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真田丸 第41話「入城」 ~九度山村脱出と真田家嫡男問題~

 「方広寺鐘銘事件」徳川家との関係が急速に悪化した豊臣家は、旧豊臣恩顧の大名たちを味方に引き入れようと試みますが、そのすべてに拒否されてしまいます。そこで、淀殿豊臣秀頼の側近・大野治長は、浪人たちを大坂城に招いて軍備を整える計画を立てます。関ケ原の戦い以降、西軍に加担して改易減封となった武将たちが、他家に召し抱えられずに牢人として全国に多く潜んでいました。それらの浪人たちは当然、江戸幕府を苦々しく思っており、起死回生のタイミングを待っていました。彼らにしてみれば、大坂城からの招集は願ってもないチャンスだったわけです。


e0158128_02593242.jpg 九度山村にて不遇をかこっていた真田信繫(幸村)のもとにも、大坂城からの密使かやってきます。そして、信繁に大坂城入りしてもらう支度金として黄金200枚、銀30貫を贈ったといいます。現在の価値で5億円以上だそうで、これを信繁をはじめ浪人たちにバラまいてたわけですから、いまだ豊臣の財力が衰え知らずだったことがうかがえます。大金をもらったからというわけではないでしょうが、信繁はこの要請を快諾し、慶長19年(1614年)10月9日に九度山村を脱出、大坂城に向かいます。


 信繁が九度山村を脱出した方法については、様々な伝承が残っていますが、その最も有名なものとしては、九度山村の庄屋、百姓たちを招待してをふるまい、彼らが酔いつぶれて寝込んだ隙に脱出したというもの。ドラマでも、この伝承をベースにしていましたね。この話は、信繁が死んで60年以上のちに編纂された戦国武将の逸話集『武辺拙聞書』によるものです。実際には、信繁たちを監視する代官もいたはずで(ドラマではその代官にも酒を飲ませていましたが)、もしこれが実話なら、信繁の監視を任されていた浅野家は、幕府から相当なお咎めを受けていたことでしょう。たぶん、後世の創作でしょうね。実際のところは、大坂の陣以前は、真田信繁という存在など幕府はさして重要視しておらず、監視もそれほど厳重ではなかったため、脱出もそれほど難しいことではなかった、といったところではないでしょうか?


 ただ、九度山村から信繁に従って大坂城に入った百姓がいたという話は『蜂須賀家文書』のなかに見られ、『九度山町史』にも記されているそうです。これは十分に考えられる話ですよね。九度山村で暮らすこと十余年。地元農民との交流のなかで、心を通じ合わせていたとしても何ら不思議ではありません。のちの大阪の陣における真田隊の結束などを見ても、信繁は人を引きつける魅力を持った人物だったのではないでしょうか。宴の話は創作としても、九度山脱出において、農民たちの協力があったというのは、本当の話かもしれませんね。


 大坂城入城の際のあの変装についてですが、これは、軍記物などに見られる「伝心月叟という山伏に身をやつして入城した」という逸話をベースにしたものでしょう。また、信繁はこれより少し前に姉に宛てた書状のなかで、「このところ急激に年を取り、ことのほか病身になり、歯も抜け、髭も黒いところがありません」と伝えており、これもあの変装で処理したのでしょうね。実際、主人公をこんな風貌にしてしまったら視聴者が引くでしょうし、この書状の事実をドラマでどう扱うのかと思っていたのですが、山伏の変装エピと絡めるとは・・・。毎度のことながら、三谷脚本スゴイ!


e0158128_02593024.jpg 沼田城真田信之に目を移します。信之がこの時期病身だったのは事実で、二度の大坂の陣にも参戦しませんでした。その代わり、長男・信吉と次男・信政を出陣させます。ドラマでは、未熟な息子二人を心配して、矢沢三十郎頼幸と姉婿の小山田之知に援助を頼んでいましたが、実際にも、二人を守りたててほしいと何度も三十郎と之知に書状を送って頼んでいます。私にも、来春大学を出て東京に就職が決まった息子がいますが、子供というのはいくつになっても親の目から見れば未熟にしか見えず、心配は拭いきれません。


 この信吉と信政の嫡男問題が描かれていましたが、実はこの後継者となった信吉という人物は、結構が多いんですね。というのも、生年自体が諸説あって定まっていません。また、生母についても詳らかではなく、真田家の公式記録『真田家御事績稿』のなかの『天桂院殿御事績稿』には、生母は小松姫とあるのですが、『真田家御事績稿』には、生母は真田信綱の息女だったと記されています。つまり、ドラマでいうところのおこうですね。また、別の説では、信之が侍女に産ませた子という説もあります。ドラマでは、小松姫の輿入れによっておこうは侍女となり、信之の子を産み、小松姫の養子となって家督を継いだという設定でしたね。つまり、すべての説をミックスさせて辻褄を合わせたかたちです。この設定を視野に入れて、おこうを侍女にしていたんですね。いや~、お見事です。


