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龍馬伝 第44話「雨の逃亡者」

 慶応3年(1867年)7月6日夜(7月7日未明ともいわれる)、長崎に逗留中だった英国軍艦イカルス号の乗り組み水夫・ロバート・フィードと、ジョン・ホッチングスの両名が、長崎の花街・丸山で何者かに惨殺された。いわゆる「英艦イカルス号事件」である。この下手人が海援隊士ではないかという嫌疑がかかり、このためこの時期大政奉還を実現するために奔走していた坂本龍馬は、「いろは丸沈没事件」に続き、また足止めをくうことになる。ドラマでは、長崎奉行所対海援隊といった、えらく小さな話になっていたが、実際にはこの事件は、土佐藩、幕府を巻き込んだ国際問題となった。

 事件当時、長崎では外国人殺傷事件が相次いで発生しており、いずれも加害者が不明で、長崎における在留外国人たちの恐怖は非常なものがあった。事件発生後、英国領事官フローエルスはただちに長崎奉行所に犯人捕縛を急き立てたが、容易に調べがつかない。おりから長崎に来航したハリー・パークス公使は自ら手を回して調査し、犯人は海援隊士と同じ白筒袖の服装だったという証言を得た。そのことから犯人は海援隊士に間違いないと見たパークスは、長崎奉行所に取調べを求めたが、それだけでは根拠が薄いとの理由で受け付けられなかった。これに憤慨したパークスは、この上は幕府に訴え出て直接土佐藩にかけあうほかなしと、同月24日大阪へ入り、幕府老中・板倉勝静に厳しく談判をもちこんだのである。龍馬がこの事件を知ったのはこの時だと思われる。

 怒鳴りこまれた幕府は、責任上無視することも出来ず、担当者三十余人を土佐へ出張させることに決し、土佐藩も後藤象二郎佐々木高行をはじめ在京の藩重役を急遽帰国させることとし、薩摩藩から借用した汽船三邦丸に乗船する。出航まぎわに龍馬は小舟に乗って同船にこぎ着け、事件の善後策を後藤と協議しているうちに、船は錨をあげ出航してしまった。やむなく龍馬はそのまま同船して土佐に向かうこととなった。脱藩以来、約5年ぶりの帰国だった。しかし、藩内佐幕派をはばかり、龍馬は土佐藩船・夕顔丸に潜伏したまま上陸することはなかった。

 龍馬たちが土佐・須崎に入港した翌日には幕府重役を乗せた船が入港、その2日後にはパークスが搭乗した英国艦が入港、その物々しい状況に高知城下は混乱をきわめたという。攘夷派の暴発を恐れた藩当局は陸上での談判を諦め、夕顔丸船内で行うこととなった。土佐藩代表として談判に臨んだのは後藤象二郎。席上、パークスはいきなり怒気をあらわし、机を叩き、床を踏み鳴らすなど、威圧的な態度を見せたという。しかし後藤は怯むことなく冷然と、「公使は交渉のために当地へ来られたのか、それとも挑戦のために来られたのか、甚だ理解に苦しむ。いやしくも使臣の前において、かような凶暴な態度を示されるのなら、小官はむしろ談判の中止を希望する。」と厳しく抗議した。通訳・アーネスト・サトウを介してこの抗議を聞いたパークスはにわかに態度をあらため、「本官はこれまで中国人との交渉には、常に威圧的な態度をもって効をおさめた経験から、はからずも貴官に対し無礼をはたらいた。厚く諒恕を請う。」と謝意を示したという。このときの後藤についてアーネスト・サトウは後年の著書「維新外交秘録」の中で、「後藤はこれまで我々があったうち、もっとも才智の優れた日本人であったから、ハリー卿の気に入った。」と評している。そんな後藤の手腕もあって英国側は態度を軟化させ、海援隊士犯人説は風説にもとづくところがあるため、再び長崎で調査を行うことで合意した。

