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天地人 あとがき

 2009年NHK大河ドラマ「天地人」の全47話が終わりました。最終回の視聴率は22.7%だったそうです。全話の平均視聴率は21.2%で、いずれも昨年大ヒットした「篤姫」には及ばなかったものの、近年の大河作品の中ではまずまずの数字となったようです。

 昨今の戦国ブームが追い風になって、それなりの人気を得ていたようですが、一方で古くからの大河ドラマファンからは酷評が多かったこの「天地人」。長年大河を見続けてきた私にとっても、評価の低い作品となってしまいました。私はこのブログで全47話を毎週追っかけてきましたが、なるべく酷評はしないという趣旨を貫いてきたのですが、途中から辛くなってきたというのが正直なところです。印象に残ったシーンや心に響いた言葉などを記してきたのですが、何も感想が浮かばない回もあって、苦しみました。

 何が評価を下げたかといえば、諸所いろいろだとは思いますが、よく耳にする「史実と違う。」という意見に関しては、私はあまり言いたくない部分です。登場人物が実在の人とはいっても、基本的にドラマである以上フィクション。そのフィクションの物語に史実を盛り込んで楽しく見せるというのが、歴史ドラマのポイントだと思うからです。史実ありきで構成すれば、それはドキュメンタリーであってドラマではないと私は思います。過去、名作といわれる作品の中にも、フィクション性の強い作品も見られます。それをもってして面白くないと評するのは私は賛成できません。文書などで残っている史実は、歴史の断片に過ぎません。本当かどうかわからないところにこそ、歴史ドラマの面白さがあると私は思っています。

 次に直江兼続という人物についてですが、戦国武将の中で人気の高い人物ではあるものの、脇役の感が強く、主役として1年間物語を作るには難しい人物ではあったでしょう。しかし、昨年の「篤姫」、一昨年の「山本勘助」も本来脇役の人物で、この二つの作品は私の中で評価が高く、人物の所為とは言えないところがあります。ただ、秀吉などにも勝るとも劣らないと言われた「策士、直江兼続」の姿はあまり見ることが出来ず、最後まで優等生だった姿がイメージと違い、兼続ファンをがっかりさせたところだと思います。妻夫木聡さんの爽やかなイメージから脱却できず、本来の直江兼続の魅力を作り出せなかった感は否めません。

 私がこの作品の中でもっとも感じたのは、テーマの曖昧さです。「愛と義」という、あまりにも広いテーマだった故、その本質が伝わってきませんでした。「利」のみを求める戦国時代において「愛と義」を貫いた直江兼続の人生を通して、弱者を切り捨て、利益追求に邁進する現代人にメッセージを送る・・・という壮大なテーマをうたっていた制作サイドでしたが、結局は何が「義」なのか、何を伝えようとしているのかが見えてきませんでした。第9話の上杉謙信の言葉に「義とは、人が人であることの美しさよ。」というものがありましたが、あまりにも抽象的すぎて理解に苦しいものでした。昨年の「篤姫」では、「役割」という非常に解りやすいテーマがあり、物語を通してその主題がぶれなかった・・・という点に、多くの視聴者の共感が得られたのではないかと思います。この天地人においては、そのテーマである「義と愛」に一貫性がなく、兼続の行動にも矛盾点が多く、共感を得ることが出来なかったことが、この作品の評価を下げた一番の要因と私は思います。

 以上は私の個人的な勝手極まりない感想です。全話を通して酷評は避けていただけに、そのままの姿勢を最後まで貫こうかとも思いましたが、「あとがき」ということで正直な感想を述べさせてもらいました。長年大河は見続けてきましたが、ブログという場で全話感想を述べさせてもらったのはこの作品が初めてです。そいうった意味では、心に残る作品になりそうです。ブログを毎週読んでくださった方がいるかどうかはわかりませんが、毎週感想をエントリーした翌日のアクセス数がもっとも多く、そのことを励みに臨んできました。11か月間ありがとうございました。

 次週からの「坂の上の雲」、来年の「龍馬伝」でも、ブログエントリーは続けていきたいと思います。



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by sakanoueno-kumo | 2009-11-25 02:04 | 天地人 | Comments(4)  

