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西郷どん 第7話「背中の母」 ~相次ぐ肉親の死と最初の結婚~

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 嘉永5年(1852年)、西郷吉之助(隆盛)の身辺に不幸が相次ぎます。まず、7月18日に祖父の西郷龍右衛門死去。没年齢はわかりませんが、息子の吉兵衛がこのとき47歳だったことから想定すると、この時代としては長寿70歳前後だったんじゃないでしょうか。ドラマでは温厚なおじいちゃんでしたが、実際には、どんな人だったか詳しくは伝わっていません。藩職は御台所御番という最下級のお役目で、石高も47石の小身でしたが、後年の西郷隆盛・従道兄弟大山巌の祖父にあたる人物となるわけですから、英雄のDNAを持っていたのかもしれません。

 龍右衛門の死から2ヶ月余りが過ぎた9月27日、今度は父の西郷吉兵衛が死去します。享年47。死因は病没としかわかっていません。ドラマでは突然死、いわゆるポックリ系の設定でしたね。人生50年と言われた時代ですから、それほど若死にというわけではなかったのかもしれませんが、父の龍右衛門の長寿を思えば、やはり早かったといえるでしょうか。吉兵衛の家格は御小姓与で、勘定方小頭を務めました。その人となりは詳しくは伝わっていませんが、寡黙で実直な能吏であったものとみられています。


 そして、さらに2ヶ月が過ぎた11月29日、夫の後を追うように母のマサ(満佐・政佐)が亡くなります。没年齢はわかりませんが、長男の吉之助の年齢から考えて、40代前半だったんじゃないでしょうか。自身も病気でありながら、看病にあたったのが、死期を早めたのかもしれませんね。夫同様その人となりは詳しく伝えられていませんが、四男三女を生み育て、あの英雄肌の西郷隆盛・従道兄弟の母だったわけですから、きっと、ドラマのようにおおらかな女性だったんじゃないでしょうか。


 わずか4か月余りの間に立て続けに両親と祖父を亡くした西郷。このとき彼は数えの25歳で、まさに厄年でした。父が亡くなった直後の9月の時点で吉之助の家督相続願が藩に提出され、翌嘉永6年(1853年)2月に正式に藩によって認められます。これにより、西郷はひとりで弟妹たちを支えなければならなくなりました。


e0158128_22092865.png ただ、ひとりといっても全くの独りぼっちではなく、両親が亡くなる少し前、西郷は両親の勧めで結婚していました。西郷にとって最初の妻となる須賀です。彼女についての史料は極度に乏しく、鹿児島城下上之園町に住んでいた伊集院兼善の長女で、このとき20歳だったということぐらいしかわかっていません。ネタバレになりますが、“最初の”妻と述べたとおり、二人の結婚生活は長くは続かないんですね。その理由は詳しくはわかっていませんが、ドラマでの須賀は、いかにも幸薄そうな雰囲気を漂わせていましたね。次週のタイトルは『不吉な嫁』(笑)。たしかに、彼女が嫁いできてすぐに父母が亡くなったわけですから、そう思われたかもしれません。二人の短い夫婦生活がどのように描かれるのか、楽しみにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2018-02-19 19:01 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第6話「謎の漂流者」 ~ジョン万次郎と薩摩藩~

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 土佐の貧しいの家に生まれながら、少年期に遭難してアメリカの捕鯨船に助けられたことで、アメリカに渡り、西洋文化に触れ、帰国後はその知識で幕府高官にも討幕の志士たちにも多大な影響を与えたことで知られるジョン万次郎こと中濱萬次郎。天保12年(1841年)、14歳のときに漁師仲間4人と共に遭難し、伊豆諸島の無人島鳥島に漂着して何とか命を繋いでいると、143日目にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助されます。その後、他の4人はハワイで下船して日本に帰国しますが、好奇心旺盛だった少年・万次郎はこのまま船に残りたいと希望し、その向学心を気に入った船長のホイットフィールドは、そのまま本国へ連れて帰りました。

 アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となります。そしてオックスフォード学校、バーレットアカデミーに通い、英語、数学、測量術、航海術、造船技術などを猛勉強し、なんと首席で卒業したといいます。英和辞典なんてない時代ですからね。ていうか、言葉のハンデだけじゃなく、万次郎の場合、土佐にいた頃は貧しさで寺子屋に通うことも出来ず、読み書きもほとんど出来なかったといいます。そんな状態から、わずか2年半の在学で首席になったわけですから、すごい吸収力ですよね。それと、そのポテンシャルの高さを見抜いて教育を受けさせたホイットフィールドもすごいですね。もし、あのまま土佐で漁師をしていたら、万次郎はその頭の良さを発揮できる機会を得ることなく生涯を終えたことでしょう。人生はわからないものです。


 学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、一等航海士として世界の海を股にかける生活をしていましたが、アメリカに渡って10年近くが過ぎた嘉永3年(1850年)、日本に帰国することを決意。万次郎は捕鯨船時代の収入に加えて、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで働いて資金をため、小型船の「アドベンチャー号」を購入し、上海に向かう商船に乗せて日本に向かいました。


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翌嘉永4年(1851年)2月、万次郎はアドベンチャー号で当時は薩摩藩領だった琉球に接岸し、番所で尋問を受けたのち、薩摩本土に送られました。言うまでもなく当時の日本は鎖国状態。日本船の海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止する海外渡航禁止令が布かれており、その禁を破った万次郎は、下手をすれば死罪になりかねません。ところが、万次郎にとって幸運だったのは、ときの薩摩藩主が開明的で知られる島津斉彬だったこと。「蘭癖」と呼ばれるほど西洋の学問技術を好んだ斉彬にとっては、万次郎はまさに歓迎すべき人物だったわけです。斉彬は万次郎一行を手厚く歓待し、斉彬自ら直々に質問するなどの厚遇ぶりだったといいます。このときはまだ、ペリー提督率いる黒船艦隊来航の2年前で、世の中はまだ、西洋文明に対してそれほど明るくない時代です。もし、万次郎の帰国があと数か月早ければ、前藩主・島津斉興によって死罪にされたかもしれません。人生はわからないものです。

