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坂の上の雲 第13話「日本海海戦」 その1

 玄界灘に沖ノ島という孤島がある。この沖ノ島付近が決戦場となることを日露両軍は予測した。沖ノ島の西方というのが、日本海軍連合艦隊の司令部が算出した会敵地点だった。日本軍は旗艦「三笠」を先頭とした単縦陣であった。敵のバルチック艦隊は二列縦陣でやってきている。午後1時39分、旗艦「三笠」がバルチック艦隊を発見した。視界がよくなかったため、発見時にはすでに距離は近くなっていた。バルチック艦隊が日本軍の前にその全容を現したのが、午後1時45分ごろ。距離はざっと1万2千メートル。戦闘は7千メートルに入ってからでないと砲火の効果があがらないという東郷の方針は幕僚たちの覚悟となっている。

 秋山真之は信号文を発した。
「皇国の興廃、此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」
 この信号文がすぐさま肉声にかわり、伝声管を通して各艦隊の全乗組員に伝わった。この海戦に負ければ日本は滅びるのだと解釈し、わけもなく涙を流す者もいた。連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、戦闘の合図が出てもなお、旗艦「三笠」の艦橋に立ったまま司令塔に入ろうとしない。仕方なく真之は加藤友三郎と共に、東郷の側に付き添うことにした。

 バルチック艦隊は北進、日本艦隊は南下していた。双方の距離が約8千メートルになったとき、東郷は世界の海戦戦術の常識を打ち破った異様な陣形を指示した。敵前でUターンをしたのである。敵の射程内に入っているのに、敵に横腹をみせ左転するという、危険極まりない陣形だった。有名な敵前回頭である。敵艦隊の前で横一列になって、敵の頭を押さえようとしたのである。真之が考案した「丁字戦法」であった。敵艦退が猛烈に撃ってきたが、日本艦隊は回頭運動を行うのみで応射しない。この運動が完了するまでの15分間は一方的に敵の集中砲火を浴びた。だが、致命傷ではなかった。

 旗艦「三笠」の旋回運動が終わったとき、バルチック艦隊は右舷の海に広がっていた。距離はわずかに6千400メートル。右舷の大小の砲がいっせいに火を吐いた。目標は敵の旗艦「スワロフ」である。敵の将船を破り、全力をもって敵の分力を撃つ。距離はほどなく5千メートル台になった。兵員の姿がお互いに見える距離である。5千メートル以内に近づくと、日本軍の命中率は更に良くなった。東郷は敵に打撃を与えながら、艦隊の進路を変えた。常に敵の進路を押さえるためである。ロジェストウェンスキーの旗艦「スワロフ」は集中攻撃を浴び、炎上している。東郷はかねて、「海戦というものは敵にあたえている被害がわからない。味方の被害ばかりわかるからいつも自分のほうが負けているような感じをうける。敵は味方以上に辛がっているのだ」というかれの経験からきた教訓を兵員にいたるまで徹底させていたから、この戦闘中、兵員たちのたれもがこの言葉を思い出しては自分の気を引き締めていた。
 司馬氏はいう。
 「古今東西の将師で東郷ほどこの修羅場のなかでくそ落ち着きに落ち着いていた男もなかったであろう」

 この日本海海戦は明治38年(1905年)5月27日から28日まで2日間続いたが、秋山真之が終生、最初の三十分間で大局が決まったと語ったそうである。さらに真之は、こうも語っている。
 「ペリー来航後五十余年、国費を海軍建設に投じ、営々として兵を養ってきたのはこの三十分間のためにあった」と。

 ロシアの戦艦「オスラービア」が沈み、旗艦「スワロフ」も自由を失った。そのなかでロジェストウェンスキー自身も傷つき、戦線の離脱をよぎなくされる。バルチック艦隊の一部はなすすべもなく、連合艦隊を突破して一気にウラジオストックへ逃げ込もうとしたが、これも発見されてしまう。負傷したロジェストウェンスキーは駆逐艦「ベドーウィ」に移ったものの、結局、夜襲とその翌日にかけ、ロジェストウェンスキーとその幕僚たちがすべて捕虜となった。海戦史上、類のないことであった。この前に、バルチック艦隊の指揮権はネボガトフに移されていたが、そのネボガトフも数多くの日本の艦隊に包囲されてやむなく降伏。5月29日未明、ロシア側で戦っていた最後の装甲巡洋艦ドンスコイが自沈。770人余りが捕虜となり、日本海海戦は終わった。ロシア艦隊の主力艦はすべて撃沈、自沈、捕獲され、バルチック艦隊は消滅した。日本海軍の被害はわずかに水雷艇三隻、信じがたいほどの完璧な勝利であった。人類が戦争というものを体験して以来、この戦いほど完璧な勝利を完璧なかたちで生みあげたものはなく、その後にもなかった。

