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太平記を歩く。 その33 「五社八幡神社」 神戸市北区

神戸市北区にある「五社八幡神社」を訪れました。

元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際、摩耶山城を本拠とした赤松則村(円心)は、北方の備えとしてこの背山に支城を築き、荒廃した社殿を再建して戦勝を祈願したと伝えられます。


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その甲斐あって赤松軍は幕府六波羅軍に大勝し、倒幕の勢いにのります。

鎌倉幕府の瓦解は、遠く離れた神戸のまちから始まっていました。


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時代は下って戦国時代、三木城主別所長治の家臣・小野三郎義晴切畑城を築き、ここの境内に居館を設けていたそうですが、羽柴秀吉軍の三木攻めの際、兵火により社殿を焼失したと伝わります。

その際、義晴は御神体に兵火がかからないよう、背後の谷間に埋めたといわれ、その後、村民が御神体を掘りおこし、社殿を再建して奉安したと伝えられますが、その年月は不明です。


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しかし、昭和55年(1980年)に文化庁の調査が行われ、社殿が室町時代のものと判明。

そこで、国の重要文化財に指定するかの審議がなされていたそうですが、その最中、放火によって全焼してしまいまったそうです。


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現在の社殿は、昭和60年(1985年)に鉄筋コンクリートで再建されたそうです。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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by sakanoueno-kumo | 2017-03-30 20:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~

前稿で黒田官兵衛が出てきましたので、引き続き官兵衛つながりで。

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。

三木合戦は始まった当初、羽柴秀吉は一時この地に本陣を置きました。

それを進言したのが、他ならぬ黒田官兵衛だったといいます。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。

ロープウェイは黒田官兵衛キャララッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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そしてこちらが有名な三之堂

秀吉が本陣を置いた場所です。

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財です。


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三木城攻めが膠着状態に入ると、官兵衛は秀吉に書写山まで一旦撤退するよう進言。

その後、ここを拠点に神吉城・志方城・魚住城・端谷城・高砂城などの別所方の支城を攻め落としながら、三木城を取り囲む付城網を築きます。

当時の大寺院というのは、ある種、城と同じくらいの防御力がありましたからね。


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食堂のなかには、当時、羽柴軍の家臣が書いたとされる「羽柴子一郎秀長」という落書が残っていました。

左側に写るアクリルでカバーされた柱がそれです。

写真を撮ったのですが、アクリルが反射して上手く撮れてませんでした。


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ここ、三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』ロケ地となっています。

場面は当然、秀吉の播磨攻略時の拠点としてです。

また、平成15年(2003年)の『武蔵-MUSASHI-』でもロケ地になっていますし、あのトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』の撮影も、ここで行われました。

絵になるロケーションなんでしょうね。

書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

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夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺 ~後編~」

さて、まだまだ播磨には三木合戦ゆかりの地がたくさんありますが、ここでまた、ひとまず休憩します。

また折を見て続きをやりますね。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-09 17:22 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その45 ~兵主神社・太閤の腰掛け石~

兵庫県西脇市にある兵主神社を訪れました。

ここは、三木合戦の際に羽柴秀吉が、黒田官兵衛孝高に戦勝を祈願させたと伝わる神社です。


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現地説明板によると、兵主神社の祭神は大巳貴命ですが、兵主は中国『史記』に出てくる軍神、武神でもあることから、秀吉は黒田官兵衛に代参させ、奉納金とともに灯明田七反を添えて戦勝祈願を行ったと伝えられています。


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奉納金は、拝殿の建設費に充てられました。

そのとき建てられたのが、現在に残る茅葺入母屋造り長床式の拝殿です。


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天正19年(1591年)8月27日造立の棟札があるそうで、三木合戦が終わってから11年後に建てられたということがわかります。


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戦勝祈願の伝承が史実かどうかはわかりませんが、安土桃山時代の建築物ということは間違いなく、兵庫県の重要文化財に指定されています。


