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太平記を歩く。 その68 「宝満寺」 神戸市長田区

神戸市長田区にある宝満寺を訪れました。

打出合戦に敗れた足利尊氏が敗走中にここを訪れ、再起を願い、武運を守るようにと祈願したと伝えられます。


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その後、尊氏は兵庫から九州へ敗走しますが、筑紫(福岡県)の多々良浜菊池武敏軍と戦った多々良浜の戦いのとき、突然、突風が吹き、その中から一人の少年が尊氏の前に現われ、矢竹をほしいと頼んだといいます。

尊氏は、その少年に一本の矢竹を与えました。

その後、勢力を立て直した尊氏は、再び兵庫へ攻め上ってきますが、その際、再びここ宝満寺を訪れ、矢竹のことを僧に話したところ、その僧はたいそう驚き、寺の本尊の下で見つけたという矢竹を尊氏に見せたそうです。

その矢竹は、まぎれもなく尊氏が少年に与えたものだったとか。

尊氏はこの寺の本尊が自分を守っていてくれたのだと悟り、戦勝後、尊氏はこの本尊を深く信仰したと伝えられます。


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もちろん、にわかに信じられる話ではありませんが、尊氏は湊川の戦いの際、ここ宝満寺に本陣を布き、また、戦勝後も宝満寺を崇敬し、伽藍の修復や寺領の寄進をしたことは本当のようですから、尊氏が何らかのご利益を感じていたというのは事実なんでしょうね。


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説明板によると、その後、宝満寺は天正7年(1579年)に荒木村重によって焼き討ちされ、寺録も没収されたそうです。

天正7年といえば、村重は籠城していた有岡城から9月に尼崎城に移っており、兵庫の花隈城に入ったのは翌年の2月頃のこと。

焼き討ちされたのは天正8年じゃないでしょうか?

さらに、第二次世界大戦時の神戸大空襲により寺は全焼し、残念ながら寺史に関する史料はすべて焼失してしまったそうです。


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太平記とは関係ありませんが、境内には尼崎藩第2代藩主青山幸利慰霊碑と、その家老の天野八郎兵衛の顕彰碑があります。


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青山幸利は尼崎藩主として現在の神戸一帯の領主でもありましたが、たいへん厳正で領民思いの善政を行ったため、その感謝の意を込めて、貞享元年(1684年)にこの碑が建てられたそうです。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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太平記を歩く。


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by sakanoueno-kumo | 2017-06-14 01:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~

先日のつづきです。

尼崎城(大物城)を脱出した荒木村重は、嫡子の村次とともに花隈城に逃げ込みます。
花隈城は、花熊、鼻熊とも書かれ、現在の神戸市中央区にあります。
神戸の象徴であるポートタワーの真北あたりです。
この頃、花隈城は有岡城の支城として、荒木一族の荒木元清が城主を務めていました。
築城時期は諸説あるようですが、天正2年(1574年)頃、石山本願寺毛利氏に備えて、織田信長が村重に命じて築かせたといいます。

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現在、花隈城本丸跡には模擬石垣が築かれていますが、往時を類推するものではなく、単なる史跡っぽい演出施設です。
石垣の中は駐車場になっており、たしか1時間400円です(笑)。
村重もビックリでしょうね(笑)。

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石垣の上は公園になっていて、模擬天守台が築かれています。

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花隈城に逃げ込んだ村重でしたが、追撃してきた池田恒興、元助、輝政父子らに攻め込まれ、天正8年(1580年)7月2日に落城します。
その後、その恩賞として恒興に旧荒木領が与えられますが、のちに恒興は兵庫城を築城したため、花隈城は廃城となります。
現在、花隈公園には、「花隈城趾」と書かれた石碑が建っていますが、その筆は、池田恒興の子孫にあたる池田宣政公爵のものだそうです。
この碑は阪神・淡路大震災で倒壊してしまったそうですが、資料に基づき新たに模造されたものだそうです。

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わたしは、この近くに親戚の家があったことから、子供の頃によくこの公園で遊びました。
もう40年以上も前のことですが、その頃は、この城跡公園から南を見ると、模擬石垣より高い建物はほとんどなく、ポートタワーだけがそびえ立っていました。
ところが、いまはご覧のとおり、建物の間からなんとかタワーを探せる状態です。

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史料として残されている花隈城の絵図によると、城は大きく三つの郭に分かれ、現在の花隈公園は、本丸の東南にあたるそうです。
天守は西北隅にあったようで、その地には、現在は福徳寺があります。
その山門脇には、「花隈城天守閣之趾」と刻まれた石碑があります。

