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花燃ゆ 第45話「二人の夜」 ~「太陽暦耕作一覧」と「維新三傑」の死~

 日本の暦が太陰暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦)に変わったのは、明治5年(1872年)12月2日を明治6年(1873年)1月1日に改めたことにはじまります。この影響をいちばん受けたのは、いうまでもなく農業でした。先祖代々、太陰暦に基づいて作物を育ててきたお百姓さんたちは、新しい暦に馴染めず、収穫に支障が出る有様だったといいます。

 これを問題視したのは、熊谷県(群馬県の前身)原之郷村(現在の前橋市)に住む船津伝次平という百姓でした。伝次平は独学で太陽暦を理解し、「太陽暦耕作一覧」と称したマニュアルを作成し、これを県令である楫取素彦に献上します。このマニュアルは、太陽暦に馴染めない農民たちでも、ひと目で理解できる優れた手引だったようです。これに感じ入った素彦は、「太陽暦耕作一覧」を県庁の予算で大量に印刷し、県下の農民たちに無料配布したそうです。このマニュアルのおかげで、熊谷県は他府県にくらべて改暦の混乱は少なくてすみました。伝次平の農業にかける熱意も素晴らしいですが、それをいち早く取り上げた素彦の英断もさすがですね。

 その後、伝次平の識見を高く評価した素彦は、伝次平を政府参議兼内務卿の大久保利通に紹介します。そして、やはり素彦と同じく伝次平を高く評価した利通は、伝次平を駒場農学校(東京大学農学部の前身)教師に登用します。後年、伝次平は奈良県の中村直三、香川県の奈良専ニとともに「明治の三老農」と呼ばれるようになります。

 「維新三傑」といえば、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、そして長州藩の木戸孝允ですが、この3人が、わずか1年の間に立て続けにこの世を去るんですね。最初に死去したのは木戸孝允。西南戦争まっただ中の明治10年(1877年)5月26日のことでした。享年45歳(満43歳)。死因は病死という以外に詳しいことはわかっていません。元来、ナイーブな性格の人物だったようですから、幕末の動乱から新国家設立の過程で、神経をすり減らして寿命を縮めたのかもしれませんね。木戸は最後まで鹿児島の情勢を憂い、京都の別邸で朦朧状態のなか、訪れた大久保の手を握り締め、「西郷、もう大抵にせんか!」と叫んだのが最後の言葉だったとか。

 そしてその4ヶ月後の9月24日、鹿児島県は城山にて西郷が自刃します。決起から7ヶ月に及んだ西南戦争は、明治政府軍の圧勝で幕を閉じます。最後の決戦場となった城山にて、股間を撃たれて歩けなくなった西郷は、肩を負っていて別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と語り、その場で別府に自身の首を討たせました。享年51歳(満49歳)。その後、反乱軍幹部たちはめいめいに戦死をとげ、ここに、わが国最後の内戦は終わります。

 そして、その政府軍の首相である大久保も、木戸の死から1年が経とうとしていた明治11年(1878年)5月14日、石川県士族6人によって暗殺されます。享年49歳(満47歳)。暗殺者たちは事前に予告状を送り付けていましたが、大久保はこれに一顧だにしなかったといいます。いかにも腹の座った性格がうかがえますが、命を落としてしまったら何にもなりませんね。暗殺団に囲まれて馬車から引きずり下ろされた大久保は、抵抗する暇もなく、めった斬りにされ、喉へ突き刺されたトドメの一撃は、首を貫通して地面に突き刺さったといいます。

 こうして維新三傑たちは、その役目を終えたかのように立て続けにこの世を去りました。そして、残って国の政治・軍事をリードするのは、伊藤博文山縣有朋など、維新前後には脇役に過ぎなかった二線級の志士たちでした。このあたり、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』で、司馬氏が次のようなことを言っています。

 分類すれば、革命は三代で成立するのかもしれない。初代は松陰のように思想家として登場し、自分の思想を結晶化しようとし、それに忠実であろうとするあまり、自分の人生そのものを喪ってしまう。初代は、多くは刑死する。二代は晋作のような乱世の雄であろう。刑死することはないにしても、多くは乱刃のなかで闘争し、結局は非業にたおれねばならない。三代目は、伊藤博文、山県有朋が、もっともよくその型を代表しているであろう。かれら理想よりも実務を重んずる三代目たちは、いつの時代でも有能な処理家、能吏、もしくは事業家として通用する才能と性格をもっており、たまたま時世時節の事情から革命グループに属しているだけであり、革命を実務と心得て、結局は初代と二代目がやりちらかした仕事のかたちをつけ、あたらしい権力社会をつくりあげ、その社会をまもるため、多くは保守的な権力政治家になる。山県狂介が、あるいはその典型かもしれない。

 楫取素彦なども、三代目に属する人物といえるかもしれませんね。幕末の英雄たちがこの世を去り、時代は変わろうとしていました。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-09 20:25 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第34話「薩長同盟!」 その2

 昨日のつづきです。

 一度レールを外れてしまった「薩長和解」への道を、再び軌道修正することは至難の技でした。中岡慎太郎は早速、西郷吉之助の元へ赴き、薩長が手を結ぶことの必要性を激しく説きまが、断交状態にある二つの雄藩のそれぞれの事情は、「道理」では容易に動きませんでした。そんななか、ここからが坂本龍馬の活躍です。龍馬は、二つの雄藩を「道理」ではなく、「実利」で動かそうとします。

 まず長州藩に提示したのは、龍馬が運営する亀山社中が薩摩名義で武器船舶を購入し、長州へ回送するというプランでした。幕府は諸藩に長崎で直接外国から武器を購入することを禁じていましたが、第二次長州征伐を控えて、幕府に味方する諸藩の貿易は黙認されていました。それを利用して、長州に横流しするというのです。幕府との戦を想定して軍制改革に着手していた長州藩にしてみれば、願ってもない話です。しかし、一方的に薩摩が長州を援助するかたちでは、対等な同盟関係を結べません。そこで龍馬が考案した次のプランが、薩摩藩士が上洛し、征長戦を阻止するために必要な兵糧米が不足しているため、下関で米を売ってはもらえないかというものでした。これを長州藩は快諾します。このギブアンドテイクの関係が成立すると、同盟の話が再びテーブルの上に乗ります。「道理」ではなく「実利」。このあたりは、中岡や土方には考え及ばない龍馬ならではの周旋力ではないでしょうか。