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兵主神社のある兵庫県西脇市黒田庄町は、黒田官兵衛生誕の地との伝承があります。

通説では、黒田官兵衛の家系は近江国の出自とされていますが、江戸時代の史料などに見る別の説では、官兵衛やその父・黒田職隆は、多可郡黒田村(現在の兵庫県西脇市黒田庄黒田)生まれ」とする説が多数あり、この辺りでは昔からそう信じられてきたそうです。

すぐ近くには、黒田氏9代の居城だったといわれる黒田城跡もあるのですが、三木合戦とは無関係なので、また別の機会に紹介します。


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近くにある極楽寺の境内には、「太閤の腰掛け石」と伝わる石があります。


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その伝承によれば、三木合戦の際に秀吉が大志野(現在の西脇市黒田庄町南部)に陣を布いたとき、この石に腰かけて采配を行ったとされています。


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これが、その「太閤の腰掛け石」。


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太閤伝承がなければ、何の変哲もない単なる石です。


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説明板です。
その横には小さな祠が祀られています。


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「その23」でも紹介しましたし、「山崎合戦」の稿(山崎合戦のまちを歩く。その2)でも紹介しましたが、秀吉が座ったと伝わる石や岩は各地にあります。

事実かどうかは定かではありませんが、座っただけで伝説が残るっていうのは、やはり、それだけ伝説的な人だったってことですね。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-08 20:55 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その40 ~阿形城跡~

兵庫県小野市にあったとされる「阿形城跡」を訪れました。

ここも、三木合戦の際に別所氏に従って戦下に加わった城と伝えられます。


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現在、城跡の遺構は本丸跡と思われる「陣山」と名付けられた丘陵のみ残されています。


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陣山の入口には、小さな説明板のみ設置されています。


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陣山の頂上には、結構な樹齢と思われる巨木が聳えます。

でも、往時を知るほどではないかな。


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説明板によると、阿形城が文献などに出てくるのは、天正年間(1573~1594年)だけだそうで、それ以前のことはまったく不明だそうです。

『播磨古城軍記』によれば、阿形城の城主であった油井土佐守勝利別所長治の幕下であり、三木合戦の際に三木城籠城に参加したため、ここ阿形城は羽柴秀吉軍によって攻め落とされたと伝わります。


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現在、陣山の上は、ご覧のとおりになっています。


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陣山の周りには水路が巡らされていて、なんとなく、かつての堀跡の名残なのかなあといった雰囲気でした。


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ここ阿形城は加古川万願寺川の合流点の西に位置し、標高35mの高台にあります。

城の規模は南北150m、東西70mほどだそうで、陸上競技場くらいの広さがあったようです。

地方の田舎豪族としては、結構な大きさですよね。

油井氏というのはよく知りませんが、当時は、このあたりで結構な力を持っていたのかもしれません。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-24 23:52 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その30 ~稚児ヶ墓山城跡~

前稿で紹介した丹生山城跡から西へ4kmほど離れたところに、「稚児ヶ墓山」という変わった名称の山があります。

標高596.4mのこの山には、三木合戦における悲しい伝説が残されています。


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別所長治らが籠る三木城に兵糧を輸送する拠点となっていた丹生山城は、天正7年(1579年)5月、羽柴秀吉によって攻め滅ぼされ、城は焼き払われ、城兵たちもことごとく処刑されました。

このとき一緒に焼き討ちにあった丹生山明要寺には、幼い侍童や稚児たちが大勢いました。

子どもたちは丹生山城の羽柴軍の戦闘がはじまると、一団で北東の尾根伝いに落ち延びようとしますが、5月22日、ついにこの地で羽柴軍に捕まり、全員虐殺されたと伝わります。