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村重の一連の戦いにおいて、物語などでは花隈城の戦いはほとんど描かれませんよね。
おそらくその理由は、ほとんど勝敗が決まった中での最後の悪あがきといった印象でしかなく、一瞬で片付けられたようなイメージでしかないからでしょう。
ところが、実際には、村重が花隈城に籠っていたのは約半年間で、池田恒興との戦端が開かれてからも、約4ヵ月持ち堪えているんですね。
尼崎城にいたのがわずか3ヵ月ほどだったことを思えば、花隈城は、なかなか堅固な城だったのかもしれません。
この場所で、村重は最後の望みをかけて援軍を待っていたのでしょうが、結局はそれも叶わず、この花隈城が文字どおり「最後の砦」となってしまいます。
まさしく、「兵どもが夢の跡」ですね。

(いまでは、このように高層マンションに見下されています)
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今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で、これまでになくフィーチャーされた荒木村重。
信長に反旗を翻した先見性のなさや、説得にきた黒田官兵衛を籠城したこと、妻子を見殺しにして逃げ出したことなどから、後世にあまり人気がありません。
しかし、一方で、ルイス・フロイスの著書のなかでは、きわめて穏和で陽気な人物として、たいへん好感を持って記述されている側面があります。
「その1」の稿で紹介した有岡城の惣構という城づくり、まちづくりから見ても、領民を大切にする、心優しい武将だったのかもしれません。
だから、信長の恐怖政治についていけなくなったのかもしれませんね。
そんなことを思い巡らせながら、村重ゆかりの史跡をめぐりました。
この辺で、このシリーズを終わります。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-18 20:55 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~

先週の続きです。

織田信長に反旗を翻して有岡城に籠城した荒木村重でしたが、1年近く続いた籠城戦がいよいよ戦況不利と判断すると、あろうことか、わずかな側近のみを連れて夜半に城を抜け出し、嫡男・荒木村次のいる尼崎城(別名:大物城)に移ってしまいます。
このとき、妻子を有岡城に置き去りにして逃げ出したことが、後世に村重という人物の評価を著しく下げる要因となります。
しかし、近年の研究では、尼崎城に移った村重は、懇意にしていた武将らに援軍を要請する書状を複数送っていたことがわかっており、村重は逃亡したのではなく、援軍を得て立て直しを図り、反撃に転じる機会を狙うためだったのではないか・・・という、村重にとっては汚名返上の説が浮上してきています。
実際は、どうだったのでしょうね。

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現在、尼崎城跡には尼崎市立明城小学校が建っており、その片隅に石碑が建っています。
といっても、現在確認できる尼崎城の遺構は、すべて江戸時代に入ってから、尼崎藩主として入封した戸田氏鉄によって築かれたもので、村重が逃げ込んだ大物城ではありません。

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のちの近世尼崎城は、大物城を取り壊してその上に規模を拡大して築城されたと考えられていましたが、最近の研究では、大物城は近世尼崎城の北東にあったのではないか、とする説が浮上し、現在でも結論を見ていません。
いずれにせよ、尼崎城跡周辺は完全に住宅化されていますので、発掘調査は不可能、伊丹の有岡城のように、現在の地形から当時を読み取ることも難しく、大物城の場所を立証する術はありません。

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小学校の北西には尼崎城址公園があり、外郭の石垣の一部が復元されています。

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尼崎城に逃げ込んだ村重でしたが、すぐに城は包囲され、残された荒木一族は、見せしめとして尼崎城近くの七松にて、家臣の妻子122人の上、長刀によって処刑され、その他510余名の小者や女中たちは、枯れ草を積んだ家屋に閉じ込められ、家もろとも焼き殺されます。
この大虐殺『信長公記』には、次のように記しています。

「尼崎ちかき七松と云ふ所ににて、張付に懸けらるべきに相定め、各(おのおの)引き出だし候。 さすが歴々の上臈(じょうろう)達、衣装美々しき出立(いでたち)、叶はぬ道をさとり、うつくしき女房達、並び居たるを、さもあらけなき武士どもが、請け取り、其の母親にいだかせて、引き上げ引き上げ張付に懸け、鉄炮を以て、ひしひしと打ち殺し、鑓、長刀を以て差し殺し、害せられ、百廿人の女房、一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人、目もくれ心も消えて、かんるい押さへ難し。 是れを見る人は、廿日卅日の間は、其の面影身に添ひて、忘れやらざる由にて候なり。
此の外、女の分、三百八十八人。かせ侍の妻子付々の者どもなり。男の分、百廿四人。是れは歴々の女房衆へ付け置き候若党以下なり。合せて五百十余人。矢部善七郎、御検使にて、家四ツに取り籠め、こみ草をつませられ、焼き殺され候。 風のまはるに随ひて、魚のこぞる様に、上を下へと、なみより、焦熱、大焦熱のほのほにむせび、おどり上がり飛び上り、悲しみの声、煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも、是れなるべし。 肝魂を失ひ、二目とも、更に見る人なし。哀れなる次第、中々申すに足らず。」


