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真田丸 第38話「昌幸」 ~二条城会見と真田昌幸の死~

e0158128_18432594.jpg 真田昌幸・信繁父子が紀伊国九度山村に流された慶長5年(1600年)12月から、昌幸が死去する慶長16年(1611年)6月までの約10年余りが一気に描かれましたね。この間、征夷大将軍となった徳川家康は江戸に幕府を開き、その2年後には息子の徳川秀忠に将軍の座を譲り、徳川政権の盤石化を図りました。一方で、慶長8年(1603年)にはわずか7歳の孫娘・千姫を大坂の豊臣秀頼に嫁がせ、旧主である豊臣家との関係が良好であること世間に知らしめます。一般に、関ケ原の戦い後すぐに家康は豊臣家を滅ぼすつもりだったように思われがちですが、決してそうではなかったことがわかります。


e0158128_18385012.jpg その家康に豊臣家を滅ぼす決意をさせたのが、慶長16年(1611年)3月38日に行われた家康と秀頼の二条城における会見だったと描かれることが多いですよね。成長した秀頼の器量の大きさとわが息子・秀忠の凡庸さを比較し、秀頼を殺す決意を固めた・・・と。この話自体は後世の創作ですが、たしかに、この二条城会見を境に家康が豊臣家滅亡への謀略をはじめたのは事実で、このとき、家康に何らかの意識変化があったのかもしれません。何よりこの会見に随伴した加藤清正、浅野幸長、池田輝政など旧豊臣恩顧の武将たちが、会見直後にことごとく死んでいったことから、家康の差し金による暗殺説が、当時からささやかれていました。ドラマでも、清正の死去は暗殺説が採られていましたね。これは、現在では歴史家さんのあいだでは邪説とされているのですが、物語的には、そっちのほうが面白いですからね。


e0158128_02592871.jpg で、九度山村での真田父子に目を移します。蟄居生活を強いられた昌幸・信繁でしたが、罪人としての幽閉生活というほどではなく、山狩り釣りなど、高野山領内であればある程度自由に動き回れたようです。この間、信繁には子供も生まれ、ある意味、平穏で幸福な日々だったともいるかもしれません。ただ、経済的には困窮していたようで、昌幸は嫡男・信之に何度も援助金を催促する書状を送っています。くさっても五万石の大名だったわけですから、わずかな家臣を従えた貧乏暮しは、耐え難い屈辱だったでしょうね。そんななか、昌幸を唯一支えていたのは、家康から赦免されて上田に戻るという一縷の希望でした。


 昌幸は信之や浅野長政を通じて赦免嘆願を繰り返し行っています。時期は定かではありませんが、その赦免嘆願は本多正信を通じて家康の耳にまで届いていたようで、それを伝え聞いた昌幸は、「赦免される日が近いゆえ、下山したら一度お会いしたい」と、楽観視した書状を旧知の人物に送っています。しかし、家康は二度も煮え湯を飲まされた昌幸を、決して許すことはありませんでした。


 やがて赦免の希望が叶わないことを悟った昌幸は、日に日に衰えていきます。このころ書かれた書状では、すっかり気力を失った弱気な言葉がつづられ、かつての名将の面影はもはやありませんでした。そして慶長16年(1611年)、いよいよ自らの死期を悟った昌幸は、信繁を枕頭に呼び、徳川と豊臣の決戦がはじまった際の秘策を授けたと伝わります。それが、ドラマに出てきた『兵法奥義』ですね。原本は大坂城とともに灰となったと伝えられますが、実在したかどうかは定かではありません。その秘策とは、籠城戦では勝ち目がなく、積極的に討って出て勝負をかけよ、というものでした。ドラマでは、この秘策を聞いて「自分には場数が足りないので自信がない」と発言した信繁に対して、「わしの立てる策に場数などいらん。」と昌幸は言っていましたが、伝承では、この秘策も家康を二度も破った自分の意見ならば豊臣家も従うだろうが、無名の信繁では握りつぶされるであろうと予言しています。で、実際そうなるんですよね。今年の大河ドラマでは、そういった千里眼的予知能力の持ち主はまったく出てきません。そこもいいですよね。


 慶長16年(1611年)6月4日、昌幸没。享年65。真田家を近世大名までのし上げた、真田家にとってはまさに中興の祖ともいうべき人物の波乱の生涯が幕を閉じました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-26 18:46 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第37話「信之」 ~関ケ原の戦い・第二次上田合戦エピローグ~

 第二次上田合戦徳川秀忠軍を撃破した真田昌幸・信繁父子でしたが、誤算だったのは、慶長5年(1600年)9月15日に起きた関ケ原の戦いがわずか1日で決着がつき、西軍の大敗に終わったことでした。信繁の舅・大谷吉継は壮絶な最期を遂げ、石田三成、小西行長、宇喜多秀家らは戦場から落ち延び、大坂城にて豊臣秀頼を守っていた毛利輝元は、大坂城を退去して徳川家康に恭順の意を示しました。家康は9月22日に輝元と和睦し、27日には大坂城に入城します。家康の大勝でした。

e0158128_19301095.jpg 石田三成は間もなく捕縛され、10月1日、京の六条河原で小西行長、安国寺恵瓊らと共に斬首されます。享年41。三成の処刑に際しては、数々の逸話が伝わります。たとえば、処刑直前の三成が、警護の人間に喉が乾いたのでを所望したところ、「水はないので、代わりに柿を食せ。」と言われ、これを聞いた三成は「柿は痰の毒だ!」といって拒否します。これを聞いた警護の者は、「いまから処刑される者が毒を気にしてどうする。」と笑いますが、三成は「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ!」と、泰然としていたといいます。

