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真田丸 総評

2016年大河ドラマ『真田丸』の全50話が終わりました。今年もなんとか完走できて安堵しています。秋以降、仕事が忙しくなって起稿も遅れがちになり、ホントはもっと掘り下げたかった回もあったのですが、上辺だけ流して簡単に済ませたりしました。まあ、そこは素人の趣味でやってるブログということで、ご容赦ください。で、最後に、例年どおり今年の作品についてわたしなりに総括します。


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 主人公の真田信繁は、戦国武将のなかでもとりわけ人気の高い人物で、これまでも小説や映画、漫画などで何度もフィーチャーされ、昨今では『戦国無双』などのゲームの影響から、歴女人気ナンバーワン武将とも言われていましたが、その人気はいまに始まったものではなく、江戸時代の初期以降、つまり、大坂夏の陣で討死して以降、信繁の生涯は講談などを通してさまざまに語り継がれ、多くの伝説を生んできました。その結実が「真田幸村」です。これまで、わたしたちが知っていると思っていた信繁像は、実は、虚実とりまぜた「幸村像」なんですね。


 今回、その有名な「幸村」という名をあえて使わず、「信繁」でいくと知ったとき、これまでの幸村像を脱却した信繁の実像に迫ろうという制作サイドの意気込みだと感じました。虚像に塗り固められた幸村ではなく、本当の信繁は、きっとこんな人物だったんじゃないかと。


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 ただ、信繁という人物は、その生涯の最後の最期に大きな花火を打ち上げ、華々しく散華していっただけで、それ以前の信繁の生涯は、信用に足る史料に乏しく、ほとんど謎の人物なんですね。だから、池波正太郎『真田太平記』でも、火坂雅志『真田三代』でも、さらには、江戸時代に刊行された『真田三代
でも、そのクライマックスで幸村は活躍しますが、物語を通しての題材は真田一族です。今回も『真田丸』というタイトルは、大坂冬の陣における出城「真田丸」と、真田一族が戦国の荒波を航海する船「真田丸」をかけたものだそうですが、あくまで主人公は信繁。はたして1年間もつのだろうか・・・と、注目していました。


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 で、1年間見終えて思ったのは、やはり、信繁の物語ではなく、真田一族の物語でしたね。特に前半は父の真田昌幸が主人公といってもよく、中盤あたりも、信繁の目線で描かれた豊臣一族の物語だったり、戦国史だったりしただけで、主人公である信繁の人物像は、昌幸のような強烈な存在感はなく、どちらかといえば無味無臭な存在でした。そして物語の終盤、いよいよ信繁活躍の舞台が整ったところで、名を「幸村」と改名。ようやく主人公となったその人物像は、やはり、既成の「幸村像」だったように思います。たいへんカッコよく見ごたえがありましたが、残念ながら、真の「信繁像」とはいかなかったですね。でも、これは仕方がないことなんでしょう。もともと一次史料に乏しく、伝承レベルの逸話に頼らざるをえないでしょうから、幸村と違う真の信繁像なんて、描きようがないのでしょう。むしろ、その少ない史料と伝承を、三谷幸喜さんなりに上手く料理していたなあと思うところが多々ありました。無理やり主人公を活躍させて賛美するようなこともなく、あれだけ無味無臭なキャラに設定したことは、逆に斬新だったかもしれませんね。


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 その観点でいえば、今回、真田家の関わっていない出来事はことごとく省かれていましたね。だから、本能寺の変関ヶ原の本戦石田三成の最期も、そして、信繁落命後の大坂夏の陣の結末も描きませんでした。これも、この物語はあくまで真田家の物語だという三谷さんのこだわりだったのでしょう。これもよかったんじゃないでしょうか。これまでの作品内では、直接関係ない出来事に無理やり主人公を絡めて、ありえない活躍をさせたりすることがよくありましたが、あれって、すっごくシラケちゃうんですよね。もちろん、ドラマですからフィクションはあって当然なんですが、明らかな主人公ご都合主義の設定は、逆に物語を壊すだけだとわたしは思います。事実は小説よりも奇なりですから。その意味では、今回はそんな場面がほとんどなかった。その分、観る人によっては消化不良なところもあったかもしれませんが、わたしは、そのこだわりを評価したいと思います。


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 主人公の信繁は無味無臭なキャラでしたが、その脇を固める登場人物は、皆、かなり個性的でしたね。その最たる存在が真田昌幸で、まさに「食えない男」という比喩がぴったりなキャラでした。「表裏比興の者」と呼ばれた昌幸ですが、ドラマではそのペテン師ぶりも愛すべき存在で、今年の大河は、昌幸なくしは語れないのではないでしょうか。演じた草刈正雄さんといえば、約30年前、『真田太平記』で幸村を演じられていたことが思いだされます。あのときの幸村が、今回は昌幸を演じる。これも、古い時代劇ファンを唸らせる三谷さんの狙いだったのでしょうね。そして、それが見事にハマっていました。30年前の昌幸は丹波哲郎さんでしたが、今回、草刈さんは当時の丹波さんをかなり意識していたんじゃないでしょうか。随所でそう感じる場面がありました。いつの日か、今度は堺雅人さんが昌幸を演じる日が来たら、面白いですね。


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 その堺さんは、民放ドラマでは個性的な役が多いのに対し(過去の大河ドラマでも、『篤姫』ではかなり強烈な役でしたよね)、今回は主役でありながら個性を殺した地味な役どころで、周りの個性的な脇役を引き立てる珍しいタイプの主役でした。主役でありながら抑えた演技をするというのは、結構むずかしいんじゃないでしょうか。でも、今回はその堺さんの演技があったから、昌幸や秀吉、家康、そして淀殿といった強烈なキャラが生きたんじゃないかと思います。ド素人のわたしがプロの役者さんを評するなど、当事者の方々からすれば片腹痛いかもしれませんが、さすがは一流の役者さんですね。


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 信繁とともに全50話通して出ていたのが、兄の真田信之徳川家康、そして高梨内記の娘・きりでしたが、真田信之(信幸)役の大泉洋さんも、普段、派手な役ばかり演じてこられた役者さんですが、今回は真面目で、誠実で、いたって堅実役どころ。大泉さんのこんな役は初めて観ました。信之という人は、弟の華々しい人気の影に埋もれがちながら、実は、真田家存続に最も尽力した人で、この人がいたから真田家が生き残ったといっていいでしょう。しかし、派手な父や弟と比べて、どうしても地味な存在です。ただ、そんな兄を、弟の信繁は誰よりも尊敬し、慕っている。そして信之は、無鉄砲な弟をいつも思い、影で支援する。まさに、典型的な長男次男ですよね。今回、その信之がエピローグのラストだったのは、粋な演出でしたね。結局、真田家の未来は信之が背負ったということが描きたかったのでしょうね。


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 内野聖陽さん演じる徳川家康もよかったですね。真田昌幸・信繁の視点で描けば、家康はヒール役となるところですが、今回、三谷さんはそう描かなかった。臆病で、優柔不断で、昌幸同様、どこか憎めない愛すべきキャラでした。歴史の答えを知っている後世のわたしたちからすれば、家康=強かなタヌキ親父といったイメージになりがちですが、家康とて、迷ったり怯えたりしながら生きていたんだ、と。人間家康でした。


