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平清盛 第22話「勝利の代償」

 保元元年(1156年)7月11日、崇徳上皇(第75代天皇)方と後白河天皇(第77代天皇)方に分裂して武士たちが戦った政争、後世にいう「保元の乱」は、一時は上皇方の勇者・源為朝(鎮西八郎)の奮戦によって苦しめられたものの、天皇方の源義朝が放った火によって白河殿が焼け落ち、崇徳院ならびに上皇方の参謀・藤原頼長が敗走。合戦開始からわずか4時間で天皇方の圧倒的勝利に終わった。

 合戦の勝利を受けて朝廷は、その日のうちに藤原忠通を藤原氏長者とする宣旨を下し、早くも論功行賞が行われた。これを取り仕切っていたのが、天皇方の参謀・信西だった。この戦功により平清盛は受領の最上位に位置する播磨守に栄進。弟の平経盛安芸守、同じく弟の平教盛平頼盛が内昇殿を許された。その一方で、源義朝は内昇殿を許されたものの、左馬頭(朝廷の馬を管理する左馬寮の長官)に任じられたに過ぎなかった。戦功という点でいえば、最も積極果敢に戦ったのは義朝の軍勢であり、清盛率いる伊勢平氏は最大兵力を動員してはいたものの、目立った活躍はしていない。しかも、義朝は父・源為義をはじめ一族多数を敵にまわして戦ったが、清盛はさして仲が良かったわけではない叔父の平忠正と敵味方に分かれただけで、一族の人材を失ってはいなかった。すべては、今後の政権運営に平氏の力を利用しようと考えた信西の思惑によるものだったが、義朝の不満は大きかったようで、このことが3年後の「平治の乱」の遠因になったともいわれている。

 敗走した崇徳院は、ドラマにあったように仁和寺の覚性入道親王を頼った。覚性は崇徳院や後白河帝と同じく待賢門院璋子の子で、二人の実弟である。しかし覚性は兄・崇徳院の受け入れを拒否。行き場を失った崇徳院はやむなく投降した。軍記物語の『保元物語』によると、崇徳院は如意山へと逃亡するが、次第に気力を失い、出家を願うものの、この山中ではとても無理であると臣下にいわれ、涙をこぼして落胆したとある。これもドラマにあったとおりだ。

 同じく『保元物語』によれば、敗走中に流れ矢を首に受けて重傷を負った藤原頼長は、出血による衰弱に苦しみながら逃亡を続け、戦から2日経った13日に木津川まで落ち延びたところで気力を失い、奈良の興福寺の禅定院にいた父・藤原忠実に助けを求めるため、付き従っていた図書允俊成を使いに出すも、
 「何とか入道おも見んと思ふべき。我も見えん共思はず。やうれ俊成よ、思ふても見よ、氏の長者たる程の者の、兵杖の前に懸る事やある。左様に不運の者に、対面せん事由なし。音にもきかず、ましてめにもみざらん方へゆけと云べし。」
意訳:「何故この入道に逢いたいと思うのか、私は逢いたくもないぞ。やい俊成よ、思うて見よ。氏の長者たる程の者が、戦場にて傷付くなどということがあって良いものか。左様な不運の者に、対面せねばならぬ理由はない。風聞も目も届かないところへ行けと申せ。」

と言って、忠実は泣きながら頼長との対面を拒否。この報告を聞いた頼長は、失意のあまり舌を噛み切って落命する。享年37歳。「日本一の大学生、和漢の才に富む」と、その学識を称えられた頼長だったが、その最期はなんとも惨めなものだった。『保元物語』では頼長落命の章の最後を、
「俊才におはしましゝかども、其心根にたがふ所のあればこそ、祖神の冥慮にも違て、身をほろぼし給ひけめ。」
意訳:「たしかに頼長様は秀才ではあられたものの、その心根にどこか違うところがあったため、先祖の神々のお考えに合わず、わが身を滅ぼすことになったのでしょう。」

と、結んでいる。

 ドラマでは描かれていないが、さらに『保元物語』の伝えるところでは、頼長の亡骸は奈良の般若野に埋葬されたが、頼長落命の知らせを受けた信西が、その死を確かめるために遺骸を掘り起こさせたという。しかも、その遺骸は埋め戻されることもなく、路傍に捨て置かれた・・・と。この酷い仕打ちに頼長の息子たちは出家することを志すが、いつか再起をはかるべきであるという忠実の言葉に思いとどまったという。これがもし事実なら、後年、事あるごとに頼長の怨霊が囁かれたのも当然だったかもしれない。頼長の死によって摂関家の勢力はますます減退し、中央政界は信西の独壇場となっていった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-06-04 20:49 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(0)  