 このとき万次郎が薩摩に滞在したのは47日間。その間、薩摩藩は万次郎から洋式の造船術や航海術、さらには海外の情勢や文化なども貪欲に教えを請い、その後、斉彬はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造しました。万次郎はその後、長崎に送られ、投獄されて取り調べを受けたあと母藩である土佐藩に引き取られ、そこでもまた取り調べを受け、琉球に着いてから1年半後、ようやく故郷の中濱村に帰ることができました。その後、すぐに万次郎は士分に取り立てられ、黒船来航後は幕府に招聘されて直参の旗本になり、激動の幕末にその存在感を示すこととなります。もし、万次郎が帰国したのが幕末と言われる時代でなければ、彼は単なる罪人でしかなかったかもしれません。ほんと、人生ってわからないものですね。

 ちなみに、「ジョン万次郎」という呼び名は、昭和13年(1938年)に直木賞を受賞した井伏鱒二の著書『ジョン萬次郎漂流記』で用いられて広まったもので、当時は、遭難した万次郎を助けた船名にちなんでジョン・マン (John Mungという愛称をアメリカ人からつけられていました。この点、ドラマは忠実でしたね。

 西郷吉之助(隆盛)は、このときはまだ斉彬に引き上げられておらず、万次郎に会うことはなかったでしょう。後年に万次郎は薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招かれますが、その頃の西郷は倒幕に向けて日本中を縦横無尽に飛び回っていた時期であり、万次郎と会っていた可能性は低いと思われます。二人の会う機会があったとすれば明治維新後だったでしょうが、記録は残っていません。お互い名前くらいは知っていたでしょうけど。



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by sakanoueno-kumo | 2018-02-12 00:01 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第2話「立派なお侍」 ~郡方書役としての西郷吉之助~

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 弘化元年(1844年)、西郷吉之助(隆盛)は数えの18歳で郡方書役助に任じられ、藩の役人の末席に名を連ねます。この役職は、農政を担当する郡奉行の配下で、役人としては最下級でした。そのお役目の具体的な内容は、藩内のあちこちを常に巡回して、道路などの普請の必要性を調べたり、農家のの出来具合を管理し、年貢徴収の監督にあたるというものでした。西郷はこのポスト(やがて書役に昇進)を約10年間務めることとなり、そのため困窮している農民の実態を熟知し、農政に精通するようになります。西郷の官吏としての実務能力は優れていたようで、そのことは、これより十数年後の安政3年(1856年)に島津斉彬に直接提出したとされる農政に関する上書からも窺えます。

 また、西郷はこの職務を長く務めたことで、農民に対する深い愛情の心を持つようになったといわれます。もちろん、西郷もこの時代の武士階級一般と同じく、「愚民観」の持ち主でしたが、だからこそ、支配階級である武士として農民を助けなければならないという信念を持っていたようです。ドラマでは、借金のかたに売られそうになっていた少女を助けるために力を尽くしていましたが、似たようなエピソードが伝えられています。


 若き日の西郷が年貢の徴収作業にあたっていたとき、年貢を払えずに農耕馬を泣く泣く手放そうとしていた農夫が、夜中に愛馬と別れを惜しんでいる姿をたまたま目撃します。翌日、西郷は役所に掛け合って年貢の徴収を延期してもらったといいます。このエピソードは西郷伝には欠かせない話で、西郷の農民に対する深い愛情と、弱い者や貧しく不幸な人に対する生来の情の厚さが窺えます。


 ドラマには出てきていませんが、西郷がこの職に就いた当初の上司(郡奉行)は、名奉行として知られた迫田太次右衛門利済という人物でした。迫田は見識が高く気骨がある人物だったといい、農民への同情心に厚く、困窮した農民の生活を守るため、年貢の減額の嘆願書を藩に提出し、それが聞き入れられないと、激しく義憤して奉行を辞職してしまいました。迫田の辞職は西郷が書役助に就いて間もないころのことで、その後の西郷の人格形成に、大きな影響を与えたといわれます。

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 西郷が郡方書役助の役職に就いた2年後の弘化3年(1846年)、西郷より3つ年下の大久保正助(利通)は、記録所書役助に任じられます。書役の主な職務は、古い文書を管理し、藩内の様々な記録を整理するというお役目。いわば事務官ですね。沈着冷静な実務家の大久保には、うってつけのお役目だったといえるでしょうか。それにしても、西郷と大久保、この2人の役人としての出発点の対比は、実におもしろいですね。西郷は農村を歩き回って実態を調べる外回りの役目で、大久保は役所に詰める事務職。まるで、将来の2人の関係を暗示しているかのようです。庶民の声望高き革命家・西郷隆盛と、官僚を統率する政治家・大久保利通の原点は、ここにあったのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-16 16:41 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(2)  

西郷どん 第1話「薩摩のやっせんぼ」 ~郷中教育~

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 明治31年(1898年)、東京・上野公園に建てられた西郷隆盛銅像除幕式から物語はスタートです。このとき、その銅像を初めて見た西郷の三番目の妻・糸子が、「わたしの夫はこんな人ではなかった・・・」と薩摩弁でつぶやいたという話は有名で、その逸話から、銅像は生前の西郷には似てないというのが定説となっていますが、「こんな人ではなかった」という言葉の意味は、こんな顔ではなかったという意味だったかどうかはわかりません。あるいは、このような格好(着流し)で出歩くような人ではなかった、という意味かもしれず、また、あるいは、このような表情をする人ではなかた、という意味かもしれません。その真意は定かではありませんが、オープニングに没後21年の場面を持ってきたのは、この糸子の台詞に、この物語の何らかの意味が込められているのかもしれませんね。