 史実では、こののち信之は信繁と会うことはありませんが、信吉と信政は、大坂冬の陣の和睦後に対面します。そこでどんなドラマが用意されているのか、楽しみですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-17 18:17 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第39話「歳月」 ~真田紐の伝承~

 九度山村で蟄居生活を送る真田信繁のもとへ、兄の真田信之矢沢三十郎頼幸が訪れたところから始まった今話。かつては関ケ原の戦い以後、信之、信繁兄弟は生涯会うことがなかったと考えられていましたが、近ごろの研究では、一度だけ対面した事実が確認されているそうです。もっとも、信之が九度山村を訪れたのは慶長10年(1605年)の徳川秀忠征夷大将軍任官に供奉して上洛した際に立ち寄ったようで、父の真田昌幸の生前のことになります。実際、昌幸が知人に送った書状のなかにも、そのことが記されています。関ケ原の戦いから5年、ことのき、昌幸、信之、信繁の3人で、どんな会話が行われていたのでしょうね。想像が膨らみます。そして、これが信之、信繁の生涯の別れとなるのですが、ドラマでは特にそのことを重視していなかったようですね。もっと、ドラマチックなシーンになるのかと思っていたのですが・・・。


e0158128_02593024.jpg 関ケ原の戦い後の信之は、父・昌幸の上田領3万8千石、信繁の知行(およそ1万9千石相当と推定)を徳川家康より安堵され、以前から領していた沼田領2万7千石と合わせると、8万4千石ほどになります(ドラマでは、きりが信之のことを「9万5千石の大名」と言っていましたが、この頃の石高というのは、江戸時代中期以降のそれと違ってまだまだ曖昧だったようです)。信之は小県一円を任された大名として、こののちも徳川幕府に忠義を果たしていくことになります。


 九度山村での蟄居生活は困窮を極めていたようで、信之の援助は不可欠でした。資料によると、信之からの毎年の仕送り金は約100両(現在の価値で約1000万円ほど)であったようで、それ以外にも紀伊浅野家から50石(500万円ほど)の支援金をうけていたようです。この金額だけみれば、十分な暮らしができそうに思えますが、これで家臣たちの食い扶持も見なければなりません。九度山で生活していたのは、昌幸・信繁父子の家族に加え、上田城主時代からの家臣、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門16人の家臣が付き従っていました。年収1500万円では、とてもこれだけの人数を養えないですよね。昌幸の・信繁は毎年の仕送り以外にも、信之にたびたび臨時の仕送りを要請しています。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、信繁たちの生活をさらに圧迫したのは、この信之来訪直後に起きたと思われる屋敷の火事だったようです。昌幸・信繁父子はこの火事の後始末と屋敷の再建で、ほうぼうに借金を抱えることになったのだとか。踏んだり蹴ったりの時期ですね。


e0158128_02593242.jpg そんな信繁たちの困窮した生活の糧となったのが、「真田紐」の製造、販売だったといわれます。その伝承によると、信繁たちは少しでも困窮した生活の足しにするため、家族で木綿の紐を織る内職をし、家臣に行商させたといいます。真田紐は丈夫で伸びにくい性質があり、武具の締め紐などに重宝されたといいます。これを、「真田の作った強い紐」との触れ込みで行商し、天下の情勢に絶えず目を光らせていたと・・・。


 この話のどこまでが史実かは定かではありません。少なくとも、昌幸・信繁が考案したというのは作り話のようで、それ以前から、この地域で生産されていた紐のようです。ただ、その紐が「真田紐」と名付けられて現代に伝わっていることを思えば、信繁たちが何らかのかたちで製造・販売に関わったのは事実かもしれません。一説には、当時、徳川の天下統一に伴い、特に大坂を中心とした地方の庶民には親豊臣・反徳川的風潮が根強く、そんななか、最後まで徳川に苦汁をなめさせた信繁を支持・美化する動きがあり、「真田紐」をひとつの象徴とするようになった、とも言われます。ドラマでは、「真田紐」を考案した信繁がそれをライセンス化し、「真田紐」ブランドを立ち上げ、村の衆に販売権を委ねてフランチャイズ契約を結ぶという設定でした。信繁、賢い!


