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おんな城主 直虎 第16話「綿毛の案」 ~綿花栽培と乱妨取り~

 前話で今川家の寿桂尼から井伊虎松の後見を許された井伊直虎でしたが、今話はその「民を潤す」といったスローガンのとおり、領国経営に奮闘するお話。そもそも、百姓が求めていた徳政令の発布を先延ばしにしたわけですから、それに変わる対策を講じなければ、民が逃散してしまいます。井伊家にとっても、民が潤わなければ年貢が入らないわけですから、死活問題です。そこで目をつけたのが、綿花栽培だったわけですね。ただ、前話の稿でも述べたとおり、直虎が徳政令の発布を先送りした2年間のことは全く記録が残っておらず、もちろん今話のエピソードもドラマのオリジナルです。


 もっとも、浜松が綿花栽培の地だったというのは事実で、直虎の時代に始まっていたかどうかはわかりませんが、江戸時代中期には全国でも有数の綿花産地となっていました。遠州地方は、天竜川の豊かな水と温暖な気候によって、綿花の栽培に適していたようです。やがて、浜松城主・井上正甫が農家の副業として綿織物を推奨したことから、繊維産業が盛んになります。これが、現在に続く「遠州木綿」の原点です。


 時代は下って明治に入ると、紡績工場が作られるまでに発展を遂げ、浜松の綿産業は日本を代表する産業のひとつになります。そして、明治29年(1898年)、トヨタグループの創始者である豊田佐吉が、木製の動力織機を発明したことを機に、一大産業に発展していきます。そしてそして、その技術は、やがてトヨタ自動車の技術へと繋がっていき、さらには、ホンダ、スズキ、ヤマハなどのバイクや楽器にも飛び火していくんですね。


つまり、今話で直虎たちが蒔いた1粒の綿花の種が、世界のトヨタに繋がっていくわけです。少し大袈裟なようですが、産業を起こすということはそういうことなんじゃないかと。その土地の風土にあった歴史を創るってことなんですね。自動車や楽器など、一見、風土などとは無縁の産業に思いがちですが、歴史を掘り下げてみると、農業国ニッポンならではの風土的根拠があるわけです。面白いですね。


 綿花栽培を起こすにあったての人手不足の問題を解決するために、「百姓を貸してほしい」と頼みまわる直虎でしたが、すべて断られてしまいます。これは当然のことですよね。百姓は大事な労働力であり、大切な納税者であり、さらには、兵農分離が確立されていないこの時代、百姓も貴重な兵力でした。この時代の兵士のほとんどは、普段は農業に従事し、召集がかかると武装して参戦する半農半士の者たちだったんですね。だから、領主たちは戦を仕掛けるにも、農繁期を避けて農閑期を選ばなけれなりませんでした。つまり、経済面からも軍事面からも民百姓の数は国力であり、容易に貸し出せるようなものではありません。もっとも、金銭で兵を雇う傭兵制度は当時もありました。しかし、それも農閑期に限ったようです。


 ちなみに、兵農分離を積極的に取り入れて常備軍を作り上げたのが織田信長、豊臣秀吉で、だから天下を取ったともいえます。(もちろん、それだけが理由ではありませんが)


 あと、人身売買の話も出てきましたね。「人の売り買いが出やすいのは戦場でしてな」という瀬戸方久の言葉からするに、ここでいう「人を買う」というのは、おそらく「乱妨取り」のことだと思われます。「乱妨取り」とは、戦場で逃げ惑う民を拉致監禁し、人身売買することで、子どもは奴隷として売られ、女性はその場で身ぐるみを剥がれてレイプされたり、欧州やタイ、カンボジアに性奴隷として売られたりしました。人身売買の相場はドラマで言っていたとおり一人につき二貫文(現代の価値で約30万円)でしたが、戦の着後は乱妨取りが多く行われるため、25文(約4千円)ほどに急落したそうです。つまり、方久が言う「手頃な戦場」というのは、「奴隷が4千円ほどで買えるよ!」ってことです。この提案に目を輝かせる直虎。おいおい!これ、実はめちゃくちゃ残酷な話なんですけど・・・。


 ちなみに、直虎の父・井伊直盛が死んだ桶狭間の戦いで、今川義元の大軍が少数の織田信長軍に敗れた理由を、「民家への略奪行為で油断する今川軍を急襲したから」とする説があります。つまり、敗因は乱妨取りだったと。だとすると、直虎のお父ちゃんも、民への乱暴狼藉をやってたのかもしれません。ドラマの直盛像を壊しちゃうようですが。


 ちなみにちなみに、意外にも織田信長は、自軍の乱妨取りを厳しく禁止していたといいます。逆に、義を重んじていた上杉謙信は、自軍の乱妨取りを黙認していたとか。わからないものですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-24 21:18 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第9話「桶狭間に死す」 ~桶狭間の戦い~

 永禄3年(1560年)5月19日、尾張国桶狭間において、その後のわが国の歴史を大きく左右することになる合戦が行われます。世にいう桶狭間の戦いですね。今川義元率いる大軍を少数の織田信長が討ち取り、その名を天下に轟かせたことで知られるこの戦いですが、井伊家では、この戦いで当主の井伊直盛討死したと伝えられます。


e0158128_16435176.jpg 5月12日、今川義元は4万(一説には2万5千とも)の軍勢を率いて西へ進軍します。その目的は、上洛のためとも尾張国の制圧のためとも言われますが、定かではありません。そのなかには、若き日の松平元康(のちの徳川家康)も参陣しています。5月18日、義元は沓掛城に本陣を布いて軍議を開いたといいます。そして、翌19日、運命の桶狭間に到着します。


