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SMAP解散の舞台裏に見る、関ケ原の戦いと女の確執。

世間がリオデジャネイロオリンピックに熱狂している真っ只中、SMAP年内解散が発表されましたね。

まあ、今年の1月の騒動がありましたから、「やっぱりな」といった感じで特に驚くことはなかったのですが、それでも、オリンピック前の27時間TVで中居正広さんが明石家さんまさんから釘を刺されていたのを観てると、どうにかこうにか修復されつつあるのかなあと思っていたんですけどね。

彼らも全員40前後の大人ですから、自分たちがどれだけ大きな存在で、自分たちで飯食ってる人たちが大勢いるということを理解したうえで、感情的にならず、大人としての対応ができているものだと・・・。

残念ですね。

わたしは、とくに彼らのファンと言うわけでありませんが、なんなんでしょう?、この得も言えぬ喪失感は・・・。


そもそもの発端は、事務所内の女性副社長と敏腕女性マネージャーの確執に巻き込まれたかたちで、グループ内に軋轢が生じたということだそうですよね。

ゴシップ誌などの記事がどこまで鵜呑みにできるのかはわかりませんが、関係者サイドが特に否定していないところを見ると、大筋は事実なんでしょう。

そこで不思議に思うのは、なんで、これほどまで裏事情が明かされているのか?・・・ってことです。

過去、グループの解散というのは数多くありますが、大概の場合、「音楽性の違い」とか「次のステップを目指して」とか、もっともらしい理由付けで解散しますよね。

でも、実際にはそのほとんどがグループ内の人間関係が理由で、ファンもそれはわかっていて、あえてそこを突っ込まず、所属事務所も、解散後の個々の活動のためにも、なるべく綺麗な終わり方を演出するんですよね。

それが、普通だと思います。


ところが、今回のこの醜さはどうでしょう?

想像するに、芸能界一力を持つというジャニーズ事務所ですから、その気になれば、裏事情をもみ消すくらい、たやすいことなんじゃないでしょうか?

それが、このたびのこの筒抜け状態

なんか、あえて裏情報を流しているとしか思えないんですが・・・?

事務所的には、この数ヶ月再三彼らを説得したけど、当人たちの意思がつよくて事ここに至ってしまった・・・と。

だから、事務所的には、最善を尽くしており、悪いのは彼らだ・・・と。

それが言いたくて、わざと裏情報をリークしているんじゃないか・・・と。

穿ちすぎですかね?


この間、もし解散を思い留まるよう彼らを説得できた人がいたとしたら、退社したという女性マネージャーしかいなかったのでしょうが、たぶん、それなりに説得はしたんでしょうが、心の底から説得したかといえば、してなかったんじゃないかと・・・。

だって、彼女は追いだされた身でしょう?

今回の解散発表に至って、どこか痛快に思う気持ちがあるんじゃないですかね?

ほら、やっぱりわたしがいなけりゃSMAPはまとまらないでしょ!・・・的な・・・。

これまた穿ちすぎですかね?

でも、人間ですから、そう思って当然だと思いますけどね。


e0158128_17194731.jpg女性同士の確執
に男たちが巻き込まれた例は、歴史のなかにも存在します。

その最も大きなものとしては、慶長5年(1600年)9月15日に起きた、天下分け目の大戦「関ケ原の戦い」でしょうね。

徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成を中心とする反徳川勢力の「西軍」合わせて20万の兵が激突した、言わずと知れた日本史上最大の内戦ですが、この背景には、実は旧豊臣政権を二分する女の確執があったといいます。

その頂点にいたのが、豊臣秀吉の正室・お寧(北政所・高台院)と、同じく秀吉の側室・茶々(淀殿)でした。

子宝に恵まれなかった北政所と、世継ぎを生んだ淀殿は、秀吉の生前から微妙な関係となりますが、秀吉の死後、その確執は表面化し、側室の淀殿が大坂城を実質掌握し、正室であるはずの北政所は、本丸から西の丸へ移り、やがて大坂城を退去して京都の新城に移り住みます。

経営者よりも敏腕マネージャーのほうが影響力を持ってしまったというジャニーズ事務所の関係性と似てますよね。


e0158128_17203474.jpgこの二人の確執に、秀吉子飼いの大名たちが分裂します。

尾張時代から秀吉に仕え、北政所を母のように慕っていたという加藤清正福島正則らは、必然的に北政所側となり、秀吉が近江長浜城主となってから仕えた石田三成小西行長らは、同じく近江の浅井家の血を引く淀殿に接近します。

もともとこの尾張派近江派は折り合いが悪かったのですが、この北政所と淀殿の対立に便乗するかたちで、より関係は悪化していき、やがて、尾張派は東軍に与し、近江派は三成を大将として西軍となります。

家康にしてみれば、この対立を上手く利用して天下を取ったといえます。


結果は周知のとおり東軍の勝利となり、三成、行長ら近江派は斬首されます。

この戦いで分裂した豊臣政権は屋台骨が崩れ、やがて、滅亡の道をたどることになるんですね。

北政所も淀殿も尾張派も近江派も、豊臣家の存続という目的は一致していたはずが、確執による派閥闘争弱体化を招き、結局は、誰も望まない末路となったわけです。

ちなみに、家康に加担した尾張派も、加藤清正はのちに謎の死を遂げ、福島正則はあらぬ嫌疑をかけられて改易となります。

結局、誰ひとりハッピーエンドになっていません。


副社長と敏腕マネージャーの確執に始まり、それが引きがねとなってグループ内に軋轢が生じ、分裂解散となった今回のSMAP騒動。

結局、誰も得しない結果になるんじゃないでしょうか?

