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院政と上皇について。

 今年の大河ドラマの主役・平清盛が生きた時代、わが国の政治は「院政」によって動かされていた。院政とは、退位した天皇である上皇(太上天皇の略。出家すると法皇になる)が、父権に基づき天皇の上にたって、上皇の家政機関である院庁で行う政治のことである。現代でも、総理大臣の職を退いてなお影響力を行使し続けることを「院政をしく」などというが、それはこの歴史的な政治形態からきたものである。

e0158128_19195149.jpg 清盛が生まれる約30年前までは、摂関家と呼ばれた公家・藤原氏が国政の実権を掌握していた。摂関家とは天皇の代理である摂政、天皇の補佐役である関白とを世襲する家柄のことで、摂関家の繰り広げる政治のことを摂関政治と呼び、その時代を政治史の上では摂関時代と呼ぶ。そんな中、摂関政治に疑問を持った白河法皇(第72代天皇)が、応徳3年(1086年)にまだ8歳の善仁親王(堀河天皇)に譲位したことが、院政の始まりとされる(白河院の父である後三条上皇(第71代天皇)が最初という説もある)。その後、鳥羽法皇(第74代天皇)、後白河法皇(第77代天皇)、後鳥羽法皇(第82代天皇)の政権がその最盛期となった。

 院政は「治天の君」と呼ばれる天皇家の家長が、現役の天皇の父または祖父の立場から政治を主導するものだが、上皇であれば誰でも院政が行えたわけではない。たとえば、鳥羽院の第一皇子である崇徳天皇(第75代天皇)が、永治元年(1141年)に異母弟の体仁親王(近衛天皇)に譲位して上皇になった後も、実権は「治天の君」である鳥羽院が握り続けていたし、承久3年(1221年)に承久の乱が起きたときは、後鳥羽法皇のほかに土御門上皇(第83代天皇)と順徳上皇(第84代天皇)という二人の上皇がいたという例もある。崇徳院の場合、近衛天皇への譲位を承諾したのは、近衛天皇が自身の「皇太子」の立場で即位すると考えていたからだった。たとえ弟であっても、皇太子に位を譲るのだから、崇徳院は「父」の資格をもって院政を行えると期待していたのである。しかし、譲位の内容を記した宣命には「皇太弟」と書かれており、父権はあくまで鳥羽院のままだった。騙されたと知った崇徳院は、鳥羽院を深く恨んだという。天皇の兄では院政は行えないのである。

 そんな強い政治力を有していた上皇たちも、独自の軍事力は持っていなかった。このため、当初は公家の身辺警護などに当たっていた武士のうち、優秀な者が上皇の身辺警護に当たる「北面の武士」に登用される。さらに、盗賊海賊が暗躍した際、大寺院の僧兵たちが強訴を企てた際などに、院は武士を動員さするようになる。そんな院政下で頭角を表したのが、伊勢平氏の平正盛平忠盛平清盛の三代だった。また、院政は「院近臣」という新たな政治勢力を生み出した。富裕な受領や乳母の夫や子、学者や実務官僚など、家柄よりも経済力や学識、院との個人的な繋がりによって取り立てられた人たちである。保元の乱後に実権を握った信西は後白河院の乳母の夫で、出家前は下級貴族だった。また、平治の乱で滅亡した藤原信頼は後白河院の男色相手であり、鹿ケ谷事件で島流しになった平康頼は後白河院の今様の弟子だった。武士も学者も、院近臣としての立場を足がかりにして出世したのである。

 治承3年(1179年)の政変によって政権を掌握した平清盛が政治体制として利用したのも院政だった。孫である安徳天皇(第81代天皇)を即位させた清盛は、外祖父の立場から天下に号令するのではなく、娘婿の高倉上皇(第80代天皇)による院政をとおして清盛の意志を国政に反映させた。その高倉院が崩御したのち、清盛は後白河院に院政の復活を要請するが、この清盛の行動からも、天皇の外祖父という立場だけでは政権運営が難しく、院政という政治形態をいかに必要としていたかが伺える。この時代、天皇という位よりもはるかに上皇の位が上だった。