 それともうひとつ。このときの長州藩の首相に、我慢強い桂小五郎が就いていたというのも大きかったでしょうね。本来、革命を成立させた高杉晋作が首相的立場に就くべきでしたが、ちょうどこの時期、四国に逃亡して長州を不在だったため、潜伏先の出石から呼び戻された桂が、藩のスポークスマンを任されていました。もし、このときの外交官が晋作だったら、きっと西郷がすっぽかした時点で、全面戦争の体制に入ったんじゃないかと・・・。その点、桂は政治家でした。歴史というのは、上手くできているものです。

 そして慶応2年(1866年)1月8日、京の薩摩藩家老・小松帯刀邸で、桂、西郷の会談が始まります。この席には、龍馬も中岡も土方もいませんでした。ここまで斡旋したのだから、あとは当事者同志に任せるといったところだったのでしょう。ところが、会談が始まって10日が過ぎた1月20日、京に入った龍馬は愕然とします。協定はまとまらぬまま、桂は帰ろうと身支度をしていたのです。桂がいうには、西郷らは毎日接待に気を使い、ご馳走攻めにはするものの、一言も両藩の協定について口火を切ろうとしない・・・とのこと。「ならば、なぜ長州から口火を切らぬ。」と龍馬が尋ねると、「それは出来ぬ。」と桂はいいます。曰く、両藩の立場が違う・・・と。その理由を『木戸孝允自叙ノ要領』から抜粋すると、
「薩州ハ公然天子ニに朝シ、薩州ハ公然幕府ニ会シ、薩州ハ公然諸侯に交ル」と。
 つまり、合法的に天子とも幕府とも諸侯とも交われる立場の薩摩に対して、孤立無援の長州から協定の口を開くということは、助けてくれというのと同じだ・・・というんですね。これを聞いた龍馬は激怒します。いつまで「藩」の体面にこだわっているのか、と。
「拙者らが両藩のために寝食を忘れて奔走するのは、決して両藩のためではない。一意国家を思えばこそだ。しかるに貴兄らは足を百里の外に労し、両藩の重役相会しながら今日まで為す事もなく日を送るのは、はなはだ心得ぬことではないか。」と。
 のちに龍馬は、亀山社中の中島作太郎に、「おもえば自分は生まれてこのかた怒ったことがなかった。しかしあのときばかりは、度を失うほどに腹が立った。」と語っています。

 桂は龍馬の怒りを理解できなくはなかったでしょうが、感情がそれを許さなかったのでしょう。感情は理屈ではありません。これまでの長州人の苦しみを考えれば、理屈ではどうにもならない意地がありました。その意地を貫くためなら、長州は滅んでもかまわない・・・とまで桂はいいます。
「薩州、皇家ニ尽スアラバ、長州滅スルトイヘドモ亦天下ノ幸ナリ」と。
 長州は面目にこだわりはしたが、「天下」のことを考えていないわけではない。薩摩が生き残り、皇国のために奮闘してくれるならば、長州は滅んでもかまわない、と。この言葉を聞いた龍馬の態度は、また『木戸孝允自叙ノ要領』の文章を借りると、
「龍馬、黙然タルコト稍久シク、桂ノ決意牢固トシテ容易ニ動カスベカラザルヲ察知シ、マタ敢ヘテ之ヲ責メズ。」とあります。
 龍馬は桂の立場を理解しました。

 その足で龍馬は、西郷のもとに駆けつけます。薩長両藩の提携は、その目前に際して、感情の整理が必要だったんですね。龍馬は西郷に対して、薩摩と長州のおかれた立場があまりにも違いすぎることを説きます。そして、この期に及んでなおも藩の体面と威厳を保とうとする薩摩を責めました。西郷は龍馬の説くところを理解します。そして翌日、もう一度桂と会い、西郷から長州との提携の議をもちだしました。同席したのは、薩摩側から西郷隆盛、小松帯刀、長州側から桂小五郎、そして仲介人として坂本龍馬の4人でした。

慶応2年(1866年)1月21日、ここに「薩長攻守同盟」が結ばれ、歴史はいよいよ「倒幕」の道をたどることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-25 23:26 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第30話「お世継ぎ騒動!」 ~第一次長州征伐の決着~

 ドラマは奥勤め話が中心ですが、当ブログは頑固に世情中心で進めます。

 正義党井上聞多が闇討ちに遭い、周布政之助が自刃すると、椋梨藤太を中心とする藩内保守派の俗論党がいよいよ主導権を握ります。これにより、井上が進言して決定していた武装恭順の方針はまたたく間に却下となり、幕府に対して徹底的な恭順を藩是とします。しかし、それでも当初の幕府征長軍はあくまで強硬姿勢を崩さず、特に会津藩などは、長州藩の領地をすべて没収して東北のどこかの3万石程度の小さな領地に押し込んでしまえ、といった厳罰論を唱えていました。もし、そうなっていたら、その後の歴史はずいぶんと変わっていたでしょうが、ここで征長軍総参謀長となった薩摩藩西郷吉之助(隆盛)が登場します。このとき西郷が示した腹案は、「長人(長州人)を以って長人を処置させる」という寛大案でした。

 このときの西郷の心中については、後世にさまざまな解釈をよんでいます。薩長同盟はまだ1年以上先のことですが、いずれ長州と手を結ぶかもしれないことを想定して布石を打った、という見方や、西郷はこのとき既に幕府の末路を予見していた、とか、あるいは、すでに西郷は雄藩の連合政権を着想していた、などなど、どれも結果を知っている後世から見た解釈という感じもしますが、いずれにせよ、ここで戦争して長州藩を叩くのは得策ではないと考えたのでしょうね。ここで下手に恨みを買うより、長州人自らに裁いてもらった方がいい。長州藩内部がもめていることを知り、それを利用したわけです。西郷はこの時期から、巨大な政治家としての手腕があらわれはじめます。

