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真田丸 第37話「信之」 ~関ケ原の戦い・第二次上田合戦エピローグ~

 第二次上田合戦徳川秀忠軍を撃破した真田昌幸・信繁父子でしたが、誤算だったのは、慶長5年(1600年)9月15日に起きた関ケ原の戦いがわずか1日で決着がつき、西軍の大敗に終わったことでした。信繁の舅・大谷吉継は壮絶な最期を遂げ、石田三成、小西行長、宇喜多秀家らは戦場から落ち延び、大坂城にて豊臣秀頼を守っていた毛利輝元は、大坂城を退去して徳川家康に恭順の意を示しました。家康は9月22日に輝元と和睦し、27日には大坂城に入城します。家康の大勝でした。

e0158128_19301095.jpg 石田三成は間もなく捕縛され、10月1日、京の六条河原で小西行長、安国寺恵瓊らと共に斬首されます。享年41。三成の処刑に際しては、数々の逸話が伝わります。たとえば、処刑直前の三成が、警護の人間に喉が乾いたのでを所望したところ、「水はないので、代わりに柿を食せ。」と言われ、これを聞いた三成は「柿は痰の毒だ!」といって拒否します。これを聞いた警護の者は、「いまから処刑される者が毒を気にしてどうする。」と笑いますが、三成は「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ!」と、泰然としていたといいます。

また、別の逸話では、処刑前の三成、行長、安国寺の3人に、家康が小袖を与えた際、他の二人は有りがたく受け取りますが、三成は「この小袖は誰からのものか?」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様になったのか。」と言い放ち、受け取らなかったといいます。これらの逸話がどこまで実話かどうかは定かではありませんが、江戸期を通じて天下の大悪人に仕立て上げられてきた三成でありながら、このような賞賛すべき伝承が残されていることを思えば、遠からずの立派な最期だったのかもしれませんね。

e0158128_02592871.jpg 西軍の敗北を知った真田昌幸は、それでも戦いをやめようとせず、9月18日、上田城に近い虚空蔵山城坂木葛尾城に陣を布いていた森忠政の軍勢に夜襲を仕掛け、さらに23日には、信繁率いる軍勢が坂木葛尾城を攻めます。ドラマでは父を抑えていた信繁でしたが、実際には、信繁が先頭を切って軍事行動を起こしていたようです。昌幸らにしてみれば、自分たちは秀忠軍を撃破していたわけですから、敗北を認められなかったのでしょう。しかし、最後の悪あがきもここまで。嫡男・真田信幸の説得もあって、渋々降伏します。ドラマで昌幸は廊下に拳を打ち続けて悔しがっていましたが、たぶん、400年前の昌幸も、あんな感じだったんじゃないでしょうか・・・。そりゃ悔しいでしょうね。勝ってたんだから・・・真田は・・・。

e0158128_02593024.jpg 昌幸・信繁が降伏すると、ひとり徳川方についていた信幸は、懸命にふたりの助命嘆願を訴えます。家康にしてみれば、二度も煮え湯を飲まされた昌幸を許さず、殺すつもりだったといいます。しかし、信幸の懸命な訴えに、舅の本多忠勝の援護も加わり、どうにかこうにか命だけは助けられました。ドラマでもありましたが、このとき忠勝は、「もし真田父子に死を与えるというのであれば、某は婿の信幸とともに真田父子を支援して上田城に籠り、主君・家康と戦うも辞さぬ」と言い放ち、家康を驚かせたと伝わります。よほど、婿の信幸のことを気に入っていたんでしょうね。

 信幸は父と弟の命乞いの代償として、「信之」に改名します。これについて、多くの小説などでは、父から受け継いだ「幸」の字を使うことを憚り、自ら改名したように描かれてきましたが、今回のドラマでは、家康から「捨てよ」と命じられての改名でしたね。それに対して、「文字」は変えても「読み」は変えないという信之なりの意地だったと・・・。この設定、なかなか良かったんじゃないでしょうか?

 かくして昌幸・信繁父子の流罪が決まり、紀州高野山の麓、九度山に流されます。その後、家康はよほど上田城が目障りだったのか、徹底的に破壊したといいます。そのせいで、真田時代の上田城の遺構は、ほとんど残されていません。

 昌幸・信繁が上田を後にしたのは慶長5年(1600年)12月13日のことでした。昌幸は信之と別れるに際して、「それにしても悔しい限りだ。家康こそこのような目にあわせてやろうと思っていたのに」と嘆き、悔し涙を流したと伝わります。昌幸54歳、信繁34歳でした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-20 23:38 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第34話「挙兵」 ~七将襲撃事件~

  石田三成徳川家康暗殺未遂事件からわずか1か月余りの慶長4年(1599年)3月3日、太閤死後に豊臣秀頼の後見役を務めていた前田利家が病没します。五大老の一角として唯一、家康と対等に渡り合うことができ、さらには、武断派、文治派の双方から人望に厚かった利家の死によって、それまでなんとか保たれていた均衡が一気に崩れ、予てから「三成憎し」で団結していた武断派の加藤清正、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、脇坂安治の七将が暴発。三成を殺害すべく襲撃します。