あるいは、ジャニーズの弱体化を虎視眈々と狙っている徳川家康がいるかもしれませんよ。

歴史は教えてくれます。

温故知新です。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-25 03:07 | 芸能 | Comments(2)  

真田丸 第30話「黄昏」 ~慶長の役と醍醐の花見~

e0158128_20022019.jpg 慶長伏見地震から約2ヶ月後の文禄5年(1596年)9月、からの使節が日本を訪れ、豊臣秀吉に謁見します。先の朝鮮出兵の講和交渉を担当していた小西行長の報告によれば、明は日本に降伏したとのことだったため、秀吉は使者を大いに歓待します。しかし、実際には明は降伏などしておらず、逆に明朝廷は、日本が降伏したとの認識でした。これは、日明双方の講和担当者が、穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をしたためでした。


 そうとは知らない秀吉は、明に対して「朝鮮南部4道の割譲」「勘合貿易の復活」などを講和条件として提示していました。ところが、使節が持参した明朝廷の回答は、秀吉に対して「豊臣秀吉を日本国王に任命する」と、まるで日本が明の属国になったかの如く上から目線の通達を突き付け、さらに、李氏朝鮮内に残る秀吉軍の完全撤退を求めてきたのでした。これに秀吉が大激怒。そりゃそうでしょうね。話がまったくかみ合わないのだから、当然の反応です。穏便に講和を行うはずだった小西行長の狙いは逆に裏目に出てしまい、秀吉は再度の朝鮮出兵を決断します。そして慶長2年(1597年)2月、西国を中心に約14万もの兵が再度海を渡りました。秀吉の死まで続く「慶長の役」の始まりです。


「慶長の役」が始まって約1年が過ぎた慶長3年(1598年)3月15日、秀吉は京都の醍醐寺において、盛大な花見の宴を催しました。後世に名高い「醍醐の花見」です。醍醐寺は京の都の南東に位置する由緒ある名刹。秀吉のこのイベントにかける思いは並々ならぬものがあったようで、花見の責任者に奉行の前田玄以を任命し、早くから寺観の整備に務めさせました。そして自らも下見のために醍醐寺へ足繁く通い、殿舎の造営や庭園の改修を指揮したといいます。さらに、醍醐山の山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の桜を植樹しました。当日は嫡子の豊臣秀頼をはじめ、北政所、淀殿ら近親の者、さらには配下の武将とその家族など約1300人が招かれたと伝えられます。当時としては、最大規模にして最も豪華な花見で、この「醍醐の花見」が、その後の日本に花見の習慣を根付かせたともいわれます。


e0158128_23062489.jpg 参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられており、そのきらびやかな衣装は秀吉の目を喜ばせました。ドラマでは描かれていませんでしたが、この花見の際に、側室の序列をめぐって淀殿松の丸殿の間で争いがあったという話は有名です。記録に残された当日の輿入れの順は、1番・北政所、2番・淀殿、3番・松の丸殿、4番・三の丸殿、5番・加賀殿、そのあとに、北政所が若い頃から親しくしていた前田利家の正室・まつが続きました(ドラマでは、徳川家康の側室・阿茶局も招かれていましたが、実際に彼女がいたかどうかはわかりません)。正室である北政所が1番なのは当然として、秀吉は秀頼の生母としての淀殿の地位を重んじ、次席に据えたのですが、この序列に面子を潰されたのが、淀殿より古くから秀吉の寵愛を受けていた松の丸殿。酒席で秀吉から杯を受ける際に、松の丸殿は序列を無視して淀殿の前に無理やり割り込み、二人の争いになったといいいます。この「杯争い」を、間に入って取り収めたのは秀吉ではなく、客人の立場であった前田利家の正室・まつだったとか。たぶん、秀吉はオロオロしてただけだったのでしょうね。


 この浮世離れしたイベントで秀吉たちが夢見心地なひとときを過ごしていたとき、朝鮮半島では激しい戦闘が続いていました。そもそも、この「醍醐の花見」が企画されたのは、朝鮮出兵で苦戦を強いられていた豊臣政権に漂う暗いムードを払拭したいという狙いがあったといわれ、また、自らの死期を感じ始め、精神的にも不安定な状態に陥っていた秀吉自身の“気晴らし”という側面もあったのでしょう。会場となった醍醐寺の周辺は弓・槍・鉄砲を持った警備兵が囲み、そのものものしい警護も、秀吉最後の宴に暗い影を落としていました。


 この「醍醐の花見」が終わると、秀吉は急激に死の淵に向かいます。秀吉死去の5か月前のことでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-01 21:08 | 真田丸 | Comments(2)  

真田丸 第20話「前兆」 ~聚楽第落書事件~

 天正16年(1589年)秋、茶々懐妊が発覚します。実子跡継ぎがいなかった豊臣秀吉の喜びは、きっとたいへんなものだったでしょう。まさか、これが豊臣政権の崩壊「前兆」になろうとは、夢にも思わなかったでしょうね。

e0158128_20022019.jpg 若い頃から多くの美女を閨に侍らせたといわれる秀吉ですが、子宝に恵まれず、最晩年になってようやく茶々との間に鶴松秀頼を授かった・・・というのが、一般的に知られる通説だと思います。しかし、実はこれより20年ほど前の長浜城時代に、側室・南殿との間に一男一女がいたという説があります。女児の名は不明ですが、男児の名は秀勝。幼名を石松丸といいます。残念ながら秀勝(石松丸)は、天正4年(1576年)に7歳で病没し、長浜城下の妙法寺に埋葬されたと伝わります。後年、秀吉は織田信長の実子を養子に貰い受けた於次丸「秀勝」を名乗らせ、その於次丸が亡くなると、自身の甥である小吉を養子にして「秀勝」と名乗らせますが、それは、長浜時代の実子・秀勝(石松丸)を偲んでのことだったと言われています。結局は、「秀勝」は3人とも死んでしまうのですが。

