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三木合戦ゆかりの地めぐり その9 ~高木大塚城跡~

シクノ谷峯構付城から更に北へ500mほどのところに、高木大塚城跡があります。
ここも、三木合戦における織田方の付城で、絵図『三木城地図』に描かれているものですが、どういうわけか、現地看板などの記載は「大塚城」となっており、名称に「付城」という言葉が入っていません。
なんででしょうね?

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この周辺には高木古墳群と呼ばれる5~6世紀の古墳が多くあり、この付城は、それらのなかでもっとも大きな古墳を利用して築かれた付城と考えられています。
そこで、大きな塚を利用した「大塚城」という名称になりました。

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現地看板の説明文によると、曲輪は主郭のみで、櫓台を中心に配し、その周囲を十字の形に土塁で囲み、南西に虎口(出入り口)を設けています。
曲輪の広さは約3,600㎡で、古墳が所在する周囲を含めると約6,500㎡が残っているそうです。

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古墳を利用した櫓台は、一辺約20mの隅丸方形を呈する高さ約5mを測る規模で、周囲を高さ150cmほどの土塁が囲んでいます。

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とにかく、この付城の遺構の保存状態は素晴らしく、これまで見てきた他の付城とは比べものにならないほど立派な土塁が残されています。

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また、土塁が十字型に四方に張り出した形をしていて、変わった構造をしているのが興味深いところです。
この独特の土塁のかたちは、正面だけでなく側面からも攻撃できるように意識し築いたもので、これを横矢掛りと呼んでいるそうです。

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いまいち写真では伝わりづらいですね。

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他の付城のほとんどは現在も山の上にあるのですが、ここ高木大塚城は、住宅街の一角にあるので訪れやすく、城の全体像が素人でも容易に想像できます。
わたしが訪れたときは、ここを散歩していたご老人が主のように解説してくれました(笑)。

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ここを守っていた武将はわかっていませんが、たぶん、明石道峯構付城やシクノ谷峯構付城と同じく、小林伝右衛門が作図した絵図『三木城地図』に描かれており、織田信忠が築城した三木城包囲網の第二期の付城と考えられています。
約500m間隔で連なっていますからね。

で、次はここから更に500mほど北上したところの、法界寺山ノ上付城を訪れます。

三木合戦ゆかりの地めぐり その1 ~三木城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その2 ~秀吉本陣(平井山付城)跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その3 ~竹中半兵衛墓所~
三木合戦ゆかりの地めぐり その4 ~もうひとつの竹中半兵衛墓所~
三木合戦ゆかりの地めぐり その5 ~平田村付城跡・平田村山之上付城跡・大村城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その6 ~谷大膳墓所~
三木合戦ゆかりの地めぐり その7 ~明石道峯構付城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その8 ~シクノ谷峯構付城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その10 ~這田村法界寺山ノ上付城・朝日ヶ丘土塁跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その11 ~法界寺別所家霊廟~
三木合戦ゆかりの地めぐり その12 ~三木城鷹尾山城(鷹ノ尾城)跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その13 ~淡河城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その14 ~端谷城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その15 ~福谷城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その16 ~枝吉城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その17 ~池尻城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その18 ~加古川城跡(称名寺)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その19 ~野口城跡(教信寺・野口神社)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その20 ~神吉城跡(常楽寺・神吉神社)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その21 ~生石神社(石の宝殿)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その22 ~志方城跡(観音寺)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その23 ~太閤岩~
三木合戦ゆかりの地めぐり その24 ~中道子山城(赤松城)跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり その25 ~安楽寺・円照寺~
三木合戦ゆかりの地めぐり その26 ~井ノ口城跡・見登呂姫の石仏~
三木合戦ゆかりの地めぐり その27 ~高砂城跡(高砂神社)~
三木合戦ゆかりの地めぐり その28 ~御着城跡~
三木合戦ゆかりの地めぐり ~史跡分布図~



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by sakanoueno-kumo | 2015-04-15 21:36 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その8 ~シクノ谷峯構付城跡~

前稿の明石道峯構付城から西へ500mほどのところにあるのが、シクノ谷峯構付城です。
「シクノ谷」とは変わった名称ですが、「宿の谷」と呼ばれる谷に張り出す尾根の先端部に築かれていることから、「シクノ谷峯構」という名称になったそうです。