 そして、きりちゃん。ドラマが始まった当初、コアな大河ファンから「ウザい」とか「いらない」とか、散々な批判を浴びていたきりでしたが、物語が進むに連れてだんだんと批判の声が少なくなり、信繁が大坂城入りを迷っていたとき、「真田源次郎がこの世に生きたという証を、何かひとつでも残してきた?」と、物語の核ともいうべき台詞を吐いたことから、視聴者のきりに対する評価も一気に肯定的に変わりました。といっても、きりは最初から何も変わってなく、常に正直に思ったことを口にしていただけなんですけどね。観る側の評価が、いつのまにか変わっていった。これも、三谷さんの狙いですかね? きりの役どころは、いわば「狂言回し」で、特に時代劇においては常套手段。『真田太平記』のお江や、『竜馬がゆく』寝待ノ藤兵衛がそうですね。『真田丸』におけるきりは、信繁の幼馴染で、信繁の最初の妻であるとも親しく、おばばさまと一緒に人質になったり、豊臣家では北政所侍女となり、細川ガラシャと交流があったり、更には淀殿に付き従い、最後は千姫を徳川陣に送り届けるという、まさに脚本家にとっては便利屋ですね。でも、ただの狂言回しではなく、先述したような重要な台詞を吐く大事な役どころでもありました。長澤まさみさんも、最初の批判の嵐はきっと辛かったでしょう。お疲れさまでした。


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 あと、三谷脚本ならではのコミカルな演出ですが、これは、好きか嫌いかで分かれて仕方ないんじゃないでしょうか? 大河ドラマの重厚感が削がれるといった批判もあって然りですし、その批判を理解できなくもないです。でも、わたしは、けっこう好きでした。まあ、なかには、ここでは笑いを入れないでほしかったという場面もありましたが、概ね物語を壊すような場面での笑いはなく、箸休め的な笑いで、よかったと思いますけどね。何より、伝承レベルの俗説から昨今の新説まで、よく勉強されているなあと唸らされる場面が多々ありました。荒唐無稽な作話ではなく、綿密に調べ上げた上での設定がベースにあって、そこに味付けとして盛り込まれた笑いですから、まったく不快ではありませんでした。むしろ、三谷さんの歴史に対する敬意が伝わってきました。わたしは評価したいですね。


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 さて、そんなこんなで長々と綴ってまいりましたが、今年の大河ドラマ『真田丸』を一言で評価すれば、名作、傑作だったと思います。今世紀に入ってからの作品で言えば、わたしのなかでは、『風林火山』『軍師官兵衛』と並んで3本の指に入る作品になりました。何より良かったのは、信繁にしても昌幸にしても家康にしても、その戦う理由が自分のためだったこと。昨今の作品に共通していたのは、その戦う理由として、「乱世を終わらせるため」とか「戦のない世を作るため」といったスローガンを語らせることがほとんどで、あの台詞を聞くたびに、安っぽく感じてシラケちゃうんですよね。乱世に生きた彼らは皆、自分たちの野望を満たすため、あるいは、自家の存続と繁栄のために戦っていたわけで、決して世のため人のために戦っていたわけではありません。言うなれば、現代の企業戦士たちと同じで、自社の利益のため、家庭を守るため、自身の出世のために血眼になって働いているわけで、世の中のために働いている人なんて、ほとんどいないはずです。皆、自分たちのために働いて、その結果、世の中の繁栄に繋がっているわけで、戦国時代も現代社会も同じですよ。その意味では、今回のドラマでは、昌幸、信之は真田家の生き残りのために、そして信繁は、自身がこの世に生きた証を残すために、それぞれが自分のために生きていた。これですよ!これ! これこそが真の武士、真の男の生き様で、そこに共感し、温故知新を見ることができるんですよ。まさに、我が意を得たりでした。これ、わたし、毎年言ってきてたことですが、やっとNHKに届いたって感じです(笑)。


 とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。このあたりで『真田丸』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。


●1年間の主要参考書籍

『大いなる謎 真田一族』 平山優

『真田幸村と大坂の陣』 渡邊大門

『真田幸村と大坂の陣』 三池純正

『真田信繁』 三池純正

『真田丸と真田一族99の謎』 戦国武将研究会

『新装版・真田三代記』 土橋治重

『真田三代』 火坂雅志

『真田太平記』 池波正太郎

『日本の歴史12・天下一統』 林屋辰三郎

『日本の歴史13・江開府』 辻達也


●参考にしたサイト

時代考証担当 駿河台大学法学部教授黒田基樹先生の解説

時代考証担当 丸島和洋先生のツイッター



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-24 03:49 | 真田丸 | Comments(6)  

真田丸 第50話「最終回」 ~日本一の兵(ひのもといちのつわもの)~

 慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣における最後の決戦が行われました。真田信繁(幸村)が布陣したのは、大坂冬の陣のときに徳川家康の本陣が敷かれていた天王寺口茶臼山でした。豊臣方は前日の激戦で後藤又兵衛基次隊や木村重成隊が壊滅し、残った兵たちも疲労困憊の状態でしたが、信繁は兵たちの士気を高めるべく自ら陣頭に立ち、起死回生の戦いに挑みます。


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 このときの真田隊の様子については、軍記物等で様々に語り継がれています。『大坂御陣山口休庵咄』では、信繁は「茶臼山に真っ赤な幟を立てて、赤一色の鎧兜に身を固めて布陣していた。その東には息子の真田大助が控えていた」とあり、また、『武徳編年集成』には、「茶磨山(茶臼山)には真田が赤備、躑躅の花咲たるが如く、堂々の陣を張る」と、そのきらびやかな武者ぶりを描写しています。信繁にとってこの日は、一世一代の晴れ舞台だったのかもしれません。


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 冬の陣の際の真田丸附近には毛利勝永隊、大野治長隊が布陣し、岡山口は大野治房隊が固めます。この日、信繁たちは、初めから家康の本陣を突くことのみに狙いを定めていました。大坂城は裸城となり、兵力差も歴然としていたなか、ダラダラと戦を長引かせたところで万にひとつの勝ちも見込めない。であれば、狙いは家康の首ただひとつ。家康を殺すことで徳川方の戦意をくじき、一気に戦いを収束させて談判に持ち込もうという作戦ですね。たしかに、この時点で豊臣方にわずかでも勝算があるとすれば、その一手しかなかったでしょう。まさに、乾坤一擲の戦いでした。


 この戦いで真田隊は、捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて強行突破を図り、3度に渡って猛攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻め込んだといいます。『幸村君伝記』には、「左衛門佐殿は、味方悉く敗走し、或は討たるるに、少しも気を屈さず、真丸に成りて駆破り駆けなびけ、縦横に当たりて、火花を散らして操み立てられける。此時、家康公の御先手敗軍して、御旗本へこぼれ懸かりける程に、御本陣もひしぎなびきて、既に危ふき事両度まで有りしと成」とあります。家康本陣を守っていた旗本たちは、まさかそこまで敵の兵が攻めてくるとは思っておらず、恐怖のあまり本陣を捨てて我先にと逃げ惑う有様だった・・・と。


 薩摩藩島津家の家臣の記録『後編薩藩旧記雑録』には、「五月七日に御所様の御陣へ、真田左衛門佐かかり候て、御陣衆三里ほどづつにげ候衆は、皆々いきのこられ候。三度目にさなだもうつ死にて候」と記されています。また、『本多家記録』には、「幸村は十文字の槍を持って家康様を目掛けて戦わんと心掛けていた。家康様はとても敵わないと思い、植松の方に退いていった」とあります。さらに、『三河物語』には、「家康の馬印が倒されたのは、武田信玄と戦った三方ヶ原の合戦以来のことだった」と伝えています。実際に信繁自身がどこまで肉薄したかはわかりませんが、宣教師らの証言によると、家康は切腹を口にしたといいますから、真田隊の猛攻によって、家康本陣は大混乱に陥ったことは間違いなさそうです。