 この、白河院、鳥羽院、後白河院の三上皇(もしくは後鳥羽院も入れた四上皇)の時代を政治史の面から院政時代と呼ぶ。だが、これ以後院政制度がなくなったわけではなく、鎌倉時代以降は政治史が幕府中心となるため目立たなくなるだけで、朝廷ではこれ以後も連綿と院政が受け継がれ、幕末の光格上皇(第119代天皇・明治天皇の曽祖父)まで続く。現代では光格院が最後の上皇で、明治維新後の憲法では天皇が生前に退位することがなくなった。だが、ご高齢で病の体をおしてまで公務に励まれる今上天皇のお姿を見ていると、先ごろ秋篠宮親王が言及しておられたように、「天皇定年制」を真剣に考える必要があるように思える。天皇は一定の年齢に達すると皇太子に譲位して上皇となる。実に理にかなった制度を、皇室は1000年以上も前から確立していた。昔と違って人間の寿命が延びた今だからこそ必要な制度といえるのではないだろうか。現行のわが国の制度では、それは「院政」ならぬ、ただの「院制」の復活に過ぎないのだから。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-16 18:03 | 歴史考察 | Trackback(1) | Comments(2)  

平清盛 第5話「海賊討伐」

 「おまえは人ではない・・・“もののけ”だ。」
と、ドラマでは、およそ人の気持ちがわからない天然系の悪女として描かれている待賢門院璋子。たしかにあれでは、鳥羽院が“もののけ”と罵りたくなるのも無理はない。ある意味、歴史を大きく動かしたといえる彼女。実際にはどんな女性だったのだろうか。

 鳥羽法皇(第74代天皇)の后妃として知られる待賢門院(藤原璋子)美福門院(藤原得子)。もちろん、他にも后妃はいたようだが、天皇の生母となったのはこの二人だけである。この時代、天皇に複数の皇后がいた場合、そのうちの一人を中宮と呼んだが、武家の正室と側室とは違って、中宮と皇后との間には待遇などの面で大差はなかったようである。待賢門院璋子は崇徳上皇(第75代天皇)、後白河法皇(第77代天皇)の生母で、美福門院得子は近衛天皇(第76代天皇)の生母となった。

 待賢門院璋子は、藤原北家の傍流である閑院流当主・藤原公実光子(隆方の娘)の間の末娘として、康和元年(1101年)にこの世に生を受けた。生母・光子は鳥羽院、堀河天皇(第73代天皇)の乳母をつとめた女性だったというが、その縁あってか、璋子は白河法皇(第72代天皇)の寵妃であった祇園女御の養女となったとされている。さらに璋子はその祇園女御の縁で、白河院にもことのほか可愛がられて育ったという。

 2人の愛情を受けて美しい女性に成長した璋子は、16歳となった永久5年(1117年)に白河院の孫である鳥羽帝の後宮に入内させられ、翌年、皇后の宣旨を受け中宮となる。当時、鳥羽帝は14歳。璋子は絶世の美女だったといわれ、14歳の鳥羽院にしてみれば、2歳年上の璋子の美しさに心を奪われるには、さして時間はいらなかっただろう。ただ、14歳と16歳のカップルで、現代で言えば、夫・中学2年生と妻・高校1年生。心身ともに夫婦となり得ていたかは微妙なところで、この翌年に生まれた第一皇子(崇徳帝)が、鳥羽帝のではないのでは・・・といった醜聞が飛び交うのも無理はなかった。しかも、その胤の主が、鳥羽帝の祖父であり璋子の養父でもある白河院だというのである。

 実際に白河院の璋子に対する溺愛ぶりは尋常ではなかったようで、たとえば『今鏡』によれば、幼いながらの類稀なる美貌の持ち主だった璋子を、白河院は毎夜懐に抱いて就寝した、と記されているらしい。また、白河院は適齢期となった璋子を、最初は関白・藤原忠実の嫡男・藤原忠通との縁組を進めようとするが、忠実の猛烈な反対により破談となり、やむなく孫の鳥羽院に入内させた、という逸話もある。この辺りの経緯は忠実の日記『殿暦』に詳細に記されているそうで、璋子が生んだ第一皇子が白河院の胤であるとの記述も、この日記に認められるそうである。真実は定かではないが、忠実・忠通はこの縁談話の破談によりしばらく中央政界から失脚させられており、そんなリスクを負ってまで破談に持ち込んだ事実を思えば、事実か否かはともかく白河院と璋子の不埒な噂というのは当時からあったのだろう。忠実はこの日記の中で璋子のことを、「奇怪不可思議の女御」と評している。