 日本海海戦の勝敗は、各艦の性能や兵員の能力で決まったのではなかった。日本側の頭脳考え方が敵を圧倒した勝利といえた。
 一つ目は、南朝鮮の鎮海湾でバルチック艦隊の到来を待っていたとき、東郷は射撃訓練を徹底的に行ったことである。これは東郷自身の苦い経験からきたものだった。砲弾は容易にあたるものじゃない、準備と鍛錬が必要であるということを、東郷は知っていた。
 二つ目は、東郷とその部下が開発した射撃指揮法であった。砲火指揮は艦橋で行い、それに基づき、各砲台は統一した射距離で撃つのである。多くの戦艦が一斉に同じ角度で射撃するといった工夫であった。
 三つ目は、敵との距離に応じて、東郷が弾の種類を変えたことであった。遠距離のときには、炸裂して兵員を殺傷する砲弾を使い、距離が三千メートル以下になると、艦隊の装甲部を貫き、大穴をあける砲弾を使った。さらには、敵前での艦隊運動の見事さ。また、東郷が自らの艦隊を風上へ風上へと持っていったことも命中率のアップに役立った。「天佑の連続だった」と、戦後、秋山真之は語ったが、その「天佑」の裏付けには、考えぬかれた知恵とぬかりない準備が存在した。司馬遼太郎氏はいう。
 「弱者の側に立った日本側が強者に勝つために、弱者の特権である考えぬくことを行い、さらに、その考えを思いつきにせず、それをもって全艦隊を機能化した、ということである。」

 日本海海戦の惨敗によってロシアは戦争を継続する意志を失い、米国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で講和が進められていく。この仲介でアメリカは国際的な外交関係に初めて登場した。8月10日より日露両国は正式交渉に入り、9月5日、アメリカのポーツマスで講和条約は調印された。

 連合艦隊が解散したのは12月20日、その解散式において、東郷平八郎は「連合艦隊解散ノ辞」を読んだ。この草稿もまた、真之が起草したものとされている。長文であるため一部抜粋してあげると、
 「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚(さと)らば我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。」
 「惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして時の平戦に依り其責務に軽重あるの理無し。事有らば武力を発揮し、事無かれば之を修養し、終始一貫其本分を尽さんのみ。過去一年有余半彼の波濤と戦い、寒暑に抗し、屡(しばしば)頑敵と対して生死の間に出入せし事、固(もと)より容易の業ならざりし、観ずれば是亦(これまた)長期の一大演習にして之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物無く豈(あに)之を征戦の労苦とするに足らんや。」

 以下、東西の戦史の例をひき、最後は以下の一句で結んでいる。
 「神明は唯平素の鍛練に力(つと)め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を奪ふ。
 古人曰く勝て兜の緒を締めよ、と。」


 この文章はさまざまな形式で各国語に翻訳されたが、とくに米国大統領のセオドア・ルーズベルトはこれに感動し、全文英訳させて、米国海軍に頒布したという。これにより名文家・文章家として知られるところとなった真之は、のちに「秋山文学」と高く評価されるようになる。

 こうして、約1年半続いた日露戦争は終止符を打った。開戦当初、諸外国の誰もがロシアの勝利を予想した戦争に、日本はかろうじて勝利した。ロシアが自ら敗けたといった方が正しいかもしれない。ここで、シリーズ第1部5話のエンディングのナレーションが思い出される。
「やがて日本は日露戦争という途方もない大仕事に、無我夢中で首を突っ込んでいく。その対決にかろうじて勝った。その勝った収穫を、後世の日本人は食い散らかしたことになる。」

「古人曰く勝て兜の緒を締めよ」
という真之の訓示は残念ながら後世に伝わらず、“勝利のおごり”によって、やがて無謀な戦争に突き進んでいったことは、歴史の知るところである。



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by sakanoueno-kumo | 2011-12-27 03:03 | 坂の上の雲 | Comments(0)  

坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その3 ~天気晴朗ナレドモ浪高シ~

 バルチック艦隊は明治38年(1905年)1月9日にマダガスカル島ノシベに入港して以来、2ヵ月ほど放置されることになる。本国からの指令が来ないので、身動きがとれないでいた。バルチック艦隊には、旅順の陥落が伝わっている。この艦隊のもともとの戦略的価値は旅順艦隊と合流して日本艦隊を撃滅するということにあり、その旅順艦隊が全滅して原理の基盤が崩れてしまった以上、本国へ帰るべきであったかもしれなかった。だが、本国からの指令が来ない。バルチック艦隊司令長官・ロジェストウェンスキーは引き返したかった。2ヶ月も猛暑と湿気の不健康な地に留まり、艦員の誰もがこれからの行き先すらわからず、次第に士気も衰えていった。

 結局、ロシア政府はもう一艦隊を増派することにした。ネボガトフ少将率いる第三艦隊である(第一艦隊は旅順艦隊、第二艦隊はバルチック艦隊)。ただ、この艦隊は老朽艦をかき集めて構成されたもので、ロジェストウェンスキーにしてみれば、むしろ足手まといになる懸念があった。「ネボガトフ艦隊が待つに価いする艦隊なのかどうか」は、世界中の専門家は否定的であった。とはいえ、ロジェストウェンスキーが自ら第三艦隊との合流を望んだわけではなく、彼にそれをやらせているのは皇帝ニコライ二世とその皇后アレクサンドラであった。さらにいえば、皇帝に絶対的専決権をもたせてしまっているロシアの体制そのものがそれをやらせているわけであり、もしこの国の国民と将兵がこの一大愚行から抜け出そうとするなら、革命をおこすしかなかった。

