏み切るという案で、これを主張したのは、信繁の父・真田昌幸でした。曰く、岩櫃城は地形が険阻であるため織田軍による大軍の運用が困難であり、しかも、立地的に上杉家の支援も受けやすい、と。

e0158128_20435306.jpg しかし、結局、昌幸の献策は退けられ、小山田案が採用されます。理由は定かではありませんが、たぶん、譜代の家臣である小山田家に対し、昌幸の父・真田幸綱の代から武田家に仕えた新参者の真田家との信頼度の違いだったのでしょう。結果を知っている後世からみれば愚かに思えますが、裏切りに次ぐ裏切りのなか、信頼すべきは新参者より譜代と思った勝頼の判断は、決して間違ってはいなかったでしょう。でも、結果はドラマのとおり、小山田の土壇場での裏切りによって、武田家滅亡は決定的になってしまいます。偉大なる先代から代替わりした途端に会社が傾き始め、そうすると、有能な幹部が次々にヘッドハンティングされ、やがては組織が機能しなくなり倒産現代でも、中小企業ではよくある話だと思いますが、武田家は言うなれば当時の一流大企業。それでも、ひとつ道を間違えると、こういう道を辿っちゃうんですね。もっとも、武田家を滅亡に追い込んだ新興ベンチャー企業・織田家も、この数カ月後に突然、倒産しちゃうんですけどね。

 真田信幸・信繁兄弟の活躍は、まだまだ先の話。当分は、父の昌幸を中心に展開していくんでしょうね。

昌幸「新府城はこの真田昌幸が知恵の限りを尽くして築いた天下に聞こえた名城じゃ。この新府こそが最も安全な場所じゃ。この真田安房守がいる限り武田が滅びることは決してない!!」

・・・・場面は変わって、

昌幸「武田は滅びるぞ」

信幸・信繁「ええっ???」

昌幸「むろん、ぎりぎりまでわしが食い止める。しかし、それにも限りがある。」

信幸「それだけ織田勢が強いということですか?」

昌幸「強い!長篠の頃の比ではない。」

昌幸「わしはこの城を捨てることにした。」

信幸「はあ???」

昌幸「ここにいても先が見えとる。」

信幸「しかし、ここは天下に聞こえた名城と・・・?」

昌幸「誰が言ったんだ?」

信幸「父上が・・・。」

いや~、くせ者・昌幸のキャラが最高でしたね。来週から楽しくなりそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2016-01-12 17:30 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

天地人 第13話 「潜入!武田の陣」

前話の桑取に続いて、今回もまた「こころ」で人を動かした兼続。
武田勝頼軍の高坂弾正昌信に対して、主・景勝の「ギリギリの決心」を伝えた。
「武田は、上杉に味方する。上杉謙信公は、亡き主・信玄が、この世で一番と見込んだ男児におわした。この和議をなすことは、信玄公へのわしの最後のご奉公となろう。よくそこまで思いきられた。」
高坂の「こころ」の言葉を受け、
「上杉家を守るため、ひいては越後を守るため、我が主、ギリギリの決心にございます。」と、兼続。

「ギリギリの決心」を必要とされたとき、その人の本当の器が計れると私も思う。
それは初音が信長に言った「対面を大切にするか、なりふり構わぬかで勝敗が分かれる。」という言葉に通ずる。対面は大切。しかしギリギリの選択は、なりふり構わぬ決断が必要な場合がある。

兼続の父・惣右衛門が言った言葉。
「今一番大事なのは、己の力の限りを尽くすこと。」
武田との和睦は、景勝が出来る精一杯の「己の力の限り」だったのだろう。

私たちの世の中においても、「ギリギリの決心」を強いられることがあるかもしれない。
出来ればそんな局面には立たされたくないもの・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2009-03-31 00:45 | 天地人 | Trackback | Comments(0)  

天地人 第12話「命がけの使者」

長引く内乱の越後。そこに北条氏政、武田勝頼と、まわりを取り巻く諸国の様々な思惑が錯綜する。
この情勢に便乗して、勢力を広げようとするもの。積年の遺恨をはらそうとするもの。戦とは、醜い「欲」のぶつかり合い。謙信の掲げた「義」など、そこには存在しない。
平成の現代においても似たようなもの。中東の終わりなき抗争と、それを取り巻く主要先進国の思惑。そこにもまた「義」の心などひとかけらも感じられない。人間とは醜いものである。

そんな中、今回も兼続は「こころ」で人を動かそうとする。
「人を従えるには、お金や腕力ではなく誠実なこころである。」ということを証明してみせる。
これは容易なことではない。しかし、偽善でもない。
利害で結びついた関係は、利害関係が成立しなくなればもろく崩れるもの。
力で従わせた関係は、いずれ力によって覆されるもの。
強い絆を作るには、やはり「こころ」で結ばれなければならないものだと思う。
私たちの社会においても、決して軽んじてはいけないことではないだろうか?
今回の兼続の行動を、「そんなに上手くいくもんか!」と鼻で笑う人は、おそらく本当の信頼関係を得ることが出来ないひとなのでは?
不肖、私も日々自己研鑽の途中ではあるが・・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2009-03-23 00:39 | 天地人 | Trackback | Comments(0)  

天地人 第3話「殿の初恋」

偉大な養父、上杉謙信を持つ上杉景勝は後世の小説などでは愚鈍に描かれることが多い。
武田信玄の子勝頼や、織田信長の子信忠なども同じである。
現代でいえば、安倍晋三や福田康夫のようなものだろうか?
しかし、本当のところはどうだったんだろう?
偉大な父たちには確実に時代の追い風が吹いていて、息子たちの時代にはその風はやんでいた。そのことは割り引いて考えなければならないと思う。(安倍さんや福田さんは違うけどね。)

口数が少なく不器用に描かれている今回の景勝。実際に無口な人物ではあったようだ。
一説には、自分は謙信に及ばないとの想いが強く、常に謙信のようにありたいと考えて行動していたため、感情を表に出すことがほとんどなかったという話もある。

まだ物語は始まったばかり。兼続だけではなく、景勝がどう描かれていくか楽しみである。


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by sakanoueno-kumo | 2009-01-19 00:33 | 天地人 | Trackback | Comments(0)