これより遡ること21年前の明治10年(1877年)、反政府軍の首領として戦場に散った西郷ですが、賊軍の将の銅像が、死後わずか21年で敵対した政府によって建てられたなんて例は、世界中探しても見当たらないそうです。そんな稀代の英雄・西郷隆盛の物語が始まりました。


 西郷隆盛の生家は鹿児島城下の下加治屋町という貧乏士族が多く住む地域で、父の西郷吉兵衛は、御小姓与勘定方小頭でした。薩摩藩の士分の家格は、大きく城下士(上士)外城士(郷士)に分けられますが、西郷家は、一応、城下士に属しました。城の近くに住めない外城士に比べて格上でしたが、城下士の中では与力についで下から二番目の低い家格でした。薩摩藩は他藩に比べて人口に対する武士の比率が際立って高く、そのため、下級武士たちの生活は貧窮を極めました。当然、西郷家もその例外ではなく、さらに、父・吉兵衛とその妻・マサ夫妻は四男三女の子宝に恵まれており、西郷家は使用人も含めて二十人近い大所帯だったといいますから、その貧窮ぶりは想像に絶するものだったに違いありません。そんな環境で西郷は育ちました。


 西郷をはじめ、薩摩人を語るに知っておかねばならないのが、薩摩藩独特の子弟教育制度である郷中教育でしょう。このシステムは16世紀末期から始まったとされ、城下士の住む地区を6つに分け、その地区ごとに「郷中(ごちゅう)」という組織を形成し、武家の男子は6、7歳になると皆、この組織に入ります。そして、6、7歳から12、3歳までを「稚児(ちご)」と称し、14、5歳から23、4歳で妻帯するまでを「二才(にせ)」と称します。郷中に入った子供たちは毎日そこに通い、互いに競うように文武の修行をしました。稚児は二才に従い、二才は稚児の世話をする。そんな生活を毎日朝から日が暮れるまで続けていたわけですから、同じ郷中の者はほとんど兄弟同様で、必然的にその団結力は強固なものとなります。この教育システムが、後年の薩摩士族の団結力に繋がっていると言われます。


 少年時代の西郷の逸話で、必ずふれなければならないのが、ドラマで描かれていた右腕の負傷です。その伝承によると、天保10年(1839年)、妙円寺参りの帰りに友人がある人物から難癖をつけられ(西郷自身という説も)、はじめ西郷はそれを制止しようとしますが、相手は鞘に差したままの刀で西郷を叩き始め、やがて、はずみで鞘が割れ、刃が西郷の右腕内側の筋を切ってしまいます。この傷は相当深かったらしく、西郷は数日間痛みと高熱に苛まれ、なんとか一命はとりとめたものの、その右腕は十分に動かすことが出来なくなってしまいました。ずっと後年、西郷とはじめて会ったイギリス公使館付通訳のアーネスト・サトウが、西郷の片腕に刀傷があることにすぐ気がついたというエピソードが残るくらいですから、よほどの深傷を負ったのでしょうね。この怪我によって西郷は剣術の修行を断念し、学問で身を立てるべく勉学に没頭するようになったと伝えられます。


この事件が、その後の西郷の人格形成進路に大きな影響を及ぼしたといっても過言ではないでしょう。少年・西郷にとっては不幸な出来事でしたが、日本の歴史にとっては、必要な出来事だったといえるかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-08 01:57 | 西郷どん | Trackback(2) | Comments(2)  

西郷どん キャスト&プロローグ

さて、来年の大河ドラマは『西郷どん』ですね。言わずと知れた幕末維新の英雄・西郷隆盛の物語です。歴史に興味のない人でも、「西郷隆盛」という名を知らない人は、まずいないでしょう。今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』は、あるいは大河ドラマ史上最も知名度の低い主人公の物語だったかもしれませんが、来年はその真逆で、日本史上最も知名度の高い人物の物語といえるかもしれません。


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 というのも、たとえば「戦国三傑」と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人では、誰がいちばん知られているか甲乙つけがたいと思いますが、「維新三傑」と称される西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人では、知名度、人気ともに圧倒的に西郷が突出しています。聞くところによると、西郷の伝記は、世界中を見渡して、イエス・キリストの伝記に次ぐほど数が多いといいます。キリスト伝は世界中で出版されているのに対し、西郷の伝記はほとんど日本での刊行であることを思えば、いかに西郷を研究する歴史家が多く、また、国民の間に絶大な人気を有しているかが窺えます。

 にも関わらず、後世の西郷に対する評価は一定ではありません。賢人愚人か、はたまた聖人悪人か、見方によって大きく評価が変わるのが、西郷という人の不思議なところです。幕末、西郷とはじめて会った坂本龍馬が、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と評したという有名なエピソードがありますが、同時代に生きた者でさえつかみどころがなかったわけですから、後世のわたしたちが理解に苦しむのも当然かもしれません。


西郷隆盛を題材にした史伝の代表的な作品として、海音寺潮五郎『西郷隆盛』と、司馬遼太郎『翔ぶが如く』がありますが、海音寺さんと司馬さんの西郷評も、ぜんぜん違うんですね。司馬さんは維新前の西郷と維新後の西郷とを、まるで別人と評しているのに対し、海音寺さんは、維新前と維新後でまるで人が変ってしまうことなどあろうはずがないといっています。今回、原作は林真理子さんだそうですね。原作小説を読んでいないのでわかりませんが、歴史上最も有名でありながら理解に難しい西郷隆盛という人物が、今回、どのように描かれるか楽しみにしています。


 以下、現時点で発表されているキャストです。


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西郷吉之助(隆盛)・・・・・・・鈴木亮平(幼少期:渡邉蒼)