平清盛 第21話「保元の乱」

 鳥羽法皇(第74代天皇)の崩御から1週間が過ぎた保元元年(1156年)7月10日深夜、ついに戦いの火蓋が切られようとしていた。平安京の南の鳥羽殿から賀茂川の東にある白河北殿へ移った崇徳上皇(第75代天皇)と藤原頼長のもとに集まったのは、清和源氏の源為義をはじめ、源頼賢源為朝(鎮西八郎)など為義の息子たちや、伊勢平氏では平清盛の叔父・平忠正の一族などであったが、武士としては二流どころで兵力も少なかった。対する後白河天皇(第77代天皇)方は、京で随一の兵力を誇る清盛をはじめ、清和源氏の嫡流で為義の息子である源義朝、足利氏の祖・源義康、摂津源氏の源頼政などそうそうたるメンバーで、数の上でも崇徳院方を大きく上回っていた。

 決戦を前に、それぞれの陣営で軍議が行われた。歴史書として信憑性が高いとされる『愚管抄』によると、崇徳院方では為義が夜討ちを献策したにも関わらず、頼長は大和の軍兵を待つとしてその案を一蹴したという。ドラマでは為朝が夜討ちを主張した設定になっていたが、これは軍記物語の『保元物語』にならったものだろう。なんとも厳つい顔をしたドラマの為朝だが、実はこのとき若干18歳。そんな若僧の為朝の献策だったとすれば、頼長が軽く見たのも無理からぬことだったかもしれない。また頼長は、天皇と上皇の戦いに夜討ちなど相応しくないといった考えもあったようだ。正論を好む観念主義の頼長らしい考えといえる。

 一方の後白河帝方の軍議では、合戦の計画を奏上せよとして、清盛と義朝の二人が朝餉(あさがれい)の間に召集され、ここで義朝は、敵方の父(もしくは弟)と同じく夜討ちを進言する。このとき、清盛がどのような奏上を行ったのかは不明である。後白河帝方に参陣したとはいえ崇徳院とも関わりが深かった清盛は、できれば崇徳院に対して手荒な真似はしたくないという思いもあったかもしれない。しかし義朝は違った。彼はこの戦いの戦功に自らの出世を賭けていた。義朝の進言を聞いた関白・藤原忠通は逡巡したが、実質的な参謀である信西はこの案を即座に採用。頼長と信西というそれぞれの司令官の見識の差が、勝敗を分ける決め手とる。

 「孫子曰く『利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止まる。』我らは今、兵の数で劣っておる。それで攻めるは理に合わぬ。大和の軍勢が着くのを待つのじゃ。」と頼長。
 「また孫子曰く、『夜呼ぶものは恐るるなり。』夜に兵が呼び合うは臆病の証。されど、孫子に習うまでもなく、夜討ちは卑怯なり!」
 いかにも厳格で偏狭な頼長らしい解釈だ。
 一方の信西は同じ言葉を、「夜通しこうしてピイピイと論じ続けるのは臆病者のすること」と解釈。さらに信西はこう続ける。
 「孫子曰く『利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止まる。』例え夜明けを待つにせよ、ぼんやりと待つことを、孫子は良しとはせなんだのじゃ。ならば動くがよし !今すぐ!」

 この頼長と信西の孫子の解釈の違いが明暗を分けたという脚本は、実に秀逸で面白かった。あくまで観念的な頼長に対して現実的な信西。孫子の解釈としてはおそらく頼長の方が正しいのだろうが、戦の司令官の見識としては必ずしも正しくなかった。一方で信西の解釈は、夜討ちありきで無理やり結びつけたこじつけ解釈。しかし、戦に勝つためには必要な屁理屈だった。もちろん、このエピソードはドラマのオリジナルだが、二人の人物像が上手く描かれたシーンだった。実際の頼長も、切れ者ではあったが狡猾さに欠けたところがあり、所詮は政治家ではなく官僚だったのだろう。一方の信西はまさしく政治家。彼はこの戦で、後白河帝の権威を保つため、そして自身の政治権力を強固にするため、邪魔になる勢力を一掃しようと画策していた。その信西の描いたシナリオにまんまと乗っかってきたのが、崇徳院と頼長だったのである。「保元の乱」は、信西が起こした信西のための戦だったといっても過言ではないだろう。