 一方の織田信長は、圧倒的に劣勢の兵力を考えて籠城戦で耐え抜くのは困難と判断し、家臣の進言もあって野戦に討って出ることを決定します。このとき、信長が「敦盛」の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と謡い舞ったという逸話は、あまりにも有名ですね。のちに天下に名を轟かせる織田信長も、このときばかりは死を覚悟していたのかもしれません。事実、信長の戦歴のなかで、少数で大軍に討って出るような大博打を打ったのは、あとにも先にもこのときだけでした。


e0158128_16435426.jpg 19日明け方、義元の家臣・朝比奈泰朝が織田方の鷲津砦を落とし、隣接する丸根砦も松平元康によって落とされます。この報せを聞いた義元は、気を良くして桶狭間で休憩をとり、兵に弁当をつかわせました。このとき、近くの寺社から祝いの酒が届き、義元は兵たちに酒を振る舞ったともいいます。あるいは、直盛も酒を飲んでいたかもしれません。完全に緊張の糸が切れた状態でした。


 午後1時すぎ、桶狭間に視界を妨げるほどの豪雨が降ります。この雨の襲来をあらかじめ計算していたのかどうかは定かではありませんが、この雨に乗じて信長は兵を進め、休憩中の今川軍に気づかれることなく接近し、奇襲をかけます。今川軍はたちまち大混乱に陥り、ことごとく惨敗します。義元は織田方の毛利新助良勝に討ち取られ、首を取られました。その際、義元は相手の指を食いちぎって果てたと伝わります。


 この戦いで井伊直盛は先鋒を務めていたと伝わりますが、どのような最期を遂げたかは定かではありません。『寛政重修諸家譜』によると、


 「今川義元につかへ、永禄三年五月十九日尾張国桶狭間にをいて、義元とともに討死す。年三十五」


 と記されているのみで、どのような場面で討死したかは不明です。ドラマでは切腹して果てていましたが、これは後世に編纂された『井伊家伝記』によるものでしょう。それによれば、

 「直盛公切腹に臨んで奥山孫市郎の御遺言仰せ渡され候は、今後不慮の切腹是非に及ばず候。その方介錯仕り候て、死骸を国へ持参仕り、南渓和尚焼香成され候様に申す可く候。扨また、井伊谷は小野但馬が心入、心元無く候故、中野越後を留守に頼み置き候。此以後猶以て小野但馬と肥後守主従の間心元無く候間、中野越後守へ井伊谷を預け申し候間、時節を以て肥後守引馬へ移し替え申す様に、直平公に委細に申す可き旨仰せ渡され、是非なく奥山孫市郎、直盛公の御死骸を御介錯仕り、井伊谷へ帰国申し候」

 とあります。意訳すると、直盛はその死に際して、小野但馬守政次は信用できないので、中野越後守直由に留守を頼んできた。これからも政次と直親の主従関係が不安なので、直由に井伊谷を預けたい。時節を見て直親を引馬城に移したいので、このことを祖父・直平に伝えて欲しい、と遺言して、奥山孫市郎に介錯させて切腹した・・・と。ドラマの設定とは少し異なりますが、奥山孫市郎に介錯させて切腹したこと、その際の遺言などはここから採ったものでしょう。

 「お働き、まことご苦労さまでございました。おひげを整えましょうね・・・」

 となって帰ってきた直盛に妻・千賀が語りかけるシーンは、こみあげるものがありましたね。この時代、合戦で討死して帰ってきた首に、を入れて死化粧を施すのは妻の仕事でした。井伊家では、この戦いで死んだのは直盛だけでなく、一族・家臣の多くが討死しています。たぶん、千賀と同じように夫の首に死化粧を施した妻が、たくさんいたことでしょう。女も戦っていたんですね。

 この戦いによって、今川氏は没落の一途をたどり、信長は天下人への階段を駆け上がることになります。歴史が動いた瞬間でした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-06 16:50 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <後編>

記念日を1日過ぎちゃいましたが、昨日の続きです。

今回は、現在の本能寺を訪れました。

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織田信長が横死した「本能寺の変」の7年後にあたる天正17年(1589年)、豊臣秀吉が行った都市計画の区画整理でこの地に移されました。

旧本能寺跡地からは、直線距離にして1.2kmほどに位置します。

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その後も、天明8年(1788年)1月30日に起きた「天明の大火」、そして幕末の元治元年(1864年)7月18日に起きた「元治の大火」によって消失し、現在の本堂は昭和3年(1928年)に再建されたものだそうです。

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境内には、信長の廟所があります。

「本能寺の変」から1ヶ月後に信長の三男・信孝が焼け跡から燼骨を収集し、本能寺跡に墓所を建てたそうですが、その後、同寺の移転とともに、墓所もこの地に移されたそうです。

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いままで数々の小説やドラマなどになってきた「本能寺の変」ですが、どの作品でも概ね同じ描かれ方で、本能寺を包囲した明智軍鉄砲隊で攻撃し、それを信長自身もをとって応戦するも、腕に銃弾を受け、やがて観念した信長は、殿舎に火を放たせて自刃する、というものですよね。

これまで何度も観てきたシーンですが、これがどれほど事実かといえば、複数の史料を元にした、かなり信憑性の高い描写のようです。

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まず、信長の史料として最も信頼されている『信長公記』の記述から。