大久保一蔵(利通)・・・・・・・瑛太

岩山糸・・・・・・・黒木華

西郷吉兵衛・・・・・・・風間杜

西郷満佐子・・・・・・・松坂慶子

西郷琴・・・・・・・桜庭ななみ

西郷吉二郎・・・・・・・渡部豪太

西郷龍右衛門・・・・・・・大村崑

西郷きみ・・・・・・・水野久美

大久保次右衛門・・・・・・・平田満

熊吉・・・・・・・塚地武雅

於一(篤姫)・・・・・・・北川景子

ふき・・・・・・・高梨臨

大山格之助(綱良)・・・・・・・北村有起哉

有村俊斎(海江田信義)・・・・・・・高橋光臣

村田新八・・・・・・・堀井新太

赤山靭負・・・・・・・沢村一樹

幾島・・・・・・・南野陽子

由羅・・・・・・・小柳ルミ子

島津斉興・・・・・・・鹿賀丈史

島津斉彬・・・・・・・渡辺謙

島津久光・・・・・・・青木崇高

喜久・・・・・・・戸田菜穂

山田為久・・・・・・・徳井優

愛加那・・・・・・・二階堂ふみ

西郷従道(信吾)・・・・・・・錦戸亮

大久保満寿・・・・・・・ミムラ

桂久武・・・・・・・井戸田潤

タマ・・・・・・・田中道子

阿部正弘・・・・・・・藤木直人

月照・・・・・・・尾上菊之助

徳川家定・・・・・・・又吉直樹

調所広郷・・・・・・・竜雷太

井伊直弼・・・・・・・佐野史郎

徳川斉昭・・・・・・・伊武雅刀

語り・・・・・・・西田敏行

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 西郷隆盛役の鈴木亮平さんのことは、それほど詳しくは知らないのですが、NHK朝ドラ『花子とアン』やNHK大河ファンタジー大河『精霊の守り人』が印象に残っています。大河ドラマは初出演にして初主演だそうですね。巷の噂では、とあるビッグネームの俳優さんが断ったことによる大抜擢だとも聞きますが、たとえそうであったとしても、そんなことはどうでもいいことなんじゃないでしょうか。今やハリウッドスター渡辺謙さんも、『独眼竜政宗』の主役に抜擢されたときは、それほど知名度の高い俳優さんではありませんでしたが、同作品は大河史上に残る名作との呼び声が高い作品となりました。名前の大きさなんて、あとからついてくるものなんじゃないかと。


 その渡辺謙さんが、今回、島津斉彬をやるんですね。ピッタリだと思います。斉彬はたぶん、物語前半しか出てきませんが、西郷の精神の核となる部分を生み出す人物として、重要な登場人物です。渡辺謙さんなら、申し分ないのではないでしょうか。


 大久保利通は瑛太さんですね。西郷といえば大久保。この2人の関係がどのように描かれるかも楽しみのひとつです。一般に、西郷の人気の高さに対して後世に悪評高い大久保ですが、実は、わたしはどちらかといえば大久保贔屓です。なので、大久保利通の扱いがどのように描かれるかが気になるところ。その意味では28年前の大河ドラマ『翔ぶが如く』での鹿賀丈史さんの大久保利通は最高でしたし、その後の幕末ものに出てくる大久保役は、どれもイマイチ納得できませんでした。今回、瑛太大久保は鹿賀大久保を超えられるか。楽しみです。


 その鹿賀丈史さんも、今回、島津斉興役で出られるんですね。それと、語りが西田敏行さん。『翔ぶが如く』での西郷と大久保が、28年後にも揃って出演。これ、往年の大河ファンにはたまらない粋な計らいです。あと、松坂慶子さん、風間杜夫さん、平田満さんの『蒲田行進曲』トリオの共演も話題になっていましたね。皆さん、年を取られました(笑)。


 天璋院篤姫役は北川景子さん。これまた意外にも大河ドラマは初出演だそうですね。篤姫役といえば宮崎あおいさんを思い出しますが、実は『翔ぶが如く』のときの篤姫は富司純子さんでした。もちろん、富司さんは美しい女優さんですが、28年前といえども、当時、富司さんは40代半ばだったと思います。篤姫が第13代将軍・徳川家定のもとに輿入れしたのは20歳のとき。あれはちょっと、無理がある配役でしたよね。その意味では、北川さんはギリギリセーフかな?(笑)。そして、その家定役が芥川賞作家の又吉直樹さんだそうで、これもイメージ出来すぎて笑っちゃいましたが、いちばん笑ったのは、由羅役の小柳ルミ子さん。イメージピッタリです(笑)。


 まだまだ、勝海舟坂本龍馬、木戸孝允、小松帯刀らのキャストも発表されていませんし、桐野利秋、篠原国幹、別府晋介といった西郷と運命をともにする主要キャストも発表されていません。楽しみですね。


 とにもかくにも、また今回も1年間お付き合いいただけたら幸いです。

 楽しみましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2017-12-30 15:19 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その2

前稿の続きです。

次に、こちらも歴史ファンから根強く支持されているのが、薩摩藩黒幕説です。

坂本龍馬と親交の深かった薩摩藩ですが、慶応3年(1867年)に入ると、その関係は微妙になってきます。

龍馬の推し進める「大政奉還」に表面では賛同しながらも、実際には武力倒幕の準備を着々と進めていた薩摩藩にとっては、平和改革路線を主張する龍馬は次第に目障りな存在になりつつあり、革命成就後の薩摩閥の地位確保のために、龍馬を消したというのがこの説の推論です。


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以前はわたしもこの説に最も信憑性を感じていたのですが、ただ、よくよく考えてみると、やはり腑に落ちない点が浮かび上がります。

