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おんな城主 直虎 第45話「魔王のいけにえ」 ~松平信康自刃事件(前編)~

 諸説あって謎が多い徳川(松平)信康自刃事件ですが、ドラマでは長年通説となっていた『三河物語』の記述をベースに構成されていました。前回の徳川家康暗殺未遂事件のあとの信康と石川数正のやりとりを見ていて、何か違う解釈で描くのかなぁと思っていたのですが、違いましたね。まあ、ほとんどの物語では、『三河物語』の通説を採用していますから、やはり、それがいちばんドラマチックだということでしょう。わたしはそれでいいと思います。


 信康の正室・徳姫織田信長の娘で、ふたりの結婚は徳川と織田の同盟の証でした。『三河物語』によると、天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に宛てて夫と姑の愚痴12箇条に綴った手紙を書きます。その内容は、信康の日頃の乱暴な振る舞いを嘆き、また、自分が女児しか産んでいないことを姑の築山殿から罵られたということなど、現代の夫婦間でもありそうないざこざですが、そのなかに、信康と築山殿が武田家と内通している疑いがあるとの報告がありました。これが事実なら、織田家としては捨て置けません。


 信長は真偽を確かめるべく、徳川家家老の酒井忠次を呼んで詰問します。ドラマでは、岡崎城の信康と浜松城の家康の配置を入れ替える旨を信長に伝えるために家康が忠次を使者として送り込むという設定でしたが、このあたりは、『三河物語』を少しドラマのオリジナルにアレンジしたものでした。たしかに、こっちの方がより自然かもしれません。


 『三河物語』によると、信長から問いただされた忠次は、何の弁解もしなかったばかりか、あろうことか、信康をかばうことなくすべてを事実と認めてしまいます。忠次、何を血迷っていたのでしょうね。一方で、ドラマでの忠次は、信康の内通を家康の指示があってのことなのか、それとも信康独断の行いだったのかという二者択一誘導尋問に迫られ、家康に害が及ばぬため、やむなく信康を切り捨てたという描き方でした。このあたり、なかなか秀逸なアレンジだったんじゃないでしょうか。『三河物語』では、信康をかばわなかった忠次に対して家康は、「知らぬと言えばよかったものを」と嘆き、他の家臣たちからも憎まれたとされていますが、ドラマでの忠次も家康から叱責されていましたが、忠次は忠次なりに徳川家を守るための最善策をとった結果であり、一方的には責められません。通説を上手く料理した脚本でしたね。


 こうなった以上、信康の首を差し出すしかないと意見する忠次。憤る家康。そこに、家康の実母・於大の方が訪れ、信康を斬りなされと諭します。


「獣はお家のため我が子を殺めたりいたしませぬ。なれど武家とはそういうものです。お家を守るためには己自身、親兄弟も、いえ、子の命すら人柱として絶たねばならぬことがある。そのなかで生かされてきたのですから。そなただけが逃れたいというのは、それは通りません。それは通らぬのです。」


 母の言葉。みごとでしたね。最近の大河ドラマでは、こういった台詞がありませんでした。現代のヒューマニズムの観点からいえば、許されない考えだからでしょう。しかし、かつて我が国の武家の秩序では、肉親の命より大切なものがあったのです。それを正しく描くことが、非人道的なことだとはわたしは思いません。よくこの台詞を、しかも女性に吐かせてくれたと思います。今話のこのワンシーンだけで、わたしはこのドラマが巷で批判されているような酷い作品じゃなかったと言いたくなりました。最終回まであと数話。楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-13 01:11 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第43話「恩賞の彼方に」 ~戦の論功行賞~

 長篠の戦い手柄あらため(論功行賞)に頭を悩ませる徳川家康。徳川・織田連合軍の圧勝に終わったこの戦いでしたが、この敗北によって武田氏がたちまち滅亡したわけではなく、したがって、徳川の領地が急増したというわけでもありません。ところが、戦は大勝利だったわけですから、戦功をたてた武将はたらふくいたわけです。そんな中でバランスよく恩賞を与えるというのは、さぞかし難しい仕事だったことでしょう。


 劇中の家康は、岡崎城浜松城の恩賞のバランスに苦慮します。武功だけみれば、浜松の武将たちの活躍が目立ち、岡崎城を守備していた家康の嫡男・徳川信康の配下には、目立った活躍が見られません。しかし家康は、岡崎城の日頃のはたらきがあったから、織田の援軍を得ることができた、というところを思案の材料とします。岡崎城は織田領との国境に近く、信康の正室は織田信長の娘・徳姫です。織田氏との関係を良好に保つために、岡崎城は重要な役割を果たしていました。長篠の戦いの兵力を見ても、徳川勢8千に対して、織田の援軍が3万。本体より援軍の方がはるかに多かったわけで、織田の援軍なくしては、長篠の大勝はなかったでしょう。その意味では、岡崎城の戦功は、決して軽視はできないものでした。しかし、榊原康政は言います。


 「武功は命がけでございます。」


 たしかにそのとおりで、命がけで槍働きをした武将を蔑ろにすると、のちのちの士気に影響しかねません。武士は戦場で活躍してなんぼの時代ですからね。しかし、戦場で武勇を奮うだけがいくさではありません。このあたりのバランスは難しかったでしょうね。