その話が事実だったとしても、その後20年もの間、秀吉は多くの側室を置きながらも実子に恵まれなかったわけで、それが、50歳を過ぎて得た側室・茶々が懐妊したというニュースは、その当時、民の間で生じ始めていた豊臣政権に対する不平不満も相まって、いろんな憶測を呼んだようです。茶々の腹の子は、秀吉の子種ではないのではないか・・・と。露骨な噂ですが、実際、当時そのような噂が存在していたことが、ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスの記述『日本史』のなかにも記されています。まあ、誰だってそう思ったでしょうね。そんななか起きたのが、今話の聚楽第落書事件でした(落首事件ともいいます)。

 大仏の功徳もあれや槍かたな 釘かすがいは 子宝めぐむ

 ささ絶えて茶々生い茂る内野原 今日は傾城 香をきそいける

当時、秀吉は京都に大仏殿を築こうとしていたといわれますが、その大仏の功徳で、子種がなかったはずの秀吉が子宝に恵まれた・・・と。これに怒り狂った秀吉は、門番17人全員を処刑します。その処刑方法は、まずをそぎ落とし、翌日にはをそぎ落とし、さらに翌日には逆さに磔して処刑したとか。残忍極まりないといっていいでしょう。

ドラマでは、容疑者となって本願寺に逃れていた尾藤道休が死んだという報せが届き、真田信繁の機転でその道休を犯人に仕立てて事態の収集を図ろうとしますが、実際には、本願寺の僧・顕如が、事態の収集のために道休を自害させ、首を差し出したといわれています。それでも秀吉の怒りは収まらず、道休の一族もろとも処刑するよう命じますが、ドラマでは、必死に秀吉を止めようとする石田三成の諫言と、北政所茶々の助け舟によって、ようやく一件落着となりました。しかし、史実ではここで終わらず、道休の一族はもちろん、道休と同じ町に住んでいた60余人犯人隠匿の罪で囚えられ、居宅を焼き払われ、磔のうえ処刑されています。その数、総計113人に及んだとか。秀吉の悪政のはじまりです。

 信繁「実のところ、あの落書は誰の仕業だったのでしょう?」

 三成「決まっておるではないか。民の仕業だ。大勢の民が殿下に対して、同じ思いを抱いた。それがあの落書になったのだ。」

落書の真犯人を特定しても何も解決しない。要は、落書を生んだ背景が何であるかが大事で、それは「世論」である・・・と。その世論の支持がなければ、豊臣政権は立ち行かないということを、三成は知っていたんですね。一昨年の『軍師官兵衛』のときの三成であれば、ここでチマチマと真犯人探しをしそうですが、今回の三成は、優れた政務官のようです。

 寧 「せめてもの罪滅ぼしです。京と大坂の人たちが喜んでくれる事を何でもよい、考えて下さいな。」

三成「かしこまりました」

信繁「思い切って金をばらまくというのはいかがですか?」

三成「いささか品がないな」

寧 「いや、それぐらいやった方がええ。殿下の子どもが産まれるんです。派手にまいりましょう。」

 この事件から約3ヶ月後の天正17年(1589年)5月20日、茶々の出産を前にして、秀吉は聚楽第南二ノ丸馬場で「金配り」を行います。その額、36万5千両といわれますから、現代の貨幣価値でいえば400億円以上。このバラマキ政策が、離れはじめていた民心をつかむためのものであったことは、想像に難しくありません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-23 16:45 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第19話「恋路」 ~信幸・小松姫の縁談と、淀殿の側室入り~

 大坂にて豊臣秀吉から徳川家康の与力となるよう命じられた真田昌幸は、その帰国の途次、家康の居城である駿府城に立ち寄ります。天正15年(1587年)3月18日のことでした。この日を境に昌幸は徳川氏に出仕することとなり、その対価として、真田氏の領土は安堵されます。ただ、真田氏と徳川氏の関係はあくまで与力であって家臣ではなく、真田氏の立場としては、豊臣家傘下の大名として認定されています。この辺の関係がややこしいですけどね。つまり、徳川会社も真田会社も、豊臣グループの系列会社であることには違いありませんが、業務上、徳川会社の傘下で働くことになったといったとこでしょうか。

ちなみに、このとき真田氏とともに、同じく信濃国衆の小笠原貞慶木曾義昌らも、徳川氏の与力となっています。ただ、のちに小笠原氏、木曾氏は徳川氏の家臣になってしまいますが、真田氏はそうはならなかったことを思えば、豊臣政権下における昌幸の存在感は、決して軽いものではなかったといえます。

e0158128_23052141.jpg 今話で昌幸の嫡男・真田信幸本多忠勝の娘・との縁談が持ち上がりましたね。のちに小松姫(小松殿)と呼ばれる稲と信幸の結婚については、諸説あって詳らかではありません。まずはその時期についてですが、天正11年(1583年)説(『甲陽軍鑑』)、天正14年説(1586)説(『沼田記』)、天正16年(1588年)説(『沼田日記』)などがあります。今回のドラマでは、最後の天正16年(1588年)説を採るようですね。ふつうに考えれば、昌幸が家康の与力となった天正15年(1587年)以降と見るのが自然だとわたしも思います。ただ、歴史家の平山優氏の著書では、信幸が家康の与力となった天正17年(1589年)以降で、最も可能性が高いのは、天正18年(1590年)と述べておられます。どうなんでしょうね。

 また、信幸に輿入れするにあたって、家康の養女になったというエピソードですが、これも、確かな史料は存在しないようです。一説には、家康が忠勝の娘と信幸との縁談を持ちかけたところ、昌幸が難色を示したため、家康の養女として嫁がせるとして承諾したとの逸話もあります。別の説では、忠勝が信幸の武勇に惚れて縁談を申し入れたというものや、秀吉が二人の縁談を指示したという説もあります。結局のところ、詳しいことは何もわかっていないのですが、いずれにせよ、徳川氏と真田氏の親密化のための縁談であったことは間違いないでしょう。

