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平清盛 第28話「友の子、友の妻」 その1

 「平治の乱」平清盛率いる平氏軍の前に敗北を喫した源義朝は、再挙を図るべく東国へ下った。『平治物語』によると、当初、長男・源義平(悪源太)、次男・源朝長、三男・源頼朝の3子が義朝に同行していたが、幸か不幸か、頼朝は途中で父兄とはぐれてしまう。一方、義朝と義平、朝長の父子三人は、美濃国の青墓に達したところで、息子二人にある提案をした。それは、
「同一行動をとると目立つ!ここは三人が別々に東国へ向かい、再挙を目指そう!」
というものだった。義平と朝長はこの義朝の提案に同意し、三人はそれぞれ別々に東へ進んだと伝えられる。

 そのうち次男の朝長は合戦で深手を負っていたため、たちまち単独行動がとれなくなり、やむなく朝長は義朝の前に姿を表して保護を求める。しかし、剛毅で知られる義朝はその朝長の言動を軟弱と決め付け散々に罵倒し、なおも朝長が保護を求めるや、義朝はにわかに抜刀して朝長を刺殺したと伝えられる。なんとも哀れな話だ。また、別の説では、深手を負った朝長を義朝は同行させようとしたが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否し、
「どうか父上の手で私をお討ちになり、後の憂いのないようにしてください」
と頼み込み、父の手によって殺害してもらったという。ドラマではこちらの説を採用していた。前の説は、義朝の剛毅さを強調するための伝説と見たほうがよさそうで、ドラマで描かれていた後の説のほうが人間らしく真実味がある。だが、いずれの説から考えても、朝長が父の手にかかって絶命したのは事実のようである。

 息子を手にかけてまで再挙を目指した義朝は、乳兄弟で側近の鎌田正清と共に尾張国野間の長田忠致の屋敷を訪ねた。忠致は正清の舅という間柄で、その縁を頼ってのことだった。しかし、事前に平氏方に唆されていたのか、忠致は息子の長田景致と図って義朝、正清の殺害を計画。『平治物語』によれば、義朝は入浴中に襲撃されて殺害されたという。正清も酒を飲まされて斬り殺された。京を離れてわずか3日後のことだった。尾張地区の伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最後に、
「ここに一ふりの太刀ありせばかかる遅れはとらぬものを」と無念を叫んだとされる。また『愚管抄』では、忠致・景致父子の陰謀を察知した義朝が正清に自らの首を打つよう命じ、義朝を斬首したのちに正清は自害したとされる。義朝と正清が刺し違えて果てたというドラマでの設定は、『愚管抄』の説からアレンジしたものだろう。ドラマの義朝らしいみごとな最期だったと思う。享年38歳。忠致によって京にもたらされた義朝の首級は、年が明けた正月9日、東の獄舎の門上の木にかけて晒されたという。

 ちなみに、このときから25年後の文治元年(1185年)、「壇ノ浦の戦い」で平家を滅ぼした源頼朝は忠致を捕らえ、父・義朝の墓前で処刑した。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』では、処刑の方法は「土磔」にしてなぶり殺しという残忍な方法だったと伝えている。

 父・義朝の横死を伝え聞いた長男・源義平は、平氏方にリベンジするべく危険を承知で京へ舞い戻った。しかし、ほどなく平氏方の難波経房の手で捕縛され、父の横死から約半月後の1月19日、六条河原にて斬首される。処刑の際、介錯人の経房をにらみ、「雷となって汝を蹴殺さん」と云い残して死んだと伝えられる。それから7年後の仁安2年(1167年)、清盛一行が摂津国の名瀑「布引の滝」に詣でた際、一天にわかにかき曇り雷神となった悪源太義平があらわれ、清盛に同行していた経房は雷に打たれて死んだという。このとき京の都にも六波羅にも雷が落ち、多くの人々が命を失ったという。これを深刻に見た清盛は、大般若経を僧に読経させ、義平の霊を鎮魂したと伝えられる。

 頼朝といい悪源太義平といい、源氏の執念恐るべし・・・である。

 また長くなってしまったので、明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-17 18:05 | 平清盛 | Trackback | Comments(2)  