 通常は、榊原康政のいうとおり武功第一でした。しかし、その常識を覆した論功行賞が行われた例があります。天才・織田信長でした。その舞台は、このときより遡ること15年前の永禄3年(1560年)5月19日に起きた桶狭間の戦い。織田方の奇襲によって大軍の今川軍を壊滅させたことで知られるこの戦いですが、このとき、敵将の今川義元に最初に槍をつけたのが服部小平太で、二番手に飛びこんでいった毛利新介が義元のをあげました。当然ながら、このとき、一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかと誰もが予想しましたが、翌日の論功行賞の場で信長が最初に名をあげたのは、簗田政綱という武将でした。簗田は戦場で目立った活躍はなく、誰もが驚いたのは言うまでもありませんが、このときの簗田の戦功は、隠密行動によって今川義元の本陣の場所をつきとめ、信長に伝えたことでした。これによって織田軍の奇襲が可能になったわけで、信長は、義元の首を挙げた武功よりも、簗田の功績が大きいと判断したわけです。信長は、武功よりも情報が重要と考えたんですね。これは当時としては画期的な判断で、下手をすれば、家臣から不信を買って士気を下げかねません。信長だから出来た仕置だったといえるでしょうか。


 恩賞の与え方というのは、国を預かる領主にとっては重大な政治でした。その意味では、家康にしても信長にしても豊臣秀吉にしても、ときには手厚く、ときには冷酷に、上手く論功行賞を捌いたからこそ天下人たり得たといえるかもしれません。特に家康は、晩年の関ヶ原の戦いから大坂の陣に至るまで、その論功行賞の巧みさで力を拡大していきました。その政治感覚は、この頃に磨かれたものだったかもしれませんね。


 さて、次回は井伊万千代にも、大きな恩賞が与えられるようです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-30 19:10 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第42話「長篠に立てる柵」 ~長篠の戦い~

 虎松徳川家康の小姓となって井伊万千代と名乗りだした3ヶ月後(ドラマではまだ草履番ですが)、家康は織田信長に援軍を頼み、長篠城に出陣しました。武田信玄の死後、家康が武田氏から奪回した長篠城を信玄の息子・武田勝頼が囲んだからでした。長篠城は遠江と三河の国境付近に位置し、交通の要衝地にありました。


天正3年(1575年)4月に三河攻略を開始した勝頼は、5月に長篠城を包囲。長篠城を守っていた徳川方の奥平信昌は必死の防戦を見せますが、やがて劣勢が明らかになると、鳥居強右衛門を援軍要請の使者として、岡崎城の家康ももとに送ります。これを受けた家康は、5月18日、徳川軍8千と援軍に駆けつけた織田軍3万とともに、長篠城の支援に向かいます。そして、その決戦の舞台となったのが、長篠の手前にある設楽原でした。設楽原は平野ではなく、丘陵地が川に沿って南北に連なる地形でした。両軍は連吾川を挟んで陣を布き、川を自然の堀として防御線を築きました。織田・徳川連合軍は、丘陵地であるがゆえに相手陣を奥深くまで見渡せないという地形を利用し、さらに馬防柵を構えて万全を期します。


 5月20日夜、武田軍が付城として守備していた鳶ヶ巣山城を、織田・徳川連合軍が奇襲して落とし、武田軍の退路を断ちます。そして翌21日早朝、設楽原では、武田軍が織田・徳川軍への攻撃を開始。しかし、連吾川の中流域は水田があり、大軍が進撃するには足元が悪く、さらに、信長が用いた革新的な鉄砲攻撃が火を吹き、8時間の戦いのすえ武田軍は壊滅的な大敗北を喫します。有名な「鉄砲三千挺の三段撃」ですね。当時の火縄銃は、1発を撃ったら2発目を撃つまでには30秒ほどかかったといいます。この30秒の空白を埋めるため、鉄砲隊を3列にわけ、入れ替わりに撃つという戦法で、これにより、織田・徳川連合軍の鉄砲は間断なく火を吹き、当時、最強といわれた武田の騎馬隊は、為す術もなく屍を積み上げていったといいます。織田信長の天才伝説のひとつですね。


 ただ、この「三段撃」に関しては、近年の研究では否定的な見方が少なくありません。太田牛一が記した『信長公記』によると、鉄砲の数は「千挺ばかり」とあるだけで、三段撃ちのことはまったく記されていません。専門家の見解によると、三段撃ちのような複雑な動作をこなすには、よほど熟練した鉄砲隊と安定した性能の鉄砲が必要で、技術的には困難と指摘しています。では、なぜこの「三段撃」が通説となったのか。その出典元は、江戸時代前期の作家・小瀬甫庵『信長記』に記された、「鉄砲三千挺(中略)一弾ずつ立ち変わり打たすべし」という記述からのようで、以後、この逸話が多くの信長伝説に引用され、広く知られるようになったそうです。しかし、この『信長記』は、『信長公記』を元に創作された読み物で、現在では史料としてはほとんど認められていません。信長ファンにとっては残念なことかもしれませんが、「三段撃」は、実際にはなかったのかもしれませんね。


 いずれにせよ、武田軍の大敗に終わったのは事実で、織田・徳川連合軍に主だった戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、山県昌景、馬場信春をはじめ、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や指揮官を含む1万人以上に及んだといいます。武田軍の兵は1万8千ほどだったといいますから、半数以上の死者を出したということで、壊滅したといっても過言ではないでしょうね。


