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真田丸 第40話「幸村」 ~方広寺鐘銘事件~

 今回は、「大坂の陣」に至るまでの経緯の説明の回でしたね。九度山村で蟄居中の真田信繁の前に突然現れた明石全登が、会わせたい人物がいるといって連れてきたのが、豊臣家家老で豊臣秀頼の傅役を務めていた片桐且元でした。「傅役を務めていた」過去形で紹介したのは、この時期すでに且元は大坂城を追放されており、徳川家康の元に寝返っていたからです。その且元がなんで信繁に・・・と思ったのですが、どうやら、世情を知らない信繁に対する、の語リ部役だったんですね。制作サイドの話によれば、今回のドラマは可能な限り真田一族きりがみていないシーンは描写しない方針だそうで、石田三成、大谷吉継の最期のシーンと同じです。

 大阪の陣に至る経緯のなかで、そのもっとも銃爪となったといわれるのが「方広寺鐘銘事件」ですね。この事件は、家康が豊臣家を攻めるための大義名分をでっち上げた言いがかり事件として知られていますが、今回のドラマでは、少し解釈が違っていました。まずは一般に知られているストーリーから紹介します。

 豊臣秀頼と淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っていました。この事業は家康が勧めたといわれ、その目的は、豊臣家の財力を削ごうという思惑があったといわれますが、逆に豊臣家としても、今なお秀吉の時代に劣らぬ力があるということを世間に知らしめる目的があったともいわれ、家康の勧めとは関係なく、淀殿と秀頼はこの事業を熱心に進めていたといいます。

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 そんな寺社復興事業の中に、かつて秀吉が建立し、地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿の再建がありました。そして慶長19年(1614年)、その修営もほぼ終わり、梵鐘の銘が入れられた7月になって突然、大仏開眼供養を中止するよう家康から申し入れがありました。その理由は、鐘の銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。この言葉は、「国家が安泰で、主君と家臣が共に楽しめますように」といった意味の言葉でしたが、家康がいうには、「国家安康」という句は家康の名を切ったものだとし、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむと解釈、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒します。

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 この言いがかりともとれるクレームに淀殿が逆ギレ。事態を重く見た家老の片桐且元は、家康への弁明のために駿府へ向かいます。しかし、且元は家康に会うこともできず、ようやく会うことのできた本多正純金地院崇伝といった家康の側近から、「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、このうちのどれかを選ぶように」との内意を受けます。且元は即答を避け、大坂への帰路につきます。

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ところが、且元の帰城と前後して、なかなか帰らない且元に業を煮やした淀殿は、側近の大野治長の生母であり淀殿の乳母でもある大蔵卿局を、第2の使者として家康のもとに送ります。大蔵卿局が駿府に到着すると、家康は且元の時とは態度を180度変え、機嫌よく彼女と面会し、「秀頼は孫の千姫の婿でもあり、いささかの害心もない。家臣たちが勝手に鐘銘の件で騒いで難儀している」と話したといいます。それを聞いた大蔵卿局は、狂喜して大坂城へ帰りました。淀殿は直接家康に会った彼女の報告を信じ、且元の持ち帰った3ヶ条を信用しないばかりか、「且元が家康と示し合わせて豊臣を陥れようとするものに違いない」と疑います。且元は、戦を避けるために家康に従うよう懸命に説きますが、これを淀殿が受け入れるはずもなく、逆に大阪城内で且元暗殺の企ても聞こえ始め、とうとう大坂城を退去するに至ります。同時に、且元と同じく非戦論を主張していた者たちも大坂城を追われ、秀頼と淀殿のもとに残ったは、大野治長をはじめとする主戦派の者たちばかりとなりました。

 というのが、よく知られている「方広寺鐘銘事件」の経緯です。そしてそのすべては豊臣氏討伐のために描いた家康の筋書きだった・・・と。この家康最晩年の老獪さが、後世に家康の印象を悪くしているといえますが、今回のドラマでは、ところどころ解釈が違っていました。そのひとつに、「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。これはまったくの言いがかりではなく、鐘銘を書いた文英清韓が、意図的に「家康」「豊臣」の字を隠し文字として用いた言葉で、しかしそれは、喜んで貰おうと思って考えたものが、逆に裏目に出てしまった、という設定でしたね。これは、ドラマオリジナルの解釈ではなく、時代考証の丸島和洋氏によれば、ずいぶん以前から存在した説のようです。つまり、何もないところから重箱の隅をつつくように言いがかりをつけてきたわけではなく、使わなくてもいい言葉を用いたために誤解を招いたというんですね。前者と後者では、ずいぶん印象が違います。