 長崎に着いた龍馬は、早速佐々木高行や岩崎弥太郎たちと協議し、金一千両の懸賞金を付けて真犯人の捜索を行ったが、手掛かりを得ることは出来なかった。8月18日、長崎奉行による正式の取り調べが始まり、事件当夜、海援隊士・菅野覚兵衛佐々木栄が現場近くの料亭にいたことが判明、二人は事件直後に長崎を出航して鹿児島に向かっており、逃げたのではないかといった疑いが持たれた。早速二人を呼び戻し取り調べを試みたものの、証拠不十分。結局、確証を得ることが出来ないまま、9月7日、別件逮捕のようなかたちで菅野覚兵衛、佐々木栄、渡辺剛八の三人について申口不束(ふつつか)、岩崎弥太郎には管理不行届の理由で恐れ入れとの口上が渡された。弥太郎と佐々木は素直に応じたが、菅野と渡辺はその理由なしと頭を下げず、9月10日までねばり、結局奉行側が譲歩、お構いなしということで意気揚々と引き上げた。これついて龍馬は佐々木高行に宛てた手紙の中で、「只今戦争相すみ候処、然るに岩弥、佐栄兼て御案内の通りに、兵機も無之候へば無余儀敗走に及び候。独り菅、渡辺の陣、敵軍あへて近寄り能はず」と2人の剛情を評している。

 これでこの事件は一応の決着がついたものの、真犯人が見つかっていないため本当の意味での一件落着ではなかった。真犯人が判明したのは龍馬の死後、明治元年(1868年)になってからである。犯人は筑前福岡藩士の金子才吉という人物で、しかも当人は犯行直後すでに自決していた。この金子は福岡藩でも嘱望された人物だったが、事件当夜、外国水夫が路上で泥酔して寝ているのを見て、嫌悪のあまり斬り捨て、翌日藩庁へ自首した後、国際関係の紛糾を恐れ切腹したという。福岡藩は嫌疑を受けた土佐藩が苦境に立たされたのを見過ごし、事件を秘匿し続けていたが、ついにそれが暴露されたため土佐藩に重役を派遣し謝意をあらわした。しかし、そのとき既に龍馬はこの世にはいなかった。

 というのが、「英艦イカルス号事件」の全容である。長文になってしまったが、ドラマの設定があまりにも通説と異なっていたため、ことのあらましを順を追って紹介させてもらった。この「英艦イカルス号事件」と、前々話の「いろは丸沈没事件」のエピソードは、龍馬の物語では省略されることが多い。というのも、時勢は倒幕か大政奉還かと緊迫したなか、この二つのエピソードはどうしても横道にそれてしまうエピソードだからだろう。しかし今回のドラマでは二つとも採用された。それはまあいい。「いろは丸沈没事件」は、龍馬暗殺の一説の伏線として重要な事件ともいえるし、ドラマのつくりも面白くできていた(あくまで私の感想だが)。しかし今話はどうだろう。こうも史実を変えてまで、紹介しなければならないエピソードだっただろうか。この作り話に1話を費やすぐらいなら、過去にもっと採用すべき事柄があったのではと思ってしまったのは私だけだろうか。

 龍馬の人生最後の年となった慶応3年(1867年)は、「いろは丸沈没事件」で約3ヶ月、この「英艦イカルス号事件」で約2ヶ月の計5ヶ月もの間、時勢とは無関係な仕事に時間を費やさねばならなかった。このため大政奉還が数ヵ月遅れたといっても過言ではないかもしれない。おそらく龍馬は苛立っていたことだろう。この間、薩長は武力倒幕の準備を着々と進めていたはずだから。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-02 22:36 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(2)  

龍馬伝 第42話「いろは丸事件」

 慶応3年(1867年)4月19日、坂本龍馬率いる海援隊は、伊予大州藩の出資によって購入した「いろは丸」に乗って、土佐藩の帰属として初めての航海に出発した。
 「今日をはじめと乗り出す船は 稽古始めのいろは丸」
 こんな舟歌を水夫たちに歌わせながら、いろは丸は積荷を満載にして瀬戸内海を大坂に向かっていた。約1年前に持船・ワイルウェフ号が沈没し、さらにその2ヵ月後にユニオン号を長州藩に返して以来船がなかった彼らにとって、この航海はまさに「水を得た魚」のように心が昂っていたことだろう。しかし、瀬戸内海を東へ進むいろは丸は、同月23日午後11時頃、讃岐沖で紀州藩汽船・明光丸と衝突する。いろは丸は160トン、明光丸は880トン、軽自動車と大型トラックの衝突のようなものだった。