 7月11日未明、平清盛、源義朝、源義康率いる後白河帝方の兵600騎は内裏高松殿を出陣し、崇徳院方が篭る白河北殿へ押し寄せた。兵の数で劣る崇徳院方だったが、強弓を誇る源為朝の奮戦によって戦況は一進一退。一時は清盛たち後白河帝方が後退する場面もあった。しかし、義朝が内裏に使者を派遣して許可を得た上で白河殿に火を放つと、崇徳院方は浮き足立ち、合戦開始からわずか4時間、戦いは後白河方の圧倒的勝利で幕を閉じた。

 ドラマでは義朝に対抗心を抱いて奮戦していた清盛だったが、実際には清盛はこの戦いでは目立った活躍の記録がない。前話の稿(参照:第20話)でも述べたとおり、崇徳院と乳母子だった清盛は、この戦いには終始消極的な姿勢だったのかもしれない。にも関わらず、平家は戦後、手厚い恩賞を手にすることとなる。そしてそのことが、次の争いを生むことになっていくわけだが、このときの清盛はまだ知る由もなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-28 22:39 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

平清盛 第19話「鳥羽院の遺言」

 久寿2年(1155年)の近衛天皇(第76代天皇)の崩御後、誰も予想していなかった後白河天皇(第77代天皇)が誕生すると、藤原忠通が関白に任ぜられ、後白河帝の乳父である信西が重用され、事実上この二人が国政を掌握する。一方で、崇徳上皇(第75代天皇)の皇子・重仁親王の即位を望んでいた藤原頼長は、後白河帝の即位によって内覧を解任され、朝廷内での存在感を失いつつあった。当然のごとく、頼長は後白河帝や信西に対して強い不満を抱くようになる。

 もともと摂関家の藤原氏では、官位官職などの就任をめぐり、深刻で拭いがたい対立があった。兄・忠通と弟・頼長との主導権争いである。「日本第一の大学生」といわれた頼長は、摂関となって自ら政治を執り行うことを願っていた。そんな頼長を父である藤原忠実も偏愛し、摂関の地位を弟に譲るよう忠通にたびたび圧力をかけたが、実子の藤原基実に継がせたいと考えていた忠通はこれを拒み続けた。怒った忠実は、忠通の東三条殿の邸に家人の源為義を派遣し、摂関家累代の宝物を接収して忠通を義絶、頼長を氏長者にしてしまう。そして翌年、鳥羽法皇(第74代天皇)に懇請して頼長を「内覧」に就かせた。内覧とは天皇の決定を補佐する役で、通常は摂政関白がこの任にあたる。関白の忠通と内覧の頼長という二人の執政が並び立つ異常事態が生まれたのだった。

 しかし、そんな頼長の権力の時代は長くは続かなかった。厳しい処罰を伴う頼長の厳格な政治姿勢は多くの貴族の反感を買い、鳥羽院の寵臣・藤原家成邸の襲撃したことで鳥羽院の信任まで失うこととなる。さらには、近衛帝が眼病で早世したのは、「何者かが愛宕山の天公像(天狗像)の目に釘を打ち込み呪詛したせいだ」という風聞が飛び交い、その呪詛を行ったのが頼長だという噂を立てられる。おそらくは兄・忠通による策謀だと思われるが、この噂によってさらに頼長は鳥羽院の恨みを買い、そして後白河帝の即位に伴い、兄の忠通は関白に任じられ、頼長は内覧を解任させられた。

 「お前は、やりすぎたのだ!」
 ドラマ中、父・忠実が頼長に言った台詞だが、まさしく頼長はやりすぎた。やりすぎたことにより多くの敵を作り、そして遂には完全に失脚したのである。この失脚を操っていたのが、後白河帝の乳父・信西だった。

 信西入道こと藤原通憲は、頼長に勝るとも劣らないほど学才豊かな人物だったが、家柄が低かったため官職は少納言止まりだった。朝廷での官位官職の出世をあきらめた通憲は、出家して信西と名を改め、その学才を生かして鳥羽法皇の政治顧問となり徐々に頭角をあらわす。さらに信西は、妻が後白河帝の乳母を勤めていたことから、後白河帝を即位させ、天皇の乳父としての立場で政治の実権を握ろうと目論んだ。そしてその計画を実現した信西は、政敵となった頼長を徹底的に排除しようと画策するのである。