 そんな白河院と璋子の乱淫な噂を鳥羽帝も知っていたようで、崇徳帝のことを「叔父子」と呼んで冷遇したと伝えられる。実際にどちらの胤であったかは璋子しか知る由もないが、鳥羽帝がそう信じて疑わなかったところを見れば、鳥羽帝には男としての身に覚えがなかったのかもしれない。自身の嫁さんと祖父が密通していたなんて、男としてこの上ない屈辱だと思うが、にもかかわらず白河院、鳥羽帝、璋子の三人の関係は壊れることなく、三人仲良く連れ立って紀伊熊野参詣に赴くことも一度や二度ではなかったとか。現代の感覚では理解しがたい三角関係である。その後も璋子は鳥羽帝との間に五男二女も儲ける。白河院に逆らえなかったという理由もあっただろうが、璋子はよほど魅力的な女性だったのだろう。

 白河院と鳥羽院の二代を手玉に取った魔性の女・待賢門院璋子。ドラマでは、デリカシーの欠片もない天然キャラに描かれているが、男は往々にしてこの種の悪女に弱いものである(もちろん美人であることが大前提だが・・・笑)。これが計算された悪女なら男次第で変わりようもあるが、天然だから余計にタチが悪い。そんな“もののけ”・・・“奇怪不可思議の女御”に危うくハマりかけた男性は、現代でも結構いるのでは・・・? 


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-06 20:48 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

平清盛 第2話「無頼の高平太」

 現代の日本に生きる私たちは、生まれたときに命名された名前を原則として一生使い続けるが、明治維新以前の武家社会ではそうではなかった。武家の男子の場合は生まれるとすぐに幼名が付けられ、成人(元服)すると諱(いみな)と呼ばれる実名を名乗るようになる。また、幼名や諱の他に通称も用いたが、上級の武士の場合は朝廷から官職受領と呼ばれる公式な職、職名を拝領し、それを名乗った。さらに、雅号などを名乗る場合もあり、また出家して法名を称する場合などもあり、ひとりの人物でも生涯で複数の呼び名があって実にややこしい。ゆえに、小説やドラマなどでは、せいぜい幼名と諱の2種類くらいで通してしまう場合が多い。

 平清盛の場合、“清盛”というのはいうまでもなく諱で、祖父は正盛、父は忠盛、弟は家盛、経盛、教盛、頼盛と、“盛”という字を使った諱を名乗っていた。武士の家では特定の一字を諱に使用する風習があり、これを“通字”といった。清盛ら伊勢平氏が“盛”の一字を通字として織り込んでいたのは、きっと家運の隆盛を祈ってのことだったのだろう。他に、忠盛・清盛父子は腹心の家臣に“盛”の一字を与え、平盛国平盛俊などと名乗らせている。こういった風習を「偏諱(へんき)を賜う」、もしくは「一字拝領」といった。

 “清盛”という名の由来について、『平家物語』の中に次のような逸話がある。前話の稿でも述べたが、『平家物語』では清盛は白河法皇(第72代天皇)のご落胤説となっている。忠盛のもとで平家の子として育てられることになった皇子だったが、白河院はそれとはなく皇子のことを気にかけていた。あるとき、皇子の夜泣きがあまりに激しいと聞いた白河院は、次の歌を忠盛に贈った。
 「夜なきすとたゞもりたてよ末の世にきよくさかふることもこそあれ」
 (その子が夜泣きをしても大切に育ててくれ、忠盛よ。将来、平家を繁栄させてくれることもあるかもしれないのだから)

 そして、この歌の下の句にある「きよくさかふる(清く盛ふる)」から、清盛と名付けられたという。おそらくは物語の創作だろうが、よくできた話ではある。ドラマの白河院とは、随分とイメージが違うようだが・・・。