 この大敗北を機に、武田氏は一気に滅亡の道を進んでいった・・・と思われがちですが、実はそうではなく、武田氏が滅亡するのはこれより7年後のことで、それまでは、織田、徳川両氏と激しい攻防を繰り広げます。しかし、この戦いで武田氏は多くの人材を失い、衰退化に繋がったことは間違いないでしょう。歴史の大きなターニングポイントとなった長篠の戦いでした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-23 02:01 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第29話「女たちの挽歌」 ~信玄・家康の密約と虎松の生母の再婚~

寿桂尼がこの世を去った永禄11年(1568年)、井伊家を取り巻く情勢はいよいよ緊迫の様相を呈していました。同年8月17日、実質破綻していた甲斐国武田信玄駿河国今川氏真手切れが決定的となります。危機感を抱いた氏真は、越後国上杉謙信同盟を結ぶべく懸命に交渉を進めていました。劇中、井伊直虎三河国徳川家康に上杉氏との同盟を持ちかけたのは、そんな背景からの着想だったわけです。上杉氏と徳川氏が結び、そこに今川氏と北条氏が加われば、武田氏の駿河侵攻は避けられる・・・と。しかし、信玄はすでに家康に接近し、大井川をはさんで駿河国は武田氏、遠江国を徳川氏といった密約を交わしていたといわれます。武田軍の駿河侵攻は時間の問題でした。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、信玄がこのタイミングで動き出した背景には、この年の9月、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛したことが影響していたと思われます。このとき、武田氏と織田氏は同盟関係にありましたが、織田氏の勢力拡大は武田氏にとって決して喜ばしいことではなく、牽制する必要があったんですね。そのためには、東の憂いを排除しておく必要があったわけです。


 直虎が家康に上杉氏との同盟を勧めたという話はドラマのオリジナルの設定なので、当然ながら同盟は不成立に終わります。そして、逆にその行為がとなって、井伊家の立ち位置を危ぶまれ、井伊虎松の母・しの人質に要求されてしまいます。もちろんこれも、ドラマのオリジナル設定です。


 しかし、虎松の生母再婚したという話は本当で、その相手が徳川方の間者・松下常慶の兄・松下源太郎清景というのも史実です。この件に関して『井伊家伝記』にはこう記されています。


 「直盛公内室並びに次郎法師御相談にて、直政公御実母御年若故、松下源太郎方へ御縁付き成され候」


 直虎は母の祐椿尼と相談し、若くして未亡人となった虎松の母に再婚を勧め、松下源太郎清景に嫁がせたというんですね。どうやら人質ではなかったようです。ただ、この結婚がいつだったかはわかっておらず、ちょうどこの駿河攻め直前にもってきて人質としたのは、上手い設定だったんじゃないでしょうか?


 この松下氏とは、頭陀寺城の城主・松下加兵衛之綱の一族です。之綱といえば、まだ織田信長に仕える前の少年・藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の非凡さを見抜いて拾い上げ、武士として育てたことで知られる人物です。その一族である清景は、虎松の実母と結婚したことで虎松の継父となり、後年、井伊直政となった虎松が徳川家家臣として頭角を現すと、井伊家の重臣として代々仕えることになります。


 物語は前回あたりがらグッと大河ドラマらしくなってきましたね。緊迫した甲駿関係、そんななか、直虎のとる策は・・・。これから数話、ドラマは大きなクライマックスを迎えます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-24 21:53 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第16話「綿毛の案」 ~綿花栽培と乱妨取り~

 前話で今川家の寿桂尼から井伊虎松の後見を許された井伊直虎でしたが、今話はその「民を潤す」といったスローガンのとおり、領国経営に奮闘するお話。そもそも、百姓が求めていた徳政令の発布を先延ばしにしたわけですから、それに変わる対策を講じなければ、民が逃散してしまいます。井伊家にとっても、民が潤わなければ年貢が入らないわけですから、死活問題です。そこで目をつけたのが、綿花栽培だったわけですね。ただ、前話の稿でも述べたとおり、直虎が徳政令の発布を先送りした2年間のことは全く記録が残っておらず、もちろん今話のエピソードもドラマのオリジナルです。


 もっとも、浜松が綿花栽培の地だったというのは事実で、直虎の時代に始まっていたかどうかはわかりませんが、江戸時代中期には全国でも有数の綿花産地となっていました。遠州地方は、天竜川の豊かな水と温暖な気候によって、綿花の栽培に適していたようです。やがて、浜松城主・井上正甫が農家の副業として綿織物を推奨したことから、繊維産業が盛んになります。これが、現在に続く「遠州木綿」の原点です。


 時代は下って明治に入ると、紡績工場が作られるまでに発展を遂げ、浜松の綿産業は日本を代表する産業のひとつになります。そして、明治29年(1898年)、トヨタグループの創始者である豊田佐吉が、木製の動力織機を発明したことを機に、一大産業に発展していきます。そしてそして、その技術は、やがてトヨタ自動車の技術へと繋がっていき、さらには、ホンダ、スズキ、ヤマハなどのバイクや楽器にも飛び火していくんですね。