 マダガスカル島にいた2ヵ月間のバルチック艦隊の心境は、まさしく秋山真之が新聞記者の取材に対して応じた答えのとおりであったかもしれない。
 「行こかウラジオ、帰ろかロシア、ここが思案のインド洋」

 その頃、連合艦隊はバルチック艦隊迎撃に向かってすべての機能が作動しつつあった。2月6日、連合艦隊司令長官・東郷平八郎は真之らを率い、列車で東京を去った。2月14日、東郷、真之らが座乗する戦艦「三笠」は呉軍港を出港、2月20日には佐世保港を出港した。目指すは、南朝鮮の鎮海湾である。ここをバルチック艦隊が現れるまでの隠れ場としたのである。真之は、バルチック艦隊は見晴らしの利きやすい5月に来てほしいと願っていた(そして、その願いは実現するのだが)。それまでの3ヶ月間、ここでひたすら射撃訓練をおこなった。

 バルチック艦隊は、3月16日になってようやくマダガスカルのノシベを出航、インド洋を東へ進んだ。20日間のインド洋航海ののち、マラッカ海峡を通過するコースをとった。マレー半島の先端にはシンガポールがある。このコースの選択は進路の秘匿といった戦略的配慮は皆無であり、英国人に艦隊の全てをさらけ出しての航海をとなった。一方のネボガトフ艦隊は2月15日にリバウを出港、喜望峰沖を通らずに地中海スエズ運河経由でやってきた。中型艦のみであるためスエズ運河を通行出来たのである。5月9日、ロジェストウェンスキー艦隊とネボガトフ艦隊はカムラン湾の少し北方のヴァン・フォン湾沖で合流。これによりロシア艦隊は、総数50隻16万余トンという巨大艦隊となった。勝敗を決する戦艦は日本側が「三笠」以下4隻しかないのに対して、ロシアは8隻であるなど、総じて数の上ではロシア側が優位にたっていた。5月14日、その巨大艦隊が最後の停泊地であったのヴァン・フォン湾を出港した。

 この後の進路ほど日本側を悩ましたものはなかった。バルチック艦隊がどこを通るのか。日本側にとっては対馬海峡ルートを通ってくれるのがもっともよいし、定石ではそうであった。だが太平洋に出て迂回するかたちでウラジオストックに向かうことも考えられた。日本に艦隊が2セットあれば両方に手当てできたであろうが、連合艦隊1セットしかない。秋山真之も当初は対馬海峡を通るとの公算をもっていたが、直前になって迷いが生じた。この悩みを増幅させたのは、いつまでたってもバルチック艦隊が現われないことであった。知らぬ間に太平洋迂回コースをたどりつつあるのではないか・・・と。それはまさに、巌流島の決闘における佐々木小次郎の心理状態であったかもしれない。そんな中、東郷平八郎だけは言い切った。「対馬海峡を通る」と。司馬遼太郎氏はいう。
 「東郷が、世界の戦史に不動の位置を占めるにいたるのはこの一言によってであるかもしれない。」

 連合艦隊は三つの艦隊に区分され、主力の第一艦隊は東郷が指揮し、第二艦隊は上村彦之丞、第三艦隊は片岡七郎が指揮をしていた。そのうちの一隻「信濃丸」が5月27日午前2時45分、バルチック艦隊のものと思われる燈火を発見した。はっきり確認した後、午前4時45分「敵艦見ゆ」と無線連絡した。実はこの時、信濃丸はバルチック艦隊のど真ん中に迷い込んでいたのである。しかし、濃霧のためかバルチック艦隊から発見されることはなかった。信濃丸の一番近くにいたのが巡洋艦「和泉」で、この和泉が敵艦隊の位置を陣形、進路などを綿密に報告した。和泉はバルチック艦隊に発見されたが、攻撃されることもなく、無線妨害もされなかった。当時世界一の無線を積んでいた仮装巡洋艦ウラルが無線妨害をしようかとロジェストウェンスキーに伺ったところ、「無線を妨害するなかれ」という答えだった。なんとも不可解な命令だった。

 信濃丸が発した「敵艦見ゆ」の無電は午前5時5分、旗艦「三笠」に届いた。このとき甲板で体操をしていてこの知らせを聞いた秋山真之は、ドラマにもあったように、動作が急に変化して片足で立ち、両手を阿波踊りのように振って「シメタ、シメタ」と踊りだしたというのである。「秋山さんは雀踊りしておられた」と、このとき三笠の砲術長で、後年、海軍大臣にまでなる安保清種が、のちのちまで人に語った。

 東郷艦隊は決戦に向かうにあたっての決意を大本営に伝えなければならない。電文は秋山真之が起草したものではなく、飯田久恒少佐や清河純一大尉らが起草したもので、「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」とあった。これを読んだ真之は「よろしい」とうなずき、もう一筆くわえた。有名な、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」である。

