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平清盛 第50話(最終回)「遊びをせんとや生まれけむ」

 平清盛が病に倒れたのは、治承5年(1181年)2月末ごろ。福原京から平安京還都して3ヵ月後のことだった。同年閏2月に入るとますます病状は悪化をたどり、やがて危篤状態に陥ったという。『平家物語』「入道死去」によると、清盛は発病以来、湯水ものどをとおらず、身体の熱いこと火の如くだったと伝えている。病床の清盛の口から出る言葉は「あた、あた(熱い、熱い)」だけで、あまりの熱さのため水風呂につけて身体を冷やそうとしても、たちまち水が沸き上がって湯になってしまい、筧で水を引いて注ぎかけても、熱した石に水をかけたときのように、水がはじけて一瞬で蒸発したという。

 にわかに信じがたいエピソードではあるが、物語では清盛の病死を、治承4年(1180年)に南都の興福寺東大寺焼き討ちした報いだとしているため、このような大げさな描写になったのだろう。ただ、清盛が高熱を発して苦しんだという記述は当時の貴族の日記や寺社の記録などにも見られるそうで、全くの作り話でもなさそうだ。そして物語では、「悶絶躃地してついにあつち死にぞし給ける」と続けている。「あつち死に」とは難しい言葉だが、発作、痙攣をするうちに高熱や激痛にたえられずに飛び上がり、悶え苦しんだ末に息絶えたという意味らしい。まさしくドラマの描写のとおりだ。

 九条兼実の日記『玉葉』によると、発病当初、清盛は「頭風」すなわち頭痛に悩まされたという。頭痛やめまいが起こり、高熱を発した末に痙攣を起こして死に至ったという症状から、死因は髄膜炎だったのではという説もある。また、清盛の盟友である藤原邦綱も同じ時期に似たような症状で死去していることから、同じ感染症で死んだのではないかとも考えられ、肺炎インフルエンザマラリアなどの可能性も指摘されている。いずれにせよ、当時の貴族たちの間では清盛の死は南都焼討の仏罰であるという認識が強かったようで、九条兼実は『玉葉』のなかで「清盛は本来骸を戦場に晒すべきところを、戦乱を免れて病没するとは運がよい」と述べつつ、その死が「神罰・冥罰によることは疑いない」と述べている。清盛の死をあからさまに喜ぶ者も少なくなかったようだ。

 『平家物語』の「入道死去」によると、死を目前にして妻・時子が、「此世におぼしめしをく事あらば、少しもののおぼえさせ給ふ時、仰をけ(この世に言い残しておきたいことがありましたら、意識がある間に仰ってください)と語りかけたところ、清盛は「今生の望一事ものこる処なし」と前置きした上で、「思ひをく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頸を見ざりつることこそやすらかね。(中略)やがて打手をつかはし、頼朝が首をはねて、わが墓の前に懸くべし」と語ったという。太政大臣天皇の外祖父と位人臣を極め、「わが人生に悔いなし」としながらも、どうにも気がかりなのは挙兵した源頼朝の動向、そして自身の死後の平家の行く末だったのだろう。

 さらに清盛は、側近の円実法眼後白河法皇(第77代天皇)のもとに送って「愚僧(清盛自身)の死後のことは万事宗盛に命じておいたので、いつでも宗盛と申し合わせて取り計らってほしい」と伝えた。しかし、それに対する法皇の返答は清盛が満足するものではなかった。これに怒った清盛は「天下のことはひとえに宗盛が取り計らうようにしたので異存はございますまい」と恫喝したという。死を目前にした清盛の言葉が脅しになるはずはなかったが、自身の死後も平家を守りたいという清盛の悲壮な思いが伝わってくる。しかし、はからずもこれが清盛の発した最後の言葉となった。清盛が八条河原の平盛国邸で息を引き取ったのは、その日の戌の刻(午後8時ごろ)であった。享年64歳。遺骸は荼毘に付され、播磨国山田の法華堂におさめられたとも、福原の経ヶ島に埋葬されたともいわれているが、正確な墓所は今もわかっていない。