この地に住む人々はこれを哀れみ、「稚児ヶ墓」と呼ばれる墓をこの山上に作って弔いました。

以来、この山を「稚児ヶ墓山」と呼ぶようになったと伝えられます。


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登山道は丹生山から帝釈山という標高585.9mを経て稚児ヶ墓山へ向かう6時間コースもあるそうですが、登山は素人のわたしはそんな無茶をせず、丹生山を一旦下山して、車で稚児ヶ墓山の標高350mほどの地点まで移動し、そこから登山です。


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比高250mほどの道のりですが、道中は大きな岩がゴロゴロ転がった険しい道で、なかなかハードでした。

でも、たぶんここを稚児たちは必死に逃げたんでしょうね。


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30分ほど岩道を登ると、歩きやすい尾根道に出ます。


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そして山頂。

片道約45分の登山でした。

頂上には手書きの看板と、その横に消えかかった説明板が。


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説明板の上には「稚児ヶ墓山城址」と書かれたプレートが。

え???・・・ここ城跡なの?


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たしかに、山頂の周りは土塁で囲われたようなかたちになっています。

たぶん、城というよりのような場所だったのでしょうね。


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山頂の近くの見晴らしのいい場所に、「稚児墓山伝説遺跡」と記された木碑が建てられていました。

たぶん、ここに墓があったのでしょうね。


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木碑は近年建て替えられたであろう新しいものでした。

碑に記された説明文によると、稚児たちの亡骸を村人たちがこの地に葬り、その側に椿を植えて冥福を祈ったといいます。

その椿は長年枯れていましたが、平成元年(1989年)に植え替えられたそうです。


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素晴らしい眺望です。


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でも、ここで多くの幼い命が酷くも失われたんですね。

殺された子どもたちは、たぶん、この戦の意味さえ理解していなかったでしょう。

殺戮が当たり前の戦国の世でも、罪のない子どもたちが殺されることへの憤りは、当時もあったのでしょうね。

だから、このような伝説が残されているのでしょう。


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下山して西側から撮影した丹生山系です。

手前から稚児ヶ墓山、帝釈山、そして丹生山です。

かつて凄惨な戦場となった山々は、現在も長閑な田園地帯を見下ろしています。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-28 20:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その29 ~丹生山城跡~

約1年半ぶりの三木合戦シリーズ再開です。

今回は神戸市北区にある丹生山城跡を訪れました。

標高514mの丹生山山頂にあった丹生山城は、三木合戦の際には別所長治側に与し、兵糧補給ルートの拠点となっていた城です。


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写真正面の山が丹生山です。

1年半前の三木合戦ゆかりの地めぐりの際に、ここを訪れるかどうか迷ったのですが、標高514m、比高370mの約1時間の登山はさすがに躊躇し、パスしていました。

歴史は好きですが、登山は素人ですからね。


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ところが、やはり歴史オタクの悲しい性で、自身の住む神戸市内に城跡があると知りながら捨て置くに忍びず、意を決して登山に訪れました(今回ここを訪れるにあたって、わざわざリュックとトレッキングパンツを購入しました)。


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季節はが散りかけた4月中旬。

たぶん、ハイカーの人たちに言わせれば、最もいい季節なんでしょうが、素人のわたしには、じゅうぶんキツかったです。


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写真では伝わりづらいですが、結構な勾配です。


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道中、古い墓石群を見つけました。


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ひとつの墓石には「天保五年」と刻まれていますので、三木合戦とは関係ないようです。


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およそ2.5kmの山道をひたすら登ること約1時間強、ようやく城跡にたどり着きました。

現在は、何らかの建物跡と思われる石垣上に、「丹生山城跡 丹生山明要寺跡」と刻まれた石碑があるのみです。


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丹生山明要寺とは、6世紀に百済から渡来した童男行者という人物がこの地に建立した寺院で、平安時代末期には多くの僧兵と幾多の伽藍を擁し、一大勢力を誇りました。

この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

ここ丹生山城は、武将が構える城ではなく、寺院が要塞化した僧兵たちの城でした。


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天正6年(1578年)に始まった三木合戦では、羽柴秀吉の包囲網を掻い潜って三木城に兵糧を輸送していたのが、ここ丹生山城を経由したルートでした。