しかし、この動きを事前に察知した三成は、佐竹義宣の協力を得て屋敷を逃げ出し、伏見城に逃げ込みます。この騒動を収拾したのが、徳川家康でした。家康は武断派を説得して鉾を収めさせ、襲撃した武断派が三成の身柄引き渡しを要求したため、三成を蟄居にすることで手を打たせます。そして閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康の警護のもと佐和山城に戻り、謹慎生活となりました。こうして三成は政治の表舞台から遠のくことになります。


e0158128_19301095.jpg この経緯のなかでの有名な逸話として、武断派の襲撃を受けた三成が、敵である家康のもとに助けを求めて単身乗り込み難を逃れたという話がありますよね。このエピソードから、三成が単に小賢しいだけのインテリ官僚ではなく、豪胆な一面を持った武将だったという印象を受けます。石田三成という人物を描く上で欠かせないエピソードといえますが、今回のドラマでは、この逸話は採用されませんでした。というのも、この話は最近では否定的な見方が強いようです。この説の典拠となっている史料はすべて明治以降のもので、それ以前に成立した史料には、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはないからだとか。まあ、たしかに、あまりにもリスキーな選択で、合理主義の三成としては、冒険的すぎる行動といえます。小説やドラマなどでは、ここは三成のいちばんの見せ場なんですけどね。


e0158128_21350278.jpg ただ、血気にはやる武断派との間の調停役を家康が引き受け、騒動を収拾したというのは史実のようです。ドラマの時代考証を担当されている丸島和洋氏のツイッターによれば、このとき、家康に事態収拾の協力を要請したのは、大谷吉継だったといいます。今回のドラマで、吉継が娘婿の真田信繁を家康のもとに派遣したのは、その動きを下敷きにしたストーリーだったわけですね。実際、このとき吉継はがかなり進んでいて動きづらかったでしょうから、使者を通じての協力要請だったかもしれません。信繁の動きは、まったくもって荒唐無稽フィクションではなかったんですね。


 この事件を収拾したことにより徳川家康はその影響力を拡大し、一方で石田三成は一時失脚します。一説には、すべて家康の描いたシナリオ、家康自身がこの事件の黒幕だった・・・なんて俗説もありますが、いかがなものでしょう。いずれにせよ、この武断派と文治派の対立が家康にとって有利にはたらいたことは間違いありません。これ以降、豊臣政権の政務は家康が一手に握ることとなります。


 三成が失脚して約1年が過ぎた慶長5年(1600年)4月、会津国の上杉景勝が、家康との対立姿勢を露わにします。家康は上杉家に対して何度も上洛を促す使者を送りますが、景勝は病気と称してこれを拒否しつづけ、一方で、領内の城の補修工事を進めます。この態度から、上杉家は謀反の疑いをかけられるのですが、上杉家家老の直江兼続は、その釈明のための書状を家康に送ります。しかし、その書状には、家康を痛烈に非難した内容が書かれていたといわれ、それを読んだ家康が激怒し、上杉討伐を決定します。世に言う「直江状」ですね。歴史はいよいよ、関ヶ原の戦いに向かいます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-29 22:54 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第33話「動乱」 ~家康襲撃未遂事件~

 太閤亡きあと、五大老筆頭であるはずの徳川家康が、法度に反して諸大名との縁組を次々と行った問題で、慶長4年(1599年)1月19日、家康以外の四大老・五奉行は、伏見の徳川屋敷に詰問使を派遣します。このときの家康は、詰問使を恫喝して追い返したとも、のらりくらりととぼけてあしらったとも伝わりますが、いずれにせよ、家康は私婚の罪を認めようとはしませんでした。これに憤慨した石田三成が、家康に毅然と立ち向かいます。ドラマでは、三成が家康襲撃を企てた設定になっていましたが、別の説では、三成はもうひとりの筆頭大老である前田利家の元に集結し、軍備を整えたともいわれます。


e0158128_23084082.jpg これを受けて、徳川屋敷にも家康を支持する大名たちが集まり、警固が行われます。ここに、情勢は一触即発のムードとなりました。このとき、三成側についたのは、四奉行のほか、宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝、佐竹義宜、小西行長、長宗我部盛親らで、一方の家康側についた大名は、伊達政宗、福島正則、池田輝政、藤堂高虎、黒田長政、加藤清正、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長等で、ドラマにあったように、大谷吉継も、この時点では徳川方につきます。一般に、三成と吉継は無二の親友だったといわれますが、実際には、二人の友情に関するエピソードは、すべて後世に作られたものだそうで、どこまで心を寄せていたかは定かではありません。この時点での吉継の考えは、家康を支えることで、豊臣政権を盤石なものにするというものでした。ただ、最終的に関ケ原の戦いでは三成方につくわけですから、吉継自身、迷いのなかだったのかもしれませんね。

 で、その吉継との関係もあってか、ドラマのとおり真田昌幸、真田信幸、そして、ドラマでは三成に与していた真田信繁も、実は、このときは徳川屋敷の警固に加わっています。のちに犬伏の別れで敵味方に分かれる真田家ですが、この時点では、まだ一枚岩だったようですね。昌幸にしてみれば、勝負どころはまだ先にあるとみていたのでしょうか?

e0158128_19301095.jpg それと、今回のドラマでの石田三成と加藤清正の間柄は、今までにない微妙な関係ですね。一般に、清正と三成は犬猿の仲で、清正や福島正則武断派の三成に対する憎悪が、関ケ原の戦いの導火線になったと描かれることが多いですが、今回のドラマの清正は、いまの時点では三成を憎んではいないようです。この関係を、このあとどのように関ケ原の対立に持っていくのでしょうか? その前に、次週描かれるであろう「七将襲撃事件」にどう結びつくのか、興味深いです。