 清盛によって栄華を極めた平家は、清盛の死を境に没落の一途をたどり、そして4年後の「壇ノ浦の戦い」に破れ、安徳天皇(第81代天皇)とともに滅亡する。これをわずか4年で滅んでしまったと見るか、4年も持ちこたえたと見るかは意見の分かれるところだが、いずれにせよ、平家の栄華は平清盛という巨星ひとりの存在によって維持されていたものだったということは、その死後の一族の動揺ぶりから見ても明らかである。まさしく「おごる平家は久しからず」、清盛の築いた平家政権は、その権威にあぐらをかき、結局清盛一代で終わってしまった。

 ただ、清盛の築いた平家政権は久しからずだったが、清盛が築こうとした武家政権は久しからずではなく、こののち鎌倉、室町、織豊、江戸と、約600年間もの長きに渡って継承されていく。その最初の扉を開けたのが平清盛で、その意思を受け継いだのが源頼朝だったというのが、このドラマの最大のテーマだったようだ。その意味では、平清盛はわが国史上随一の革命児だったといえよう。ドラマでの西行の台詞を借りれば、日本随一の武士(もののふ)だったと・・・。

 まさしく、平清盛なくして武士の世はなかった。


 1年間、拙稿にお付き合いいただきありがとうございました。秋以降、仕事が忙しく、起稿が遅れがちになっていましたが、なんとか最後までやり遂げることができてホッとしています。近日中に総括を起稿したいと思っています。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-25 02:20 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第47話「宿命の敗北」 その2 〜富士川の戦い〜

 石橋山の戦いで大敗した源頼朝だったが、その後安房国に逃れ、そこで千葉常胤上総広常ら在地の有力豪族を従えてまたたく間に関東を制圧。そして父祖ゆかりの相模鎌倉に入った。その動きを知った平家方では、平清盛の孫(平重盛の嫡子)・平維盛を総大将とする討伐軍が編成され、治承3年(1180年)9月21日に福原を発った。しかし、京の六波羅に到着した後、縁起の良い日を選んで出発しようという侍大将の伊藤忠清と維盛の間で意見がぶつかり、そうこうしているうちに1周間ほどの時間が過ぎた。これが命取りとなった。

 平家方が時間を空費している間に、頼朝の元には続々と諸国の兵が集まり、数万騎の大軍に膨れ上がった。さらに甲斐国では甲斐源氏の武田信義が、信濃では頼朝の従兄弟にあたる木曾義仲が挙兵。維盛率いる討伐軍がようやく京を出立したのは9月29日だったが、軍勢が駿河に到着する頃には、すでに平家方の先発隊や在地の平家勢力は武田信義以下の甲斐源氏に滅ぼされており、頼朝軍の優勢が出来上がりつつあった。鎌倉時代の正史『吾妻鏡』によると、このとき頼朝の軍勢は20万騎にも及んでいたという。石橋山の戦いで敗走した際、わずか6名となっていた頼朝主従が、たかだか2ヶ月足らずの間でのこの膨れ上がりようには驚きである。これは、頼朝に対する忠誠心カリスマ性と言うよりも、それだけ平家政権に対する不満が諸国に蔓延していたからにほかならない。つまりは、頼朝も担ぎ上げられた神輿にすぎなかったのである。そのことは、後に頼朝も痛感することになる。

 『平家物語』によると、一方の平家軍は7万騎ほどだったとあるが、そのほとんどが進軍しながら招集した兵(駆武者)が中心であったため戦意に乏しく、さらに折からの西国の大飢饉で兵糧の調達に苦しみ、士気は低かったという。そんななか先発隊のい敗北を聞いて恐れおののき、続々と源氏方に寝返ってしまったという。実際に戦える兵力は、平家方3千騎に対して源氏方は4万騎ほどだったとか。勝負は戦う前から決していたといえよう。この状況をみて侍大将の伊藤忠清は撤退を進言したが、総大将の維盛は頑としてこれを聞き入れなかったという。このあたり、ドラマにあったとおりである。

 10月24日夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝くため富士川の浅瀬に馬を乗り入れたところ、その軍勢の動きに驚いた水鳥の大群が一斉に羽ばたいた。この音を敵の奇襲だと錯覚した平家軍は、大混乱に陥ったという。『吾妻鏡』によると「その羽音はひとえに軍勢の如く」とあり、『平家物語』『源平盛衰記』によると、兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたという。この話がどこまで事実かはわからないが、水鳥の羽音のことは当時の貴族の日記にも記されているそうで、何らかの混乱はあったと考えてよさそうである。