城を守っていたのは、備中勢の中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎と、近隣の野武士や農民ら500名あまりでした。


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これに対し羽柴秀吉は、天正7年(1579年)5月、籠城する近隣の農民の妻子を生け捕り、城内から内応させることを強要。

内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城したそうです。

丹生山城が秀吉の手に落ちたことで、三木城の補給路は完全に絶たれます。


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本丸跡と思われる山頂には、現在、丹生神社があります。


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丹生神社境内からの眺望です。

見えているのは南側、三木城方面ではありません。

霞がかっていてわかりづらいですが、うっすら明石海峡大橋が見えます。


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ここ、丹生山城は、三木合戦より遡ること250年前の南北朝時代にも、戦乱に巻き込まれています。

その話は、また別の稿でふれてみたいと思います。


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下山は緩やかなハイキングコースをくだりました。

時間はかかりましたが、こっちの方が素人向けでしたね。


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麓のバス停横には、丹生神社の鳥居が。

その鳥居の中に映っているのが、丹生山です。


さて、次稿では、その丹生山城の戦いで命を落とした幼子たちの悲話が残る稚児ヶ墓山を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-10-27 20:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第31話「終焉」 ~秀吉の遺言状~

e0158128_20022019.jpg 朝鮮での戦が長引くなかの慶長3年(1598年)初夏、床に臥せりがちだった豊臣秀吉の体調はいよいよ悪化の途をたどります。さすがに死期を悟った秀吉は、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、自身の死後の体制固めを懸命に行いはじめます。今回のドラマの秀吉は痴呆がひどくなっているため、それを推し進めたのが石田三成だったという設定でしたね。実際に秀吉がボケていたかどうかは定かではありませんが、それにしても秀吉にとって気がかりなのは、ただただ、まだ6歳秀頼の前途のみでした。思い余った秀吉は、伏見城に徳川家康を呼び寄せ、自身の死後は秀吉の後見人になるよう懇願します。最も信用が置けない人物を秀頼の最も近くに置き、逆心を封じ込めようとの考えからでしょうが、その約束を家康が守ってくれる保証などどこにもありません。

ドラマで、家康や三成が寄ってたかって秀吉に書かせていた遺言状は、実際に現存するものです。

 「秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく 八月五日 秀吉印」
 「いへやす(徳川家康) ちくせん(前田利家) てるもと(毛利輝元) かけかつ(上杉景勝) 秀いえ(宇喜多秀家) 万いる 返々秀より事 たのミ申し候 五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上」

 五大老に向けた秀吉の遺言状です。ドラマでは、いさい五人物ニ申わたし候」という部分と「以上」を、三成があとから書き加えさせてましたね。その解釈でいえば、最初の「五人の衆」五大老のことで、あとの「五人の物(者)」は、五奉行ということになります。そんな風に読み下したことはありませんでしたが、たしかに、そうとも取れます。現存する遺言状というアイテムを使って独自に解釈し、秀吉の死の局面に際しての政治を描くあたり、さすが三谷さん、秀逸です。


 多少コミカルに描いてはいましたが、それにしてもこの遺言状、天下人の最後のメッセージとしては、あまりにも無様で哀れな内容ですね。とにかく「秀頼のことをよろしく頼む」と、手を合わせるようにして五大老らに頼み続けている様子は、同じく子を持つ親としては少なからず共感できなくもありません。むろん、戦国時代の中を戦い抜いて天下人となった秀吉のことですから、主家である織田信長の子に対して自らのとった仕打ちを思えば、誓紙口約束など何の役にも立たないことはわかっていたでしょう。わかってはいても、そうするしかなかった・・・そこが、秀吉の最期の悲痛さです。

 この遺言状が書かれた約2週間後の慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉はその
劇的な生涯に幕を閉じます。享年62歳。
 その辞世の句は、

 つゆとをちつゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
 (露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢)