平清盛 第27話「宿命の対決」 その2

 その1の続きです。
 後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)を奪われたことで朝敵となってしまった藤原信頼源義朝だったが、『愚管抄』によると、天皇脱出を知った信頼、義朝は「アブノ目ヌケタル如クニテアリケリ」という状態になってしまったという。目をくりぬかれた虻のように自分たちの進む方向性を失ってしまった様子を表したものだろう。また、『平治物語』では、天皇を奪われたことを知った義朝は、その不手際に怒って信頼を「日本第一ノ不覚人」と罵ったという。しかし、すべてはあとの祭り、賊軍に転落した彼らは、攻め寄せてくるであろう官軍を迎え撃つべく直ちに迎撃体制を整えた。

 一方、官軍となった平家軍は、総大将である平清盛が皇居となった六波羅を固め、清盛の長男・平重盛と、清盛の弟、平頼盛が攻め手の大将として義朝たちの籠もる内裏を攻撃した。『平治物語』によると、重盛は並み居る兵を前に「年号は平治なり、花洛は平安城なり、我らは平氏なれば、三事相応せり。敵をたいらげん事、何の疑いかあるべき」と叫び、兵士たちの戦意を鼓舞したという。また、ドラマにあった重盛と義朝の長男・源義平(悪源太)との一騎討ちも、『平治物語』に描かれている一幕である。待賢門に攻め寄せた重盛は、迎え撃つ義平と大庭の椋の木を真ん中に挟んで左近の櫻右近の橘の間を7・8回も駆け巡った。やがて、重盛が内裏を引き退くと、義平は逃げる重盛を追い、堀河付近で再び激闘を繰り広げたという。堀河での激戦の模様は『愚管抄』にもあり、馬を射られながら材木(堀河は材木の集積地)の上に弓杖で立ち上がり、馬を乗り換えた重盛を「ユユシク見ヘケリ」と記している。さらに『平治物語』では、郁芳門を攻撃した頼盛についても、徒武者の熊手に兜を引っかけられながら、忠盛から譲られた名刀「抜丸」で熊手の柄を切り折り窮地を脱する様が描かれている。

 やがて平家軍は六波羅へ兵を退く。戦闘中に内裏を捨てて退いた重盛軍、頼盛軍だったが、『平治物語』によると、実はこの撤退はあらかじめ申し合わされてのことだったという。合戦前、公卿から新造なった内裏を火災で失わないよう策を求められた清盛が、義朝軍をおびき出して内裏を占拠するために立てた策だった。そうとは知らずに源氏軍は一斉に内裏を出て、重盛らに追いすがった。このあと、平家軍の別働隊が内裏を占拠して門を閉ざしたのはいうまでもない。清盛の立てた策にまんまと掛かって退路を断たれた源氏軍は、もはや六波羅に攻めこむしか道はなかった。

 同じ頃、平家軍は加茂川に架かる五条大橋を分解し、用材を使ってバリケードを構築していた。この奇策を立案したのもまた、誰あろう清盛だった。決死の覚悟で六波羅に迫った義朝軍だったが、五条大橋のあたりでバリケードに行く手を遮られ、さらに兵の数にも歴然とした差があり、あえなく六条河原敗退した。一時は義平が幾重もの防衛戦を突破して六波羅の板塀近くまで攻め寄せるという奮戦ぶりを見せたものの、結局は多勢に無勢、衆寡敵せずだった。ドラマで描かれていた清盛と義朝の一騎討ちはいうまでもなくフィクションである。味方だった源頼政や美濃源氏の源光保(二条帝の側近)たちにも裏切られ、家臣の多くを討ち取られて十騎ほどになってしまった義朝軍は、東国で再起を図るため落ちていった。ここに、「平治の乱」は平家軍の大勝利をもって幕を下ろした。敗走する源氏を見送った清盛は、「内裏に行って昨日信頼に渡した名簿(みょうぶ)を取り返してやろう」といって人々を笑わせたというエピソードが残っている。

 余談だが、小学校の運動会紅組白組に分かれて戦う形式は、源平合戦に由来するといわれている。『保元物語』には、「源平両家の郎等、白旗、赤旗をさして、東西南北へはせちがふ」とあり、ドラマでも描かれていたように、源氏が白平氏が紅の旗印を掲げて戦った。これ以後、わが国では対抗戦において紅白が用いられるようになったといわれ、小学生が運動会でかぶる紅白帽は、紅白の鉢巻の発展系だといわれている。つまり、最初の源平合戦であるこの「平治の乱」が、わが国最初の紅白対抗戦だったというわけである。ちなみに我が家では、息子は白組、娘は紅組になることが何故か多い。なるほど、どうりで仲が良くないわけだ・・・。上、さらに余談。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-10 18:00 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)  