 いろは丸の当夜の当番士官・佐柳高次は明光丸の幻灯に気付き、すぐに左転してこれを避けようとしたが、なおも明光丸は右旋しながら猛進を続け、いろは丸の右舷にふれ機関室を破壊したという。佐柳は船中に事故を伝え、さらに明光丸に向かって救助を求めるも返答がなく、やむなく機関士・腰越次郎が救命船の錨をとって明光丸に投げかけ、素早くよじのぼって明光丸の甲板に上がり、そこで同船の乗組員を詰責したが、お互いにあわてて要領を得ない。そうしているうちに明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退した後、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没した。

 龍馬と明光丸船長・高柳楠之助との合議によって、事故の善後策を決するため同夜のうちに明光丸を備後の鞆の浦に入港させた。翌24日から龍馬は明光丸側と交渉に入り、まずは「事件解決まで明光丸の出港をひかえられたい。」と要求したが、高柳は首を縦にふらない。業を煮やした龍馬は、「もし主用やむを得なければ、われわれの応急の難を救うために1万両貸せ」と持ちかけ、「お申し出のとおり1万両は出すが、返済期限を立てられたい。」という紀州側に対し龍馬は、「弁償金の一部として受け取るので、返済期限を立つべき性質のものではない。」と、はね返したという。結局談判は思うように進まず、龍馬は「この上は長崎において正式の談判にかけ、公論によって正否を決する」ということで物別れに終わった。このとき龍馬の憤激は頂点に達していたようだ。

 龍馬は大藩・紀州藩を相手に、なにがなんでも泣き寝入りするつもりはなかったようだ。ようやく手に入れた船を明らかに相手の過失で失うこととなり、その悔しさは想像するに余りあるものだっただろう。万国公法の引用を考えたのもこのときだった。しかし、そのことによって自身の身の危険も覚悟した龍馬は、万一の場合、自分の死後は妻・お龍を故郷の土佐に送り届けるよう、寺田屋事件で生死を共にした三吉慎蔵に手紙を送っている。
 
 5月15日、長崎での談判が開始された。出席者は海援隊から龍馬をはじめ、長岡謙吉、小谷耕蔵、渡辺剛八、佐柳高次、腰越次郎、土佐藩から森田晋三、橋本麒之助の8名。岩崎弥太郎はいない。ついでにいうと、前話でいろは丸購入に際しても弥太郎の尽力となっていたが、実際にはこの件にも弥太郎は関わっていない。金の工面には協力したかもしれないが・・・。どうしてもドラマでは弥太郎を絡めたいようだ。

 談判の席上、互いに航海日誌を交換し、双方の言い分を検証した結果、ついに紀州側が次の事実を容認した。
 「衝突之際或士官等、彼甲板上に上りし時一人の士官あるを見ず、是一ヶ条。」
 「衝突之後彼自ら船を退事凡五十間計、再前進来つて我船の右艫を衝く。是二ヶ条。」

 ドラマ中、弥太郎が言っていた二ヶ条、すなわち、衝突時に明光丸には見張り役がいなかったこと、一度ならず二度に渡っていろは丸に衝突したことを認めたのである。この証文によって事故の理非曲直がほぼ明確になったわけだが、しかしそれでも紀州側は完全に負けを認めず、幕府御三家の立場をかさに、長崎奉行所を味方につけ海援隊側を威圧する策に出た。しかし龍馬も負けてはいなかった。奇策を用い、巧みに世論操作をしたのだ。
 「♪ 船を沈めてその償いに 金を取らずに国を取る 国を取ったらミカン食う ♪」
 このような歌を作り、長崎丸山の妓楼で歌わせた。これは交渉の結果を歌ったもので、当然その前に、事故の事情も歌同様に広められていたに違いない。この歌はたちまち巷間に流行し、長崎市民の同情はいずれも海援隊に集まった。さすがの紀州藩もこの龍馬の策には閉口しただろう。