 実に見事な辞世ですよね。意訳するのは無粋かもしれませんが、「なにもかもが夢であった。今となってはな・・・」といったところでしょうか。日本史上最大の立身出世を遂げ、位人臣を極めた男が、最期に辿り着いた境地がこの歌だったというところに、豊臣秀吉という人物の魅力を感じ取ることができます。まるで、物語のような人生であったと・・・。しかし、一方で、ほとんど狂気といえる晩年の愚行も、上記の未練タラタラの悲痛な遺言状も、豊臣秀吉という人物の一面であることに違いありません。この二重人格ともいえるアンバランスさが、秀吉という人の人間臭さを表しているような気がします。


 秀吉の最期は、豪壮華麗な伏見城での臨終でした。数限りない武将を戦場で無念の死に追いやってきた男は、まことに平和で安らかな臨終を迎えられる立場に恵まれながら、人を信じられず、我が子の行く末を案じ、最期は狂乱状態であったともいわれます。志半ばで戦場に散った武将たちと、権力も昇りきれるところまで昇りつめた豊臣秀吉の、どちらが幸せな死に際であったか・・・。人の幸せのあり方について、あらためて考えさせられます。


 石田三成の家康暗殺計画は、小説やドラマなどではよく描かれますが、事実かどうかは定かではありません。司馬遼太郎『関ケ原』では、三成に家康暗殺を進言したのは側近の島左近で、三成がそれを承知しなかったため、左近が単身家康を暗殺しようとしますが、未遂に終わります。今回のドラマでは死に際のおびえた秀吉が三成に命じるという設定でしたね(あの夢枕に立った少年は万福丸でしょうか?)。まあ、それも考えられなくもありませんが、いずれにせよ、秀吉の死に際しての政局が、それほど緊迫した状況にあったことはたしかでしょうね。次回から、その政局が描かれます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-08 21:35 | 真田丸 | Trackback | Comments(4)  

真田丸 第30話「黄昏」 ~慶長の役と醍醐の花見~

e0158128_20022019.jpg 慶長伏見地震から約2ヶ月後の文禄5年(1596年)9月、からの使節が日本を訪れ、豊臣秀吉に謁見します。先の朝鮮出兵の講和交渉を担当していた小西行長の報告によれば、明は日本に降伏したとのことだったため、秀吉は使者を大いに歓待します。しかし、実際には明は降伏などしておらず、逆に明朝廷は、日本が降伏したとの認識でした。これは、日明双方の講和担当者が、穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をしたためでした。


 そうとは知らない秀吉は、明に対して「朝鮮南部4道の割譲」「勘合貿易の復活」などを講和条件として提示していました。ところが、使節が持参した明朝廷の回答は、秀吉に対して「豊臣秀吉を日本国王に任命する」と、まるで日本が明の属国になったかの如く上から目線の通達を突き付け、さらに、李氏朝鮮内に残る秀吉軍の完全撤退を求めてきたのでした。これに秀吉が大激怒。そりゃそうでしょうね。話がまったくかみ合わないのだから、当然の反応です。穏便に講和を行うはずだった小西行長の狙いは逆に裏目に出てしまい、秀吉は再度の朝鮮出兵を決断します。そして慶長2年(1597年)2月、西国を中心に約14万もの兵が再度海を渡りました。秀吉の死まで続く「慶長の役」の始まりです。


「慶長の役」が始まって約1年が過ぎた慶長3年(1598年)3月15日、秀吉は京都の醍醐寺において、盛大な花見の宴を催しました。後世に名高い「醍醐の花見」です。醍醐寺は京の都の南東に位置する由緒ある名刹。秀吉のこのイベントにかける思いは並々ならぬものがあったようで、花見の責任者に奉行の前田玄以を任命し、早くから寺観の整備に務めさせました。そして自らも下見のために醍醐寺へ足繁く通い、殿舎の造営や庭園の改修を指揮したといいます。さらに、醍醐山の山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の桜を植樹しました。当日は嫡子の豊臣秀頼をはじめ、北政所、淀殿ら近親の者、さらには配下の武将とその家族など約1300人が招かれたと伝えられます。当時としては、最大規模にして最も豪華な花見で、この「醍醐の花見」が、その後の日本に花見の習慣を根付かせたともいわれます。