真田家にとって、この縁談がのちの運命を大きく変えることになります。先の話になりますが、関が原の戦いのあと、昌幸・信繁父子に切腹を命じようとする家康に対して、懸命に助命嘆願を訴えたのは、信幸と、他ならぬ義父の本多忠勝でした。もし、この縁談が成立していなければ、関が原の戦いで昌幸・信繁父子の生涯は終わっていたかもしれません。その意味では、この縁談は、徳川氏より真田氏において大きな意味があったといえます。

e0158128_23062489.jpg さて、大坂では茶々が秀吉の側室となることを承諾しました。実は、茶々が秀吉の側室になった時期も、正確にはわかっていません。天正15年(1587年)に妹・お初の結婚、同年9月、聚楽第竣工、10月に「北野大茶会」で、この翌々年の天正17年(1589年)には秀吉との最初の子・鶴松(お捨)を生んでいるので、おそらく天正15年から翌年の間だっただろうと考えられます。このとき茶々は18歳、秀吉は50歳でした。

 「あの方は私が死ぬときに、日の本一幸せなおなごにしてくれると約束してくれました。言ってみたいと私は思いました」

 切ないですね。最終回、彼女はどんな台詞を吐くのでしょう。

 「おかしな話をします。私と源次郎は不思議な糸で結ばれている気がするのです。離れ離れになっても、あなたがいつかまた戻ってくる。そして私たちは同じ日に死ぬの」

 無粋なことを言うようですが、茶々こと淀殿自害したのは、信繁が討死した翌朝でした。もっとも、夜が明ける前のことだったでしょうから、「同じ日」と言っていいかもしれませんね。淀殿といえば、気の強いヒステリックな女性として描かれることが多いですが、本ドラマでは、天真爛漫に振る舞いながらも心ここにあらずといったエキセントリックなキャラとして描かれています。大蔵卿局いわく、「悲しむことをやめた」のだとか。そんな心の闇が顕になったとき、どんな淀殿が出てくるのか・・・。今後が楽しみですが、胸が痛くもあります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-16 23:09 | 真田丸 | Comments(4)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~

大阪のド中心部・梅田のまちなかにある太融寺というお寺があるのですが、その境内の一角に、淀殿の墓と伝えられる墓石があります。
ここは空海(弘法大師)が創建したと伝わる由緒正しきお寺で、戦国時代は豊臣家ともゆかりが深かったそうですが、オフィス街のど真ん中にあるため、観光地という印象はありません。

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大坂城落城後、淀殿の墓は、東成郡鴫野村弁天島(現・大阪ビジネスパーク)にあった淀姫神社に安置されていたそうですが、明治10年(1877年)、弁天島全域が軍用地になるにあたって、豊臣家とゆかりが深かったこの寺に移されたそうです。
といっても、淀殿の遺骸は確認されていないとの説もありますし、遺骨が埋葬されているのかどうかはわかりません。

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右奥の六輪塔がそれです。
元は九輪塔だったそうですが、昭和20年(1945年)の空襲で破壊されてしまい、現在の六輪塔になったそうです。

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墓石の横には、藤見東陽という昭和の漢詩人が詠んだ詩碑があります。
石碑の石は、淀殿が生まれた小谷城ゆかりの石だそうです。

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碑文の読み下しです。

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石碑に埋め込まれた銘盤です。
法名を「大淀院英岩」というそうです。(寺伝)

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物語などでは、関ヶ原の戦い高台院と淀殿の戦いだったように描かれることも多く、また、大坂の陣においても、大坂方の実質的大将は豊臣秀頼ではなく淀殿だったように描かれたりします。
実際のところはどうだったのでしょうね。
いずれにせよ、日本史上、彼女ほど壮絶な生涯を生きた女性は、他にいないといっても過言ではないでしょう。
京都の高台寺に高台院の立派な霊廟があることを思えば、ここ太融寺の片隅にひっそりと埋葬されている淀殿の墓は、何とももの悲しげに思えました。
ちなみに、ここ太融寺も大坂の陣の際に全焼したそうで、その後、元禄年間に再建されたそうです。

さてさて、ようやく次稿でシリーズ最終稿。
最後は、あの人の墓を参ります。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-26 18:03 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

天守の北側の山里口を抜けて石垣を下ったあたりを、山里丸と呼びます。
豊臣時代には、山里の風情を持つ松林などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていました。
茶会花見を楽しむ豊臣家のくつろぎの場所だったそうです。

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天正11年(1583年)に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は、翌年1月、天守よりも早く、ここで茶室完成のお披露目を行っています。
没後は遺児・豊臣秀頼によって、父・秀吉を祀る豊国社がこの場所に建てられました。

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いまでも、絢爛な天守とは異質な、閑静な風情の空間として存在しています。

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現在、この山里丸の一角に、「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」と刻まれた石碑が建っています。

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慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣によって大坂城は落城しますが、その翌日、秀頼と淀殿、そしてその側近の者たちは、ここ山里丸にあったに籠り、側近の大野治長が、秀頼の妻で徳川家康の孫でもある千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願するも、家康の容れるところとならず、結果、櫓に自ら火を放ち、自害して果てます。

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石碑は、いくつかの史料にある「朱三櫓」があったとされる場所に建てられていますが、実際には、秀頼の最期の場所がどこであったかは諸説あって、正確なことはわかっていません。
まあ、慰霊碑ですから、だいたいこの辺りだったと考えればいいのかなぁと思います。

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その後、秀頼と淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、また遺体も確認されなかったため、当時から様々な生存説が囁かれてきました。
ふたりの不死鳥伝説を以前まとめた稿がありますので、よければそちらを一読ください。
    ↓↓↓
映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その2 ~豊臣家の不死鳥伝説~
まあ、どの生存説も根拠に乏しく事実無根とみていいのでしょうが、ただ、それだけ多くの生存説を生み出した背景には、当時の庶民感情のなかに、徳川新政権への反感と、豊臣政権の復活を望む思いが、少なからず存在していたことの表れだったのでしょう。

