タグ:浅井長政 ( 3 ) タグの人気記事

 

太平記を歩く。 その42 「勝楽寺城跡」 滋賀県犬上郡甲良町

前稿で紹介した勝楽寺の裏山に、勝楽寺城跡があります。

勝楽寺は「婆娑羅大名」異名で知られた佐々木道誉が、雲海和尚を請じて開山したものと伝わり、道誉の菩提寺となっています。

道誉は晩年この地に隠棲し、応安6年(1373年)に78歳で生涯を閉じました。

勝楽寺城は、道誉が館と領地を守護するために、応安元年(1368年)に家臣の高筑豊後守に命じて築城したものといわれています。


e0158128_19160132.jpg

登山道入口です。

この日は先日の4月16日、桜が満開から少し散り始めといった時期でした。


e0158128_19175154.jpg

登山道案内です。

所要時間は往復1時間半から2時間とあります。


e0158128_19175481.jpg

防獣ネットを開けて入山します。


e0158128_19193722.jpg

登りはじめてすぐに、「仕置場」跡があります。


e0158128_19204353.jpg

仕置場とは、いわゆる処刑場です。

その霊を弔うための地蔵菩薩が何体もつくられていました。


e0158128_19230945.jpg

そこから少し登ったところに、「経塚」といわれる平坦な場所があります。


e0158128_19231430.jpg

説明看板によると、佐々木道誉の第三子・高秀が父の菩提をとむらうために、山頂に穴を掘り諸大名を始め近隣の人々を集めて大法要をいとなみ、そのとき、集った人達に法華経の経文を一字一石に書き、その穴に埋め後世に残して菩提をとむらったものだそうです。

その中央には、「大乗妙典」と刻まれていると書かれていますが・・・。


e0158128_19231776.jpg

いわれてみれば、たしかに。


e0158128_19264850.jpg

さらに山頂の城跡を目指します。


e0158128_19264004.jpg

しばらく登ると、小さな鳥居が見えてきました。


e0158128_19265156.jpg

ここは「狐塚」といわれるそうで、この塚は、狂言「釣狐」の発祥の地といわれているそうです。


e0158128_19265497.jpg

道誉とは関係ない話なので、あとは、説明板をお読みください(笑)。


e0158128_19313240.jpg

30分以上登り続けて、ようやく尾根にたどり着きました。

ここからが城跡のようです。

案内看板には「正楽寺城」とありますが、この山の麓にある道誉の菩提寺は「勝楽寺」ですが、その勝楽寺のある集落の地名が「正楽寺」といいます。

城名などは後世につけられたものでしょうから、どっちが正しいということもないのでしょう。


e0158128_19331833.jpg

主郭近くになると、石垣跡と思われる大きな石が見え始めます。


e0158128_19373118.jpg

そして本丸跡

標高317m、比高170mあります。


e0158128_19373730.jpg

それほど広い面積ではありません。


e0158128_19374302.jpg

説明板によると、この城はところどころに縦堀があり、全国的にめずらしい「うね状縦堀山城」の姿をしているそうです。

「うね状縦堀山城」とは、「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」とも書き、竪堀(縦堀)とは、斜面に縦に造られた堀のことをいいます。

ただ、わたしにはどれが竪堀なのか、よくわかりませんでした。


e0158128_19374812.jpg

本丸北側斜面の石垣跡です。


e0158128_19405562.jpg

本丸跡からさらに北へ進むと、見張り台跡があります。


e0158128_19410166.jpg

見張り台跡です。


e0158128_19410712.jpg

説明板によると、ここから佐々木六角の居城・観音寺城と、京極家との境界である愛知川以北が一望できるとありますが、いまは高い樹木に覆われて周囲を見渡すことはできません。

道誉の時代、江北の京極氏と江南の六角氏の国境は愛知川を境としていましたが、時代は下って戦国時代になると、六角氏の勢力が拡大して国境は北上し、勝楽寺城も六角氏の支配下におかれました。

その後、永禄3年(1560年)の野良田の戦い浅井長政六角義賢を破り、勝楽寺城は浅井氏の支配下におかれました。

しかし、その後、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛する織田信長によって落城し、麓の勝楽寺と共に炎上したとされます。


e0158128_19471387.jpg

城跡の尾根伝い南端には、「上臈落とし」いわれる場所があります。


e0158128_19472330.jpg

説明看板によると、何か悲しい伝説があるみたいですが、調べがつきませんでした。

ただ、その立地からみて、ここも南側の見張り台的役割を果たしていた曲輪跡なんじゃないかと想像します。


e0158128_19472963.jpg

上臈落としからの西(湖東平野)の眺望です。

前方に見える山は、荒神山城跡のある荒神山です。


e0158128_19473496.jpg

そして南西に目を移すと、樹木のあいだに六角氏の居城、観音寺城のある山が見えます。

絶好の見張り台です。


e0158128_19474014.jpg

最後に、下山して麓から勝楽寺城を撮影。

いかにも城跡らしい山の形状ですね。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-04-20 00:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第2話「父の仇」