 あと、この少し前に、西郷と幕臣の勝麟太郎(海舟)が面会していたことも、大いに影響したんじゃないかと言われています。勝はこのとき、幕臣の身でありながら幕府中枢の悪態をさんざんについた上で、雄藩諸侯の合議制による共和政治の構想を西郷に吹き込んだといいます。西郷はこの会談で大いに目からうろこが落ちたようで、珍しく興奮した手紙を大久保一蔵(利通)宛に送っています。長州藩内で俗論党と正義党がもめている同じ頃、長州藩の運命は思わぬところで変わり始めていたということです。

 西郷は自身の長州処分案が採用されると、さっそく岩国藩主吉川経幹を仲介にし、長州藩代表に次のような降伏条件を提示しました。

 一、藩主親子の蟄居謹慎
 二、禁門の変を指揮した三家老の切腹
 三、それに従った四参謀の斬刑
 四、三条実美ら五卿を九州太宰府へ移す
 五、山口の新城を破壊する


 長州藩の政庁は萩城でしたが、文久2年(1862年)に行われた文久の改革によって藩主妻子の帰国が許されると、山口に新たな藩主居館が作られました。しかし、本来は大坂夏の陣後に制定された一国一城令により、各藩とも城は1か所しか許されていませんから、これは明らかに幕法違反でした。ましてや、山口はかつて関が原の戦いに敗れて広島城を失った毛利家が、山口を居城建設候補地として幕府に申請するも許可されず、僻地である萩に押し込められた歴史があります。だから、幕府側としては五の条件は当然なんですね。しかし、文久の改革で参勤交代が廃止されて以降、どの藩も江戸には少しの外交官だけを置いて藩士を帰国させており、そのため、城はキャパオーバーだったことは確かでしょうね。そこで、ドラマの奥女中リストラ話につながるわけです。やっとドラマに沿うことができました(笑)。

 切腹した家老は、福岡越後 国司信濃 益田右衛門介の3人。しかし、これにて一件落着とはいかず、これを皮切りに椋梨藤太は政敵を次々と粛清していきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-27 16:13 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第38話「西南戦争」 その2 ~日本史上最後の内戦~

 明治6年(1873年)の政変によって鹿児島に帰郷した西郷隆盛は、翌7年6月、旧薩摩藩の居城であった鶴丸城の厩跡に「私学校」を設立しました。ここに篠原国幹の主宰する銃隊学校と、村田新八の主宰する砲隊学校を付属させ、また県内各地に分校を置き、幼少年を集めて軍事・思想教育を施します。その費用は、すべて鹿児島県の公費でまかないました。

 鹿児島県では、県令以下の県庁の役人や、区長、戸長の名称は中央政府が定めた名称を用いていましたが、県令・大山綱良以下の役人には一人も県外人を入れず、すべて私学校とその分校の幹部を就かせて、県政は中央政府の法令には一切従わず、私学校の指導で行われていました。県下の租税はいっさい中央にあげず、県下では秩禄処分もなく、太陽暦も採用せず旧暦を守り、士族は相変わらずを帯び、ひとたび西郷の命令が下ればただちに戦闘状態に入れるよう組織され、訓練されていました。つまりこれは、日本国内において事実上中央政府から独立した政権、鹿児島国だったといっていいでしょう。そしてそのなかで、西郷自身はなんの役職にも就かず、それらを超越した最高権威として君臨していました。

 彼らは、熊本・秋月・萩の乱にも、なお自重して動きませんでした。おそらく、西郷が軽挙を抑えていたのでしょう。しかし、中央の政権に一切従わない彼らを、政府は放っておくわけにはいきませんでした。政府・内務卿の大久保利通は、内乱を避けるべく鹿児島県士族に限って特別の優遇をしてきましたが、それに対する木戸孝允らの反対は強く、鹿児島県のみを特殊あつかいすることに対して、大久保を避難する声が高まります。さすがの大久保もこの声を無視するわけにはいきませんでした。

 明治9年(1876年)12月末、大久保は腹心の大警視・川路利良に依頼し、十数人の警察官を帰省という名目で鹿児島に送り、スパイ活動及び私学校の解体活動をさせます。さらに、鹿児島にたくわえていた武器・弾薬の一部を汽船で大阪に運ばせまました。これが私学校党を大いに刺激。明治10年(1877年)1月29日夜から、火薬局および海軍省の造船所を襲い、武器・弾薬を奪い取ります。そして2月3日、スパイ活動をしていた政府警察官を捕らえ、彼らが政府の密命を受けて、私学校党をつぶし、西郷を暗殺する計画であったことを自白させます。本当にそのような任務が与えられていたかは、いまとなってはわかりません。あるいは決起するためにでっち上げた作り話だったかもしれません。いずれにせよ、ここまでくれば、もはや西郷の力を持ってしても、彼らを抑えられなくなっていました。決起日は2月17日、兵力は1万3000人。これまでの叛乱とは規模が違います。こうして、近代日本最大、そして日本史上最後の内戦、世に云う西南戦争が起こりました。

 ここでは、戦いの詳細は省きますが、結果的に西郷率いる私学校党が敗れるのは周知のところでしょう。決起から7ヶ月後の9月24日、鹿児島は城山にて西郷は自刃します。ドラマで描かれていたとおり、股間を撃たれて歩けなくなった西郷は、肩を負っていて別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と語り、その場で別府に自身の首を討たせました。享年50歳。その後、反乱軍幹部たちはめいめいに戦死をとげ、ここに、わが国最後の内戦は終わります。

 なぜ、西郷はこのような無謀な反政府軍の首領に身をおいたのでしょうか。おそらく西郷は、わずかに九州の一角の力を持って中央政府に勝てるとは思っていなかったでしょう。ただ、全国各地で燻っていた不平士族の不満の火種をなんとか消したいという思いはあったかもしれません。彼は、挙兵を迫る篠原国幹や桐野利秋らに対して、「おいの命は諸君にあずけ申す、存分にするがよい」と言ったといいます。西郷は彼自身が不平士族の頂点に立って滅びることで、彼自身の作った維新の総仕上げを行ったのでしょうか。あるいは、中央政府にいるマブダチ・大久保への援護射撃?・・・どれもこれも、結果を知っている後世から見たドラマチックな解釈でしょうか?