 結局はこの混乱を立て直すことができず、さすがの維盛も忠清の進言を入れて撤退を決意。平家軍は総崩れとなって逃走した。退却中、全軍散り散りになり、維盛が京へ逃げ戻ったときにはわずか10騎になっていたとか。詳細を知った清盛は激怒し、激しく叱責したうえ維盛の入京を許さなかったという。さらに清盛は忠清に死罪命じたが、ドラマのとおり、平盛国の執り成しで許されたという。

 以上が平家の連戦連敗のきっかけとなった「富士川の戦い」の経緯だが、水鳥云々の話は別にしても、討伐軍にの総大将に戦知らずの維盛を立てたり、兵力の招集方法がずさんだったりと、平家軍は負けるべくして負けた感がなくもない。石橋山の戦いで大勝した油断があったのか、あるいは太平の世の慢心からきた惰弱ぶりだったのか、いずれにせよ、この敗戦による平家の威信の低下は著しかった。この敗戦から、「おごる平家は久しからず」の物語がはじまる。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-06 00:44 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第47話「宿命の敗北」 その1 〜石橋山の戦い〜

 治承3年(1180年)初夏、以仁王の発した平家打倒の令旨を受け取った源頼朝は、8月17日に伊豆の目代・山木兼隆の館を奇襲し、たやすく兼隆を討ち取った。これに勢いづいた頼朝は坂東各地の武士を味方につけながら、東方への進撃を開始する。やがて、兼隆討死の報に接した平氏方は、同月23日、相模の大庭景親が総大将となって源氏を迎え撃つ構えをみせた。このとき、頼朝を総大将とした源氏方には、岳父の北条時政をはじめ佐々木定綱土肥実平などの伊豆や坂東南部の武士が馳せ参じており、兵力は約300人ほどだったと推測されている。兼隆を襲撃した際の兵力は約30人ほどだったといわれており、わずか6日間で多くの武士が頼朝のもとに馳せ参じたことがうかがえる。

 一方の平氏方は、総大将の景親の下へ熊谷直実渋谷重国梶原景時らが馳せ参じ、兵力は約3千人にも達していたとか。ただし、坂東をはじめとする東国は、平治の乱までは源氏の配下にあり、景親麾下の将兵のなかには、かつては頼朝の父・源義朝の家臣だった者も多数いたという。

 そんななか、源氏方と平氏方は相模湾に面した石橋山で激突する。しかし、もとより兵力の差は歴然としており、結果はいうまでもなく平氏方の圧勝。総崩れとなった源氏方約300人の将兵は、蜘蛛の子を散らすように戦場から姿を消した。このとき頼朝に従った武士は、土肥実平をはじめわずか6名だったという。兼隆の襲撃に成功した頼朝は、わずか6日後に完膚なきまでに叩きのめされたのだった。

 翌日、平氏方は頼朝の探索をした。『源平盛衰記』によると、まもなく、大庭景親が山中に怪しい洞穴を見つけ、これを受けた梶原景時が洞穴のなかに入ると、そこには頼朝とおぼしき武将と、それを取り囲む側近たちの姿が目に入った。景時と目があった頼朝は自害しようとするが、景時はこれを制止し、「こうもりばかりで、誰もいない。向こうの山があやしい」と叫んだという。なおも景親か怪しんで洞窟に入ろうとすると、景時が立ちふさがって、「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄ったという。この剣幕に景親は諦めて立ち去り、頼朝主従は捕縛されなかった・・・という有名な逸話で、ドラマでもこの逸話にそって描かれていた。

