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後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その3 「蛇塚~又兵衛田」

「その1」で紹介した周辺の後藤又兵衛史跡マップに「蛇塚」なるスポットが載せられていたので、足を運んでみました。


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これがその「蛇塚」です。

なにやら古墳跡のようにも見えますが、これが又兵衛ゆかりの史跡なんだとか。

以下、説明板の文章をそのまま引用します。


むかし、南山田の池田という所におった大蛇が田畑を荒らし回り、村人を苦しめていた。近くの城山に城があって、そこに後藤又兵衛が住んでいた。その近くの射場という所で弓の稽古をしていた又兵衛は、「拙者が退治をしてやろう」と言ったそうだ。

 やがて池田に大蛇が出た。又兵衛が、射場から弓を射ると見事に大蛇に命中して退治してくれた。しかし、大蛇は余りに大きかったので、頭の方を寺垣内に埋め、胴体を四畑に、尻尾は奥の谷へ埋めた。それでこの辺りを蛇塚というそうな。 (口伝により)


つまり、又兵衛が大蛇退治し、ここに埋めたんだそうです(頭か胴体か尻尾かはわかりませんが)。

ただ、又兵衛がこの地に住んでいたのは少年時代だったはずですから、にわかに信じがたい話ではありますけどね。

ていうか、そもそも大蛇自体が伝説ですけど。


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もう1ヶ所、又兵衛ゆかりの史跡を紹介。

南山田城跡の北側は、現在、田園地帯になっているのですが、その1角に、「又兵衛田」と呼ばれる田んぼがあります。


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以下、説明板の文をそのまま引用します。


「又兵衛田」

1611年(慶長16年)以降、姫路城の城主・池田輝政の配慮で後藤又兵衛の扶持米を作ったとされる田で、「又兵衛田」と言い伝えられてきた。

黒田家を出奔後の後藤又兵衛の命をつないできた貴重な田である。


晩年の又兵衛が、一時、播磨に戻ってきたとは知っていましたが、この地に戻ってきてたの?


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黒田官兵衛の元で武功を重ね、一時は大隈1万6千石もの大封を与えられていた又兵衛でしたが、新しい主君の黒田長政とそりが合わず、慶長11年(1606年)に黒田家を出奔してしまいまず。

それでも、又兵衛の武勇は天下に轟いており、細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康など名立たる大名から誘いがかかりますが、長政がしいた「奉公構」によって実現しませんでした。

「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことで、豊臣政権によって始まった制度でした。

その後、又兵衛は京に流れて浪人生活となり、そして、慶長19年(1614年)に大坂と幕府の関係に暗雲が立ち込めると、大野治長の招きで大坂城に入ります。

そして、翌年の5月6日、道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦壮絶な死を遂げるんですね。

大坂の陣では真田信繁(幸村)と並び称される英雄の又兵衛ですが、大坂城の浪人衆からは、又兵衛が最も慕われていたといいます。

あのまま自分を押し殺して長政に従っていれば、大隈1万6千石で穏やかな余生を迎えていたことでしょう。

でも、後世にはそれほど名を知られていなかったでしょうね。

又兵衛にとってどちらが幸せだったかはわかりませんが、自身の生き方を貫いた又兵衛の生き様に、後世のわたしたちは魅せられるのでしょう。


又兵衛関連の史跡は、大坂の陣シリーズでも紹介しています。

よければ一読ください。

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by sakanoueno-kumo | 2016-10-21 18:34 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

さて、この日は朝9時から夕方5時すぎまで、みっちり姫路城とその周辺を歩き廻ったのですが、最後に、どの稿でも紹介しきれなかった姫路城の眺望も含めて、もう一度姫路城天守いろんな角度から望みたいと思います。

まずは、大手門から。


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続いて、大手門を入った南側三の丸広場から。


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三国堀から。


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二の丸広場から。

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本丸広場(備前丸)から。


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西の丸から。

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東側の喜斎門跡から。

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北側シロトピア公園から。

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男山配水公園から。

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だいぶ夕方になってきました。
南東の城見公園から。

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千姫ぼたん園から。

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そして最後は、南側イーグレひめじからです。

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どの角度から見ても、素晴らしいですね。

この美しい城を築城した池田輝政公と、その後、城の保存に従事してきたすべての関係者に感謝です。

以上で姫路城めぐりのシリーズを終わりますが、姫路はわがまち神戸から車で30分ほどの距離ですから、今回めぐりきれなかった中堀外堀なども、いつかまたレポートしたいと思います。