天地人 第47話(最終回)「愛を掲げよ」

 大坂の陣が終わり、太平の世を向かえようとしていた。主人公・直江兼続の晩年を描きながら、物語の回想に重きを置いた最終回。大河ドラマの最終回は、どの作品でもおおむねこういうもの。クライマックスは最終回の前話に置き、最終回では起承転結の後の「静」を描く。そういう意味では、最終回らしい最終回だったと私は思う。

 75歳という天寿を全うした徳川家康。彼の死は戦国時代の終焉を意味する。以後260年に及ぶ徳川安定政権時代が到来する。織田信長、豊臣秀吉と比べて、後世に不人気な家康だが、彼を主役とした物語がもっとも人気が高い。それは家康の人生全てが戦国時代そのもので、信長、秀吉の時代から通して戦国の終結まで、全て描き切ることが出来る所以だろう。

 その信長、秀吉、家康の時代に全て関わってきた、数少ない武将に数えられる兼続。後世の私たちでさえ、小説やドラマなどで何度見聞しても飽き足らないこの時代を、実体験として語ることのできる兼続のような人物の話は、この当時、関ヶ原の戦後生まれの若者たちには「生きた教科書」のような存在だったかもしれない。信長を語り、秀吉を回顧する。もはや彼らは歴史上の人物である。そして話題は関ヶ原へ。
 「関ヶ原随一の名将は、なんと言っても石田三成よ。あの男ほどこの国を思い案じておったものを知らぬ。」
 徳川時代の260年間、歴史上の大奸物として伝えられてきた石田三成。しかしこの時代にはまだ三成を知っている人物が生き残っていたわけで、三成の評し方も様々であっただろう。(江戸城内でこのような発言は出来ないだろうけど・・・。)
 「生きて後世に我らの義を伝えると約束したのじゃ。」
 真実を知っている人物の語りは、後世の私たちにどれだけ伝承されているだろうか・・・。

 直江兼続は1620年(元和5年)、江戸鱗屋敷でその生涯を閉じた。享年60歳。嫡男が早世し、跡取りのいなかった直江家は、兼続の死をもって断絶する。晩年は上杉家の減移封を招いた責任を深く思い、高禄の直江家の知行を返上することで、少しでも上杉家の財政を助けるため、兼続が意図的に断絶したとも言われている。最後まで「忠義」に厚い兼続らしさがうかがえるエピソードである。

 「天地人」全47話全て感想ともいえぬ感想を書き終えました。総括は近日中にエントリーしたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2009-11-23 00:58 | 天地人 | Comments(0)  

天地人 第45話「大坂の陣へ」

 関ヶ原の戦いが終わってから大坂冬の陣・夏の陣までの十数年間、勝者の側も敗者の側も、様々な思いが交錯したことだろう。後悔の念。先行きの不安。良心の呵責。あのときもしこうしていたならば・・・。己の選んだ道は間違いっていたのではないだろうか・・・。400年後に生きる私たちが思うまでもなく、この時代、それぞれの立場で「迷い」の時代であったのかもしれない。

 兼続のもとを訪れた毛利輝元は、関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将という立場でありながら煮え切らぬ姿勢だった行いに、後悔の念を打ち明ける。あのとき敢然と動いておれば・・・あのとき大坂城を明け渡さなんだら・・・いまだ天下は豊臣にあり、毛利も安泰だったのではと・・・。
 そして兼続に問う。
 「そちとて、そう思わぬことはなかろう?」
徳川が背を向けたとき追撃しておればと・・・。さすれば、家臣や民、百姓にいらぬ苦労を負わせることはなかったのではと・・・。
 兼続は答える。
 「我らは負けました。今更それを悔いたとて何も始まりませぬ。」
 「生きていれば、辛いことも、ままならぬこともございます。されどそれらすべてに、慈愛の一念を持って対することこそが、人としてのあるべき姿と存じまする。」

 過ぎたことを悔いていても前には進めない。これまで歩んできた道を否定するのではなく、その全てが今の自分を作っており、歩むべき道だったと思うことこそが大切ということなのだろう。難しいことだが、そうありたいと私も思う。

 そんな兼続にも「迷い」はある。この先起こるであろう、徳川と豊臣の決着についてである。歩んできた道は心の持ちようで消化できても、これから進むべき道への迷いは拭いきれない。