 「おいが、みな抱いていく」

 ドラマ中の西郷の台詞ですが、まさしくこの境地だったのかもしれません。
 ナレーションはいいます。

 内戦は深い傷を残した。 しかし、そこから立ち上がり、苦しみの先に未来を見つめた人々が、やがて新しい国づくりに向けて歩き出してゆく。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-25 21:35 | 八重の桜 | Trackback | Comments(2)  

八重の桜 第38話「西南戦争」 その1 ~神風連・秋月・萩の乱~

 明治維新によって近代国家の扉を開いた日本でしたが、その最大の革命は、士農工商の世襲身分を廃止し、四民平等一君万民としたことでした。しかし、それによって最も困ったのは、維新の原動力となった身分の低い元武士たちでした。江戸時代、国民の約1割が武士だったといいますが、士族で明治政府に役人として仕えたのはごく僅かで、ほとんどの侍たちが職を失うことになります。武士は今でいう公務員ですから、平成の小泉改革なんて比較にならない公務員大リストラだったわけですね。新国家成立のために命をかけた武士たちでしたが、新国家で最も不要とされたのも武士たちでした。皮肉ですね。彼らは、やがて明治政府に対して不満をつのらせていきます。

 失業状態となった士族でしたが、それでも明治初頭は、わずかな俸禄(家禄)を政府から与えられていました。いうなれば、武士時代の年金みたいなものですね。ところが、これが国家財政の30%を占め、財政圧迫の大きな要因となります。そしてとうとう政府は、明治9年(1876年)に俸禄支給の廃止に踏み切ります。これによって士族は完全に収入源がなくなったわけですね。なかには商売に手を出す者もいたようですが、いかんせん役人上がりですから、上手くいく例は少なく、没落する者も出てきます。さらに同じ年、追い打ちをかけるように「廃刀令」が出されます。軍人と警察官以外は帯刀を許さぬというのです。収入を失った上に、士族の名誉の象徴「武士の魂」までも奪われたわけですから、彼らの怒りは頂点に達し、西日本各地で爆発します。

 10月24日、熊本で太田黒伴雄を中心とする「神風連」と名のる熱狂的な攘夷主義士族の一団約200人が決起。彼らは県庁と兵営を襲撃し、県令の安岡良亮、鎮台司令長官の種田政明らを殺害します(神風連の乱)。暴動はただちに鎮圧されましたが、つづいて同月27日、福岡県の旧秋月藩士族・宮崎車之助らが、400人の同志を結集して神風連に呼応します。しかしこれも、乃木希典率いる小倉鎮台によって鎮圧され、多くが戦死、斬首になります(秋月の乱)

 さらに28日には、山口県の萩で前原一誠が200人余りを率いて挙兵します。前原は吉田松陰の開いた松下村塾の門下生で、幕末には久坂玄瑞高杉晋作らと共に討幕運動で活躍し、維新後は政府の参議兵部大輔を務めた人物。しかし、政府の商人と結託する不潔官僚主義に反感を持ち、さらに徴兵令に反対して同藩の先輩・木戸孝允とも衝突し、明治3年、いっさいの官職を辞めて萩に帰郷し、やがて山口県の不平士族の首領となっていきます。そして神風連の決起に呼応するかたちで兵を挙げ、一時は500人を超えた前原党でしたが、結果は三浦梧楼少将率いる広島鎮台などによって鎮圧。前原は出雲に落ち延びる途中で捕らえられ、斬首されます(萩の乱)

 こうして暴動は瞬く間に鎮圧されましたが、しかし、政府要職の経験もあり、士族仲間の徳望が高かった前原の叛乱は、政府にとってはかなりの脅威でした。そして政府は、おそらくこのつぎにくるものは、士族の大棟梁・西郷隆盛をかつぐ大叛乱であろうと予想します。そのため、西郷の身辺には、常に政府の密偵がつきまとっていました。

長くなったので、近日中の「その2」につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2013-09-24 23:18 | 八重の桜 | Trackback | Comments(2)  

八重の桜 第33話「尚之助との再会」 〜征韓論争と明治六年政変〜

 時代は一気に征韓論争まで進みましたね。この「征韓論」を詳細に解説するとめちゃめちゃ長文になっちゃいますし、いろんな解釈があるのでたいへん難しいのですが、ここではできるだけ簡単にまとめます。

「征韓論」とは、読んで字のごとく、お隣の朝鮮に出兵して征服する、あるいは、武力を後ろ盾に政治体制の変革を迫るという主張です。このときより遡ること約20年前、日本も米国ペリー艦隊の来航によって開国を迫られ、それをきっかけに幕末の動乱がはじまり、長く続いた封建国家体制が崩れ、近代国家を目指すべく明治政府が樹立されましたが、今度は、そのペリー艦隊の役目を日本が行おうというもので、このときまだ鎖国攘夷の策をとっていた朝鮮にとっては、ありがた迷惑な話だったわけです。朝鮮側は日本の新政府の要請を頑なに拒絶し、そんななか、明治6年(1873年)ごろから急速に日本国内で征韓論が沸騰し始めます。

 その頃、岩倉具視大久保利通木戸孝允ら政府首脳陣は欧米諸国を外遊中(岩倉使節団)、その留守政府を預かっていたのは西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣らでした。西郷以外は土佐藩肥前藩の出身者で占められており、明治初期の政府としては、唯一、薩長閥政府ではなかった時期でした。その留守政府が征韓論を推し進めます。