 また、片桐且元が持ち帰った和解のための条件も、ドラマでは勝手に且元が考えたという設定でしたが、またまた丸島和洋氏によると、実はこれも史実通りだそうです。且元としては、敢えて幕府の姿勢を強硬なものと示すことで、豊臣家を穏便な形で江戸幕府下の大名として存続させようとしたのでしょう・・・と。これが事実なら、且元と大蔵卿局の温度差も説明がつきます。これまでの物語では、徳川方が且元と大蔵卿局との対応の仕方を変えることで、豊臣家における且元の立場を悪くする狙いだったとされてきましたが、そうではなく、且元と大蔵卿局双方の受け取り方の違いだった・・・と。なるほど、それも、説明がつきます。

 つまり、「方広寺鐘銘事件」から「大阪の陣」に至る経緯は、家康の確信的な策謀ではなく、双方のすれ違いによるところも大きかった・・・ということですね。そうすると、家康の印象もずいぶん変わってきます。豊臣家が勝手に破滅の道を辿っていったことになりますね。どちらが真実なんでしょう。


 さて、「幸村」についてです。一般に「信繁」という名より多く知られる「幸村」ですが、このドラマが始まって以降、「幸村」という名は後世の物語で創作された名前だということは、いろんな方が解説されていますので周知のところだと思います。したがって、大坂城に入ることタイミングで「幸村」改名したという事実は存在しません。しかし、史料が存在しないだけで、ないともいえません。というのも、「幸村」という名前が使われ始めたのは、後世といっても明治や昭和になってからではなく、信繁の死後、わずか50年後のことです。その意味では、創作といえどもかなり古いものになりますよね。まだ信繁を知る者も生きていたかもしれません。そんな時代にすでに使われていた名前ですから、あるいは、何らかの根拠があったのでは・・・と、思いたくなります(学者さんは否定されるでしょうけど)。今回のドラマでは、「幸」の字を捨てた兄・信之に代わって、代々受け継がれてきた「幸」の字を信繁が継いだ・・・と。そしてそれは、昌幸の希望でもあった・・・と。いいじゃないですか!この設定。ここに、伝説の名将・真田幸村が誕生しました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-11 15:19 | 真田丸 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~

前稿で豊臣秀頼が修理した玉造稲荷神社を紹介しましたが、となれば、同じく秀頼が大修理を手がけた方広寺大仏殿の梵鐘を無視するわけにはいかないだろう、と思い至り、京都は東山まで足を運んできました。

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方広寺は、豊臣秀吉が奈良の東大寺に倣って大仏を安置するために、天正14年(1586年)から10年もの歳月をかけて造られた寺院ですが、慶長元年(1596年に)京都を襲った慶長大地震によって大仏は大破してしまったそうで、その後、秀吉は大仏開眼供養を待たずにこの世を去ります。

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で、そのあとの再建事業を行ったのが秀頼・淀殿母子でしたが、このとき鋳造した梵鐘に彫られた銘文が、徳川家を冒涜するものとされて徳川家康の怒りを買うんですね。
そちらの銘文がこれ。↓↓↓

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「国家安康」の字句が、家康の名を分割し首を切断することを呪詛したものだとし、「君臣豊楽」の文字が、豊臣家の繁栄を祈願しているとの分析。
いや~、みごとな言いがかり、ほとんどヤカラですね。
この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、徳川家がこの銘文を曲解して豊臣家に因縁を付けたものとされていますが、よく見つけたものです。

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この言いがかりで苦境に立たされたのが、方広寺の作事奉行を務めていた片桐且元でした。
このあと且元は、徳川家と豊臣家の関係をなんとか修復しようと奔走しますが、それがかえって豊臣方から逆心ありとの疑われるもととなり、最終的には、豊臣家を去ることになるんですね。(はじめから家康とグルだったという見方もありますが。)
そこまで家康が描いたシナリオだったのかどうかはわかりませんが、且元を敵に回したことが、豊臣家にとって大きな損失となったことは間違いないでしょう。

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鐘楼は明治時代に再建されたものだそうです。
この梵鐘は豊臣家が滅亡してから明治時代に新たな鐘楼が再建されるまで、現在の京都国立博物館付近に雨ざらしとなっていたそうです。
よく傷まずに銘文が残ってくれていたものですね。

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見てのとおり、デカイ鐘です。

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大仏殿及び大仏は、寛政10年(1798年)の落雷により焼失しています。
現在は巨大な石垣の一部だけが当時と変わらぬ姿で残っています。

もうすぐシリーズ終わりです。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-24 15:43 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~

今回は、二の丸と本丸を仕切る内堀を見ていきます。
まずは東面から。
内堀の総延長は約2.7kmで、寛永元年(1624年)の徳川幕府による再築第二期工事により、豊臣時代の本丸に盛土をほどこして石垣が築かれたそうです。
東面の石垣の高さは水面から約24mもあるそうです。