 同じ頃、清和源氏では源義朝の弟・源為朝(鎮西八郎)が鎮西(九州)で乱暴狼藉を繰り返し、そのせいで父の源為義は官位を剥奪されてしまう。また同じ頃、義朝の長男でわずか15歳の源義平が、同じく義朝の弟で義平からみれば叔父にあたる源義賢を攻め滅ぼし、一族を制圧してしまった。その恐るべき所業から、義平は「悪源太」と呼ばれるようになる。このとき、義賢の子でまだ2歳の幼児だった駒王丸はかろうじて逃げ延び、信濃の豪族に養育された。この駒王丸がのちに木曽義仲と名乗り、信濃の武士団を率いて立ち上がることになるのだが、それはずっと後年の話。この頃、これまた義朝の弟で源氏の総領を継ぐ存在となっていた源頼賢が、義賢討死の報復のため東国に下る途中、鳥羽院の荘園といざこざを起こしてしまい、この報を受けた鳥羽院は頼賢追討を兄の義朝に命じた。義朝がこれを受けなかったため、兄弟での争いはとりあえずは回避できたものの、もともと摂関家に仕える父・為義と、鳥羽院に接近して下野守となっていた義朝とは、一線を画す関係にあった。一族の分裂は時間の問題だったのである。

 そんな中、保元元年(1156年)7月2日、治天の君として28年間君臨した鳥羽院が崩御した。これを機に、天皇家では兄・崇徳上皇と弟・後白河天皇、藤原摂関家では兄・忠通と弟・頼長、そして源氏では父・為義と嫡男・義朝と、まさに「骨肉相食む」戦いが始まろうとしていた。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-15 22:43 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(2)  

平清盛 第16話「さらば父上」

 仁平3年(1153年)1月15日、平清盛の父・平忠盛がこの世を去った。享年58歳。当時の日記などによると、忠盛は死の2年前に就任していた刑部卿に職を、死の2日前の1月13日に辞任したという記録があるそうで、そのことから考えれば、忠盛の死は急死ではなく、おそらく病没だったのだろう。位は正四位上という四位の最上位に達していた。その上は三位、すなわち公卿である。国政に携わる一歩手前まできていただけに、まことに惜しい死であった。

 若き日の忠盛は白河法皇(第72代天皇)に重用され、検非違使などの官職、越前守などの受領を歴任し、山陽道、南海道の海賊討伐で活躍、治安維持に務め実績をあげた。白河院の没後は鳥羽法皇(第74代天皇)に忠節を尽くし、院庁の判官代別当(長官)などの要職を歴任した。後半生の忠盛はさらに、中務大輔尾張守播磨守内蔵頭などの要職を歴任する一方、鳥羽院の御厩の別当、美福門院得子年預(執事別当)なども兼ねた。そして長承元年(1132年)には清涼殿南廂の殿上の間への昇殿を許された。武家出身者が昇殿人となるのは異例のことで、これは、千体の観音像をおさめた得長寿院の造営の功により許されたものだといわれている。その後も忠盛は、保延元年(1135年)にも海賊討伐で実績をあげ、さらに保延5年(1139年)には興福寺宗徒が起こした強訴を洛外で阻止した。このように忠盛は、人並み外れた手腕、軍事力を有する時代を代表する武将だった。

 もっとも忠盛は武力財力だけで出世したわけではなかった。宮廷貴族として認められるには、それに相応しい教養を身に着けていなければならない。忠盛は武家の棟梁としてのみならず、和歌音楽にも造詣が深い人物として知られていた。特に和歌は『金葉和歌集』(白河院の命により編纂された勅撰和歌集)に載るほどの名手だったようだ。『平家物語』にも、備前から帰ってきた忠盛が鳥羽院に「明石浦はどうであった」と聞かれて、即座に「有明の月も明石のうら風に浪ばかりこそよるとみえしか」(残月の明るい明石浦に、風が吹かれて波ばかり寄ると見えた)と詠んだエピソードが残されている。「明石」「明かし」「寄る」「夜」をかけた歌で、その出来栄えに鳥羽院も大いに感心したという。

 管弦ではをよくしたという。「小枝(さえだ)」という笛を鳥羽院から賜り、それを三男の平経盛に譲り、それがさらに孫の平敦盛に伝わったことが、『平家物語』「敦盛最期」に見える。その他、舞は元永2年(1119年)の賀茂臨時祭で舞人を務め、見物の公卿に「舞人の道に光華を施し、万事耳目を驚かす」と称えられたほどであった。ドラマでの忠盛は無骨な武家の棟梁としての一面だけしか見られなかったが、実際の忠盛は和歌、管弦、舞などの芸術面にも優れた文化人でもあったようである。いや、武力一辺倒の武士のイメージを払拭するため、また、朝廷での平家の地位を高めるため、血のにじむような努力を重ねた上のものだったのかもしれない。