 その「真田紐」の考案のキッカケとなったのが、ルソンに亡命していた豊臣秀次の娘・たか(隆清院)が持ち帰った「サナール」という紐という設定も秀逸でしたね。「サナール」=チベット語で紐のことだそうで、「サナール・・・サナーダ・・・ナダヒモ・・・バンザ~イ!!!」ってことだそうで・・・。くだらない親父ギャグのようですが、サナールという単語を知らなけりゃ作れない設定です。さすが、三谷さんの雑学量には毎度感心させられます。


 秀次の娘がルソンに亡命していたという逸話は存在せず、ドラマの創作です。ただ、秀次事件でなぜ処刑されなかったかは不明で、その後の詳細も分かっていません。外国にでも逃げてなけりゃ助からなかっただろうというのが、ドラマの設定ですね。その後、九度山に蟄居している信繁の側室となり、信繁の五女・なほ(顕性院)、三男・三好幸信を生んだと伝わります。ドラマではもう出てこない雰囲気でしたが、じゃあ、いつ身籠ったのでしょう? きりとが親密になった一瞬のすきをついて・・・? 信繁、凄すぎです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-07 17:01 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第37話「信之」 ~関ケ原の戦い・第二次上田合戦エピローグ~

 第二次上田合戦徳川秀忠軍を撃破した真田昌幸・信繁父子でしたが、誤算だったのは、慶長5年(1600年)9月15日に起きた関ケ原の戦いがわずか1日で決着がつき、西軍の大敗に終わったことでした。信繁の舅・大谷吉継は壮絶な最期を遂げ、石田三成、小西行長、宇喜多秀家らは戦場から落ち延び、大坂城にて豊臣秀頼を守っていた毛利輝元は、大坂城を退去して徳川家康に恭順の意を示しました。家康は9月22日に輝元と和睦し、27日には大坂城に入城します。家康の大勝でした。

e0158128_19301095.jpg 石田三成は間もなく捕縛され、10月1日、京の六条河原で小西行長、安国寺恵瓊らと共に斬首されます。享年41。三成の処刑に際しては、数々の逸話が伝わります。たとえば、処刑直前の三成が、警護の人間に喉が乾いたのでを所望したところ、「水はないので、代わりに柿を食せ。」と言われ、これを聞いた三成は「柿は痰の毒だ!」といって拒否します。これを聞いた警護の者は、「いまから処刑される者が毒を気にしてどうする。」と笑いますが、三成は「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ!」と、泰然としていたといいます。

また、別の逸話では、処刑前の三成、行長、安国寺の3人に、家康が小袖を与えた際、他の二人は有りがたく受け取りますが、三成は「この小袖は誰からのものか?」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様になったのか。」と言い放ち、受け取らなかったといいます。これらの逸話がどこまで実話かどうかは定かではありませんが、江戸期を通じて天下の大悪人に仕立て上げられてきた三成でありながら、このような賞賛すべき伝承が残されていることを思えば、遠からずの立派な最期だったのかもしれませんね。

e0158128_02592871.jpg 西軍の敗北を知った真田昌幸は、それでも戦いをやめようとせず、9月18日、上田城に近い虚空蔵山城坂木葛尾城に陣を布いていた森忠政の軍勢に夜襲を仕掛け、さらに23日には、信繁率いる軍勢が坂木葛尾城を攻めます。ドラマでは父を抑えていた信繁でしたが、実際には、信繁が先頭を切って軍事行動を起こしていたようです。昌幸らにしてみれば、自分たちは秀忠軍を撃破していたわけですから、敗北を認められなかったのでしょう。しかし、最後の悪あがきもここまで。嫡男・真田信幸の説得もあって、渋々降伏します。ドラマで昌幸は廊下に拳を打ち続けて悔しがっていましたが、たぶん、400年前の昌幸も、あんな感じだったんじゃないでしょうか・・・。そりゃ悔しいでしょうね。勝ってたんだから・・・真田は・・・。

e0158128_02593024.jpg 昌幸・信繁が降伏すると、ひとり徳川方についていた信幸は、懸命にふたりの助命嘆願を訴えます。家康にしてみれば、二度も煮え湯を飲まされた昌幸を許さず、殺すつもりだったといいます。しかし、信幸の懸命な訴えに、舅の本多忠勝の援護も加わり、どうにかこうにか命だけは助けられました。ドラマでもありましたが、このとき忠勝は、「もし真田父子に死を与えるというのであれば、某は婿の信幸とともに真田父子を支援して上田城に籠り、主君・家康と戦うも辞さぬ」と言い放ち、家康を驚かせたと伝わります。よほど、婿の信幸のことを気に入っていたんでしょうね。

 信幸は父と弟の命乞いの代償として、「信之」に改名します。これについて、多くの小説などでは、父から受け継いだ「幸」の字を使うことを憚り、自ら改名したように描かれてきましたが、今回のドラマでは、家康から「捨てよ」と命じられての改名でしたね。それに対して、「文字」は変えても「読み」は変えないという信之なりの意地だったと・・・。この設定、なかなか良かったんじゃないでしょうか?