平清盛 第27話「宿命の対決」 その1

 平治元年(1159年)12月17日、本拠である京の六波羅へ無事帰還した平清盛とその一行だったが、すぐには動き出さなかった。敵方の藤原信頼源義朝後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)をおさえており、下手に動けば清盛たち平家が賊軍になりかねない。この3年前の「保元の乱」のときは義朝率いる源氏の活躍が甚だしく、脇役に過ぎなかった清盛だったが、このときの清盛は次々と的確な手を打っていき、優れた軍政家としての裁量を発揮する。結果としてこのときに繰り出した一連の奇策が、信頼、義朝を敗北へと追い込むことになる。

 清盛の帰還は、信頼の暴挙を苦々しく思っていた公卿たちを大いに力づけた。『愚管抄』によると、清盛の帰還に最初に反応したのは内大臣藤原公教だった。公教はひそかに二条親政派藤原経宗藤原惟方に近づき、二条帝を内裏から脱出させる計画を持ちかけた。経宗ら二条親政派にしてみれば、「打倒信西」を旗印にこれまで信頼と行動を共にしてきたものの、信西斬首後も政局の主導権をとりつづけている信頼と義朝には不満を抱いていた。もともと、反信西という点でのみの同盟に過ぎなかった両者。事が成ったあとは、分裂するのは必然だったといえるだろう。

 二条親政派のうち六波羅にいる清盛との連絡役となったのは、惟方の妻の兄弟である藤原尹明だった。尹明から天皇脱出計画を持ちかけられた清盛は一策を考案した。それはドラマにもあったように、昼のうちに女房用の車をすだれを垂らして内裏近くに待機させ、二条大宮で火事を起こし、信頼方が火事に気を取られている隙をついて、天皇を車に乗せて奪取しようというものだった。

 さらに清盛は、尹明の提案により信頼に名簿(みょうぶ)を提出して油断させた。名簿とは、現代の誓約書契約書に相当するもので、つまり、清盛は信頼に対して反抗の意思がないことを示した偽りの名簿を差し出すことで、敵方を欺くという策に出たのである。六波羅に帰還して1週間が経った25日早朝、第一の家人である平家貞を使者として名簿を信頼に奉呈した。京で随一の兵力と財力を誇る平家の服従の証に、信頼は大いに喜び、すっかり油断してしまった。

 その日の夜、天皇救出作戦が決行された。惟方は、まず後白河院のもとに赴いて内裏からの脱出をすすめ、仁和寺に逃すことに成功する。怪しまれることなくやすやすと脱出したというから、信頼方はよほど油断していたのだろう。つづいて、かねての打ち合わせどおり二条大宮で火事が発生、その隙に尹明は内裏に参入し、天皇を女房車に乗せ無事六波羅へ行幸させることに成功する。このような危急の事態のなかで、天皇とともに皇位の正統性を示す三種の神器琵琶・和琴の名器殿上の椅子まで持ちだされたというからすごい。

 二条帝が六波羅に到着すると、天皇に近侍する蔵人の藤原成頼「六波羅を皇居となされたり」と触れまわり、公卿、殿上人もわれ先にと六波羅へ詰めかけた。ドラマでは描かれていなかったエピソードとして、このときの清盛の度量の大きさを示す話が『愚管抄』に記されている。続々とやってくる公家衆に混ざって、ときの関白・藤原基実とその父・藤原忠通もやって来たが、基実が信頼の妹婿だったため、公卿殿上人から一斉に冷ややかな視線が注がれた。そこで公教が基実参入の可否を清盛に問うたところ、「関白のことはことさら相談する必要はない。来なければ呼ばなくてはならないが、来たのだから結構なことだ」と、心おきなく歓迎したという。これを聞いた人々は「よくぞ申したものだ」と感心したという。基実にしてみれば、清盛の一言にどれだけ救われたか察して余りある。後年、清盛娘の盛子と基実の婚姻がすんなりと成立するのも、このときの清盛の度量に基実が信服していたからに違いない。このときそこまで計算していたわけではないと思うが・・・。いずれにせよ、天皇、上皇を擁したことで、清盛率いる平家ははれて官軍となった。翌26日、六波羅から信頼・義朝追討宣旨が出され、いよいよ平家軍の出陣となる。

 長くなってしまったのでその2に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-09 15:43 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)  

