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大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

郡山城天守台は、石垣の倒壊の恐れがあるとして、現在は立ち入り禁止となっています。

そこで、「中仕切門」から「新宅郭跡」に入り、内堀沿いに天守台を見てみます。

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天守台です。

石垣は典型的な「野面積み」で、出隅だけのちに補強された跡が見えます。

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郡山城の天守閣が築かれたのは天正11年(1583年)、豊臣秀長が大規模工事を行う前の筒井順慶のときだったそうですから、野面積みが主流だった時代ですね。

伝承では、かつてここに五層六階の天守閣があったと伝えられますが、現在の建築学上から考えて、現存する天守台では不可能とされており、その真偽は定かではありません。

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ここ郡山城は、大坂夏の陣の火蓋が切られた場所でもあります。

豊臣秀吉の死後、豊臣五奉行の一人である増田長盛が城主となりますが、長盛は関が原の戦い西軍に与したため、高野山に追放され、その後、徳川家康のはからいで、もともとの城主だった筒井氏の一族・筒井定慶1万石を与えられ、郡山城に入城しました。

大阪冬の陣が終結し、大坂城の内堀が埋め立てられ、もはや決戦やむなしとの局面を迎えると、豊臣方は郡山城を守る筒井氏に使者を送り、「豊臣家が勝利した暁には、定慶に大和を、弟の慶之には伊賀を与える」との条件で協力を要請します。

しかし、定慶は長らく途絶えていた名跡を復活させてもらった徳川家康に対する恩義を捨てきれず、申し出を断ります。
これを受けた豊臣方は、慶長20年(1615年)4月26日、2000の兵で大和に進軍してきますが、戦なれしていない定慶は、豊臣軍を3万の軍勢と見誤り、早々に城を捨てて奈良方面に落ち延びてしまいます。

その後、豊臣軍は奈良方面に進軍するかまえを見せますが、徳川軍の水野勝成隊が奈良方面に進軍しているとの報を受けると、大坂城に引き上げます。

水野勝成は戦後、その功により郡山城主となります。

一方、城を捨てて逃げた筒井定慶は、大坂城が落城してから3日後の5月10日、弟と共に切腹して果てたと伝えられます。

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天守台の裏手にが見えますが、この祠は、石垣築造の際の石不足を補うため、付近から石地蔵などをかき集めて徴用しており(この当時の築城ではよく行われていたことですが)、それらの地蔵を祀ったものだそうです。

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残念ながら立ち入り禁止で観ることはできませんでしたが、石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは「逆さ地蔵」と呼ばれているそうです。(参照:Google画像検索

かつては、この逆さ地蔵の祟りで天守が倒壊した、なんて俗説もあったそうです。

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天守台石垣は、平成25年10月から29年3月まで3年半かけて修復工事を行うそうです。

当分の間は立ち入り禁止のようですね。

でも、石垣保存のためには、必要な期間だと思います。

同じく野面積みの石垣で昨今人気の兵庫県朝来市にある竹田城は、急激な観光客の増加で踏み荒らされたため、地面の草が枯れ、雨水がたまった土が膨張し、石垣が崩壊の危機にあるといいますが、観光客を確保したい朝来市は立ち入り禁止などの策を施さないばかりか、あろうことか、観光客の通路確保のため、国指定の史跡にも関わらず国の許可なしで勝手に朝来市が史跡に手をいれて工事をすすめ、大問題になっていましたね。

観光誘致史跡の保存管理相反するところにありますが、やはり、優先すべきは史跡の保存管理で、その点、朝来市と違ってさすがに奈良や京都は、史跡保存に対する意識が成熟していますね。

次回に続きます。



大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-13 00:52 | 奈良の史跡・観光 | Comments(4)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

福山城から東へ10分ほど歩いたところに、福山藩初代主・水野勝成をはじめとする水野家の墓所があります。


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公道沿いに誰でも気軽に入れるような墓所公園となっていて、厳かな雰囲気ではありません。


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見上げると、交通標識でも案内されています。


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入口はこんな感じ。

「福山開祖水野勝成公墓地」と刻まれた石碑が建っています。


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そして、これが勝成の墓。

墓石の五輪塔は、高さ5.1mの巨大なものです。


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勝成は永禄7年(1564年)三河国刈谷城主・水野忠重の嫡男として生まれます(他の説では刈谷岡崎生まれとも鷲塚生まれとも)。

16歳のときに遠江高天神城攻めで初陣を果たすと、武田勝頼を攻撃した天目山の戦い小牧・長久手の戦いなどに出陣して着々と戦功をあげますが、20歳のときに父との不和がもとで出奔し、その後、諸国を歴遊。

天正13年(1585年)に豊臣秀吉に仕えて以後、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田長政など、名だたる武将に仕えました。