 かくして昌幸・信繁父子の流罪が決まり、紀州高野山の麓、九度山に流されます。その後、家康はよほど上田城が目障りだったのか、徹底的に破壊したといいます。そのせいで、真田時代の上田城の遺構は、ほとんど残されていません。

 昌幸・信繁が上田を後にしたのは慶長5年(1600年)12月13日のことでした。昌幸は信之と別れるに際して、「それにしても悔しい限りだ。家康こそこのような目にあわせてやろうと思っていたのに」と嘆き、悔し涙を流したと伝わります。昌幸54歳、信繁34歳でした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-20 23:38 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第35話「犬伏」 ~犬伏の別れ~

 8月後半から仕事が忙しくなり、特に今週は超激務をこなす毎日となり、昨夜、ほぼ1週間ぶりに家に帰り、ようやく大河ドラマを視聴しました。真田一族の物語を語るにあたって、いちばんの見せ場といってもいい「犬伏の別れ」。遅ればせながらの起稿です。

 慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は会津の上杉景勝討伐を掲げて大坂を出陣。7月2日には江戸城に入り、諸大名に上杉攻めに加わるよう要請します。家康は上杉征討にあたって、豊臣家より軍資金二万両と米二万石をもらい、上杉攻めを豊臣秀頼の命というかたちにしていました。豊臣の御旗が掲げられた以上、諸大名はこれに参加せざるを得なくなります。このあたり、家康の政治力の巧みさがうかがえますね。

 一方、家康の上杉征討を知った石田三成は、家康の元に向かおうとしていた大谷吉継を蟄居中の佐和山城に呼び寄せ(ドラマでは、三成が吉継の元を訪れていましたが)、打倒家康の挙兵を持ちかけます。吉継はその無謀を説きますが、三成の決意が固いことを知るや、「わしがおぬしを勝たせてみせる」と言ったかどうかはわかりませんが、三成に同心します。吉継を味方につけた三成は、毛利輝元を大坂城に呼び、秀頼を奉じて挙兵するんですね。

 上杉征伐の要請を受けた真田昌幸、信幸、信繁父子は、家康の元に合流すべく宇都宮に向けて進軍し、下野国の犬伏に着陣します。ここで彼らのもとに、三成挙兵の報せが届きました。これを聞いた昌幸が「早すぎるわ!」と言ったかどうかはわかりませんが、たしかに、三成の挙兵は少し早すぎました。歴史のタラレバはナンセンスですが、もし、三成の挙兵がもう少し遅く、上杉との戦端が開かれてから行われていれば、家康は簡単には引き返せなくなり、歴史はまた違ったものになっていたでしょう。一説には、三成と会津の直江兼続が共謀して家康を挟撃するシナリオだったという見方がありますが、その説に否定的な意見の根拠としては、この三成の挙兵のタイミングを指摘します。電話もメールもない時代ですが、共謀していたのなら、三成の挙兵はもう少しあとだったんじゃないかと・・・。真相はどうだったんでしょうね。

e0158128_02592871.jpg 三成の挙兵を知った昌幸は、7月21日、信幸、信繁兄弟を呼び寄せて密談を行ったとされます。これが、世に言う「犬伏の別れ」を決定した密談ですね。この密談で、真田家は昌幸と信繁が三成方につき、信幸が家康方につくことを決めたとされますが、ただ、この密談の内容は、一級史料では確認することができず、すべて後世の軍記物に頼るしかありません。確かなのは、その日の夜に昌幸・信繁は戦陣を離脱し、上田に向けて帰還したこと、それらの家来たちはあわててその後を追っていったこと、信幸だけが戦陣に残り、24日、家康の元に参陣したことくらいだそうです。でも、それらの事実を見る限り、この密談で兄弟父子が敵味方に別れる決意をしたことは、間違いなさそうですね。

e0158128_02593242.jpg 兄弟父子が敵味方に別れた理由については様々な説がありますが、どちらが勝っても家が存続できるため、というのが、通説となっている理由ですね。実際、合戦時にお家存続のために親兄弟が別れるという話は、他にもたくさんありました。この時代、家の存続というのは、武士にとって何より大切な仕事でしたからね。さらには、信繁の妻は三成方の大谷吉継の娘であり、信幸の妻が徳川家家臣の本多忠勝の娘だったことも、大いに作用したでしょうね。信繁も信幸も、舅への義理は蔑ろにはできないですからね。そうみれば、この密談の結論は、はじめから見えていたといえます。

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 また、密談中に様子を伺いに来た家臣の河原綱家が信幸から水筒を投げつけられるシーンがありましたが、あれは、三谷脚本らしいコメディーシーンに見えましたが、実は、河原家の伝承で残っている逸話です。それによると、投げたのは信幸ではなく昌幸で、投げたものは水筒ではなく下駄だったとか。下駄は綱家の前歯にあたり、彼は生涯、前歯が欠けたままだったといいます。入れ歯もインプラントもない時代ですからね。少々気の毒な気がしますね。