632人が処刑されたと伝えられる「七松」は、現在の住所では尼崎城から北西に2キロほど離れたところにあたります。
信長は尼崎城を攻めるにあたって、七松に付城を設けたといいます(そのとき築いたものか、元からあった城なのかは定かではありません)。
現在、その七松城跡(かどうかも定かではありませんが)近くにある七松八幡寺神社に、信長によって処刑された六百二十餘人を弔う慰霊碑が建てられています。

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そして、村重の妻・だしをはじめ荒木一族36名は、京都に連行され、大八車に縛り付けられ引き回されたのち、六条河原で首をはねられました。
村重が有岡城から抜け出し尼崎城に来たのが、逃げ出したのではなく援軍要請のためだったとしても、その浅墓な行動は大きな代償を払う結果となりました。
追い詰められた村重は、またも尼崎城を抜け出し、現在の神戸市中央区にある摂津花隈城に逃げ込みます。

というわけで、次回は花隈城跡を訪ねます。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-16 16:55 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~

今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』は、いよいよ最終回を待つのみとなりましたが、今年、主役の黒田官兵衛以外で最も注目されたのは、荒木村重だったのではないでしょうか。
いままでの戦国ドラマでの村重といえば、織田信長反旗を翻すところで少し登場するだけでしたが、今回は官兵衛を1年間幽閉する役柄ということで、これまでになくフィーチャーされました。

で、その舞台となった兵庫県に住む私としては、この機を逃す手はないだろうと、先日、寸暇を惜しんで村重ゆかりの地をめぐってきました。
まずは、村重の居城にして官兵衛を1年間幽閉した有岡城跡です。

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有岡城は、現在の兵庫県伊丹市にあった城で、もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていました。
しかし、天正2年(1574年)11月、信長から摂津国主に任じられた村重は、伊丹氏を追い落として伊丹城に入城。
城の名を有岡城と改めて、大改造をおこないました。

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現在は、城郭などは残っておらず、発掘調査された主郭部のみが史跡公園として残されているだけです。

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発掘、復元された石垣です。

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土塁跡です。

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井戸跡です。

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村重と、その妻・だしの歌碑ですね。
「霜かれに 残りて我は 八重むくら なにわのうらの そこのみつくに」 あらきたし
「思いきや あまのかけ橋 ふみならし なにわの花も 夢ならむとは」 荒木村重


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村重が築いた有岡城は、城だけでなく侍町と町屋地区全域を巨大な堀と土塁で囲んだ惣構(そうがまえ)の城だったそうです。
その跡が400年以上経った今でも地形として残っており、数メートルの段差が繋がっています。
現在では、最古の惣構の遺構として、国の史跡に指定されています。

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天正6年(1578年)秋、村重は織田信長に反旗を翻し、有岡城は包囲攻撃をうけました。
10ヵ月の篭城の末、村重は嫡男の荒木村次のいる尼崎城に逃れ、その後、主を失った有岡城は侍町を焼き払われて陥落しました。

次回は、その尼崎城跡を訪ねます。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-11 21:38 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第33話「傷だらけの魂」 ~荒木村重の最期~

 今回は荒木村重の晩年についての話がメインでしたね。織田信長との戦いに敗れた村重は、毛利氏に亡命し、尾道に隠遁して再起を図っていたといいますが、その後、本能寺の変で信長が横死すると、堺へ移り住み、千利休らとの交流を得て茶人として暮らします。もともと村重は、織田家に仕えていた頃から茶は嗜んでおり、その師は、利休の師のひとりでもある武野紹鴎だったともいわれます。有岡城籠城戦から脱出の折、愛する妻子は置き去りにしても大切にしていた茶道具は持ちだした、というエピソードが残っていますが、このときの茶器は「荒木高麗」と呼ばれ、現代に残されています。妻子の命より重い茶器など、現代の私たちにはまったく理解できませんが、当時、銘器と呼ばれるものには、城をひとつ買えるほどの価値があるものもあったようですから、あるいは、城を捨てて敗走する村重にとっては、再起のための大切な資金源だったのかもしれませんね。