 ちなみに、平家一門には平忠度(清盛の末弟)の和歌や平経正(経盛の長男)の琵琶など、和歌や管弦など芸術面に優れた人物が多いが、これも忠盛の血を引く遺伝的素質だったのだろう。そう考えれば、清盛が芸術面でこれといった才能を見せなかったのが興味深い。ひょっとしたら、ドラマのとおり清盛と忠盛には血の繋がりがなかったのだろうか・・・。

 忠盛の死にあたって、祇園闘乱事件では忠盛・清盛父子の刑を主張した悪左府・藤原頼長でさえ、自身の日記『台記』に次のように記している。
 「数国の吏を経て、富は巨万を重ね、奴僕は国に満ち、武威は人にすぐる。然るに人となり恭倹にして、未だかつて奢侈の行あらず。時の人、これを惜しむ」
 巨万の富と多くの家来を持ち、人にまさる武威を持ちながら、あくまで慎み深く、贅沢な振る舞いはなかった・・・と、あの憎たらしい頼長からは想像できないほどの賛辞を書き残している。この一文からも、忠盛の人となりが窺えるというものである。若き日の清盛が飛ぶ鳥を落とす勢いで異例の出世を遂げたのも、父・忠盛の配慮によってのもので、この時期はまだ忠盛あっての清盛だった。

 公卿を目前にして叶わなかった忠盛だったが、その最終の位である正四位上というのは、通例ではあまり与えられる者のない位階で、公卿になる人はこれを飛び越えて三位になる場合がほとんどだった。忠盛が異例の正四位上についたのは、なんとしても武家を公卿にしてはならないという政治力がはたらいた結果と考えられなくもない。いかに富を蓄え、武力を持ち、宮廷人としての素養を身につけても、武士が公卿に上る道は依然として険しかったのである。その道は、こののち清盛に引き継がれていく。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-24 16:37 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(0)  

平清盛 第14話「家盛決起」

 祇園闘乱事件が発端となった比叡山延暦寺の強訴に一応の決着をみたものの、これまで順風満帆な人生を送ってきた平清盛にとっては初めての挫折となったようで、その後も一時不遇を強いられることとなった。そのことと関係していたかどうかはわからないが、にわかに異母弟の平家盛が朝廷における活動を活発化しはじめ、清盛の地位を脅かす存在となりつつあった。

 ここで清盛の兄弟について触れておこう。清盛の生母については第1話でも触れたとおり(参照:第1話)、正確なことはほとんど何もわかっていない。わかっているのは、清盛が2、3歳の頃に亡くなっているということだけである。この女性が清盛以外の子を産んだという記録はなく、清盛には父母を同じくする兄弟姉妹は一人もいなかったようである(ドラマでは、清盛の実父は平忠盛ではなく白河法皇(第72代天皇)の御落胤という設定になっているが、この説については賛否両論があって事実とは言い難く、ここでは清盛の実父は忠盛という仮定で進めることにする)。清盛の生母の死後、忠盛は藤原宗子(のちの池禅尼)を継室に迎え、平家盛平頼盛といった男子をもうけ、他にも三人の側室や妾との間にそれぞれ、平経盛平教盛平忠度という男子をもうけた。次弟の家盛の生年は正確には不明なのだが、これらの異母弟の長幼の順は、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度というものであったと考えられている。さらに、生母も長幼の順も不明だが、清盛には少なくとも3人の異母妹がいた。

 この中で、家盛と頼盛の二人は継室(正室?)の子であったため、比較的順調に出世した。この時代、長男が家督を継ぐとは限らず、正室の子か側室の子かという生母の立場も重要であり、その意味では、家盛は清盛の強力なライバルだった。

 祇園闘乱事件から5ヵ月が過ぎた久安3年(1147年)11月、家盛は常陸介に任官し、その直後には賀茂臨時祭舞人を務め、さらに翌年正月には従四位下右馬頭に任じられた。右馬頭は御所の馬や馬具を管理する右馬寮の長官であり、軍事的にも重要な部署で、武士にとっては名誉な役職だった。清盛の起こした事件から間もないこのタイミングでの家盛の出世を、事件とは無関係と考えるほうが無理があるように思える。この時期の清盛はドラマのように、朝廷からも平氏内部でも、信頼を失っていたのかもしれない。急激な弟の台頭に、清盛はきっと心穏やかならぬ日々を送っていたことだろう。