「もし徳川が勝ったならば、俺はどんな手を使ってもお前と父上を助けてみせる!」

 本当にそうなっちゃうんですよね。温厚篤実な人物だったという信幸。弟や父の神出鬼没ぶりばかりが目立つ真田家ですが、真田家でもっとも優れていたのは、実は信幸だったのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-11 03:02 | 真田丸 | Comments(2)  

真田丸 第27話「不信」 ~真田信幸、信繁兄弟の叙任と、豊臣秀保の急死~

e0158128_19341615.jpg 鶴松の死後、自身の年齢から考えてもはや実子は見込めないと考えた豊臣秀吉は、養子となっていた甥の豊臣秀次を後継者と定め、関白職も譲ります。しかし、それからほどなくして淀殿(のちの豊臣秀頼)を出産。これにより、秀吉は次第に秀次を疎んじるようになり、あの手この手を使って秀次を追い詰め、やがてはあらぬ嫌疑をかけて切腹に追いやる・・・というのが、これまでの作品で描かれてきた一般的な「秀次事件」のあらましです。後世に悪評を残すことになった大きな要因のひとつですね。


 ところが、このたびのドラマでの「秀次事件」は、少し様相が違うようです。秀吉は拾が生まれたことによってこれまで以上に秀次に期待をかけ、将来、拾の力になってもらうために教育しようとしている様子ですが、秀次のほうが被害妄想的恐怖におののき、すれ違いが生じ始めました。これまでにない解釈ですね。どのような結末に描かれるのか、次週に期待です。


「お待ち下さい! 太閤殿下は何か思い違いをされているようでございます。官位を与えるのは関白のつとめ。誰にいついかなる位を授けるかこれ全て関白がいたすべきこと。源次郎に官位を与えるかどうかは私が決めることです! 源次郎、そなたには従五位下の位を授ける。そして源次郎の兄だが、私はその者をよう知らぬ。まずはよく調べよう。その上で支障がなければ兄にも従五位下を授けてやろう。太閤殿下、さようつかまつろうと存じますがよろしゅうございますか?」

「よくぞ申した!おぬしの言うとおりこれは関白の仕事であった。この件、そちに任せる。それでこそ関白じゃ!」


 関白秀次、カッコ良かったですね。結果を知っているにもかかわらず、このまま関係が上手くいってほしいと思ってしまいました。でも、歴史はそれを許しません。辛いですね。


 秀次の弟、豊臣秀保が17歳の若さで急逝したのは史実ですが、その死因については、さまざまな説があります。通説となっているのはドラマのとおり病死ですが、別の説では、兄の秀次と同じく拾が生まれたことによる邪魔者扱いで殺されたという説や、無双の悪人だったため、理不尽な仕打ちを受けた小姓に道連れにされて溺死したという話など、不可解な死の伝承が複数あります。たしかに、兄の最期を思えば、いろいろ勘繰りたくなりますよね。思えば、秀吉の実姉の子であったために豊臣政権に組み込まれた秀次、秀勝、秀保の三兄弟は、3人とも若くして不幸な最期を遂げることになります。叔父の秀吉が天下人にならなければ、彼らは一介の百姓として、貧しくとも穏やかな人生を送れたかもしれません。


e0158128_20004830.jpg 文禄二年(1593年)9月1日、真田信幸、信繁兄弟が揃って従五位下の位階に叙位され、信幸は伊豆守、信繁は左衛門佐に任官されました。さらに、翌年に朝廷より下された口宣案には、「豊臣信幸、豊臣信繁」とあり、ふたりが「豊臣姓」を許されていたことがわかります。もちろん、信繁の計らいで信幸も叙任してという話はドラマのオリジナルで、実際には、信幸は父・真田昌幸から独立した沼田を領する大名ですから、それ相応の処遇を受けたということでしょう。むしろ、人質として秀吉の馬廻を務めていた信繁が、兄同様の扱いを受けたということのほうが異例で、これにより、信繁も父、兄とは別個の大名扱いとなったわけです。よほど秀吉から気に入られていたのでしょうね。


「もらえるものは病気以外もらっておけばいいんだ。」


昌幸、最高です(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-11 19:35 | 真田丸 | Comments(2)  

真田丸 第23話「攻略」 ~東山道軍の進軍~

 天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉は総勢23万という大軍を引き連れ、北条氏政・氏直父子の居城・小田原城に向かいました。一方の北条軍は、小田原城に惣構を築いて迎え撃つ体制を整えます。かつては上杉謙信武田信玄ですら落とせなかった難攻不落の小田原城。兵糧武器弾薬は豊富に備蓄され、100ヶ所以上ある支城とのネットワークを活用すれば、豊臣軍とて跳ね返せる自信があったのでしょう。しかし、九州も平定して天下統一目前の豊臣軍は、これまでの敵とはすべてにおいて桁違いでした。