 茶人として堺に移り住んだ村重は、名を荒木道薫と号し、豊臣秀吉御伽衆として仕えます。はじめは、自らの過去の過ちを恥じて「道糞」と名乗っていたそうですが、秀吉に「道薫」と改名させられたとか。御伽衆とは、主君の側近として仕える相談役のような存在で、政治や軍事などのざまざまな分野の経験豊かなスペシャリストが任命される役職です。秀吉は読み書きがあまり得意ではなかったといわれ、それを補うための耳学問として御伽衆を大勢雇っていたと伝えられます。たしかに村重の経験は、ある意味、数奇といえますよね。御伽衆としては、恰好の人材だったかもしれません。

 茶人としても、「利休十哲」のひとりとして名を連ねるほどだったようですが、結局その後の人生は短く、秀吉が関白に就任した1年後の天正14年(1586年)5月に死去したと伝えられます。享年52歳だったと言われますが、信長より年上だったという説もあり、正確なところは定かではありません。一族を皆殺しにされてなお、ひとり生き延びていた最後の数年間はどんな思いだったのか、当人以外にはわかるはずもないですね。一説には、村重が自害しなかったのはキリシタンだったから、とも言われますが、だとすれば、死にたくても死ねない境地は地獄の苦しみだったでしょうね。

 村重とだしの間に生まれた子で、有岡城落城の際に生後間もない赤児だった男児は、乳母に救い出されたのち石山本願寺に保護され、後年、岩佐又兵衛と名乗り、浮世絵の祖とも言われるほどの高名な絵師としてその名を残します。あと、ドラマには出てきませんでしたが、村重には尼崎城花隈城をともに戦った嫡男・荒木村次がいますが、村次も豊臣政権時代まで生き延びていたようです。また、細川忠興に仕えた荒木善兵衛という人物も、村重の子だったという説もあるようですが、真偽は定かではありません。

 荒木村重という人物は、織豊時代の物語を描く上で外せない人物で、過去の大河ドラマでも何人もの俳優さんが演じて来られましたが、今回ほどクローズアップされた作品はなかったんじゃないでしょうか。大概は本能寺の変の伏線として少し描かれるだけですからね。ところが、本作品は黒田官兵衛が主役ということもあって、重要な登場人物として前半の準主役の如くフィーチャーされました。無謀とも言える謀反を起こし、官兵衛を幽閉し、挙句は一族を見殺しにし、しかし自身は信長の死後も生き延びた村重という人物を、後世は高く評価しません。しかし、本作はそんな村重の生き様を、上手く描いていましたね。謀反に至るまでの心境の変化、本能寺の変後の生き恥のさらし方、少しは共感できる部分があったんじゃないでしょうか。村重にとっては、汚名返上の作品でしたね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-08-18 19:57 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第23話「半兵衛の遺言」 ~日本史上最も残虐な事件~

 本話のタイトルは「半兵衛の遺言」ですが、前話の稿に引き続き、いま少し荒木村重について考えます。 

 有岡城落城に際して織田信長は、「尼崎城(大物城)と花隈城を明け渡せば、女子供は助ける」との条件を荒木方に提示します。城主不在となった城を守っていた荒木久左衛門は、この信長の提案を受け、村重の判断を仰ぐべく妻子たちを人質に残して尼崎城に向かいます。しかし、村重は荒木久左衛門との面会を拒否。窮した久左衛門らは、有岡城に人質の妻子を残したまま逃亡してしまいます。なんか、村重といいその家臣たちといい、どうも武士らしからぬ行動が目立ちますね。こんなんで、よく1年にも及んだ籠城戦を耐えぬいたな・・・と。あるいは、その長きに渡る籠城戦に疲れ果て、正常な判断能力を失っていたのでしょうか・・・。

 しかし、どうあれ信長がそれを許すはずがありませんでした。怒った信長は、見せしめとして、日本史上最も残虐といわれる処刑を、荒木一族に対して行います。重臣の妻子122名が尼崎城近くの七松にての上、長刀によって処刑され、その他510余名の小者や女中たちは、枯れ草を積んだ家屋に閉じ込められ、家もろとも焼き殺されます。そして、村重の妻・だしをはじめ荒木一族36名は、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回されたのち、六条河原で首をはねられました。このときの様子を、商人・立入宗継は、「かやうのおそろしき御成敗は、仏の御代より此方の始め也」と、自身の見聞録『左京亮宗継入道隆佐記』に記しています。その後も信長は、逃亡していた荒木一族を見つけ次第、皆殺しにしていったといいます。信長の怒りの激しさが伺えますが、この苛烈な報復行為には、荒木一族のみならず、信長に付き従う者たちも皆、恐れおののいたに違いありません。ドラマでは、複雑な心境を隠し切れない明智光秀の姿が描かれていましたが、あるいは本当に、これも「本能寺の変」に繋がるひとつのきっかけだったのかもしれませんね。

