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千利休ゆかりの地めぐりと、その人物像に迫る。

今週の大河ドラマ『真田丸』で、千利休が切腹しました。

同作品の千利休は、これまでの作品で描かれてきた悟りを開いた高僧のような厳かな人物像ではなく、小田原合戦において豊臣方、北条方の双方に武器弾薬を売りつけるなど、悪徳商人まがいのいままでにないキャラでしたね。

実際の利休とは、いったいどんな人物だったのか。

そこで今日は、以前に訪れた堺の利休関連史跡を紹介しながら、その人物像に迫ってみます。


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写真は大阪府堺市にある千利休屋敷跡

阪堺電車宿院駅のすぐ近くのビルとビルの間に、異質な空間として残されています。


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千利休は大永2年(1522年)、堺今市町の豪商・魚屋(ととや)の当主・田中与兵衛の長男として生誕。

幼名は与四郎といいました。

17歳のときに北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鷗に師事し、「わび茶」を大成させます。

その後、茶の湯をもって織田信長に接近し、その死後は豊臣秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいます。

しかし、小田原合戦の後、何らかの理由で秀吉の怒りにふれ、自刃して果てます。

享年70。


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屋敷跡には「椿の井」が残っています。

この井戸は、利休が産湯につかったと伝えられるものだそうで、いまなお清水が湧き出ているそうです。


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井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものだそうです。


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一般に「利休」という名で広く知られていますが、実は、その名を名乗ったのは晩年のことで、茶人としての人生の大半は「宗易」という名で過ごしています。

「利休」という名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために、正親町天皇(第106代天皇)から与えられた居士号です。


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同じく堺市内にある南宗寺には、利休一門の供養塔があります。

ここは、若き利休が修行したと伝わるゆかりの寺院です。


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豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきました。

しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界なんですね。

というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年(1936年)に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたんだそうです。

現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識ですが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったそうですね。

この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年(1940年)に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうですが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたそうです。

現代でも、大河ドラマの設定に難癖つける自称歴史マニアがたくさんいますが、あれと同じですね。

「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようです。

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海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきました。

そのなかでも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、利休の等身大の木像を紫野大徳寺の山門の2階に設置してその下を秀吉に通らせたという大徳寺木像事件や、利休が朝鮮出兵に強硬に反対したため疎んじられた・・・とか、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・などなど、どの説にもそれなりの信憑性はありますが、どれも決定力に欠けます。

のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いですが、はたしてそうだったのでしょうか。

最も信頼していた豊臣秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えられなくもありません(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。

その意味では、今回の大河ドラマでの「死の商人」として暗躍していた利休なら、じゅうぶん死罪に値しますよね。

ない話ではないのかな・・・と。


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中央に利休の供養塔、左右に表千家、裏千家、武者小路家の供養塔があります。


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こちらが利休の供養塔です。


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「天正19年 利休宗易居士」と刻まれています。


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隣には、利休の師匠である武野紹鴎の墓があります。


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利休が愛した茶室「実相庵」です。


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その前庭には、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」があります。


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結局のところ、千利休という人物については茶道千家流の始祖ということ以外はなんですね。

その人物像がどうだったのか、切腹させられた理由がなんだったのか、そもそも、豊臣政権において利休の存在がどの程度の影響力を持っていたのか、すべては想像するしかありません。

千利休=芸術界の巨人という今日の常識自体が、実は後世が創りだした虚像かもしれませんね。


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ちなみに余談ですが、ここ南宗寺には、実は大坂夏の陣で死んでいた徳川家康がここに埋葬されたという伝承があります。

以前の稿ですが、よければ一読ください。

   ↓↓↓

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~




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by sakanoueno-kumo | 2016-06-29 18:11 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第24話「利休切腹」