白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-05 00:35 | 姫路城めぐり | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~

男山・千姫天満宮の近くに、不動院という高野山真言宗のお寺があるのですが、かつてここに、現在に残る姫路城を築城した池田輝政の菩提寺があったと伝わります。

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不動院の創建は神亀5年(728年)、徳道上人によって開かれたのが始まりとされます。

徳道上人は奈良にある長谷寺を開いた人物で、当地にも同規模の寺院を開山させ長谷寺と称させたそうです。

当時は姫山の麓にありましたが、元亀3年(1572年)に姫路城の城代・黒田職隆黒田官兵衛の父親)が城を拡張した際、播磨国総社(射楯兵主神社)の境内に移され寺号を不動院に改称したそうです。


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天正9年(1581年)、羽柴秀吉が姫路城をさらに拡張すると、先に播磨国総社が現在地に遷され、万治3年(1660年)に不動院がその付近に移りました。

明治時代初頭に発令された神仏分離令により寺院として独立し、明治3年(1870年)に現在地である長徳寺境内に移転。

明治10年(1877年)に長徳寺が廃寺になると、不動院単独の境内地となりましたが、長徳寺の以前は、姫路藩主・池田家菩提寺国清寺(龍峯寺)があった跡地で、池田輝政、池田利隆はこの地に埋葬されたそうです(その後、池田家が転封すると改葬)。


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現在は、不動院境内に石碑が建てられているだけです。


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姫路城を築城した池田輝政は、同築城以前には、伏見城普請大和多内城普請を務め、姫路城以後も、高砂城、篠山城、江戸城、名古屋城などの普請に従事しており、とくに篠山城普請では総普請奉行を務めるほどの城づくり名人とされていますが、400年後の未来にその姫路城が世界遺産となり、世界各国から見物客が絶えない名所となろうとは、思いもしなかったでしょうね。

次回、シリーズ最終回。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-03 23:16 | 姫路城めぐり | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~

本稿では姫路城をめぐってみたいと思います。

今回の堀めぐりは、観光客用の和船に乗って水上からの散策です。↓↓↓

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しかも船頭の観光ガイド付

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乗船客は皆、唐笠を被って雰囲気を味わいます。

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現存する姫路城の堀は、実は内堀なんですね。

ここ重要です。

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上の写真はWikipediaからお借りしたものですが、現存する堀は赤のライン

緑のライン中堀で、青のライン外堀はJR姫路駅まで達していることがわかります。

これは、「惣構」と呼ばれる縄張りで、内曲輪は天守・櫓・御殿など城の中枢、中曲輪は武家屋敷などの武家地、外曲輪は町人地や寺町などの城下町が置かれるという、城郭都市が構成されていました。

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日本で最も大きな縄張りを持つ城は現在皇居となっている江戸城ですが、2番目に大きな縄張りが、この姫路城だそうです。

江戸城は将軍家の居城ですから、実質、一大名の城としては最大だったということですね。

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堀のかたちについてですが、ほとんどのお城の堀はドーナツ状になっていますが、ここ姫路城と江戸城だけは、「の」の字のかたちになっているのが特徴です。

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西側の堀を進む船から見上げた、西の丸の隅櫓です。

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石垣を眺めながら、姫路城うんちくをもう少し。

姫路城は、歴代城主が日本で最も多い城としても知られています。

現存する大天守を築いたのは池田輝政ですが、姫路城の歴史は貞和2年(1346年)に赤松貞範が築城したことにはじまり、以後、小寺氏、山名氏、八代氏、黒田氏、羽柴氏、木下氏、池田氏、本多氏、松平(奥平)氏、松平(越前)氏、榊原氏、そして最後の酒井氏と遷り変り、その人数は49人に及びます。

いわゆる“HMJ49”ですね(笑)。

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また、このたびの大修理後に入城料が1000円となり、これは、沖縄県の首里城の800円を抜いて日本で一番入城料の高い城となりました。