 劇中でも、半泣きになって逃げ惑っていた家康でしたが、肉薄する信繁と向き合い観念すると、目が変わり、「手を出すなー!」と叫んで護衛を下がらせます。


家康「殺したいなら、殺せばよい。されどわしを殺したところで何も変わらぬ。徳川の世はすでに盤石。豊臣の天下には戻らん! 戦で雌雄を決する世は終わった。おぬしのような戦でしか己の生きた証を示せるような手合は、生きていくところなどどこにもないわ!」

幸村「そのようなこと百も承知! されど、わたしはお前を討ち果たさねばならぬのだ! わが父のため、わが友のため、先に死んでいった愛する者のために」


 このときの家康は、まるで、この男になら殺されてやってもいい、といった目をしていましたね。家康はこの日の戦いに臨むにあたって、激戦が予想される天王寺口の総大将を自ら望んで務めました。息子の徳川秀忠は軍議の席で、老齢の家康をそんな危険な戦場に送り出すことはできないとして、天王寺口を自分に任せてくれと懇願しますが、家康は頑なに譲らなかったといいます。そうすることで、秀忠の命を守ったともとれますが、戦経験の浅い秀忠には任せられなかったともとれます。実際、徳川軍の旗本のほとんどが戦経験のない若者たちで、その腰抜けぶりを家康は嘆いていたといいます。数回前の劇中にも、そんなシーンがありましたよね。元亀・天正からの生き残りである家康は、たとえ自分を殺しに来た敵将であれ、信繁のような武辺者は、決して嫌いではなかったはず。そんな思いが、あの目だったんじゃないかなあ・・・と。


 『後編薩藩旧記雑録』では、信繁の戦いぶりについて、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、いにしへよりの物語にもこれなき由、惣別れのみ申す事に候」と絶賛しています。これを、ドラマでは信繁の理解者であった上杉景勝に言わせていましたね。また、『細川家記』にも、「古今これなき大手柄」と称賛しています。

「武士と生まれたからには、あのように生き、あのように死にたいものだ」

劇中の景勝の台詞ですが、信繁の戦いぶりを見た当時の武士たちは、敵味方に限らず、きっと、遠からずの感情を抱いていたんじゃないでしょうか。だから、徳川家の敵将でありながら、後世に語り継がれていったんじゃないかと・・・。


 豊臣秀頼馬印が後退したことで豊臣軍の士気が下がり、形勢は一気に徳川軍に向き始めたという話は史実です。これは、完全に大野治長のミスですね。末端の兵卒は、馬印・旗印が前進していれば優勢、後退していれば劣勢と判断します。戦場において御旗がいかに大事であるか、治長もまた、戦経験不足だったと言わざるをえません。


 秀頼がなぜ出陣しなかったかについては、様々な見方があります。出陣の準備をしていたところ、家康からの講和の使者が来たため中止になったという説や、淀殿が出陣をとめたという説、そしてドラマにあったように、信繁の徳川方内通の流言が出回っていたため、という話もあります。ドラマでは、最後まで信繁に対する疑いをぬぐい切れない大蔵卿の局が腹立たしかったですが、実際、このときの大坂城内では、戦意かく乱のために流されたデマが飛び交っており、信繁を疑う空気も広がっていたといいます。信繁も、徳川方に「浅野が寝返った」というデマを流していますしね。いずれにせよ、このときの大坂城内は、何を信じていいかわからない状態だったことが想像できます。


 信繁の最期についてですが、ドラマでは切腹によって果てたように描かれていましたが、通説では、家康本陣を3度襲撃したあと、茶臼山の北方にある安居神社の境内で休息をとっていたところ、松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、討ち取られたと伝わります。その最期は、激闘のすえ討ち取られたともいわれますし、信繁自ら首を差し出したという逸話もあります。その真偽はわかりませんが、「大切なのは、どんな死に際だったかではなく、どう生きたか」というドラマのテーマからいえば、どんな最期だったかは、どうでもいいことだったのでしょうね。


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信繁「わたしは、わたしという男がこの世にいた証しを何か残せたのか・・・」

内記「人のまことの値打ちというものは、己が決めることではございません」

信繁「誰が決める?」

内記「時でござる。戦国の世に義を貫き通し、徳川家康と渡り合った真田左衛門佐幸村の名は、日の本一の兵として語り継がれるに相違ございません」

信繁「どんな終わりを迎えてもか?」

内記「大事なのはいかに生きたかでございますゆえ」


 真田信繁という人物は、人生の最期の最後にほんの一瞬だけ輝き、そしてむなしく散っていった武将に過ぎず、徳川家康豊臣秀吉織田信長のように、何か特別なものを世に残した偉人ではありません。しかし、後世はそんな信繁に魅せられ、古今比類なき英雄として語り継いできました。徳川幕府時代にあって敵将である信繁を英雄視するというのは、よほどのことだったに違いありません。まさしく、が信繁の値打ちを決めたんですね。

 日本一の兵・・・・と。


 最終回はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『真田丸』のレビューは終わりとなります。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-21 00:23 | 真田丸 | Comments(2)  

真田丸 第49話「前夜」 その2 ~男は一人もなく候~

昨日の続きです。

 ドラマではなぜか臆病者キャラに描かれている長宗我部盛親ですが、このとき八尾方面に布陣していた盛親は大活躍します。同じく八尾方面を進軍していた徳川方の藤堂高虎軍の左翼、藤堂高刑隊、桑名吉成隊とバッタリ出くわした長宗我部隊は、霧を隠れ蓑に猛攻撃を仕掛けます。このときの長宗我部隊の攻撃はすさまじく、藤堂高刑、桑名吉成は討死し、藤堂隊はほとんど壊滅寸前にまで追い込まれますが、そこに、若江方面での木村重成隊の敗報が届き、孤軍となることを恐れた長宗我部隊は、やむなく大坂城に撤退しました。

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 たぶん、そこまでドラマでやらないだろうと思うので、盛親のその後も記します。盛親は翌日の最終決戦には出陣せず、大坂城京橋口を守っていましたが、豊臣方の敗北が決定的になると、「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を図って逃亡しました。しかし、武運は盛親に味方せず、ほどなく潜んでいるところを発見され、その後、見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられ、そして、豊臣家敗北から1週間後の慶長20年(1615年)5月15日、京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原に晒されました。享年41。

 舞台を大和口に戻します。後藤隊の敗走後にようやく到着した真田信繁隊は、遅参の穴を埋めるべく奮闘し、伊達政宗軍を押し返す戦いを見せます。しかし、八尾・若江方面での木村・長宗我部隊の敗報が届くと、このままでは徳川軍に包囲されると判断し、退却を決断します。その際、真田隊は殿を買ってでました。このとき、徳川軍は撤退する豊臣方を追撃しようとしますが、伊達政宗は「わが隊は昨夜からの激闘により将兵はみな疲れている」と追撃を断固として拒否し、そのため、徳川軍の追撃はありませんでした。その様子を見た信繫は、

「関東軍百万も候へ、男は一人もなく候」

と、徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれています。

 「徳川兵に真の武士はひとりもおらんのか~!」

と叫んだあのシーンは、この逸話からきたものですね。

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 ドラマでは、その伊達政宗に信繁の家族が預けられるという設定でしたが、実際には、半分正しくて半分は創作です。伊達政宗の家臣・片倉重長の元に庇護されたのは、三女・阿梅、五女・なほ、七女・おかね、そして次男の大八らだったようで、正室の竹林院(ドラマでは)は四女・あくり、五女・おしょうぶらとともに大坂落城後に城から落ち延びるものの、5月19日に紀伊浅野家に捕縛されています。翌日、家康に引き渡されますが、赦免されて剃髪し、その後は京都で暮らしたといいます。