というのも、果たして薩摩が龍馬をそれほど重要視していただろうか?・・・と思うんですね。

薩摩藩といえば、幕府に次ぐ勢力を持つ大藩であり、その中心的指導者だった西郷隆盛は、幕末の動乱の初期段階から活動していた名士でした。

一方の龍馬は、最近にわかに名前が売れてきた程度の人物で、西郷にしてみれば、薩長同盟の仲介人といった程度の認識でしかなかったんじゃないかと思います。

その薩長同盟も、後世の小説などでは龍馬と中岡慎太郎が成立させたように描かれますが、これも見方を変えれば、薩長が手を結ぶために双方に親交があった龍馬たちを利用したともとれますし、たぶん、そんな側面もなきにしもあらずだったんじゃないでしょうか。

実際、西郷が国元にいた大久保利通に宛てた書状のなかに「坂本某という脱藩浪士を便利に使っている」といったニュアンスのことが書かれています。

西郷にとって龍馬は、それほど重要な存在ではなかったと思うんですね。


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慶応3年(1867年)に入ってからの龍馬の新国家の構想は、薩長を中心とした雄藩に徳川家も加えた連合政権だったといわれ、大政奉還から暗殺されるまでの約1ヵ月間の龍馬の政治活動は、主にその構想を実現するための周旋活動だったといいます。

この動きは、たしかに薩摩にとっては少々目障りだったかもしれませんが、とはいえ、時流は薩長にありましたから、龍馬ごときを殺そうが殺すまいが、結局は薩長主導のもとに戊辰戦争は起こっていたと思います。

むしろ、どっち付かずの土佐藩を討幕勢力に引き入れるためにも、薩長にとって龍馬はまだまだ利用価値があったといえます。

どう考えても、この時点で薩摩が龍馬を殺すことは、ハイリスクローリターンだと思うんですね。

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ただ、もし薩摩藩黒幕説が事実だとすれば、その中心人物はやはり西郷隆盛だったと思います。

一部には、龍馬とはあまり接点がなかった大久保利通が、西郷の了承なしで暗殺を指示したとの説がありますが、少なくともこれはあり得ないでしょう。

この時期、大久保は主に朝廷への工作を担っており、他藩士との外交の中心は、西郷でした。

「敬天愛人」の体現者としてのイメージが強い西郷ですが、この時期の西郷は、幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊偽官軍として処断するなど、道義に反する行いを数多く断行しており、マキャベリストとしての顔が目立ちます。

一方の大久保は、冷徹な鉄仮面というだけで、そういう面は見られません(一説には、岩倉具視とともに孝明天皇毒殺したなんて話もありますが、これも、裏付ける史料はなにもなく、俗説にすぎません)。

また、武力倒幕に最もこだわっていたのも西郷ですし、革命成就後の薩摩閥の地位確保のためという動機であれば、尚のこと西郷だと思います。

事実、維新後の明治政権におけるふたりを見てもわかるように、一貫して薩摩閥を重視した西郷に対して、大久保は薩摩人には珍しく藩閥に固執しない人物で、そのことが薩摩人からの大久保不人気の一因となり、やがては西南戦争につながっていきます。

そんな後年のふたりを比較してみても、脱藩浪士から土佐藩士に復帰した龍馬の政治活動を疎ましく思うとすれば、大久保より西郷だったのではないでしょうか。

いずれにせよ、最初の話に戻りますが、西郷にせよ大久保にせよ、殺さなければならないほど龍馬を重要視していたとは思えません。


龍馬が暗殺されたとき、西郷も大久保も、薩摩に帰国していました。

何のために帰っていたかというと、討幕のための出兵を要求するために帰っていたのです。

実は、薩摩藩はこの時期に至ってもなお藩内保守派の勢力が強く、決して一枚岩ではありませんでした(むしろ、西郷ら倒幕派のほうが少数派だったとも言われます)。

それら保守派を説得して出兵するための藩論をまとめるために帰国していました。

彼らにしてみれば、いかにして藩内の保守派を抑えるかが眼前の最大の課題であって、はっきりいって龍馬など眼中になかったと思います。

彼らの敵はむしろ薩摩藩内にあり、本当に暗殺したかったのは、藩内の政敵だったんじゃないでしょうか(その最大の政敵が国父の島津久光だったため、さすがに暗殺するわけにはいかなかったでしょうが)。

そんな背景から見ても、薩摩藩黒幕説というのは、よくよく考えてみると薄いように思えますね。

次回に続きます。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-17 00:08 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第45話「二人の夜」 ~「太陽暦耕作一覧」と「維新三傑」の死~

 日本の暦が太陰暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦)に変わったのは、明治5年(1872年)12月2日を明治6年(1873年)1月1日に改めたことにはじまります。この影響をいちばん受けたのは、いうまでもなく農業でした。先祖代々、太陰暦に基づいて作物を育ててきたお百姓さんたちは、新しい暦に馴染めず、収穫に支障が出る有様だったといいます。

 これを問題視したのは、熊谷県(群馬県の前身)原之郷村(現在の前橋市)に住む船津伝次平という百姓でした。伝次平は独学で太陽暦を理解し、「太陽暦耕作一覧」と称したマニュアルを作成し、これを県令である楫取素彦に献上します。このマニュアルは、太陽暦に馴染めない農民たちでも、ひと目で理解できる優れた手引だったようです。これに感じ入った素彦は、「太陽暦耕作一覧」を県庁の予算で大量に印刷し、県下の農民たちに無料配布したそうです。このマニュアルのおかげで、熊谷県は他府県にくらべて改暦の混乱は少なくてすみました。伝次平の農業にかける熱意も素晴らしいですが、それをいち早く取り上げた素彦の英断もさすがですね。

 その後、伝次平の識見を高く評価した素彦は、伝次平を政府参議兼内務卿の大久保利通に紹介します。そして、やはり素彦と同じく伝次平を高く評価した利通は、伝次平を駒場農学校(東京大学農学部の前身)教師に登用します。後年、伝次平は奈良県の中村直三、香川県の奈良専ニとともに「明治の三老農」と呼ばれるようになります。