また、別の逸話では、処刑前の三成、行長、安国寺の3人に、家康が小袖を与えた際、他の二人は有りがたく受け取りますが、三成は「この小袖は誰からのものか?」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様になったのか。」と言い放ち、受け取らなかったといいます。これらの逸話がどこまで実話かどうかは定かではありませんが、江戸期を通じて天下の大悪人に仕立て上げられてきた三成でありながら、このような賞賛すべき伝承が残されていることを思えば、遠からずの立派な最期だったのかもしれませんね。

e0158128_02592871.jpg 西軍の敗北を知った真田昌幸は、それでも戦いをやめようとせず、9月18日、上田城に近い虚空蔵山城坂木葛尾城に陣を布いていた森忠政の軍勢に夜襲を仕掛け、さらに23日には、信繁率いる軍勢が坂木葛尾城を攻めます。ドラマでは父を抑えていた信繁でしたが、実際には、信繁が先頭を切って軍事行動を起こしていたようです。昌幸らにしてみれば、自分たちは秀忠軍を撃破していたわけですから、敗北を認められなかったのでしょう。しかし、最後の悪あがきもここまで。嫡男・真田信幸の説得もあって、渋々降伏します。ドラマで昌幸は廊下に拳を打ち続けて悔しがっていましたが、たぶん、400年前の昌幸も、あんな感じだったんじゃないでしょうか・・・。そりゃ悔しいでしょうね。勝ってたんだから・・・真田は・・・。

e0158128_02593024.jpg 昌幸・信繁が降伏すると、ひとり徳川方についていた信幸は、懸命にふたりの助命嘆願を訴えます。家康にしてみれば、二度も煮え湯を飲まされた昌幸を許さず、殺すつもりだったといいます。しかし、信幸の懸命な訴えに、舅の本多忠勝の援護も加わり、どうにかこうにか命だけは助けられました。ドラマでもありましたが、このとき忠勝は、「もし真田父子に死を与えるというのであれば、某は婿の信幸とともに真田父子を支援して上田城に籠り、主君・家康と戦うも辞さぬ」と言い放ち、家康を驚かせたと伝わります。よほど、婿の信幸のことを気に入っていたんでしょうね。

 信幸は父と弟の命乞いの代償として、「信之」に改名します。これについて、多くの小説などでは、父から受け継いだ「幸」の字を使うことを憚り、自ら改名したように描かれてきましたが、今回のドラマでは、家康から「捨てよ」と命じられての改名でしたね。それに対して、「文字」は変えても「読み」は変えないという信之なりの意地だったと・・・。この設定、なかなか良かったんじゃないでしょうか?

 かくして昌幸・信繁父子の流罪が決まり、紀州高野山の麓、九度山に流されます。その後、家康はよほど上田城が目障りだったのか、徹底的に破壊したといいます。そのせいで、真田時代の上田城の遺構は、ほとんど残されていません。

 昌幸・信繁が上田を後にしたのは慶長5年(1600年)12月13日のことでした。昌幸は信之と別れるに際して、「それにしても悔しい限りだ。家康こそこのような目にあわせてやろうと思っていたのに」と嘆き、悔し涙を流したと伝わります。昌幸54歳、信繁34歳でした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-20 23:38 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第36話「勝負」 ~第二次上田合戦~

e0158128_23052141.jpg 犬伏で真田信幸と決別した真田昌幸・信繁父子が自領の上田城に戻る途中、信幸の居城である沼田城に立ち寄りますが、留守を預かる信幸の正妻・小松姫が、夫の敵となった義父・義弟の入城を拒んだという話は有名ですね。軍記物などの記述によれば、「孫の顔を見たい」という昌幸の言葉を、城を乗っ取るための昌幸の計略とみた小松姫は、鉄砲隊を狭間に配置させ、自らも薙刀を持って門扉に立ち、開門を拒んだといいます。これを見た昌幸は、「さすがは日本一の本多忠勝の娘である。武士の妻はこうあるべきた!」と、褒め称えたとか。小松姫を語るに、外せない逸話です。

 しかし、近年の研究によれば、実際には、このとき小松姫は大阪で石田三成方に人質として取られていたと考えられているそうで、このエピソードは、後世の創作とみられています。ただ、あまりにも有名な話なので、ドラマでこれを描かないわけにはいかなかったでしょう。そこで、今回の物語では、石田方が人質を取り始めたことを受けて、急遽、上方を脱出してきたという設定でしたね。実際、黒田家山内家など、上手く捜査網を掻い潜って脱出した奥方たちはたくさんいますから、ない話ではありません。史実と逸話を上手くつなげた設定でしたね。

e0158128_02592871.jpg 上田城に帰った昌幸は、すぐさま反徳川の姿勢をとらず、しばらく自らの去就を明らかにしませんでした。その狙いは、石田方に自らを高く売るためだったと見られます。昌幸を味方に引き入れたい三成は、慶長5年(1600年)8月5日付けの書状で信濃一国を与えると明言し、さらに6日付の書状では、甲斐国も与えると約束しています。この条件を得た昌幸は、ようやく西軍に与することを言明します。さすがは抜け目ない昌幸といえますが、この書状から、たかだか5万石程度の領主である昌幸を、三成はそれほど価値があるとみていたことがわかりますね。

 小山評定で旧豊臣恩顧の大名の多くを味方に引き入れることに成功した徳川家康は、大坂の石田三成を討つべく軍を西上させます。その際、家康率いる約3万3000の軍勢は東海道を、息子の徳川秀忠率いる約3万8000の軍勢は中山道を進軍しました。中山道のルートには、昌幸、信繁が籠る上田城があります。この秀忠軍を、上田城に籠るわずか2500ほどの兵力の真田軍が大いに翻弄し、その結果、秀忠軍は足止めをくって関ケ原の戦いに遅参してしまうんですね。これが有名な第二次上田合戦です。