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この日も誰かが生けた花が供えられていましたが、この碑は天守に向かう道からすこし脇道にそれた場所にあり、この日も大勢の観光客がいたにも関わらず、ここに足を運ぶ人は少なかったですね。
それが何とも寂しく、でも、目立つ場所でたくさんの観光客に囲まれるよりは、陽の当たらない場所でひっそりと静かに眠っていたいと思っているかもしれませんね。
命日はもう過ぎましたが、今年はふたりの400回忌の年です。
合掌。

あと、もう一回だけ続きます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-21 20:03 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第44話「落ちゆく巨星」 その1 ~秀次事件~

 53歳にして授かった待望の男児・鶴松を55歳で亡くした豊臣秀吉が、57歳にして奇跡的に授かった男児・。のちの豊臣秀頼ですね。ただでさえ歳取ってからの子供は可愛いといいますし、何より、一時はあきらめていた実子への家督継承の道が再び見えたのだから、拾にかける思いは並々ならぬものだったに違いありません。その溺愛ぶりは鶴松のとき以上に激しいものでした。

 この拾の誕生により、立場が危うくなってしまったのが秀吉の甥である豊臣秀次。彼は秀吉の実姉・瑞龍院の長男で、この十数年前に秀吉の養子となっていました。鶴松の死後、自身の年齢から考えてもはや実子は見込めないと考えた秀吉は、秀次を自身の後継者に任命して、関白職も譲ります。しかし、それからほどなくして淀殿が拾を出産。きっと秀吉は、秀次に関白職を譲った自身の早計さを嘆いたことでしょう。その思いが、後世に悪評を残すことになる「秀次事件」に発展していきます。

 秀吉も最初は、拾と秀次の娘を婚約させるなど、「秀次のあと、拾の成人を待って政権移譲」といった方向で事を進めていました。娘婿に継承というかたちであれば、秀次の面目も立ち、悪いようにはしないだろうという秀吉の考えだったのでしょう。しかし、その頃にはおそらく自分はこの世にいない・・・そう考えると、秀次が約束どおり拾を後継者とするか、心配で心配でいたたまれなかったのでしょうね。秀吉は次第に、自分が生きている間に拾を後継者にしたいと考えるようになります。そこには、ドラマのように淀殿の希望もあったかもしれません。そしてその思いは、身内に優しかったはずの秀吉を豹変させます。

 まず秀吉は、伏見城を築城し、拾とともに聚楽第からそちらに移ります。秀吉が伏見城に移ると、後を追うように豊臣家重臣たちも挙ってそちらに移り始めます。寂れていく聚楽第に残された秀次は、きっと危機感を覚えたに違いありません。結果を知る後世の私たちからみれば、この時点で秀次は自ら関白職を辞し、拾のために席を空けるべきだったでしょう。そうすれば、歴史はまた違ったものになっていたかもしれません。しかし、残念ながら秀次は、その地位に固執してしまうんですね。権力というものは、一度手にすると手放したくなくなるもので、それは、現代の社会でも変わりません。

 文禄4年(1595年)7月3日、石田三成増田長盛前田玄以ら奉行たちが秀次のもとに訪れ、秀吉に対しての謀反の疑いを言い立てます。秀次は懸命に弁明しますが受け入れられず、7月8日、秀次は秀吉に直に釈明すべく伏見城に出向きますが、秀吉との面会は叶わず、「高野山への追放」という厳しい処分を言い渡されます。高野山へ入った秀次は出家しますが、そのまま隠遁生活とはいかず、それから1週間後の7月15日、秀吉の命により切腹して果てます。享年28歳。一時は権力の頂点を手に入れた秀次でしたが、やはり、棚ボタで手に入れた地位とは脆いものです。

 その後、秀吉の秀次に対する仕置は彼ひとりの命にとどまらず、一族すべての抹殺を命じ、秀次の死から半月後の8月2日、京都三条河原にて梟首された秀次の首の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑されます。彼女たちは牛車に乗せられて市中を引き回された後、三条河原へと到着。その変わり果てた秀次の首と対面したのち、次々と惨殺されていったといいます。戦国時代の京都三条河原といえば、処刑場の代表地ともいえる場所で、死刑執行や処刑見物が日常茶飯事のことであったにもかかわらず、この時の秀次妻子に対する処刑は、見物人の中から卒倒・嘔吐する者が相次いだと伝えられます。彼女たちの死骸はその場に掘られた大穴に次々と放り込まれ、その上に四角推の大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めた石櫃が据えられたといいます。秀吉はこの塚を「畜生塚」と名付け、道行く人たちへの見せしめとしたと伝えられます。このときの秀吉は、もはや正常な精神状態ではなかったのかもしれません。

 この秀吉の愚行は、当時の日本の倫理観社会常識に照らし合わせても悪逆無道な行為で、この秀次事件が後世に残した影響は計り知れません。この事件で数少ない豊臣一族を処刑してしまったことが、結局のところ豊臣政権の弱体化を招いたことは確かで、このとき秀次の謀反の企てに関与していた疑われた大名たちが、総じて「関ヶ原の戦い」で徳川方に属することとなったのも事実です。わが子・拾の行く末を案ずるあまり、豊臣家の行く末が見えなくなった秀吉。まさに、歴史上もっとも大きな権力を持った究極のモンスターペアレントといえるでしょうね。

 長くなっちゃったので、次回「その2」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-03 22:20 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第39話「跡を継ぐ者」 ~官兵衛の隠居と聚楽第落首事件~

 豊前国中津に移り住んで2年が過ぎた天正17年(1589年)5月、黒田官兵衛は突如、隠居を願い出ます。このとき官兵衛44歳。当時としては決して若いとはいえないものの、豊臣秀吉をはじめ徳川家康前田利家など、官兵衛より年長の武将たちがまだまだ現役バリバリで働いていたことを思えば、官兵衛の突然の引退発表は周囲を驚かせたことでしょう。まだまだ官兵衛の力を借りたいと考えていた秀吉は、許すはずがありませんでした。