 「維新三傑」といえば、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、そして長州藩の木戸孝允ですが、この3人が、わずか1年の間に立て続けにこの世を去るんですね。最初に死去したのは木戸孝允。西南戦争まっただ中の明治10年(1877年)5月26日のことでした。享年45歳(満43歳)。死因は病死という以外に詳しいことはわかっていません。元来、ナイーブな性格の人物だったようですから、幕末の動乱から新国家設立の過程で、神経をすり減らして寿命を縮めたのかもしれませんね。木戸は最後まで鹿児島の情勢を憂い、京都の別邸で朦朧状態のなか、訪れた大久保の手を握り締め、「西郷、もう大抵にせんか!」と叫んだのが最後の言葉だったとか。

 そしてその4ヶ月後の9月24日、鹿児島県は城山にて西郷が自刃します。決起から7ヶ月に及んだ西南戦争は、明治政府軍の圧勝で幕を閉じます。最後の決戦場となった城山にて、股間を撃たれて歩けなくなった西郷は、肩を負っていて別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と語り、その場で別府に自身の首を討たせました。享年51歳(満49歳)。その後、反乱軍幹部たちはめいめいに戦死をとげ、ここに、わが国最後の内戦は終わります。

 そして、その政府軍の首相である大久保も、木戸の死から1年が経とうとしていた明治11年(1878年)5月14日、石川県士族6人によって暗殺されます。享年49歳(満47歳)。暗殺者たちは事前に予告状を送り付けていましたが、大久保はこれに一顧だにしなかったといいます。いかにも腹の座った性格がうかがえますが、命を落としてしまったら何にもなりませんね。暗殺団に囲まれて馬車から引きずり下ろされた大久保は、抵抗する暇もなく、めった斬りにされ、喉へ突き刺されたトドメの一撃は、首を貫通して地面に突き刺さったといいます。

 こうして維新三傑たちは、その役目を終えたかのように立て続けにこの世を去りました。そして、残って国の政治・軍事をリードするのは、伊藤博文山縣有朋など、維新前後には脇役に過ぎなかった二線級の志士たちでした。このあたり、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』で、司馬氏が次のようなことを言っています。

 分類すれば、革命は三代で成立するのかもしれない。初代は松陰のように思想家として登場し、自分の思想を結晶化しようとし、それに忠実であろうとするあまり、自分の人生そのものを喪ってしまう。初代は、多くは刑死する。二代は晋作のような乱世の雄であろう。刑死することはないにしても、多くは乱刃のなかで闘争し、結局は非業にたおれねばならない。三代目は、伊藤博文、山県有朋が、もっともよくその型を代表しているであろう。かれら理想よりも実務を重んずる三代目たちは、いつの時代でも有能な処理家、能吏、もしくは事業家として通用する才能と性格をもっており、たまたま時世時節の事情から革命グループに属しているだけであり、革命を実務と心得て、結局は初代と二代目がやりちらかした仕事のかたちをつけ、あたらしい権力社会をつくりあげ、その社会をまもるため、多くは保守的な権力政治家になる。山県狂介が、あるいはその典型かもしれない。

 楫取素彦なども、三代目に属する人物といえるかもしれませんね。幕末の英雄たちがこの世を去り、時代は変わろうとしていました。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-09 20:25 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第34話「薩長同盟!」 その2

 昨日のつづきです。

 一度レールを外れてしまった「薩長和解」への道を、再び軌道修正することは至難の技でした。中岡慎太郎は早速、西郷吉之助の元へ赴き、薩長が手を結ぶことの必要性を激しく説きまが、断交状態にある二つの雄藩のそれぞれの事情は、「道理」では容易に動きませんでした。そんななか、ここからが坂本龍馬の活躍です。龍馬は、二つの雄藩を「道理」ではなく、「実利」で動かそうとします。

 まず長州藩に提示したのは、龍馬が運営する亀山社中が薩摩名義で武器船舶を購入し、長州へ回送するというプランでした。幕府は諸藩に長崎で直接外国から武器を購入することを禁じていましたが、第二次長州征伐を控えて、幕府に味方する諸藩の貿易は黙認されていました。それを利用して、長州に横流しするというのです。幕府との戦を想定して軍制改革に着手していた長州藩にしてみれば、願ってもない話です。しかし、一方的に薩摩が長州を援助するかたちでは、対等な同盟関係を結べません。そこで龍馬が考案した次のプランが、薩摩藩士が上洛し、征長戦を阻止するために必要な兵糧米が不足しているため、下関で米を売ってはもらえないかというものでした。これを長州藩は快諾します。このギブアンドテイクの関係が成立すると、同盟の話が再びテーブルの上に乗ります。「道理」ではなく「実利」。このあたりは、中岡や土方には考え及ばない龍馬ならではの周旋力ではないでしょうか。

 それともうひとつ。このときの長州藩の首相に、我慢強い桂小五郎が就いていたというのも大きかったでしょうね。本来、革命を成立させた高杉晋作が首相的立場に就くべきでしたが、ちょうどこの時期、四国に逃亡して長州を不在だったため、潜伏先の出石から呼び戻された桂が、藩のスポークスマンを任されていました。もし、このときの外交官が晋作だったら、きっと西郷がすっぽかした時点で、全面戦争の体制に入ったんじゃないかと・・・。その点、桂は政治家でした。歴史というのは、上手くできているものです。