つまり、今話で直虎たちが蒔いた1粒の綿花の種が、世界のトヨタに繋がっていくわけです。少し大袈裟なようですが、産業を起こすということはそういうことなんじゃないかと。その土地の風土にあった歴史を創るってことなんですね。自動車や楽器など、一見、風土などとは無縁の産業に思いがちですが、歴史を掘り下げてみると、農業国ニッポンならではの風土的根拠があるわけです。面白いですね。


 綿花栽培を起こすにあったての人手不足の問題を解決するために、「百姓を貸してほしい」と頼みまわる直虎でしたが、すべて断られてしまいます。これは当然のことですよね。百姓は大事な労働力であり、大切な納税者であり、さらには、兵農分離が確立されていないこの時代、百姓も貴重な兵力でした。この時代の兵士のほとんどは、普段は農業に従事し、召集がかかると武装して参戦する半農半士の者たちだったんですね。だから、領主たちは戦を仕掛けるにも、農繁期を避けて農閑期を選ばなけれなりませんでした。つまり、経済面からも軍事面からも民百姓の数は国力であり、容易に貸し出せるようなものではありません。もっとも、金銭で兵を雇う傭兵制度は当時もありました。しかし、それも農閑期に限ったようです。


 ちなみに、兵農分離を積極的に取り入れて常備軍を作り上げたのが織田信長、豊臣秀吉で、だから天下を取ったともいえます。(もちろん、それだけが理由ではありませんが)


 あと、人身売買の話も出てきましたね。「人の売り買いが出やすいのは戦場でしてな」という瀬戸方久の言葉からするに、ここでいう「人を買う」というのは、おそらく「乱妨取り」のことだと思われます。「乱妨取り」とは、戦場で逃げ惑う民を拉致監禁し、人身売買することで、子どもは奴隷として売られ、女性はその場で身ぐるみを剥がれてレイプされたり、欧州やタイ、カンボジアに性奴隷として売られたりしました。人身売買の相場はドラマで言っていたとおり一人につき二貫文(現代の価値で約30万円)でしたが、戦の着後は乱妨取りが多く行われるため、25文(約4千円)ほどに急落したそうです。つまり、方久が言う「手頃な戦場」というのは、「奴隷が4千円ほどで買えるよ!」ってことです。この提案に目を輝かせる直虎。おいおい!これ、実はめちゃくちゃ残酷な話なんですけど・・・。


 ちなみに、直虎の父・井伊直盛が死んだ桶狭間の戦いで、今川義元の大軍が少数の織田信長軍に敗れた理由を、「民家への略奪行為で油断する今川軍を急襲したから」とする説があります。つまり、敗因は乱妨取りだったと。だとすると、直虎のお父ちゃんも、民への乱暴狼藉をやってたのかもしれません。ドラマの直盛像を壊しちゃうようですが。


 ちなみにちなみに、意外にも織田信長は、自軍の乱妨取りを厳しく禁止していたといいます。逆に、義を重んじていた上杉謙信は、自軍の乱妨取りを黙認していたとか。わからないものですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-24 21:18 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第9話「桶狭間に死す」 ~桶狭間の戦い~

 永禄3年(1560年)5月19日、尾張国桶狭間において、その後のわが国の歴史を大きく左右することになる合戦が行われます。世にいう桶狭間の戦いですね。今川義元率いる大軍を少数の織田信長が討ち取り、その名を天下に轟かせたことで知られるこの戦いですが、井伊家では、この戦いで当主の井伊直盛討死したと伝えられます。


e0158128_16435176.jpg 5月12日、今川義元は4万(一説には2万5千とも)の軍勢を率いて西へ進軍します。その目的は、上洛のためとも尾張国の制圧のためとも言われますが、定かではありません。そのなかには、若き日の松平元康(のちの徳川家康)も参陣しています。5月18日、義元は沓掛城に本陣を布いて軍議を開いたといいます。そして、翌19日、運命の桶狭間に到着します。


 一方の織田信長は、圧倒的に劣勢の兵力を考えて籠城戦で耐え抜くのは困難と判断し、家臣の進言もあって野戦に討って出ることを決定します。このとき、信長が「敦盛」の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と謡い舞ったという逸話は、あまりにも有名ですね。のちに天下に名を轟かせる織田信長も、このときばかりは死を覚悟していたのかもしれません。事実、信長の戦歴のなかで、少数で大軍に討って出るような大博打を打ったのは、あとにも先にもこのときだけでした。


e0158128_16435426.jpg 19日明け方、義元の家臣・朝比奈泰朝が織田方の鷲津砦を落とし、隣接する丸根砦も松平元康によって落とされます。この報せを聞いた義元は、気を良くして桶狭間で休憩をとり、兵に弁当をつかわせました。このとき、近くの寺社から祝いの酒が届き、義元は兵たちに酒を振る舞ったともいいます。あるいは、直盛も酒を飲んでいたかもしれません。完全に緊張の糸が切れた状態でした。


 午後1時すぎ、桶狭間に視界を妨げるほどの豪雨が降ります。この雨の襲来をあらかじめ計算していたのかどうかは定かではありませんが、この雨に乗じて信長は兵を進め、休憩中の今川軍に気づかれることなく接近し、奇襲をかけます。今川軍はたちまち大混乱に陥り、ことごとく惨敗します。義元は織田方の毛利新助良勝に討ち取られ、首を取られました。その際、義元は相手の指を食いちぎって果てたと伝わります。