 隠居を申し出た官兵衛の様子を、『黒田家譜』は次のように伝えます。
 「孝高、秀吉公に被申上けるは、私事病者になり候間、とても長生は仕るまじく候。願くは存生の内、愚息吉兵衛に領地を譲り、吉兵衛が身に引受、拝領の地の仕置を仕らせ、家人共能召つかひ、上の御用に立候様に後見いたし、安堵仕度由、重畳こひ申されけれども、秀吉公あへて許容したまはず。」
 身体が不自由なわたしは、とても長生きでるとは思えず、できればまだ元気なうちに息子の吉兵衛(黒田長政)に家督を譲りたい・・・と。たしかに、官兵衛はかつての有岡城幽閉による後遺症で身体的障害を抱えており、普通の44歳よりは老けていたかもしれません。

 官兵衛が隠居を決意した背景について、『黒田家譜』によれば、
 「孝高早く禄をゆづり官職を捨給ふ事は、利欲うすくして昿達なるのみならず。秀吉公其大志と武略すぐれたる事を知て、忌おそれ給ひ、其権臣等も、孝高の功名英才の大に人に過たるを妬む者多ければ、其讒をさけ災をのがれん為也。是明哲にして身を保つの道なるべし。」
とあります。官兵衛がにわかに隠居を決意したのは、利欲が薄くて心が広いことに他ならないが、それとは別に、秀吉やその家臣は官兵衛の功名や英才を妬む者が多く、その災いを避けるため、あえて身を退く決意をした・・・と。「其権臣等」というのは、おそらく石田三成のことを指しているのでしょうね。

 この『黒田家譜』の伝える説話については、どこまで信用できるかは定かではありません。前話の稿でも述べましたが(参照:第38話)、秀吉が官兵衛を警戒していたというエピソードについても、明確な根拠はなく後世の脚色が大いに感じられる伝承です。ただ、『黒田家譜』の記述をすべて鵜呑みには出来ないにしても、官兵衛の隠居はちょっと唐突な気がしますよね。ではなぜ、にわかに家督相続を急いだのか・・・。そこには、やはり保身の意図があったんじゃないでしょうか。お隣の肥後国では、領国支配に失敗して秀吉の信頼を失った佐々成政が、切腹に追いやられました(参照:第36話)。それを横目で見ていた官兵衛は、明日は我が身といった心境だったかもしれません。だったら、あらぬ嫌疑をかけられる前に身を引こう・・・と。「明哲にして身を保つの道なるべし」です。

 しかし、官兵衛の申し出は秀吉に受け入れられず、最終的には秀吉の正室・北政所に口利きを請い、なんとか秀吉の了解を取り付けますが、秀吉が出した条件は、長政への家督相続は許すが隠居は許さず、自身の側近として仕えよ、というものでした。秀吉がどれほど官兵衛をあてにしていたかがわかりますね。ここが落しどころと見た官兵衛は、その条件を承諾します。息子に社長の椅子を譲ったあと会長職に就かず、親会社の相談役としてヘッドハンティングされた・・・といったところでしょうか。条件的には悪い話ではないように思いますが、その親会社次第でしょうね。一気に日本一の大企業に上り詰めた豊臣商事ですが、その屋台骨はまだまだ不安定で、しかもそのカリスマ社長がちょっとトチ狂い始めている・・・となると、ヘッドハンティングの話は決して光栄なものではなかったかもしれません。しかし、下請け会社の社長としては、自身の築いた会社を守るためには断れない出向ですね。これも「明哲にして身を保つの道なるべし」でしょう。

 官兵衛の隠居申し出の3ヵ月ほど前に起きた聚楽第落首事件。秀吉の側室となった茶々懐妊したことを嘲笑する落首が、何者かによって聚楽第の南鉄門に貼りだされます。

 大仏の功徳もあれや槍かたな 釘かすがいは 子宝めぐむ
 ささ絶えて茶々生い茂る内野原 今日は傾城 香をきそいける


 当時、秀吉は京都に大仏殿を築こうとしていたといわれますが、その大仏の功徳で、子種がなかったはずの秀吉が子宝に恵まれた・・・と。これに怒り狂った秀吉は、門番の17人を処刑し、他にも本願寺に逃げた者を捕らえ、関わった者の居宅も焼き払い、総計113人を処罰したといわれます。門番17人の処刑は、まず鼻をそぎ落とし、翌日には耳をそぎ落とし、さらに翌日には逆さに磔して処刑したとか。めちゃくちゃですよね。

 この事件の3ヵ月後に茶々は棄(鶴松)を出産し、時を同じくして官兵衛が隠居を申し出ます。単なる偶然のタイミングだっただけかもしれませんが、親会社の方向性に不安を感じたからかもしれませんね。まさに、「明哲にして身を保つの道なるべし」です。


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by sakanoueno-kumo | 2014-10-02 21:16 | 軍師官兵衛 | Comments(0)  

映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その2 ~豊臣家の不死鳥伝説~

昨日の続きです。
途絶えたと思われていた豊臣家の血筋が実は脈々と生き続けていたというのが、映画『プリンセス・トヨトミ』での設定ですが、この種の伝説というのはこの映画に限ったことではなく数多く残っています。
慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の際に、豊臣秀吉の継嗣・豊臣秀頼は生母の淀殿と共に陥落する大坂城内の山里曲輪隅櫓で自刃して果てたというのはよく知られていますが、その秀頼が側室との間にもうけた嫡男・豊臣国松も、乳母と共に城を落ちるも徳川方の捜索により捕らえられ、市中引き回しのあと京の六条河原で田中六郎左衛門長宗我部盛親と共に斬首されました。
国松の年齢は不詳ですが、秀頼が文禄2年(1593年)生まれの23歳だったことから考えれば、国松は大きくとも7~8歳までだったことでしょう。
それが戦国の世のならいとはいえ、哀れな最後を遂げた幼い国松に人々の同情が集まったでしょうし、そんな酷い仕打ちをした徳川新政権が当時の庶民の反感を買ったであろうことは想像に難しくありません。