 天正19年(1591年)1月22日、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が病没した。秀長は、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から兄の片腕として働き、秀吉が天下人となってからは、陰から豊臣政権を支えた。そんな秀長を、秀吉は誰よりも信頼していたという。まさに、「縁の下の力持ち」という言葉が相応しい人物だった。秀長は兄以上に千利休との親交も深く、「公儀のことは秀長、内々のことは宗易(利休)」という言葉からも伺えるように、豊臣政権下、豊臣秀長と千利休はまさに豊臣政権という車の両輪だった。特に秀長の場合、ときにはブレーキ役でもあっただろう。そんな秀長の死に伴って、豊臣政権の両輪補佐体制は崩壊、同時にブレーキも失った車は、暴走し始める。

 ドラマでは、秀長の死によって秀吉の愛児・鶴松の病が治ったという話になっていたが、史料によれば鶴松が病になったのは秀長の死の翌月、閏1月3日となっている。鶴松は生まれつき虚弱で、床に伏すことが多かったとか。ただ、このときの病状はよほど深刻だったようで、秀吉は寺社に祈祷を命じ、自らも紫野大徳寺へ参詣している。そのとき、ドラマで石田三成がいっていた、利休の等身大の休像を見つけた。木像は山門の上から見下ろすように置かれており、これに激怒した秀吉は、利休に蟄居を命じた。そして2月28日、秀吉の命により利休は切腹する。享年69歳。その首は、大徳寺山門から引き摺り下ろされて磔にされた木像に踏ませる形で晒されたと伝わる。

 利休が切腹の前日に詠んだといわれる辞世の句。
 人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
 意味は・・・難しくて私にはわからない(苦笑)。

 豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきた。しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界である。というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品、『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたそうである。現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識だが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったらしい。この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうだが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたらしい。「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようである。

 海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきた。その中でも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、既述した大徳寺木像事件や、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・など、どの説にもそれなりの信憑性はあるが、どれも決定力に欠ける。のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いが、はたしてそうだったのだろうか。秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えたりもする(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。利休の切腹は秀吉の狂気だったのか、はたまた、やむを得ない死罪だったのかは今となってはわからないが、いずれにしても、秀長と利休という両輪を短期間で失った秀吉は、孤独な独裁者となっていった。

 「甘いことしか言わん者より、耳に痛いことを言うてくれる者を、信じるんじゃぞ・・・」
 秀長が死に際にいった忠告は、秀吉には届かなかった。いや、届いていたけど、秀吉の関白としての意地が、それを許さなかったのかもしれない。人間、歳をとればとるほど、上にいけばいくほど、耳に痛いことをいってくれる者はいなくなる。それは、現代に生きる私たちとて同じである。利休の死を最も惜しんだのは、切腹を命じた秀吉自身だったのではないだろうか。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-30 01:18 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(8)  

江~姫たちの戦国~ 第12話「茶々の反乱」

 前話の稿で、お江たち三姉妹がこの時期どこで過ごしていたかという説について、羽柴秀吉の庇護の下で摂津大坂城山城伏見城に暮らしたという説や、京極マリアに預けられ安土で過ごしたとする説、また、京極龍子の後見のもと京都にいたという説があると紹介したが、その後調べたところ、柴田勝家お市の方が落命したのが天正11年(1583年)4月で、大坂城の築城が始まったのが同年9月、本丸御殿が竣工したのが翌年8月のようで、その頃には既にお江は嫁いでいることから、三姉妹揃っての大坂城という説はないようだ。ドラマでは安土城説を採用しているが、この時期、山崎城を居城としていた秀吉が、そう頻繁に安土に足を運んでいたとも考えづらく、また、秀吉の正室・お寧や京極龍子も同居しているというドラマの設定から考えても、舞台を山崎城とした方が、無理がなかったのではないかと思う。

