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花燃ゆ 第37話「夫の忘れがたみ」 ~版籍奉還~

 前話で高杉晋作が死んだと思ったら、あっという間に明治編。それも、版籍奉還まで話が進んじゃいました。晋作の病没が慶応3年(1867年)4月14日で、明治政府によって版籍奉還が行われたのが明治2年(1869年)6月17日のことですから、今話で2年以上の月日が流れたことになります。物語の都合上、月日の流れが早くなったり遅くなったりするのは当然だと思いますし、主人公に直接関連の薄い出来事がスルーされるのもやむを得ないと思いますが、ただ、この2年間というのは、普通の2年間ではありません。

 大政奉還から王政復古の大号令、その後、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争に突入し、西郷隆盛勝海舟の歴史的会談から江戸無血開城を経て、会津戦争の最中に元号を明治に改元。皇居を東京に移し、そして新政府の目指す中央集権化の手始めとして、版籍奉還が実施されます。日本史上、最も世の中が動いた時期といえるでしょう。これをいちいち詳細に描いていたら、主人公の美和の描きどころがないのかもしれませんが、だとしても、あまりにもスルーしすぎですよね。これでは、まるで歴史がつながらない。久坂玄瑞の忘れがたみがどうのこうのと言ってるあいだに、2年も経ってしまいました(笑)。ちょっとひどすぎませんか?

 これまでわたしは、巷で酷評されているほど酷いドラマだとは思っていませんでした。伊勢谷友介さんの演じる吉田松陰像も好きでしたし、松蔭を中心とした松下村塾系の志士たちひとりひとりにスポットをあて、彼らの思い誇りなど、上手く描かれていたと思います。長州藩内の政局もリアルに描かれていましたし、名君か暗君か意見の分かれる藩主・毛利敬親の本作品での人物像も、わたしは好きです。という女性のことはよく知りませんが、無理に歴史を歪曲するような絡め方をせず、長州藩史を描く視点として無理のない描かれ方だったと思います。

 ところが、久坂が死んでから、どうも迷走している感が否めません。物語前半、ほとんど松蔭や玄瑞の物語のようになっていて、文の存在感が薄かったためか、奥御殿編に入ってから、なんとか文(美和)のドラマを作ろうと必死になっているように思えます。でも、途中から急に方針を変えたため、いったい何が描きたいのか意味不明になってきました。なんか、やる気なくなってきたなぁ・・・。

 気を取り直して、少しだけ解説します。幕府を倒した薩摩、長州藩士を中心に出来上がった新政府でしたが、これを守る軍隊は存在せず、一方で各藩には幕藩体制から続いた兵力がそのままとなっていて、新政府からすると危なくてしょうがない状態でした。そこで、まず新政府のやるべきことは、藩をつぶし、中央政権としての軍隊を持つことでした。しかし、それは容易なことではありません。

 そんなとき、姫路藩主の酒井忠邦が、「藩の名称を改め、すべて府県と同じにし、中興の盛業を遂げられたい」との提案を持ち込みます。この案に木戸孝允が飛びつきます。諸藩から無理やり権力を奪い取るのではなく、皇国日本をつくるためという名目で、藩主自ら領地と人民を朝廷にお返しする。その代わり、藩主は旧領地の知藩事(現在の知事)になり、行政を担います。つまり、小国の国王から、大国の役人になるということですね。木戸は、300年続いた封建制を打破するには、この方法しかないと立ち上がり、これを実現するには、まずは新政府の中心的藩である長州藩と薩摩藩が率先してやらねばならないと考え、藩主・毛利敬親を説得します。この進言を受けた敬親は、ドラマのように「そうせい!」とは、言わなかったようですよ。

 これが、今話で描かれていた版籍奉還の流れです。前話まで幕府と戦っていたのに、急に版籍奉還なんて言われても、この時代の歴史に疎い人は、わけわかんないですよね。来週はどんな展開になるのか心配です。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-15 00:11 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第33話「花となるために」 ~革命成立~