 有名な金の髑髏のエピソード。織田信長史として一級史料と評される『信長公記』によれば、越前・朝倉家、近江・浅井家を滅ぼした信長は、討ち取った朝倉義景浅井久政浅井長政の髑髏を薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にし、天正2年(1574年)、自らが主催した正月の宴席において、白木の台に三つ首を御肴として据え置き、皆で謡い遊び酒宴を楽しんだとある。信長の残虐性異常性をうかがわせる狂気の沙汰として、多くの物語で描かれてきた逸話である。一説では、さらにこの髑髏でを作り、これに注いだ酒を家臣に強要した・・・という話もあるが、これについては上記『信長公記』にも記されておらず、出典がわからない。おそらく、後の世の作り話と見るほうが正しいようだ。まあ、金の髑髏を肴に宴を催すというだけでも、同席した家臣たちは腰を抜かすほど恐れおののいたことだろうが・・・。

 ドラマでの信長は、この髑髏を薄濃にした理由を「亡くなりし者への礼節」だという。
 「戦った相手を讃え、その前で酒を酌む。勝者敗者が生ずるのは必定だが、ともあれ戦は終わった。共に着飾り、相打ち解けて、新しき年を迎えようではないか、とな・・・。」
 つまり、死者に敬意を表した行いだったというわけだ。このような説があるのかどうか、ドラマを見た後ネットで調べてみたら、それに近い説があった。供養だというのである。鎌倉時代から伝わり南北朝時代に広がったとされる密教の一派に、立川流密教というものがあり、この宗派はチベット仏教の流れを受け、髑髏を本尊としていたという。これによれば、供養として髑髏に金箔・銀箔を貼る儀式があったらしい。そうして7年間供養すれば、その髑髏は成仏して、討った相手を祟らないと信じられていたようで、特に下克上で主人を殺した武将などが、陰でこっそり行っていたという。表立って公言はしないものの、多くの戦国武将たちが、首実検のあと、立川流密教の技法で討ち取った首を供養していたというのである。

 実際に信長は、浅井長政を高く評価していたともいわれており、小谷城落城のおり、何度も降伏勧告を行い、降伏後は新しく大和へ領地を与えるという、裏切り者を嫌う信長としては破格の案も出されたとか。神仏を否定する信長が、密教の技法を使って敵を供養したというのは少々考えづらいが、「亡くなりし者への礼節」という設定は、あながち否定は出来ないかもしれない。
 「わしが何かをやると、いちいちそうした悪評が立つのよ。」
 髑髏で作った杯のことを尋ねたお江に対して信長がいった台詞だが、そうした悪評を作ったのは、実はこの時代に生きる者たちではなく、信長を狂人としたい後世の者だったのかもしれない。

 天正7年(1579年)、安土城竣工と共に信長のもとを訪れた、お市の方と三人の娘。小谷城落城で浅井長政が死んだのが天正元年(1573年)だから、前話から7年後のことである。つまり、前話で生まれたての赤子だったお江は、満6歳ということである。お茶々が満10歳、お初が満9歳というわけだ。ドラマ中、信長が、森蘭丸・坊丸・力丸の父・森三左衛門可成が死んだ「宇佐山城の戦い」を9年前といっていたから、時代設定も間違ってはいない。つまり今話のお江は、今でいえば小学校1年生というわけだ。これはさすがに無理があった(笑)。精一杯無邪気な女の子を演じておられたが、舞台劇ならともかく、テレビドラマで大人の女優さんが幼女を演じるのは、やはり無理がありすぎただろう。今話はまだ、子役に演じさせたほうが良かったのではないかとも思うが、とはいえ、この3年後の「本能寺の変」のときで江は満9歳、さらにその1年後の「賤ヶ岳の戦い」のときでも満10歳ということを考えれば、子役からの変わりどきがないといえば、確かにそうである。お江という女性の物語である以上、幼少期を長く描かねばならず、その間ずっと子役というのも難しく、苦肉の設定だったのだろう。なるほど、だから幼いイメージのある上野樹里さんがお江の配役だったんだと、妙に納得した今話だった。

 上野さん、頑張ってください(笑)。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2011-01-18 22:48 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(4)  

江~姫たちの戦国~ 第1話「湖国の姫」

 舞台は戦国時代。ときの権力者たちに人生を翻弄され、波乱に満ちた人生を余儀なくされた女性たちの物語が始まった。主人公のお江(ごう)は、のちに徳川二代将軍・秀忠の正室となり、天下泰平の世を願って江戸城大奥の礎を築いていくことになるわけだが、その彼女の半生もまた、波乱に満ちた数奇な運命に左右されることとなる。その数奇な物語を見るには、まずは彼女の実母、お市の方の物語を知っておかねばならない。それが、今話のストーリーである。