 清盛の幼名については、正確にわかっていない。“平太”というドラマでの幼名は、おそらく『平家物語』に出てくる「六波羅のふかすみの高平太」というあだ名からきたものだろう。「ふかすみ」は墨黒の馬という意味で、「高平太」は高足駄を履いた平氏の太郎(長男)という意味。これは、清盛の姿を侮辱したあだ名だという。また、『源平盛衰記』では、京童に「高平太」といって笑われた清盛は、恥ずかしく思ったのか、扇で顔を隠したが扇の骨の間から鼻が見えていたので、京童は「高平太殿が扇に鼻を挟んだぞ」といって、その後は「鼻平太」と呼んで罵ったという。この逸話も、物語の中の創作かもしれないが、当時の京都や貴族社会には、そうした平家を侮るような雰囲気があったのは事実だろう。このよな屈辱を受けるたびに清盛は、いつか貴族たちを見返してやりたいという思いを抱いたかもしれない。

 大治4年(1129年)1月に元服した清盛は、従五位下・左兵衛佐に任じられ貴族の仲間入りを果たした。父・忠盛は白河院からあつい信頼を寄せられていたものの、その頃は内裏への昇殿すら許されていない一介の地方官に過ぎなかったが、清盛の任官は一般の武士に比べて格段に優遇されていた。武士の子どもが朝廷の武官に任じられる場合、三等官である「尉(じょう)」から始まるのが通例であったが、清盛は二等官である「佐」からのスタートだった。しかも、兵衛佐という官職は上流貴族が任じられるものであり、内裏清涼殿への昇殿が許される殿上人への最短コースだった。事実、この人事は貴族たちを大いに驚かせ、「人耳目を驚かす」と日記に記した貴族もいたほどだった。同年3月、12歳の清盛は岩清水臨時祭で舞を奉納した。舞人に選ばれた貴族の少年たちの中で、清盛の雄姿はひときわ注目を浴びたという。ここから、清盛の出世街道が始まる。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-16 02:14 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

平清盛 第1話「ふたりの父」

 平清盛は永久6年(元永元年)(1118年)に生まれた。平家が日の出の勢いで力を伸ばしていたときである。清盛の祖父、平正盛は、白河法皇(第72代天皇)の北面の武士(法皇の身辺を守る武士のことで、院御所の北側の部屋に詰めている武士のこと)として武力で法皇に仕えるとともに、数カ国の受領(国守)を歴任し、清盛出生当時は西国の大国である肥前守を務めていた。受領は税の徴収を行うため、やり方によっては莫大な収入を得ることができる。清盛は富裕な貴族の跡取りとして、比較的恵まれた環境で育ったようである。

 清盛の出生については、古くから清盛は白河法皇のご落胤だったという説がある。『平家物語』「祇園女御」の巻に、次のような話がある。白河法皇が寵愛する女性に祇園女御と呼ばれる女性がいた。彼女は正式な女御ではなかったが、法皇のあまりの寵愛ぶりからそう呼ばれていた。白河法皇がいつものようにこの女性のもとへ通っていたある夜、女御の邸の近くで不気味な光を発する鬼のようなものに出くわした。驚いた法皇は、北面の武士として警護にあたっていた平忠盛「あの鬼を成敗せよ」と命じた。忠盛は、鬼というのはおそらく法皇の見間違いであろうと考え、即座に弓を引かずに近づいて確認したところ、鬼と見えたのは麦わらをかぶり明りを手にした老法師だった。それを知った白河法皇は「あの者を殺してしまっていたらどれほど後悔したであろう。弓矢取る身(武士)とは感心なものよ」と、忠盛の沈着冷静な行動を褒めて、寵愛の深い祇園女御を忠盛の妻に与えたという。このとき彼女の腹には法皇の皇子が宿っており、それこそが、ほかならぬ清盛だったというのである。