 それにしても、三成の不器用さが歯がゆいですね。清正が何度も歩み寄ろうとしているのに拒絶したり、宇喜多秀家を侮辱したような発言をして、「どうにもイラッとさせられる男だ」と言われたり、細川忠興を味方に引き入れようとして、逆に怒らせてしまったりと、人の心を読み取れないというか、デリカシーがないというか、こんなんでよくまあ、秀吉に気に入られたなあ・・・と。見ていて切なくなります。

吉継「徳川内府を殺してそのあとはどうする? おぬしは自分がまつりごとの要となるつもりか?」

三成「ほかにおらぬならば」

吉継「おぬしに人がついてくるのか?」

三成「やってみねばわからぬ!」

吉継「ならば今宵、どれだけの大名がおぬしに従った?」

もし、三成に人を引きつける能力があれば、歴史はどうなっていたでしょうね。

まあ、三成の性格がどうこうというより、家康の老獪さの前では結果は同じだったかもしれませんが。

関ケ原の戦いは、すでに始まっていました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-22 23:59 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第32話「応酬」 ~石田三成の人物像~

 豊臣秀吉は、ただちには発表されませんでした。その理由は、今なお朝鮮10万の将兵が留まったままで、戦場を混乱させないための配慮でした。慶長3年(1598年)8月25日、五大老(老衆)として秀吉亡きあとの豊臣政権を担っていた徳川家康前田利家は二人の使者を朝鮮に遣わし、講和を進めてすみやかに兵を撤退させるよう命じます。そして、石田三成、浅野長政、毛利秀元の三人を筑前博多に派遣し、大陸より兵の撤収に当たらせます。


e0158128_19301095.jpg ドラマでは描かれていませんでしたが、この撤収作業がきわめて困難で、釜山に兵を集めて順次渡海を始めたのが11月初旬。しかし、その頃になると秀吉の死を朝鮮も嗅ぎつけており、朝鮮水軍が退路をはばんで襲撃してきます。しかし、李氏朝鮮の将軍・李舜臣の死によって朝鮮方は軍の統制を欠き、撤退軍はようやく退路の難を打開しました。そして12月10日、殿軍の島津義弘が博多に到着したのを最後に、全軍の撤退を完了します。


 このとき、撤収のための船舶の配置などを統括したのが石田三成でした。このときの三成の采配は見事なもので、実に無駄なく的確な仕置だったと伝わります。三成の手腕がとくに発揮されたエピソードですが、しかし、この慶長の役での三成の采配が、加藤清正福島正則黒田長政武断派といわれる諸将からの反感を買い、それがやがて関ヶ原での勢力図へとつながっていくんですね。


清正「わしらが海の向こうで戦ってるとき、おぬしらはこっちで何をしとった!」

三成「後ろで算段をするのも戦のうちだ!」


 たぶん、実際にもこれに似たやり取りがあったのでしょうね。もっとも、現場と事務方の相容れぬ関係というのは、現代社会でも少なからず存在する問題です。事務方はできるだけ合理的に仕事を進めようとしますが、現場は現場でしかわからない不合理の必要性を主張します。これを解決するには、双方が存在意義を認め合うしかないのですが、これは、なかなかできることじゃないんですよね。ましてや、その現場が命を懸けた戦場となれば、なおさらだったでしょう。


三成「徳川が既に動き出しておる。これからの豊臣は我らにかかっておる。おぬしは案外、城造りもうまいし、領内の仕置きも確かだ。ただの戦ばかではない。われらで秀頼様をお支えし、殿下亡きあとの豊臣家をお守りしていこうではないか!」

清正「お前には言いたい事が山ほどある。・・・が、あえて言わぬ。われらで秀頼様をお支えし、豊臣家をお守りしようではないか!」

三成「だから、それはいま、わたしが言った!」


 思わず笑っちゃいましたが、結局何が言いたいかっていうと、同じ「臣家をお守りしようではないか!」という言葉でも、三成が言うと、どこか上から目線の命令口調に聞こえる・・・。そういうことですよね。実際の三成がどういう人物だったかはわかりませんが、司馬遼太郎の小説『関ヶ原』をはじめ、多くの小説やドラマで、似たような人物像で描かれていますね。ひと言多く、人の心を忖度する能力に欠けていて、したがって無駄に敵を作ってしまう性格。実際の三成も、遠からずのキャラだったんじゃないでしょうか。


 秀吉が死ぬやいなや、徳川家康は次第に勢威を強めて不遜となり、六男の忠輝伊達政宗の娘を娶らせたのをはじめ、福島正則蜂須賀家政などの子とも縁組を進めるなど、あからさまな味方づくりを開始します。この目に余る法度違反に対して三成と利家は、慶長4年(1599年)1月19日、家康以外の四大老・五奉行が、家康の違反行為に対して詰問使を派遣し、五大老の席から外すことも辞さないことを伝達します。ドラマでは、伏見城の評定の場で詰問するという設定でしたね。しかし、このときは家康の老獪な対応であしらわれてしまいます。これに毅然として楯突いたのが、三成だったんですね。ここからしばらくは、三成が主役の物語になりそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-16 23:59 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第31話「終焉」 ~秀吉の遺言状~

e0158128_20022019.jpg 朝鮮での戦が長引くなかの慶長3年(1598年)初夏、床に臥せりがちだった豊臣秀吉の体調はいよいよ悪化の途をたどります。さすがに死期を悟った秀吉は、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、自身の死後の体制固めを懸命に行いはじめます。今回のドラマの秀吉は痴呆がひどくなっているため、それを推し進めたのが石田三成だったという設定でしたね。実際に秀吉がボケていたかどうかは定かではありませんが、それにしても秀吉にとって気がかりなのは、ただただ、まだ6歳秀頼の前途のみでした。思い余った秀吉は、伏見城に徳川家康を呼び寄せ、自身の死後は秀吉の後見人になるよう懇願します。最も信用が置けない人物を秀頼の最も近くに置き、逆心を封じ込めようとの考えからでしょうが、その約束を家康が守ってくれる保証などどこにもありません。