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入り口には看板が設置されていて、登山路も整備されていてわかりやすくなっています。

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説明看板によると、曲輪は、主郭腰郭から構成され、主郭は四方を土塁で囲んだ東西約45m、南北約25~40mの規模で、南端の土塁中央部には約5×6mの方形の櫓台を築き、北西隅と北東隅の虎口から続く腰郭は、主郭のような土塁囲みではなく、削平などの整地により平坦部を造り出しています。

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主郭、腰郭を合わせた付城の範囲は約3000㎡で、西に隣接する平坦部を含めると約4600㎡あるそうです。

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案内板はありませんが、素人が見ても、遺構がはっきり見て取れます。

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こんもりと土が盛られた遺構は、たぶん櫓台の跡でしょう。

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主郭跡にある土塁です。

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城跡東側の景色です。
バイパス道路の向こうに見える低い山が、明石道峯構付城です。

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ここシクノ谷峯構付城も明石道峯構付城と同じく、小林伝右衛門が描いた絵図『三木城地図』に描かれていましたが、平成6年(1994年)に、このすぐ北に開園した三木ホースランドパークの建設事業中に、所在が確認されたそうです。
ここを守った武将については、残念ながらわかっていないようですが、おそらく、明石道峯構付城と同じく織田信忠が築城した6ヵ所の付城のうちのひとつと考えられています。

さて、次稿は高木大塚城跡を訪ねます。



「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
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by sakanoueno-kumo | 2015-04-10 21:40 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その7 ~明石道峯構付城跡~

羽柴秀吉の本陣が置かれた平井山付城や、谷大膳の墓所がある平田村付城は、三木城の北側にありますが、秀吉のつくった付城は三木城を中心として360度くまなく包囲しており、南側にも現在多くの遺構が確認されています。
まず訪れたのは、三木城から直線距離にして1.5kmほど南に築かれた明石道峯構付城です。

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国道175号線の東沿いにある小さな山の上にある付城跡で、山の周囲はミニゴルフ場となっています。

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天保12年(1841年)に描かれた小林伝右衛門という人物によって作図された絵図『三木城地図』には描かれていましたが、平成11年(1999年)の道路拡張工事で所在が確認されるまで、その存在は明らかではなかったのだとか。
その後、三木合戦に関する貴重な史料として、破壊せずに三木市が管理しているそうです。
三木市の行政に感謝です。
登山道は綺麗に整備されていて、説明板や遺構の表示板も設置されていてたいへんわかりやすくなっています。
先日の遭難しかけた平田村山ノ上付城跡とは、ぜんぜん違いますね。
わたしのような素人向けの遺構です。

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主郭跡に設置された説明板です。

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縄張り図です。
主郭跡は約1,100㎡、東郭跡は約3,300㎡あるそうですから、ずいぶん規模の大きな付城だったことがわかります。

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上の写真は、その主郭跡です。

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西郭跡です。

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主郭と東郭を結ぶ虎口跡です。

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虎口の両サイドは、土塁が積まれています。

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上の写真は、もっとも広い東郭跡です。
建物があったかどうかは、わかっていません。

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その東郭の外にある堀跡です。

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史料によれば、三木城攻めが開始されてから1年近く経った天正7年(1579年)2月の平井山合戦に勝利した織田軍は、その後、織田信忠によって三木城の南側に付城が6ヵ所築かれ、魚住からの兵糧搬入経路が塞がれます。
やむなく迂回して北西からの搬入することになり、前稿で紹介した平田大村合戦に繋がっていきます。
そのとき造られた6ヵ所の付城のひとつが、ここ明石道峯構付城だった可能性が高いようです。

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下山道に、ここから約500m西にあるシクノ谷峯構付城への誘導表示がありました。
次稿はここを訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-04-09 21:20 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第5話「本能寺の変」

 「皆の者、これより東へ向かい桂川を渡る。めざすは本能寺なり!明智日向守光秀、天に代わりて織田信長を成敗いたす。天下布武の美名のもと、罪も無き民を殺戮し、神仏を虐げしのみならず、ふらちにも自らを神に祭り上げ、あまつさえ帝をも己の下におかんとする所業の数々、許しがたし。よってこれを誅罰するこそ、天の義、人の道にかなうものなり。」
 「敵は本能寺にあり。」
 天正10年(1582年)6月2日、日本の歴史を大きく変えることとなった事件が起きる。天下統一を目前にした戦国の覇王、織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって、殺害された。いわゆる「本能寺の変」である。