 そしてもう一人、上杉景勝もまた「迷い」の境地にいる。
 「徳川の世にあって、生き続ける道を我らは選びました。されど、その道で良かったのでありましょうか。」
 養父である上杉謙信の掲げた「義」に、自分の行いは反しているのではないだろうか。多くの家臣を養う主としての「義」と、一人の武士(もののふ)としての「義」の狭間で迷い苦しむ景勝。そんな彼に、死を目前にした景勝の母・仙桃院はこう告げる。
 「引け目に思うことなど何もない。そなたはそなたの義を、貫き通せばそれでよい。」
 自分を信じて、自分の出来る精いっぱいの仕事をする。「迷い」は誰にでもあるけれど、精いっぱい生きることが後悔しないたったひとつの道だと私も思う。

 大坂では淀殿が・・・高台院が・・・徳川方では二代将軍・秀忠が・・・全国諸所では、豊臣恩顧の大名が・・・徳川譜代の大名が・・・それぞれの立場、思惑で「迷い」の境地にあったであろうこの時代。歴史はこのあと、乱世に終止符を打つべく、大坂冬の陣、夏の陣に向かっていく。



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by sakanoueno-kumo | 2009-11-10 01:10 | 天地人 | Comments(2)  

天地人 第44話「哀しみの花嫁」

 本多正信の次男・政重。1604年(慶長9年)、直江兼続の娘・於松の婿養子となり、直江大和守勝吉と名を改める。この勝吉こと本多政重は、これ以前も波乱万丈の道を歩んでおり、徳川家重臣の家に生まれながらも刃傷沙汰を起こして出奔し、大谷吉継や宇喜多秀家などのいわゆる関ヶ原の戦いにおいて徳川方から見た敵方に仕えていた。言ってみれば、この4年前の関ヶ原の戦いまでは、兼続たちと「同志」に位置していたわけである。その後、正信の子ということもあって罪には問われず、兼続が本多家に近づいたことから、この縁談が成立した。
 しかしほどなく妻・於松が病死。それでも養子縁組は解消されず兼続の弟・実頼の娘を後妻として迎え、直江家との関係を保つことになる。その後結局は直江家を去ることになるのだが、その後も本多家と直江家は親しい交流があったとされることから、深い信頼関係が築かれたのであろうことが想像される。

 養子といっても政略結婚。ましてや上杉家は監視される立場にあり、敵方のスパイを黙認して雇い入れたようなものである。しかし兼続は養子となった勝吉に上杉家の内情を次々と見せてまわる。包み隠さないことで、逆に身の潔白を証明しようという意図が窺えるが、鉄砲の鍛冶場まで明かされた勝吉は兼続の心が理解できない。
 「上杉に謀反の疑いありと、私が告げればどうなりましょう?」
 「それも見越した上で、そなたをここに連れてきた。」
 「何故に?」
 「そなたが我が身内であるからじゃ。」
 人の信用を得るには、まずは人を信用する。政略結婚とはいえ縁あって身内になったのだから、まずは信頼関係から構築せねば何も発展しない・・・といったところだろうか。もっともではあるが、弱い立場で人を信用することはとても難しいこと。身を守ろうとすれば人を疑ってしまうのが凡人の常である。数々の修羅場を経験し、人間関係にとってもっとも大切なのはその「真心」だということを知っている兼続ならではの外交である。

 一方で、勝吉・於松の夫婦関係はそう簡単にはいかない。父・兼続の心を受け継いだ於松は、縁あって夫婦になった勝吉との絆を深めようと悩み苦しむ。
 「絆とは、相手に何をしてあげられるかを思い続けること。」
 母・お船に教えられて、妻として夫にしてあげられることを尽くす於松だったが、その思いが勝吉の心に響いたのは、哀れにも彼女の死後のことだった。
 相手に何をしてあげられるか・・・。夫婦の間でそれを思い続けることもまた難しいこと。親子関係ならば、親が子にそう思い続けることは常。しかし夫婦の間において、果たしてそれが出来ているだろうか。自分にして欲しいことを求める心の方が多いのではないだろうか。そんなことを感じさせられた言葉だった。