 合戦の内容をここで詳細に解説するのは、長くなりすぎるのでやめます。超簡単に説明すると、籠城している真田軍が徳川方の兵を可能な限り引きつけた上で、機をみて攻撃するという奇襲戦法を繰り返し、そうとは知らない徳川軍は真田の術中に嵌り、かなりの打撃を受けました。第一次上田合戦のときもそうですが、昌幸は、大軍相手に寡兵で戦う術を心得ていたんですね。逆に言えば、二度も同じ手を食って惨敗した徳川軍の軍法はどうよ!・・・と言いたくなりますが、大軍というのは、寡兵相手では得てして油断が生じるものなのかもしれません。このとき総大将の秀忠は初陣でしたしね。

e0158128_22593837.jpg ただ、一説には、上田城など捨て置いて西上すればいいものを、まだ若い秀忠が軍功にはやって上田城攻めを強行し、その結果、関ケ原の戦い大遅参したといわれますが、これらの話はすべて江戸時代の創作だそうで、近年明らかになった説では、そもそも秀忠軍が中山道を進軍したのは上田城攻めが目的で、その途中で家康が作戦を変更し、上田城攻めを中断して関ケ原に呼び寄せたことがわかっています。このたびのドラマは、その新説に則って描かれていましたね。どうりで、本多正信榊原康政大久保忠隣酒井家次など徳川家譜代のビッグネームがことごとく秀忠軍につけられているはずです。家康にしてみれば、それほどまでに昌幸の存在が目障りだったのでしょう。小山評定で豊臣恩顧の武将がことごとく徳川方に与するなか、ひとり反旗を翻した昌幸・信繁父子を、捨て置くわけにはいかなかったのでしょうね。でも、結局、手玉に取られたのは徳川軍のほうでしたが。

 秀忠軍の大遅参のおかげで、関ヶ原の戦いでは徳川家譜代の家臣の活躍がほとんど見られず、戦後の論功行賞で、家康は外様大名に多くの恩賞を与えるはめになったと言われます。しかし、そのおかげで、家康は後継者である秀忠や譜代の家臣を失わずにすんだのも事実で、穿った見方をすれば、あえて兵を関ヶ原に遅参させることで、徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もあります。まあ、すべては結果論にすぎず、後付説の感は拭えません。家康とて、関ヶ原の戦い前から勝利を確信していたなんてことはなかったでしょうからね。すべては偶然の結果かと。

 第二次上田合戦で改めてその存在感を見せつけた真田昌幸でしたが、大きな誤算だったのは、関ヶ原の戦いがわずか1日で終わってしまったことだったでしょうね。もし、関ヶ原の戦いが長期戦になっていれば、秀忠軍退却後、昌幸は甲斐国、信濃国を席巻していたに違いありません。しかし、歴史は彼らに味方しませんでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-17 23:05 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第35話「犬伏」 ~犬伏の別れ~

 8月後半から仕事が忙しくなり、特に今週は超激務をこなす毎日となり、昨夜、ほぼ1週間ぶりに家に帰り、ようやく大河ドラマを視聴しました。真田一族の物語を語るにあたって、いちばんの見せ場といってもいい「犬伏の別れ」。遅ればせながらの起稿です。

 慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は会津の上杉景勝討伐を掲げて大坂を出陣。7月2日には江戸城に入り、諸大名に上杉攻めに加わるよう要請します。家康は上杉征討にあたって、豊臣家より軍資金二万両と米二万石をもらい、上杉攻めを豊臣秀頼の命というかたちにしていました。豊臣の御旗が掲げられた以上、諸大名はこれに参加せざるを得なくなります。このあたり、家康の政治力の巧みさがうかがえますね。

 一方、家康の上杉征討を知った石田三成は、家康の元に向かおうとしていた大谷吉継を蟄居中の佐和山城に呼び寄せ(ドラマでは、三成が吉継の元を訪れていましたが)、打倒家康の挙兵を持ちかけます。吉継はその無謀を説きますが、三成の決意が固いことを知るや、「わしがおぬしを勝たせてみせる」と言ったかどうかはわかりませんが、三成に同心します。吉継を味方につけた三成は、毛利輝元を大坂城に呼び、秀頼を奉じて挙兵するんですね。

 上杉征伐の要請を受けた真田昌幸、信幸、信繁父子は、家康の元に合流すべく宇都宮に向けて進軍し、下野国の犬伏に着陣します。ここで彼らのもとに、三成挙兵の報せが届きました。これを聞いた昌幸が「早すぎるわ!」と言ったかどうかはわかりませんが、たしかに、三成の挙兵は少し早すぎました。歴史のタラレバはナンセンスですが、もし、三成の挙兵がもう少し遅く、上杉との戦端が開かれてから行われていれば、家康は簡単には引き返せなくなり、歴史はまた違ったものになっていたでしょう。一説には、三成と会津の直江兼続が共謀して家康を挟撃するシナリオだったという見方がありますが、その説に否定的な意見の根拠としては、この三成の挙兵のタイミングを指摘します。電話もメールもない時代ですが、共謀していたのなら、三成の挙兵はもう少しあとだったんじゃないかと・・・。真相はどうだったんでしょうね。

e0158128_02592871.jpg 三成の挙兵を知った昌幸は、7月21日、信幸、信繁兄弟を呼び寄せて密談を行ったとされます。これが、世に言う「犬伏の別れ」を決定した密談ですね。この密談で、真田家は昌幸と信繁が三成方につき、信幸が家康方につくことを決めたとされますが、ただ、この密談の内容は、一級史料では確認することができず、すべて後世の軍記物に頼るしかありません。確かなのは、その日の夜に昌幸・信繁は戦陣を離脱し、上田に向けて帰還したこと、それらの家来たちはあわててその後を追っていったこと、信幸だけが戦陣に残り、24日、家康の元に参陣したことくらいだそうです。でも、それらの事実を見る限り、この密談で兄弟父子が敵味方に別れる決意をしたことは、間違いなさそうですね。

e0158128_02593242.jpg 兄弟父子が敵味方に別れた理由については様々な説がありますが、どちらが勝っても家が存続できるため、というのが、通説となっている理由ですね。実際、合戦時にお家存続のために親兄弟が別れるという話は、他にもたくさんありました。この時代、家の存続というのは、武士にとって何より大切な仕事でしたからね。さらには、信繁の妻は三成方の大谷吉継の娘であり、信幸の妻が徳川家家臣の本多忠勝の娘だったことも、大いに作用したでしょうね。信繁も信幸も、舅への義理は蔑ろにはできないですからね。そうみれば、この密談の結論は、はじめから見えていたといえます。