 高杉晋作を中心に立ち上がった反乱軍は、日に日に勢力を増していき、やがて藩政府軍を圧倒。椋梨藤太を首領とする俗論党は、政権運営の後ろ盾となる軍事力をほぼ失います。こうなると、あとは革命軍の連戦連勝、政権交代は時間の問題となるのですが、ここで登場するのが中立の立場をとる集団で、そのほとんどが萩の上士団のなかからあらわれ、かれらは自らを「鎮静会議員」と称しました。中立といっても、その主張は晋作ら反乱軍と変わらず、諸隊が武力に物をいわせた過激派というのに対し、鎮静会議員たちは、事の荒立てずに穏便に鎮静させようという調停勢力でした。その数は革命軍が勢力を増すのと並んで膨れ上がり、絵堂・大田の戦いで藩政府軍が敗れたあとは、約200人に及んでいました。ちなみに、「議員」という呼称が日本史に初めて登場したのは、このときだそうです。

 鎮静会議員の代表者たちは、内戦の終息をはかるべく和平交渉に動き始めます。そのなかには、吉田松陰の実兄・杉梅太郎(民治)もいました。梅太郎は温厚篤実を絵に描いたような人物だったといわれ、調停役にはもってこいの存在だったのでしょうね。梅太郎らは元治2年(1865年)1月16日に萩城に赴き、藩主・毛利敬親に対して、反乱軍の主張をのむよう諌言します。

 一方で、反乱軍が占拠する山口には、香川半介、桜井三木三、冷泉五郎、江木清治郎の4名が和平交渉の使者として赴きます(ドラマでは、このメンバーにも梅太郎が入っていましたが)。そこで彼らは、藩主の説得を約束するとともに、ひとまず萩には突入しないよう休戦を促します。ところが、その帰路、彼らは和平を良しとしない藩政府軍の刺客に襲撃され、香川、桜井、冷泉は絶命、江木も深手を負います。

 これを知った晋作らは激怒し、休戦勧告を無視して海上からさかんに空砲を放ち、藩政府を威嚇します。また、これまで中立的立場をとってきた鎮静会議員の主張もどんどん過激になっていき、「藩政府の首領、椋梨藤太、岡本吉之進らを罷免せよ」と、もはや反乱軍の別働隊のような働きをはじめました。こうなると、藩主・敬親も彼らの要求を無視できなくなり、とうとう椋梨らは罷免され、俗論党は藩の中枢から追放されます。革命は成りました。

 罷免された椋梨ら12名は萩を脱出して石州津和野藩領まで逃げ、吉川監物を頼って岩国に向かおうとしましたが、途中で捕らえられて萩に護送されました。そして同じ年の5月、かつて松蔭や晋作が投獄されていた野山獄にて処刑されます。死に際して椋梨は、「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と懇願したといわれ、他の者が切腹の刑を申し付けられるなか、椋梨だけが斬首だったといいます。

 「あの人は城から逃げたのではない。ただ、己が巻き込んだ者たちを逃がしてやりたかったのです。そういう人です。」

 椋梨の妻・美鶴が、寿に言った台詞ですが、あるいは、そうだったのかもしれませんね。ほころびが出ても秘書の責任にして生き残ろうとする現在の政治家とは、雲泥の差です。

 その潔さでいえば、藩主・毛利敬親もまたそのひとりで、佐幕派に推戴されたことを公式に後悔し、「すべては自分の不徳不明により起こったこと」と、封建時代の大名としてはおよそ異例の諭告文を、藩内の士民に対して発しています。敬親のような藩主だったから、長州は革命集団たり得たのでしょう。

 で、主役の美和についてですが、ちょうどこの時期に誕生した毛利家の世子・興丸(のちの毛利元昭)の守役を務めた、と彼女の関連本などに記されているだけで、その奮闘ぶりなどは一切わかりません。正直、どうでもいいかな・・・と(笑)。

 そして時代は、いよいよ慶応年間に入ります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-17 19:55 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第24話「母になるために」 ~来島又兵衛の進発論と、そうせい侯~

 文久3年(1868年)の八月十八日の政変によって、京における政治基盤の一切を失った長州藩は、今後の対策を巡って藩内が紛糾していました。政庁内は、藩の名誉回復勢力挽回を目指して挙兵、京に向かうべし!・・・とする「進発派」と、それを時期尚早とする「割拠派」に分かれます。進発派の中心人物は、長老格の来島又兵衛。長老と言っても、このとき又兵衛は48歳で、長州藩きっての豪傑とて名高く、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物でした。彼は上洛を声高に主張しながら、高杉晋作が作った奇兵隊を見習って、さまざまな身分の有志600人を集めた「遊撃隊」を組織し、周防三田尻に駐屯します。