 まずは板垣が閣議において、居留民保護を理由に朝鮮への派兵を主張。しかし、留守政府の実質首相的立場だった西郷は派兵に反対し、自らを大使として朝鮮に派遣するよう求めます。この意見に後藤、江藤らも賛成し、いったんは閣議において使節として西郷を派遣することを決定しますが、ときを同じくして順次帰国の途についた岩倉具視や大久保利通ら外遊組は、時期尚早だとしてこれに猛反対。留守番組と外遊組の対立の板挟みとなった太政大臣・三条実美は病に倒れてしまい、最終的には、太政大臣代理となった岩倉の工作により(大久保の書いたシナリオとも)、明治天皇のご裁断で遣韓は中止されます。閣議でいったん決定しながら土壇場で覆されるという異常事態に、西郷をはじめ板垣や江藤ら征韓論派は一斉に参議を辞職してしまいます。

 この征韓論争に始まった政変を明治六年政変(征韓論政変)といい、やがてこれが、明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る内乱につながっていくわけです。

 なぜ、この時期に「征韓論」が沸騰したのか、また、彼らの主張した「征韓論」の真の目的は何だったのか、あるいは、「征韓論」が政変の真の火種だったのか、などなど、この政変については専門家の間でも様々な解釈があり、いわゆる史実・通説というものがありません。ドラマで西郷が朝鮮出兵の理由について、「不平士族(行き場を失った元武士たち)の目を国内から外に向けるため」といった意味の説明をしていましたが、それとて、後世の歴史家が説いたひとつの説であって、西郷自身がそのような記述を残しているわけではありません。後世に征韓論の首謀者的扱いとなっている西郷ですが、一説によれば、西郷はあくまで平和的な交渉を目的とする遣韓論者だったという人もいますし、いやいや、西郷の目的は武力を用いて朝鮮を植民地化しようというものだった、という歴史家もいます。結局のところ、いまもって真意はわからないんですね。

 ただ、外遊組と留守番組の間に、激しい温度差があったということは間違いなさそうです。近代文明国家を目の当たりにしてきた大久保たちと、ずっと国内にいた西郷たちとでは、見えているものが違ったんでしょうね。結果的に政局は外遊組に軍配が上がり、西郷や江藤らは政界を去ってしまうわけですが、それが、後世の日本にとって良かったのか悪かったのか、今となっては確認のしようがありません。

 さて、本話のタイトルは「尚之助との再会」でしたが、八重川崎尚之助が離縁後に再会したという記録は残っていません。そもそも八重は尚之助との結婚、離婚についてほとんど何も語っていないそうですから、実際のところは何もわかってないんですね。ただ、斗南藩の罪を被って訴訟を起こされた尚之助が東京で暮らしていたというのは事実のようです。時代が時代ですから、たぶん、八重と会うことはなかったでしょうね。のちに尚之助は、裁判の判決を受けることなく明治8年(1875年)に病死します。ドラマには、たぶんもう出てこないでしょうね。八重の女紅場での活躍を尚之助が知っていたかどうかは、知る由もありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-21 18:57 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第32話「兄の見取り図」 ~山本覚馬の人物像~

 明治4年(1871年)、八重は処刑されたと思っていた兄・山本覚馬が生きていたことを知り、兄を訪ねて京都に訪れます。実に9年ぶりの再開でした。これまで当ブログでは、山本覚馬についてあまりふれて来なかったので(本筋である戊辰戦争に添っていくと、どうしても覚馬の話は横道にそれてしまうため)、ここで改めて、覚馬についてお復習してみましょう。

 鳥羽・伏見の戦いのとき、既に視力を失いかけていた覚馬は、戦争には参加していませんでしたが、京都近郊で薩摩藩兵に捕らえられ、薩摩藩邸内の獄舎に入れられます。しかし、覚馬の優秀さは諸藩の間で知られており、また、薩摩藩代表の西郷隆盛とも面識があったことから、決して粗略には扱われなかったようです。ただ、それでも獄中生活であることに変わりはなく、覚馬の身体は次第に衰弱し、やがて視力は完全に失い、脊髄も損傷し、ついには自力で歩行できないほどの身体になってしまいます。

 そんな過酷な獄中生活のなか、覚馬は自身の考えを口述して筆記させ、『管見』というタイトルの建白書を薩摩藩主宛に提出します。「管見」という単語を辞書で調べると、「知識や考え、意見などが狭くてつまらないものであること」とあります。つまりは、自分の意見を謙遜して使う古い言葉ですが、その内容は決して狭くてつまらないものではなく、政治、経済、外交、教育など、今後の日本のとるべき道が実に明確に示されていました。その先見性に、西郷隆盛や小松帯刀は大いに感服したといいます。

 やがて釈放された覚馬は、明治3年(1870年)4月14日付けで京都府に登用され、京都府権大惨事として府の実験を握っていた長州藩出身の槇村正直の顧問として、府政に関わります。当時の京都は、東京遷都のあおりをモロに受け、寂れかけていました。御所の周りの公家屋敷や武家屋敷が無人となり、それらの需要で成り立っていた京都の経済は一気に冷え込み、京都を去る町人らも続出します。

 明治政府は、荒廃していた「千年の都」をどうにか経済で立て直そうと、明治2年(1869年)には「勧業起立金」として15万両、翌明治3年(1870年)には「産業起立金」として10万両をつぎ込みます。京都府はこの資金を元に、殖産興業を推進して京都再生を図るのですが、その中心にいたのが槇村正直で、その知恵袋として活躍したのが覚馬でした。八重たちが京都にやってきたのは、そんなときだったわけです。

 「兄さまは人が違ったみてえだ。長州の者と笑って話して平気なのがし? 憎くはねえのですか?」

 槙村の下で働く覚馬を理解できない八重がいった台詞ですが、そんな八重に覚馬はこういいます。

 「殿は徳川を守り、都を守り、帝をお守りするその一心で京都守護の御役目を続けてこられた。だけんじょ、もっと大きな力が世の中をひっくり返した。薩摩や長州が会津を滅ぼしに行くのを、止められなかった・・・・。これは俺の戦だ!会津を捨石にしてつくり上げた今の政府は間違ってる。だけんじょ、同じ国の者同士、銃を撃ちあって殺しあう戦は、もうしてはなんねえ!」