さすがは世界遺産、なんでも日本一です。

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水面から見た大手門、また違ったロケーションですね。

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大手門に架かる桜門橋をくぐります。

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立ち上がると頭を打つほど、すれすれです。

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三の丸東側に架かる赤い橋天守です。

これ、和船からしか見られない眺望です。

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約20分間で1000円。

高いか安いかは、その人次第でしょうか。

次回につづきます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-25 03:45 | 姫路城めぐり | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~

前稿では各所の「門」を見ていきましたが、本稿では、それらの門と門のあいだの各所を巡ります。

まずは、「菱の門」をくぐったところにある三国堀から見た天守です。

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白い天守が青空に映えて美しいですね。

拡大します。

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つづいて、「ぬの門」「りの門」の間にある、二の丸広場から見上げた天守です。

天守の真南にあたります。

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拡大です。

正面の石垣の上が本丸になります。

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二の丸には、『播州皿屋敷』で有名な「お菊井戸」があります。

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永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職の執権・青山鉄山は、町坪弾四郎と語らい、城を奪おうと企てていました。

則職の忠臣・衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探らせました。

則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。

お菊の動きを知った弾四郎は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。

元信を慕うお菊はそれを拒みました。

弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの皿の1枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました。

それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺されて井戸に投げ込まれました。

その後、毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚、・・・9枚」と、9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。

やがて元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「於菊大明神」として十二所神社内に祀られました。

(現地説明看板より引用)

有名な怪談話ですが、この話、関東では『番町皿屋敷』というそうですね。

その他、似たような話が全国各地に存在するとか。

時代背景や登場人物はそれぞれ違いますが、主役のお菊さんと「1枚、2枚・・・」のくだりは共通しているそうです。

オリジナルはどこの話か、あるいはどれも作り話か、真偽は定かではありません。

きっと、お菊さんの現代版が「貞子」なんでしょうね。

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そして本丸です。

天守がドーンと正面にそびえて、ド迫力です。

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真下から見上げます。

ここ本丸広場は別名「備前丸」ともいい、もともと池田輝政の御殿がありましたが、本多忠政が城主になると、御殿は三の丸に移されたといいます。

この日も、多くの人がここで記念撮影をしていました。

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まだまだ姫路城の見どころはたくさんあります。
次回に続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-05 10:29 | 姫路城めぐり | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~

姫路城には、いろは順に名づけられた15ヵ所、その他の門が69ヵ所、あわせて84の防御門あったそうですが、 そのうち21門が現存しています。

本稿では、それらの門(すべてではありませんが)を見ながら歩いてみます。

まずは、「大手門」

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大手門とはいうまでもなく正面玄関のことですが、実はこの大手門は昭和13年(1938年)に建てられたものだそうで、江戸時代のそれとは位置も大きさもまったく異なるそうです。

というのも、現在の姫路城の敷地は、江戸時代でいえば内堀内の内曲輪で、本来の大手門は、もっとずっとずっと外側にあったんですね。

本来の姫路城の縄張りは、めちゃめちゃバカでかいですから。

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上の写真は三の丸広場の北西登城口にある「菱の門」です。

表玄関にふさわしく格式高い櫓門で、伏見城から移築されたという説もあります。

火灯窓(かとうまど)が特徴的ですね。

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「いの門」です。↑↑↑

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「ろの門」です。↑↑↑

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「はの門」に向かう石段。

この坂道は「将軍坂」と呼ばれていて、時代劇などでもよく出てくるロケーションです。

今年の新春時代劇『信長萌ゆ』でも、この将軍坂の向こうにCGの安土城を合成していました。

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「はの門」です。↑↑↑

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「にの門」↑↑↑

天井が低く登りながら曲がっていて、集団では進めないように設計されています。

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「ほの門」↑↑↑

ひとりずつしか入れないほど狭い門です。

ここをくぐると、天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっています。

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その天守群の周りにある「水の一門」です。↑↑↑

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「水の二門」です。↑↑↑


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このあたりはすべて天守の周りですから、導線が狭い上に、上の石落としから石が降ってきます。