 藩当局も一時は又兵衛の主張に傾いていたのですが、京に潜伏している桂小五郎らの反対意見などもあって方針を一変、慎重論に変わります。しかし、又兵衛はそれで収まるはずがなく、言動はさらに激しさを増していきます。又兵衛は隊士たちからの人望も厚く、隊は又兵衛と共に命を捨てるといった気運が高まり、いつ暴発してもおかしくないムードとなります。

 なんとか沈静化を図りたい藩当局は、又兵衛を説得する使者として、高杉晋作を派遣します。晋作はこの時期、奇兵隊総督の任を罷免され、藩内閣の閣僚ともいうべき「政務役」という重責の任に就いていました。このとき晋作は若干24歳異例の出世でした。三田尻に乗り込んだ晋作は、3日間粘って又兵衛の説得にあたりますが、24歳の晋作が48歳の又兵衛を説得するのは困難なことで、結局は徒労に終わります。すると、ここで晋作は何を思ったのか、萩に戻らずにそのまま船に乗り、脱藩してしまうんですね。これには藩当局はもちろん、又兵衛もビックリしたことでしょう。この辺が、高杉晋作という人の尋常ならざるところです。政務役に抜擢されてから、わずか半年のことでした。

 さて、今話はそれ以外に特に政治的な動きがなかったので、これまで書きそびれてきた長州藩主・毛利敬親についてふれてみたいと思います。ドラマでは、たいへん寛大で懐の深い殿さまとして描かれている敬親ですが、実際には、敬親は名君暗君かで意見が真っ二つに分かれる人物です。というのも、敬親は家臣の意見に対して異議を唱えることが皆無だったといい、ドラマで描かれているように、藩内保守派、改革派のどちらから上申されても、常に「ああ、そうせい」と許していたそうで、そんな敬親のことを家臣たちは、「そうせい侯」と陰で揶揄していました。そのため、後世に有能か無能かで意見が分かれていて、維新の原動力となった長州藩の藩主でありながら、いわゆる幕末の四賢侯にも数えられていません。

 実際にはどうだったかはわかりませんが、ただ、敬親のような人物が長州藩主であったからこそ、幕末の長州が長州たりえたといえるでしょう。ふつう他藩では、藩主の思想、意向によって政治が動くものですが、長州藩にはその機能がなく、家臣たちが藩を動かしました。そのせいで、高杉晋作や久坂玄瑞などの書生あがりが政治活動の中心になりました。藩主という抑制装置が機能していないため、藩の活動はどんどん過激になっていきます。それが、幕末の長州藩でした。幕末の日本史は、長州藩が大暴れしたことによって作られた歴史といっても過言ではありません。その長州藩を演出したのは、松蔭でも晋作でも玄瑞でもなく、敬親だったといえるかもしれませんね。もし、長州藩の藩主が、土佐藩の山内容堂のような人物であれば、晋作や玄瑞などはとっくに処刑されていたに違いないでしょうし、そうすると、日本の歴史もまったく違ったものになっていたかもしれません。

 「藩主として余はいまだ迷い、自問自答を繰り返す身じゃが. 志ある者の邪魔立てだけはすまいと決めておる。」

 何話か前の、との面会シーンでの敬親の台詞ですが、あるいは、このとおりの考えだったのかもしれません。幕末の長州藩主は、いわゆる「君臨すれども統治せず」だったわけですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-15 21:05 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第1話「人むすぶ妹」 〜吉田松陰の生い立ち〜

 さて、今年も大河ドラマがスタートしました。舞台は幕末、のちの尊王攘夷派志士たちの精神的支柱となる吉田松陰の妹・杉文の物語です。キャッチフレーズでは、幕末を舞台にした「ホームドラマ」「学園ドラマ」とうたっていますが、はてさて、いかがなものでしょう。主人公の文という女性は、大河ドラマ史上もっとも無名の主人公とも言われていますね。とにもかくにも、今年もまた、性懲りもなく薀蓄を綴っていこうと思いますので(毎週かどうかはわかりませんが)、よろしければお付き合いください。