 後年、飯田久恒は真之の回顧談だ出るたびに、「あの一句を挟んだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない」と語った。たしかにこれによって文章が完璧になるというだけでなく、単なる作戦用の文章が文学になってしまった観があった。この「天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、戦後、一部の者に批判された。「美文すぎる」というのである。これについて海軍大臣の山本権兵衛も、「秋山の美文はよろしからず、公報の文章の眼目は、実情をありのままに叙述するにあり、美文はややもすれば事実を粉飾して真相を逸し、後世を惑わすことがある」といった。たしかに山本のいうとおりであった。これより数十年後の太平洋戦争の際には、現実認識を無視して膨張された国士きどりの美文(?)が軍隊のなかに蔓延し、それによって真相を隠蔽したりもした。

 しかし、この場合、真之は美文を作るためにこの一節を付け加えたわけではなかった。真之のこの一節は、「本日天気晴朗のため、我が連合艦隊は敵艦隊撃滅に向け出撃可能。なれども浪高く旧式小型艦艇及を水雷艇は出撃不可の為、主力艦のみで出撃する」という意味を、漢字を含めて13文字、ひらがなのみでもわずか20文字という驚異的な短さで説明しているため、短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として後年まで高く評価された(モールス信号による電信では、わずかな途切れでも全く意味の異なる文章になるため、とにかく文章は短ければ短いほど良いとされている)。また、Z旗の信号文「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も、真之の作だといわれている。

 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
 世界中が注目した日本海海戦の幕が切って落とされた。

坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その1 ~黒溝台会戦~
坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その2 ~奉天会戦~


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-23 17:14 | 坂の上の雲 | Comments(0)  

坂の上の雲 第7話「子規、逝く」

 秋山真之が外国勤務を解かれて帰国したのは、明治33年(1900年)秋のことだった。翌34年には海軍少佐に昇進した。この頃彼は、いよいよ海軍戦術の研究に熱中していたらしく、その熱心さを人に感心されると、やや照れ隠しもあってか「一生の道楽」といっていたという。軍人も官僚である以上、そういうことをしなくても日々の任務を真面目に勤めていればちゃんと昇進していける。そういう意味では、彼の戦術研究は「道楽」であったかもしれない。この当時、日本海軍には戦術家と自他ともに認められている人物は、驚くほど少なかったという。自然、真之は全てを自分でやらねばならず、中国の兵書の「孫子」「呉子」をはじめ、欧米の戦史、戦術書はもちろん、日本の戦国時代の軍書から水軍(海賊)古法まで、あらゆる兵学・軍学書をことごとく読んだ。あるとき人から、真之の戦法は古来の水軍のようだと笑いながら指摘されると、彼は無愛想に「白砂糖は、黒砂糖から出来るのだ。」と答えたという。真之が、いわゆる「秋山軍学」を作り上げてゆくプロセスは、これだったのだろう。

 明治35年(1902年)7月、海軍大学校戦術講座が設けられ、真之はその初代教官に選ばれた。「秋山以外に適任とすべき者はいない。」というのが、海軍内部の定評だった。海軍大学校の校長・坂本俊篤がアメリカ勤務時代の真之にワシントンで会ったとき、「君は海軍大学校に入らんのかね?」と聞いたところ、真之は不思議そうな顔をして「私に教える教官がいるのでしょうか?」と反問したという。なんとも太々しい答えだが、真之にしてみれば自惚れでもなんでもなく、当然の答えだった。坂本は素直に納得して、「これは学生というより教官だ。」と思い直し、考慮するまでもなく戦術講座の初代教官に指名したという。

 真之の講義は、不朽といわれるほどの名講義だったらしい。彼自身が組織して体系化した海軍軍学を教えただけでなく、それをどのようにして組織しえたかという秘訣を繰り返し教えた。彼が兵学校の学生だったころの教官・八代六郎も、選科の受講生として入校し、真之の講義を熱心に聞いた。豪傑をもって知られた八代は、疑問に思うところは容赦なく質問し、しばしば講義の壇上と壇下で喧嘩のような議論になった。あるとき双方譲らず、ついに真之はこのかつての恩師に対して、「愚劣きわまる。八代という人はもっとえらい人かと思っていたが、これしきのことがわからぬとは、驚き入ったことだ。」と罵った。翌日、目を真っ赤にした八代が真之のもとを訪れ、「秋山。君のほうが正しかった。」と、教室の中で大声であやまった。昨夜寝ずに考えたという。普通なら上級者が折れて恥じ入っている場合、下級者としては答えようがあるように思うが、真之は「そうでしょう。」と、にべもなくいったという。愛嬌もなにもない。「どうも天才だが、人徳がない。」と、一部ではこの応対を見て思う者もいたようだが、真之にいわせれば、「戦術に愛嬌がいるか。」ということであった。

 そんな愛嬌もくそもない合理的な現実主義者の秋山真之の講義を受けた学生たちが、日露戦争で各戦隊の参謀として配置され、真之の指示のもとに秋山戦法を個々に実施し、このため、作戦面ではほとんど一糸乱れずに全軍が動く結果を得ることになる。