平清盛 第25話「見果てぬ夢」

 平清盛太宰大弐に任命された保元3年(1158年)8月、後白河天皇(第77代天皇)は即位3年という短さで長子の守仁親王に譲位。二条天皇(第78代天皇)が誕生した。もともと後白河帝の即位は、崇徳上皇(第75代天皇)に院政を敷かせないためにとられた鳥羽法皇(第75代天皇)と美福門院得子の策謀によるもので(参照:第18話)、守仁親王が天皇の座に就くまでの中継ぎとしての即位だった。つまり、二条帝の即位は予定どおりだったのである。

 ドラマでは、後白河帝の気まぐれで譲位したかのように描かれていたが、『兵範記』平信範の日記)によれば、「仏と仏との評定」によって決したと記されており、「仏と仏」=「出家した者と出家した者」、すなわち美福門院得子信西の協議によるものだったと考えられている。天皇の側近として権勢をふるいたい信西にしてみれば、政治向きに疎い後白河帝をそのまま天皇の座に据えていた方が何かと都合がよかったかもしれないが、そもそもの後白河帝誕生の出発点に立てば(あるいはそのことを美福門院から指摘されたら)、やむを得ない譲位だったのかもしれない。ただし、このとき二条帝は若干16歳。上皇となった後白河院が院政をしくことになる。鳥羽院の死によって美福門院の発言力も衰えており、その実権は相変わらず信西の手にあった。

 しかし、信西の権力が強大なるとともに、これに恨みを抱く勢力が現れ始めたのも当然のことだった。その一人が、鳥羽院の近臣だった藤原忠隆の子で、後白河院の近臣として異例の昇進を遂げていた藤原信頼だった。信頼はこの2年弱の短期間で従四位下から正三位へ五段階上昇、官職も武蔵守から検非違使別当まで駆け上がるという飛ぶ鳥を落とす勢いの出世を遂げていた。ただし、この急速な昇進は、『愚管抄』の言葉をかりれば「アサマシキ程」の寵愛を後白河院より受けて実現したものであり、純粋に実力でのし上がったわけではなさそうである。一説には、後白河院の男色相手だったとも伝えられているが、いかがなものだろう(それが本当なら、塚地武雅さんのキャスティングはいかがなものだろう・・・笑)。その真偽はともかく、彼の異例の出世に不信感を抱く空気は実際ににあったようで、『平治物語』では彼のことを「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と散々な評価を与えている。

 寵におごった信頼は、後白河院の後ろ盾を受けてさらに上位の大臣近衛大将の官職を希望したが、信西がこれを阻止。ドラマにもあったように、信西は信頼の危険性を後白河院に伝えるべく、唐の玄宗皇帝安禄山を重用して国を滅ぼした故事を『長恨歌絵巻』に描いて、暗に後白河に諌言したほどだった(しかし、後白河院がこれにまったく気付かなかったというのも、ドラマのとおりである)。大臣・近衛大将への昇進を阻止された信頼は、信西を激しく恨むようになったと伝えられる。

 もう一人、信西に恨みを抱いていた男がいた。源義朝である。義朝は「保元の乱」における後白河方の勝利の一番の立役者であり、さらにはその戦後処理に際して信西の命令で実の父や年若い弟たちを自らの手で処刑したにもかかわらず、信西が主導した戦後の恩賞は、さして戦功があったわけでもない平家に厚く源氏に薄いものだった。この恩賞の格差を平清盛と信西の同盟関係にあると考えた義朝は、自らもこの実力者に取り入ろうと、信西の息子の一人を娘婿にもらいたいと申し入れた。しかし、信西は「わが子は学者にて武門の家の婿には相応しくない」といってこれを拒否。しかしその一方で、同じ武門の家柄である清盛の娘との縁談を進めて、義朝の面目をつぶしたと、『愚管抄』には記されている。信西にしてみれば、清盛と義朝のどちらが役に立つかを比べた当然の判断だったのだろうが、面目をつぶされた義朝が、信西に恨みを抱いたのもまた当然のことだった。

 さらに反信西勢力として、院政を否定して天皇が政治を主導する「親政」の実現を目指す一派も台頭してきた。二条帝の伯父である藤原経宗と、帝の乳母子の藤原経宗である。「信西排除」という目的で一致した源義朝、藤原信頼、藤原経宗、藤原経宗が結びつくまでに、さして時間はかからなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-06-25 16:44 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(0)  