 そしてもうひとつの龍馬の策は、交渉の席に後藤象二郎を引っ張り出し、一海運業者対紀州藩の事件を、土佐藩対紀州藩という、同等の立場での、いわば政治的な談判としたことだ。藩同志の談判となれば、紀州側はもはや脅しのような交渉は出来ない。後藤は、「汽船衝突の件は、我が国では準拠すべき判例がないので、現在来航中の英国水師提督に万国の比例を尋ね、然るべき裁定を請う。」と提案し、さらには「貴藩のこれまでの仕打ちは甚だ冷酷だ。向後の出様によってはどのような結果となるかも知れぬ。よく心得ておいてもらいたい。」とまで述べた。もはや勝算なしと見た紀州藩は、薩摩藩士・五代才助に調停を頼み、その裁定で紀州藩は賠償金8万3千両を海援隊に支払うという条件で、ようやくこの「いろは丸沈没事件」は決着がついたのであった。

 龍馬の巧みな世論操作、そして後藤を使って政治問題にすり替えた強かさ、さらには大藩相手に怯まない龍馬の腹の据わったリーダーシップ。どれをとっても、一級品の外交手腕がうかがえる。尖閣諸島沖衝突事件で右往左往している現代の政治家さんたちに見習ってほしいものだ。

 世情は刻々と討幕への道を進めていたこの時期、龍馬にとっては1ヵ月以上もの間、足止めをくうこととなったこの「いろは丸事件」だった。しかし、そんな中でも利益だったのは、長崎で後藤象二郎と語り合う時間が持て、後藤を政治的に教育することが不十分ながらもできたことだった。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-18 01:32 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(10)  

龍馬伝 第34話「侍、長次郎」

 「凡そ事大小となく社中に相談して行ふべし、若し一己の利の為に此の盟約に背く者あれば、割腹して其罪を謝すべし」
 まるで新選組の法度のような厳しい戒めのこの文は、実は亀山社中の盟約文である。この同志一同血判の上成立したという盟約によって、近藤長次郎は切腹して果てた。享年28歳。

 「私共とともニ致し候て盛なるハ、水道通横町の長次郎」と、坂本龍馬が姉・乙女に宛てた手紙の中で評した近藤長次郎は、勝海舟門下生時代から龍馬が常に有能な同志と認めていた人物だった。貧しい饅頭屋に生まれた長次郎だったが、家業を手伝いながら、龍馬も影響を受けた河田小龍の墨雲洞塾に学び、その驚異的な向学心とバイタリティーによる努力の末、文久3年(1863年)には藩から苗字帯刀を許され、終身二人扶持金十両を下賜されている。一説には、海舟門下生時代、長次郎の秀才ぶりを知った諸藩が彼を扶持したいとの申し出が相次いだことから、あわてて土佐藩が藩士に取り立てた・・・との話もある。実話かどうかはわからないが、長次郎の優秀ぶりがうかがえるエピソードだ。

 亀山社中の一員となってからの長次郎は上杉宋次郎と名を変え、その才覚をフルに発揮し、隊長とはいえ不在の多かった龍馬に代わり社中の運営の中心人物となった。そして薩長同盟の前段となる長州藩の薩摩名義による武器購入に尽力し、みごとにその仕事を結実させた。武器購入の担当官として長崎に訪れていた長州藩士・井上聞多(馨)伊藤俊輔(博文)からもその功労を推重され、長州藩主・毛利敬親からも謝礼の言葉を直々に賜った。このときが近藤長次郎の絶頂期だった。多少は天狗になっていたかもしれない。同志たちの反感を買っていたかもしれない。卑賤の身から成り上がり、他藩の殿様から直々に礼を言われるまでになったこの時期、自惚れるなという方が無理だったかもしれない。

 武器購入に続いて汽船・ユニオン号の購入にも尽力した長次郎だったが、このとき長州藩とユニオン号の引渡し条件について抗争を起こしてしまう。結局その件は、龍馬の介入によって問題は解決の方向に向かってはいくものの、長次郎は最後まで激しく抵抗し、納得はしていなかったという。そんなことも背景にあってか、長次郎は「英国留学」という野心をいだき、社中の同志には秘密で密航を企てた。慶応2年(1866年)1月14日、かねて依頼していたグラバーの船にいちどは搭乗したが、おりあしく風浪のため出航が1日延び、やむなく上陸したところ、計画を社中の同志たちに察知されてしまう。同志たちは長次郎を小曽根乾堂の邸に呼び出し、そして盟約違反を沢村惣之丞に告げられ、弁解しようとしたが一切聞き入れられず、やがて同志が設けた席に端座したまま、さびしく腹を切ったと、「維新土佐勤王史」は伝えている。また、毛利家文庫旧蔵の「土藩坂本龍馬伝」などには、ユニオン号所有問題にからんで薩長両藩に行き違いを生じさせたことへの責をとって自刃したとの説も伝わる。