 この話が実話かどうかはわからないが、もし事実ならば、まさしく頼朝は景時のおかげで九死に一生を得たことになる。おそらく洞穴の近くには景時以外にも多数の平家方将兵がいたはずで、もしこのとき景時が、「右兵衛佐(頼朝)がいたぞ!」と叫んでいたら、頼朝主従は立ちどころに討ち取られるか、捕縛されていたことだろう。なぜ景時は頼朝を見逃したのか・・・? 一般には、仮に頼朝の所在を景親に告げてわずかな恩賞を得るよりも、ここで頼朝に恩を売ることで、この先もし源氏の巻き返しがあった際には自身のプラスになると判断した、と考えられているが、果たして瞬時にそんな判断が可能だろうか? もともと平家政権に不満を抱いていたのか、あるいは洞穴のなかで見た頼朝の姿にただならぬカリスマ性を感じたのか、いずれにせよ、平氏方に身を置きながらも予てから源氏に心を寄せていたのかもしれない。もとは景時も義朝の家人だった。頼朝は死んだ父に助けられたといえるだろうか。

 こののち平氏方を離脱した景時は頼朝に仕え、大いに信任された。しかし、結局は頼朝の死後に謀反を企て、一族と共に滅亡する。頼朝には命の恩人として厚遇された景時だったが、源氏方の他の家人たちとは折り合いが良くなかったようである。後世の物語などでも、頼朝の弟・源義経を陥れた陰険な人物として描かれることが多い。これも、頼朝に恩を売って立身出世を遂げたしたたかな人物としてのイメージが強からだろうか。いずれにせよ、景時が洞穴に潜む頼朝を見逃していなければ、のちの頼朝による鎌倉幕府の樹立はもちろん、平家一門の滅亡もなかったかもしれない。景時の瞬時の判断が、歴史を大きく変えたといえよう。

続きは近日中の「その2」にて。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-04 14:45 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第32話「百日の太政大臣」

 二条天皇(第78代天皇)が崩御する前年の長寛2年(1164年)、平清盛は娘の盛子を関白・藤原基実のもとに嫁がせ、摂関家とも深い関係を結んでいた。盛子は北政所(正室)として迎えられたが、これが明らかに政略結婚であることは、基実21歳に対して盛子はわずか9歳だったことからもわかる。保元・平治の乱によって力を失いつつあったとはいえ、貴族社会の中で最高の権威を持つ摂関家との婚姻関係は、平家にとっては大きな名誉であり、反平家勢力を抑えるという意味でも大きな意味を持つ婚姻だった。さらに魅力だったのは、摂関家が全国に所有する膨大な荘園だった。清盛は配下の家人を預所に任命したり、荘園領主を下司に任じたりして在地支配にあたらせ、摂関家領荘園からの中間搾取を行おうとしていた。

 しかし、その目論見はその2年後の永万2年(1166年)に基実が24歳という若さで急逝したことで頓挫してしまう。基実の嫡男・藤原基通は11歳とまだ若く、代わりに基実の弟で後白河上皇(第77代天皇)の信任あつい藤原基房が摂政に就任した。このままでは摂関家領は基房の手に渡ってしまう。このときの清盛の様子を『愚管抄』では、「清盛ノ君、コハイカニトイフバカリニナゲキニテアル」と伝えている。

 そんな清盛に知恵を授けたのは、参議で長年摂関家の家司を務めた藤原邦綱だった。邦綱の提案では、摂関家領は嫡流である基通が継承すべきもので、基通が成人するまでは基実の正室である盛子が管理することも可能だという。『愚管抄』によると、この献策を受けた清盛は「アダニ目ヲサマシテ」喜び、摂関に付属する一部の所領だけを基房に相続させ、残りの大部分の摂関家領は盛子に相続させることに成功した。ドラマでは、邦綱の献策は後白河院が仕組んだことだという設定になっていたが、これはドラマのオリジナルである(だと思う)。

 基実の死は政界に与えた影響も大きかった。二条帝の死後、まだ乳飲み子の六条天皇(第79代天皇)を支えるかたちで摂政の基実が政治の主導権を握り、清盛も大納言として政権を支えていたが、その基実の死去によって六条帝政権は後ろ盾をなくし、5年ぶりに後白河院による院政が復活した。しかし、この政権交代にあっても平家の財力・軍事力が朝廷にとって不可欠であることには変わりなく、清盛の政治的地位は揺るがなかった。基実の死から3ヵ月後の仁安元年(1166年)10月、清盛の義妹・滋子(のちの建春門院)を生母とする憲仁親王が皇太子となった。3歳の天皇に対して6歳の皇太子という異例なかたちではあったが、後白河院にとっては二条帝の皇統を排除しようという意志の表れで、清盛にとっても妻の甥の即位を反対する理由はなかった。ここに平家一門と後白河院の事実上の政治同盟が成立したのであった。