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 また、密談中に様子を伺いに来た家臣の河原綱家が信幸から水筒を投げつけられるシーンがありましたが、あれは、三谷脚本らしいコメディーシーンに見えましたが、実は、河原家の伝承で残っている逸話です。それによると、投げたのは信幸ではなく昌幸で、投げたものは水筒ではなく下駄だったとか。下駄は綱家の前歯にあたり、彼は生涯、前歯が欠けたままだったといいます。入れ歯もインプラントもない時代ですからね。少々気の毒な気がしますね。

「もし徳川が勝ったならば、俺はどんな手を使ってもお前と父上を助けてみせる!」

 本当にそうなっちゃうんですよね。温厚篤実な人物だったという信幸。弟や父の神出鬼没ぶりばかりが目立つ真田家ですが、真田家でもっとも優れていたのは、実は信幸だったのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-11 03:02 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第18話「上洛」 ~真田昌幸の上洛~

 豊臣秀吉からの再三の上洛要請にもなかなか応じようとしなかった真田昌幸でしたが、天正15年(1587年)2月、ようやくその重い腰を上げました。なぜこの時期に昌幸が上洛を決断したのかはわかりませんが、秀吉は同年1月4日付で越後国の上杉景勝に書状を送り、昌幸を上洛させるよう指示しています。ドラマでは直江兼続上田城まで説得にきていましたが、たぶん、そんな上杉氏からの説得工作があったのでしょうね。前年8月の秀吉の真田氏成敗命令撤回には、景勝の力が大いにはたらいたと言われますから、その景勝の顔を立てる意味でも、ここらで観念せざるを得なかったのでしょう。

e0158128_20435306.jpg もっとも、昌幸が上洛を拒んでいたのは、意地でもかけひきでもなく、留守中の北条氏の動きを懸念してのことだったと思われます。真田氏と北条氏・徳川氏の間では、相変わらず沼田・吾妻領譲渡問題を引きずっていました。この時期、ほぼ天下統一を実現しつつあった秀吉は、「惣無事令」を発令して大名独断の戦を禁じていましたので、先に秀吉に臣下の礼をとった徳川家康からの攻撃の懸念は払拭されましたが、秀吉に屈する姿勢を見せない北条氏直は、「惣無事令」など守る気はさらさらありません。昌幸としては、北条氏の動きを封じない限り、やすやすと自領を留守にはできなかったわけです。そう思えば、このとき昌幸が上洛を決意した背景には、秀吉もしくは景勝から、留守中の北条氏牽制についてなんらかの確約がもらえでいたのかもしれません。

 上洛した昌幸が、ドラマのように秀吉から邪険な扱いを受けたかどうかはわかりませんが、家康の与力となるよう命じられたのは史実です。あるいは、上洛前からその通達が届いていたかもしれません。実はすでに、秀吉と景勝の間で、真田昌幸、小笠原貞慶、木曽義昌を家康の配下にするよう決められていました。今回の上洛は、それを昌幸に正式に命じるためのものだったわけです。昌幸にしてみれば、この命令が嬉しいはずはなく、たぶん、ドラマのような反応だったことでしょう。これまで同盟相手をコロコロと変えてきた昌幸でしたが、それはすべて自身の策略によるものだったわけで、今回はじめて、命令によって配下を鞍替えさせられたわけです。中小企業大企業下請け契約を結ぶべく挨拶に来たところ、直接は取引してもらえず、グループ会社の傘下に入るよう言い渡されたわけで、そのグループ会社というのが、かつてコンプライアンス違反で契約破棄した企業だったわけです。これからの取引を思えば、愉快なはずがありません。

 「その代わり、真田の領地は徳川が守る。北条が攻めてきても、徳川が盾となってくれる。悪い話ではなかろう?」

e0158128_20022019.jpg 昌幸に家康の与力となるよう命じた際の秀吉の台詞ですが、なるほど、これは的を射た見方かもしれませんね。のちに真田氏と北条氏の間の領土問題が、やがて豊臣軍の北条攻めに繋がっていきます。秀吉はこの時点でそこまでを描き、昌幸を家康の麾下に組み入れたのかもしれません。秀吉にしてみれば、北条征伐を視野に入れたとき、崩しておきたいのが徳川氏と北条氏の同盟関係。ここで真田氏を徳川氏の与力とすることで、北条氏が真田領に攻め込んだ場合、徳川氏は真田氏を守って北条と戦わねばならない。はじめから秀吉はそうなることを望んでいたのではないかと・・・。このあとの歴史は、秀吉の描いたシナリオどおりに進んでいった・・・と。だとすれば、秀吉の権謀術数に比べれば、昌幸も家康も赤子同然ですね。

 ちなみに、ドラマではずいぶん前から大坂入りしていた真田信繁ですが、一般的には、このとき昌幸は信幸・信繁兄弟を伴って上洛し、以後、信繁が人質として秀吉の元に残されたと推測されています。