ドラマで、家康や三成が寄ってたかって秀吉に書かせていた遺言状は、実際に現存するものです。

 「秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく 八月五日 秀吉印」
 「いへやす(徳川家康) ちくせん(前田利家) てるもと(毛利輝元) かけかつ(上杉景勝) 秀いえ(宇喜多秀家) 万いる 返々秀より事 たのミ申し候 五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上」

 五大老に向けた秀吉の遺言状です。ドラマでは、いさい五人物ニ申わたし候」という部分と「以上」を、三成があとから書き加えさせてましたね。その解釈でいえば、最初の「五人の衆」五大老のことで、あとの「五人の物(者)」は、五奉行ということになります。そんな風に読み下したことはありませんでしたが、たしかに、そうとも取れます。現存する遺言状というアイテムを使って独自に解釈し、秀吉の死の局面に際しての政治を描くあたり、さすが三谷さん、秀逸です。


 多少コミカルに描いてはいましたが、それにしてもこの遺言状、天下人の最後のメッセージとしては、あまりにも無様で哀れな内容ですね。とにかく「秀頼のことをよろしく頼む」と、手を合わせるようにして五大老らに頼み続けている様子は、同じく子を持つ親としては少なからず共感できなくもありません。むろん、戦国時代の中を戦い抜いて天下人となった秀吉のことですから、主家である織田信長の子に対して自らのとった仕打ちを思えば、誓紙口約束など何の役にも立たないことはわかっていたでしょう。わかってはいても、そうするしかなかった・・・そこが、秀吉の最期の悲痛さです。

 この遺言状が書かれた約2週間後の慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉はその
劇的な生涯に幕を閉じます。享年62歳。
 その辞世の句は、

 つゆとをちつゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
 (露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢)


 実に見事な辞世ですよね。意訳するのは無粋かもしれませんが、「なにもかもが夢であった。今となってはな・・・」といったところでしょうか。日本史上最大の立身出世を遂げ、位人臣を極めた男が、最期に辿り着いた境地がこの歌だったというところに、豊臣秀吉という人物の魅力を感じ取ることができます。まるで、物語のような人生であったと・・・。しかし、一方で、ほとんど狂気といえる晩年の愚行も、上記の未練タラタラの悲痛な遺言状も、豊臣秀吉という人物の一面であることに違いありません。この二重人格ともいえるアンバランスさが、秀吉という人の人間臭さを表しているような気がします。


 秀吉の最期は、豪壮華麗な伏見城での臨終でした。数限りない武将を戦場で無念の死に追いやってきた男は、まことに平和で安らかな臨終を迎えられる立場に恵まれながら、人を信じられず、我が子の行く末を案じ、最期は狂乱状態であったともいわれます。志半ばで戦場に散った武将たちと、権力も昇りきれるところまで昇りつめた豊臣秀吉の、どちらが幸せな死に際であったか・・・。人の幸せのあり方について、あらためて考えさせられます。


 石田三成の家康暗殺計画は、小説やドラマなどではよく描かれますが、事実かどうかは定かではありません。司馬遼太郎『関ケ原』では、三成に家康暗殺を進言したのは側近の島左近で、三成がそれを承知しなかったため、左近が単身家康を暗殺しようとしますが、未遂に終わります。今回のドラマでは死に際のおびえた秀吉が三成に命じるという設定でしたね(あの夢枕に立った少年は万福丸でしょうか?)。まあ、それも考えられなくもありませんが、いずれにせよ、秀吉の死に際しての政局が、それほど緊迫した状況にあったことはたしかでしょうね。次回から、その政局が描かれます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-08 21:35 | 真田丸 | Trackback | Comments(4)  

真田丸 第23話「攻略」 ~東山道軍の進軍~

 天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉は総勢23万という大軍を引き連れ、北条氏政・氏直父子の居城・小田原城に向かいました。一方の北条軍は、小田原城に惣構を築いて迎え撃つ体制を整えます。かつては上杉謙信武田信玄ですら落とせなかった難攻不落の小田原城。兵糧武器弾薬は豊富に備蓄され、100ヶ所以上ある支城とのネットワークを活用すれば、豊臣軍とて跳ね返せる自信があったのでしょう。しかし、九州も平定して天下統一目前の豊臣軍は、これまでの敵とはすべてにおいて桁違いでした。


 豊臣軍は北条攻めの軍勢を大きく2つに分けます。ひとつは、秀吉本隊とともに東海道を進軍する主力軍20万で、もうひとつは、前田利家軍、上杉景勝軍を中心とする東山道軍3万5千。ドラマで描かれていたように、徳川家康の与力である真田昌幸は、本来であれば家康とともに東海道軍に加えられるはずでしたが、石田三成が示した陣立てでは、北国勢に組み込まれます。その理由は、ドラマのように家康が信用出来ないから・・・ではなく、碓氷峠から上野国という真田家本領をルートとしていたからでしょう。