 これによりさらに政治的地位を高めた清盛は、翌月に内大臣に昇進、その3ヵ月の仁安2年(1167年)2月には左右大臣を飛び越えて従一位・太政大臣にのぼりつめる。太政大臣は朝廷の機関・太政官の長官で、律令制においては最高の官職である。「王家の犬」と蔑まれた武士の棟梁が位人臣を極めた瞬間だった。ところがそのわずか3ヵ月後、突如清盛は太政大臣を辞任する。太政大臣は人臣最高の官職ではあったが、これといった職務はなく、摂関以外の上級貴族が晩年に賜る名誉職としての性格が強かった。そのため、ドラマにもあったように、清盛の太政大臣就任は朝廷が清盛を実権の伴わない地位に祭り上げて力を奪おうとした、という説もある(ドラマでは、その手ぐすねを引いていたのが後白河院だったという設定だったが、これはドラマのオリジナルである)。しかし、この説には否定的な見方が多い。なぜなら、大臣就任によって清盛の政治的影響力が弱まった事実はなく、むしろ大臣辞任後の清盛は前大相国(前太政大臣)として、これまで以上に国政に影響を及ぼすようになるのである。清盛にしてみれば、実権を伴わない官職は不要だが、平家の権威を高めるために肩書きだけはありがたく頂戴しておこう・・・そんな軽い気持ちでの太政大臣就任だったのかもしれない。

 源頼朝とその監視役の伊豆国豪族・伊藤祐親の娘・八重姫との悲恋物語は有名で、頼朝の物語には欠かせな逸話である。祐親が上洛中にふたりは通じ合い、やがて男子を一人もうけて千鶴御前と名付けた。その千鶴御前が3歳になったとき京から戻った祐親は、その子を存在を知って激怒。この事実が平家に知れることを恐れ、柴漬(柴で包んで縛り上げ重りをつけて水底に沈める処刑法)にして殺害したという。ドラマでは、どのように殺されたのかわからない描き方になっていたが、八重姫の泣き叫ぶ声のみの演出がいっそう想像力を掻き立て、悲しみを深くさせていた。実に秀逸な演出だったと思う。

 ただ、この八重姫と千鶴御前の悲劇は虚構の多い『曽我物語』でしか見られない話で、それも100年後に書かれたものであり、伝承の域を出ない。



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by sakanoueno-kumo | 2012-08-21 17:04 | 平清盛 | Comments(2)  

平清盛 第28話「友の子、友の妻」 その2

 その1の続きです。
 父兄とはぐれてしまった源頼朝は、平頼盛の家人・平宗清に捕らえられる。永暦元年(1160年)2月9日、京の六波羅へ送られた頼朝の処罰は、その20日ほど前に兄の源義平斬首されていることから考えても死罪が相当かと思われたが、平清盛の継母・池禅尼こと宗子のたっての懇願により死一等を減ぜられ、伊豆に流刑と決まった。『平治物語』によると、当時13歳だった頼朝が、宗子の実子である亡き平家盛(清盛の弟)に生き写しだったことから、彼女は自分の命に代えても頼朝を助けたいと清盛に懇願したという。もとより清盛は斬首するつもりだったが、継母のたっての願いに負けて、伊豆への配流にとどめたというのである。

 本当に頼朝が家盛と似ていたかどうかは確かめようがないし、そもそもそれが助命の理由だったのかどうかもわからない。ただ、宗子の厚意によって頼朝の首がつながったことは『愚管抄』にも記されており、後年の平家都落ち以後、頼朝が宗子の実子である平頼盛にだけは厚遇をもって接したというエピソードを見ても確実のようだ。清盛にしても、頼朝ひとりを斬ったところでどうなるものでもないし、これ以上血を見たくない思いもあっただろう。「保元の乱」で死刑の復活を命じた信西の首が獄門に晒されたばかりでもあり、復讐の連鎖が繰り返されることを恐れたのかもしれない。何より、清盛がいくら家督であっても、亡き父の正室である宗子の意向を簡単に無視できるものではなかっただろう。加えて「保元の乱」の際、去就に迷う清盛に助言し、平家一門の結束が一枚岩になるよう導いてくれた恩義(参照:第20話)を思えばなおさらだ。