 覚馬とて、故郷の会津が滅んだ無念さは同じだったでしょう。でも、その憎しみの矛先が薩摩や長州じゃないことがわかっていたんでしょうね。会津を滅ぼしたのは薩長ではなく、大きな歴史の波にのまれて押しつぶされたということを・・・。だから、薩長を憎んだところではじまらない。覚馬のみならず、元徳川方にいて新政府に仕えた者たちは、皆、わかっていたかもしれませんね。むしろ、わかっていなかったのは薩長閥のなかにいた人たちだったのではないでしょうか。自分たちの力のみで幕府を倒したという思いあがりが、のちの薩長閥政府を作り上げたといえるかも知れません。

 「何かひとつ違うちょったら、薩摩と会津は立場が入れ替わっちょたじゃろう。そげんなっちょったら、薩摩は全藩討死に覚悟で征討軍と戦をした。新しか国を作るため、戦わんならんこつになったどん、おいは会津と薩摩はどっか似た国じゃち思うちょった。武士の魂が通う国同士じゃち・・・。」

 この人は、わかっていたかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-13 19:26 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第22話「弟のかたき」 ~江戸開城談判~

 江戸城に戻ってきた徳川慶喜は、朝廷に対しての恭順姿勢を表明します。この間、幕府役人の中では、勘定奉行・小栗上野介忠順や海軍総裁・榎本武揚、歩兵奉行・大鳥圭介らは徹底した抗戦論を主張し、慶喜と共に大坂城から江戸へ下ってきた会津藩主の松平容保や桑名藩主の松平定敬も、しきりに再挙を訴えます。しかし、陸軍総裁・勝海舟や会計総裁・大久保一翁らが熱心に謝罪恭順を慶喜に説き、結果的に海舟らの主張が抗戦派を抑え、慶応4年(1868年)2月21日、慶喜は上野の寛永寺大慈院に入り謹慎します。以後、勝海舟や大久保一翁に全権を委ね、新政府軍との交渉にあたらせます。

 さらに、上野の輪王寺宮や前将軍・徳川家茂の御台所で天皇の叔母にあたる静寛院宮(和宮)、13代将軍徳川家定の御台所で薩摩藩出身の天璋院(篤姫)らが必死になって慶喜の助命と徳川家の存続運動に奔走します。新政府側では、岩倉具視は慶喜の謝罪の誠意が現れるならば、その助命と徳川家存続は認めるとの内意をもらしていたようですが、そのころ西郷隆盛は、慶喜助命の嘆願に対して、
 「慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届千万、是非とも切腹までには参り申さず候ては相済まず、必ず越土(越前、土佐)などよりも寛論起こり候わんか。しかれば静寛院(和宮)と申しても、やはり賊の一味と成りて退隠ぐらいにて相済候事と思しめし候わば、致し方なく候に付き、断然追討あらせられ度き事と存じ奉候。かくまで押し詰め候処を寛に流し候ては、再び、ほぞをかむとも益なき訳に到り候わん。」
 と、あくまで許すべからずとの過激な意思を大久保一蔵(利通)宛の手紙に書いています。その大久保もまた、
「天地容るべからざる之大罪なれば天地之 間を退隠して後初めて兵を解かれて然るべし」
 といっています。少なくともこの時点では、西郷と大久保の間では慶喜の助命という選択肢はなかったようです。

 その西郷を軟化させたのが、有名な勝海舟と西郷隆盛の会談ですね。二人の会談が行われたのは、慶応4年(1868年)3月13日と14日の二日間。江戸に集結した新政府軍が江戸城総攻撃を計画していたのが翌15日のことで、ギリギリの交渉でした。なんとしても新政府軍との武力衝突を避けたい勝は、3月9日、旗本の山岡鉄舟に手紙を持たせ、駿府の大総督府にいた西郷を訪ねさせます。その手紙には、こう記されていました。
 「今、官軍都府に逼るといえども、君臣謹んで恭順の道を守るは、我が徳川氏の士民といえども、皇国の一民なるを以てのゆえなり。且つ、皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり。然りといえども鄙府四方八達、士民数万往来して、不教の民、我主の意を解せず、或はこの大変に乗じて不軌を計るの徒、鎮撫尽力余力を残さずといえども、終にその甲斐無し。今日無事といえども、明日の変誠に計り難し。小臣殊に鎮撫力殆ど尽き、手を下すの道無く、空しく飛丸の下に憤死を決するのみ。然りといえども後宮の尊位(静寛院宮か、あるいは天璋院か)、一朝この不測の変に到らば、頑民無頼の徒、何等の大変牆内(しょうない)に発すべきや、日夜焦慮す。恭順の道、これにより破るといえども、如何せむ、その統御の道無き事を。」

 この手紙には、もし官軍が江戸を攻撃すれば、日本にとってどれだけ大変なことになるかわからないとだけ強調し、「西郷くんよ、ここを察せよ」というだけで、一言も徳川家を助けてくれとは言っていません。これは、まことに相手をよく知り抜いた高度な政治的交渉術だと専門家は言います。西郷はただちにその意味を察し、山岡をしばらく待たせて参謀会議を開き、慶喜謝罪の七条件を山岡に示します。その内容は、第一に慶喜を備前藩にあずける。第二に江戸城明け渡し。第三、第四、軍艦と兵器をいっさい引渡し。第五に城内居住の家臣は向島にて謹慎。第六に慶喜の妄動をたすけた者の謝罪の道をたてる。第七に幕府で鎮撫しきれず暴挙するものあらば、その者のみを官軍が鎮定する。以上の七条が実行されるなら、徳川家存続は寛大に処置する・・・というものでした。山岡はこの条件を勝のもとに持ち帰ります。

 西郷が江戸総攻撃を目前に江戸高輪の薩摩邸に入った13日、勝はただちに西郷を訪問しますが、この日は天璋院と静寛院宮の身の安全の保証を話し合っただけで、早々に引き上げます。このあたりも、勝ならでは高等な交渉術だったのでしょうか? 翌14日に両者は再び会談。勝のほうから、西郷が山岡に持たせた七条件につき、第一条の慶喜を備前藩にあずけるという項目を、水戸に引退して謹慎すると改めたほかは、ほとんど大差のない条件を出します。西郷はそれに同意し、すぐさま駿府に使者を送って、翌日にせまった江戸城総攻撃の中止を命じさせました。この崖っぷちの談判で、徳川家ものちの日本もすくわれたといっていいかもしれません。まさに、英雄と英雄が肝胆相照らして日本をすくった・・・といったら、すこしオーバーでしょうか?