 ちなみにちなみに、信幸・信繁の姉・お松行方不明物語はドラマのオリジナルかと思っていましたが、真田家の史料『加沢記』に記されている話だそうですね。それによれば、「本能寺の変」以降、行方不明になっていたお松と、昌幸の上洛に付き従っていた真田の郎党が偶然にお松と遭遇して昌幸に報告、感動の再開となった・・・と。もっとも、記憶喪失というのはドラマのオリジナルのようですが・・・。今年の大河は現代劇風に描かれていますが、あまり知られていない伝承レベルの話までよく調べられていますね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-09 20:15 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(1)  

真田丸 第17話「再会」 ~秀吉の真田氏成敗命令と家康の上洛~

 天正14年(1586年)8月3日、豊臣秀吉は越後国の上杉景勝宛に書状を送ります。その内容は、景勝の傘下である真田昌幸「表裏比興之者」と指弾し、徳川家康に命じて成敗するので、くれぐれも上杉軍は真田氏を支援無用のことと、釘を刺すものでした。そして8月6日には、正式に家康に向けて真田氏成敗の命を下します。その理由は、再三の上洛命令に従わないこともあったでしょうし、家康からの攻撃要請もあったに違いありません。これまで秀吉は家康に対して、実妹の朝日姫を嫁がせてまでも上洛を促していましたが、今回の真田氏成敗の命令では、そのために「上洛が遅れてもかまわない」とまで述べています。つまり、真田氏成敗が目下の最優先課題だと示したわけですね。

e0158128_20022019.jpg ところが、その舌の根も乾かぬ翌日の8月7日、秀吉は真田氏成敗の意向をあっけなく覆します。秀吉は家康に対して、真田氏の問題を仲裁するので、ひとまず兵を留め置くよう求めました。家康にしてみれば、とんだ肩透かしだったに違いありません。たった1日の間に何があったのか・・・。ドラマでは、端から意向を覆す予定での命令だった・・・との設定でしたね。とりあえず、いったんは家康の顔を立てるためだった・・・と。いやいや、それ、逆に家康の顔を潰してるんじゃないですか?(笑)

 実際には、秀吉がなぜ真田氏成敗の命を覆したかはわかっていません。推測としては、上杉景勝からの働きかけがあったと考えられています。事実、9月25日には、正式に真田氏成敗の中止を景勝に伝えていますからね。でも、たった1日で意向を覆したことを思えば、あるいはそれも想定した上で、家康や景勝の出方を見たのかもしれませんね。

 真田氏の問題を棚上げした秀吉は、再び家康の懐柔工作を開始。実妹を嫁がせてもなお上洛しようとしない家康に対し、今度は実母人質に送ることを決意。これには、妻のお寧や弟の豊臣秀長が猛反対したといわれますが、秀吉は強行しました。古来、主君臣下に対してこれほどまで謙った例はなかったでしょうね。このとき、豊臣政権下における家康の立ち位置は決まったといえるでしょう。ドラマでは、自身の値打ちを釣り上げるための策に余念がない真田昌幸ですが、このとき最も値打ちを上げたのは、家康だったでしょうね。

e0158128_21350278.jpg かくして家康はようやく重い腰を上げるに至るのですが、大坂城での謁見の前夜、秀長邸を宿所としていた家康のもとにとつぜん秀吉が単身おとずれ、「明日の会見で某(秀吉)は尊大に振る舞うので、其許(家康)は慇懃な態度で平伏して欲しい」と依頼し、酒を酌み交わしたという有名なエピソードがあります。いかにも作り話っぽい逸話ですが、実はこの話、徳川家の正史『徳川実紀』に記されているエピソードで、その出典元は、当時の家康の家臣・松平家忠が残した『家忠日記』によるものです。後世が創作した英雄伝承ではないんですね。

「明日廿七日関白様より御対面可被成候処、秀吉待かね被成、其夜御宿へ御越、殿様御手をとらせられ候て、おくの御座敷へ被成御座、御存分被仰、御入魂共中々無申計也」

 ただ、これを読むと、そこには奥のお座敷で入魂に話し込んだとあるのみで、秀吉が家康に謙って頼み込んだという話はありません。どうやら、これは後世の脚色のようですね。イマ風に言えば、ちょっと「盛った話」ですね(笑)。

 また、家康が秀吉の陣羽織を所望したという話も、『徳川実紀』に記されています。

「君その時殿下の召されし御羽織を某にたまわらんと宣へば、秀吉これはわが陣羽織なり。進らすることかなわじといふ。君御陣羽織とうけたまはるからは猶更拝受を願ふなり。家康かくてあらんには、重ねて殿下に御物具着せ進らすまじと宣へば、秀吉大によろこばれ」

 これまでの作品では、この陣羽織の所望は家康の機転によるものとして描かれることが多かったように思いますが、今回のドラマでは、これも秀吉のシナリオとして描かれていましたね。まあ、それもありかもしれません。ただ、通常、前夜のお忍び会見から大坂城での謁見のシーンは、「人たらし」といわれる秀吉の大胆な政治力と、その秀吉の依頼に応える家康の器の大きさを知る象徴的な逸話で、また、互いの腹を探りながらの狐と狸の化かし合いが、何度見てもハラハラ出来るシーンなんですが、今回のドラマでは、そんな雰囲気ではなかったですね。秀吉は怖気づいて真田信繁に媒を頼むし、家康は芝居は苦手だといってオロオロするし・・・。まあ、もとよりこの逸話が史実かどうかもわかりませんから、どのような解釈で描いても間違いとは言えませんが、定番は定番であってほしいと思うのはわたしだけでしょうか? 秀吉も家康も、人間味のある等身大の人物として描きたいのでしょうが、英雄はあくまで英雄であってほしい・・・というか。良くも悪くも超越しているからこそ英雄たりえたわけで・・・。定番エピソードを定番で描くことが、古いともワンパターンだとも思わないんですけどね。何度観ても面白いからこそ定番になったわけですからね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-02 21:39 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第15話「秀吉」 ~真田信繁(幸村)の大坂入り~