 阿梅らが伊達家の片倉家に庇護された経緯については、落城の混乱時に拉致されたとする説と、信繁の生前に託されたという説の2説ありますが、史料的に信ぴょう性が高いのは、拉致説のようですね。でも、物語的には託されたという話のほうがドラマチックですから、そこに家族全員ひっくるめちゃったのでしょう。阿梅はのちに片倉重長の後妻となり、当時赤ん坊だった大八は素性をかくして片倉家に匿われ、やがて片倉久米之介守信と改名して仙台藩士となります。その後、守信より8代後の幕末期に真田姓に戻し、仙台真田家として現在も続いています。

 最後に、ようやく信繁と結ばれたきりちゃんですが、ナレーションにもあったとおり、史料では高梨内記の娘とあるだけで、その人物像は詳らかではありません。一説には、四女・あくりの生母ともいわれますが、それも確かではなく、いつ死んだかも定かではありません。ほとんど謎の人物といえますが、そんなきりに、三谷幸喜さんは本ドラマにおける狂言回しの役目を与えていたんですね。前半は視聴者からウザいだの不要だのと散々な批判を受けていましたが、最後はうまく落とし前を付けたんじゃないでしょうか。

 さて、次週はいよいよ最終回。副題は「無題」だそうですね。どんな結末に描かれるのか、楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-14 01:30 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第48話「引鉄」 ~つかの間の和睦~

 今話は、慶長19年(1614年)12月20日に大坂冬の陣の和睦が成立してから、翌年の慶長20年(1615年)春に徳川方によって再び大坂城攻めが開始されるまでが描かれていました。徳川、豊臣の間で交わされた和睦は、わずか4ヶ月破綻します。実際には、和睦が成立してから堀の埋め立てに2ヶ月近くを要していますから、徳川軍が撤退してからたった2ヶ月での再戦決定となります。このスピードから見ても、徳川家康が最初から和睦するつもりなどなかったことがわかりますね。家康にしてみれば、堀や砦を再建されないうちに、一気に勝負に出たかったのでしょう。


 おそらくはその堀が埋め立てられるまでの2ヶ月の間に、真田信繁は甥の真田信吉・信政兄弟に面会したと伝えられます。関ケ原の合戦以来の面会だったでしょうから、たぶん、当時は二人とも幼児で、その成長ぶりに、改めて年月の流れを実感したことでしょうね。このとき信繁は、兄弟に従っていた矢沢頼幸ら旧家臣たちとも対面しています。故あって敵味方に分かれたとはいえ、かつては共に徳川と戦った仲であり、きっと話が尽きなかったことでしょう。


e0158128_02593242.jpg この時期に信繁が一族に宛てて書いた書状が三通残されています。そのひとつは、慶長20年(1615年)1月24日付で実姉の村松(ドラマでは)に宛てたもので、その内容は、自身が豊臣方に与したことで、真田本家に迷惑がかかっていないかを心配したうえで、和睦が成立して自身も生き残ったが、「明日はどうなるかわかならい」と記しており、信繁がこの和睦を一時的なものだと見ていたことがわかります。一方で、このまま何事もなく「平穏無事に過ごしたい」とも書いており、決して信繁は徳川との決戦を望んでいたわけではなかったこともうかがえます。


 そして翌月の2月10日には、信繁の娘・すえの岳父である石合十蔵宛てに書状を送っており、そこでは、自身がすでに死を覚悟している旨を記したうえで、「娘のすえをくれぐれもよろしく」と頼み込んでいます。


 さらに、翌月の3月10日には、姉婿の小山田茂誠とその息子・之知に宛てて書状をしたためており、そこには、自身が豊臣秀頼からひとかたならぬ信頼を受けていて有難いものの、そのために、何かと気遣いが多くて大変だと率直な気持ちを述べています。たぶん、秀頼に懇意にされてことで、大坂城内で妬みやっかみなど、ややこしい摩擦があったのでしょうね。また、書状では、「定めなき浮世のことですから、一日先のことはわかりません。どうか、私のことは、浮世にいるものとは思わないでください」と記されています。つまり、「私は死んだものと思ってくれ」ということですね。


ドラマでは、兄の真田信之に宛てた手紙が出てきましたが、実際には信之に宛てた手紙は存在せず、上述した三通の書状を下敷きにしたドラマの創作だと思われます。1月、2月、そして3月と、それぞれの書状を見ても、大坂夏の陣に向けた当時の空気感が伝わってきますね。豊臣方の中核にいた信繁は、そのすべてを肌で感じていたのでしょう。この時期、信繁はどんなことを思いながら過ごしていたのでしょうね。


 e0158128_18432594.jpgこの間、大坂方には和睦成立以前より牢人が増え、血気盛んな牢人の一部は大坂城外に出て乱暴狼藉を繰り返します。また、ドラマにもあったように、大野治長の弟・治房が、手に大坂城の蔵から配下の牢人たちに扶持を与えるという暴挙に出てしまいます。さらには、大野治長が大坂城内にて襲撃される事件が起き、その首謀者が弟の治房だという風聞が流布します。やはり、所詮は寄せ集めの烏合の衆、大坂城内は完全に統制を欠いていました。


そして3月15日、それら豊臣方の不穏な動きを伝える報が京都所司代の板倉勝重より家康の元に届くと、家康は牢人の追放か豊臣家の移封を大坂方に要求します。しかし、大坂方はそのどちらも飲むことはできず、家康も、それをわかっての無理難題だったといえるでしょう。かくして、豊臣家と徳川家は再び戦うことになります。というより、家康にそう仕向けられたといったほうが正しいでしょう。かつての天下無双の大坂城の姿はどこにもなく、防御力の一切を削がれた大坂城では、万に一つの勝ち目もないことは、火を見るよりも明らかでした。そんななか、信繁たちは何を思い、何を求めて戦いに挑んだのか。あと2話で、どう描かれるのか楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-05 19:26 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第46話「砲弾」 ~真田信繁調略失敗と、本町橋の夜襲~

 真田丸の戦いで甚大なダメージを受けた徳川家康は、ひとまず和議の方向に動きはじめます。その一方で、今や大坂方の英雄となった真田信繁に狙いを定め、調略の手を伸ばします。この時点で信繁が、今後の戦いにおけるキーパーソンと家康が睨んでいたことがわかる話ですね。信繫を寝返らせることができれば、今後の戦いが大いに楽になる。家康はそう考えていたに違いありません。真田丸の戦いは、それほど家康にとって手痛い敗北だったのでしょう。


 信繁の調略の使者として白羽の矢が立ったのは、信繁の叔父・真田信尹でした。このとき信尹は、徳川方の家臣になっており、家康の側近・本多正純を介して命令が下ったとされます。信尹と信繁の会見が行われたのは慶長19年(1614年)12月14日。真田丸の戦いから10日後のことでした。