平清盛 第23話「叔父を斬る」

 後白河天皇(第77代天皇)方の勝利で幕を閉じた「保元の乱」。その戦後処理を一手に引き受けた信西は、敗者への苛烈極まりない処分を断行していった。まず、仁和寺において拘束された崇徳上皇(第75代天皇)を讃岐国に配流。天皇もしくは上皇の配流は、奈良時代に起きた「藤原仲麻呂の乱」における淳仁天皇(第47代天皇)の淡路配流以来、およそ400年ぶりのことだった。敗軍の将とはいえ、既に出家を果たしており、また上皇という高貴な身分を考慮するなら、京のしかるべき場所に幽閉される程度の刑に留めおかれると思われたが、処分は遠国に流罪という予想外に厳しいものだった。後白河帝を頂きに権勢を振るいたい信西としては、力を失ったとはいえ上皇という立場にある崇徳院の息の根を完全に止めておきたかったのだろう。

 また信西は、これを機に藤原摂関家の弱体化をはかった。崇徳院方の参謀だった藤原頼長は、奈良の興福寺にいた父・藤原忠実に助けを求めるも拒否されて自害(参照:第22話)。忠実にしてみれば、頼長に連座して罪人になることを避けるための苦渋の選択だった。しかし、信西は忠実を罪人として扱い、洛北にある知足院に幽閉。崇徳院のように流罪とならなかったのは、79歳という高齢が主な理由だったようである。そして信西は忠実、頼長が持っていた摂関家領を没収。後白河方についていた関白・藤原忠通が残っているとはいえ、摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕する。『保元物語』によれば、忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。

 その他、頼長の息子たちを始め、崇徳院方についた公家の多くが流罪に処せられたが、その武力となって前線で戦った武士たちへの処分はより苛烈なもので、源氏では源為義とその4人の息子たち、平氏では平忠正とその4人の息子たちに対して信西は、大同5年(810年)の「薬子の変」を最後に、およそ350年行われていなかった死罪を言い渡した。しかもその刑の執行を、源氏、平氏のそれぞれの棟梁である源義朝平清盛に命じたのである。ドラマでは、義朝、清盛ともに刑に不服を申し立てていたが、実際に助命を嘆願していたと伝えられるのは義朝だけである。清盛と忠正は、もともと平氏内でも対立関係にあった。義朝と為義も対立していたという点では同じだが、叔父と甥、父と息子では関係の深さが違いすぎる。さして仲の良くない叔父一族を斬った清盛に比べて、実の父や年若い弟たちに手をかけた義朝の心痛は並々ならぬ大きさだったといえよう。

 断腸の思いで父と弟たちを処刑した義朝だったが、歴史書として信憑性が高いとされる『愚管抄』によると、
「為義は義朝がり逃げて来りけるを、かうかうと申ければ、はやく首を切るべきよし勅定さだまりにければ、義朝やがて腰車に乗せてよつつかへ遣りてやがて首切りてければ、『義朝は親の首切りつ』と世には又ののじりけり。」
(意訳:為義は義朝のもとへ逃げてきたのを、義朝が朝廷に報告すると、速やかに斬首にするよう帝から命令が下されたので、義朝は為義を輿に乗せて、よつつか(地名?)へ連れて行って間もなく首を刎ねたので、『義朝は親の首を斬った』と世の人々は騒ぎ立てた。)

とある。実の親を斬った義朝への世間の風当たりは強かったようだ。

 一方で『保元物語』では、義朝は自分で斬ることができず、側近の鎌田次郎正清に命じたと書かれている。ドラマは、この説をベースにアレンジしたのだろう。念仏を唱えながら斬首を待つ描写も、同物語からの引用のようだ。さらに同物語では、清盛は自分が忠正を斬れば、義朝も為義たちを斬らざるを得なくなることを見越して、すすんで叔父の処刑に踏み切ったと記されている。ドラマでは同時進行となっていたが、実際には為義たちの処刑は忠正たちの処刑の2日後のことで、たしかに、それが義朝に刑の執行を決断させることになったのかもしれない。平氏にとってはこの刑はさほど痛手ではなく、むしろ清盛にとっては、かねてから意見が合わなかった傍流を始末するいい機会だったと言えなくもない。一方の源氏は、義朝自身は昇進したものの多くの兄弟を失うこととなり、勢力の弱体化は避けられなかった。それこそが、信西のねらいだった。摂関家を武力で支えた源氏の勢力を削ぐことは、とりもなおざず摂関家の弱体化につながる。忠正は、いわばそのダシとして処刑されたといっても過言ではないかもしれない。その策謀に清盛が一役買っていたかどうかは定かではないが・・・。