 原作小説では、正岡子規の死は驚くほどあっさりと書かれている。その原作の記述を大筋でしっかり守りながら、ドラマならではの演出で見事に見せてくれた。
 「子規は自分の死期が近いことを悲しむというふうなところはなかった。」
と、作者は小説の中で語っているが、志半ばでその生涯を終えることは無念だったに違いない。
 「まだまだええ句がうかんできよるんじゃあ・・・。」
 ドラマ中、見舞いに訪れた真之に言った子規の言葉が、まだまだ死にたくないという彼の心の叫びだった。

 6年余りの病床生活を経て、子規の病態はいよいよ悪化し、耐え難い苦痛が彼を苦しめていた。死の直前の明治35年(1902年)9月12日から14日にかけての「病牀六尺」には、そんな苦痛の声が記されている。
 「百二十三 支那や朝鮮では今でも拷問をするそうだが、自分はきのう以来昼夜の別なく、五体なしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。」(9月12日)
 「百二十四 人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身に来るとはちょっと想像せられぬ事である。」(9月13日)
 「百二十五 足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大般若の如し。僅に指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫、女媧氏いまだこの足を断じ去って、五色の石を作らず。」(9月14日)
 しかし子規は、そんな苦痛の中にあっても文学者としての感受性を失わなかった。死の前日の9月18日には、庭先の糸瓜を写生するべく、傍らの画板に三首の句を書いた。

 「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
 「をととひの糸瓜の水も取らざりき」
 「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」


 これが子規の絶筆となった。

 正岡子規がこの世を去ったのは、明治35年(1902年)9月19日の午前1時。ドラマのとおり、誰にも看取られずに静かに逝った。子規の病床を献身的に看病していた高浜虚子が、わずかに眠っていたあいだだった。子規の母・八重がふと蚊帳の中が気になりのぞいてみると、子規はもう呼吸をしていなかった。虚子は、近くに住む河東碧梧桐らに知らせるため外に出た。この日は旧暦の十七夜だった。虚子が外に出ると、十七夜の月が、子規の生前も死後も変わりなく輝いている。
 「子規逝くや十七日の月明に」
と、虚子が口ずさんだのはこのときであった。生前の正岡子規は、「俳句とは写生だ。」と、その文学的生命をかけてやかましく言った。その写生を、虚子はいま行ったつもりだった。

 正岡子規。享年35歳。
 彼は辞世の句を作らなかったが、彼の35年の生涯を表しているような一首がある。
 「世の人は四国猿とぞ笑ふなる 四国の猿の子 猿ぞわれは」
 子規は、自分が田舎者であることをひそかに卑下していたが、その田舎者が日本の俳句と和歌を革命したぞという叫びたくなるような誇りを、この歌にこめている。
 「正岡子規はとんでもない楽天家であった。明治というオプティミズム(楽天主義)の時代にもっとも適合した人間であったといえる。」
 作者・司馬遼太郎氏はそう評しているが、そんな彼だけに、誰よりも坂の上の雲を見つめながら、ついには頂上まで上り得なかった切なさがある。


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-13 03:04 | 坂の上の雲 | Comments(9)  

坂の上の雲 第4話「日清開戦」

 好古は戦場においても指揮刀を使っている。指揮刀とはおもちゃのような刀身で、刃がなく、当然切れない。まわりの者は不安がったが、彼に言わせれば、指揮官の役目は個人で敵を殺傷するものではなく、一隊一軍を進退させて敵を圧倒することころにあり、個人としての携帯兵器はいらないという。理屈は通っているが普通は不安なのが当然だろう。
 好古は酒がよほど体にあっていたようで、かなりの酒豪だったらしく、戦場においても水筒に酒を入れてある。激戦になるとかならず飲む。のんで勇気をつけるというのではなく、飲んだからといって頭に血が上って景気づくというぐあいにはならず、ただ鎮静はするらしい。酒を飲むことによって平常の自分を維持することができるようである。
 しかし、この日清戦争の旅順攻撃での好古のとった行動はあまりにも無謀で、「蛮勇」という言葉が相応しかった。戦略的にはもっと早く退却するのが定石で、好古ほどの戦略眼をもった男がわからぬはずはない。このとき好古は酔いの限度を超えていたのではないかと、戦後ささやかれたそうである。
 司馬遼太郎氏は言う。
 「好古は同時代のあらゆるひとびとから、『最後の古武士』とか、戦国の豪傑の再来などと言われた。しかし本来はどうなのであろう。勇気はあるいは固有のものではなく、彼の自己教育の所産であったかのように思われる。」
 かつて好古は、弟真之にこんな言葉をいった。
 「うまれつき勇敢な者というのは一種の変人にすぎず、その点自分は平凡な者であるからやはり戦場に立てば恐怖がおこるであろう。しかし、そういう自然のおびえをおさえつけて悠々と仕事をさせてゆくものは義務感だけであり、この義務感こそ人間が動物とはことなる高貴な点だ。」
 秋山好古という人は、こうして己を教育し、豪傑な自分を育てていったのだろうか。