「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」

有名な「是非に及ばず」の台詞は、ここに記されているものです。

「言うまでもない、戦うまでだ!」といった意味でしょう。

また、同史料によると、

「信長、初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」


信長は、初めはで、弦が切れてからはで応戦したが、肘に槍傷を受けたため退き、女中たちを逃がし、御殿に火をつけて自害した・・・とあります。

『信長公記』の著者は信長の家臣だった太田牛一という人ですが、彼自身は本能寺にはいなかったものの、逃された女たちに取材して書いたものだそうです。

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また別の史料としては、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に、次のように記されています。

「厠から出てきて手と顔を洗っていた信長の背中に、明智方の者が放った矢が命中した。信長はその矢を引き抜き、鎌のような武器(長刀)を手にしてしばらく戦ったが、明智方の鉄砲隊が放った弾丸が左肩に命中すると、自ら部屋に入って障子を閉じ、火を放って自害した」

『信長公記』と少し違うところもありますが、概ね同じストーリーですよね。

『信長公記』が書かれたのはフロイスの死後のことで、同じような描写が日本とヨーロッパで執筆されていることを思えば、ほぼ史実とみていいのでしょう。

炎の中に消えた信長が、どんな死に方をしたかは、想像するしかありませんが。

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写真は「本能寺の変」で命を落とした側近たちの慰霊塔

森蘭丸らの名前も見られます。

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日本史のなかには、その時代時代に数々のターニングポイントがありますが、その中でも、この「本能寺の変」いちばんの分岐点だったとわたしは思います。

天下分け目といわれる「関ヶ原の戦い」ですが、もし、西軍が勝っていたとしても、やはり豊臣政権は長続きしなかったでしょうし、となれば、結局は250万石を有する徳川家覇権が移っていた可能性が高いでしょう。

もし、後醍醐天皇が事を起こさなくても、遠からず鎌倉幕府滅亡していたでしょうし、もし、ペリー艦隊が来航しなくても、他国から何らかの圧力がかかって、結局は明治維新を迎えていたでしょう。

どれも、微妙な狂いは起きていたでしょうが、たぶん、似たような歴史を歩んだと思うんですね。

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ところが、この「本能寺の変」だけは、もし起きていなければ全然違う歴史を辿った可能性が極めて高いといえます。

信長が横死しなければ、当然、豊臣政権はなかったわけですし、となれば、のちの徳川政権も、言うまでもなく存在しません。

現代のわたしたち日本人の国民性は、ほぼ徳川期250年で形成されたといわれますから、もし、徳川政権時代がなければ、日本はずいぶんと違った国になっていたでしょう。

そう考えれば、「本能寺の変」が変えた歴史というのは計り知れないといえます。

一般に「明智光秀の三日天下」などと言われますが、たしかに明智光秀自身が天下人になることはありませんでしたが、天下を大きく変えたという意味では、歴史上なくてはならなかった希有な人物といえます。

ある意味、「天下人」といえるかもしれませんね。

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日本史に興味がない人でも、「本能寺の変」を知らない人はほとんどいないでしょう。

それは、それだけ歴史的に大きな出来事だったからだといえます。

人はこの出来事を400年以上もの長きにわたって語り継ぎ、人間の持つ「おごり」や、人の上に立つ者の「心得」を学び得てきたのかもしれません。

その意味では、後世のわたしたち道徳教科書として、大きな意味を持った歴史の必然だったのかもしれませんね。

温故知新です。




「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <前編>



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-03 01:40 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント。 <前編>

本日6月2日といえば、日本史上最大のターニングポイントといっていい「本能寺の変」の起きた日です(現代の暦でいえば、6月21日にあたりますが)。

そこで、以前訪れた本能寺跡の写真を紹介しながら、本能寺の変をふりかえります。

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天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前にした戦国の覇王織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって殺害されました。

現在、その跡地には京都市立堀川高等学校、特別養護老人ホーム、本能寺会館などが建てられています。

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それ以前は、京都市立本能小学校がありましたが、平成4年(1992年)に廃校となり、その際に行われた発掘調査で、当時の遺構が発見されて話題を呼びました。

それまでは、地名からたぶんこのあたりだったのだろうといった推定でしかなかったんですね。

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また、平成19年(2007年)のマンション建設に伴う発掘調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっています。

現在は、石碑や説明板が数か所に設置されています。

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備中高松城を攻めていた羽柴秀吉から援軍要請を受けた信長は、堀秀政、細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀らに援軍を命じ、安土城徳川家康の饗応役を務めていた明智光秀にも出陣を命じます。

光秀は5月17日に坂本城、26日に亀山城に移り、27日には愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と連歌会・愛宕百韻を催しました。

このとき光秀が詠んだ

「時は今 雨が下しる 五月哉」

という歌が、彼の謀反の決意を表したものだといわれています。

「時」「土岐」「雨が下しる」「天が下知る」と意味し、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるといいます。

そう言われればそうも思えますし、こじつけと言われればそうとも言えます。

実際、いつ、どのタイミングで光秀が謀反を決意したのかは、想像するしかありません。

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6月1日夜半、亀山城を進発した光秀軍は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止。

そこで、斎藤利三ら重臣に本能寺襲撃計画を打ち明けたといいます。

重臣の中には反対意見もあったといいますが、結局は全軍に「信長公が京で閲兵を望んでいる」と伝え、進路を京都に向かって東に取りました。

そして桂川を渡る頃、全軍に本能寺襲撃を下知します。

「敵は本能寺にあり!」と、言ったかどうかはわかりませんが。

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6月2日早暁、明智軍1万3千は本能寺を襲撃。

信長は弓と槍で奮戦しますが、森蘭丸をはじめ、わずかな供廻りの小姓たちの殆どが討死

信長も肘に槍傷を受けて退き、観念した信長は女達を退出させたあと、殿舎に火を放たせ、炎の中で自刃しました。

嫡子・織田信忠妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとしたが村井貞勝らがこれを止め、信忠は隣接する二条御所に立て籠りますが、光秀軍は御所に隣接する近衛前久邸の屋上から矢・鉄砲を撃ち掛け、信忠も抗戦敵わず自刃します。