 秀吉を頑なに拒絶するお茶々お初お江。当然、今話は完全オリジナルのストーリーだが、父、母、義父の仇である秀吉の庇護の下で暮らす生活というのは、そう簡単に割り切れるものではなかったであろうことは想像できる。ドラマでは多少コミカルに描かれてはいたものの、彼女たちの秀吉に対する感情という意味では、遠からずではなかっただろうか。秀吉に媚びるくらいなら、いっそ殺されたほうがマシ・・・ぐらいに思っていたかもしれない。このときお茶々は14歳、お初は13歳、お江は11歳。のちにお茶々が秀吉の側室になるのは天正16年(1588年)頃といわれており、このときより5年後のこと。秀吉がいつ頃からお茶々を見初めていたかはわからないが、お茶々にしてみれば、はじめから秀吉の側女になることを望んでいたわけでは当然ないだろう。一説には、秀吉がお茶々を側女にするために、邪魔な妹たちを次々と他家に嫁がせていった・・・ともいわれる。側室になるまでの5年間を、お茶々はどんな思いで過ごしていたのか、また、どのように心が移り変わっていったのか、後世の私たちには想像する以外に知る術はない。このドラマでは、その5年間をどう描いていくか・・・今後の展開を楽しみにしたい。

 母の仇を討ちたいというお茶々に対して、憎んで刃向かっているだけでは、所詮は相手と同じレベル、同じ高さだと千宗易はいう。
 「もひとつ上に行くには、相手を受け入れ、いっそ呑み込んでしまわななりまへん。敵より大きゅう太うなるんです。そやないと、倒す、殺すなど到底できませんわ・・・今はこらえて、静かに爪を研ぐときと違いますかな。」
 憎い相手と関わらずに生きられるなら、それもいい。許しがたい相手を排除してしまうほどの力があるなら、それもありだろう。しかし人生には、そんな敵を避けて通れない場合が往々にしてある。そんな場合、いちいち刃向かって、拒絶しながら生きていけるか・・・。それでは、自分の立ち位置は何も変わらないばかりか、場合によっては、相手から自分が排除されるかもしれない。宗易のいうとおり、真に敵に立ち向かうには、まずは相手を受け入れ、己の立ち位置を変えなければならない。そうして敵より力をつけてこそ、初めて煮るなり焼くなり好きにすればいい。しかし、真に敵より大きく太くなったときには、きっと憎しみは消え失せているものだろうと思う。人を憎いと思う気持ちは、所詮は現状置かれた己の立ち位置から生じるものだと思うから・・・。

 千宗易について少しだけ。一般に「利休」という名で広く知られる彼だが、その名を名乗ったのは晩年のことで、茶人としての人生の大半は「宗易」という名で過ごしている。「利休」という名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために、正親町天皇から与えられた居士号である。江たち三姉妹が秀吉に庇護されたこの時期にはまだ「利休」という名は存在せず、ドラマのとおりである。

 織田信長豊臣秀吉という二人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。その悲劇の最後からも、秀吉の物語には欠かせない存在の彼だが、意外にも、その出典はさほど古くはなく、昭和11年に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品、『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたそうである。現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識だが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったらしい。この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうだが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたらしい。「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようである。

 何かと批判の声が多い、今年の大河ドラマ『江〜姫たちの戦国』。新しい解釈には、いつの時代も批判が集中するものである。そうした批判を受けながら、歴史認識は出来ていくといってもいい。今日の常識といわれるものも、非常識と批判されたときがあったということを知ってほしいと思う。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-06 19:44 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(37)  