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どうです、この立派な石垣
迫力満点です。

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東側内堀の外から見た天守です。

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向こうに見えるのは、内堀北東にある極楽橋です。

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極楽橋と天守です。

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この橋は昭和40年(1965年)に再建されたものですが、天正11年(1583年)に豊臣秀吉が築城を開始したときにこの付近に架けられた橋も極楽橋と呼び、大阪夏の陣による落城後、徳川幕府による再築時にも、この場所に極楽橋が架けられました。
長さは約54m、幅は江戸時代には約8m(4間)あったそうですが、現在は約5.4mに縮小されているそうです。

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手前のミニスカートのお姉さんを狙って撮影したわけでゃないので、誤解なきよう!

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そのまま、内堀北側に進み、ほぼ真北に来ました。

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内堀北西から見た天守と石垣です。
この辺りは、天守がもっともかっこ良く撮影できるスポットとして有名です。

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ズームしました。

内堀西側は、「その3」で紹介した西の丸庭園になっており、現在は二の丸北側から入ることは出来ません。

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内堀東側の二の丸は現在梅林となっていますが、かつてここは市正曲輪と呼ばれ、豊臣秀頼の後見人として重職を担った片桐且元の屋敷があったとされています。
且元は東市正に任じられており、そこから市正曲輪と名付けられたんですね。
且元は秀吉の死後、豊臣、徳川両家のあいだに出来たを、なんとか埋めようと尽力した人ですが、いわゆる「国家安康」で有名な方広寺の鐘の件あたりから、豊臣家内部であらぬ疑いをかけられ、結果、弟の片桐貞隆とともに大坂城を脱出してしまいました。
これが結果的に、大坂冬の陣の引き金となります。

最後に、内堀南側にやって来ました。

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本丸を囲む内堀は、東・北・西は水堀となっているのに対し、南の内堀だけは、見てのとおり空堀になっています。

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現在の石垣は徳川幕府による再築工事で築かれたものですが、当初から空堀だったそうで、さらに、かつての豊臣時代の大坂城でも、南の内堀は空堀だったそうで、大坂の陣で徳川方が埋めたからではないそうです。
なぜ、ここだけ空堀なのかは不明なんだとか。
歴史の謎ですね。

さて、いよいよ本丸突入です。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-31 19:20 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2

昨日のつづきです。

神戸は幕末になってから開かれた港町と思われている人が多いですが、実はそうではなく、この兵庫城のあった兵庫津は、奈良時代より1300年の歴史があります。
古くは「大輪田の泊」と呼ばれ、平安時代には平清盛によって日宋貿易の拠点とされたことで有名ですね。
この近くには、清盛廟所や史跡も数多く存在します(下記参照)。 
KOBE de 清盛 史跡めぐり その2
KOBE de 清盛 史跡めぐり その3
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その後、応仁の乱で壊滅的に破壊された兵庫津は、一時歴史のなかから姿を消しますが、恒興がこの兵庫城を築いたことによって、ふたたび都市として機能しはじめます。
恒興はわずか2年で美濃国大垣城に移封となりますが、その後、豊臣秀吉の時代になると、兵庫城下は豊臣家の直轄地となり、片桐且元が代官として入城します。

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江戸時代に入ると兵庫津一帯は尼崎藩領になり、兵庫城は廃城、兵庫陣屋(奉行所)となります。
その後、港町や西国街道の宿場町として栄え、江戸時代中期には、人口2万人を数えるほどのにぎわいをみせたそうです。
このころの元禄9年(1696年)に作成された『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』には、兵庫のまちの様子が克明に描かれており、兵庫津遺跡を調査するうえで貴重な史料となっています。

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しかし、今回の発掘調査によって、堀の形状が絵図のものとは異なることが判明したそうです。
おそらく、江戸時代中期頃に、それまであった堀の一部を埋め戻したり、新たに堀を開削するという土木工事が行われ、堀の形状を変えていたのだろうと考えられます。

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外堀と内堀の間には、二の丸が広がり、内堀の内側に本丸がある城郭だったことが明らかになりました。
上の図でもわかるように、大手道から幅約7m、長さ約16m土橋を渡り、城内に入ります。
この日、二の丸には入れましたが、本丸には入れてもらえませんでした。
本丸に天守のような建物があったかどうかは、史料がなくわからないそうです。

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直角に折れ曲がった石垣は、内堀の外側です。
角には、ここにも墓石が使用されていました。

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「悪水抜溝」の跡です。
「悪水」とは、今で言う下水のようなもので、「悪水抜溝」とは、下水道のことだと思います。

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今回詳らかになった城郭の構造は、安土城から大坂城への過渡的な様相を示しているそうです。