 この戦いで井伊直盛は先鋒を務めていたと伝わりますが、どのような最期を遂げたかは定かではありません。『寛政重修諸家譜』によると、


 「今川義元につかへ、永禄三年五月十九日尾張国桶狭間にをいて、義元とともに討死す。年三十五」


 と記されているのみで、どのような場面で討死したかは不明です。ドラマでは切腹して果てていましたが、これは後世に編纂された『井伊家伝記』によるものでしょう。それによれば、

 「直盛公切腹に臨んで奥山孫市郎の御遺言仰せ渡され候は、今後不慮の切腹是非に及ばず候。その方介錯仕り候て、死骸を国へ持参仕り、南渓和尚焼香成され候様に申す可く候。扨また、井伊谷は小野但馬が心入、心元無く候故、中野越後を留守に頼み置き候。此以後猶以て小野但馬と肥後守主従の間心元無く候間、中野越後守へ井伊谷を預け申し候間、時節を以て肥後守引馬へ移し替え申す様に、直平公に委細に申す可き旨仰せ渡され、是非なく奥山孫市郎、直盛公の御死骸を御介錯仕り、井伊谷へ帰国申し候」

 とあります。意訳すると、直盛はその死に際して、小野但馬守政次は信用できないので、中野越後守直由に留守を頼んできた。これからも政次と直親の主従関係が不安なので、直由に井伊谷を預けたい。時節を見て直親を引馬城に移したいので、このことを祖父・直平に伝えて欲しい、と遺言して、奥山孫市郎に介錯させて切腹した・・・と。ドラマの設定とは少し異なりますが、奥山孫市郎に介錯させて切腹したこと、その際の遺言などはここから採ったものでしょう。

 「お働き、まことご苦労さまでございました。おひげを整えましょうね・・・」

 となって帰ってきた直盛に妻・千賀が語りかけるシーンは、こみあげるものがありましたね。この時代、合戦で討死して帰ってきた首に、を入れて死化粧を施すのは妻の仕事でした。井伊家では、この戦いで死んだのは直盛だけでなく、一族・家臣の多くが討死しています。たぶん、千賀と同じように夫の首に死化粧を施した妻が、たくさんいたことでしょう。女も戦っていたんですね。

 この戦いによって、今川氏は没落の一途をたどり、信長は天下人への階段を駆け上がることになります。歴史が動いた瞬間でした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-06 16:50 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <後編>

記念日を1日過ぎちゃいましたが、昨日の続きです。

今回は、現在の本能寺を訪れました。

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織田信長が横死した「本能寺の変」の7年後にあたる天正17年(1589年)、豊臣秀吉が行った都市計画の区画整理でこの地に移されました。

旧本能寺跡地からは、直線距離にして1.2kmほどに位置します。

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その後も、天明8年(1788年)1月30日に起きた「天明の大火」、そして幕末の元治元年(1864年)7月18日に起きた「元治の大火」によって消失し、現在の本堂は昭和3年(1928年)に再建されたものだそうです。

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境内には、信長の廟所があります。

「本能寺の変」から1ヶ月後に信長の三男・信孝が焼け跡から燼骨を収集し、本能寺跡に墓所を建てたそうですが、その後、同寺の移転とともに、墓所もこの地に移されたそうです。

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いままで数々の小説やドラマなどになってきた「本能寺の変」ですが、どの作品でも概ね同じ描かれ方で、本能寺を包囲した明智軍鉄砲隊で攻撃し、それを信長自身もをとって応戦するも、腕に銃弾を受け、やがて観念した信長は、殿舎に火を放たせて自刃する、というものですよね。

これまで何度も観てきたシーンですが、これがどれほど事実かといえば、複数の史料を元にした、かなり信憑性の高い描写のようです。

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まず、信長の史料として最も信頼されている『信長公記』の記述から。

「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」

有名な「是非に及ばず」の台詞は、ここに記されているものです。

「言うまでもない、戦うまでだ!」といった意味でしょう。

また、同史料によると、

「信長、初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」


信長は、初めはで、弦が切れてからはで応戦したが、肘に槍傷を受けたため退き、女中たちを逃がし、御殿に火をつけて自害した・・・とあります。

『信長公記』の著者は信長の家臣だった太田牛一という人ですが、彼自身は本能寺にはいなかったものの、逃された女たちに取材して書いたものだそうです。

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また別の史料としては、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に、次のように記されています。

「厠から出てきて手と顔を洗っていた信長の背中に、明智方の者が放った矢が命中した。信長はその矢を引き抜き、鎌のような武器(長刀)を手にしてしばらく戦ったが、明智方の鉄砲隊が放った弾丸が左肩に命中すると、自ら部屋に入って障子を閉じ、火を放って自害した」

『信長公記』と少し違うところもありますが、概ね同じストーリーですよね。

『信長公記』が書かれたのはフロイスの死後のことで、同じような描写が日本とヨーロッパで執筆されていることを思えば、ほぼ史実とみていいのでしょう。

炎の中に消えた信長が、どんな死に方をしたかは、想像するしかありませんが。

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写真は「本能寺の変」で命を落とした側近たちの慰霊塔

森蘭丸らの名前も見られます。

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日本史のなかには、その時代時代に数々のターニングポイントがありますが、その中でも、この「本能寺の変」いちばんの分岐点だったとわたしは思います。