日本の歴史が大きく変わった瞬間です。

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明智光秀の謀反に至る動機については野望説黒幕説、朝廷守護説、謀略説など様々な説が乱立していますが、どれも決定的なものはありません。

おそらく、永遠に歴史の謎でしょうね。

小説やドラマなどでは、もっともわかりやすい怨恨説で描かれることが多いかと思いますが、今年の新春時代劇『信長燃ゆ』では、朝廷黒幕説で描かれていましたね(参照:新春時代劇『信長燃ゆ』鑑賞記)。

これも、考えられなくもありません。

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ただ、変後の光秀の行動などを見ると、彼ほどの人物にしてはあまりにも無計画すぎる気がして、やはり、わたしは怨恨による衝動的な行動だったように思えてなりません。

光秀は、現代で言うところのうつ病状態だったんじゃないかと・・・。

まあ、これも想像の域を出ませんけどね。

長くなっちゃったので、明日に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-02 00:21 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

真田丸 第4話「挑戦」 ~織田信長に臣従した真田昌幸~

 武田氏を滅ぼした織田信長は、旧武田領に戦で功のあった配下の者を配置しました。甲斐国には河尻秀隆、駿河国には徳川家康、上野国には滝川一益、そして信濃国は、森長可、毛利長秀、木曽義昌、河尻秀隆、滝川一益の5人に分け与えられました。真田家の支配していた小県郡も例外ではなく、滝川一益の傘下に入ることになります。


 「これもひとつの戦である。父の戦いぶりをしかと目に焼き付けておけ!」

e0158128_21171200.jpg ドラマでは、そう言って信長との対面に臨んだ真田昌幸でしたが、実際に昌幸と信長が対面したかどうかは定かではありません。というのも、真田家が織田家の傘下に入ってから、わずか3ヶ月で「本能寺の変」が起こっていますからね。実際には、織田家の代官として東国取次を任されていた滝川一益を介しての臣下の礼をとっただけで、信長に会う機会はなかったんじゃないでしょうか。ただ、昌幸は織田家に従属する証として娘を人質に送り、信長の好みそうな黒芦毛の馬を送ったというのは事実のようで、本能寺の変の約2ヶ月前の4月8日付で信長が昌幸に送った礼状が残されているそうです。この逸話は、池波正太郎『真田太平記』をはじめ、多くの物語で採用されています。


 ドラマのフィクションとはいえ、昌幸の信長謁見のシーンは見応えがありましたね。上杉、織田の両方に宛てた手紙を手に、真田の二心を糾弾する織田信忠。しかし、もともとは昌幸が仕組んだシナリオだけに、思惑通りの展開に動じることなく、自分たちの留守中に上杉を牽制するための方便であると説明。そして、


 「乱世を生き抜くにはかような知恵も欠かせませぬ。四方を力のある国に囲まれた我らのようなか弱き国衆はそこまで慎重にならねばならんのです。・・・しかるに、そのような大事な文が上杉に届かずここにあるということは、我が真田家にとってゆゆしき事態でござる。かくなる上は、信長公には上杉から我らを守り抜いていただかなくては、これは困りますぞ。」


 自分で仕組んでおきながら、なんとも図々しい話です(笑)。信忠と昌幸の役者の違いが十分に描かれていたシーンでしたが、役者でいえば、ほぼ互角といえる家康は、昌幸のシナリオを見抜いていた・・・と。その上で、


家康「実はこのあと、上杉の家臣・直江兼続と会うことになっておりまする。別の間に控えさせておるところにござる。というわけで安房守殿。今、ここに直江を呼び出してちと尋ねてみてもよろしいかな?」

昌幸「何を?」

家康「真田殿に誘いの文を出したのがまことか否か、確かめたい。」

昌幸「確かめたければ確かめるがよろしい。」

家康「しらを切った上で嘘と分かれば赦されませぬぞ。」

昌幸「このような場で偽りなど、あってはならぬことであろう。」


偽りなどあってはならぬというのは、自身の偽手紙のことか、あるいは、別室に直江兼続がいるといった家康の脅しか・・・。互いの腹の中を探りながらの睨み合いは、手に汗握るシーンでしたね。まさに、これもひとつの戦でした。


 そして最後に現れた信長との対面は、家康とのあいだで見せたかけひきなどありません。

「真田安房守か・・・よき面構えじゃ。」

 さすがの昌幸も圧倒されます。ここでは逆に、信長と昌幸の格の違いを魅せつけられました。見事な脚本、演出でしたね。This is 大河”です。


 本能寺の変までのプロセスは、ただ、ワンシーンだけ。

「おぬしが何をしたのじゃ!もう一度申してみよ!申してみよ!」

戦国好きなら、そして大河ドラマファンなら、何度も繰り返し観てきたシーンで、この台詞だけですべてが伝わります。視聴者を信頼した憎い演出ですね。いや~、今話は魅せられっぱなしでした。


 「敵は本能寺にあり!」

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変勃発。第4話にして本能寺の変とは、大河ドラマ史上もっとも早い本能寺の変ではないでしょうか?これを機に時代は大きく動き、真田家も、その渦の中に巻き込まれていきます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-02-01 21:19 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