 北国勢における真田軍の活躍があまり描かれなかったので、ここで簡単に追っていきます。


e0158128_23584558.jpg 東山道における北条方の防衛拠点は、碓氷峠の山麓にある松井田城でした。上野方面では、松井田城の背後には、氏政の弟・北条氏邦が守る鉢形城、そしてその支城となる箕輪城、さらに、秀吉の裁定により真田家から奪った沼田城があります。昌幸らは、まずはその重要拠点である松井田城を攻めます。しかし、城代・大道寺政繁の守りは堅く、攻城は約1ヶ月に及びました。このとき、事前に物見に出た真田信幸の部隊が敵の部隊と戦闘になり、敵将の首を上げる武功をあげたと伝わります。


 4月20日に松井田城を落として勢いに乗った真田軍ら北国勢は、箕輪城調略によって4日間で落とし、さらに他の軍と合流し、鉢形城を攻め、6月14日に落とします。城主の北条氏邦は前田家に預けられ、のちに金沢で死去します。


 箕輪城、鉢形城と、味方の兵の損傷を避けて調略で城を落としましたが、その手緩さに秀吉が怒り、次の八王子城攻めでは見せしめとして徹底的に叩くように命じられます。八王子城は北条家内では第一の実力者であった北条氏照の居城で、北条家にとっては小田原城に次ぐ重要拠点でした。このとき氏照は小田原城に籠城していたため不在でしたが、秀吉は、この八王子城を力で落とすことが、小田原城の戦意喪失に繋がると考えたのでしょう。従来の前田、上杉、真田ら東山道軍にさらに援軍を加え、総勢5万もの大軍を投入します。そのため、八王子城はわずか1日で落城。このとき豊臣軍は、降伏する者も容赦なく斬り捨て、女、子どもに至るまで、すべて大虐殺します。


 翌日には、討ち死にした武将たちのたくさんの首が小田原に届けられ、小田原城から見えるように晒されました。その中には、小田原城に籠る兵たちの妻子の首も数多くあったとか。惨いですね。さすがの氏照も、この仕打ちには声を上げて号泣したと伝えられます。


 いままで数々のドラマで北条征伐が描かれてきましたが、この「八王子城攻め」が描かれることはあまりありませんね。今回のドラマでも、やはりスルーでした。日曜8時の家族団らんの時間帯にはあまり相応しくないヘビーな内容ですが、虚構の正義を掲げた安っぽい反戦を描くよりも、こういった惨たらしい歴史的事実を描くほうが、戦争の愚かさというものを大いに喧伝できると思うんですけどね。


e0158128_21314160.jpg ドラマでは、苦戦する忍城攻めに業を煮やした石田三成が、後から司令官として現地入りし、上杉や真田ら諸将の不手際を責めて鉢形城と八王子城攻めに向かうよう指示していましたが、史実では、忍城攻めの司令官は最初から三成で、時系列から考えると昌幸たちは八王子城攻めのあと、忍城攻めに加わったと見るのが正しいと思われます。この忍城攻めは、映画『のぼうの城』でも描かれていましたが、小田原城の支城の中で唯一最後まで落城しなかった城で、三成の面目が丸つぶれとなった戦いとして知られます。


 ちなみに、この北条征伐が真田信繁初陣だったと言われ、秀吉の許しを得て北国勢の真田軍に同行したと描かれる場合が多いのですが、実際には、それを証明する確かな史料はないそうです。それもあってか、今回のドラマでは、秀吉の馬廻り衆として父・兄とは別行動でした。これは、じゅうぶんにあり得る話だと思います。しかし、北条との交渉の使者として小田原城に入るというのは、もちろん史実ではありません。もっとも、徳川家康が家臣を城内に入れて北条氏直と交渉していたことは史実なので、その役目を、主人公である信繁にやらせたということでしょう。


 ちなみにちなみに、小田原征伐に欠かせない「石垣山一夜城」の逸話は、今回はやらなかったですね。今年の大河は、「本能寺の変」「山崎合戦」といった、真田家が直接関わっていない誰もが知っているエピソードは描かないといった方針のようですね。それ自体は良いと思うのでうが、であれば、今話で八王子城攻めを描いて欲しかったんですけどね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-13 21:32 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第20話「前兆」 ~聚楽第落書事件~

 天正16年(1589年)秋、茶々懐妊が発覚します。実子跡継ぎがいなかった豊臣秀吉の喜びは、きっとたいへんなものだったでしょう。まさか、これが豊臣政権の崩壊「前兆」になろうとは、夢にも思わなかったでしょうね。

e0158128_20022019.jpg 若い頃から多くの美女を閨に侍らせたといわれる秀吉ですが、子宝に恵まれず、最晩年になってようやく茶々との間に鶴松秀頼を授かった・・・というのが、一般的に知られる通説だと思います。しかし、実はこれより20年ほど前の長浜城時代に、側室・南殿との間に一男一女がいたという説があります。女児の名は不明ですが、男児の名は秀勝。幼名を石松丸といいます。残念ながら秀勝(石松丸)は、天正4年(1576年)に7歳で病没し、長浜城下の妙法寺に埋葬されたと伝わります。後年、秀吉は織田信長の実子を養子に貰い受けた於次丸「秀勝」を名乗らせ、その於次丸が亡くなると、自身の甥である小吉を養子にして「秀勝」と名乗らせますが、それは、長浜時代の実子・秀勝(石松丸)を偲んでのことだったと言われています。結局は、「秀勝」は3人とも死んでしまうのですが。