e0158128_23062489.jpg 参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられており、そのきらびやかな衣装は秀吉の目を喜ばせました。ドラマでは描かれていませんでしたが、この花見の際に、側室の序列をめぐって淀殿松の丸殿の間で争いがあったという話は有名です。記録に残された当日の輿入れの順は、1番・北政所、2番・淀殿、3番・松の丸殿、4番・三の丸殿、5番・加賀殿、そのあとに、北政所が若い頃から親しくしていた前田利家の正室・まつが続きました(ドラマでは、徳川家康の側室・阿茶局も招かれていましたが、実際に彼女がいたかどうかはわかりません)。正室である北政所が1番なのは当然として、秀吉は秀頼の生母としての淀殿の地位を重んじ、次席に据えたのですが、この序列に面子を潰されたのが、淀殿より古くから秀吉の寵愛を受けていた松の丸殿。酒席で秀吉から杯を受ける際に、松の丸殿は序列を無視して淀殿の前に無理やり割り込み、二人の争いになったといいいます。この「杯争い」を、間に入って取り収めたのは秀吉ではなく、客人の立場であった前田利家の正室・まつだったとか。たぶん、秀吉はオロオロしてただけだったのでしょうね。


 この浮世離れしたイベントで秀吉たちが夢見心地なひとときを過ごしていたとき、朝鮮半島では激しい戦闘が続いていました。そもそも、この「醍醐の花見」が企画されたのは、朝鮮出兵で苦戦を強いられていた豊臣政権に漂う暗いムードを払拭したいという狙いがあったといわれ、また、自らの死期を感じ始め、精神的にも不安定な状態に陥っていた秀吉自身の“気晴らし”という側面もあったのでしょう。会場となった醍醐寺の周辺は弓・槍・鉄砲を持った警備兵が囲み、そのものものしい警護も、秀吉最後の宴に暗い影を落としていました。


 この「醍醐の花見」が終わると、秀吉は急激に死の淵に向かいます。秀吉死去の5か月前のことでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-01 21:08 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第29話「異変」 ~秀吉の認知症説と慶長伏見地震~

e0158128_20022019.jpg 豊臣秀吉が急激に老いはじめましたね。秀吉の晩年の病状については様々な説がありますが、今回のドラマでは、どうやら認知症を患っている様子です。秀吉が認知症だったのではないかという見方は実際にあって、その説によれば、ドラマで描かれていた失禁も、その症状のひとつだとされます。他にも認知症の症状として、千利休の死後数年経ってからの秀吉の書簡のなかに、「昨日、利休の茶にて御膳も上がり、面白く芽出度く候まま、御心易く候べく候」と書かれていることや、伏見城築城に際しても、普請役の前田玄以宛の書簡のなかで、「伏見の普請の事、利休に好ませ候て、懇ろに申し付けたく候」と、伏見城を利休好みで設計せよと命令していることなどがみられ、これらを秀吉が認知症を患っていた証拠としています(別の見方では、この書簡は利休を殺してしまったことへの後悔の念とするのが一般的です)。認知症だったと考えれば、晩年の秀吉の奇行が、すべて説明がつくというんですね。


 この説に従えば、この翌年から始まる「慶長の役」も、認知症が原因だったことになります。だとしたら、大名たちはたまったもんじゃなかったでしょうね。「認知症」という医学的見地は当時なかったにしても、「老人ボケ」という症状は当時の人も認識していたはず。もし、認知症説が事実なら、石田三成ら奉行衆が秀吉を制止したと思うんですけどね。