 それにしても理解できないのは、村重の行動ですね。妻子を置き去りに城を抜けだしたことはもちろん、その後の信長の提案に乗らず、一族を見殺しにした事実も、後世にして「卑怯者」と罵られる所以です。もし、このとき観念して信長の提案をのみ、自身の腹を切って妻子を助けていたら、後世の評価もずいぶん違ったものになっていたことでしょう。というのも、ドラマでは、尼崎城を出たあとの村重の行方は、「ようとして知れなかった」と濁していましたが、史実では、その後も摂津花隈城に逃げ込み、最後は毛利領に亡命して隠れていたといいます。これを、しぶといと見るかブザマと見るかは意見が分かれるところでしょうが、せめて、打倒信長を掲げて再起を目指していたと思わなければ、殺された一族が浮かばれない気がします。

 作家・司馬遼太郎氏はその著書『歴史のなかの邂逅』のなかで、この一連の出来事について、
 「われわれが持った過去の事件で、村重に即してみても、虐殺された女子供たちに即してみても、これほど救いがたい事件はないのではないか。」
 と、記しています。残虐な報復行為を指示した信長も、それを見殺しにした村重も、どちらも人格的欠陥者がもたらした日本史上最も救いがたい事件だ・・・と。

 結局、本能寺で信長が落命したことにより、村重の再起はありませんでしたが、その後の村重はに移り住み、千利休らと親交を持って、晩年は茶人として豊臣秀吉に仕えたといいます。これもまた、現代の私たちの感覚では理解しがたい事実ですね。いくら当事者の信長亡き後の世とはいえ、そんな簡単に過去を水に流せるものだろうか・・・と。

 あと、村重と黒田官兵衛のその後の関係についてですが、1年間もの長きにわたって土牢に幽閉され、その後、後遺症に苦しんだ官兵衛。普通なら、官兵衛にとって村重は、殺しても殺し足りないほど憎い相手のはずですが、最近見つかった史料によれば、どうも、それほどでもなかったようなんですね。昨年末の神戸新聞の記事によれば(参照:官兵衛、幽閉への遺恨なし? 荒木村重への書状確認)、有岡城落城から4年後、本能寺の変から1年半後に官兵衛から村重に送った書状が見つかったそうで、そこには、「(秀吉の)お供で姫路においでになると思っていたが、おいでにならず残念。機会があれば会うことを考えている」などと記されているそうです。社交辞令だとしても、とても非道な仕打ちを受けた宿敵に宛てた書状とは思えない内容ですね。

 この時代、妻子や一族に対する愛情も、宿敵に対する遺恨の感情も、私たちの感覚よりもずいぶんとドライなものだったのかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2014-06-10 18:07 | 軍師官兵衛 | Trackback(2) | Comments(2)  

軍師官兵衛 第22話「有岡、最後の日」 ~村重逃亡と官兵衛生還~

 天正7年(1579年)春、京都で療養していた竹中半兵衛は、自らの死期を悟ってか、武士の死に場所は戦場にありとして、播磨国三木城攻めにあたっていた羽柴秀吉軍に加わります。それから間もない6月13日、陣中にて死去します。享年36歳。労咳(肺結核)だったようです。黒田官兵衛の嫡男・松寿丸を匿ってから約半年、誰よりも官兵衛が裏切っていないと信じていた半兵衛でしたが、残念ながら、それを確認することなくこの世を去ってしまいました。

 その頃、官兵衛が幽閉されている有岡城では、期待していた毛利の援軍がいつまでたっても来る気配が見えず、荒木村重は焦りはじめていました。このまま孤立無援状態では敗北は必至、家臣たちのなかには、村重を殺して、その首をみやげに織田信長のもとへ走ろうという空気も立ちはじめていたといいます。そんななか、籠城戦が始まって1年近くたった9月2日、あろうことか村重は、わずかな側近を連れて夜半に城を抜け出し、嫡男・村次のいる尼崎城(大物城)に移ってしまいます。このとき、愛する妻さえ置き去りにしてきた村重でしたが、茶道具は持ちだしています。よくわからない行動ですよね。

 この村重の行動については、はっきりしたことはわかっていませんが、逃亡との解釈が多いようです。敵方のみならず家臣からも命を狙われ、極度の恐怖心を抱いていたのかもしれませんし、妻を捨てても茶道具を持ちだしているところを見ても、正常な心理状態ではない、常軌を逸した行動といえます。そんな追い詰められていく村重の心理状態を、ドラマでは上手く描いていたと思います。