 こうして弟の猛追によって平氏の後継者という地位を脅かされていた清盛だったが、幸か不幸か、久安5年(1149年)2月の鳥羽法皇(第74代天皇)の熊野詣に供奉した家盛は、その帰路にに倒れ、3月15日、京に近い宇治川の辺りで帰らぬ人となる。訃報を聞いて駆けつけた乳父の平維綱は、悲しみのあまりその場で出家したという。父の忠盛もその翌月、自ら費用を負担して造営した延勝寺の供養を、家盛の死を理由に欠席し、一周忌には家盛愛用の剣を奈良の正倉院に寄進している。家盛の死による平氏一門の悲しみの深さが伺えるが、この死によって、結果として清盛の後継者としての地位が盤石となったことは間違いない。このとき、清盛はどんな心境だったのだろうか・・・。

 ちなみに、家盛の出世を内大臣・藤原頼長が導いたという話は他の物語などには見られず、ドラマのオリジナルだと思われる。したがって、家盛が頼長の男色相手だったという話ももちろん存在しない。しかし、頼長が男色家だったという話は有名な事実で、自らが記した『台記』という日記には、赤裸々な男色行為が綴られている。この時代の公家社会では男色は珍しいことではなく、政治や人事にも大きく影響していたとか。頼長が記した『台記』は男色日記ではなく、政治活動を後世に残すための記録だったようである。ただ、そう説明されたところで現代の私たちに共感できるものではなく、むしろおぞましい感覚さえ覚えてしまうのだが、驚いたのは、これを天下のNHKが大胆に描いたこと。おそらく賛否両論はあろうかと思うが、このドラマにかける制作サイドの意気込みは評価したい。ただ、今のところその意気込みが視聴率に繋がらず、空回りし始めているような気がしないでもないのだが・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2012-04-09 17:30 | 平清盛 | Trackback(6) | Comments(0)  

平清盛  第13話「祇園闘乱事件」

 久安2年(1146年)、平清盛は正四位下という異例の官位に昇進した。飛ぶ鳥を落とす勢いで出世を重ね、順風満帆に見えた清盛の人生だったが、「禍福はあざなえる縄の如し」の言葉どおり、翌年の久安3年(1147年)、人生初の試練を味わうことになる。

 6月15日、清盛は恒例の祇園臨時祭に際して、祇園社(現在の八坂神社)に田楽舞を奉納するため、田楽を奏する楽人と護衛の家臣を派遣した。当日、清盛の郎等は弓矢、刀剣などの武具を携えたまま境内に入ろうとしたところ、祇園社の神人は武装解除を求めて参詣を制したという。やがて郎等と神人はお互いに興奮し、ついには郎等の放った矢が神官や宝殿に命中し、けが人まで出る深刻な事態に発展してしまったのである。ドラマでは、清盛自身がわざと神輿を狙って矢を射たことになっていたが、これは吉川英治著の『新・平家物語』で描かれたフィクションで、オリジナルの『平家物語』によれば、郎等が威嚇のために放った矢が神輿に当たってしまったもので、あくまで過失だったようである。

 祇園社の神人はことの顛末を関わりが深い比叡山延暦寺衆徒(僧兵)に告げた。日頃から平氏の存在を快く思っていなかった延暦寺は、同月24日、延暦寺の所司(幹部)が鳥羽法皇(第74代天皇)の御所へ参内し、平忠盛・清盛父子の官位、官職の剥奪と配流を求めたとされる。一方、延暦寺の動きを察知した忠盛は、事件に関与した郎等7人を検非違使に引渡して事件の幕引きを図ろうとした。しかし、それでも延暦寺の怒りは収まらず、26日には祇園社、鎮守日吉社の神輿を担ぎだして強訴を引き起こした。

 衆徒が神輿などのご神体を担ぎ出すのは、宗教的権威によって強訴を正当化するためである。このときより半世紀ほど前の嘉保2年(1095年)、神輿の入洛を武力で鎮圧した関白・藤原師通が、その4年後に38歳の若さで急逝したため、延暦寺は天罰が下ったと喧伝し、貴族たちは神威に恐れをなして為す術をなくしていた。あの、専制君主だった白河法皇(第72代天皇)でさえ、自分の思いどおりにならない「天下三不如意」として、「鴨川の水、双六の賽」とともに「山法師(僧兵の強訴)」をあげているほどである。法皇や摂関家でさえもてあましていた強訴の矛先が清盛に向けられたのだ。清盛にとっては、まさしく人生初の政治的危機であった。