よく考えられていますね。

このあと水の門は六門まで続くのですが、狭くて人が多くて、上手く撮影できませんでした。


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隠れた場所にある「るの門」です。↑↑↑

ここは伏兵の出入りを想定した出入り口だとか。

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三国堀から二の丸に登る「ぬの門」です。↑↑↑

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二の丸から本丸に登る「りの門」↑↑↑

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そして最期に、本丸東側の入口「備前門」です。↑↑↑

ざっと主だった門を紹介しました。

それぞれに特徴があり、役割があります。

すべてが池田輝政の築城時からあった門ではないでしょうが、よく考えられていますね。

もっとも、慶長14年(1609年)に完成した姫路城が、その後合戦の舞台になることはありませんでしたが・・・。

だから、美しいまま現存して世界遺産になったんですけどね。

次回に続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-01-28 21:57 | 姫路城めぐり | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~

昨年春に5年間の大天守改修工事を終えて一般公開された姫路城に、昨秋10月、ようやく行ってきました。

写真は天守南側の三の丸広場から。


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本当はもっと早く訪れたかったのですが、春先は連日2~3時間待ちとの報道でしたから、ちょっとほとぼりが冷めてから行こうと様子を見ていたところ、夏になっても状況はあまり変わらず、しびれを切らして朝早くから強行したのが10月17日。

この日も、朝9時のオープンに合わせて訪れたのですが、すでに天守への登城は40分待ちでした。

まあ、9月末のシルバーウイークなんて、とんでもないことになっていたみたいですから、まだましかなぁと・・・。


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テレビの報道などで既に何度も目にしていましたが、実際に訪れてみて、やはりこの白さに目を奪われます。

姫路城の美しさの象徴でもある白漆喰壁の天守は、白い鷺が舞い立つように見えることから、別名「白鷺城」と呼ばれています。

この度の改修工事で屋根までもが白くなりましたから、まさに白鷺の姿となりました。

これは、瓦の継ぎ目に屋根目地漆喰を一面に塗ったせいで、角度によって屋根全体が白く見えるようになったそうです。


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ただ、この白さが保たれるのも長くて2年だそうですね。

漆喰の弱点はカビに弱いそうで、梅雨などの湿気の多い季節をすぎると、カビで黒ずんでくるんだそうです。

わたしが訪れたときも、既にオープンからひと夏を越してましたから、春先よりは若干白さが失われはじめていたかもしれません。

白い姫路城を見たい人は、早めに行ったほうがいいですよ。


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写真は三の丸広場です。

かつてこの三の丸には、御殿屋敷が立ち並んでいましたが、いまは芝生広場として、市民憩いの空間となっています。


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ご存知のとおり、国宝である姫路城は、平成5年(1993年)に奈良の法隆寺とともに、わが国最初の世界遺産に登録されました。

その理由はいくつかありますが、池田輝政によって現在の5重7階の天守が建てられてから400余年、改修工事を繰り返しながらも一度も建て替えられていないことがあげられます。

日本の現存天守12城(復元天守ではない城)のなかでは、最も大きく優れた木造建造物だという評価だそうです。

兵庫県民の誇りですね。


次回に続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-01-27 19:58 | 姫路城めぐり | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その27 ~高砂城跡(高砂神社)~

続いて訪れたのは、加古川市の西隣の高砂市にある高砂城跡
現在、高砂城跡は高砂神社となっています。

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高砂城の正確な起源は不明ですが、『高砂市史・高砂町市史』によると、梶原氏が治める城として天文7年(1538年)に登場しています。
その後、高砂城が「海城」として改めて歴史上の記録に登場するのが三木合戦のときだそうで、三木城主・別所長治の傘下だった当時の高砂城主・梶原平三郎衛景秀は、最後まで三木城への兵糧の供給基地として、播磨灘の海上を押さえていました。
そこで、羽柴秀吉はこの高砂からの兵糧の道を絶とうと高砂城攻めを開始し、1000の軍勢で攻め込みますが、景秀は300余りの兵で、一時は秀吉軍を撃ち破ったといいます。
しかし、結局は多勢に無勢、大軍の前にあえなく落城してしまいます。

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時は流れ、関が原の合戦後に池田輝政が播磨に入り、姫路城を築きましたが、そのとき同時に播磨の海の守りを固めるために高砂城も築きます。
そして中村主殿助正勝が城主となり、大規模な構えの城を形成させ、高砂は城下町として生まれ変わりました。

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立葵の紋を持つ山門をくぐると、左手に「池田輝政公高砂城趾」の石碑が建てられています。
で、その先に銅像が・・・。