そんな背景から生まれたのか、国松の生存説が大分県日出町に残っています。
その説によれば、側近に護られた国松は薩摩国に落ち延びて島津氏に匿われたのち、豊後国日出藩に身を寄せていたとされます。
当時の日出藩主・木下延俊は、豊臣秀吉の正室・高台院の甥でした。
延俊は国松を城内で匿い、頃合いを見計らって自身の四男・木下延由(延次)として幕府に届け出たとも伝えられます。
その根拠として、延由の位牌に国松という文字が刻まれているというのですが、いかがなものでしょう。
実際の延由は、のちに5千石の旗本となっています。

他の説としては、天草四郎が国松だったという伝承もあります。
「島原の乱」は、豊臣家が起こした最後の反乱だったという面白い仮設ですが、この説についていえば、どう考えても年齢が合わないので、邪説と考えていいでしょう。
その天草四郎にもまた生存説がありますから、キリがありません(笑)。
それだけ、国松に生きていてほしいと願う当時の人々の思いから生まれた伝承だったのかもしれません。

e0158128_10592658.jpg国松の父である秀頼の生存説も数多くあります。
大坂城落城の際、秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者はおらず、死体も発見されなかったことから、当時から様々な生存説が囁かれてきました。
有名なものとしては、秀頼は肥後熊本藩主加藤家、もしくは大叔父の織田長益(有楽斎)の用意した舟の船倉に潜んで徳川方の追及をかわし、真田信繁(幸村)と共に薩摩国谷山に逃れたという説。
しかし、谷山では大酒を呑んでは暴れるため、領民には嫌われていたとか。
のちに秀頼が生存していることを幕府に訴え出た者がいたそうですが、「秀頼はもはや死んだも同然」ということで、不問に付されたと伝えられます。
また、秀頼が地元の女性との間に谷村与三郎という男子をもうけたとか、真田信繁(幸村)も鹿児島県頴娃町に隠れ住んだなどともいわれています。
現在、鹿児島市のJR指宿枕崎線谷山駅の近くに、秀頼のものと伝えられる墓碑があるそうです。
他の説としては、上述した国松の生存説と同様、日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号して45歳まで生きたという異説も残っています。

e0158128_110087.jpgその秀頼の生母・淀殿にも生存説が存在します。
大阪夏の陣に徳川方として従軍していた上野総社藩主・秋元長朝が、大坂城落城の前後に豊臣方の高い身分と思われる女性から助けを求められ、これを保護したそうです。
長朝はその女性の気品と美貌から淀殿と見抜き、秘かに居城である総社城に連れ帰りました。
長朝が徳川家に無断で淀殿を連れ帰ったのは、美女とうたわれた淀殿を自らのにしようと考えたためでした。
しかし、気位が高い淀殿は長朝の邪恋を受け入れようとしません。
結局、淀殿は最後は自ら利根川へ入水自殺を遂げたとも、業を煮やした長朝に惨殺されたともいわれています。
現在、前橋市の元景寺には淀殿のものといわれる墓碑があり、淀殿が用いたという打掛駕籠の引き戸なども保存されているそうです。

とまあ、そんな具合で豊臣家にまつわる不死鳥伝説は数多く存在するのですが、いずれも根拠に乏しく伝承の域をでません。
秀頼と淀殿の生存説は、おそらくどれも事実無根と考えて無理はないでしょう。
唯一信憑性があるとすれば、国松の生存説ですね。
おそらく当時、国松の顔を見知る者などほとんどいなかったと思いますし、豊臣方の残党が替え玉の子供を徳川方に捕らえさせた・・・あるいは、国松を取り逃がした徳川方が、その事実を隠蔽するため、替え玉を処刑して事の終結をはかった・・・などなど、どれも考えられなくもない話です。
しかし、国松を匿うという行為は徳川家に背くということで、そこまでのリスクを背負ってまで国松を匿う義理が、秀頼と淀殿の落命後にあったかといえば、甚だ疑問ではありますけどね。
いずれにせよ、これだけ多くの不死鳥伝説が存在することからみるに、当時の庶民感情の中に、徳川新政権への反感と、豊臣政権の復活を望む声が、少なからず存在していたことの表れだと思います。
国松の生存説は、そんな人々の希望だったのかもしれません。
そう考えれば、映画『プリンセス・トヨトミ 』の中で400年豊臣家の血筋を守り続けてきた「大阪国」の国民たちの思いは、あながち的外れではないのかもしれませんね。
ひょっとしたら、私たちの知らないところで「大阪国」は存在するかもしれませんよ(笑)。

映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その1 ~荒唐無稽とはいえない「大阪国」~


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-18 17:00 | 映画・小説・漫画 | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第43話「淀、散る」

 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、真田信繁(幸村)後藤基次(又兵衛)らの健闘が目立った豊臣方だったが、老獪な徳川家康は和睦の後に大坂城の堀をすべて埋め立ててしまう。家康は何がなんでも豊臣秀頼淀殿の命を奪い、豊臣家の息の根を止める考えだった。堀を失い、裸城となった大坂城にもはや防禦力は無いに等しく、幸村、基次らは慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では城外に打って出る作戦に転じた。しかし、頼みとしていた木村重成(長門守)、基次が相次いで討死を遂げ、秀頼、淀殿が籠もる大坂城に対する徳川方の包囲も日を追って厳重になっていった。