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慶長5年(1600年)に父・忠重が死去すると、徳川家康の命により刈谷三万石を継ぎ、関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、大和口の先鋒として功をあげ(参照:大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~)、戦後、大和郡山6万石の領主となります。


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そして元和5年(1619年)に福島正則の改易に伴い、備後10万石の福山藩初代藩主となりました。

その後、勝成はこの地で、88歳の長寿を全うします。


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こちらは、父・忠重の墓です。

息子と喧嘩別れした親父でしたが、墓は出世した息子の領地にあるんですね。


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こちらは3代藩主・水野勝貞の墓。

これも、立派な五輪塔です。


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こちらは4代藩主・水野勝種の墓。

2代、5代、6代藩主の墓は、ここにはありませんでした。

福山藩水野家は6代で終わり、以後、阿部氏が10代藩主を務めます。


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ここには、ほかにも一族・家臣の墓が葬られていました。


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場所は変わって福山城の北にある福山八幡宮のなかに、聡敏神社という小さな社があるのですが、ここは水野勝成を祀った神社です。


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社殿には、勝成の絵馬が奉納されています。


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水野家の家紋
ですね。


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400年後の福山のまちにも、藩祖・水野勝成の足跡は各所に残されていました。

以上で「福山城のまち逍遥記」を終わります。

この日は昼前から夕方まで、実に25,000歩も歩きました。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-06 16:03 | 広島の史跡・観光 | Comments(4)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

本丸を降りて二の丸を歩きます。

福山城の二の丸は本丸を囲む帯曲輪で、北面以外は幅が狭く、櫓以外に目立った施設は建てられていなかったそうです。

まずは南側から。

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いまは桜並木になっています。

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上の写真は二の丸南から見上げた伏見櫓です。

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こちらは二の丸南から見上げた月見櫓です。

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二の丸東には、備後福山藩初代藩主・水野勝成の銅像があります。

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猛将として名高い勝成ですが、銅像は知的で上品なお殿様といった感じです。

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銅像の横には、ご覧のとおり天守東面がそびえています。

ここ、絶好の撮影スポットです。

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青空だったらいい写真になったでしょうけどね。

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少し北に進んで、二の丸北東から天守を撮影。

ここも結構、いいポイントかな。

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二の丸北側にやってきました。

上の写真は真北から見た天守です。

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二の丸北側だけは広い敷地になっていて、かつては城米蔵などが建て並んでいたそうです。

現在はテニスコートがあり、その東には昭和初期に建てられた福寿会館という建物があります。

上の写真は、そこの庭園から見た天守です。

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そして二の丸西面に足を運ぶと、阿部正弘の銅像がありました。

備後福山藩の藩主は水野家、松平家、阿部家へと引き継がれますが、最後の阿部家は廃藩置県まで10代に渡って161年間在封し、この間、幕府老中を4人、大坂城代を1人輩出しました。

とくに7代藩主・阿部正弘はわずが25歳の若さで老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任したキレ者です。

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阿部正弘は、肖像画などを見てもダンディーなイケメンですからね。

正弘は39歳の若さで急死してしまいますが、もし正弘が生きていれば、井伊直弼大老就任もなかったかもしれませんし、そうなれば、安政の大獄もなかったでしょうから、幕末の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

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もっとも、正弘はほとんど江戸城にいたでしょうから、ここ福山城で藩政に従事することは少なかったでしょうけどね。

次回に続きます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-20 21:27 | 広島の史跡・観光 | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

福山城天守は昭和20年(1945年)8月8日の福山大空襲で消失し、現在の建物は昭和41年(1966年)に月見櫓、御湯殿と共に復興された鉄筋コンクリート製のものです。

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8月8日といえば、同じ広島県内に原爆が投下された2日後、終戦の1周間前ですね。

広島市内では、原爆により8月6日に広島城が大破しています。

戦争は多くの人の命を奪いましたが、同時に、わが国の歴史的遺産も奪いました。

終戦の決断がもう少し早ければ、救われた命も、そして失わずにすんだ文化遺産もたくさんあったでしょうね。

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福島正則の改易によって元和5年(1619年)に入封した水野勝成が、3年の歳月をかけて築城した福山城天守は、5重5階地下1階層塔型の天守でした。

現在の復元城とは、外観はかなり違うようで、「復元」ではなく「復興」に分類されているそうです。

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明治維新による廃城後、城はそのまま放置され、天守の傷みは甚だしかったそうですが、その歴史的価値が認められた明治30年(1897年)から修理が行われ、昭和6年(1931年)には、姫路城松本城と同時に国宝に指定されたそうです。

重ね重ね残念ですね。

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この日は本丸広場でイベントが開催されていて、写真を撮るには目障りなテントやらステージやらがあって残念でした。

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天守のなかは博物館になっていて、撮影禁止です。

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ただ、せっかくなので、天守最上階からの眺望をアップします。