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このロケーションからいえば、銅像は池田輝政のものと思いますよね。
ところがところが、そばにあった説明板を見てみると、銅像の主は工楽松右衛門という18世紀の人物で、帆布を発明した人なんだとか。
これって、絶対勘違いしますよね。

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ここ高砂神社は、かなり昔からこの地にあった由緒ある神社ですが、輝政が築城する際、当社を西北の松林に遷座したそうです。
しかし、元和元年(1615年)に出された『一国一城令』により高砂城が廃城となると、寛永2年(1625年)、ときの姫路藩主だった本多忠政が、当社をこの地に戻したんだそうです。

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「高砂」の地名は、あの「たかさごや〜」の高砂ですね。
境内にある「相生の松」は、能の舞台に描かれている松だそうです。

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霊松殿という建物の中には、本多忠政が植えたという三代目相生の松の幹が神木として保存されています。

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二代目相生の松は、三木合戦のときに焼けてしまったそうです。
現在の相生の松は五代目だそうです。

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それ以外にも、かなりの樹齢であろう巨樹がたくさん目につきます。

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ただ、この高砂神社の場所にあった高砂城は輝政の建てた近世高砂城であり、三木合戦のときの高砂城が同じ場所にあったかどうかは定かではないようです。

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神社境内の隅にが無造作に積み上げられていた石材を、何の気なしに撮影してきたのですが、あとからネットで調べてみると、この中に矢穴を持つものが含まれていたそうです。
ちゃんと見れば良かった・・・。

そろそろ飽きてきた観がありますが、もう少しお付き合いください。



「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
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三木合戦ゆかりの地

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by sakanoueno-kumo | 2015-06-26 18:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1

先日、発掘調査中の兵庫城跡の一般公開に行ってきました。

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これまで兵庫城は、おおまかな位置は想定されていましたが、古文書などの史料が残っていなかったため、詳しいことはわかっていませんでした。
この地は神戸中央卸売市場の跡地で、2009年に老朽化のため市場が移転したあと、神戸市から土地を買い受けたイオンモールが建設される予定でした(2012年には、一時的に大河ドラマの広報事業で、平清盛歴史館が建てられていた場所です)。
イオンモールの建設に入った2012年、同地から石垣の一部が見つかったため、イオンモールの協力もあって工事を延期し、発掘調査にあたってきたそうです。
その調査もこの2月で終わりだそうで、今回が最後の一般公開だと聞き、寒空のなか寸暇を惜しんで行ってきました。

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上の画像がグーグルアースの画像で、下の画像が元禄時代に描かれた『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』、そのクリーム色で塗られた部分が、今回の発掘現場です。
今では、兵庫新川運河で半分以上が水没してしまっていることがわかります。

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今回の調査で、かなり詳細に遺構が浮かび上がり、築城当初の構造まではっきりしたそうです。

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兵庫城は、天正9年(1581年)に織田信長の家臣だった池田恒興によって築城されます。
恒興は、以前の当ブログでも紹介しましたが(参照:荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~)、信長に対して謀反を起こした荒木村重の籠もる花隈城を攻め落とし、その功により信長から兵庫の地を与えられますが、一部焼け落ちてしまった花隈城には入城せず、取り壊して兵庫城を築きます。
その際には、花熊城を解体した石材を使用したとの記録があります。

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写真は外堀内側の石垣です。
調査によると、内側の石垣は築城当初のもので、外側の石垣は、江戸時代に造られたものだとわかったそうです。
この石垣の中には、おそらく花隈城から移設された残材が含まれているのでしょう。

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こちらは外堀外側の石垣。
よく見ると、お地蔵さんの石が削られて使用されています。

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こちらを見ると、どう見ても天然石とは思えない四角い石があります。
これは、五輪塔の一部だそうで、つまり、墓石だそうです。

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外堀の幅は最も大きな所で18.5mあり、戦国時代の実戦的な城だったことがわかります。
兵庫城は、わずか1年半で建てられたといいますから、相当な突貫工事だったでしょうね。
恒興の次男で、のちに姫路城を今の規模に修築した池田輝政が、この築城にたずさわっています。
のちに城造り名人といわれる輝政ですが、このときは若干16才、おそらく彼の最初の作品が兵庫城だったのではないでしょうか。

長くなったので、明日に続きます。

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-04 22:21 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)