 慶長伏見地震が起きたのは文禄5年(1596年)閏7月13日。子の刻と伝わりますから、深夜0時前後の人々が寝静まった時間帯でした。地震の規模は六甲・淡路島断層帯を震源としたマグニチュード7以上と推定されているそうで、その約400年後の平成7年(1995年)1月17日に起きた阪神・淡路大震災によく似た地震だったと考えられているそうです。なんでも、その阪神・淡路大震災は、慶長伏見地震で破壊された六甲・淡路島断層帯における地下深くの滑り残しが原因で発生したとする説が発表されたのだとか。ということは、阪神・淡路大震災は慶長伏見地震の余震?・・・まあ、地球規模でみれば、400年なんて一瞬の時の流れなのかもしれませんが、つくづく、日本の歴史というのは地震と背中合わせなんですね。


慶長伏見地震による死者1000人を超えたといわれ、完成したばかりの伏見城天守もこの地震により倒壊し、城内だけで600人が圧死したと伝えられます。ドラマで、伏見城普請中の真田昌幸が本丸近くの木幡山出城を置くというアイデアを出していましたが、実際には、震災後に再建された伏見城の場所が木幡山になります。これが、現在、伏見桃山城公園として模擬状があるところですね。


一方、慶長伏見地震によって倒壊した最初の伏見城は、木幡山の南西にあったとされていましたが、地震後すぐに埋め立てられたため、その所在すらはっきりしない伝説の城でした。ところが、平成27年(2015年)、京都市伏見区桃山町のマンション造成地から石垣や多数の金箔瓦片が出土し、最初の伏見城の存在が正式に確認されたそうです。2015年といえば、豊臣家が滅びてちょうど400年の節目の年。偶然とはいえ、何かの縁を感じますね。ちなみに、便宜上、最初の伏見城を指月伏見城といい、震災後の再建された伏見城を木幡伏見城と呼びます。倒壊した指月伏見城は、聚楽第に勝るとも劣らない絢爛豪華な城だったといいます。


 この地震をきっかけに、元号は「文禄」から「慶長」へ改元されました。この慶長は20年続き、このドラマのクライマックスとなる大坂夏の陣が慶長20年(1615年)に起こり、そのすぐあとに「元和」に改元されます。いよいよ物語は、そんな慶長年間に突入します。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-25 19:52 | 真田丸 | Trackback | Comments(8)  

山崎合戦のまちを歩く。 その10 「山崎合戦古戦場碑」

名神高速道路の大山崎インターチェンジを降りてすぐのところに、「山崎合戦古戦場碑」があると聞いてやってきました。

当時の合戦図を検証すると、ちょうどインターチェンジあたりを境に、明智光秀軍と羽柴秀吉軍が対峙していたと考えられているそうで、その中心あたりに近年石碑を建てたとか。


e0158128_17534027.jpg

で、現地に足を運んでみたのですが、なかなか石碑が見つからない。

ネットの情報では、大山崎中学校の校門付近に建っているとのことだったのですが・・・。


e0158128_17552686.jpg

学校の周りをいくら探しても見当たらず、途方にくれていたのですが、ふと、道路を挟んで西側にある高速道路の高架下に、「天王山」と書かれたが目に入り、行ってみることに・・・。


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やっと石碑が見つかりました!

どうやら、ここに移設されていたみたいですね。


e0158128_18001941.jpg

ここは「天王山夢ほたる公園」という名称で、昨年5月にオープンしたばかりの公園だそうです。

どうりで、ネットにもカーナビにも出てこないはずです。


e0158128_18021083.jpg

石碑は教育委員会が建てたものだそうですが、残念なことに字がきたない(苦笑)。

この日は、わが家の中2の娘も一緒だったのですが、書道有段者の娘曰く、「わたしのほうが上手い」と・・・。

たしかに(笑)。


e0158128_18030565.jpg

公園から見た天王山です。


e0158128_18043633.jpg

何度も言いますが、「天下分け目」「関ヶ原」です!!!


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-21 22:20 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)