 この歴史的会談で徳川家も日本もすくわれましたが、まだ幕末の動乱の着地点が見つかったわけではありませんでした。
 「振り上げた拳をば、どけに下すかじゃな・・・。」
 その矛先となったのが、八重たちの会津だったわけです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-06-05 16:04 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

八重の桜 第20話「開戦!鳥羽伏見」 ~勝てば官軍、負ければ賊軍~

 王政復古のクーデターの報告を受けた徳川慶喜は善後策に苦慮します。辞官はともかく、納地の命令は、徳川家15代当主として簡単に受け入れられるものではありません。それならば薩摩と一戦交えるか・・・・。幕兵、会津兵、桑名兵を合算すれば、薩長の在京兵力を打ち破れないことはない・・・。しかし、いったん朝敵となってしまえば、尾張、越前、土佐が推し進める調停が水の泡になる・・・・、さりとて、激高した部下たちを鎮めるにも限界がある・・・そんな具合に、慶喜は迷っていたことでしょう。そんなとき、松平春嶽らより、ひとまず京都を去って大阪に下り、事態の沈静を待ってほしいと勧められます。慶喜はこの勧めをうけ、迷ったすえ下阪を決意。それを阻止しようとした会津藩兵・佐川官兵衛林権助らに、「余に深謀あり」と言ってなだめます。このあたり、ドラマにあったとおりですね。慶喜は松平容保松平定敬板倉勝静らを従え、二条城の裏門から抜け出し、翌日大坂城に入ります。まさしく、「都落ち」といっていいでしょう。

 以後、薩摩と幕府の睨み合いは1ヶ月ほど続きます。その間、慶喜は形成の巻き返しを図るため、朝廷への工作を働きかけますが、一方で、大坂城に籠っていた旧幕府兵や会津、桑名兵らのフラストレーションは積もるばかりで、暴発は時間の問題になりつつありました。そしてついに、慶応4年(1868年)1月2日、京に向けて旧幕府軍の進撃が開始され、翌3日、京都南郊の鳥羽・伏見で両軍は激突します。世に言う「鳥羽・伏見の戦い」です。

 旧幕府軍の進撃の導火線となったのが、前年に江戸で勃発した徳川家と薩摩藩の軍事衝突でした。王政復古前の11月頃より、江戸市中では薩摩藩の三田屋敷を拠点として、強盗騒ぎが頻発していました。これは、慶喜の大政奉還によって武力討幕の口実を失った薩摩藩が、江戸に浪士・無頼者を集めて治安を乱し、後方撹乱を狙ったものだと言われています。その首謀者は西郷隆盛でした。西郷の思惑は、騒乱状態を作ることによって、旧幕府兵力を関東に釘付けにし、京阪への集結を妨げるとともに、幕府の権威がもはや衰弱しきっていることを諸藩および江戸市中の民衆に強く印象づけ、さらには、幕府をして薩摩藩討伐の兵を起こさざるをえないように仕向けようというものでした。そして、ことはその狙いどおりに進みます。

 江戸城の留守を預かる旧幕府首脳部と江戸市中の警備を任されていた庄内藩は、一連の騒ぎを薩摩の挑発とみすえ、じっと我慢し続けていましたが、12月に入って、大風の吹く日に市中数十箇所に火を放ち、その混乱に乗じて江戸城を襲い、静寛院宮(和宮)天璋院(篤姫)を連れ去る計画が進められているという風評が流れ、その風評が流れるさなか、天璋院の住む江戸城二の丸が全焼する騒ぎが起きます。さらに浪士たちは徳川家を挑発して、この夜、庄内藩屯所に向けて発砲。これには庄内藩も怒り浸透となり、ついに旧幕府首脳部もしびれを切らして、庄内藩兵とともに薩摩藩邸を包囲。三田屋敷はたちまち火に包まれました。その報が大阪に伝わると、城内は一気に沸き立ち、ただちに薩摩を討って一挙に幕府勢力を回復せよといきり立ちます。

 「この声を聞け! 一万五千の猛り立つ兵をどうやって鎮めるのだ! 薩摩を討たねば、この怒りはわしに向かってくる。主君のわしが殺される。もはや戦うしかない。」

 ドラマ中の慶喜の台詞ですが、まさにこの台詞どおりの心境だったんじゃないでしょうか。ことここにいたっては、もはや慶喜にはその勢いを抑える力はありませんでした。

 戦のあらましは長くなるのでここでは省略しますが、徳川方の指揮不統一戦術の拙さが相まって、旧幕府兵、会津兵、桑名兵ともに各所で後退を余儀なくされ、初日の戦いは薩長軍の優勢で終わりました。この初日の戦況が、結果的に決め手となります。

 開戦の報が届いた京都では、すぐさま御所で会議が開かれ、大久保一蔵の意向を受けた岩倉具視は、仁和寺宮嘉彰親王を軍事総裁職兼任・征討大将軍に任命し、錦旗・節刀をさずけることと、諸藩に慶喜討伐を布告することを求めますが、慶喜を朝敵とすることに異論が続出し、なかなか結論が出ませんでした。しかし、前線から薩長軍優勢の報告が入ると、会議の空気が一変し、慶喜討伐が決定します。薩摩・長州が官軍、旧幕府軍をはじめ会津、桑名が賊軍に転落した瞬間でした。翌日、仁和寺宮が錦旗を掲げて東寺まで進み、ここに慶喜討伐の大本営を置きます。これまで形勢を展望していた諸藩も、これを見た途端になだれを打って旗幟を鮮明にしていきます。ここに、鳥羽伏見の戦いの大勢は決したといえます。まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉どおりの展開だったわけですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-25 16:50 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第19話「慶喜の誤算」 ~王政復古の大号令~