 いずれにせよ、貴族は流罪、武士は死罪という処分に、清盛は何を感じただろうか。保元の乱によって武士の力をまざまざと見せつけたとはいえ、世の慣らいは依然として武士を見下したものだった。しかし、武士の世はもうすぐそこまで来ていた。そのことを、清盛はこの頃から少しずつ感じ始めていたかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-06-11 16:03 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(2)  

平清盛 第21話「保元の乱」

 鳥羽法皇(第74代天皇)の崩御から1週間が過ぎた保元元年(1156年)7月10日深夜、ついに戦いの火蓋が切られようとしていた。平安京の南の鳥羽殿から賀茂川の東にある白河北殿へ移った崇徳上皇(第75代天皇)と藤原頼長のもとに集まったのは、清和源氏の源為義をはじめ、源頼賢源為朝(鎮西八郎)など為義の息子たちや、伊勢平氏では平清盛の叔父・平忠正の一族などであったが、武士としては二流どころで兵力も少なかった。対する後白河天皇(第77代天皇)方は、京で随一の兵力を誇る清盛をはじめ、清和源氏の嫡流で為義の息子である源義朝、足利氏の祖・源義康、摂津源氏の源頼政などそうそうたるメンバーで、数の上でも崇徳院方を大きく上回っていた。

 決戦を前に、それぞれの陣営で軍議が行われた。歴史書として信憑性が高いとされる『愚管抄』によると、崇徳院方では為義が夜討ちを献策したにも関わらず、頼長は大和の軍兵を待つとしてその案を一蹴したという。ドラマでは為朝が夜討ちを主張した設定になっていたが、これは軍記物語の『保元物語』にならったものだろう。なんとも厳つい顔をしたドラマの為朝だが、実はこのとき若干18歳。そんな若僧の為朝の献策だったとすれば、頼長が軽く見たのも無理からぬことだったかもしれない。また頼長は、天皇と上皇の戦いに夜討ちなど相応しくないといった考えもあったようだ。正論を好む観念主義の頼長らしい考えといえる。

 一方の後白河帝方の軍議では、合戦の計画を奏上せよとして、清盛と義朝の二人が朝餉(あさがれい)の間に召集され、ここで義朝は、敵方の父(もしくは弟)と同じく夜討ちを進言する。このとき、清盛がどのような奏上を行ったのかは不明である。後白河帝方に参陣したとはいえ崇徳院とも関わりが深かった清盛は、できれば崇徳院に対して手荒な真似はしたくないという思いもあったかもしれない。しかし義朝は違った。彼はこの戦いの戦功に自らの出世を賭けていた。義朝の進言を聞いた関白・藤原忠通は逡巡したが、実質的な参謀である信西はこの案を即座に採用。頼長と信西というそれぞれの司令官の見識の差が、勝敗を分ける決め手とる。

 「孫子曰く『利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止まる。』我らは今、兵の数で劣っておる。それで攻めるは理に合わぬ。大和の軍勢が着くのを待つのじゃ。」と頼長。
 「また孫子曰く、『夜呼ぶものは恐るるなり。』夜に兵が呼び合うは臆病の証。されど、孫子に習うまでもなく、夜討ちは卑怯なり!」
 いかにも厳格で偏狭な頼長らしい解釈だ。
 一方の信西は同じ言葉を、「夜通しこうしてピイピイと論じ続けるのは臆病者のすること」と解釈。さらに信西はこう続ける。
 「孫子曰く『利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止まる。』例え夜明けを待つにせよ、ぼんやりと待つことを、孫子は良しとはせなんだのじゃ。ならば動くがよし !今すぐ!」

 この頼長と信西の孫子の解釈の違いが明暗を分けたという脚本は、実に秀逸で面白かった。あくまで観念的な頼長に対して現実的な信西。孫子の解釈としてはおそらく頼長の方が正しいのだろうが、戦の司令官の見識としては必ずしも正しくなかった。一方で信西の解釈は、夜討ちありきで無理やり結びつけたこじつけ解釈。しかし、戦に勝つためには必要な屁理屈だった。もちろん、このエピソードはドラマのオリジナルだが、二人の人物像が上手く描かれたシーンだった。実際の頼長も、切れ者ではあったが狡猾さに欠けたところがあり、所詮は政治家ではなく官僚だったのだろう。一方の信西はまさしく政治家。彼はこの戦で、後白河帝の権威を保つため、そして自身の政治権力を強固にするため、邪魔になる勢力を一掃しようと画策していた。その信西の描いたシナリオにまんまと乗っかってきたのが、崇徳院と頼長だったのである。「保元の乱」は、信西が起こした信西のための戦だったといっても過言ではないだろう。