 『慶長見聞録』によれば、信繁と信尹の会見は夜半に行われたといいます。しかし、その内容については、あくまでも伝承レベルにすぎません。『真武内伝』によれば、信繁が徳川方についてくれれば3万石を与えようと言ったとされ、また、『慶長見聞録』によれば、信濃国内に10万石を与えるとの意向を伝えたといいます。しかし、信繁は豊臣秀頼への恩義を重んじてこれを拒絶し、ただし、和睦が成立すれば、たとえ千石でも仕えると申し添えたといいます。つまり、ことの判断は報酬の大小ではない、ということですが、この報告を受けた正純は、10万石の報酬が不服だったのだろうととらえ、今度は信濃一国を与えるという条件で再び交渉に向かわせます。ところが、信繁はこの言葉を聞いて激怒し、信尹との面会を拒否したといいます。信濃一国といえば40万石以上あり、兄・真田信之を遥かに凌ぐ石高で、あまりにも現実味のない話。もし、信濃一国を信繁に与えるとなると、豊臣方を滅ぼさない限り領地が足らないんですね。信繁にしてみれば、「バカにするな!」といった心境だったのでしょう。


 ドラマでの信繁と信尹の会見は、そんな見え透いた駆引はなしでしたね。


信尹「寝返ったときの褒美が書いてある。読まんでいい。」


名シーンでした。


 徳川方からの和睦交渉の申し入れに困惑するなか、大野治房の指揮下にあった塙団右衛門直之が、夜襲を提案します。団右衛門は豪傑で知られた猛将で、このまま功を立てずに和議に持ち込まれることが不服だったのでしょう。進言を受けた治房もまた、ここまで大きな戦果をあげておらず、団右衛門の案を許可します。その夜襲が行われたのが、大坂城の東に流れる東横堀川に架かる本町橋です。


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慶長19年(1614年)12月17日未明、団右衛門は本町橋の南に陣を布いていた蜂須賀至鎮の陣を襲撃し、その家臣・中村右近を討ち取るなど戦果をあげます。このとき団右衛門は、本町橋の上に置いた床几に座ったまま兵を指揮し、「夜討ちの大将、塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせたというエピソードが伝わります。ドラマで団右衛門が名刺代わりのように小札を配っていたのは、この逸話からくるものです。浪人の彼らにとって、戦果は宣伝だったわけですね。


 なかなか和議に応じない豊臣方に対して、家康は矢文を使って盛んに投降を呼びかけるとともに、300挺という大量の大砲を用意し、城に向かって一斉に砲撃を開始しました。その轟音たるや凄まじいものだったようで、『時慶卿記』によれば、大砲の音が京都の朱雀あたりまで聞こえていたといいます。『台徳院殿御実記』によれば、「その響き百千の雷の落ちたるが如く、側に侍りし女房七八人たちまち打倒され、女童の泣き叫ぶことおびただし」と伝えています。


 片桐且元が家康に淀殿の居場所を教えたという話は『難波戦記』にみられるもので、同記によると、家康は城内の淀殿の居場所をめがけて砲を打ち込ませ、のひとつを打ち崩して淀殿の侍女7、8人が命を落としたといいます。それを目の当たりにした淀殿は震え上がり、それまでの強硬論から和議へと転じる姿勢を見せ始めたといいます。これも、家康が描いた筋書きどおりだったのか、あるいは、本気で淀殿を狙ったのかはわかりませんが、いずれにせよ、もし、このとき砲弾が淀殿に直撃していたら、歴史はもう少しシンプルな結末になっていたかもしれません。このときの砲弾が淀殿の命を奪わず、目の前にいた侍女の身体を粉砕したことで、歴史はよりドラマチックなストーリーに繋がっていくんですね。歴史って、つくづく偶然の産物だと思わざるを得ません。


 「私には、あの人が死にたがっているように思えてならないのです。心のどこかでこの城が焼け落ちるのを待っているような。私たちの父も母も城と共に命を絶ちました。姉も自分が同じ運命であると半ば信じています。姉を救ってやってください。」


 淀殿の妹・初(常高院)が信繁に語った台詞です。


 「あなたはきっと戻ってくる。そして、私たちは同じ日に死ぬの。」


 かつて若き日の信繁に向かってそう言った淀殿の心中が、少しだけ見えてきたような気がします。今までにない不思議ちゃんキャラの淀殿の最期をどう描くのか。彼女の心の闇をどう始末するのか。あと4話、楽しみですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-22 03:31 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第45話「完封」 ~大坂冬の陣と真田丸の戦い~

 いよいよ「大坂冬の陣」です。その戦端が開かれたのは、慶長19年(1614年)11月19日の「木津川口の戦い」でした。木津川口の砦は豊臣方・明石全登が兵800を率いて守っていましたが、その全登不在中に徳川方・蜂須賀至鎮軍の急襲を受け、豊臣方は壊滅します。


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 次に両軍が対峙したのは、11月26日の「鴫野・今福の戦い」でした。鴫野の戦いは豊臣方・井上頼次隊と徳川方・上杉景勝軍が衝突した戦いでしたが、ドラマでは井上頼次が出ていなからか省略。今福の戦いのみ描かれました。豊臣方の矢野正倫飯田家貞が兵300で守る今福の砦に、徳川方・佐竹義宣が兵1500を率いて襲撃。これを見た豊臣方は、木村重成隊が来援し、さらに後藤又兵衛基次隊も救援に駆けつけ、一時は佐竹隊を押し返す善戦を見せますが、その後、徳川方は鴫野の戦いを制した上杉軍らが来援し、結局、豊臣軍は後退します。


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 さらに11月29日には、豊臣方・大野治胤隊と徳川方・九鬼守隆軍らが対峙した「野田・福島の戦い」で徳川方が勝利し、同日に起きた博労淵の戦いでも、徳川方の圧勝に終わりました。この博労ヶ淵砦を守っていた豊臣方の薄田兼相は、あろうことか遊郭に行っている間に砦を落とされるという大失態を犯しており、味方から「橙武者」とあだ名されて嘲りを受けたといわれています(は、酸味が強くて食べられず、正月飾りくらいにしか使い道がないため、見かけ倒しを意味しました)。ドラマでは、この博労ヶ淵の戦いを、真田信繁織田有楽斎長益内通を確かめるために撒いたに使っていましたね。実際、このときの大阪城内は、内通者だらけだったと言われています。


 かくして、豊臣方の築いた砦はことごとく徳川軍の攻撃によって落とされ、残るは真田信繁隊の守る真田丸だけとなったわけです。


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 真田丸の兵は約5000だったといわれます。一方、寄手の徳川方は、前田利常、松平忠直、井伊直孝らの軍勢、約2万6000の兵だったといわれ、兵力の差は歴然としていました。真田丸を包囲した徳川方は、塹壕土塁を築いて戦いの準備を進めていましたが、これを見た信繁の兵は、真田丸近くの篠山からその作業を妨害すべく射撃を繰り返します。これに業を煮やした前田勢は、12月4日、本多政重らを先鋒として篠山に攻め込みますが、このとき真田隊の兵は既に真田丸に退却しており、篠山はもぬけの殻でした。そこへ真田軍の兵が盛んに前田勢の兵を挑発したため、前田勢は一気に篠山を駆け降りて真田丸に突撃します。しかし、これこそが信繁の策略だったわけです。


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 このとき、大阪城内で火薬庫が爆発する事故が起きるのですが、これを豊臣方に潜入した徳川方内通者の仕業と勘違いした前田勢は、いっそう勢いにのって突進します。ドラマでは、これも佐助が仕組んだ策略だったように描かれていましたね。あるいそうだったかもしれません。ここぞとばかりに真田丸に押し寄せた前田勢の兵たちは、一斉に柵を破って空堀のなかに飛び込み、そこから真田丸の城壁をよじ登りはじめます。この様子を見ていた真田方は、「待ってました」とばかりに一斉射撃を開始しました。このときの様子を『大坂御陣覚書』では、「弓・鉄砲にて打ち立てること雨の如く」と記されています。空堀のなかの前田勢の兵たちは為す術もなく、ただ弾丸の的となるばかりでした。松平勢の抜け駆けに遅れを取るなとばかりに続いた松平軍、井伊軍も同じで、徳川方はおびただしい数の戦死者を出します。