 上杉景勝羽柴秀吉に謁見すべく上洛したのは、天正14年(1586年)6月。このとき景勝は養子の上杉義真(畠山義真)を人質として差し出し、臣下の礼をとりました。ドラマではこのとき本領安堵を約束されていましたが、実際には、元々の領国である越後国の領有は安堵されますが、属国として支配していた越中国、上野国(真田領)は放棄させられ、代わりに佐渡国、出羽国の切り取りを許可されます。このとき、景勝は正親町天皇(第106代天皇)にも拝謁し、左近衛少将に任じられています。

e0158128_20004830.jpg ドラマではその景勝に付き従って大坂入りした真田信繁でしたが、実際には、そのような記録は存在しません。さりとて、信繁がいつ大坂城に送られたかを知る史料もなく、詳細はわかっていません。一説には、景勝が上洛しているあいだに、人質として越後にいた信繁を昌幸が勝手に連れ出してそのまま秀吉のもとへ送ったため、景勝が激怒したという話があり、小説などでもこの説が採用されていたりしますが、それは無理があるでしょうね。おそらく、景勝の了承のもと大坂に送られたと考えられます。

ただ、景勝が上洛した同じ年の9月、徳川家康の上洛が決定すると秀吉は昌幸に人質を出すよう命じていますが、昌幸がこれに従わなかったため、怒った秀吉は家康に昌幸討伐を命じたという事実があります。そこからわかることは、この時点で真田家は、まだ秀吉に人質を出していなかったということ。つまり、信繁はまだ越後にいたということですね。となると、やはりドラマの設定は無理があるかもしれません。もっとも、ドラマでは人質として大坂に来たわけではありませんから、このまま何らかの理由で大坂に残り、そのまま人質になったという設定はなくはないですが(少々苦しくはありますが)。いずれにせよ、この天正14年(1586年)から昌幸が上洛する翌年の春にかけての何処かで、信繁は大坂に入ります。信繁18歳もしくは21歳の頃です。

e0158128_20022019.jpg 景勝と面会した秀吉は、真田への支援を禁ずる旨を命じていましたが、これは事実で、秀吉は昌幸を家康の配下に置くことを決め、これを景勝に了承させています。というのも、このころ秀吉は、家康を従わせるためにあの手この手で骨を折っていた時期で、この年の5月には、実妹の朝日姫を家康の正室に娶らせるなどして懐柔しようしていましたが、それでも家康は上洛しようとせず、苛立っていました。家康が上洛しない理由のひとつが、北条氏との間の沼田・吾妻領譲渡問題が決着をみていなかったことにありました。そこで秀吉は、真田氏を上杉氏の傘下から徳川氏麾下に移し、家康が領土問題を独断で解決しやすいように仕向けたのです。その上で、秀吉は昌幸に上洛を促しました。

e0158128_20435306.jpg ところが、昌幸は上洛の要請にいっこうに応じず、また、上洛の代わりに人質をよこすよう命じますが、これも拒否しています。その理由は定かではなく、ドラマでは、秀吉の勢いを見定めている設定でしたが、実際には、やはり、沼田・吾妻領譲渡問題にあったと見るのが正しいでしょうね。昌幸にしてみれば、上洛している間に北条軍に自領が攻撃される心配があり、また、上洛して謁見した秀吉に、沼田・吾妻領の譲渡を命じられるかもしれないといった危惧もあったでしょう。昌幸にしてみれば、秀吉からの沼田・吾妻領安堵の確約と、徳川・北条両氏との停戦命令がない限り、上洛するわけにはいかなかったのでしょう。

 かくして秀吉は、いっこうに命令に従わない昌幸を「表裏比興之者」と指弾。家康に成敗を命ずるとともに、景勝に支援無用を命じます。昌幸、またしてもピンチに晒されることになります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-04-18 20:08 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第13話「決戦」 ~第一次上田合戦~

 上杉氏と手を結んだ真田昌幸でしたが、これを徳川家康が黙って見過ごすはずがありませんでした。家康にしてみれば、徳川方の北方の最前線として築城したはずの上田城が敵の手に渡ったばかりか、北条氏との同盟の条件である沼田・吾妻領の譲渡問題も昌幸の寝返りによって頓挫してしまったわけで、その責任上からも、真田氏を許しておくわけにはいかなかったわけです。こうして起きたのが、天正13年(1585年)閏8月2日の徳川軍による上田城攻め、世に言う「第一次上田合戦」でした。

e0158128_20435306.jpg この合戦は、信濃国の一国衆である真田氏が、徳川軍を完膚なきまでに撃破した戦いとして有名ですが、実は、その内容は確実な史料に乏しく、詳細は不明です。一般的に知られている経緯は、実際に合戦に参加していた大久保忠教『三河物語』によるところが多く、ここでも、その『三河物語』に沿って解説していきます。

 徳川方の布陣は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉という精鋭を指揮官とした7000の大軍。これに対して迎え撃つ真田方は2000余り。徳川方の3分の1以下でした。そこで昌幸は、城下の農民たち3000余人を城に籠城させ、女子供にも石を投げさせて攻撃させたといいます。この時代、石つぶては、立派な兵器でした。

e0158128_23584558.jpg さらに『三河物語』によると、真田方は400人ほどで本丸を守り、昌幸の長男・真田信幸は800余りの兵を率いて城外に布陣し、城下の町筋には「千鳥掛け」と呼ばれる「ハ」の字に互い違いにした柵を設け、大軍が容易に進めないようにしました。そして信幸は農民たちを山野に潜ませて伏兵とし、自身は神川まで出陣して徳川方と軽く一戦を交えたのち、わざと徳川軍に追撃させ、城近くまでおびき寄せました。ドラマではこの役目を担っていたのは弟の真田信繁でしたが、『三河物語』によると、兄の信幸でした。