 7月11日未明、平清盛、源義朝、源義康率いる後白河帝方の兵600騎は内裏高松殿を出陣し、崇徳院方が篭る白河北殿へ押し寄せた。兵の数で劣る崇徳院方だったが、強弓を誇る源為朝の奮戦によって戦況は一進一退。一時は清盛たち後白河帝方が後退する場面もあった。しかし、義朝が内裏に使者を派遣して許可を得た上で白河殿に火を放つと、崇徳院方は浮き足立ち、合戦開始からわずか4時間、戦いは後白河方の圧倒的勝利で幕を閉じた。

 ドラマでは義朝に対抗心を抱いて奮戦していた清盛だったが、実際には清盛はこの戦いでは目立った活躍の記録がない。前話の稿(参照:第20話)でも述べたとおり、崇徳院と乳母子だった清盛は、この戦いには終始消極的な姿勢だったのかもしれない。にも関わらず、平家は戦後、手厚い恩賞を手にすることとなる。そしてそのことが、次の争いを生むことになっていくわけだが、このときの清盛はまだ知る由もなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-28 22:39 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

平清盛 第12話「宿命の再会」

 保延5年(1139年)以降に最初の妻と死別した平清盛は、久安元年(1145年)頃に後妻を迎えた。名は時子。後年、壇の浦の戦いで平家一門が源氏軍に敗北を喫したとき、自らの孫である幼帝・安徳天皇(第81代天皇)を抱いて海中に身を投じたことで有名な、あの女性である。このとき、清盛は27~28歳ごろ。時子の生年は諸説あるので正確なことはわからないが、大治元年(1126年)という説にしたがえば、19~20歳頃のことだった。

 時子の父は平時信という名の中級官僚で、清盛らと同じく桓武平氏である。ただ、清盛と時子を血縁関係とするにはかなり遠い。そもそも、桓武平氏には様々な系統があり、なかでも有力だったのは高棟王(第50代・桓武天皇の孫)の子孫である高棟流の平氏と、高望王(桓武天皇の曾孫)の子孫である伊勢平氏の2系統である。このうち、伊勢平氏は伊勢を本拠として武士の道を歩み、清盛の祖父・平正盛の時代に中央に進出、息子の平忠盛、そしてその息子の清盛の三代の時代に全盛期を迎える。一方、高棟流の平氏は京に留まり、公家の道を歩む。その高棟流の平氏の末裔が時子の実家である。清盛と時子は共に桓武平氏の一族ではあったが、系譜の面ではかなり異なり、遠戚ともいえない間柄だった。

 清盛ら伊勢平氏を武家平氏、時子の実家の高棟流平氏を公家平氏と呼んだりもする。公家平氏は武家平氏よりも家格でいえば上。若き日の最初の妻のときとは違って、野心を持った清盛にとって多分に政略的な意図の縁談だったに違いない。少なくとも、「もうそなたで良い!」なんて無礼極まりない求婚ではなかったはずだと思われる(笑)。

 清盛の前半生のライバルとなる源義朝は、父・源為義のもとを少年期に離れ、相模鎌倉を拠点として東国での勢力伸長を目指していた。一時は勢力伸長を急ぐあまりに、坂東南部の大庭御厨などを侵略して訴えられたりもしたが、徐々に東国の有力な在地豪族を傘下に収め、相模国一帯に強い基盤を作りつつあった。父と違ってかなりのヤリ手だったようだ。

 義朝のヤリ手ぶりは武勇のみならず、艶福家としても名高い。義朝の子女は少なくとも息子が9人、娘が2人いたといわれているが、それらの生母は、長男の源義平(悪源太)が橋本の遊女、次男の源朝長修理大夫範兼の娘(一説には大膳大夫則兼の娘)、三男の源頼朝、五男の源希義(土佐冠者)、長女が藤原季範の娘で正室となる由良御前、六男の源範頼(蒲冠者)が遠江池田宿の遊女、そして七男の阿野全成(醍醐悪禅師)、八男の義円(円成)、九男の源義経が有名な常盤御前である。この他にも、宇都宮朝綱の娘・八田局との間に、八田知家という男子をもうけたという伝承もあり、38歳没という義朝の短い生涯から思えば、大変な絶倫ぶりだ。ドラマでのワイルドなプレイボーイキャラも、結構、的を射ているかもしれない。
 「どうだ? そなたも俺の子を産んでみるか?」
 こんなとんでもない口説き文句で女を落としていたかどうかはわからないが(笑)。