その話が事実だったとしても、その後20年もの間、秀吉は多くの側室を置きながらも実子に恵まれなかったわけで、それが、50歳を過ぎて得た側室・茶々が懐妊したというニュースは、その当時、民の間で生じ始めていた豊臣政権に対する不平不満も相まって、いろんな憶測を呼んだようです。茶々の腹の子は、秀吉の子種ではないのではないか・・・と。露骨な噂ですが、実際、当時そのような噂が存在していたことが、ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスの記述『日本史』のなかにも記されています。まあ、誰だってそう思ったでしょうね。そんななか起きたのが、今話の聚楽第落書事件でした(落首事件ともいいます)。

 大仏の功徳もあれや槍かたな 釘かすがいは 子宝めぐむ

 ささ絶えて茶々生い茂る内野原 今日は傾城 香をきそいける

当時、秀吉は京都に大仏殿を築こうとしていたといわれますが、その大仏の功徳で、子種がなかったはずの秀吉が子宝に恵まれた・・・と。これに怒り狂った秀吉は、門番17人全員を処刑します。その処刑方法は、まずをそぎ落とし、翌日にはをそぎ落とし、さらに翌日には逆さに磔して処刑したとか。残忍極まりないといっていいでしょう。

ドラマでは、容疑者となって本願寺に逃れていた尾藤道休が死んだという報せが届き、真田信繁の機転でその道休を犯人に仕立てて事態の収集を図ろうとしますが、実際には、本願寺の僧・顕如が、事態の収集のために道休を自害させ、首を差し出したといわれています。それでも秀吉の怒りは収まらず、道休の一族もろとも処刑するよう命じますが、ドラマでは、必死に秀吉を止めようとする石田三成の諫言と、北政所茶々の助け舟によって、ようやく一件落着となりました。しかし、史実ではここで終わらず、道休の一族はもちろん、道休と同じ町に住んでいた60余人犯人隠匿の罪で囚えられ、居宅を焼き払われ、磔のうえ処刑されています。その数、総計113人に及んだとか。秀吉の悪政のはじまりです。

 信繁「実のところ、あの落書は誰の仕業だったのでしょう?」

 三成「決まっておるではないか。民の仕業だ。大勢の民が殿下に対して、同じ思いを抱いた。それがあの落書になったのだ。」

落書の真犯人を特定しても何も解決しない。要は、落書を生んだ背景が何であるかが大事で、それは「世論」である・・・と。その世論の支持がなければ、豊臣政権は立ち行かないということを、三成は知っていたんですね。一昨年の『軍師官兵衛』のときの三成であれば、ここでチマチマと真犯人探しをしそうですが、今回の三成は、優れた政務官のようです。

 寧 「せめてもの罪滅ぼしです。京と大坂の人たちが喜んでくれる事を何でもよい、考えて下さいな。」

三成「かしこまりました」

信繁「思い切って金をばらまくというのはいかがですか?」

三成「いささか品がないな」

寧 「いや、それぐらいやった方がええ。殿下の子どもが産まれるんです。派手にまいりましょう。」

 この事件から約3ヶ月後の天正17年(1589年)5月20日、茶々の出産を前にして、秀吉は聚楽第南二ノ丸馬場で「金配り」を行います。その額、36万5千両といわれますから、現代の貨幣価値でいえば400億円以上。このバラマキ政策が、離れはじめていた民心をつかむためのものであったことは、想像に難しくありません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-23 16:45 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第16話「表裏」 ~信繁の直臣待遇と、大谷吉継、石田三成の逸話~

 上杉景勝に置き去りにされて取り残された真田信繁。しかし、豊臣秀吉はそんな信繁を馬廻衆に加えます。つまり、秀吉の家来になったということですね。実際にそんな事実があったかどうかはわかりませんし、何より、この時期に信繁が大坂入りしていたかどうかも定かではありませんが、のちに秀吉が信繁を人質の枠を超えて直臣なみに厚遇したというのは事実です。一般的には、信繁ははじめ豊臣家に人質として送られたといわれますが、一説には、そもそも最初から人質ではなく、秀吉に召し出されて出仕していたとの見方もあります。

 その理由としては、こののち真田昌幸の正室・山之手殿が大坂に人質として送られてくることがあげられます。真田家から2人の人質が差し出されるというのは不自然であり、正式な人質は山之手殿だけだったんじゃないかと考えられます。また、のちに信繁は秀吉によって従五位下・左衛門佐に任官され、さらに、秀吉の家臣である大谷吉継の息女を妻に迎えることになるわけで、これは、人質としては破格の待遇といえます。はじめは人質だったのが、途中から直臣扱いになったのか、あるいは、はじめから家来として召し出されたのか、いずれにせよ、秀吉が信繁に肩入れしていたのは事実でしょう。馬廻衆に加えられたという話も、あってもおかしくはありません。

e0158128_23084082.jpg のちに義父になる大谷吉継ですが、よく知られている吉継の姿は、顔を頭巾で隠した容貌ですよね。その理由は、吉継は当時、ハンセン病(癩病)もしくは梅毒を患っており、顔が崩れていたためと言われています。ところが、本ドラマでの吉継は、頭巾をかぶっていません。調べてみると、近年、吉継のハンセン病説を否定する見方が強くなってきているそうです。というのも、吉継が病のため頭巾を被っていたという描写は、江戸中期頃までの逸話集には出てこないそうです。たぶん、このドラマでは、その説を採ったのでしょう(幕末に描かれたこの浮世絵でも、頭巾は被っていませんね)。ただ、目を患っていたのは事実のようで、文禄3年(1594年)に直江兼続宛に出された書状に、そのことを示す記述が存在するそうです。この時期より15年以上先の話ですが。