 豊臣軍は北条攻めの軍勢を大きく2つに分けます。ひとつは、秀吉本隊とともに東海道を進軍する主力軍20万で、もうひとつは、前田利家軍、上杉景勝軍を中心とする東山道軍3万5千。ドラマで描かれていたように、徳川家康の与力である真田昌幸は、本来であれば家康とともに東海道軍に加えられるはずでしたが、石田三成が示した陣立てでは、北国勢に組み込まれます。その理由は、ドラマのように家康が信用出来ないから・・・ではなく、碓氷峠から上野国という真田家本領をルートとしていたからでしょう。


 北国勢における真田軍の活躍があまり描かれなかったので、ここで簡単に追っていきます。


e0158128_23584558.jpg 東山道における北条方の防衛拠点は、碓氷峠の山麓にある松井田城でした。上野方面では、松井田城の背後には、氏政の弟・北条氏邦が守る鉢形城、そしてその支城となる箕輪城、さらに、秀吉の裁定により真田家から奪った沼田城があります。昌幸らは、まずはその重要拠点である松井田城を攻めます。しかし、城代・大道寺政繁の守りは堅く、攻城は約1ヶ月に及びました。このとき、事前に物見に出た真田信幸の部隊が敵の部隊と戦闘になり、敵将の首を上げる武功をあげたと伝わります。


 4月20日に松井田城を落として勢いに乗った真田軍ら北国勢は、箕輪城調略によって4日間で落とし、さらに他の軍と合流し、鉢形城を攻め、6月14日に落とします。城主の北条氏邦は前田家に預けられ、のちに金沢で死去します。


 箕輪城、鉢形城と、味方の兵の損傷を避けて調略で城を落としましたが、その手緩さに秀吉が怒り、次の八王子城攻めでは見せしめとして徹底的に叩くように命じられます。八王子城は北条家内では第一の実力者であった北条氏照の居城で、北条家にとっては小田原城に次ぐ重要拠点でした。このとき氏照は小田原城に籠城していたため不在でしたが、秀吉は、この八王子城を力で落とすことが、小田原城の戦意喪失に繋がると考えたのでしょう。従来の前田、上杉、真田ら東山道軍にさらに援軍を加え、総勢5万もの大軍を投入します。そのため、八王子城はわずか1日で落城。このとき豊臣軍は、降伏する者も容赦なく斬り捨て、女、子どもに至るまで、すべて大虐殺します。


 翌日には、討ち死にした武将たちのたくさんの首が小田原に届けられ、小田原城から見えるように晒されました。その中には、小田原城に籠る兵たちの妻子の首も数多くあったとか。惨いですね。さすがの氏照も、この仕打ちには声を上げて号泣したと伝えられます。


 いままで数々のドラマで北条征伐が描かれてきましたが、この「八王子城攻め」が描かれることはあまりありませんね。今回のドラマでも、やはりスルーでした。日曜8時の家族団らんの時間帯にはあまり相応しくないヘビーな内容ですが、虚構の正義を掲げた安っぽい反戦を描くよりも、こういった惨たらしい歴史的事実を描くほうが、戦争の愚かさというものを大いに喧伝できると思うんですけどね。


e0158128_21314160.jpg ドラマでは、苦戦する忍城攻めに業を煮やした石田三成が、後から司令官として現地入りし、上杉や真田ら諸将の不手際を責めて鉢形城と八王子城攻めに向かうよう指示していましたが、史実では、忍城攻めの司令官は最初から三成で、時系列から考えると昌幸たちは八王子城攻めのあと、忍城攻めに加わったと見るのが正しいと思われます。この忍城攻めは、映画『のぼうの城』でも描かれていましたが、小田原城の支城の中で唯一最後まで落城しなかった城で、三成の面目が丸つぶれとなった戦いとして知られます。


 ちなみに、この北条征伐が真田信繁初陣だったと言われ、秀吉の許しを得て北国勢の真田軍に同行したと描かれる場合が多いのですが、実際には、それを証明する確かな史料はないそうです。それもあってか、今回のドラマでは、秀吉の馬廻り衆として父・兄とは別行動でした。これは、じゅうぶんにあり得る話だと思います。しかし、北条との交渉の使者として小田原城に入るというのは、もちろん史実ではありません。もっとも、徳川家康が家臣を城内に入れて北条氏直と交渉していたことは史実なので、その役目を、主人公である信繁にやらせたということでしょう。


 ちなみにちなみに、小田原征伐に欠かせない「石垣山一夜城」の逸話は、今回はやらなかったですね。今年の大河は、「本能寺の変」「山崎合戦」といった、真田家が直接関わっていない誰もが知っているエピソードは描かないといった方針のようですね。それ自体は良いと思うのでうが、であれば、今話で八王子城攻めを描いて欲しかったんですけどね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-13 21:32 | 真田丸 | Comments(2)  