 鳥羽院は検非違使の源光安や、源氏の棟梁・源為義らに強訴の入洛阻止を命じた。といっても、武力で鎮圧しようというものではない。強訴といってもあくまで神威をかさに着てのデモ行為であり、基本的に衆徒らが朝廷に対して武力に訴えることはなかった。しかしこのとき、衆徒の叫び声、シュプレヒコールが洛中まで響いていたと伝えられるほどで、このときの強訴がいかに激しいものであったかが窺える。こういった状況下で、鳥羽院は延暦寺側に使者を送り、公平に裁断する旨を伝えて一旦衆徒を比叡山に引き返させ、同月30日、摂政・藤原忠通、内大臣・藤原頼長以下16人の公卿を院御所の招集して対策会議を開き、善後策を協議させた。公卿の多くは、忠盛と清盛は事件の発端には関わっていないのだから、下手人だけを罰すればいいとの意見だったという。しかし、「悪左府」の異名をとった切れ者・藤原頼長だけは違っていた。

 頼長のいうところでは、たとえその場に居あわせなくとも、下手人たちの雇い主としての責任は免れないとして、清盛たちの有罪を主張した。部下の失敗は上司の責任、秘書官の犯した罪は政治家の責任、大久保隆規氏の犯した罪は小沢一郎氏の罪である・・・と。一方で頼長は、清盛側の郎等も負傷したのだから、祇園社側の下手人も捕えて罰すべきであるとも述べている。もっともといえばもっともな意見で、さすがは曲がったことが嫌いな頼長である。しかし、正論ばかりでは世の中は立ち回らない。鳥羽院はあくまで忠盛たちを守りぬく考えであった。

 その後も容易に結論が出ず、業を煮やした衆徒は再び入洛する構えを見せたが、このときも鳥羽院は武士たちを比叡山の降り口に派遣して防御態勢をしいた。行軍に際しては鳥羽院自ら閲兵にあたり、武士たちは家伝の綺羅びやかな武具をまとって晴れやかに出陣していったと伝えられる。この出陣は半月に及んだ。

 結局、裁断が下ったのは7月27日、忠盛、清盛父子は贖銅三十斤という罰金刑を科せられた。さすがに無罪放免とはいかなかったものの、衆徒たちが求める流罪をはねのけるかたちの極めて軽い処分であった。この予想外の軽い処分は、鳥羽院の意向によるものだと考えられている。鳥羽院は、軍事的にも経済的にも強大な力を有する忠盛、清盛父子を、今後も重用したいと考えていたためだった。この裁断に対して延暦寺側は、天台座主(延暦寺の最高位の役職)をはじめ延暦寺の首脳たちは納得したが、おさまらないの衆徒たちだった。やがて衆徒の怒りの矛先は首脳陣に向けられ、延暦寺内部の抗争に発展したため、清盛たちはそれ以上追求を受けずにすみ、いつしか事態は有耶無耶のまま収束に向かった。さすがの清盛もホッと胸を撫で下ろしたことだろう。

 この出来事によって、清盛は延暦寺の脅威を痛感したはずだ。後年、清盛は奈良の興福寺や延暦寺と対立関係にある園城寺に対しては強圧的に臨んだが、延暦寺に対しては出来る限り協調を保とうとした。それは、このときの苦い経験からくるものだったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-02 16:52 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(0)  

平清盛 第8話「宋銭と内大臣」

 9世紀末に藤原道真の建議によって遣唐使が廃止されて以来、わが国の外国との正式な国交は途絶えていた。京の貴族の間では、中国文化の影響から離れたわが国独自の国風文化が発展する一方で、外国をケガレの対象と見るようになり、国際社会に対する無関心や外国人に対する排外思想が広まっていった。平清盛が生きたこの物語の時代より200年以上前の宇多天皇(第59代天皇)の時代には、「天皇が外人と面会しなければならない場合は簾の中から見よ」と皇子に対して戒めており、そんな海外に対する忌避感は、実現不可能な攘夷を主張し続けた幕末の孝明天皇(第121代天皇)まで、実に1000年近く続くのである。