 石田三成と昵懇だったといわれる大谷吉継ですが、二人の友情について、こんなエピソードがあります。あるとき、秀吉が主催した茶会において、出席した豊臣諸将は茶碗に入った茶を一口ずつ飲んで次の者へ回していったのですが、吉継に茶碗が回ってきたとき、顔から膿が茶碗に落ちたといいます。これを見た周りの諸将は、感染を恐れて茶碗に口をつけず、飲むふりだけをして隣にまわしていきますが、このとき三成だけは、平然と茶を飲み干したといいます。これを見た吉継は大いに感激し、以後、三成のいちばんの理解者となり、やがて関ヶ原の戦いに至った・・・と。この話が事実かどうかは定かではありませんが、吉継のハンセン病説が否定されると、この話もなかったことになりますね。三成の人となりを知る上で重要なエピソードだけに、少し残念な気もします。

 今話は特に話の進展がなかったので、余談めいた話を場当たり的に綴ってみました。それにしても、真田信繁、石田三成、片桐且元の絡むシーンを観ていると、山南敬助、土方歳三、井上源三郎に見えてしまうのはわたしだけでしょうか? それと、信繁と吉継のシーンも、半沢直樹黒崎検査官に見えてしまいます(笑)。吉継はオネエキャラではないようですが(笑)。

 以上、今回は余談に継ぐ余談でした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-04-25 23:13 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(4)  

軍師官兵衛 第47話「如水謀る」 ~関ヶ原の合戦序章と長政・糸の離縁~

 石田三成が政治の表舞台から失脚したことで、表面的には沈静化したように見えた豊臣政権内の勢力争いですが、水面下では、双方味方集めの工作合戦が繰り広げられており、事態はいよいよきな臭いムードが漂いはじめます。

 慶長5年(1600年)、三成と昵懇だった(といわれる)会津国の上杉景勝が、徳川家康との対立姿勢を示します。家康は上杉家に対して何度も上洛を促す使者を送りますが、景勝は病気と称してこれを拒否しつづけ、一方で、領内の城の補修工事を進めます。この態度から、上杉家は謀反の疑いをかけられるのですが、上杉家家老の直江兼続は、その釈明のための書状を家康に送ります。しかし、その書状には、家康を痛烈に非難した内容が書かれていたといわれ、それを読んだ家康が激怒し、上杉討伐を決定します

 家康が上杉討伐のため東国に向かったことによって、大坂はガラ空きとなり、その隙をついて三成が挙兵。そして関が原の合戦へと繋がっていくわけですが、この一連の流れは、三成と直江兼続が事前に密謀を交わし、家康を東西から挟み撃ちにする企てだったという説があります。ドラマでも、黒田官兵衛がその謀略を見抜いた上で、三成に作戦の甘さを忠告していましたよね。実際に官兵衛が見抜いていたかどうかはわかりませんが、反家康を表明している二人の挙兵があまりにも出来すぎなタイミングで行われていることや、三成が兼続に宛てた手紙に「密約」を匂わす文章があることなどから、この説を推す歴史家の方も少なくありません。

 一方で、二人の共謀説に否定的な意見も多く、その理由としては、当時、上杉家は新領国に国替えをして間もない時期であり、資金面から考えても、大戦を挑むなんてあり得ないというもの。現在では、こちらの説のほうが有力だそうです。どちらが真実かはわかりませんが、密約があったとする方が、ドラマチックではありますよね。ただ、その更に上手だったのが家康で、三成の挙兵を誘うため、あえて大坂を空にしたとする説。つまりは、三成と兼続の仕組んだ罠も、すべて家康が描いたシナリオだったという見方です。ドラマでも、この説を採っていましたね。晩年の権謀術数に長けた家康なら、それも考えられなくもないかもしれません。しかし、当時の状勢で言えば、まだ西軍(三成方)の方に分があった段階で、家康にそんな余裕をかますゆとりはなかったようにも思えます。結果を知っている後世の私たちは、歴史上の出来事をひとつの物語として繋ぎあわせて、そこに関連性を求めて理由付けをしたくなりますが、実際には、それぞれがそれぞれに個々の保身利益のために動いた結果が、歴史を作っているものなんじゃないかと思います。すべては偶然が重なって生まれたものなんじゃないかと・・・。

 有力大名との婚姻を進めて味方づくりを図っていた家康は、その狙いを黒田長政にも向け、自身の養女である栄姫を長政の正室として嫁がせます。これにより、16年連れ添った離縁することになるのですが、現代の感覚で言えば理解し難い行為ですが、この時代の常識で言えば、やむを得ない選択だったといえるでしょう。家康の意向には逆らえないといった理由もあったでしょうが、糸との間には16年間で娘がひとり生まれただけであり、「嫁して三年子無きは去れ」という当時の常識から思えば、黒田家にしてみれば家康の申し出は糸を離縁する大義名分になったかもしれません。実際、後に長政と栄姫の間には、忠之、長興、高政という3人の男子が生まれます。糸には気の毒な話ですが、黒田家にとっては、結果オーライの縁談だったといえます。