またまた長くなっちゃったので、もう一回続きます。

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-05 17:01 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第41話「姉妹激突!」

 二条城で対面した豊臣秀頼の成長ぶりを見て、豊臣家を滅ぼす意思を固めたといわれる徳川家康だったが、何の理由もなく攻めこむわけにもいかない。家康にしてみれば、豊臣家と事を構えるための大義名分が欲しかった。その格好の材料にされたのが、方広寺鐘銘事件である。

 秀頼と淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行った。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。この事業は家康が勧めたといわれ、その目的は、豊臣家の財力を削ごうという思惑があったといわれる。しかし、逆に豊臣家にしてみれば、今なお、秀吉の時代に劣らぬ力があるということを、世間に知らしめる目的があったともいわれ、家康の勧めとは関係なく、淀殿と秀頼はこの事業を熱心に進めた。

 そんな寺社復興事業の中に、かつて秀吉が建立し、地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿の再建があった。そして慶長19年(1614年)、その修営もほぼ終わり、梵鐘の銘が入れられた7月になって突然、大仏開眼供養を中止するよう家康から申し入れがあった。その理由は、鐘の銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。この言葉は、「国家が安泰で、主君と家臣が共に楽しめますように」といった意味の言葉だったが、家康がいうには、「国家安康」という句は家康の名を切ったものだとし、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむと解釈、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒した。

 これはおそらく言いがかりであり、家康が豊臣家から戦を起こさせるために仕組んだ挑発とみていいだろう。この策を仕組んだのは、本多正純以心崇伝といった家康の側近たちだったとされる。この言いがかりに、当然、淀殿は激怒した。事態を重く見た豊臣家の家老・片桐且元は、家康への弁明のために駿府へ向かった。しかし、且元は家康に会うこともできず、ようやく会うことのできた本多正純金地院崇伝といった家康の側近から、「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、このうちのどれかを選ぶように」との内意を受けた。且元は即答を避け、大坂への帰路に就いた。

 だが、且元の帰城と前後して、なかなか帰らない且元に業を煮やした淀殿は、側近の大野治長の生母であり淀殿の乳母でもある大蔵卿局を、第2の使者として家康のもとに送った。大蔵卿局が駿府に到着すると、家康は且元の時とは態度を180度変え、機嫌よく彼女と面会し、「秀頼は孫の千姫の婿でもあり、いささかの害心もない。家臣たちが勝手に鐘銘の件で騒いで難儀している」と話したという。それを聞いた大蔵卿局は、狂喜して大坂城へ帰った。淀殿は直接家康に会った彼女の報告を信じ、且元の持ち帰った3ヶ条を信用しないばかりか、「且元が家康と示し合わせて豊臣を陥れようとするものに違いない」と疑った。且元は、戦を避けるために家康に従うよう懸命に説いたが受け入れられず、やがて淀殿の信頼を失った彼は、大坂城を退去するに至る。同時に、且元と同じく非戦論を主張していた者たちも大坂城を追われ、秀頼と淀殿のもとに残ったは、大野治長をはじめとする主戦派の者たちばかりとなった。しかし、これこそが家康の仕掛けた策謀だった。事はすべて、豊臣氏討伐のために描いた家康の筋書き通りに運んでいた。

 というのが通説のストーリーで、ドラマもほぼ通説に沿って描かれていた。だが、本当に方広寺鐘銘事件が家康の仕組んだ言いがかりだったのかはわからない。もしかしたら、本当に家康のいうような理由が、豊臣側にもあったのかもしれない。ただ、事件後も鐘がそのままになっていることから考えると、家康はこの8文字を本当に呪詛の文字だとは考えていなかったとも思われ、やはり通説どおり後付の言いがかりだったと見ていいのかもしれない。片桐且元と大蔵卿局の件にしても、豊臣家中を混乱させるために別々の回答を与えたというの一般的な見方で、家康が後世に狸親父と評される代表的な逸話だが、これももしかしたら、淀殿の疑いのとおり且元が家康と内通していた可能性だって否定できない。結果を知っている後世の私たちは、結果から逆算して最もドラマティックな筋書きを信じそうになるが、史実は意外と単純なものだったりするものである。

 理由はどうあれ、片桐且元はこののちの大阪の陣で徳川方に従軍し、大坂城を攻めることになる。すべてが終わって焼け落ちた大坂城を目の前に、且元は何を思っただろう。その日から20日ほどのち、且元は突如の死を遂げている。享年59歳。この死は病死説もあれば、自責の念からの自決であったともいわれ、これも確かなことはわかっていない。ただ言えることは、且元の寝返りがあろうがなかろうが、もはやこの時点での豊臣家は、牙を剥き出した家康の敵ではなかったということである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-24 02:24 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)