 ただ、一方で、村重が有岡城を抜けだしたのは、再三使者を送って援軍要請しているにも関わらず動かない毛利氏に対して、自ら安芸国に出向いて直談判するためで、持ちだした茶道具はその手みやげだったと見る説もあります。しかし、だとすればその後の村重の行動に矛盾が出てきますし、何より、総大将がいない籠城軍など総崩れは時間の問題。ちょっと無理がある解釈だと思います。やはり、追い詰められて逃亡と考えるのが打倒なんじゃないでしょうか。

 主を失った有岡城は、織田方の調略などで内部から崩れ始め、10月15日、織田軍の総攻撃が開始されます。この大混乱に乗じて城内に紛れ込んだ栗山善助ら官兵衛の家臣たちは、獄中の官兵衛の救出に成功します。栗山善助、母里太兵衛井上九朗右衛門らは、この少し前から商人に変装して城内に侵入し、投獄場所をすでに特定していたといいます。ドラマでは、3人揃って官兵衛を救出していましたが、別の説では、実際に官兵衛を助けだしたのは、善助と銀屋新七という商人だったともいわれます。いずれにせよ、善助がいたのは間違いないようですね。

 助けだされた官兵衛は、1年近くも不衛生で狭い土牢に閉じ込められていたため、膝の関節が曲がり髪の毛は抜け落ち皮膚病を患い、生涯回復しなかったといいます。奇跡的に生還したとはいえ、大きな代償だったといえるでしょう。ドラマの官兵衛は、禿げてないようでしたけどね(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2014-06-04 00:51 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(3)  

軍師官兵衛 第19話「非情の罠」 ~小寺政職の陰謀~

 黒田官兵衛荒木村重の謀反に際して伊丹・有岡城幽閉された話は、あまりにも有名ですね。その後の彼の人生を大きく左右することとなったこの出来事は、官兵衛の前半生のヤマ場とも言えます。おそらく、本作でも複数話にわけて描かれるのでしょうね。

 天正6年(1578)10月、織田信長配下の重臣・荒木村重が、突如、叛旗を翻します。村重の謀反は信長にとって大きな痛手だったようで、信長らしからぬ譲歩案を提示して翻意の説得にあたりますが、交渉は失敗に終わった・・・という話は、前話の稿で述べました(参照:第18話)。弱った信長は、一度は朝廷を通して石山本願寺との和睦を模索したといいますから、信長がいかに村重を引き留めようとしていたかがわかります。信長にとって村重は、それほど信頼を置いていた武将だったのか、あるいは、村重の謀反によって摂津一国を敵に回すことを恐れたのか、いずれにせよ、信長は相当動揺していたようですね。ドラマのとおり、羽柴秀吉明智光秀、あと蜂須賀小六なども説得に送り込みますが、村重の決意は揺るぎませんでした。

 そして、最後に村重の説得に向かったのが、ほかならぬ官兵衛でした。その経緯を詳細に伝えているのが、黒田家の正史『黒田家譜』です。それによれば、そもそもは、官兵衛の主君・小寺政職が、村重に呼応するかたちで信長に叛旗を翻すとのがたち、それを聞きつけた官兵衛が、政職を翻意させるために御着城に向かったことにはじまります。官兵衛は政職を思い止まらせるべく説得にあたりますが、官兵衛の進言を受けた政職が出した答えは、「村重が翻意するならば、自分も思い改める」というものでした。この答えに従って官兵衛は、有岡城に出向いて村重の説得にあたることを決意します。しかし、本話のタイトルどおり、これがだったんですね。

 政職と村重は既につながっていました。政職は有岡城に向かった官兵衛に先回りするかたちで村重に密使を送り、説得に訪れた官兵衛を暗殺するように依頼していたといいます。そうとは知らない官兵衛は、村重とはかねてから昵懇の仲だったこともあり、ほぼ単身で有岡城に入ります。ところが、城に足を踏み入れるやいなや、村重によって捕らえられ、城内の土牢へ投獄されてしまいます。村重は官兵衛と旧知の仲だったせいか、殺しはしませんでしたが、ここから官兵衛の約1年間に及ぶ長い幽閉生活がはじまります。

 というのが、『黒田家譜』が伝える官兵衛幽閉までの経緯です。ほぼドラマのとおりですね。あまりにもドラマチック出来すぎともいえるストーリーですが、村重の謀反と小寺家の叛旗のタイミングといい、このときの官兵衛を取り巻く播磨の情勢から考えても、ない話ではないと思います。すべてが史実だとはいいませんが、遠からずといったところではないでしょうか?