 5月6日夜、包囲をより厳重にした徳川方は7日、大坂城に向けて総攻撃を敢行した。大坂城の北側は淀川などの諸河があるため攻撃は困難、これを踏まえ、家康、そして徳川秀忠に率いられた徳川方は城の南側に兵力を集中させた。その陣容は、伊達政宗松平忠直井伊直孝藤堂高虎前田利常らが前面に展開し、その後方に家康、さらに秀忠というものであった。

 豊臣秀頼の正室である千姫が秀忠・お江夫妻の長女であることはいうまでもないが、上述した松平忠直の正室である勝姫は秀忠・お江夫妻の三女、さらに前田利常の正室である珠姫は秀忠・お江夫妻の次女である。江戸城で留守を預っていたお江にとっては、夫の秀忠や姉の淀殿のことはもちろん、娘や甥、娘婿たちの身の上の心配もしなければならなかった。ドラマではひたすら写経をしていたお江だったが、実際のお江も、きっと祈り続けていたことだろう。しかし、お江が心配するすべての者が幸せになる道など、あろうはずはなかった。

 城の南側に攻め寄せた徳川方が総攻撃を開始したのは、7日の正午ごろだった。豊臣方では真田信繁(幸村)、毛利勝永明石全登らが打って出て、獅子奮迅の活躍をする。なかでも、全登の援護を受けた幸村は家康の本陣へ肉薄し、家康を討死寸前にまで追い込んだというが、あと少しというところで家康を討ち漏らす。不運にも、幸村は疲労困憊しているところを忠直麾下の鉄砲頭に撃たれて討死を遂げた。この頃になると徳川方の組織だった攻撃は止んでおり、気がつけば大坂城は煙に包まれていた。やむなく、淀殿・秀頼母子と千姫は、大蔵卿局大野長治真田大助といったわずかな側近、侍女たちと共に、城内の山里曲輪の隅櫓に逃れた。

 千姫を大坂城から脱出させるという計画は、千姫の側近と寄せ手の徳川方との間で早い段階で合意が成立していた。しかし、落城ギリギリまで実行されなかったのは、「千姫が城内にいる限り、徳川方は総攻撃を仕掛けてこないに違いない。」と踏んで、淀殿が千姫を放さなかったからだという説もある。また、和睦交渉に際して千姫を持ち駒切り札として使おうと考えていたとも。このため、淀殿は千姫の身体をで縛り、自ら縄を握って放さなかったという逸話もある。それでも、千姫の側近である侍女・刑部卿局はあきらめず、千姫の脱出を画策。機転を利かした彼女は、「秀頼様が負傷されました!」と叫び、これに驚いた淀殿は縄を投げ出して息子の安否確認に走ったため、その一瞬の隙を衝く格好で、侍女に守られた千姫は大坂城を脱出した・・・という説も。ドラマとはずいぶんと違うエピソードだが、いずれにせよ、千姫が城外へ脱出したことにより、徳川方にしてみれば総攻撃を躊躇する理由がなくなったことは間違いない。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したというが、豊臣家の息の根を止める決意をしていた家康がそれを受け入れるはずもなく、8日の正午ごろには直孝麾下の鉄砲隊による曲輪への一斉射撃が開始される。これを徳川方の返答だと知った淀殿と秀頼は、自らの命運が尽きたことを悟り、自刃して果てた。文禄2年(1593年)生まれの秀頼は享年23歳、淀殿は永禄12年(1569年)生まれという説にしたがえば、享年49歳だった。その場にいた大野治長や大蔵卿局、侍女ら二十数人も母子に追従、そのほぼ同時に、付近に置かれていた煙硝に炎が引火したため、山里曲輪は大炎上したという。

 家康がいつから豊臣家を滅ぼそうと思ったかはわからないが、慶長16年(1611年)の二条城の会見後あたりから豊臣家への挑発が露骨になり、おそらくその頃からその意思を固めていたと考えてよさそうである。家康は鎌倉時代の正史『吾妻鏡』を熟読していたといわれるが、そこに描かれる平清盛が、情に絆され肉欲に溺れ、源頼朝義経兄弟を助命したばかりに、後年になって平家はその兄弟に攻め滅ぼされたという事実を自身の立場に置き換え、徳川家の天下を永続させるためには、清盛の犯した失敗を決して繰り返してはならないと考えたのかもしれない。豊臣秀頼が若く聡明であったこと、豊臣家の一族、豊臣家恩顧の大名の中に、秀頼に忠誠を誓う者が今なお多いこと、秀頼が浪人の召抱えに躍起になっていること、豊臣の居城・大坂城が難攻不落の堅城であること、「天下は回り持ち」という風潮が巷にあること・・・などを鑑み、家康は慶長10年(1605年)に秀忠に将軍職を譲った上で、秀頼、そして生母の淀殿を攻め滅ぼすことに心血を注ぐようになった。お江が何度、淀殿・秀頼親子の助命嘆願を行ったとしても、家康はそれを受け入れることはなかっただろう。

 「はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならびなき 春にあふらし」
 「あひおひの 松も桜も八千代へ 君がみゆきのけふをはじめに」
 「とてもないて 眺めにあかし深雪山 帰るさ惜しき 花の面影」


 豊臣秀吉が没する半年前の慶長3年(1598年)3月に行われた「醍醐の花見」の席で、淀殿が詠んだ歌である。歌の中に出てくる「君」は秀吉のことだと考えるのが一般的だが、秀頼のことだともとれなくもない。思えば波乱に満ちた彼女の人生の中で、秀頼の生母として秀吉の側にあったこの束の間の時間が最も幸せだった時期で、これ以前もこれ以後も、一刻として心休まるときはなかった。この歌には、そんな幸せな今を噛み締めながら、これからもこの幸せが続いて欲しいと願う思いと、この先を案ずる不安な思いとが入り交じっているようである。この歌から17年後に、彼女はその波乱の人生の幕を閉じた。それは同時に、戦国時代の終焉でもあった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-07 17:00 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)