 永祿10年(1567年)、織田信長の妹・お市は、近江の浅井長政に輿入れする。これにより、織田家と浅井家は同盟関係となる。織田家が浅井家との同盟を望んだ理由は、天下を視野にとらえた信長が、京に上るにあたって避けては通れない近江を支配する浅井家と敵対したくなかったことと、同じく浅井家と同盟関係にあった越前・朝倉義景を牽制するためでもあった。織田家と朝倉家は仇敵関係のような間柄だったという。その朝倉家と長く友好関係にあった浅井家と同盟を結ぶことで、朝倉家の織田家に対する態度を牽制し、また、いずれは起こるであろう同家との戦を有利に運ぶための布石でもあった。しかし、浅井家は織田家と同盟を結ぶにあたって、「浅井家に無断で朝倉家を攻撃しない。」という条件を出し、約束を交わした。その約束を、信長は破ったのである。長政が苦慮の末、義兄・信長に叛旗を翻し朝倉義景に加担したのも、無理からぬことだった。

 政略結婚として長政のもとに嫁いだお市だったが、二人の夫婦関係はまわりが羨むほど仲睦まじかったという。この場合、浅井家からみればお市の存在は同盟の証である人質であり、織田家側にすれば浅井家に送り込んだスパイとなるわけだが、長政はお市を浅井家の人間として大切にし、お市もそんな長政の妻であろうとした。その証拠に、本来、長政が信長を裏切り両家の友好関係が破断した段階で、人質であるお市は処刑、もしくは離縁となるはずだが、長政はなおもお市を妻として側においた。彼女がもしスパイなら、それは命取りとなる決断でもある。長政がお市を大切にしていたというエピソードは、このことから考えてもおそらく事実だっただろう。お市はといえば、長政が叛旗を翻した際、信長のもとに陣中見舞いとして両側を縛った袋入りの小豆を送り、もはや「袋のネズミ」であるということを伝えた・・・というエピソードが有名だが、この話は後世の作り話だという見方が正しいようで、彼女もまた、兄を敵にまわしてでも浅井家の人間であろうとした・・・と考えたい。

 結局、長政とお市の夫婦生活は6年間で終わった(これについては、お市の輿入れの年が諸説あるため明確ではない)。元亀元年(1570年)、姉川の戦いで朝倉・浅井軍ともに敗走。これにより浅井軍は、小谷城にたてこもることになる。その後、織田軍は一向一揆などに手を焼き、浅井軍にとっては束の間の休戦期間となるものの、天正元年(1573年)、一乗谷城の戦いで朝倉義景を切腹に追いやり南北朝時代から続く朝倉家を滅亡させた信長は、そのまま軍を長政らがたてこもる小谷城に集結させた。もはや長政には反撃する力はなかった。小谷城攻めを任されていた羽柴秀吉は、お市とその子供たちの助命を条件に再三降伏を勧めたが、長政はこれを頑なに拒否し続け、しかしお市と娘三人の命は救うべく、織田軍に引き渡した。お市は浅井家の人間として長政と運命を共にすることを懇願したが、長政に諌められ、三人の娘の、とりわけ乳飲み子であったお江の行く末を案じ、生き延びることを決意する。お市が信長の陣営に帰還する際、織田、浅井両軍とも、一切の攻撃を中止したと伝えられる。その後、長政は残りの手勢を率いて防戦するも、織田軍の猛攻に屈して城兵は玉砕、自身も自害して果てる。享年29歳。

 と、主人公・お江が生まれる前のプロローグを足早に描いた今話だったが、ひとつだけどうしても納得できない部分がある。それは、江たち三姉妹の兄弟にあたる、万福丸の存在が省かれていたことだ。万福丸は長政とお市の間に生まれた嫡男。これについては、お市の生んだ子ではないという説もあるそうだが、ほとんどの物語でお市の実子となっているため、ここでもその説をとりたい。お市と三姉妹は織田軍に引き渡したものの、信長の気性からいって男子である万福丸の命は助けないであろうと見た長政は、家臣をつけて城外へ逃がした。しかし、織田軍の捜索によってほどなく捕らえられる。お市は助命を嘆願したが、生かしておいてはのちの災いになるとして、信長は秀吉に万福丸の処刑を命ずる。万福丸は美濃関ヶ原に処され(串刺しという説もある)、その生涯を閉じた。享年5歳とも10歳とも伝わる。万福丸の死に心を痛めたお市は、兄・信長を恨むわけにもいかず、命令とはいえ直接手を下した秀吉を終生恨み続けたという。

 なぜ、万福丸のエピソードを省いたのだろうか。6年間を足早に描いた今話だから、当然割愛する部分はあって然りなのだが、この話はいってみれば、お市と三姉妹の助命と同等に重要な話で、その後のお市と秀吉の確執にも関係するところであり、お市の悲運話の視点からいっても、外しようのないエピソードではなかっただろうか。戦国の世の非情さ、織田信長という人物の残虐さを伝える意味でも必要な話で、ドラマチックな側面から見ても、涙を誘いたいなら、なおさら描くべき逸話だったのではないか。もし、お市の実子ではないという説をとったとしても、三姉妹にとっては同じ父を持つ兄弟であることには違いないわけで、ドラマではまるで三姉妹のみの設定である。第1話からいきなり批判めいたことを述べたくはなかったが、どうしても省く理由がわからないし、省いてはならないエピソードだったのではないだろうか。

 ドラマとしての出来栄えが良かっただけに、残念でならない。というか、理解できない。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

by sakanoueno-kumo | 2011-01-11 04:04 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(16)