 それにしても、このときの官兵衛の警戒心の薄さは不思議ですね。政職の陰謀に気づかなかったのは仕方がないとしても、殺気立った籠城軍にわずかな手勢で入ったらどうなるか、官兵衛ほどの鋭敏な頭脳の持ち主なら分かりそうなものです。よほど説得工作に成功する自信があったのか、あるいは、村重を侮っていたのか、はたまた、自身の危機管理というものにはまるで無頓着な人物だったのか、この点について、小説『黒田家三代』の著者・池田平太郎氏は、同小説のなかで次のように述べています。
 「官兵衛はこれほどの才人でありながら、いや、才人であるがゆえに・・・・と言うべきか、自らのこととなると、韓非子そのままにまるで物が見えていなかった。(中略)官兵衛という男はまったく奇妙な男である。謀を帷幄の中に巡らし、千里の外に勝利を決するほどの頭脳を持ちながら、この期に及んでもまだ、状況が把握できていなかった。」
 IQが高いからといって賢い生き方ができるとは限らない。権謀術数に長けているからといって、危機管理に厚いとも限らない。人間の頭脳というのは面白いものですね。ただ、結果的に官兵衛は、このKYなミステイクのお陰で、その後の人生が大きく好転していったというのも面白いところです。人生、何がどう転ぶかわからないものです。


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by sakanoueno-kumo | 2014-05-12 22:52 | 軍師官兵衛 | Trackback(2) | Comments(0)  

軍師官兵衛 第18話「裏切る理由」 ~荒木村重の謀反~

 とうとう荒木村重が決起しちゃいましたね。村重が織田信長に対して叛旗を翻したのは天正6年(1568)10月、三木城主の別所長治が毛利方に寝返ってから約半年後のことでした。これまで村重は、石山本願寺攻めを担当していましたが、この年の2月、信長の命により本願寺顕如との和睦交渉を行うも失敗に終わり、その後、播磨攻略を目指す羽柴秀吉のもとに援軍として派遣されていました。秀吉軍に加わった村重は、上月城の戦い、神吉城攻め、そして三木城攻めと、続けざまに参戦していましたが、何を思ったのか、突如戦線を離脱。職場放棄して居城の有岡城に帰ってしまいます。

 さすがの信長も、これには大いに驚いたようで、かなり狼狽していたと、ルイス・フロイスの記述にあります。どうやら村重の謀反は、信長にとってまったくの寝耳に水だったようですね。なんとか村重を思い止まらせたい信長は、明智光秀松井友閑万見重元らを使者として村重のもとに送り込み、「(村重の)母親を人質に出せば、この一件は水に流す」とまでいいます。鬼の信長にしてみれば、これ以上ない譲歩といえます。

 光秀らと面会した村重は、一度はその説得に翻意し、信長に面会して釈明すべく安土城に向かいますが、その道中、家臣の中川清秀の居城である茨木城に立ち寄ったところ、「信長の気性からして、一度疑われた者は、いずれ滅ぼされるのは必至。このうえは信長と戦うべし」と進言され、結局有岡城に引き返してしまいます。これで、村重の謀反は決定的となりました。このあたり少し違いますが、大筋はドラマのとおりです。

 本話のタイトルは「裏切る理由」ですが、村重が謀反を起こした理由については、様々な説があります。ある説によれば、石山本願寺との和睦交渉の際に本願寺顕如と懇意になり、その縁で足利義昭とのパイプもでき、その両者からの要請があったため・・・といわれますし、また別の説では、家臣の中川清秀が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししており、それが信長に発覚しかけたため、その処罰を恐れての決起だった・・・ともいいます。他にも、石山本願寺攻めの担当から外されて秀吉の配下に下ったことへの不満・・・とか、あるいは単純に、織田氏より毛利氏に分があると考えたから・・・などなど、どれもありそうな話ですが、どれも想像の域を出ません。

 ドラマでは、そんないろんな要素が積み重なった複雑な心理状態をうまく描いていましたね。わたしが思うに、いうなれば一種のノイローゼ、現代でいえば「うつ病」のような精神状態だったのかもしれません。実際に、石山本願寺攻めの担当を外されてから謀反を起こすまでのあいだ、捕獲した敵将を逃したり、無断で戦線を離脱したり、あきらかに戦意喪失ととれる行動が見られます。想像するに村重は心身ともに疲れ果てていた・・・、つまるところ、信長の配下で働くことが嫌になっていたんじゃないかと・・・。後世に「天才」と評される信長ですが、実際に天才奇才の下で働く部下は、たまったものじゃないかもしれませんね。村重にしても、のちの光秀にしても、天才信長の下で馬車馬のように働く日々から、逃げ出したかったのかもしれません。