 そして慶応2年(1866年)1月8日、京の薩摩藩家老・小松帯刀邸で、桂、西郷の会談が始まります。この席には、龍馬も中岡も土方もいませんでした。ここまで斡旋したのだから、あとは当事者同志に任せるといったところだったのでしょう。ところが、会談が始まって10日が過ぎた1月20日、京に入った龍馬は愕然とします。協定はまとまらぬまま、桂は帰ろうと身支度をしていたのです。桂がいうには、西郷らは毎日接待に気を使い、ご馳走攻めにはするものの、一言も両藩の協定について口火を切ろうとしない・・・とのこと。「ならば、なぜ長州から口火を切らぬ。」と龍馬が尋ねると、「それは出来ぬ。」と桂はいいます。曰く、両藩の立場が違う・・・と。その理由を『木戸孝允自叙ノ要領』から抜粋すると、
「薩州ハ公然天子ニに朝シ、薩州ハ公然幕府ニ会シ、薩州ハ公然諸侯に交ル」と。
 つまり、合法的に天子とも幕府とも諸侯とも交われる立場の薩摩に対して、孤立無援の長州から協定の口を開くということは、助けてくれというのと同じだ・・・というんですね。これを聞いた龍馬は激怒します。いつまで「藩」の体面にこだわっているのか、と。
「拙者らが両藩のために寝食を忘れて奔走するのは、決して両藩のためではない。一意国家を思えばこそだ。しかるに貴兄らは足を百里の外に労し、両藩の重役相会しながら今日まで為す事もなく日を送るのは、はなはだ心得ぬことではないか。」と。
 のちに龍馬は、亀山社中の中島作太郎に、「おもえば自分は生まれてこのかた怒ったことがなかった。しかしあのときばかりは、度を失うほどに腹が立った。」と語っています。

 桂は龍馬の怒りを理解できなくはなかったでしょうが、感情がそれを許さなかったのでしょう。感情は理屈ではありません。これまでの長州人の苦しみを考えれば、理屈ではどうにもならない意地がありました。その意地を貫くためなら、長州は滅んでもかまわない・・・とまで桂はいいます。
「薩州、皇家ニ尽スアラバ、長州滅スルトイヘドモ亦天下ノ幸ナリ」と。
 長州は面目にこだわりはしたが、「天下」のことを考えていないわけではない。薩摩が生き残り、皇国のために奮闘してくれるならば、長州は滅んでもかまわない、と。この言葉を聞いた龍馬の態度は、また『木戸孝允自叙ノ要領』の文章を借りると、
「龍馬、黙然タルコト稍久シク、桂ノ決意牢固トシテ容易ニ動カスベカラザルヲ察知シ、マタ敢ヘテ之ヲ責メズ。」とあります。
 龍馬は桂の立場を理解しました。

 その足で龍馬は、西郷のもとに駆けつけます。薩長両藩の提携は、その目前に際して、感情の整理が必要だったんですね。龍馬は西郷に対して、薩摩と長州のおかれた立場があまりにも違いすぎることを説きます。そして、この期に及んでなおも藩の体面と威厳を保とうとする薩摩を責めました。西郷は龍馬の説くところを理解します。そして翌日、もう一度桂と会い、西郷から長州との提携の議をもちだしました。同席したのは、薩摩側から西郷隆盛、小松帯刀、長州側から桂小五郎、そして仲介人として坂本龍馬の4人でした。

慶応2年(1866年)1月21日、ここに「薩長攻守同盟」が結ばれ、歴史はいよいよ「倒幕」の道をたどることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-25 23:26 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第30話「お世継ぎ騒動!」 ~第一次長州征伐の決着~

 ドラマは奥勤め話が中心ですが、当ブログは頑固に世情中心で進めます。

 正義党井上聞多が闇討ちに遭い、周布政之助が自刃すると、椋梨藤太を中心とする藩内保守派の俗論党がいよいよ主導権を握ります。これにより、井上が進言して決定していた武装恭順の方針はまたたく間に却下となり、幕府に対して徹底的な恭順を藩是とします。しかし、それでも当初の幕府征長軍はあくまで強硬姿勢を崩さず、特に会津藩などは、長州藩の領地をすべて没収して東北のどこかの3万石程度の小さな領地に押し込んでしまえ、といった厳罰論を唱えていました。もし、そうなっていたら、その後の歴史はずいぶんと変わっていたでしょうが、ここで征長軍総参謀長となった薩摩藩西郷吉之助(隆盛)が登場します。このとき西郷が示した腹案は、「長人(長州人)を以って長人を処置させる」という寛大案でした。

 このときの西郷の心中については、後世にさまざまな解釈をよんでいます。薩長同盟はまだ1年以上先のことですが、いずれ長州と手を結ぶかもしれないことを想定して布石を打った、という見方や、西郷はこのとき既に幕府の末路を予見していた、とか、あるいは、すでに西郷は雄藩の連合政権を着想していた、などなど、どれも結果を知っている後世から見た解釈という感じもしますが、いずれにせよ、ここで戦争して長州藩を叩くのは得策ではないと考えたのでしょうね。ここで下手に恨みを買うより、長州人自らに裁いてもらった方がいい。長州藩内部がもめていることを知り、それを利用したわけです。西郷はこの時期から、巨大な政治家としての手腕があらわれはじめます。

 あと、この少し前に、西郷と幕臣の勝麟太郎(海舟)が面会していたことも、大いに影響したんじゃないかと言われています。勝はこのとき、幕臣の身でありながら幕府中枢の悪態をさんざんについた上で、雄藩諸侯の合議制による共和政治の構想を西郷に吹き込んだといいます。西郷はこの会談で大いに目からうろこが落ちたようで、珍しく興奮した手紙を大久保一蔵(利通)宛に送っています。長州藩内で俗論党と正義党がもめている同じ頃、長州藩の運命は思わぬところで変わり始めていたということです。