龍馬伝 第26話「西郷吉之助」

 幕末・維新の英雄・西郷隆盛。彼の志士人生は長く、坂本龍馬がまだ江戸で剣術修行をしていた安政元年(1854年)には、当時の薩摩藩主・島津斉彬の手足として国事に奔走していた。水戸の思想家・藤田東湖武田耕雲斎、福井の橋本左内など、幕末の攘夷運動初期の人物とも深く交わり、影響を受けた。以前にも紹介したが、作家・司馬遼太郎氏の言葉で、時代の転換期には「思想家」「行動家」「実務家」という3つのタイプの人間が現れるとし、革命前期には、吉田松陰や藤田東湖のような「思想家」が火を着け、中期には龍馬や桂小五郎、高杉晋作といった「行動派」が激発し、最後に大久保利通や伊藤博文といった実務家が形にする、と語っている。しかし、私が思うにこの西郷隆盛だけは例外で、「思想家」「行動家」「実務家」の全ての時代に生き、その役割を全うした人物だと思う。有名な「敬天愛人」に代表される「思想家」としての彼の「没我奉仕」の精神は、同時代の後発の志士たちに大きな影響を与え、「禁門の変」以後の彼は、マキャベリストとも思えるほどの「行動家」としての役割を果たし、維新後、大久保利通や岩倉具視が外遊中の「西郷内閣」においては、大久保が嫉妬と憎悪を感じるほどの内政を施し、「実務家」としての力を発揮した。そして人生最期には、自らの命をもってして「明治維新」を終焉させるという、大袈裟に言えば西郷隆盛の人生が幕末・維新とも言ってもよく、まさに「ミスター幕末」であり「ミスター明治維新」であった。

 そんなミスター幕末維新・西郷隆盛と、幕末の風雲児・坂本龍馬の最初の出会いは正確にはわかっていないが、元治元年(1864年)8月から9月頃とされている。おそらくは勝海舟の紹介によるものだったのだろう。二人の間でどのような内容の話が交わされたかはわからないが、この二人の出会いが、この後の歴史を大きく動かすことになるのは言うまでもない。二人の出会いについては、晩年の海舟が語った「氷川清話」に印象的なエピソードがある。西郷と会見して神戸に帰ってきた龍馬は、海舟に西郷のことを報告しようとしない。「ニ、三日は、坂本より云い出すのを待ちたれども、遂に堪りかねて『西郷はだうだ』と軽く問ひかくるや」龍馬はこう言ったという。
 「なるほど西郷といふやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらう。」
 つまり簡単にいえば、「つかみどころのない大人物」ということだろう。西郷隆盛という人は、同時代の者から見ても、愚者か賢者か計りがたい人物だったようだ。また、この龍馬の言葉の続きに、「残念なのはこれを突く撞木がが小さかった」と、自分を西郷という鐘を突く撞木に例えて表現した言葉が有名だが、これは上記「氷川清話」や「追賛一話」などの海舟の記録にはまったく記されておらず、出典がわからない。後に作られた造話と考えていいだろう。

 西郷隆盛という人の人物像は、物語によって描かれ方が違う。ある物語では公明正大な人格者・西郷に描かれ、また違う物語では策謀に長けた政治家・西郷にも描かれる。これは小説家や脚本家のみならず、歴史家の見識においても人によって180度異なる。たとえば龍馬などは、幕府側の視点での物語でも、討幕側の視点で描かれたものでも、自由で濶達な人物像にそう差異はない。しかし西郷は見る角度によって善人にも悪人にも描かれる。このことからも、龍馬の西郷評のとおり、「つかみどころのない人物」であるといってもいいだろう。大長編史伝「西郷隆盛」の著者・海音寺潮五郎氏が、同じく西郷を主役にして書かれた司馬遼太郎氏の小説「翔ぶが如く」を読んで、「司馬君でもまだ西郷を描ききれていない。」と評したという話があるが、それだけ西郷隆盛という人はいくつもの顔を持っていて、常人には計り知れない大人物ということだろう。

 とにかくその西郷隆盛と坂本龍馬は出会った。その出会いは、多少神秘的にいえば、歴史が二人を出会わせた、と言えるかも知れない。神戸海軍操練所が閉鎖となり、勝海舟の後ろ盾をなくして元の一脱藩浪士に戻った龍馬だったが、歴史はまだ彼を必要としていた。それはこの西郷との出会いによって証明されることとなる。

 以蔵の毒まんじゅうのエピソードについても述べたかったが、西郷どんネタで長くなってしまったので、また次の機会に・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2010-06-28 01:34 | 龍馬伝 | Trackback(5) | Comments(0)