 「頼朝殿を見ておると、家盛を思い出すはまことじゃ。されど、いっそう痛々しいは清盛。もとより、あのようなけなげな若者の命を奪いたいはずもなかろう。」(宗子)

 清盛の気持ちを代弁するために宗子が一芝居打ったというドラマの設定は、実に秀逸だった。清盛とて、13歳の少年を殺して気持ちいいはずはない。しかし、平家の棟梁という立場上、情にほだされるわけにはいかない。その清盛の苦悩を察し、清盛のために頼朝の助命を嘆願した宗子。いかにも一族思いの平家らしい話だが、この措置が、平家にとって最大の失策であったことは20年後に明らかになる。

 源義朝の愛妾である常盤御前今若乙若牛若の3人の子どもたちも捕らえられたが、頼朝を助けた以上、さらに幼い子どもたちを殺すわけにもいかず、出家を条件に許された。このとき乳飲み子だった牛若がのちの源義経である。常盤は近衛天皇(第76代天皇)の中宮である九条院雑仕女(雑事に従事する下級女官)だったといわれているが、『平治物語』によると、九条院が中宮にたてられる際、都中の美女を選んだ1000人の中から100人を選び、その100人の中から10人、その10人の中からもっとも美しい女性として選ばれたのが常盤だったという。それが事実なら、都一の美女だったというわけだ。その類い稀なる美しさに目を奪われたのか、清盛は常盤を閨に招き入れ愛妾とした。

 古来、戦いの勝利者が敗者の妻や愛人を我がものにすることは珍しくない。いわば「戦利品」である。敗者・義朝の愛妾で、しかも絶世の美女だった常盤御前を清盛が自分の妾としたのは、3人の子どもの助命に関係なく当然のことだった。ところが清盛の場合、常盤を自分の妾とする代わりに彼女の3人の子どもの命を助けた、というふうに描かれることが多い。事実はどうだったのだろうか。

 『平治物語』によると、3人の子どもたちを助けた理由は、このとき数えで6歳の乙若が死ぬ覚悟をしていた姿に清盛が心を打たれたことと、六波羅で開かれた会議で「兄の頼朝を助けておいて、それより幼い弟たちを殺すのはおかしい」という結論に達したためと伝えている。ところが『平治物語』よりも後に成立した『義経記』によると、清盛は「子孫の敵になろうとも常盤が自分の妾になるなら子どもを助けてやろう」といっており、自分の欲望のために子孫を危険にさらす愚将として描かれている。どちらが正しいかは知るすべもないが、『義経記』の説のほうが信憑性に乏しいのはいうまでもない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-18 17:37 | 平清盛 | Comments(2)  

武士の起源

 武士はいつ頃、どのようにして歴史に登場してきたのだろうか。従来の説としては、平安時代中期、地方の豪族有力農民の中から領主が生まれ、自分たちの土地を守るために武装して農民を支配したのが武士の起源だと考えられてきた。その中から武士団が形成され、さらに身分の高い桓武平氏清和源氏などに組織されて、やがて平安時代末期の平清盛源頼朝の出現によって、ついに貴族から政権を奪うに至る。武装した農民が徐々に力をつけて、古い貴族政権を倒して新しい武家政権を創りだしたというわけだ。たしか、私の中学・高校時代の日本史で習った武士の起源は、そんな感じだったと思う。

 しかし、在地領主が全て武士となったわけでなないし、この時代、寺院民衆も自分の身を自分で守るために武装するのは当たり前で、農民だけが武力を持とうとしたわけではなかった。むしろ、武士団の棟梁となった平氏や源氏たちのほとんどは中下級の貴族出身で、その源平の武士たちに与した地方の武士たちも、大なり小なり都との繋がりを持って朝廷から官位を得ていた者が少なくなかった。そこで、従来の「在地領主起源説」に対して、近年では武士はむしろ京から起こったとする「職能武士起源説」が主流となりつつあるらしい。この説によれば、武士は朝廷を守る「衛府」という組織から発展したもので、10世紀以降、都の軍事貴族に継承されて武士職ができたというのである。この説における武士観は、朝廷と結びついて農民に君臨する支配者としての側面が強く、農民たちの中のリーダーが自衛のために武力を持ったという従来の武士観とは、ずいぶん異なる。今年の大河ドラマ『平清盛』の中で、武士たちの存在を「王家の犬」と表現していることが話題になっているが、まさしくこの説でいえば、武士は朝廷の用心棒的存在といっていいだろう。