天下分け目といわれる「関ヶ原の戦い」ですが、もし、西軍が勝っていたとしても、やはり豊臣政権は長続きしなかったでしょうし、となれば、結局は250万石を有する徳川家覇権が移っていた可能性が高いでしょう。

もし、後醍醐天皇が事を起こさなくても、遠からず鎌倉幕府滅亡していたでしょうし、もし、ペリー艦隊が来航しなくても、他国から何らかの圧力がかかって、結局は明治維新を迎えていたでしょう。

どれも、微妙な狂いは起きていたでしょうが、たぶん、似たような歴史を歩んだと思うんですね。

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ところが、この「本能寺の変」だけは、もし起きていなければ全然違う歴史を辿った可能性が極めて高いといえます。

信長が横死しなければ、当然、豊臣政権はなかったわけですし、となれば、のちの徳川政権も、言うまでもなく存在しません。

現代のわたしたち日本人の国民性は、ほぼ徳川期250年で形成されたといわれますから、もし、徳川政権時代がなければ、日本はずいぶんと違った国になっていたでしょう。

そう考えれば、「本能寺の変」が変えた歴史というのは計り知れないといえます。

一般に「明智光秀の三日天下」などと言われますが、たしかに明智光秀自身が天下人になることはありませんでしたが、天下を大きく変えたという意味では、歴史上なくてはならなかった希有な人物といえます。

ある意味、「天下人」といえるかもしれませんね。

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日本史に興味がない人でも、「本能寺の変」を知らない人はほとんどいないでしょう。

それは、それだけ歴史的に大きな出来事だったからだといえます。

人はこの出来事を400年以上もの長きにわたって語り継ぎ、人間の持つ「おごり」や、人の上に立つ者の「心得」を学び得てきたのかもしれません。

その意味では、後世のわたしたち道徳教科書として、大きな意味を持った歴史の必然だったのかもしれませんね。

温故知新です。




「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <前編>



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-03 01:40 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント。 <前編>

本日6月2日といえば、日本史上最大のターニングポイントといっていい「本能寺の変」の起きた日です(現代の暦でいえば、6月21日にあたりますが)。

そこで、以前訪れた本能寺跡の写真を紹介しながら、本能寺の変をふりかえります。

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天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前にした戦国の覇王織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって殺害されました。

現在、その跡地には京都市立堀川高等学校、特別養護老人ホーム、本能寺会館などが建てられています。

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それ以前は、京都市立本能小学校がありましたが、平成4年(1992年)に廃校となり、その際に行われた発掘調査で、当時の遺構が発見されて話題を呼びました。

それまでは、地名からたぶんこのあたりだったのだろうといった推定でしかなかったんですね。

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また、平成19年(2007年)のマンション建設に伴う発掘調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっています。

現在は、石碑や説明板が数か所に設置されています。

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備中高松城を攻めていた羽柴秀吉から援軍要請を受けた信長は、堀秀政、細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀らに援軍を命じ、安土城徳川家康の饗応役を務めていた明智光秀にも出陣を命じます。

光秀は5月17日に坂本城、26日に亀山城に移り、27日には愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と連歌会・愛宕百韻を催しました。

このとき光秀が詠んだ

「時は今 雨が下しる 五月哉」

という歌が、彼の謀反の決意を表したものだといわれています。

「時」「土岐」「雨が下しる」「天が下知る」と意味し、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるといいます。

そう言われればそうも思えますし、こじつけと言われればそうとも言えます。

実際、いつ、どのタイミングで光秀が謀反を決意したのかは、想像するしかありません。

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6月1日夜半、亀山城を進発した光秀軍は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止。

そこで、斎藤利三ら重臣に本能寺襲撃計画を打ち明けたといいます。

重臣の中には反対意見もあったといいますが、結局は全軍に「信長公が京で閲兵を望んでいる」と伝え、進路を京都に向かって東に取りました。

そして桂川を渡る頃、全軍に本能寺襲撃を下知します。

「敵は本能寺にあり!」と、言ったかどうかはわかりませんが。

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6月2日早暁、明智軍1万3千は本能寺を襲撃。

信長は弓と槍で奮戦しますが、森蘭丸をはじめ、わずかな供廻りの小姓たちの殆どが討死

信長も肘に槍傷を受けて退き、観念した信長は女達を退出させたあと、殿舎に火を放たせ、炎の中で自刃しました。

嫡子・織田信忠妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとしたが村井貞勝らがこれを止め、信忠は隣接する二条御所に立て籠りますが、光秀軍は御所に隣接する近衛前久邸の屋上から矢・鉄砲を撃ち掛け、信忠も抗戦敵わず自刃します。

日本の歴史が大きく変わった瞬間です。

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明智光秀の謀反に至る動機については野望説黒幕説、朝廷守護説、謀略説など様々な説が乱立していますが、どれも決定的なものはありません。

おそらく、永遠に歴史の謎でしょうね。

小説やドラマなどでは、もっともわかりやすい怨恨説で描かれることが多いかと思いますが、今年の新春時代劇『信長燃ゆ』では、朝廷黒幕説で描かれていましたね(参照:新春時代劇『信長燃ゆ』鑑賞記)。

これも、考えられなくもありません。

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ただ、変後の光秀の行動などを見ると、彼ほどの人物にしてはあまりにも無計画すぎる気がして、やはり、わたしは怨恨による衝動的な行動だったように思えてなりません。