新春時代劇『信長燃ゆ』 鑑賞記

今年のテレビ東京新春時代劇『信長燃ゆ』を今頃ようやく観ました。

天正9年(1581年)2月の京都馬揃えから翌年6月の本能寺の変までの1年余りが舞台で、「本能寺の変朝廷黒幕説」をベースに描かれた物語です。

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本能寺の変に至る要因については、様々な解釈のもとに諸説ありますが(ありすぎるくらいですが)、この朝廷黒幕説については、平成に入ってからにわかに脚光を浴びるようになった推論です。

わたしは、歴史の経緯というのは意外にシンプルなものだと思っているので、単純に怨恨説を支持したいところですが、もし黒幕が存在するとすれば、朝廷説がもっとも説得力があるとは思いますね。

その他の説(羽柴秀吉説とか足利義昭説、その他多数)は、あまりにも穿ち過ぎで、俗説の域を出ないかな・・・と。

朝廷黒幕説の推論によると、「天下布武」をスローガンに破竹の勢いで権力を手にした織田信長は、朝廷の権威を軽んじ、朝廷に圧力をかけていたといわれ、その軋轢が変を引き起こしたといいます。

具体的には、ドラマ冒頭で描かれた京都馬揃えは、信長が朝廷を威圧するために行った軍事パレードだったといいわれ、当初、信長は天皇に左義長(さぎちょう)(どんど焼き)申し入させたのに、信長が馬揃えにすり替えたという説です。

また、ドラマにあったように、信長の意に従わない正親町天皇(第106代天皇)に譲位を迫ったという話や、公家衆に信長への戦勝祈願出迎えなどを強要したりと、信長の大義づくりに朝廷が利用されていたというんですね。

たしかに、信長は朝廷の権威というものを軽んじていたと思える行動が多く見られます。

たとえば、信長は朝廷から与えられる官位には興味がなく、天正6年(1578年)に右大臣の職を辞したあとは、官職に就きませんでした。

その後、本能寺の変が起きる直前の5月に朝廷は信長に対して、征夷大将軍、関白、太政大臣の三職のいずれかに就任してはどうかと持ちかけていますが、信長がその返答をする前に変が起こってしまったため、信長自身がどのような構想を持っていたのかは永遠の謎となりました。

でも、これまでの行動からいって、たぶん、どの職にも就かなかったんじゃないかと・・・。

というのも、信長の行動や思想を振り返るに、有名な比叡山焼き討ちを始め、恵林寺焼き討ち石山本願寺との闘いなど、古い権威というものを毛嫌いする行動が多々見られます。

その意味では、朝廷及び天皇家というのは、古い権威の最高峰ともいえる組織であり、信長の性格からいえば、最も忌み嫌う存在だったかもしれません。

一説には、信長は、「皇位簒奪」を目論んでいたのではないかとも言われます(皇位簒奪とは、天皇を廃して自らが日本の王になろうとすること)。

これを恐れた朝廷は、明智光秀信長追討を促し、決起に至った・・・と。

たしかに、信長ならあり得る目論見だったかもしれません。

ただ、もし本当に信長が皇位簒奪を目指していたならば、光秀の謀反は天皇に対する逆賊の成敗として大いに正当化され、もっと味方を得られたんじゃないかとも思います。

ところが、結果は歴史の示すとおり。

となれば、この皇位簒奪説は考えられなくはないものの、少し深読みし過ぎのような気もします。

朝廷黒幕説の首謀者としては、正親町天皇、誠仁親王をはじめ、近衛前久、勧修寺晴豊、吉田兼見ら公家衆など、様々な見方がありますが、物語では近衛前久説を採っていましたね。

この近衛前久という人は、実際に信長と親交の深かった公家で、石山合戦の調停役として尽力したり、織田軍の武田攻めに従軍するなど、公家としては珍しい豪胆な人物でした。

ドラマでも描かれていましたが、信長とは鷹狩という共通の趣味を通して付き合いがあったようです。

信長の前久に対する信頼は厚かったようで、前久が息子・信基にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」という約束を得たといいます。

朝廷を軽んじていたといわれる信長ですが、前久だけは別格だったようですね。

そんな前久が、なぜ黒幕と疑われるのか・・・。

その理由として、前久は変後すぐに嵯峨に隠れた上に、 山崎の戦い後も、信長の三男・神戸信孝追討令を出して執拗に行方を捜していたことがあげられます。

追討令が出されたということは、当時も、疑いの目を向けられていたということですよね。

また、同じく公家の吉田兼見(ドラマでは笹野高史さんが演じておられた人物)は、彼が記した日記によって、信長と朝廷の関係を後世の私たちが知ることができているのですが、本能寺の変の前後1ヶ月分の日記が、後に書き換えられた形跡があるそうです。

何か、都合が悪いことがあったのではないかと・・・。

この吉田兼見も、変後に事情聴取を受けています。

しかし、どちらも疑わしくはありますが、決定的証拠とは言えません。

結局は、どれも推論の域をでることはないですね。

ただ、物語として見るには、単なる怨恨説よりは遥かに面白いですけどね。

ちなみに、ドラマでは、誠仁親王の后・勧修寺晴子と信長の禁断の恋が描かれていましたが、いうまでもなく、あれはドラマのオリジナルです。

いまで言えば、皇太子妃総理大臣不倫関係になるようなものですから、ありえないでしょう(笑)。

ちなみにちなみに、物語の語り部となっていた森坊丸は、実際には兄・森蘭丸と共に、本能寺で落命したとされています。

最後に、毎年楽しみにしているテレビ東京新春時代劇ですが、かつては元旦に12時間ほどあった長編ドラマでしたが、近年、だんだん短くなっていって、今年はとうとう3時間ドラマになっちゃいましたね。