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 武士が武士として認知されるようになったのは、10世紀中頃に起きた平将門藤原純友による「承平・天慶の乱」からだといわれている。この頃、京の貴族社会では家々で世襲する「家業」が定着しはじめていたようで、「承平・天慶の乱」の鎮圧に貢献した者たちやその子孫が武士として認定され、戦闘を家業とする「武家」が誕生したというわけだ。つまり、武芸という職能を持った戦闘の専門職として誕生したのが武士の始まりだったというのである。実際、平清盛の遠祖・平貞盛も、「承平・天慶の乱」の際に平将門の追討に貢献して朝廷から官位を叙せられ、貴族社会への足がかりを得るとともに、その名声を利用して在地支配を強めた。やがて、それを受け継いだ子孫たちが「武家の棟梁」となり、軍事貴族を組織して武士団を形成していったのである。

 また、源平合戦で勝利をおさめた源頼朝の手よって成立した鎌倉幕府についても、武士階級が古い貴族政権を倒して打ち立てたわが国初の封建国家という従来の解釈から、公家や寺社などの諸勢力とともに中世の国家を形作っていた権門のひとつだった、という考え方(権門体制論)が主流となりつつあるらしい。この論によれば、鎌倉幕府は国家の軍事および警察権の担当組織であり、国政全体を掌握するまでには至らなかったというのでる。政権はあくまで朝廷にあって、幕府は公家政権下の軍事権門にすぎなかった・・・と。これまでの武士と幕府を中心とした歴史観は、大きく変わりつつあるようである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-23 21:32 | 歴史考察 | Comments(4)  

大河ドラマ『平清盛』における「王家問題」について。

 今年のNHK大河ドラマ『平清盛』で、院政時代の天皇家のことを「王家」と呼んでおり、そのことで物議をかもしているよいうですね。時間が経てば批判の声も静まってくるかと思っていたのですが、一向にその気配は見られず、むしろ、さらにエキサイトし始めている感さえあります。この「王家」という呼称を抗議する人たちの声としては、

「王」とは「天皇」よりも下の位であり、「天皇」=「王」という解釈は間違いである。現に韓国人が天皇のことを「日王」と蔑む意味で呼んでいるように、「天皇家」「皇室」と呼べばいいものを、あえて「王家」と呼ぶのは天皇家を侮辱する行為である。

というもの。これに対してNHKの反論及び、それを擁護する人の声としては、

「王家」という呼称は中世を扱う歴史学では主流となっている用語で、当時の史料の中にも見られる言葉である。むしろ、「天皇」という呼称は当時からあったものの、「天皇家」「皇室」といった用語は近代になって作られたもので、この時代の物語に使用するのは不適切である。

ということだそうです。ドラマが始まって俄に聞こえてきた声だと思っていましたが、実は昨年夏に同ドラマのHPが公開されたときから騒がれていたようですね。まったく知りませんでした。正直、私はこの種の知識に明るくなく、そんな素人の私がここで迂闊な私見を述べて、当ブログを炎上の危機に晒すよりも、黙って騒動が終わるのを見ている方が得策だとは思いますが、ドラマ放送開始早々、思いのほか視聴率がとれていない理由までもが、この「王家問題」のせいだといった記事も見かけられ、それは違うんじゃないかという思いから、少しだけこの件にふれてみたいと思います。

 「王家」という呼称が歴史学的に正しいのかどうかは、私にはよくわかりません。たしかに、日本史の中では聞きなれない用語ではありますよね。ただ、この用語が、批判する方々のいう「天皇家を侮辱する」といった意味で意図的に使われているとは、少なくとも第1話と2話を観る限りでは感じられませんでした。むしろ、天皇家こそが国家の中枢と見なす歴史観に則った描かれ方だったのではないでしょうか。そして清盛たち武家は、その天皇家に仕える武力担当にすぎなかったという解釈です。劇中でいう「王家」とは、広い意味での王権を掌握している「家」を指すもので、地位を指すものではないと思われます。劇中、清盛たち武家のことを「王家の犬」という言葉で表現していましたが、これをもし「天皇家の犬」なんて台詞で表現していれば、それこそ抗議が殺到したんじゃないでしょうか。