 このとき長崎に不在だった龍馬は、のちにお龍「長次さんはまったく一人で罪を引き受けて死んだので己が居つたら殺しはせぬのぢゃつた」と語っている。しかし、長次郎の死を知った直後の龍馬の手記には、「術数有リ余ッテ至誠足ラズ。上杉氏(長次郎)之身ヲ亡ス所以ナリ」と記している。決して殺させはしなかったとしながらも、長次郎のありあまる「術数」による独断行為は、龍馬にとっても不快なものだったようだ。

 のちに作られた「海援隊約規」では、違背者の処分は隊長である龍馬に一任されている。これはおそらく、長次郎の死の轍を踏まえてのものだったのだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-25 00:52 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(4)  

坂本龍馬愛用の手鏡?

 坂本龍馬にまつわるとても興味深い品が発見され公開されているらしい。話題の品は江戸時代末期のものとされる手鏡箱で、表面には「GOOD LUCK」(幸あれ)「KAIENTAI」(海援隊)という文字、二曳(にびき)と言われた海援隊旗の図柄、そして龍馬のイニシャルを思わせる「SR」という文字、さらに「JULY」(7月)という文字などが刻まれている。

e0158128_14165764.jpg 発見されたのは、京都市にある閑臥庵(かんがあん)という寺院で、寺の言い伝えでは、1877年(明治10年)ごろ、同志社英学校に学んだジャーナリストの徳富蘇峰が寺を訪ねた際にこの品を見つけ、当時の住職に保管を勧めたという。その後、行方不明になっていたが、2008年の倉庫整理で発見したという。

 龍馬自身がこの文字を刻んだとすれば、亀山社中から海援隊という名称に変わったのが慶応3年(1867年)4月のことで、同年の11月には暗殺されていることから、刻まれている「JULY」は慶応3年(1867年)7月と考えられる。ちょうどこの時期、龍馬が京都にいたことは確か。慶応3年(1867年)といえば龍馬が最も多忙を極めた時期で、1月に後藤象二郎と会談して亀山社中が土佐藩おあずかりとなり、4月に海援隊と命名したものの、同月、海援隊の蒸気船「いろは丸」と紀州藩船「明光丸」が海上衝突して沈没した、あの「いろは丸事件」が起こり、5月はその談判に疾走。談判解決後の6月、長崎から京都に向かう船中にて、あの有名な「船中八策」を作成。同月、京都にて「薩土盟約」の成立に尽力、そして7月には龍馬不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、その嫌疑が海援隊士にかけられるという事件が発生、この対応のため急遽長崎に戻っている。そんな多忙極まりない時期の品ということになる。

 龍馬ファンとしては、龍馬自身が刻んだものと思いたい。自分の所持品として使っていたものなのか、はたまた誰かに贈るために刻んだものなのか。漢詩などではなく、英文字で「GOOD LUCK」というのが実に粋だ。次から次に起こる難題に振り回されていたこの時期の龍馬に、手鏡箱に文字を刻んで誰かに贈ろうなんて心のゆとりがあったとすれば、そこにまた龍馬の非凡な人物像がうかがえる。てな具合で、いろんな想像が膨らむ発見だ。

 NHK大河ドラマのもたらす影響というのは大きいもので、登場人物の注目度が一躍高くなるため、この機に思わぬ史料が思わぬ場所から発掘されることがよくある。先頃には寺田屋事件の新史料が発見されていたし(参照:寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)新史料が見つかる。)、昨年の大河ドラマ「天地人」の放送中には、主人公・直江兼続直筆の書状が見つかったというニュースもあった(参照:直江兼続の書状が古書店にて発見される。)。そうした発見によって、新たな歴史解釈が成されたとすれば、NHKの功績は大ということになるが、それだけにいい加減な作品は作れないという責任もある。NHKさん、頼んまっせ!


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-21 15:26 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)