時代劇というのはかなりお金が掛かると聞きますから、いまのご時世、そういう大人の事情がるのでしょうが、ただでさえ民放の時代劇がなくなっていくなか、正月恒例のこのドラマまでなくなってしまうと、時代劇はNHKにか作れないものになってしまいます。

なんとか続けてほしいですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-01-14 13:54 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~

豊臣秀吉によって大坂城が築かれる以前の戦国時代、この地に石山本願寺があったことは有名ですね。
史料によると、明応5年(1496年)に浄土真宗の本願寺八世蓮如上人が、摂津国東成郡生玉庄内の大坂に、坊舎を築いたとあります。
「大坂」という地名が歴史上はじめて表された史料が、明応7年(1498年)11月21日付けの蓮如上人の「御文」とされているそうです。

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蓮如上人が築いた当時の坊舎は小堂だったと考えられていますが、その後、天文元年(1532年)に六角定頼法華宗徒によって山科本願寺が焼き討ちに遭うと、本願寺はこの地に移され、本願寺教団の本拠地となります。

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二の丸にある「蓮如上人袈裟がけの松」です。
説明看板によると、蓮如上人がこの地に坊舎を築く際、今は切り株だけになっているここの袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわているそうです。

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ご覧のとおり、現在は切り株というより、ほとんど根塊だけといった感じです。
ただ、切り株は徳川幕府が再築した大坂城の地表にあることから、これはあくまで伝説に過ぎないと考えられているようですね。
それでも、大正時代に撮影された写真では、この地にかなり大きな巨松がそびえ立っていて、蓮如上人袈裟がけの松と紹介されているそうです。
いつ頃から生まれた伝承かはわかりませんが、松の西側には昭和4年(1929年)の昭和天皇行幸に合わせて建てられたという「南無阿弥陀仏」と刻まれた石柱があり、石山本願寺時代の記憶を留める史跡として、保護されています。

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戦国時代末期、石山本願寺は破竹の勢いで勢力を伸ばしていた織田信長と対立し、元亀元年(1570年)から11年間に及ぶ血みどろの戦い、いわゆる石山合戦が繰り広げられます。
その結果、11世顕如は信長によって本願寺から退去させられ、堂塔伽藍は全焼してしまいます。
その後、豊臣秀吉によって跡地に大坂城が築かれ、さらに大坂の陣ののちに徳川大坂城が再建され、この2回の大規模な土木工事によって、石山本願寺時代の遺構はほぼ破壊されました。
したがって石山本願寺跡の正確な位置はいまだ確認されていませんが、現在の大阪城公園内にあったことは確実とされています。

なかなか本丸にたどり着きませんね。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-29 18:03 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~

先週の続きです。

織田信長に反旗を翻して有岡城に籠城した荒木村重でしたが、1年近く続いた籠城戦がいよいよ戦況不利と判断すると、あろうことか、わずかな側近のみを連れて夜半に城を抜け出し、嫡男・荒木村次のいる尼崎城(別名:大物城)に移ってしまいます。
このとき、妻子を有岡城に置き去りにして逃げ出したことが、後世に村重という人物の評価を著しく下げる要因となります。
しかし、近年の研究では、尼崎城に移った村重は、懇意にしていた武将らに援軍を要請する書状を複数送っていたことがわかっており、村重は逃亡したのではなく、援軍を得て立て直しを図り、反撃に転じる機会を狙うためだったのではないか・・・という、村重にとっては汚名返上の説が浮上してきています。
実際は、どうだったのでしょうね。

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現在、尼崎城跡には尼崎市立明城小学校が建っており、その片隅に石碑が建っています。
といっても、現在確認できる尼崎城の遺構は、すべて江戸時代に入ってから、尼崎藩主として入封した戸田氏鉄によって築かれたもので、村重が逃げ込んだ大物城ではありません。

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のちの近世尼崎城は、大物城を取り壊してその上に規模を拡大して築城されたと考えられていましたが、最近の研究では、大物城は近世尼崎城の北東にあったのではないか、とする説が浮上し、現在でも結論を見ていません。
いずれにせよ、尼崎城跡周辺は完全に住宅化されていますので、発掘調査は不可能、伊丹の有岡城のように、現在の地形から当時を読み取ることも難しく、大物城の場所を立証する術はありません。

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小学校の北西には尼崎城址公園があり、外郭の石垣の一部が復元されています。

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尼崎城に逃げ込んだ村重でしたが、すぐに城は包囲され、残された荒木一族は、見せしめとして尼崎城近くの七松にて、家臣の妻子122人の上、長刀によって処刑され、その他510余名の小者や女中たちは、枯れ草を積んだ家屋に閉じ込められ、家もろとも焼き殺されます。
この大虐殺『信長公記』には、次のように記しています。

「尼崎ちかき七松と云ふ所ににて、張付に懸けらるべきに相定め、各(おのおの)引き出だし候。 さすが歴々の上臈(じょうろう)達、衣装美々しき出立(いでたち)、叶はぬ道をさとり、うつくしき女房達、並び居たるを、さもあらけなき武士どもが、請け取り、其の母親にいだかせて、引き上げ引き上げ張付に懸け、鉄炮を以て、ひしひしと打ち殺し、鑓、長刀を以て差し殺し、害せられ、百廿人の女房、一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人、目もくれ心も消えて、かんるい押さへ難し。 是れを見る人は、廿日卅日の間は、其の面影身に添ひて、忘れやらざる由にて候なり。
此の外、女の分、三百八十八人。かせ侍の妻子付々の者どもなり。男の分、百廿四人。是れは歴々の女房衆へ付け置き候若党以下なり。合せて五百十余人。矢部善七郎、御検使にて、家四ツに取り籠め、こみ草をつませられ、焼き殺され候。 風のまはるに随ひて、魚のこぞる様に、上を下へと、なみより、焦熱、大焦熱のほのほにむせび、おどり上がり飛び上り、悲しみの声、煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも、是れなるべし。 肝魂を失ひ、二目とも、更に見る人なし。哀れなる次第、中々申すに足らず。」