真田丸 第19話「恋路」 ~信幸・小松姫の縁談と、淀殿の側室入り~

 大坂にて豊臣秀吉から徳川家康の与力となるよう命じられた真田昌幸は、その帰国の途次、家康の居城である駿府城に立ち寄ります。天正15年(1587年)3月18日のことでした。この日を境に昌幸は徳川氏に出仕することとなり、その対価として、真田氏の領土は安堵されます。ただ、真田氏と徳川氏の関係はあくまで与力であって家臣ではなく、真田氏の立場としては、豊臣家傘下の大名として認定されています。この辺の関係がややこしいですけどね。つまり、徳川会社も真田会社も、豊臣グループの系列会社であることには違いありませんが、業務上、徳川会社の傘下で働くことになったといったとこでしょうか。

ちなみに、このとき真田氏とともに、同じく信濃国衆の小笠原貞慶木曾義昌らも、徳川氏の与力となっています。ただ、のちに小笠原氏、木曾氏は徳川氏の家臣になってしまいますが、真田氏はそうはならなかったことを思えば、豊臣政権下における昌幸の存在感は、決して軽いものではなかったといえます。

e0158128_23052141.jpg 今話で昌幸の嫡男・真田信幸本多忠勝の娘・との縁談が持ち上がりましたね。のちに小松姫(小松殿)と呼ばれる稲と信幸の結婚については、諸説あって詳らかではありません。まずはその時期についてですが、天正11年(1583年)説(『甲陽軍鑑』)、天正14年説(1586)説(『沼田記』)、天正16年(1588年)説(『沼田日記』)などがあります。今回のドラマでは、最後の天正16年(1588年)説を採るようですね。ふつうに考えれば、昌幸が家康の与力となった天正15年(1587年)以降と見るのが自然だとわたしも思います。ただ、歴史家の平山優氏の著書では、信幸が家康の与力となった天正17年(1589年)以降で、最も可能性が高いのは、天正18年(1590年)と述べておられます。どうなんでしょうね。

 また、信幸に輿入れするにあたって、家康の養女になったというエピソードですが、これも、確かな史料は存在しないようです。一説には、家康が忠勝の娘と信幸との縁談を持ちかけたところ、昌幸が難色を示したため、家康の養女として嫁がせるとして承諾したとの逸話もあります。別の説では、忠勝が信幸の武勇に惚れて縁談を申し入れたというものや、秀吉が二人の縁談を指示したという説もあります。結局のところ、詳しいことは何もわかっていないのですが、いずれにせよ、徳川氏と真田氏の親密化のための縁談であったことは間違いないでしょう。

真田家にとって、この縁談がのちの運命を大きく変えることになります。先の話になりますが、関が原の戦いのあと、昌幸・信繁父子に切腹を命じようとする家康に対して、懸命に助命嘆願を訴えたのは、信幸と、他ならぬ義父の本多忠勝でした。もし、この縁談が成立していなければ、関が原の戦いで昌幸・信繁父子の生涯は終わっていたかもしれません。その意味では、この縁談は、徳川氏より真田氏において大きな意味があったといえます。

e0158128_23062489.jpg さて、大坂では茶々が秀吉の側室となることを承諾しました。実は、茶々が秀吉の側室になった時期も、正確にはわかっていません。天正15年(1587年)に妹・お初の結婚、同年9月、聚楽第竣工、10月に「北野大茶会」で、この翌々年の天正17年(1589年)には秀吉との最初の子・鶴松(お捨)を生んでいるので、おそらく天正15年から翌年の間だっただろうと考えられます。このとき茶々は18歳、秀吉は50歳でした。

 「あの方は私が死ぬときに、日の本一幸せなおなごにしてくれると約束してくれました。言ってみたいと私は思いました」

 切ないですね。最終回、彼女はどんな台詞を吐くのでしょう。

 「おかしな話をします。私と源次郎は不思議な糸で結ばれている気がするのです。離れ離れになっても、あなたがいつかまた戻ってくる。そして私たちは同じ日に死ぬの」

 無粋なことを言うようですが、茶々こと淀殿自害したのは、信繁が討死した翌朝でした。もっとも、夜が明ける前のことだったでしょうから、「同じ日」と言っていいかもしれませんね。淀殿といえば、気の強いヒステリックな女性として描かれることが多いですが、本ドラマでは、天真爛漫に振る舞いながらも心ここにあらずといったエキセントリックなキャラとして描かれています。大蔵卿局いわく、「悲しむことをやめた」のだとか。そんな心の闇が顕になったとき、どんな淀殿が出てくるのか・・・。今後が楽しみですが、胸が痛くもあります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-16 23:09 | 真田丸 | Comments(4)  