 この物語も残すところ3話。今話で兼続は、己の目指すべき道、政に対する考えが固まったようである。
 「天下は誰のものでもない。守るべきは天下という形ではなく、ここに生きる民の暮らし。」
 こののちも、大阪冬の陣・夏の陣などまだまだ政局は激しく動きを見せるが、ここからの様々な局面での兼続のは、常にこの考えをベースに道を選択していくことになるのだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2009-11-02 01:22 | 天地人 | Comments(0)  

直江兼続の書状が古書店にて発見される。

 直江兼続の書状が、東京都内の古書店で見つかったそうである。どういう経緯で見つかったのか、どのような内容のものなのか、記事では詳しいことまでわからないが、兼続が会津葦名家の武将に軍事情報を伝えたとみられる「密状」だそうである。大河ドラマもクライマックスに向かっている中、何とも旬な話だ。

 戦国武将の書状などほとんど発見され尽くしていて、今頃見つかるのは珍しいんじゃないだろうか? ましてや旧家の蔵などからではなく、古書店で発見されたとはどういった経緯なのだろう? 興味は尽きない。

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下記、記事本文引用
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「天地人」直江兼続の密状を発見 戦乱生きた知将の実像
 戦国大名上杉景勝の重臣でNHK大河ドラマ「天地人」の主人公となった武将直江兼続が会津葦名家の武将に軍事情報を伝えたとみられる「密状」が、14日までに見つかった。愛知文教大副学長の増田孝教授は「兼続の書状が見つかることがまれな上、戦国武将の密状が出てくるのも珍しい」としており、戦乱の時代を生き抜いた知将兼続の実像が垣間見える貴重な資料として注目を集めそうだ。
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by sakanoueno-kumo | 2009-10-14 14:15 | 歴史考察 | Comments(0)  

天地人 第41話「上杉の生きる道」

 1601年(慶長6年)10月、徳川家康の命により米沢へと移り住んだ兼続たち。石高4分の1という大幅減封にも関わらず6000人の家臣を誰一人リストラしなかったのだから、経営はたちまち大変なわけである。国づくりを進めようとする兼続に対して、自分たちの生活を心配する家臣たち。もっともな話である。

 「皆の不安はもっともじゃ。だが、ただ座して何を待てというのか。今、新しいことを始め希望を持つことで、道を切り拓こうではないか。」
ピンチをチャンスに。弱っている時こそ攻める姿勢を。100年に1度と言われる平成不況に生きる私たちだが、ただ座して待つだけでは何も生まれない。今、もっとも必要な心かもしれない。
 「恐れながら、その希望とやらは腹の足しになりますかのぉ。」
しかし、末端に生きる者たちの思いも切実。心の温度差は否めない。
 「石堤に掛かる元手は、わが家禄から都合する故、心配無用。」
まずは取締役から身を削る。これが出来てない経営者が現代では多いのでは?最も厳しい立場に自らを置いてから、部下に痛み分けを要請する。これが出来なければ経営者としての資格はない。兼続の行おうとしていることは経営者としては当たり前のことなのだが、これを美談として描かなければならない現代の世の中は、やはり病んでいるということだろうか・・・。

 上記とは別に今話の主題は、タイトル「上杉の生きる道」とはあまり関連なく、「父」と「息子」の絆の話。こちらについては昔も今も大きくは変わらない。いつの時代でも父親にとって息子は己の写し絵で、故に厳しく接するものであり、しかし最も愛しくもあり、ひいき目でもある。息子にとって父親は、幼き頃は師であり、憧れであり、しかしある程度の年齢になれば、目の上のたんこぶであり、壁であり、反面教師でもある。願わくば晩年もしくは死後、再び幼き頃のように父親を師と敬うときが来れば最も理想的な父子だが、これは父親次第というところだろう。
 
 兼続は父の死の直前にその心に達した。父、惣右衛門にとって最も嬉しい冥土の土産だっただろう。不詳、私にも15歳の息子がいる。説教の多い親父で、最近私の顔を見ると自分の部屋に逃げていく。(苦笑) いつか、兼続、惣右衛門父子のような関係になれる日がくるだろうか・・・。 


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by sakanoueno-kumo | 2009-10-12 01:43 | 天地人 | Comments(0)  