 子規の従軍記者としての渡海もまた無謀であった。彼の東京での保護者であり、彼の頼みならたいていのことは叶えてくれた陸羯南も、従軍については彼の身体を心配して首を縦にふらなかった。しかし最後には根負けしたようなかたちで従軍を認めることになる。このことが、子規の寿命を大きく縮めることとなった。戦場とはおよそ無縁なこの無邪気な文学青年も、当時の日本人のひとりとして、この従軍はよほど嬉しかったようで、
 「かへらじとかけてぞちかふ梓弓(あずさゆみ)
  矢立(やたて)たばさみ首途(かどで)すわれは」

という勇ましい短歌を詠んでいる。

 真之はこの日清戦争では、小さな巡洋艦「筑紫」の航海士として臨んでいた。主力艦隊ではないため、第二線での参戦にすぎず、たいした武功もないままに終わった。一度だけ敵の砲弾をくらった。敵の巨弾が爆発せぬままに筑紫の左舷から中甲板を貫いて右舷側へ飛び出し、そのまま海へ落ちた。いわば串刺しの目に遭ったが、このとき下士官、兵合わせて三名が命を落とした。血だらけになった甲板、肉や骨の飛び散った真紅の光景は彼の終生、その夢に見つづけたほどのショックをあたえた。喧嘩好きの真之は、これほどの闘争的性格に生れついていながら、人の死からうける衝撃が人一倍深刻な心を持ち合わせていたようである。「坊主になろうと思った。」と、のちに語っている。

 ドラマ中、自分は軍人に向いていないのではないかと悩む真之。
 「よき指揮官とはなんでしょうか。あしにはそれがようわからんのです。少将はご自分の出した命令を後悔したことはありませんか。」
 この日清戦争の、最初の砲門を開く命令を出した東郷平八郎に真之は問う。
 「おいも人間じゃ。そいはおはんと同じじゃ。悩みや苦しみと無縁ではなか。じゃっどん、将たるもの自分の下した決断を神の如く信じらんにゃ兵は動かせん。決断は一瞬じゃが、正しい決断を求めるならその準備には何年、何十年とかかろう。よか指揮官とは何か。犠牲になった兵のためにも、よう考えてほしか。」
 悩まない者はよき指揮官にはなれない。悩むことこそが、指揮官としての責務。のちに「智謀湧くが如し」と言われた真之は、この人の死に対する強烈なまでの感受性と、悩み苦しむことができる心が育てたものなのかもしれない。

 とにもかくにも日清戦争は、日本の歴史的勝利で幕を閉じた。このことが、のちの日露戦争そして昭和の大東亜戦争につながっていくことは、この時代にはまだ誰も知る由もない。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-21 03:37 | 坂の上の雲 | Comments(4)  

坂の上の雲 第2話「青雲」

 幼い頃から常に肩を並べて、ともに遊びともに学んできた真之と子規。しかし二人の進む道は分かれることになる。ドラマでは省かれていたが、原作では真之も一時期文学に励み、子規と二人で生涯文学をやろうと誓い合ったほどである。そしてその才も真之の方が長けていた。学問においても真之の方が上で、子規にとって真之は、幼馴染であり、親友であり、しかしライバルでもあり、それでいて憧れでもあったのかもしれない。置き手紙を残して去っていった真之。いろんな思いがこみ上げてきたであろう子規の心中が、香川照之さんの無言の演技の中に込められていた。
「戦をも厭わぬ君が船路には 風吹かば吹け 波立たば立て・・・気張れ!ジュン淳さん。」

 子規は生涯友人との交流を大切にした。
「人間は友人がなくとも十分に生きていけるかもしれない。しかし、子規という人間は、切ないくらいにその派ではなかった。」
 これより少し後年の石川啄木などに代表する、歌人・俳人の持つ孤独で神経質なイメージとは異なり、晩年病床に伏しても友人たちとの時間を一番大切にした子規。このドラマに描かれているとおり、生涯少年のような人物だったのかもしれない。

 成績優秀で行動力もあり、子規をはじめ友人たちにも頼られる真之だが、その分、要領が良く、何においても子規のように純粋に夢中になれない自分に悩む。「男は単純明快でいろ!」という兄の教えを胸に、自身にとって居心地のいい大学予備門を中退し、海軍兵学校に入学。軍人の道を進む。心から軍人になりたかったわけではない。しかし、
「一身独立、一国独立。」
 まずは自分の身を一人前に食っていけるようにして、その上で国の存立に関わるようになれ・・・ということ。兄・好古の尊敬する福沢諭吉の言葉で、好古の座右の銘でもある。
「一身独立するには、まず質素を旨とし、単純明快な生活を体に叩き込め!」
 兄の言葉を胸に、一身独立してしかも単純明快であるために、軍人の道を選んだ。