 小説『播磨灘物語』のなかで司馬遼太郎氏は、村重の謀反の理由について次のように述べています。

 「(村重の謀反は)織田信長という人物の器量に関係ってくることになるであろう。信長は、諸国を斬り取りする困難な時期においてこそ彼自身が巨大な錐になって旋回し、立ちふさがる旧時代という岩壁に大穴をあげて行ったが、その事業がやや峠を越した観のこの時期にあっては別の人格を時代が要求するようになった。
「ああいう、不徳の大将では」と、村重が謀反を私(ひそ)かに決意したときは、そのように、うめいたにちがいない。」


 ドラマ中、信長は優秀な家臣のことを「良い道具」とよく表現していますよね。たしかに、信長にとって部下たちは「道具」でした。しかし、部下という道具には「心」があるということを、天才信長はわからなかったのですね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-05-07 23:54 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(0)  

軍師官兵衛 第3話「命の使い道」 〜荒木村重と饅頭の逸話〜

 幼なじみで初恋の相手のおたつの死に、心を痛める若き黒田官兵衛の話でした。前話の稿でも述べましたが、おたつはドラマのオリジナルで、架空の人物。そのモデルは、官兵衛の妹・志織姫です。黒田家の仕える小寺家と、備前国の浦上家との同盟関係の証として、浦上政宗の息子に嫁いだ志織姫でしたが、室山城(室津城)での婚礼の夜に、隙を突いた龍野の赤松政秀に襲撃され、新郎新婦もろとも命を落とします。戦国の世のならいとはいえ、悲しい逸話ですね。室津の人々はこの悲劇を憂い、花嫁の鎮魂のために、ひな祭りを半年遅れの八朔(旧暦の8月1日)に延しました。このときより、室津では3月のひな祭りを八朔に行うことになったそうです。

 本話の「官兵衛紀行」は、ぜったい室津と「八朔のひなまつり」のエピソードだと思ってたんですけどね。

 官兵衛が幼なじみの死の悲しみに打ちひしがれていたころ、美濃国では竹中半兵衛が、わずか十数名の手勢で稲葉山城を乗っとりました。その理由は、酒色に溺れて、佞臣のみを重用して賢臣を遠ざけ、政務を顧みようとしない主君・斎藤龍興を諌めるためのものだったといいます。これを伝え知った織田信長は、「城を明け渡しくれれば、美濃の半分を与えよう」と半兵衛に伝えますが、これを受けた半兵衛は、「主の斎藤龍興を諫めるため、一時的に城を預かっているだけだ」と答え、信長の申し出を退けます。そして、半年ほど城を占拠したのち、龍興に返還しちゃうんですよね。半兵衛を語るに外せない逸話で、なんとも痛快なエピソードです。

 荒木村重が出てきましたね。いうまでもなく村重は後年、官兵衛の人生を大きく変えることになる人物ですが、当然このときの二人は知るはずもありません。村重は官兵衛のひとまわり歳上ですから、このころは28歳くらいでしょうか。盗賊に襲われた官兵衛主従を助けるという設定の登場でしたが、そのお礼に官兵衛が差し出した饅頭をもらって曰く「饅頭は大好物じゃ!」とのこと。これが、単なる他愛もない演出ではなく、村重にまつわるエピソードの伏線であることは、知ってる人はわかりますよね。

 荒木村重を描いた『荒木村重錦絵図』という絵がありますが、これは、村重が餅を食らうシーンを描いたものです。『太平記英雄伝』によると、村重がはじめて織田信長に拝謁したときに、「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」豪語したそうです。これを聞いた信長は、おもむろに腰刀を抜き、その剣先に饅頭を3個ほど突き刺し、「食してみろ!」と村重の目の前に突き出します。同席していた者どもは青ざめてしまいますが、村重は顔色を変えることなく、「ありがたくちょうだいします」と、大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べたとか。その度胸を気に入った信長は、村重に摂津を任せたといいいます。

 この逸話が実話かどうかはわかりませんが、これが実話なら、荒木村重という人物がいかに肝の座った男であったかがわかります。・・・が、饅頭が大好物だったかどうかはわかりません(笑)。

 「かたじけない。今度会うときは、わしは城持ちになっているからのう。10倍にして返すぞ。また会おう!官兵衛」

 その言葉どおり、今度会うときの村重は城持ちになっていました。でも、恩をアダで10倍返しすることになろうとは、半沢直樹もビックリでしょう(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2014-01-20 22:35 | 軍師官兵衛 | Trackback(3) | Comments(2)