天地人 第40話「上杉転落」

 「謝罪は無用と存じます。」
関ヶ原の戦いから1年後の1601年(慶長6年)、景勝と兼続は上洛して家康と対面する。戦の責めを問われた景勝だったが、家康の処分には従うものの謝罪はしないと公言する。
 直江状が戦の発端だったと責められた兼続だったが、
 「云われ無き讒言によって敵が攻め来たるならば、正々堂々と迎え撃たんとの覚悟を示したまで。邪(よこしま)なものに天下が奪われようとしているときこそ、正義とは何かを世に示さんがため。」と、言い放つ。
 家康の言うとおり、兼続の書状はまさしく家康に喧嘩を売った果たし状。その喧嘩に負けたのだから潔く傘下に下るものの、喧嘩を売った理由は「義」にあり、謝罪する必要はないという強い意思表示。社民党議員が聞けばすっ飛んで怒ってきそうな話だが、戦とは勝者にも敗者にも「正義」があり「悪」があるもの。上杉にとっての「義」は、上杉にとっての「国体」なのである。謝ってしまっては死に体、譲ることの出来ないものである。

 とは言うものの、お家取りつぶしになってしまっては結局上杉の義は滅びてしまう。兼続は本田正信に近づき上杉家存続のための裏工作に奔走。福島正則や小早川秀秋の力添えもあって、なんとか会津120万石から米沢30万石へ減封に落着。(これについては史実と照らし合わせて異論も多いと思われるが、それはひとまずおいといて。) お家取りつぶしは免れたものの、直江状のダメージは大きかった。

 会津へ戻った兼続は、身の振り方を案じる家臣たちを前に決意を語る。
 「上杉はもう財は残っておらぬ。あるのは、皆の心の中にある義と愛の志のみじゃ。されど残念ながら義と愛だけでは食うては行けぬな。」
 「進むも引くも地獄となろう。殿を信じついてきてくれるのであれば、誰一人召し放ちなどせぬ。楽をさせることは出来ぬが、共に戦ったそなた達の暮らしは、わしが精一杯守る。」

 リストラはしないが、ワークシェアリングでの痛み分けは避けられないといったところ。苦渋の選択だっただろう。石高は4分の1になったわけで、それでも従業員を減らさずに経営していける企業など、平成の現代では考えられないことである。取締役の大幅減俸はもとより、末端社員の隅々まで大きな理解と覚悟がなければ出来ることではない。
 「禄高など二の次、三の次。上杉の家臣であることこそ、宝でござる。」
こんな強い愛社精神の従業員を持った上杉家は、戦国屈指の優良企業だったのだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2009-10-05 10:17 | 天地人 | Comments(2)  

天地人 第37話「家康への挑戦状」

 直江兼続と言えばやはりこの「直江状」。天地人紀行でも紹介されていたとおり、この「直江状」は原本が残っておらず、現在伝わっているものは複数あり、これらは後世の写しと言われている。内容も微妙に違っており、そのため解釈もさまざまある。研究者の中には、「直江状」の存在すら否定する向きもある。