 天正10年(1582年)年5月、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は、安土城にいる織田信長に援軍を要請。信長は堀秀政細川忠興池田恒興高山右近中川清秀らに援軍を命じ、安土城に来ていた徳川家康の饗応役を命じられていた明智光秀にも出陣を命じた。光秀は5月17日に坂本城、26日に亀山城に移り、27日には愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と連歌会・愛宕百韻を催した。信長は5月29日に安土城を進発し、京都の本能寺を宿所とした。

 6月1日夜半、亀山城を進発した光秀軍は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止。そこで、斎藤利三ら重臣に本能寺襲撃計画を打ち明ける。重臣の中には反対意見もあったが、結局は全軍に「信長公が京で閲兵を望んでいる」と伝え、進路を京都に向かって東に取った。そして桂川を渡る頃、全軍に本能寺襲撃を下知する。

 6月2日早暁、明智軍1万3千は本能寺を襲撃。信長は弓と槍で奮戦したが、森蘭丸をはじめ、わずかな供廻りの小姓たちの殆どが討死。信長も肘に槍傷を受けて退き、観念した彼は女達を退出させた後、殿舎に火を放たせ、炎の中で自刃した。嫡子・織田信忠は妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとしたが村井貞勝らがこれを止め、信忠は隣接する二条御所に立て籠ったが、光秀軍は御所に隣接する近衛前久邸の屋上から矢・鉄砲を撃ち掛け、信忠も抗戦敵わず自刃した。

 明智光秀が何故この謀反に至ったのか、いつ謀反を企てたのかは、いまもって歴史の謎である。天下取りの野望説黒幕説朝廷守護説謀略説など様々な見解があるが、どれも憶測の域をでない。小説やドラマなどでは、最もわかりやすい怨恨説で描かれることが多い。私も、この怨恨説に、最も単純ゆえに信憑性を感じる。もともと江戸時代から明治、大正を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とするこの怨恨説が主流だった。しかし、そうした話はすべて「言い伝え」であり、歴史的根拠のない説として、近年では実証史学に基づいた研究により様々な説が浮上してきたそうである。しかし、これほどの歴史的事件の「言い伝え」が、はたして信頼のおけないものなのだろうか・・・と素人ながら私は思う。むしろ、近年浮上してきた数々の学説のほうが、無理やり歴史を難しく解釈しているように思えてならない。史実とは、案外単純なもののような気がする。

 光秀は、本能寺の変の直前である5月27日、愛宕山に参詣したおりに愛宕百韻という連歌会を催した。そのとき光秀が詠んだ句が、彼の謀反の決意を表したものだといわれている。
 「時は今 雨が下しる 五月哉」
 「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」と意味し、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるという。これをこじつけととるか否かは様々だが、謀反決行の4日前の句としては、あまりにも出来すぎている。すでにこのとき、光秀の心中は決まっていたと考えていいのかもしれない。

 日本史に興味がない人でも、この「本能寺の変」を知らない人はいないだろう。人はこの出来事を400年もの長きにわたって語り継ぎ、人間の持つ「おごり」「恨み辛み」を学び得てきた。人の上に立つ者の、有能であるがゆえに見失いがちな、下の者に対する労りの心。私たちのまわりでも、信長と光秀の関係は少なからず目にするところである。光秀の起こした行動は、その後の時代に生きるすべての人々の道徳教科書として、大きな意味を持った歴史の必然だったようにも思える。ほとんどの人が、大なり小なり光秀の気持ちになったことがあるだろう。そして場合によっては、誰しも信長になってしまう心を、持ちあわせているように思えるのである。そうした人間の心の戒めとして語り継がれてきたのが、この「本能寺の変」だと私は思うのである。

 「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか。」
 (人間の一生は所詮五十年に過ぎない。天上世界の時間の流れに比べたらまるで夢や幻のようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものなのだ。)

 奇しくも織田信長の生涯は、人間五十年に1年届かずの、享年49歳だった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-07 02:16 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)