写真は天守南側の本丸広場で、奥の芝生部分が前稿で紹介した伏見御殿跡、その左の櫓は月見櫓、中央が御湯殿、右側に少し見えるのが筋鉄御門で、その横に伏見櫓があるのですが、木に隠れちゃってます。

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曇り空でなければ、いい眺めだったのでしょうけどね。

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扉の家紋です。

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さて、本丸と天守を制覇したので、次回は二の丸をめぐります。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-15 13:14 | 広島の史跡・観光 | Comments(0)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

過日、広島県は福山市にある福山城に行ってきました。

福山城は山陽新幹線福山駅のすぐ北側にあり、城跡周辺は「ふくやま文化ゾーン」として観光地化されています。


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この日はあいにくの曇り空だったのですが、なんとか雨に降られず一日中城跡周辺を歩きました。

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現在、城跡公園として整備されているのは、かつて内堀のなかだったところです。

南面の階段を登ると、すぐに本丸南側につながります。

なので、今回は先に本丸から攻めていきます。

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本丸南側にある筋鉄御門(重要文化財)です。

この門をくぐると、本丸広場になります。

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本丸南側には、かつて伏見御殿がありました。

なぜ「伏見御殿」という名称かというと、元和5年(1619年)に廃城となった京都の伏見城から多くの移設されており、それにあやかって「伏見御殿」と名付けられたそうです。

ちなみに、先述した筋鉄御門も、伏見城から移設されたものです。

他には、

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本丸南東角の月見櫓

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本丸南中央の御湯殿

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本丸南西角の伏見櫓などが、同じく伏見城から移設されました。

このうち、月見櫓と御湯殿は空襲で焼けたため復元ですが、伏見櫓と筋鉄御門は当時のもので、重要文化財に指定されています。

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その伏見御殿跡から北を見ると、天守がそびえます。

この日は本丸広場でイベントが開催されていて、テントやらステージやらが設置されていて残念でしたが。

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福山城は、元和5年(1619年)に福島正則が改易され、備後10万石の領主として入封した水野勝成が、3年の歳月をかけて築城した平山城です。

次稿では、その天守を攻めます。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

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by sakanoueno-kumo | 2016-04-14 00:37 | 広島の史跡・観光 | Comments(4)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~

大坂夏の陣の戦いの火蓋が切られたのは、ここ奈良県大和郡山市にある大和郡山城でした。
かつてこの城は、織田信長の援助を得て大和国守護職となった筒井順慶の居城でしたが、やがて豊臣の時代になると、筒井氏は伊賀上野城に転封となり、代わりに豊臣秀長が入城しました。
今に残る大和郡山城の遺構は、筒井順慶や豊臣秀長によって築かれたものです。

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やがて秀長が死去すると、豊臣五奉行の一人である増田長盛が城主となりますが、長盛は関が原の戦い西軍に与したため、高野山に追放されます。

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その後、徳川家康のはからいで、もともとの城主だった筒井氏の一族・筒井定慶が1万石を与えられ、大和郡山城に入城しました。

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大阪冬の陣が終結し、大坂城の内堀が埋め立てられ、もはや決戦やむなしとの局面を迎えると、豊臣方は大和郡山城を守る筒井氏に使者を送り、「豊臣家が勝利した暁には、定慶に大和を、弟の慶之には伊賀を与える」との条件で協力を要請します。
しかし、定慶は長らく途絶えていた名跡を復活させてもらった徳川家康に対する恩義を捨てきれず、申し出を断ります。

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これを受けた豊臣方は、慶長20年(1615年)4月26日、大野治房を大将に、箸尾高春細川兵助など2000の兵で生駒山の暗峠を越え、大和に進軍してきます。
迎え撃つ筒井軍は、浪人衆、農民衆を集めた1000人ほどでしたが、戦なれしていない定慶は、豊臣軍を3万の軍勢と見誤ります。
これではとても応戦できないと考えた定慶は、早々に城を捨てて奈良方面に落ち延びてしまいます。
その後、わずかな残兵が応戦しますが、衆寡敵せず
ほどなく大和郡山城は落城し、城下町も焼き討ちされます。

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その後、豊臣軍は奈良方面に進軍するかまえを見せますが、徳川軍の水野勝成隊が奈良方面に進軍しているとの報を受けると、大坂城に引き上げます。
水野勝成は戦後、その功により、大和郡山城主となります。
一方、城を捨てて逃げた筒井定慶は、大坂城が落城してから3日後の5月10日、弟と共に切腹して果てたと伝えられす。

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大和郡山城には初めて来たのですが、石垣など実に綺麗に残っていて、素晴らしい遺構の数々でした。
本稿は大坂の陣が主題なので、また別の機会に城跡をレポートしてみたいと思います。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-07 19:52 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)