 『孝亮宿禰記』によると、「越前少将(松平忠直)の勢四百八十騎、松平筑前(前田利常)の勢三百騎死す。このほか雑兵の死者その数を知らざる風聞これあり」とあり、『東大寺雑事記』には、「大坂之城大ゼメ、今日迄ニヨセ衆一万五千人程打ルト云々」と記し、『言緒卿記』にも、「大坂城責アリテ、寄セ衆ノ人数多く損ズと」とあります。徳川方、痛恨の大敗北でした。真田信繁という名が、歴史に轟いた瞬間です。


春「いくさが終わったら、また豊臣の世が来るのですか?」

信繁「たとえ勝ったとしても、もはや徳川の天下が動くことはあるまい。」

春「では、秀頼公は?」

信繁「ひょっとすると、一大名としてどこかを治めることになるかもしれぬな。」

春「そのとき旦那さまは?」

信繁「思うところはあるが・・・。まだこれからどうなるか。」


信繁の「思うところ」というのは、なんだったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-15 22:07 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第44話「築城」 ~真田丸~

 真田信繁(幸村)らが推した出撃策は首脳(ドラマでは大蔵卿局織田有楽斎)たちによって一蹴され、籠城策と決まった豊臣方。おそらく大阪城内に多くいたであろう内応者からその報せを受けた徳川家康は、「これで勝ったのう・・・」と、したり顔で呟いていましたが、果たしてどうだったでしょうね。百戦錬磨の家康ですが、元来、家康は城攻め苦手で、野戦を得意としていました。結果的に大阪の陣は家康の老獪さで徳川軍が勝利することになるわけですが、開戦前のこの時点で、しかも天下無双の大坂城を前に、敵の籠城策を知って喜んだとはとても思えません。むしろ、討って出てきてくれたほうが好都合だと思っていたんじゃないでしょうか?


 その天下無双の大坂城ですが、とはいえ、まったく弱点がなかったわけではありません。北は淀川、東は河川と湿地帯、西は湿地帯と大阪湾に守られていましたが、南側だけは河内平野と陸続きで、天然の要害というべき地形ではありませんでした。生前の豊臣秀吉もこの点は重々心配しており、晩年に総構えを築き、その弱点を封じようとしていました。


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 ちなみに、現在の大坂城は大坂夏の陣以後に徳川幕府によって再建されたもので、豊臣時代のものではありません。豊臣時代の城跡に盛土をして、堀の幅も石垣の高さも豊臣時代のほぼ2倍の大きさになっていますが、面積でいえば、豊臣時代の縄張りのほうがはるかに大きく、約15km四方、現在の徳川大坂城の約5倍の規模だったといいます。例えば、現在の大坂城の最南端は大阪環状線森ノ宮駅付近ですが、当時の最南端は、そこから更に1駅南下した玉造付近にありました。大坂城全体がひとつの都市だったといえます。このとてつもない広さだったからこそ、10万ともいわれる牢人たちを収容できたんですね。


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 大坂城の弱点である南側の守りを強化するために作られた出城が、今年の大河ドラマのタイトル「真田丸」でした。ここで信繁は迫りくる徳川勢を相手に巧みな戦術を展開し、一躍歴史の表舞台に名乗りをあげることになるのですが、この真田丸が実際、誰によって築かれたものであったかは定かではありません。史料によれば、信繁が南の弱点を見抜いて築いたという説や、ドラマのように、もともとは後藤又兵衛基次がここに目をつけて砦を築こうと準備していたところ、信繁が横取りしたという説もあり、あるいは、又兵衛が諸軍の遊軍を命じられたため、代わって信繁が守ることになったというものもあります。ただ、物理的に考えれば、信繁や又兵衛が入城してから築いたにしては日数が少なすぎで、もともと彼らが入城前から構築が始まっていたものを、信繁(あるいは又兵衛)が引き継いだと考えるのが自然かもしれません。


 いずれにせよ、信繁率いる真田軍がここを守備したことは間違いなく、「真田丸」と呼ばれるようになったのも事実です。もっとも、この出城を真田軍が単独で守ったわけではなく、長宗我部盛親軍と半分ずつ分担して守備していたのですが、真田軍の活躍があまりにも派手だったため、「真田丸」と呼ばれるようになったのだとか。盛親は面白くなかったでしょうね。ちなみに、「真田丸」の呼称は当初からついていたものではなかったようですが、翌年の夏の陣のときにはこの出城の跡地を「真田丸」と呼ぶようになっていたようで、そう呼び始めたのは徳川方だったようです。敵方にそう名付けられたということは、やはり、相当インパクトが強かったのでしょうね。


 有名な真田軍の「赤備え」についてですが、かつて真田家が仕えた武田信玄の配下である飯富虎昌山県昌景らの軍勢が「赤備え」で統一していたと伝わり、その流れをくんだものだったと考えられます。古来、武将の間で「赤」は、強者の象徴でした。古くは源平合戦で赤い紐で編んだ鎧などが登場しており、これは、自身が強者であることをアピールするためのものだったと言われます。当時、鎧を赤くするためには「辰砂」という赤い色の鉱物が必要で、たいへん高価なものだったそうです。武田軍の伝統を継承し、強者であることを顕示し、高価な赤備えを纏った真田軍。この戦いにかける強い思いがうかがえます。


 家康が若い兵たちに「仕寄せ」の作り方について講義するシーンがありましたが、時代考証担当の丸島和洋氏の話によると、『翁物語』に出てくる逸話のアレンジだそうです。似たような描写では、司馬遼太郎氏の小説『城塞』のなかでも、家康が戦経験のない若い兵の無知さを嘆くシーンが描かれています。実際、関ヶ原の戦いから14年の歳月が過ぎており、しかも、その関が原では徳川家譜代のほとんどの旗本たちは徳川秀忠と共に遅参しており、関ヶ原に勝利したものの、徳川方として戦ったのは外様大名ばかりでした。したがって、20万とも30万ともいわれる徳川軍ですが、これが初陣という若侍が圧倒的に多かったわけです。「戦争を知らない子供たち」だったわけですね。一方の豊臣方の牢人たちは、関が原はもちろん、文禄・慶長の役を戦った猛将揃いで、その点から言えば、決して豊臣方は兵力差ほど不利だとはいえませんでした。しかし、それらを率いる豊臣家首脳(大野治長ら)にそれほど戦経験がなく、さらには、淀殿や大蔵卿局などの女たちが軍議に口をはさむ始末では、百戦錬磨の猛将たちも、きっとやる気を削がれたでしょうね。このドラマでの淀殿のキャラが、まだつかめませんが・・・。


 さて、いよいよ次週、大阪冬の陣開戦です。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-07 23:06 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第43話「軍議」 ~積極策と籠城策~