 慶応3年(1867年)10月15日、徳川慶喜から受けた大政奉還の上表を承認した朝廷でしたが、やはり慶喜が考えていたとおり、ただちに政権を運営できる能力が朝廷にはなく、どうにも手のうちようがありませんでした。したがって、ことごとに慶喜の意見を聞き、指示を仰ぎ、結局は政務を慶喜に委託するしかありませんでした。慶喜の思惑どおりにことが運んでいたといえるでしょう。

 薩摩を始めとする討幕勢力は、なんとしても諸大名を京都に召集し、列藩の衆議によって今後の政治のあり方を決定したいと考えていました。そこで朝廷は諸大名に京都参集を命じますが、旧幕府の顔色をうかがって容易に足並みが揃いません。大政奉還という事態を前にして、諸藩主がどう対処すべきか迷うのも、当然といえば当然のことだったでしょう。これを薩長の陰謀と考える藩主、あくまで幕府に対して忠節をまっとうすべしという藩主、あるいは病気と称して上京の延期を願い出る藩主、あるいは藩主に代わって重臣の上京を出願する藩主など、さまざまでした。

 これでは諸藩主会議による国是決定など、とてもできるものではない・・・そう考えた討幕側は、こうした状況を打開するために、次なる手立てを画策します。それは、武力を背景として王政復古の大号令を出すという宮廷クーデターでした。この計画を中心的に進めたのは、薩摩藩士・大久保一蔵(利通)岩倉具視。まず、大久保は討幕の盟約を結んでいる長州藩と芸州藩に京へ派兵するよう依頼し、自身もすぐさま藩地に帰って藩兵を促します。さらに大久保らは、土佐藩にも強力を仰ぎます。土佐藩は大政奉還論の中心的存在であり、彼らにクーデター計画を漏らすのは危険なことでしたが、しかし、土佐藩が反対側に立ってはあとあと面倒なことになると考えたのでしょう。

 大久保は西郷吉之助や長州藩士・品川弥二郎などと協議して、このクーデターをの決行日を12月8日に決定します。列席者は薩摩藩を中心に、土佐・尾張・越前・安芸(広島の浅野)の5藩でした。長州藩は、長州戦争が正式に終結していないので、京都に兵力を動員できず参加できませんでした。また、西郷と大久保も下級藩士のため朝廷の会議には参加できません。クーデター実行部隊で会議に参加できるのは公卿である岩倉のみ。岩倉を会議に出席させるには、まず出仕を停止させられている岩倉の罪を解かなければなりません。

 そして決行日の12月8日。この日、朝廷内では会議が開かれていました。その議題は、朝敵となっている長州藩主父子の罪の赦免と復位、先の八月十八日の政変によって追放されている三条実美を始めとした公卿の赦免についてでした。昼夜を通して行われた話し合いの結論は、長州藩主父子の罪の赦免が決定、罪人となっている公卿の赦免も認められ、このとき、蟄居の身であった岩倉具視の罪も解かれます。じつはこの徹夜の会議は、そのために行われた伏線だったんですね。

 翌朝、朝議を終え摂政ら親幕府メンバーが御所から退出するのを待って、薩摩藩を初め5藩の藩兵が御所を封鎖しました。そして、たったいま罪を解かれたばかりの岩倉が、かねてから用意していた王政復古の大号令なる文書を読み上げ、これを天皇に献上しました。その内容は、徳川幕府を廃止すること、摂政などの旧制度を廃止し、代わりに総裁・議定・参与の3職を置くことを置くことなど。そして、ただちにその3職による会議を開きます。これが小御所会議と呼ばれる会合です。メンバーは岩倉のほか、越前藩主・松平春嶽、土佐前藩主・山内容堂、尾張藩主・徳川慶勝ら。3職でない西郷と大久保は、別室で控えていました。

この会議のポイントは、徳川慶喜が出席していなかったことでした。春嶽、容堂、慶勝らは、幕府が廃止されても新政府の一員として慶喜が参加すると考えていました。彼らは事前にこのクーデターのことは了承していましたが、まさか、慶喜抜きの展開になるとは考えていなかったんですね。3人は岩倉の示す新政府案に難色をしめします。特に容堂の反論は激しく、クーデター政権を批判します。さすがの岩倉も押されぎみになり、会議は一旦休憩に入ります。この休憩時間が、歴史を大きく変えることになるんですね。

 会議の経過の報告を受け、助言を求められた西郷が、「短刀一本で用は足りもす」と答えたという有名な話。要は「刺し違える覚悟で臨めばことは自然と開ける」といった意味の言葉だったのでしょうが、この言葉を聞いた岩倉は、「容堂と刺し違える覚悟で臨む」と周囲の者に言い放ち、それを聞いて驚いた土佐の後藤象二郎は、主君である容堂に伝えます。これには容堂もビビったようで、再開された会議の席では、容堂はすっかり沈黙のひととなってしまいます。これで全ては決着。新政府に慶喜を加えないこと、慶喜に幕府領を差し出させること、慶喜が就任していた内大臣の官職を辞退するよう要求することなどが決定します。ここに、討幕勢力のクーデターは成功します。

 ドラマにあったように、慶喜自身はこの日、自分が出席すればかえって不利になると考えたらしく、ずっと二条城にいたようです。これが、本話のタイトルどおり、「慶喜の誤算」でしたね。もっとも、出席していたら違う結果になっていたかどうかは、今となってはわかりませんが。あるいは、本当に「短刀一本」でケリを付けられていたかもしれません。そう考えれば、やはり欠席は正解だったのかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-15 19:57 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)