 西郷は自身の長州処分案が採用されると、さっそく岩国藩主吉川経幹を仲介にし、長州藩代表に次のような降伏条件を提示しました。

 一、藩主親子の蟄居謹慎
 二、禁門の変を指揮した三家老の切腹
 三、それに従った四参謀の斬刑
 四、三条実美ら五卿を九州太宰府へ移す
 五、山口の新城を破壊する


 長州藩の政庁は萩城でしたが、文久2年(1862年)に行われた文久の改革によって藩主妻子の帰国が許されると、山口に新たな藩主居館が作られました。しかし、本来は大坂夏の陣後に制定された一国一城令により、各藩とも城は1か所しか許されていませんから、これは明らかに幕法違反でした。ましてや、山口はかつて関が原の戦いに敗れて広島城を失った毛利家が、山口を居城建設候補地として幕府に申請するも許可されず、僻地である萩に押し込められた歴史があります。だから、幕府側としては五の条件は当然なんですね。しかし、文久の改革で参勤交代が廃止されて以降、どの藩も江戸には少しの外交官だけを置いて藩士を帰国させており、そのため、城はキャパオーバーだったことは確かでしょうね。そこで、ドラマの奥女中リストラ話につながるわけです。やっとドラマに沿うことができました(笑)。

 切腹した家老は、福岡越後 国司信濃 益田右衛門介の3人。しかし、これにて一件落着とはいかず、これを皮切りに椋梨藤太は政敵を次々と粛清していきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-27 16:13 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第38話「西南戦争」 その2 ~日本史上最後の内戦~

 明治6年(1873年)の政変によって鹿児島に帰郷した西郷隆盛は、翌7年6月、旧薩摩藩の居城であった鶴丸城の厩跡に「私学校」を設立しました。ここに篠原国幹の主宰する銃隊学校と、村田新八の主宰する砲隊学校を付属させ、また県内各地に分校を置き、幼少年を集めて軍事・思想教育を施します。その費用は、すべて鹿児島県の公費でまかないました。

 鹿児島県では、県令以下の県庁の役人や、区長、戸長の名称は中央政府が定めた名称を用いていましたが、県令・大山綱良以下の役人には一人も県外人を入れず、すべて私学校とその分校の幹部を就かせて、県政は中央政府の法令には一切従わず、私学校の指導で行われていました。県下の租税はいっさい中央にあげず、県下では秩禄処分もなく、太陽暦も採用せず旧暦を守り、士族は相変わらずを帯び、ひとたび西郷の命令が下ればただちに戦闘状態に入れるよう組織され、訓練されていました。つまりこれは、日本国内において事実上中央政府から独立した政権、鹿児島国だったといっていいでしょう。そしてそのなかで、西郷自身はなんの役職にも就かず、それらを超越した最高権威として君臨していました。

 彼らは、熊本・秋月・萩の乱にも、なお自重して動きませんでした。おそらく、西郷が軽挙を抑えていたのでしょう。しかし、中央の政権に一切従わない彼らを、政府は放っておくわけにはいきませんでした。政府・内務卿の大久保利通は、内乱を避けるべく鹿児島県士族に限って特別の優遇をしてきましたが、それに対する木戸孝允らの反対は強く、鹿児島県のみを特殊あつかいすることに対して、大久保を避難する声が高まります。さすがの大久保もこの声を無視するわけにはいきませんでした。

 明治9年(1876年)12月末、大久保は腹心の大警視・川路利良に依頼し、十数人の警察官を帰省という名目で鹿児島に送り、スパイ活動及び私学校の解体活動をさせます。さらに、鹿児島にたくわえていた武器・弾薬の一部を汽船で大阪に運ばせまました。これが私学校党を大いに刺激。明治10年(1877年)1月29日夜から、火薬局および海軍省の造船所を襲い、武器・弾薬を奪い取ります。そして2月3日、スパイ活動をしていた政府警察官を捕らえ、彼らが政府の密命を受けて、私学校党をつぶし、西郷を暗殺する計画であったことを自白させます。本当にそのような任務が与えられていたかは、いまとなってはわかりません。あるいは決起するためにでっち上げた作り話だったかもしれません。いずれにせよ、ここまでくれば、もはや西郷の力を持ってしても、彼らを抑えられなくなっていました。決起日は2月17日、兵力は1万3000人。これまでの叛乱とは規模が違います。こうして、近代日本最大、そして日本史上最後の内戦、世に云う西南戦争が起こりました。

 ここでは、戦いの詳細は省きますが、結果的に西郷率いる私学校党が敗れるのは周知のところでしょう。決起から7ヶ月後の9月24日、鹿児島は城山にて西郷は自刃します。ドラマで描かれていたとおり、股間を撃たれて歩けなくなった西郷は、肩を負っていて別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と語り、その場で別府に自身の首を討たせました。享年50歳。その後、反乱軍幹部たちはめいめいに戦死をとげ、ここに、わが国最後の内戦は終わります。

 なぜ、西郷はこのような無謀な反政府軍の首領に身をおいたのでしょうか。おそらく西郷は、わずかに九州の一角の力を持って中央政府に勝てるとは思っていなかったでしょう。ただ、全国各地で燻っていた不平士族の不満の火種をなんとか消したいという思いはあったかもしれません。彼は、挙兵を迫る篠原国幹や桐野利秋らに対して、「おいの命は諸君にあずけ申す、存分にするがよい」と言ったといいます。西郷は彼自身が不平士族の頂点に立って滅びることで、彼自身の作った維新の総仕上げを行ったのでしょうか。あるいは、中央政府にいるマブダチ・大久保への援護射撃?・・・どれもこれも、結果を知っている後世から見たドラマチックな解釈でしょうか?

 「おいが、みな抱いていく」

 ドラマ中の西郷の台詞ですが、まさしくこの境地だったのかもしれません。
 ナレーションはいいます。

 内戦は深い傷を残した。 しかし、そこから立ち上がり、苦しみの先に未来を見つめた人々が、やがて新しい国づくりに向けて歩き出してゆく。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-25 21:35 | 八重の桜 | Trackback | Comments(2)