 大坂城では、徳川方との決戦を前に軍議が開かれます。このとき真田信繁(幸村)は、城を討って出る積極策を献策しますが、大野治長をはじめとする豊臣方の首脳により却下され、籠城策に押し切られた、というのが、一般的に知られるストーリーだと思います。この逸話は、江戸時代に編纂された複数の軍記物に見られる話で、多少の違いはありますが、概ね一致しています。


e0158128_02593242.jpg 最も有名なものとしては、豊臣方はまず尾張を奇襲し、そこで小さな勝利を収めたのち、時期をみはからって兵を近江まで下げ、大津の勢田橋、そして京の宇治橋を落として防備を固め、徳川家康を牽制する。そして二条城を焼き払ったうえで大阪城に籠城するというもの。ただ籠城するのではなく、まず前哨戦で小さな勝利を得て敵の出鼻をくじくことが得策で、そうすれば、敵の警戒心を煽り、士気が落ち、そのうち旧豊臣系大名のなかで、大坂方に身を転じる者もでてくるだろうという目論見で、この作戦は、『真武内伝』『武将感状記』などみ見られるものです。しかし、『真武内伝』によると、この策は、当時、大野治長に寄宿していた小幡景憲に却下されます。今回のドラマに小幡景憲は出てきていませんが、のちに甲州流軍学の創始者となる人物で、司馬遼太郎の小説『城塞』では、徳川方のスパイとして大坂城に入った人物として描かれていますね。


 また、『幸村君伝記』によると、大野治長は関ヶ原の戦いで家康の出馬が遅かったために諸大名が気勢を削がれたことを例に出し、家康は「耳臆病」な大将と評価。大挙して豊臣方が蜂起すれば、家康は大いに驚き、世評が心配になり、諸大名の心境をうかがいつつなかなか動かないだろうと考えます。そのうち、大名たちは自然に豊臣方になびくだろうと。これを聞いた信繁は「浅はかである」一刀両断し、宇治・勢田に積極的に討って出て、一刻も早く家康の首をとるべし、と主張します。治長がその理由について質問すると、信繁は「先んずれば人を制す(史記)」と言い、籠城策は後詰(援軍)が期待できてこその策であり、孤立無援の状況では、どんな堅固な城であっても、やがて落ちる、という主張でした。しかし、これも治長と景範によって否定されます。


e0158128_13071626.jpg ほかにも、『列祖成績』では、摂津の北の玄関口である山崎に軍勢を出兵し、三軍で天王寺に陣を布き、自身(信繁)と毛利秀秋に先鋒を任せてほしいと提案。その間に長宗我部盛親後藤又兵衛基次が攻め上がって伏見城を落とし、京のまちを焼き払う。そうすれば、徳川方は進路を塞がれて大坂に入ることができず、やがて戦意を喪失すると主張します。しかし、この作戦に異議を唱えたのは、意外にも又兵衛でした。又兵衛は天下無双の大坂城が簡単に落城することはないとし、大坂城を前に徳川方の諸将が屈する姿を見て、旧豊臣系の大名たちが必ず寝返ってくるとし、籠城策を主張したといいます。ドラマで又兵衛が信繁の案に反対していましたが、その下敷きはこの説を採ったものだったのでしょうか?


 こして見ても、どの逸話も共通しているのは、信繁が一貫して積極策を献策するも、豊臣方の無能な首脳たちによって一蹴され、やむなく籠城策に身を投じるというもの。今回のドラマでは、大野治長の立場や大坂五人衆の心境を少しアレンジしていましたが、概ね逸話に沿った設定でした。しかし、これらの逸話は、いずれも江戸時代中期以降に編纂された軍記物に記されたもので、どこまでが本当の話か判然としません。当時の史料に、信繁が積極策を献策したという史料はみられないんですね。ではなぜ、これほど複数の書物で似たような逸話が描かれたのか・・・。それはたぶん、「信繁の作戦を採れば勝っていたかもしれないのに」という、後世の判官贔屓な思いが生んだエピソードなんでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2016-10-31 18:44 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第41話「入城」 ~九度山村脱出と真田家嫡男問題~

 「方広寺鐘銘事件」徳川家との関係が急速に悪化した豊臣家は、旧豊臣恩顧の大名たちを味方に引き入れようと試みますが、そのすべてに拒否されてしまいます。そこで、淀殿豊臣秀頼の側近・大野治長は、浪人たちを大坂城に招いて軍備を整える計画を立てます。関ケ原の戦い以降、西軍に加担して改易減封となった武将たちが、他家に召し抱えられずに牢人として全国に多く潜んでいました。それらの浪人たちは当然、江戸幕府を苦々しく思っており、起死回生のタイミングを待っていました。彼らにしてみれば、大坂城からの招集は願ってもないチャンスだったわけです。


e0158128_02593242.jpg 九度山村にて不遇をかこっていた真田信繫(幸村)のもとにも、大坂城からの密使かやってきます。そして、信繁に大坂城入りしてもらう支度金として黄金200枚、銀30貫を贈ったといいます。現在の価値で5億円以上だそうで、これを信繁をはじめ浪人たちにバラまいてたわけですから、いまだ豊臣の財力が衰え知らずだったことがうかがえます。大金をもらったからというわけではないでしょうが、信繁はこの要請を快諾し、慶長19年(1614年)10月9日に九度山村を脱出、大坂城に向かいます。


 信繁が九度山村を脱出した方法については、様々な伝承が残っていますが、その最も有名なものとしては、九度山村の庄屋、百姓たちを招待してをふるまい、彼らが酔いつぶれて寝込んだ隙に脱出したというもの。ドラマでも、この伝承をベースにしていましたね。この話は、信繁が死んで60年以上のちに編纂された戦国武将の逸話集『武辺拙聞書』によるものです。実際には、信繁たちを監視する代官もいたはずで(ドラマではその代官にも酒を飲ませていましたが)、もしこれが実話なら、信繁の監視を任されていた浅野家は、幕府から相当なお咎めを受けていたことでしょう。たぶん、後世の創作でしょうね。実際のところは、大坂の陣以前は、真田信繁という存在など幕府はさして重要視しておらず、監視もそれほど厳重ではなかったため、脱出もそれほど難しいことではなかった、といったところではないでしょうか?


 ただ、九度山村から信繁に従って大坂城に入った百姓がいたという話は『蜂須賀家文書』のなかに見られ、『九度山町史』にも記されているそうです。これは十分に考えられる話ですよね。九度山村で暮らすこと十余年。地元農民との交流のなかで、心を通じ合わせていたとしても何ら不思議ではありません。のちの大阪の陣における真田隊の結束などを見ても、信繁は人を引きつける魅力を持った人物だったのではないでしょうか。宴の話は創作としても、九度山脱出において、農民たちの協力があったというのは、本当の話かもしれませんね。


 大坂城入城の際のあの変装についてですが、これは、軍記物などに見られる「伝心月叟という山伏に身をやつして入城した」という逸話をベースにしたものでしょう。また、信繁はこれより少し前に姉に宛てた書状のなかで、「このところ急激に年を取り、ことのほか病身になり、歯も抜け、髭も黒いところがありません」と伝えており、これもあの変装で処理したのでしょうね。実際、主人公をこんな風貌にしてしまったら視聴者が引くでしょうし、この書状の事実をドラマでどう扱うのかと思っていたのですが、山伏の変装エピと絡めるとは・・・。毎度のことながら、三谷脚本スゴイ!


e0158128_02593024.jpg 沼田城真田信之に目を移します。信之がこの時期病身だったのは事実で、二度の大坂の陣にも参戦しませんでした。その代わり、長男・信吉と次男・信政を出陣させます。ドラマでは、未熟な息子二人を心配して、矢沢三十郎頼幸と姉婿の小山田之知に援助を頼んでいましたが、実際にも、二人を守りたててほしいと何度も三十郎と之知に書状を送って頼んでいます。私にも、来春大学を出て東京に就職が決まった息子がいますが、子供というのはいくつになっても親の目から見れば未熟にしか見えず、心配は拭いきれません。