632人が処刑されたと伝えられる「七松」は、現在の住所では尼崎城から北西に2キロほど離れたところにあたります。
信長は尼崎城を攻めるにあたって、七松に付城を設けたといいます(そのとき築いたものか、元からあった城なのかは定かではありません)。
現在、その七松城跡(かどうかも定かではありませんが)近くにある七松八幡寺神社に、信長によって処刑された六百二十餘人を弔う慰霊碑が建てられています。

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そして、村重の妻・だしをはじめ荒木一族36名は、京都に連行され、大八車に縛り付けられ引き回されたのち、六条河原で首をはねられました。
村重が有岡城から抜け出し尼崎城に来たのが、逃げ出したのではなく援軍要請のためだったとしても、その浅墓な行動は大きな代償を払う結果となりました。
追い詰められた村重は、またも尼崎城を抜け出し、現在の神戸市中央区にある摂津花隈城に逃げ込みます。

というわけで、次回は花隈城跡を訪ねます。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-16 16:55 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第28話「本能寺の変」 その1 ~信長の最期と光秀の動機~

 時は天正10年(1582年)6月2日・・・・といえば、言わずと知れた「本能寺の変」ですね。天下統一を目前にした戦国の覇王、織田信長が、最も信頼していた家臣のひとりである明智光秀の謀反によって落命します。享年49歳。日本の歴史が大きく変わった瞬間です。

 「本能寺の変」はほとんどの人が知っている事件だと思いますので、細かい説明は省きます。事件に至る動きは、過去の拙稿『江~姫たちの戦国~第5話「本能寺の変」』でふれていますので、よろしければ一読ください。いままで数々の映画やドラマで描かれてきた「本能寺の変」ですが、どの作品でも概ね同じような演出ですよね。本能寺を包囲した明智軍が鉄砲隊で攻撃し、それを信長自身もをとって応戦するも、腕に銃弾を受け、やがて観念した信長は、殿舎に火を放たせて自刃する、というもの。これまで何度も観てきたシーンですが、これがどれほど事実かといえば、複数の史料を元にした、かなり信憑性の高い描写のようです。

 まず、信長の史料として最も信頼されている『信長公記』の記述から。

 「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」

 有名な「是非に及ばず」の台詞は、ここに記されているものです。「言うまでもない、戦うまでだ!」といった意味でしょう。また、同史料によると、

 「信長、初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」


 信長は初めはで、弦が切れてからはで応戦したが、肘に槍傷を受けたため退き、女中たちを逃がし、御殿に火をつけて自害した・・・とあります。ほぼドラマのとおりですね。『信長公記』の著者は信長の家臣だった太田牛一という人ですが、彼自身は本能寺にはいなかったものの、逃された女たちに取材して書いたものだそうです。

 また別の史料としては、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に、次のように記されています。

 「厠から出てきて手と顔を洗っていた信長の背中に、明智方の者が放った矢が命中した。信長はその矢を引き抜き、鎌のような武器(長刀)を手にしてしばらく戦ったが、明智方の鉄砲隊が放った弾丸が左肩に命中すると、自ら部屋に入って障子を閉じ、火を放って自害した」

 『信長公記』と少し違うところもありますが、概ね同じストーリーですよね。『信長公記』が書かれたのはフロイスの死後のことで、同じような描写が日本とヨーロッパで執筆されていることを思えば、ほぼ史実とみていいのでしょう。炎の中に消えた信長が、どんな死に方をしたかは、想像するしかありませんが。

 明智光秀の謀反に至る動機については様々な説が乱立していますが、どれも決定的なものはありません。おそらく、永遠に歴史の謎でしょうね。そんななか、これまで小説やドラマなどの物語では、もっともわかりやすい怨恨説で描かれることがほとんどだったと思います。その根拠は、領地を召し上げられたことや、徳川家康の饗応の役を突如解任され、秀吉の援軍を命じられたこと、大勢の前で足蹴にされたことなどなど、どれもありそうなエピソードですね。ただ、このたびのドラマは、そういった理不尽な仕打ちに耐えしのぐ光秀の姿はあまり描かれず、これまでの大河とは違った動機でした。

 「日の本に王はふたりもいらん!」

 つまり、皇位簒奪という意味ですね。信長は天皇を廃して自らが日本の王になろうとしていたのではないかという説です。そのため、朝廷を敬う光秀は決起に至った、あるいは、朝廷に促されて起たざるを得なくなった・・・と。これ、よくNHKがやりましたね。もちろんこれはドラマのオリジナル解釈ではなく、近年、学者さんたちの間でも採られている説のひとつです。たしかに、信長の行動を見ると、朝廷が信長に対してあらゆる官位を授けようと打診しても、信長はこれを固辞し、逆に京のまちで馬揃え(軍事パレード)をして朝廷を威嚇するなど、朝廷ならびに天皇家軽視したかの行動が目立ちますし、何より、比叡山焼き討ち石山本願寺との戦いなど、古い権威を徹底的に排除しようというきらいが伺えます。その意味では、じゅうぶんに考えられる動機ですよね。