 別の用語として、「朝廷」とか「朝家」といった呼称もあります。おそらく、こちらが最も無難な用語で、これを使っていればおそらく大きな騒ぎにはならなかったでしょう。でも、「朝廷」とは藤原摂関家なども含めた公卿全体を指すものだと思いますし、私の勝手なイメージなので間違っているかもしれませんが、「朝廷」という言葉は現代で言うところの「政府」のようなもので、政を司る公的機関を表した言葉のように感じます。ですから、「朝廷の犬」なんて言われてもピンとこないですよね。つまり、天皇家に仕える身に過ぎなかった武士が、平清盛という人物の出現によって自分たちの実力に気づき、武家政権という新たな王権を作った・・・という物語の設定上、「王家」という用語が一番シックリくるという判断のもとに使われたのでしょう。

 そうしたドラマの内容を論じることなく、ただ「王家」という呼称だけをとらえて、ドラマ開始前から、やれ「反日」だの「自虐史観」だのと批判する声には、正直寒いものを感じます。純粋にドラマを楽しみたいと思っている者にとっては、ドラマにイデオロギー論争を持ち込まれても「またか・・・」といった感じでウンザリします。っていうか、昨年夏から騒がれているということからみれば、批判する人にドラマは関係ないわけで・・・。もとより大河ドラマなんて観ない人までもが騒いでるわけでしょ。純粋な大河ファンにとっては迷惑な話です。先日、「画面が汚い」などと的外れな批判をしてバッシングを受けていた何処かの県の知事さんがいましたが、あっちの方がまだマシです。大河ドラマを観光PR用のものと勘違いしたような発言ではありましたが、少なくとも、ちゃんとドラマを視聴した上での個人的感想ですから(知事という立場でそのような私見を述べるべきかどうかは別として)。

 私が危惧するのは、今回の騒動がきっかけとなって、また、天皇家をドラマに出すことに遠慮が出来ることです。実際、今年で大河ドラマは51作目だそうですが、その内、戦国期・江戸期・幕末維新期を舞台にした作品が40作以上を占めており、中世を舞台にした作品はこの度の『平清盛』を含めて5作品しかありません。これは、戦国期や幕末期がそれだけ人気が高いという理由もあるでしょうが、中世を描くとなると、どうしても天皇家を描かざるを得ず、非常にデリケートな部分に踏み込まなければならないから、といった理由もあるように思います。そこに久々にチャレンジした今回の作品でしたが、案の定、放送開始前からバッシングの嵐となってしまいました。これを見たドラマ制作者の方々が、今後この時代を題材にすることを躊躇するようなったとしたら、たいへん残念な話です。

 ちなみに、劇中で源頼朝に対して「殿」という敬称で呼んでいましたが、この時代、「殿」は摂政関白を指す言葉で、武家の主君が「殿」と呼ばれるようになったのは戦国後期から。この時代の武士の主君の呼び方は「お舘様」が正解でしょう。「王家」の呼称が批判されるなら、この「殿」にも批判が集まってよさそうなものですが、こちらはあまり聞こえてきません。「殿」でも「お舘様」でもイデオロギー的には何の問題もありませんからね。そんなところを見ても、この度の批判が歴史とは関係のないところで叫ばれているということがわかります。

 ちなみにちなみに、放送開始早々の視聴率が悪かったのは、「王家問題」とはまったく関係なく、昨年の『江~姫たちの戦国』の後半の視聴率低迷の余波にすぎないと思います。今年の作品が面白ければ、徐々に数字は上がって来るでしょう。むしろ、出だしの視聴率が低かったことで、軟化して批判の声に負けるようなことがあれば、そのほうが本来の大河ファンが離れていく結果を呼ぶでしょう。ぜひとも姿勢を貫いて欲しいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-20 15:19 | 平清盛 | Comments(8)