真田丸 第13話「決戦」 ~第一次上田合戦~

 上杉氏と手を結んだ真田昌幸でしたが、これを徳川家康が黙って見過ごすはずがありませんでした。家康にしてみれば、徳川方の北方の最前線として築城したはずの上田城が敵の手に渡ったばかりか、北条氏との同盟の条件である沼田・吾妻領の譲渡問題も昌幸の寝返りによって頓挫してしまったわけで、その責任上からも、真田氏を許しておくわけにはいかなかったわけです。こうして起きたのが、天正13年(1585年)閏8月2日の徳川軍による上田城攻め、世に言う「第一次上田合戦」でした。

e0158128_20435306.jpg この合戦は、信濃国の一国衆である真田氏が、徳川軍を完膚なきまでに撃破した戦いとして有名ですが、実は、その内容は確実な史料に乏しく、詳細は不明です。一般的に知られている経緯は、実際に合戦に参加していた大久保忠教『三河物語』によるところが多く、ここでも、その『三河物語』に沿って解説していきます。

 徳川方の布陣は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉という精鋭を指揮官とした7000の大軍。これに対して迎え撃つ真田方は2000余り。徳川方の3分の1以下でした。そこで昌幸は、城下の農民たち3000余人を城に籠城させ、女子供にも石を投げさせて攻撃させたといいます。この時代、石つぶては、立派な兵器でした。

e0158128_23584558.jpg さらに『三河物語』によると、真田方は400人ほどで本丸を守り、昌幸の長男・真田信幸は800余りの兵を率いて城外に布陣し、城下の町筋には「千鳥掛け」と呼ばれる「ハ」の字に互い違いにした柵を設け、大軍が容易に進めないようにしました。そして信幸は農民たちを山野に潜ませて伏兵とし、自身は神川まで出陣して徳川方と軽く一戦を交えたのち、わざと徳川軍に追撃させ、城近くまでおびき寄せました。ドラマではこの役目を担っていたのは弟の真田信繁でしたが、『三河物語』によると、兄の信幸でした。

 このとき、徳川軍は城の大手を破って二の丸まで乱入。しかし、狭い場所に突入した兵は大軍としての機能を失い、ドラマで昌幸がで例えていたように、陣形が縦に長く伸びてしまいます。大軍と戦う場合、敵の陣形を縦に長く伸ばしてその横っ腹をつくというのは常套手段です。それでも、圧倒的な兵力差に慢心していた徳川方は、さらに城内に突入。しかし、それこそが昌幸の思惑通りでした。敵を十分に引きつけたと見た昌幸は、城内に準備していた大木の綱を切って、敵方の頭上に落とします。意表をつかれた徳川方の兵たちは大木に押しつぶされたり逃げ惑うなどの大混乱に陥ります。それを見た真田方の城兵たちは、動揺する徳川軍めがけて一斉に銃撃弓矢を撃ちかけました。

 たまらず後退した徳川軍は、われ先にと逃げ出し始めます。しかし、その退路を阻むのは、事前に仕掛けておいた「千鳥掛け」でした。思うように退却できない徳川軍は、さらに混乱を極めます。そこに、身を潜めていた信幸の兵が側面を襲います。恐怖にかられた徳川軍はパニックになり、ここで多くの死傷者がでました。ほうほうの体で逃げ出した兵たちの前に立ちふさがるのは、折からの雨で増水していた神川。しかし、本能的に逃げ出した兵たちのパニックはおさまらず、無理やり川を渡って逃げようとしたため、多くの兵が溺れ死んだといいます。

 以上が『三河物語』による「第一次上田合戦」のあらまし。真田信繁は登場しません。江戸時代に記された松代藩真田家の家記『上田軍記』によると、上杉氏に人質として出されていた信繁が、上杉景勝に許されて急遽上田に帰り、父・昌幸より軍勢を預けられてこの合戦に参加したとあるそうですが、これが史実かどうかは明らかではありません。義を重んじる上杉家といえども、さすがに人質を開放するほど甘くはなかったでしょう。表裏比興の者といわれた昌幸ですから、上杉方としては、再び徳川方に寝返る可能性も考えておかねばならなかったでしょうからね。信繁はこの合戦に参加することはなかったと見るほうが賢明でしょう。ドラマとしては、『上田軍記』に則ったほうが面白いですけどね。

ちなみに、ドラマではという名で出ていた信繁の最初の子・すえを産んだ側室は、史料では堀田作兵衛の妹(もしくは娘)と記されているだけで、いつ、どのようにして別れたかは定かではありません。

この合戦に上杉氏の援軍は得られず、真田軍単独で行われました。家康不在とはいえ、歴戦の精鋭が顔を揃えながら寡兵惨敗した徳川軍。ナレーションにもありましたが、この戦いにおける徳川軍の死者は1300余りといわれ、真田軍の死者は50名にも満たなかったとか。真田昌幸という名が天下に轟いた瞬間でした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-04-04 23:59 | 真田丸 | Comments(4)