光秀は、現代で言うところのうつ病状態だったんじゃないかと・・・。

まあ、これも想像の域を出ませんけどね。

長くなっちゃったので、明日に続きます。



「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント。 <後編>

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by sakanoueno-kumo | 2016-06-02 00:21 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

真田丸 第4話「挑戦」 ~織田信長に臣従した真田昌幸~

 武田氏を滅ぼした織田信長は、旧武田領に戦で功のあった配下の者を配置しました。甲斐国には河尻秀隆、駿河国には徳川家康、上野国には滝川一益、そして信濃国は、森長可、毛利長秀、木曽義昌、河尻秀隆、滝川一益の5人に分け与えられました。真田家の支配していた小県郡も例外ではなく、滝川一益の傘下に入ることになります。


 「これもひとつの戦である。父の戦いぶりをしかと目に焼き付けておけ!」

e0158128_21171200.jpg ドラマでは、そう言って信長との対面に臨んだ真田昌幸でしたが、実際に昌幸と信長が対面したかどうかは定かではありません。というのも、真田家が織田家の傘下に入ってから、わずか3ヶ月で「本能寺の変」が起こっていますからね。実際には、織田家の代官として東国取次を任されていた滝川一益を介しての臣下の礼をとっただけで、信長に会う機会はなかったんじゃないでしょうか。ただ、昌幸は織田家に従属する証として娘を人質に送り、信長の好みそうな黒芦毛の馬を送ったというのは事実のようで、本能寺の変の約2ヶ月前の4月8日付で信長が昌幸に送った礼状が残されているそうです。この逸話は、池波正太郎『真田太平記』をはじめ、多くの物語で採用されています。


 ドラマのフィクションとはいえ、昌幸の信長謁見のシーンは見応えがありましたね。上杉、織田の両方に宛てた手紙を手に、真田の二心を糾弾する織田信忠。しかし、もともとは昌幸が仕組んだシナリオだけに、思惑通りの展開に動じることなく、自分たちの留守中に上杉を牽制するための方便であると説明。そして、


 「乱世を生き抜くにはかような知恵も欠かせませぬ。四方を力のある国に囲まれた我らのようなか弱き国衆はそこまで慎重にならねばならんのです。・・・しかるに、そのような大事な文が上杉に届かずここにあるということは、我が真田家にとってゆゆしき事態でござる。かくなる上は、信長公には上杉から我らを守り抜いていただかなくては、これは困りますぞ。」


 自分で仕組んでおきながら、なんとも図々しい話です(笑)。信忠と昌幸の役者の違いが十分に描かれていたシーンでしたが、役者でいえば、ほぼ互角といえる家康は、昌幸のシナリオを見抜いていた・・・と。その上で、


家康「実はこのあと、上杉の家臣・直江兼続と会うことになっておりまする。別の間に控えさせておるところにござる。というわけで安房守殿。今、ここに直江を呼び出してちと尋ねてみてもよろしいかな?」

昌幸「何を?」

家康「真田殿に誘いの文を出したのがまことか否か、確かめたい。」

昌幸「確かめたければ確かめるがよろしい。」

家康「しらを切った上で嘘と分かれば赦されませぬぞ。」

昌幸「このような場で偽りなど、あってはならぬことであろう。」


偽りなどあってはならぬというのは、自身の偽手紙のことか、あるいは、別室に直江兼続がいるといった家康の脅しか・・・。互いの腹の中を探りながらの睨み合いは、手に汗握るシーンでしたね。まさに、これもひとつの戦でした。


 そして最後に現れた信長との対面は、家康とのあいだで見せたかけひきなどありません。

「真田安房守か・・・よき面構えじゃ。」

 さすがの昌幸も圧倒されます。ここでは逆に、信長と昌幸の格の違いを魅せつけられました。見事な脚本、演出でしたね。This is 大河”です。


 本能寺の変までのプロセスは、ただ、ワンシーンだけ。

「おぬしが何をしたのじゃ!もう一度申してみよ!申してみよ!」

戦国好きなら、そして大河ドラマファンなら、何度も繰り返し観てきたシーンで、この台詞だけですべてが伝わります。視聴者を信頼した憎い演出ですね。いや~、今話は魅せられっぱなしでした。


 「敵は本能寺にあり!」

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変勃発。第4話にして本能寺の変とは、大河ドラマ史上もっとも早い本能寺の変ではないでしょうか?これを機に時代は大きく動き、真田家も、その渦の中に巻き込まれていきます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-02-01 21:19 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

新春時代劇『信長燃ゆ』 鑑賞記

今年のテレビ東京新春時代劇『信長燃ゆ』を今頃ようやく観ました。

天正9年(1581年)2月の京都馬揃えから翌年6月の本能寺の変までの1年余りが舞台で、「本能寺の変朝廷黒幕説」をベースに描かれた物語です。

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本能寺の変に至る要因については、様々な解釈のもとに諸説ありますが(ありすぎるくらいですが)、この朝廷黒幕説については、平成に入ってからにわかに脚光を浴びるようになった推論です。

わたしは、歴史の経緯というのは意外にシンプルなものだと思っているので、単純に怨恨説を支持したいところですが、もし黒幕が存在するとすれば、朝廷説がもっとも説得力があるとは思いますね。