 ただ、もし本当に信長が皇位簒奪を目指していたならば、光秀の謀反は帝に対する逆賊の成敗として大いに正当化され、もっと味方を得られたんじゃないかとも思います。ところが、結果は歴史の示すとおりですね。この皇位簒奪説は、考えられなくはないものの、少し深読みし過ぎのような気がします。ドラマとしては面白かったですけどね。「日の本に☓☓☓☓☓☓☓☓」と声を消し、それを聞いた光秀が青ざめて諫めるシーンなどは、上手い演出だなあと思いました。

 あと、信長の正室・濃姫について少し。本能寺のシーンでは自ら刀を振って戦っていた勇ましい妻でしたが、実際の濃姫は、いつ結婚していつ死んだかもわからない、ほぼ謎の女性といっていい存在です。織田家に嫁いですぐに死んだという説や、子どもが出来ずに離縁したという説などさまざまで、斎藤道三の娘と言われていますが、それすら定かではなく、一説には、実在したかどうかすら疑問視する声もあります。本能寺で信長とともに長刀を振るって戦ったという演出は、司馬遼太郎『国盗り物語』からきたものですね。本能寺の戦死者の中に、「お能の方」という女性がいたという説もありますが、それが濃姫だったかどうかはわかりません。

 さて、このときの黒田官兵衛のエピソードまで行きたかったのですが、今回めちゃめちゃ長文になっちゃったので、後日、「その2」につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-14 22:56 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第26話「長政初陣」 ~黒田長政の初陣と恵林寺焼き討ち~

 天正9年(1581年)ごろに元服した松寿丸は、名を黒田長政と改めます。長政の「長」は、おそらく織田信長から偏諱をもらい受けたものでしょう(同時代、織田傘下に長政という名が多く存在しますが、おそらく、どれも信長から賜ったものだったと考えらます)。主君より偏諱を賜るということはたいへん名誉なことだったでしょうが、かつては信長に殺されかけた長政。その偏諱を名のるというのは、なんとも複雑な思いだったかもしれません。

この時期、黒田官兵衛が従う羽柴秀吉軍は、いよいよ毛利軍の本陣に迫るべく、備前備中征伐を開始していました。おそらく、長政の初陣はその一連の戦いであったと考えらます。ドラマでは、まず参陣したのは備前国児島の戦いという設定でしたね。しかし、ここでは長政の出番はありませんでした。この戦いの概要につては詳しくは知りませんが、秀吉の養子となった織田信長の四男・羽柴秀勝の初陣だったようですね。すでに備前国は、宇喜多家をはじめほぼ秀吉の傘下に入っており、ドラマでも言われていたように、秀勝の初勝利がお膳立てされた舞台だったのかもしれません。

 はれて長政の初陣となっていたのは冠山城の戦いで、備中境目七城といわれる備前備中の国境にあった小城攻めのひとつです。備中高松城攻めの前哨戦であるこの戦いで、ドラマの長政はみごとに兜首をあげていました(史実かどうかは知りません)。長政の初陣について『黒田家譜』には、

 「三月十五日、秀吉毛利家の城々を責めんため、播磨但馬因幡の兵を率して姫路を發騎し、備前の浮田秀家の兵を先手として、備中国へ打越、先巣雲塚の城を攻給ふ。此時長政初陣にて、みづから敵を討取、高名せらる」

 と記されています。ここにある「巣雲塚の城」というのが冠山城のことなのかはわかりませんが、自ら敵を討ち取って功名をあげたと書かれていますね。それが兜首だったかどうかは別として、何らかの功名をあげたのは事実かもしれません。しかし、そんな長政を官兵衛は叱責します。

 「おまえは猪か。おまえの戦いぶりは猪武者のそれだ。お前はいずれ黒田家を継ぎ、大将となる身。それが猪のごとく突っ走ってどうする? 考えて動け!」

 大将たるものいたずらに命を危険に晒すものではない・・・と。実際に長政は、よく言えば勇猛果敢、悪く言えば猪突猛進な武将だったようで、この後もたびたび官兵衛から叱責され、重臣からも諌められます。智将・官兵衛の子とは思えない猛将ぶりの長政ですが、結果的に長政は、父とは違うキャラで戦国の世を渡り歩き、黒田家を筑前52万石という大大名に導くんですね。父が偉大すぎただけで、決して凡庸な人ではありませんでした。

 同じ頃、織田軍は甲州征伐で武田勝頼軍を攻め滅ぼしますが、武田家に与していた六角次郎恵林寺に逃げ込みます。織田方はその身柄の引き渡しを寺側に要求しますが、快川紹喜ら僧侶たちは、これを拒否します。怒った信長は、恵林寺の焼き討ちを命令。寺内の僧侶たち150余人を建物内に押し込み、寺院もろとも焼き殺しました。なんとも無残な仕打ちですね。このとき、閉じ込められた多くの僧侶が狼狽え、もがき苦しむなか、ひとり快川紹喜は狼狽えることなく鎮座し、

 「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」

 という遺偈(ゆいげ)を残して炎に包まれたと伝えられます。さすがは、朝廷より国師号を賜った高僧ですね。みごとな最後です。

 この快川紹喜は、武田信玄の招きによって恵林寺の僧侶となったそうですが、もとは美濃国土岐氏の出身だとも言われます。土岐氏といえば、明智光秀もその一族だといいますから、あるいは、ドラマのとおり快川紹喜と光秀は旧知の仲だったかもしれません。一説には、この出来事が本能寺の変の引き金になったとも言われます。じゅうぶんに考えられる話ですよね。本能寺の変が起こったのは、この2ヶ月後のことでした。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-30 22:25 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)