 本物語においての「直江状」の解釈全文。
 「内府さまは会津に関する様々な噂にご不信を持っておられるとのこと。無理もなきことながら真相はいずれお耳に入ることとなりましょう。
 主、景勝の上洛が少ないとは真に心外。上杉は一昨年に国替えをしたばかり。そう度々上洛をしていたら、いったいいつ領内の政(まつりごと)が出来ましょう。それをもって景勝に逆心ありとは見当違いも甚だしい。言いふらした浅はか者の顔が見てみたいものでございます。
 逆心なき証に起請文を差し出せと仰せなれども、これまでの起請文はいったい何だったのでございましょう。景勝は天下に知れた律義の者。もとより疾しきことなど一切ござらん。内府様ともあろうお方が、人の告げ口を確かめもせず景勝謀反と思し召しとは驚いたこと。公平なお方と予て敬っておったは、とんだ勘違いでござろうか。
 加賀前田様を意のままに扱われた件に至っては、「真に結構なご威光でございますなあ」と申し上げる他なし。左様にご立派なお方が、堀秀治なんぞに振り回されるとはなんとも嘆かわしいかぎり。
 我らが武具を買い集めているとお咎めなれど、これは田舎武士の習わしにて、上方武士がつまらぬ茶碗集めにうつつを抜かすよりはまし。余計な心配は御無用。上杉家は、越後の堀をはじめ、伊達、最上ら多くの大名衆と境を接しております。されど他国に繋がる道を作ったくらいで、謀反謀反とほざき立てるは春日山のご城主のみ。余程の愚か者と見受けられます。
 もし景勝に謀反の心があれば、国境(くにざかい)を閉ざし堀を廻らすのが道理。何処からでも攻められるような道をわざわざ作るなど、大馬鹿者の所業にございます。どちらが正しいかは誰が見ても明々白々。
 当節は、例え心に謀反を思うても、勝ち目なしと見れば手のひらを返して服従するが流行りのようでございます。されど、斯様な恥知らずと景勝を一緒にされては迷惑千万。謙信公を始め、歴代武門の誉れも失われます。
 嘘つきものを引き据えて正しい詮議をなさらぬままならば、上杉の上洛などもってのほか。果たして景勝に非があるのか、内府様に裏表がおありなのか、すべては天の沙汰を待つところとなりましょう。重ねて申し上げます。嘘つきものの申し立てを鵜呑みにされ、景勝を疑うとあれば致し方なし。内府様がそこまで天下の正義をおわかりにならないお方であったとは、残念と申すほかなきことでございます。
                                四月十四日 直江山城守兼続」


 本来はもっと長い文章だが、物語に関係のないところは省いて要訳したのだろう。とにかく家康が逆上するには十分な内容である。前話の三成と兼続の「密約」が本当にあったとすれば、この書状が関ヶ原の戦いの導火線になったことになる。「その時、歴史が動いた」書状である。

 家康軍との決戦を目前にした上杉軍だったが、三成の挙兵の知らせを受けた家康軍は全軍を率いて西へ引き返す。このとき上杉軍が何故追撃しなかったかは諸説あるが、今もって謎。今話の景勝と兼続のようなバトルは実際にあったかもしれない。
「我らの望みは、家康を倒し清き国を作ることのみ。それだけを願ってここまで来たのでございまするぞ。今撃てばそれがかないまする。」
「義に叛いてまで敵を討てば、天はいずれ我らを見放すであろう。それでも追いたくば、わしを斬ってからにせよ。」
兼続の思う「義」の心。景勝の思う「義」の心。しかし、兼続の言う「義」は、その場の「利」でしかないという景勝。自分を斬れとまで言った景勝の強い覚悟に、兼続は屈するのである。

 歴史のイフはタブーだが、このとき三成の挙兵があと少し遅れていたらどうなっていたか。天下分け目の関ヶ原にどう影響していたか。そんなことを考えたくなる歴史の1ページである。

~追記~
 上記文章を打ち終えて投稿したのち、NHKの「天地人」HPを見たらなんと、ドラマ中の「直江状」の全文が載っているではないか!ビデオを一時停止しながら必死で入力した労力は何だったのか・・・。家康以上に逆上した私だった。



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by sakanoueno-kumo | 2009-09-14 02:04 | 天地人 | Comments(0)  

天地人 第36話「史上最大の密約」

 直江兼続と石田三成を主役とするこの物語で、関ヶ原の戦いにおいて二人の共謀があったか否かは避けて通れない話である。秀吉の死後、上杉家が会津にて挙兵。徳川家康を東国に引きつけている間に大阪にて石田三成も挙兵。そして関ヶ原合戦へと繋がっていく。この戦略を兼続と三成が事前に謀り、言い合わせていたというのが二人の共同謀議説である。これに対して、共謀はありえないとする「密約否定論」が現在では通説になっているようである。上杉家は当時、新領国「会津」に国替えをして間もない時期であり、資金面から考えても大戦を挑むなんてあり得ないというのが理由のようだ。「密約否定論」を唱える人の中には、「直江状」の存在すら否定する向きもある。

 「密約肯定論」の理由は、兼続の挙兵と三成の挙兵が偶然というにはあまりにも出来過ぎのタイミングであること、三成が兼続に宛てた手紙に「密約」を匂わす文章があること、伏見での上杉屋敷と石田屋敷はごく近隣に位置し、「密約」を交わす機会は十分にあった・・・とするものである。