 このとき、徳川軍は城の大手を破って二の丸まで乱入。しかし、狭い場所に突入した兵は大軍としての機能を失い、ドラマで昌幸がで例えていたように、陣形が縦に長く伸びてしまいます。大軍と戦う場合、敵の陣形を縦に長く伸ばしてその横っ腹をつくというのは常套手段です。それでも、圧倒的な兵力差に慢心していた徳川方は、さらに城内に突入。しかし、それこそが昌幸の思惑通りでした。敵を十分に引きつけたと見た昌幸は、城内に準備していた大木の綱を切って、敵方の頭上に落とします。意表をつかれた徳川方の兵たちは大木に押しつぶされたり逃げ惑うなどの大混乱に陥ります。それを見た真田方の城兵たちは、動揺する徳川軍めがけて一斉に銃撃弓矢を撃ちかけました。

 たまらず後退した徳川軍は、われ先にと逃げ出し始めます。しかし、その退路を阻むのは、事前に仕掛けておいた「千鳥掛け」でした。思うように退却できない徳川軍は、さらに混乱を極めます。そこに、身を潜めていた信幸の兵が側面を襲います。恐怖にかられた徳川軍はパニックになり、ここで多くの死傷者がでました。ほうほうの体で逃げ出した兵たちの前に立ちふさがるのは、折からの雨で増水していた神川。しかし、本能的に逃げ出した兵たちのパニックはおさまらず、無理やり川を渡って逃げようとしたため、多くの兵が溺れ死んだといいます。

 以上が『三河物語』による「第一次上田合戦」のあらまし。真田信繁は登場しません。江戸時代に記された松代藩真田家の家記『上田軍記』によると、上杉氏に人質として出されていた信繁が、上杉景勝に許されて急遽上田に帰り、父・昌幸より軍勢を預けられてこの合戦に参加したとあるそうですが、これが史実かどうかは明らかではありません。義を重んじる上杉家といえども、さすがに人質を開放するほど甘くはなかったでしょう。表裏比興の者といわれた昌幸ですから、上杉方としては、再び徳川方に寝返る可能性も考えておかねばならなかったでしょうからね。信繁はこの合戦に参加することはなかったと見るほうが賢明でしょう。ドラマとしては、『上田軍記』に則ったほうが面白いですけどね。

ちなみに、ドラマではという名で出ていた信繁の最初の子・すえを産んだ側室は、史料では堀田作兵衛の妹(もしくは娘)と記されているだけで、いつ、どのようにして別れたかは定かではありません。

この合戦に上杉氏の援軍は得られず、真田軍単独で行われました。家康不在とはいえ、歴戦の精鋭が顔を揃えながら寡兵惨敗した徳川軍。ナレーションにもありましたが、この戦いにおける徳川軍の死者は1300余りといわれ、真田軍の死者は50名にも満たなかったとか。真田昌幸という名が天下に轟いた瞬間でした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-04-04 23:59 | 真田丸 | Trackback | Comments(4)  

真田丸 第11話「祝言」 ~室賀正武の真田昌幸暗殺未遂事件~

 徳川氏と北条氏の和睦条件である沼田・吾妻領の引渡しについて、徳川家康は再三再四、真田昌幸にこれを要請しますが、昌幸は頑なにこれを拒否します。さすがに「鳴くまで待とう時鳥」の家康もこれには業を煮やし、昌幸暗殺を画策したという逸話が伝わります。それと真田信繁の祝言を絡めたのが、今話の設定でした。


 北条氏と和睦した家康は、天正11年(1583年)から翌年にかけて上方の羽柴秀吉と対立し、小牧長久手の戦いに至るのですが、このとき家康は、同盟関係にあった北条氏に援軍を要請します。すると北条氏政、氏直親子は、ここぞとばかりに暗礁に乗り上げたままの沼田・吾妻領の引渡し問題の解決を迫ります。しかし、昌幸は相変わらずこれに応じる姿勢を見せません。しびれを切らした家康は、天正12年(1584年)6月、昌幸暗殺を計画します。

 刺客を命じられたのは、昌幸と同じ小県郡の国衆・室賀正武でした。かつて室賀氏は真田氏と同じく旧武田氏に仕え、武田氏滅亡後は織田家臣・森長可に臣従します。ドラマでは、昌幸らと共に小県郡の連合国の形成を目指していたように描かれていましたが、実際には、本能寺の変後、昌幸と正武は別行動をとり、この時期は、千曲川をはさんで北側を真田氏、南側を室賀氏が支配していました。

 江戸時代初期に編纂された『加沢記』によると、天正12年(1584年)6月、正武は家康の家臣・鳥居元忠より昌幸の暗殺を要請され、これを承諾。翌7月、上方から囲碁の名手が昌幸のもとを訪れることになり、正武も上田城に招待されます。信繁の祝言ではありません。この招きを千載一遇のチャンスと考えた正武は、一門の室賀孫右衛門を鳥居元忠のもとへ派遣し、援軍を要請します。ところが、孫右衛門はすでに昌幸に内通しており、暗殺の計画はたちまち昌幸の知るところとなります。昌幸は武田氏滅亡の直後から室賀氏の家臣の多くを調略し、そのほとんどに内通させていたといいます。そんなこととはつゆ知らず、正武はわずかな供回りを連れて上田城に参上。入城した正武は書院に通され、次の間に控えていた真田家臣によって殺害されました。

 家康が正武に昌幸暗殺の密命を下したという逸話は、主に軍記物に記されているのみで、確実な史料に乏しいようですが、正武が昌幸によって殺害されたというのはまぎれもない史実です。二人がどのような間柄だったかはわかりませんが、この時期、昌幸は正武を亡き者にしなければならないなんらかの理由が生じたのでしょう。このあと室賀一族が徳川氏の甲斐国に亡命していること、そしてこれを機に真田氏が徳川氏と断交し、上杉氏の配下に転じる道を探り始めたことなどからみて、家康の昌幸暗殺未遂の逸話は、じゅうぶんにあり得ると思えます。