 旧藩主、久松家からの仰せでフランス留学を余儀なくされた好古。原作では、フランス行きが好古のその後にどう影響するかなど、久松家はまったく気にしていない様子だった。ドラマでは多少気にかけてくれていたようである。が、断ることはできない。新しい世になったとはいえ明治維新からまだ20年ほどしか経っていないこの時代。旧下級藩士の微妙な立場がよくわかるエピソードである。好古のフランス留学生活は、途中から官費留学になったことがナレーションで伝えられたが、それまでは私費留学だったことや、そのために困窮していたことなどが省かれていたことが少々残念である。

 ドラマ中にもあったが、子規は野球を愛し、野球のルールや訳語を最初に示した随筆を著し、ここで使用された訳語(打者・走者・飛球・死球等)が現在でも生きている。明治22年(1889年)、帰郷の折りに松山中学の学生であった河東碧梧桐に野球を教え、その後、松山では野球が非常に盛んになった。その流れか、のちに始まった全国高校野球大会創生期の大正から昭和初期にかけて、松山商業は全国屈指の強豪校だったそうである。子規の死後100年経った平成14年(2002年)、野球の普及に貢献した人物として野球殿堂入りを果たしている。

 それぞれの進むべき道が定まった。彼らの選んだ道が、やがて日本の歴史を変える事になる。
それはまさに「一身独立、一国独立」の言葉どおりである。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-08 22:50 | 坂の上の雲 | Comments(2)  

坂の上の雲 第1話「少年の国」

 「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。」
 タイトルどおり「少年の国」だった明治初年の日本は、いわゆる「大人の国」である欧米諸国に懸命に追いつこうとしていた。それはちょうど思春期ぐらいの少年が、力もないのに大人の真似をし、ときには大人に反抗し、必死に背伸びをしている姿に似ている。大人たちから見れば滑稽にしか見えない彼らだが、当人たちは大真面目なのである。少年たちは知識も経験もお金も持っていないが、大人が失ってしまった夢や希望を持って目を輝かせている。明治の日本には、そんな少年のような目の輝きがあったと作者・司馬遼太郎は言う。

 その「少年の国」で自身も少年期を過ごした3人の主人公、秋山好古、秋山真之、正岡子規。彼らの生まれた松山県(のちの愛媛県)は、幕末、親藩・伊予松山藩として幕府側につき、長州征伐では先鋒を任され財政難の極致に陥り、大政奉還後は朝敵とされ、朝廷への恭順の証として財政難の中から15万両を献上して赦された。そんなわけで明治になっても財政難は続き、旧士族の家柄である彼らも極貧の生活を余儀なくされた。想像するに、平成の不況等とは比べ物にならないものだったであろう。

 しかし彼らには高い志があった。夢があった。希望があった。
「お豆腐ほどの厚みのお金をこしらえてくる。」といって自力で身を立てようとする、いかにも兄貴らしい好古。
「東京で勉強して太政大臣になってやる。」と、高い志を抱く秀才・子規。
「海の向こうにはわしらが知らんものが、ようけありそうじゃのう!」と、まだ目標が定まらないながらも、未来に大きな夢を求める真之。
 頑張ればどんな希望でも叶うかもしれないという、少年らしい純粋な心。国全体が少年だった明治の日本では、少年たちが夢や希望で大いに胸を膨らませられる時代だった。それは、国家として貧しいながらも列強諸国に追いつけ追い越せという、明確なビジョンがあったからなのだろう。
作者は言う。
「彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。
上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。」

 平成の若者たちは、夢や高い志を抱けているだろうか。明るい将来を見出せず、刹那的な生き方に見えるのは私だけだろうか。もしそうだとすれば、私たちの生きる平成の日本は、国家として晩年をむかえた「老人の国」なのかもしれない。


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 オープニングの渡辺謙さんの「司馬節」が、あまりに素晴らしかったので全文紹介します。

まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。
「小さな」といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。
産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年のあいだ読書階級であった旧士族しかなかった。
明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。
誰もが「国民」になった。
不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。
この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。
社会のどういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、教師にも、軍人にも、成り得た。
この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。
今から思えば、実に滑稽なことに、コメと絹の他に主要産業のない国家の連中は、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。
陸軍も同様である。
財政の成り立つはずがない。
が、ともかくも近代国家を作り上げようというのは、元々維新成立の大目的であったし、維新後の新国民の少年のような希望であった。
この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振舞ったかという物語である。
主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかく我々は三人の人物の跡を追わねばならない。
四国は、伊予松山に三人の男がいた。
この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるに当って、勝利は不可能に近いと言われたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。
その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコルサック師団を破るという奇跡を遂げた。
もう一人は、俳句短歌といった日本の古い短詩形に新風を入れて、その中興の祖となった俳人・正岡子規である。
彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。
上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-01 11:51 | 坂の上の雲 | Comments(0)  