 密約があったのかなかったのか、どちらも明確な証拠となるものは存在しない。ならば学者ではない素人歴史ファンとしては、「密約肯定論」を通して関ヶ原の戦いを見る方が俄然面白いわけである。多くの小説などでもこの説をとっており、この「天地人」においても当然「密約肯定論」をもとに話が進んでいくようである。

 対立関係にあった武断派たちから襲撃を受けた三成だが、こともあろうに襲撃の黒幕と目される家康の屋敷に逃れる。このエピソードもまた、史実かどうかは疑わしいものだそうだが、素人歴史ファンとしてはこの説も信じたいところ。
 「我らのの政(まつりごと)は天下万民のためのものであるべき。己だけが良きめをみんとするは、公平にあらず。」
 三成に佐和山城蟄居を促し、政(まつりごと)のすべてを手にしようとする家康に対し言った三成の言葉。まったくもって正論である。しかし私利私欲のない純粋過ぎるほどの正論は、権力者にとっては目障りなもの。純粋な正論が必ずしも正義とは限らない。三成の言う「政(まつりごと)」は、家康の持つ政治力に敵わなかった。

 間もなく発足する平成の新政権において、三成の言う天下万民のための政(まつりごと)は行われるのだろうか。とりあえずは期待したいところなのだが、家康が幹事長なだけに微妙なところである。



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by sakanoueno-kumo | 2009-09-08 00:19 | 天地人 | Comments(0)  

天地人 第34話「さらば、越後」

 痛恨の録画ミスをしてしまった今話。今日、やっと再放送を見ました。

 さてさて今回は国替えの話。関ヶ原の戦いの3年前にあたる慶長2年(1597年)、豊臣秀吉の命によって上杉家は長年の故郷・越後より会津へ国替えとなる。現代でも政治家の国替え出馬という例は時々あって、長年培ってきた地盤を根こそぎ変えての政治活動は大変なことだが、この時代の国替えはそれの比ではない。言ってみればお役所全体の配置換えである。越後と会津は隣の国ではあるが、ほとんど者は越後から出たことはなく、外国へ引っ越すようなものである。「0123」も「ゾウさんマーク」も「アリさんマーク」もないこの時代の団体引っ越しは大変なものだったのだろう。

 後の徳川時代における国替えは転封とも言い、処分・統制のために行われた例が多いが、上杉の会津への国替えは、若くして急逝した蒲生氏郷に変わって奥州・伊達や関東・徳川を牽制するというのが最大の目的。それほど上杉家は秀吉からの信頼を受けていたことがわかる。所領も120万石の加増で、言ってみれば栄転なのである。にもかかわらず家臣からの反発は相当あったよう。栄転とは言っても移転先は外国。それも一生祖国には戻れぬかもしれない栄転など、出世欲満々のサラリーマンでも嬉しい者は少ないだろう。泉沢久秀などは寝込んで拒否していたが、本当に寝込んでしまった者も沢山いたかもしれない。

 頑なに国替えを拒む久秀に対し、兼続は重大な仕事を頼む。
「家中をあたり、身内を越後に残してもいいという者を探してほしい。」
「もしも再び国が乱れたならば越後に戻る。そのときには手引きするものがいる。」
「残る者には、仏門に入るか百姓になってもらわねばならぬ。」

 このとき越後に残った者たちが、後の関ヶ原の戦いにおいての「越後一揆」の下地を作るのである。国替えに伴って異国に移る者たちも辛いが、百姓に身を落として越後に残る者たちの試練は相当なものだっただろう。久秀の身内がその中にいたという史実はどこにも存在しないが、越後に残った名もなき家臣たちの働きが、後の史実に大きく関わってくることになる。

 誰もが知るところの歴史上の偉人たち。信長や秀吉、家康などの生きた痕跡は、確実に歴史上に燦然と輝いて現代に生きる私たちに影響を及ぼしている。彼らがこの世に生を成さなければ、全く違った日本になっていたかも知れない。しかし、このとき越後に残る運命となった名もなき侍たちの働きも、確実に歴史に関わって現代の私たちに繋がっている。歴史に名を成した偉人たちの存在だけで日本が作られてきたわけではない。そんな当たり前のことを改めて感じた今話だった。



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by sakanoueno-kumo | 2009-08-29 23:08 | 天地人 | Comments(0)