 昌幸と正武の囲碁のシーンは見応えがありましたね。囲碁もまつりごとも、相手の意を読み裏をかく心理戦。囲碁では正武のほうが上段者でしたが、策略では昌幸のほうが上手でした。囲碁には、下段者が黒石で先手を打つというルールがあります。
 「わしに勝ったことがないではないか。」
といった正武は、当然、白石で後手。すべての計略を見透かされ、
 「お主の負けじゃ。わしの家来になれ。」
と昌幸に言われた正武は、
 「わしの勝ちじゃ。」
と言って白石をおく。このあたりの演出、ディテールはみごとでした。

 昌幸も正武も、中小企業の経営者として大企業に押しつぶされないよう懸命にもがいていました。共存共栄なんて綺麗事を言っていると、共倒れとなります。ライバル会社を蹴落とさないと、自社が存続できません。今も昔も、中小企業の経営者の苦悩は同じですね。

 室賀正武を殺害したことにより、徳川氏との断交は不可避となります。これを機に、昌幸の目は、また北に向けられます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-22 16:23 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第10話「妙手」 ~北条軍の沼田城攻めと上田城築城~

 天正10年(1582年)10月29日、徳川家康北条氏直和睦、同盟を結びますが、このとき、両氏が出しあった和睦の条件として、北条氏は甲斐国都留郡と信濃国佐久郡を徳川方に渡し、徳川氏は、北条氏の上野国領有を認め、真田昌幸が支配する沼田・吾妻領を引き渡すというものがありました。ところが、これを聞いた昌幸は、当然納得できません。沼田・吾妻領は自分たちの手で血を流して切り取った領地であり、徳川氏から割譲されたものではないというのが、その言い分でした。至極もっともな理由ですが、徳川氏の参加に下っている立場でこれを主張することは、徳川氏との関係を悪くしかねないことです。既に上杉氏、北条氏を裏切って徳川氏に与した真田氏としては、結構な賭けだったでしょうね。事実、家康は困惑します。

 ドラマでは、沼田城明け渡しの交渉に訪れた北条氏の使者を、沼田城を任されていた昌幸の叔父・矢沢頼綱がその場で斬り殺してしまい、これに憤慨した北条氏が、沼田城攻撃を開始するというシナリオでしたね。この話が史実なのかはわかりませんが、もともと沼田領引渡しの条件は、真田氏がのまなければ、北条氏が力ずくで奪い取ってもかまわないというのが徳川氏との約束で、北条氏にしてみれば、正当な武力行使でした。当然、家康が真田を援護することはなく、高みの見物です。

 北条軍が攻撃を開始したのは、年が明けた天正11年(1582年)2月のことでした。矢沢頼綱は沼田城に籠城し、岩櫃城を任されていた昌幸の嫡男・真田信幸と連携して一歩も引かぬ徹底抗戦を展開します。さすがの北条軍も、沼田城の頑強な抵抗に手を焼きます。

 同じ頃、真田氏は北の上杉氏とも睨み合っていました。真田氏が徳川氏の傘下に入り、その徳川氏が北条氏と同盟を結んだことを受け、北信濃の上杉領の危機と判断した上杉景勝は、警戒を強めます。そして、真田領を見下ろすようにそびえる虚空蔵山の山頂にある虚空蔵山城の防備を固めます。これを受け、昌幸の弟・真田信尹は上杉氏の家臣・島津忠直に向けて、信濃侵攻の意図はないとの書状を送りますが、その直後の3月21日、昌幸は虚空蔵山城に奇襲をかけます。おそらく、兄弟しめしあわせての策だったでしょう。この奇襲で、上杉方は甚大な被害を受けたといいますが、かろうじて真田軍を撃退し、城を守りきります。

 ドラマでは、この上杉攻めが真田信繁の仕組んだ芝居だったとされていましたね。この戦いで真田軍を撃破した上杉軍が、南下して沼田城に攻め込むとの流言をばらまき、みごと沼田城を包囲する北条軍を撤退させることに成功します。しかし、実際にはそのような事実があったとは考えられず、すべてドラマのオリジナルです。史実では、下野国南部と東上野で反北条氏の勢力が叛乱を起こし、北条軍はその対応のために、沼田城攻めを一時中断せざるを得なくなったからでした。また、沼田城を守る矢沢頼綱に上杉氏から帰属を促す書状が届き、これを受けた頼綱が、帰属を条件に援軍を求めたともいいます。実際に上杉の援軍を得られたかどうかは定かではありませんが、いずれにせよ、この戦に信繁が関わったという史料は存在しません。まだ15~6歳ですからね。あるいは、この頃に初陣を果たしていたかもしれませんが、重責を任されるようなことはなかったでしょう。面白い設定ではありましたけどね。

 上田城の築城が開始されたのは、この戦いの真っ只中の天正11年(1583年)4月のことでした。その普請を家康から任されたのが昌幸だったといわれますが(異説あり)、当初は上杉氏を牽制するための徳川方の城として築かれたものが、のちに真田氏が上杉方に付いたことにより、逆に徳川方と対峙するための戦略拠点となります。つまり、昌幸は徳川氏の支援を受けて、徳川氏と戦うための城を自領に築いたわけです。これが、ドラマのように築城当初から徳川氏を裏切ることを想定していたのか、あるいは、結果的にそうなったのかはわかりません。もし、前者なら、やはり昌幸という人物はそうとうなしたたか者ですね。いずれにせよ、家康はこのとき、のちに昌幸に二度の敗北を喫することになる舞台を、自らの支援で築いたわけです。歴史って面白いですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-15 00:00 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)