坂の上の雲 キャスト&紹介

 NHKスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」が、今月29日からいよいよスタートする。原作は故・司馬遼太郎氏の長編小説で、舞台は明治中期から後期にかけて。放送は2009年から2011年の3年間、いずれも12月のみの放送で全13話、各90分の予定。明治維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの日本を背景に、四国・松山に生まれた秋山好古・真之兄弟と、俳人・正岡子規の3人を主人公にした物語である。欧米諸国に追いつこうとして近代化を推し進める生まれ変わった日本国で、田舎秀才だった彼らはそれぞれの夢を目指して懸命に生きる。国全体が、坂の上の空に浮かぶ雲(夢)に向かって近代化の坂を懸命に上っていた時代を、3人の若者を通して描いていく。そして舞台は日露戦争へ・・・。

 原作の故・司馬遼太郎氏は、同作品において「フィクションを禁じて書くことにした。」と言っている。物語中にある話は全て事実であり、それが事実であると確認出来ないことは描かなかったと主張している。今回のドラマ化では、その作者の意向は繁栄されているのだろうか。

 また、司馬氏は同作品の映像化を「ミリタリズム(軍国主義)を鼓吹しているように誤解される。」として拒み続けていた。「なるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品でもあります。うかつに翻訳すると、誤解されたりする恐れがありますからね。」と述べている。司馬氏の作品は、過去大河ドラマにおいて「竜馬がゆく」「国盗り物語」「花神」「翔ぶが如く」「徳川慶喜」「功名が辻」と、6作品ものドラマ化が実現されているが、この「坂の上の雲」においては、作者の思いは他の作品とは違うようである。

 今回のドラマ化は、著作権を相続した夫人の許諾を得て実現したもの。作者の意に反しているかもしれないが、司馬遼太郎ファンとしては楽しみでならない。

以下、作品紹介。
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第1部(幕末〜19世紀末) 2009年放送
第1話 少年の国
第2話 青雲
第3話 国家鳴動
第4話 日清開戦
第5話 留学生

第2部(1901年〜1904年夏)2010年放送
第6話 日英同盟
第7話 子規、逝く
第8話 日露開戦
第9話 広瀬、死す

第3部(日露戦争)2011年放送
第10話 旅順総攻撃
第11話 二〇三高地
第12話 敵艦見ユ
第13話 日本海海戦

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●キャスト●
秋山真之・・・・・・・本木雅弘(少年期:小林廉)
秋山好古・・・・・・・阿部 寛(少年期:田中祥平 青年期:染谷将太)
正岡子規・・・・・・・香川照之(少年期:ささの貴斗)
松山の人たち
秋山久敬・・・・・・・伊藤四郎
秋山 貞・・・・・・・・竹下景子
秋山多美・・・・・・・松たか子
秋山季子・・・・・・・石原さとみ
正岡 律・・・・・・・・菅野美穂(少女期:吉田里琴)
正岡八重・・・・・・・原田美枝子
大原観山・・・・・・・真実一路
藤野 漸・・・・・・・・宝田 明
加藤恒忠・・・・・・・上村祐翔

陸軍関係
児玉源太郎・・・・・高橋英樹
乃木希典・・・・・・・柄本 明
乃木静子・・・・・・・真野響子
伊地知幸介・・・・・村田雄浩
大山 巌・・・・・・・・米倉斉加年
川上操六・・・・・・・國村隼
長岡外史・・・・・・・的場浩司
井口省吾・・・・・・・堤大二郎
藤井茂太・・・・・・・宮内敦士

海軍関係
東郷平八郎・・・・・渡 哲也
山本権兵衛・・・・・石坂浩二
八代六郎・・・・・・・片岡鶴太郎
広瀬武夫・・・・・・・藤本隆宏
島村速雄・・・・・・・舘ひろし
飯田久恒・・・・・・・蟹江一平
下村延太郎・・・・・松尾敏伸
永田泰次郎・・・・・頼三四郎
人見善五郎・・・・・大木 聡
志津田定一郎・・・高橋光宏
沓澤皆蔵・・・・・・・岩永ひひ男
飯牟禮仲之助・・・永井慎一
山本半次・・・・・・・赤木裕樹

政治家
伊藤博文・・・・・・・加藤 剛
高橋是清・・・・・・・西田敏行
山縣有朋・・・・・・・江守 徹
小村寿太郎・・・・・竹中直人
陸奥宗光・・・・・・・大杉 漣
井上 馨・・・・・・・・大和田伸也

明治天皇・・・・・・・尾上菊之助

文人たち
夏目漱石・・・・・・・小澤征悦
森 鴎外・・・・・・・・榎木孝明
高浜虚子・・・・・・・森脇史登
河東碧梧桐・・・・・大藏教義(少年時代:松川尚瑠輝)
寒川鼠骨・・・・・・・菟田高城
柳原極堂・・・・・・・伊嵜充則

東京大学予備門
清水則遠・・・・・・・菊地真之
井林広政・・・・・・・檜尾健太
菊池謙二郎・・・・・野呂朋大
関甲七郎・・・・・・・松村良太

ジャーナリスト
陸 羯南・・・・・・・・佐野史郎
深井英五・・・・・・・渡部賢治
熊谷直亮・・・・・・・神尾 佑

その他、諸外国のキャストは省略します。


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by sakanoueno-kumo | 2009-11-11 20:21 | 坂の上の雲 | Comments(2)