 ご落胤伝説というと、たいていは根も葉もない噂話にすぎないものが多いが、清盛の場合は少し事情が違う。というのも、現在でもこのご落胤説を指示している歴史学者の方々が、数多くおられるのである。清盛の尋常でない出世のスピードを見ると、天皇家の血筋でなければ説明がつかないというのである。清盛は大治4年(1129年)、12歳という異例の若さで従五位下・左兵衛佐に任官を果たし、その2年後に従五位上、その4年後には正五位下、従四位下、その翌年には中務大輔、さらにその翌年には肥後守、その3年後には従四位上と、超スピード出世を重ねた。これは、当時の慣例からして、天皇家との血縁関係なくしては考えられないといわれている。もちろん、血縁関係のことだけに断言できる証拠はない。あるいは、清盛の異例の出世への妬みやっかみの噂話として、このご落胤説が生まれたのかもしれない。しかし、武士の子である清盛の順調な出世は、当時の公家たちを大いに驚かせる人事だったことは事実のようで、その真偽はともかく、清盛は皇胤であるという噂話が当時の貴族の間にあったというのも、間違いなさそうである。もし、この説が事実だったとすれば、清盛にとってそれは“誇り”だっただろうか。それとも、“恥”と感じただろうか。高貴な天皇家の血筋と現実の武士としての境遇のギャップに、きっと悩んだことだろう。

 では、清盛の生母はどのような女性だったのだろうか。保安元年(1120年)、忠盛の妻が亡くなっている。清盛3歳のときである。年齢から考えて、この女性が清盛の母であることは間違いなさそうである。どのような女性だったかは分かっていない。唯一伝わっているのは、白河院の身辺に仕えていた女房だったということだけだそうである。『平家物語』にみる清盛の生母が祇園女御であるという説は、彼女は保安元年以降も生き続けているので間違いのようである。では、祇園女御が清盛とまったく関係なかったかといえば、そうともいえない。清盛の生母は、祇園女御の実妹であったという説があるのだ。これは『仏舎利相承系図』という史料を根拠とする説で、これによれば、祇園女御の妹が白河院の子を身ごもり、忠盛に嫁いだ後に生まれたのが清盛であり、その女性の死後、清盛は祇園女御の猶子となり、彼女の後見を受けていたという。こちらは、あながち否定できない面もある。正盛・忠盛父子は白河院に仕える一方で、その寵姫である祇園女御にも奉仕しており、清盛が生まれる何年も前から、平家と祇園女御は密接な間柄にあった。そんな祇園女御の妹を妻としてもらい受け、その妹の死後、その子を猶子として祇園女御が後見していたとしても、何ら不思議ではない。幼少期の清盛の出世は、祇園女御の引き立てによるところも大きかったかもしれない。

 ドラマでの清盛の生母は祇園女御でもその妹でもなく、祇園女御が妹のように可愛がっていた白拍子・舞子という設定。彼女は白河上皇の子を身ごもりながらも、陰陽師「王家に災いする赤子」というお告げの為、命を追われる身に。その舞子を匿ったのが忠盛だった。しかし、結局は上皇の知るところとなり、祇園女御の助命嘆願によって赤子の命は助けられるも、舞子は御所の警護兵の矢によって壮絶な死を遂げる。死の直前、舞子から赤子を託された忠盛は、その子を平太と名付け、平家の子として育てる決意をする。すべて、ドラマのオリジナルストーリーだが、白川院の人物像や当時の天皇家の位置づけ、忠盛たち当時の武士たちの立場がとてもよくわかるストーリーだった。

 「己にとって生きるとはいかなることか。それを見つけたとき、心の軸ができる。心の軸が体を支え、体の軸が心を支えるのだ。」
 忠盛が幼い平太(清盛)にいった言葉。清盛の父・忠盛は武力のみならず、和歌などにも造詣の深い教養人だったという。
「父上は強うござりまするな。私もなりとうございまする。父上のような立派な武士に。」
「では、その気持ちを、心の軸にせよ。その軸を支えられるよう、しっかり体を鍛えよ。」

 この時代、武士は天皇家に仕える番犬のような地位にすぎなかった。彼らの望みは、朝廷のために働き、あわよくば功をあげて恩賞を得ることでしかなかったのである。正盛も忠盛も、天下を取るなど考えたこともなかっただろう。武士たちが自分たちの実力に気づくには、もう少し、清盛の成長を待たねばならなかった。

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by sakanoueno-kumo | 2012-01-09 18:42 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(10)