 文の生まれた杉家は、長州藩士の中でも下級武士の家柄で、家禄はわずか26石という貧しさでしたが、父・杉百合之助と母・滝子は、三男四女の子宝に恵まれていました(三女は夭折)。長幼の順に紹介すると、長男・杉梅太郎(民冶)、次男・吉田寅次郎(松陰)、長女・千代、次女・寿、三女・と続き、は四女。そして最後に、三男・杉敏三郎となります。ここで目につくのは、次男の松陰だけ苗字が違うところですね。ドラマでは、その理由について何もふれていなかったので、ここで説明しておきます。

 百合之助には2人の弟がいましたが、次男の大助吉田家へ、三男の文之進玉木家へと、それぞれ養子に出ていました。二人が養子となった両家は、いずれも生家の杉家よりも家格が上で、わけても吉田家は、家禄57石6斗山鹿流兵法師範の職を世襲した家柄でした。しかし、その吉田家を継いだ大助は子宝に恵まれず、しかも大病を患ったことから、当時5歳だった松陰を養子に迎え入れます。そして、その翌年に大助は病没。松陰は、わずか6歳にして吉田家の当主となるのですが、幼少であったため、引き続き生家の杉家で養育されることとなります。

 藩の兵法師範に就任するという将来が決定していた松陰を、それに相応しい人物に育てるのが杉家の役目でした。そこで、その教育係を務めていたのが、叔父の玉木文之進だったのですが、文之進の松陰に対する教育は厳格を極めた超スパルタで、あまりの厳しさに母・滝子はその有様を正視することができなかったといいます。

 有名な逸話があります。ある日、少年松陰が読書中に頬にがとまり、つい手をあげて掻いたところ、それを見た文之進は激しく怒り、殴る蹴るの折檻を与えたといいます。曰く、
 「かゆみは私。掻くことは自身の満足。それを許せば、将来人の世に出たとき私利私欲を図る人間になる」と。
 文之進にとっての侍の定義は、公のために尽くすものであり、学問は公に尽くす自分を作るためであり、その最中に頬を掻くというのは私情である・・・と。めちゃくちゃな話ですが、理屈は通ってなくもないです。
 「侍は作るものだ。生まれるものではない」
 という意味のことをたえず言っていたという文之進は、折檻の理由も、殴ることによって恐怖させ、幼いうちから私利私欲を摘み取ろうという考えだったといいます。今なら間違いなく幼児虐待で逮捕されるでしょうね。
 「あんなひどい目にあって、よく死ななかったものだ」
と、後年の松陰は門人に洩らしたといいますが、しかし松陰は、生涯この叔父を師としたことを誇りとしました。

 そんな厳しい教育の甲斐あってか、松陰はわずか8歳で藩校・明倫館の教授見習いとなり、10歳で藩主・毛利敬親の御前で講義をしたそうです。これは当然、異例のことであり、松陰がいかに秀才であったかがわかりますね。その後も敬親は、たびたび松陰の成長を見るため講義させ、藩ぐるみで松陰を育てます。まさに、将来を嘱望されたエリートだったわけですが、その後も藩はこの秀才に甘く、その甘さが、結果的に松陰の生涯を短くさせたといえるかもしれません。その話は、また追々。

 ドラマの始まりは嘉永3年(1850年)の設定で、松陰21歳。文の生年は諸説あるようですが、6歳から8歳あたりだったと思われます。ドラマの子役の子は、ちょっとお姉さんでしたね。この年、松陰は人生初の藩外遊学を許され、九州を訪れています。この九州遊学で、生涯の友となる宮部鼎蔵と知り合うのですが、ドラマに出てきた「禁書」を読んだことも、この遊学中の日記に記されているそうです。「本は人」と、松蔭が言っていましたが、まさしく、新聞もテレビもネットもないこの時代の人にとって、本はかけがえのない情報源、人との出会いの場だったのでしょうね。

 南方仁・・・じゃなかった、小田村伊之助については、また別の機会にふれることにします。


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by sakanoueno-kumo | 2015-01-08 00:40 | 花燃ゆ | Trackback(2) | Comments(4)