その他の説(羽柴秀吉説とか足利義昭説、その他多数)は、あまりにも穿ち過ぎで、俗説の域を出ないかな・・・と。

朝廷黒幕説の推論によると、「天下布武」をスローガンに破竹の勢いで権力を手にした織田信長は、朝廷の権威を軽んじ、朝廷に圧力をかけていたといわれ、その軋轢が変を引き起こしたといいます。

具体的には、ドラマ冒頭で描かれた京都馬揃えは、信長が朝廷を威圧するために行った軍事パレードだったといいわれ、当初、信長は天皇に左義長(さぎちょう)(どんど焼き)申し入させたのに、信長が馬揃えにすり替えたという説です。

また、ドラマにあったように、信長の意に従わない正親町天皇(第106代天皇)に譲位を迫ったという話や、公家衆に信長への戦勝祈願出迎えなどを強要したりと、信長の大義づくりに朝廷が利用されていたというんですね。

たしかに、信長は朝廷の権威というものを軽んじていたと思える行動が多く見られます。

たとえば、信長は朝廷から与えられる官位には興味がなく、天正6年(1578年)に右大臣の職を辞したあとは、官職に就きませんでした。

その後、本能寺の変が起きる直前の5月に朝廷は信長に対して、征夷大将軍、関白、太政大臣の三職のいずれかに就任してはどうかと持ちかけていますが、信長がその返答をする前に変が起こってしまったため、信長自身がどのような構想を持っていたのかは永遠の謎となりました。

でも、これまでの行動からいって、たぶん、どの職にも就かなかったんじゃないかと・・・。

というのも、信長の行動や思想を振り返るに、有名な比叡山焼き討ちを始め、恵林寺焼き討ち石山本願寺との闘いなど、古い権威というものを毛嫌いする行動が多々見られます。

その意味では、朝廷及び天皇家というのは、古い権威の最高峰ともいえる組織であり、信長の性格からいえば、最も忌み嫌う存在だったかもしれません。

一説には、信長は、「皇位簒奪」を目論んでいたのではないかとも言われます(皇位簒奪とは、天皇を廃して自らが日本の王になろうとすること)。

これを恐れた朝廷は、明智光秀信長追討を促し、決起に至った・・・と。

たしかに、信長ならあり得る目論見だったかもしれません。

ただ、もし本当に信長が皇位簒奪を目指していたならば、光秀の謀反は天皇に対する逆賊の成敗として大いに正当化され、もっと味方を得られたんじゃないかとも思います。

ところが、結果は歴史の示すとおり。

となれば、この皇位簒奪説は考えられなくはないものの、少し深読みし過ぎのような気もします。

朝廷黒幕説の首謀者としては、正親町天皇、誠仁親王をはじめ、近衛前久、勧修寺晴豊、吉田兼見ら公家衆など、様々な見方がありますが、物語では近衛前久説を採っていましたね。

この近衛前久という人は、実際に信長と親交の深かった公家で、石山合戦の調停役として尽力したり、織田軍の武田攻めに従軍するなど、公家としては珍しい豪胆な人物でした。

ドラマでも描かれていましたが、信長とは鷹狩という共通の趣味を通して付き合いがあったようです。

信長の前久に対する信頼は厚かったようで、前久が息子・信基にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」という約束を得たといいます。

朝廷を軽んじていたといわれる信長ですが、前久だけは別格だったようですね。

そんな前久が、なぜ黒幕と疑われるのか・・・。

その理由として、前久は変後すぐに嵯峨に隠れた上に、 山崎の戦い後も、信長の三男・神戸信孝追討令を出して執拗に行方を捜していたことがあげられます。

追討令が出されたということは、当時も、疑いの目を向けられていたということですよね。

また、同じく公家の吉田兼見(ドラマでは笹野高史さんが演じておられた人物)は、彼が記した日記によって、信長と朝廷の関係を後世の私たちが知ることができているのですが、本能寺の変の前後1ヶ月分の日記が、後に書き換えられた形跡があるそうです。

何か、都合が悪いことがあったのではないかと・・・。

この吉田兼見も、変後に事情聴取を受けています。

しかし、どちらも疑わしくはありますが、決定的証拠とは言えません。

結局は、どれも推論の域をでることはないですね。

ただ、物語として見るには、単なる怨恨説よりは遥かに面白いですけどね。

ちなみに、ドラマでは、誠仁親王の后・勧修寺晴子と信長の禁断の恋が描かれていましたが、いうまでもなく、あれはドラマのオリジナルです。

いまで言えば、皇太子妃総理大臣不倫関係になるようなものですから、ありえないでしょう(笑)。

ちなみにちなみに、物語の語り部となっていた森坊丸は、実際には兄・森蘭丸と共に、本能寺で落命したとされています。

最後に、毎年楽しみにしているテレビ東京新春時代劇ですが、かつては元旦に12時間ほどあった長編ドラマでしたが、近年、だんだん短くなっていって、今年はとうとう3時間ドラマになっちゃいましたね。

時代劇というのはかなりお金が掛かると聞きますから、いまのご時世、そういう大人の事情がるのでしょうが、ただでさえ民放の時代劇がなくなっていくなか、正月恒例のこのドラマまでなくなってしまうと、時代劇はNHKにか作れないものになってしまいます。

なんとか続けてほしいですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-01-14 13:54 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)