 しかし、遣唐使が廃止された後も、日本と中国との交流が完全になくなったわけではなかった。対外貿易は九州の大宰府が一元管理していたが、やがて国禁を破って海外に渡り大陸の文物を輸入する商人が現れ、日宋貿易はかえって活発化していった。そして12世紀半ばには、太宰府による管理貿易とは別に、九州沿岸の有力な荘園領主による密貿易も行われるようになる。清盛の父・平忠盛もそのひとりだった。

 公家・源師時の日記『長秋記』によると、長承2年(1133年)に鎮西(九州)へ宋国の商船が来航した際、太宰府の役人が商船と交渉して取引を始めようとしたが、荘園を管理していた忠盛が下文を作成し、院宣と称して役人たちを追い払ってしまった。宋船が来着した場所は神埼荘の飛地で、当時の神埼荘は鳥羽上皇(第74代天皇)の直轄領であり、忠盛は院の命令により荘園を管理する立場にあった。その特権を利用して、大胆にも鳥羽院の院宣を偽造して貿易を独占したのである。現代ならば、公文書偽造の罪に問われかねない行為だが、当時の忠盛は鳥羽院から重用されており、院宣が偽物であることを気づいていた大宰府や院庁の面々も、忠盛の行為を不問に付すほかはなかったのだろう。

 忠盛が日宋貿易に目をつけたのは、海賊討伐によって配下となった海賊や西国の在地領主から貿易の知識を得ていたからだろう。また、忠盛はこれより10年以上前に越前守に任じられていたときがあり、この頃から既に貿易にかかわっていたという推測もあるようである。宋商人は太宰府のほか、ときには日本海の敦賀へ来て交易を行う場合もあったらしい。敦賀は越前守の管轄下にあり、このとき貿易のメリットを実感したのかもしれない。そう考えれば、神埼荘の管理も、端から密貿易をするために鳥羽院に頼んで許されたものだったのかもしれない。そんな忠盛の日宋貿易に対する熱心さは、やがて息子の清盛に引き継がれ、さらに活発化していくこととなる。

 「内大臣になった暁には、徹底して粛清致いたします」
 と、ただならぬ威圧感で不気味な笑みを浮かべていたのは、当時、「日本一の大学生(だいがくしょう)」と称されていた藤原頼長。「大学生」とは学者という意味で、その学識の高さは当時の貴族の中では右にでる者はなかったとか。父は白河院(第72代天皇)時代の関白で藤原忠実、兄も鳥羽院の関白となる藤原忠通である。父・忠実は、白河院の養女・璋子と忠通の縁談を破談にしたことや(参照:第5話)、娘・勲子(のちの泰子)の鳥羽院への入内にまつわる行いが白河院の怒りを買うところとなり、関白職を罷免され宇治で10年に及ぶ謹慎生活を余儀なくされる。この謹慎中に生まれたのが頼長だった。幼き頃から聡明努力家だった頼長は、忠実の期待を一身に受けて育ち、若干17才で内大臣となり、やがて、実質的に朝廷内の執政を握ることとなる。

 そんなエリートを絵に描いたような頼長だったが、一方で、何事にも妥協を知らない完璧主義者で、わずかな落ち度も許さないといった冷厳な性格の持ち主だった。自他ともに厳しい性格は役人向きといえなくもないが、その厳格さは苛烈を極め、一説には、公務に遅刻した同僚の家を燃やしてしまったという逸話も残されているほどである。ドラマで、たった一本の枝の切り残しを見つけ、その庭師を即座にクビにするという場面があったが、あながちフィクションでもないかもしれない。後年、左大臣まで昇り詰めた頼長を、人々は「悪左府」と呼んで恐れたという。

 ちなみに、「悪左府」以外にも、「悪源太義平」「悪七兵衛景清」など官名や人名の接頭語として「悪」という文字が使われている例が見られるが、これは現代語で意味するところの「悪人」とは少しニュアンスが違っていて、人並み外れた能力や厳しさ、猛々しさに対する畏敬の念をこめた言葉だそうである。つまり頼長の異名「悪左府」を訳せば、「尋常でない才覚を持った左大臣」といったところだろうか。もっとも、遅刻したくらいで家を燃やしてしまうような過激な逸話をみれば、現代語で意味するところの「悪人」といってもいいような気がしないでもないが・・・(笑)。

 さて、次週は雅仁親王、のちの後白河法皇(第77代天皇)が登場するようだ。ようやく保元・平治の乱の役者が揃ってきたが、保元の乱が起こるのはこれより20年ほど先の話。物語はまだまだプロローグである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-27 19:50 | 平清盛 | Trackback(5) | Comments(2)