 ただ、そうは言っても、当時としても一方的な離縁は不条理な仕打ちではあったようで、この離縁によって糸の実家の蜂須賀家は怒り心頭となり、以後150年に渡り黒田家と蜂須賀家は絶交状態となります。

 糸はその後、蜂須賀家領国の阿波国で暮らし、長政より20年以上長生きします。その娘であるは黒田家に残り、井上九朗右衛門の嫡男・井上庸名の正室になったと伝えられます。黒田家と蜂須賀家が不通関係である以上、糸と菊はその後会うこともなかったでしょうね。きっと菊の幸せだけを祈りながらの余生だったことでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-26 20:17 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(0)  

軍師官兵衛 第46話「家康動く」 ~石田三成襲撃事件~

 豊臣秀吉の死後、天下の政は五大老五奉行の合議制で行われます。今で言う内閣のようなものですね。しかし、実質的には、莫大な領地と高い官位を持つ二人の長老、徳川家康前田利家が権勢をふるい、そこに五奉行の筆頭的立場である石田三成が加わった三者が実権を握って進められます。ただ、そのトップである内閣総理大臣的立場の者がおらず、さらに、家康と三成はそもそも秀吉の生前から折り合いが悪かったため、そんな不安定な内閣が上手く機能するはずがありません。案の定、秀吉の死から半年も経たないうちに、早くも体制は崩れはじめます。

 そのキッカケを作ったのは徳川家康。秀吉が死ぬやいなや家康は、秀吉の生前に禁止と定められた大名間の婚姻を無断ですすめ、着々と味方づくりを始めます。そんな挑発ともとれるあからさまな専横行為に、三成ら反家康勢は大いに憤慨し、前田利家のもとに集結。情勢は一触即発のムードとなります。しかし、このときは利家と家康の間で和解が成立し、なんとか衝突は避けられました。このとき利家を説得したのが、ほかならぬ黒田官兵衛だったといいます。このあたり、『黒田家譜』によると、

「奉行衆利家卿をすゝめて、内府をほろぼし奉らんとする謀、別の儀にあらず。今天下の両雄は、内府と利家なり。利家を大将として内府を討たんとす。内府亡び給はゞ天下にこはき人は利家一人なり。利家は老人にて病者なれば、やがて逝去し給べし。」

 と説いた上で、

「今の世に内府をほろぼさんとする事は、蟷螂が車を遮るに異ならず。今利家卿等が邪謀の欺かれ給はん事、謀の拙き所なり。いそぎ利家卿内府と和睦し給ふべき由をいさめ給へ。」

 と諌めています。ほぼドラマのとおりですね。ただ、ドラマでは官兵衛が利家を直接説得していましたが、『黒田家譜』の記述では、利家の嫡男・前田利長に進言させたとあります。いずれにせよ、『黒田家譜』の記述が実話かどうかは定かではありませんが。

 和解成立からわずか1か月後の慶長4年(1599年)3月3日、利家が病没します。利家の死によって、それまでなんとか保たれていた均衡が一気に崩れ、予てから三成憎しで団結していた武断派の加藤清正、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、脇坂安治の七将が暴発。大坂の前田屋敷に滞在していた石田三成を殺害すべく襲撃します。しかし、この動きを事前に察知した三成は、佐竹義宣の協力を得て屋敷を逃げ出し、伏見城に逃げ込みます。この騒動を収拾したのが、徳川家康でした。家康は武断派を説得して鉾を収めさせ、襲撃した武断派が三成の身柄引き渡しを要求したため、三成を蟄居にすることで手を打たせます。そして閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康の警護のもと佐和山城に戻り、謹慎生活となりました。こうして三成は政治の表舞台から遠のくことになります。

 この経緯のなかでの有名な逸話として、武断派の襲撃を受けた三成が、敵である家康のもとに助けを求めて単身乗り込み、難を逃れたという話があります。このエピソードから、三成が単に小賢しいだけのインテリ官僚ではなく、豪胆な一面を持った武将だったという印象につながっています。このたびのドラマでも、この逸話を採っていましたね。石田三成という人物を描く上で欠かせないエピソードといえますが、残念ながらこの逸話は、最近では否定的な見方が強いようです。というのも、この説の典拠となっている史料は明治以降のもので、それ以前に成立した史料には、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはないからだとか。三成ファンの人にとっては少々ガッカリな事実だと思いますが、ただ、まったく荒唐無稽な逸話かといえば、そうとも言えないですよね。徳川に弓引いた「天下の大悪人」として蔑まれていた江戸期の史料には、三成を称える史料など存在するはずがありません。しかし、伝承レベルで巷に残っていた逸話が、三成が再評価された明治になって拾い記された・・・と考えられなくもないかなぁ・・・と。多少、そうあってほしいという願望が込められていますが・・・。

 この事件を収拾したことにより徳川家康はその影響力を拡大し、一方で石田三成は一時失脚します。一説には、すべて家康の描いたシナリオ、家康自身がこの事件の黒幕だった・・・なんて俗説もありますが、いかがなものでしょう。いずれにせよ、この武断派と吏僚派の対立が家康にとって有利にはたらいたことは間違いありません。これ以降、豊臣政権の政務は家康が一手に握ることとなります。

 そして官兵衛は・・・なるほど、そういう物語の展開で描いていくんですね。次週以降を楽しみにしたいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-17 19:57 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)