 この時代、ひとかどの武将であれば一夫多妻は当然で、清盛の場合も例外ではなかった。しかし、良質の史料として確認できるのは、既述した正室と継室以外には厳島神社の巫女だったという妾が一人だけ。義朝の側室だった常盤御前を手篭めにしたという逸話は有名だが、それを裏付ける史料は存在せず、近年では懐疑的な意見が主流のようだ。また、『平家物語』に出てくる白拍子の祇王仏御前についても、同物語自体が事実を曲げてまでも清盛を悪人に仕立てようとする性質の物語であるため、どこまで信用できるかあやしいものである。

 ドラマでは宿命のライバルとして描かれている平清盛と源義朝。女にモテたのは、どうやら義朝の方だったようだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-27 22:07 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(0)  

平清盛 第3話「源平の御曹司」

 平清盛の前半生のライバル(という設定)だったのが、のちに清和源氏の棟梁となる源義朝。彼は、崇徳天皇(第75代天皇)が即位した保安4年(1123年)に源為義の長男として生まれる。清盛が生まれたのは元永元年(1118年)だから、義朝は清盛より5歳下ということになる。前話の岩清水臨時祭で舞を奉納した清盛は数えで12歳なので、その姿を見ていた義朝は7歳。今話はそれから3年経った設定だったので、清盛15歳で義朝10歳、今で言えば、中学2年生と小学4年生の二人である。どう見ても大人にしか見えない・・・なんて無粋なツッコミはやめて、鷹揚に観ていくことにしよう(笑)。つまり、今話は子供同士の喧嘩の話で、もちろん創作である。

 清盛の家系、義朝の家系は本拠をおいた国にちなみ、それぞれ伊勢平氏河内源氏と呼ばれてきた。清盛が生まれた当時の伊勢平氏は、祖父・平正盛、父・平忠盛の不断の努力が実を結び、隆盛の一途を辿っていた。清盛は比較的恵まれた環境で、まさしく御曹司として育ったといっていいだろう。一方で、義朝が生まれた当時の河内源氏は、様々な理由から衰退気味だった。そもそも清和源氏の中でも河内源氏は、源頼信源頼義源義家の三代の活躍により、中央政界でも確固たる地位を築いていた。しかし、天任元年(1108年)に義家の嫡子だった源義親(義朝の祖父)が出雲で叛乱を起こした。その義親の追討を朝廷が命じたのが、清盛の祖父・正盛だった。正盛は見事に義親を討ち取り京に凱旋、朝廷より恩賞が授けられ、義親は梟首とされた。これをきっかけに河内源氏では内紛が起こり凋落、代わって中央政界では伊勢平氏が台頭する。清盛と義朝の因縁は、お互いの祖父である正盛と義親の時代に始まったといっていい。

 ちなみに、義親討伐については諸説あって、剛勇で知られた義親が、それまでさしたる武功のなかった正盛に簡単に討たれたことを疑問視する声が当時からあったようで、一説には、正盛が別人を討ち取り、その首を義親のものとして披露したという説もある。おそらく邪説だろうとは思うが、もし事実ならば、正盛も義親以上に悪人である。ただ、無名の人物ならともかく、義親の顔は中央政界にも知れ渡っていたはずで、偽首を押し通すのは無理がある話ではあるが・・・。いずれにせよ、これを境に平氏と源氏の立場は逆転し、その息子、忠盛と為義の代になるとその差はいっそう開いた。その息子である清盛と義朝では、スタートラインから大きく違っていたのである。義朝は清盛に対してライバル心を抱いていたかもしれないが、清盛にとっては5歳下で官位もずっと下の義朝は、たいして眼中になかったかもしれない。ましてや、遠い将来、その義朝の子である源頼朝の手で伊勢平氏が滅ぼされることになろうとは、夢にも思わなかったことだろう。

 「3代目にして家は潰れる」なんて言葉をよく耳にするが、伊勢平氏にしても河内源氏にしても、3代4代と繁栄し続けることがいかに難しいことであるかは歴史の知るところである。まさしく、「おごる平家は久しからず」ですよね?・・・大王製紙さん。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-23 23:44 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)