 この信吉と信政の嫡男問題が描かれていましたが、実はこの後継者となった信吉という人物は、結構が多いんですね。というのも、生年自体が諸説あって定まっていません。また、生母についても詳らかではなく、真田家の公式記録『真田家御事績稿』のなかの『天桂院殿御事績稿』には、生母は小松姫とあるのですが、『真田家御事績稿』には、生母は真田信綱の息女だったと記されています。つまり、ドラマでいうところのおこうですね。また、別の説では、信之が侍女に産ませた子という説もあります。ドラマでは、小松姫の輿入れによっておこうは侍女となり、信之の子を産み、小松姫の養子となって家督を継いだという設定でしたね。つまり、すべての説をミックスさせて辻褄を合わせたかたちです。この設定を視野に入れて、おこうを侍女にしていたんですね。いや~、お見事です。


 史実では、こののち信之は信繁と会うことはありませんが、信吉と信政は、大坂冬の陣の和睦後に対面します。そこでどんなドラマが用意されているのか、楽しみですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-17 18:17 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第40話「幸村」 ~方広寺鐘銘事件~

 今回は、「大坂の陣」に至るまでの経緯の説明の回でしたね。九度山村で蟄居中の真田信繁の前に突然現れた明石全登が、会わせたい人物がいるといって連れてきたのが、豊臣家家老で豊臣秀頼の傅役を務めていた片桐且元でした。「傅役を務めていた」過去形で紹介したのは、この時期すでに且元は大坂城を追放されており、徳川家康の元に寝返っていたからです。その且元がなんで信繁に・・・と思ったのですが、どうやら、世情を知らない信繁に対する、の語リ部役だったんですね。制作サイドの話によれば、今回のドラマは可能な限り真田一族きりがみていないシーンは描写しない方針だそうで、石田三成、大谷吉継の最期のシーンと同じです。

 大阪の陣に至る経緯のなかで、そのもっとも銃爪となったといわれるのが「方広寺鐘銘事件」ですね。この事件は、家康が豊臣家を攻めるための大義名分をでっち上げた言いがかり事件として知られていますが、今回のドラマでは、少し解釈が違っていました。まずは一般に知られているストーリーから紹介します。

 豊臣秀頼と淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っていました。この事業は家康が勧めたといわれ、その目的は、豊臣家の財力を削ごうという思惑があったといわれますが、逆に豊臣家としても、今なお秀吉の時代に劣らぬ力があるということを世間に知らしめる目的があったともいわれ、家康の勧めとは関係なく、淀殿と秀頼はこの事業を熱心に進めていたといいます。

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 そんな寺社復興事業の中に、かつて秀吉が建立し、地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿の再建がありました。そして慶長19年(1614年)、その修営もほぼ終わり、梵鐘の銘が入れられた7月になって突然、大仏開眼供養を中止するよう家康から申し入れがありました。その理由は、鐘の銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。この言葉は、「国家が安泰で、主君と家臣が共に楽しめますように」といった意味の言葉でしたが、家康がいうには、「国家安康」という句は家康の名を切ったものだとし、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむと解釈、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒します。

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 この言いがかりともとれるクレームに淀殿が逆ギレ。事態を重く見た家老の片桐且元は、家康への弁明のために駿府へ向かいます。しかし、且元は家康に会うこともできず、ようやく会うことのできた本多正純金地院崇伝といった家康の側近から、「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、このうちのどれかを選ぶように」との内意を受けます。且元は即答を避け、大坂への帰路につきます。

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ところが、且元の帰城と前後して、なかなか帰らない且元に業を煮やした淀殿は、側近の大野治長の生母であり淀殿の乳母でもある大蔵卿局を、第2の使者として家康のもとに送ります。大蔵卿局が駿府に到着すると、家康は且元の時とは態度を180度変え、機嫌よく彼女と面会し、「秀頼は孫の千姫の婿でもあり、いささかの害心もない。家臣たちが勝手に鐘銘の件で騒いで難儀している」と話したといいます。それを聞いた大蔵卿局は、狂喜して大坂城へ帰りました。淀殿は直接家康に会った彼女の報告を信じ、且元の持ち帰った3ヶ条を信用しないばかりか、「且元が家康と示し合わせて豊臣を陥れようとするものに違いない」と疑います。且元は、戦を避けるために家康に従うよう懸命に説きますが、これを淀殿が受け入れるはずもなく、逆に大阪城内で且元暗殺の企ても聞こえ始め、とうとう大坂城を退去するに至ります。同時に、且元と同じく非戦論を主張していた者たちも大坂城を追われ、秀頼と淀殿のもとに残ったは、大野治長をはじめとする主戦派の者たちばかりとなりました。

 というのが、よく知られている「方広寺鐘銘事件」の経緯です。そしてそのすべては豊臣氏討伐のために描いた家康の筋書きだった・・・と。この家康最晩年の老獪さが、後世に家康の印象を悪くしているといえますが、今回のドラマでは、ところどころ解釈が違っていました。そのひとつに、「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。これはまったくの言いがかりではなく、鐘銘を書いた文英清韓が、意図的に「家康」「豊臣」の字を隠し文字として用いた言葉で、しかしそれは、喜んで貰おうと思って考えたものが、逆に裏目に出てしまった、という設定でしたね。これは、ドラマオリジナルの解釈ではなく、時代考証の丸島和洋氏によれば、ずいぶん以前から存在した説のようです。つまり、何もないところから重箱の隅をつつくように言いがかりをつけてきたわけではなく、使わなくてもいい言葉を用いたために誤解を招いたというんですね。前者と後者では、ずいぶん印象が違います。

 また、片桐且元が持ち帰った和解のための条件も、ドラマでは勝手に且元が考えたという設定でしたが、またまた丸島和洋氏によると、実はこれも史実通りだそうです。且元としては、敢えて幕府の姿勢を強硬なものと示すことで、豊臣家を穏便な形で江戸幕府下の大名として存続させようとしたのでしょう・・・と。これが事実なら、且元と大蔵卿局の温度差も説明がつきます。これまでの物語では、徳川方が且元と大蔵卿局との対応の仕方を変えることで、豊臣家における且元の立場を悪くする狙いだったとされてきましたが、そうではなく、且元と大蔵卿局双方の受け取り方の違いだった・・・と。なるほど、それも、説明がつきます。

 つまり、「方広寺鐘銘事件」から「大阪の陣」に至る経緯は、家康の確信的な策謀ではなく、双方のすれ違いによるところも大きかった・・・ということですね。そうすると、家康の印象もずいぶん変わってきます。豊臣家が勝手に破滅の道を辿っていったことになりますね。どちらが真実なんでしょう。


 さて、「幸村」についてです。一般に「信繁」という名より多く知られる「幸村」ですが、このドラマが始まって以降、「幸村」という名は後世の物語で創作された名前だということは、いろんな方が解説されていますので周知のところだと思います。したがって、大坂城に入ることタイミングで「幸村」改名したという事実は存在しません。しかし、史料が存在しないだけで、ないともいえません。というのも、「幸村」という名前が使われ始めたのは、後世といっても明治や昭和になってからではなく、信繁の死後、わずか50年後のことです。その意味では、創作といえどもかなり古いものになりますよね。まだ信繁を知る者も生きていたかもしれません。そんな時代にすでに使われていた名前ですから、あるいは、何らかの根拠があったのでは・・・と、思いたくなります(学者さんは否定されるでしょうけど)。今回のドラマでは、「幸」の字を捨てた兄・信之に代わって、代々受け継がれてきた「幸」の字を信繁が継いだ・・・と。そしてそれは、昌幸の希望でもあった・・・と。いいじゃないですか!この設定。ここに、伝説の名将・真田幸村が誕生しました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-11 15:19 | 真田丸 | Comments(0)