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真田丸 第28話「受難」 ~新説・秀次事件~

 豊臣政権のターニングポイントとなった「秀次事件」ですが、従来の話では、継嗣となる(のちの豊臣秀頼)の誕生によって関白・豊臣秀次の存在が邪魔になった豊臣秀吉が、あの手この手を使って秀次を追い詰め、やがてはあらぬ嫌疑をかけて切腹に追いやる・・・というもので、後世に秀吉の悪評を残すことになった事件です。しかし、この度のドラマでは、秀次の被害妄想的自滅行為として描かれていましたね。真相はどうだったのか・・・。まずは、従来の説から紹介します。


e0158128_19341615.jpg まず、秀吉は伏見城を築城し、拾とともに聚楽第からそちらに移ります。秀吉が伏見城に移ると、後を追うように豊臣家重臣たちも挙ってそちらに移り始めます。寂れていく聚楽第に残された秀次。このとき、関白職は単なる「飾り」で、豊臣政権は未だ叔父・秀吉のものであるということを改めて実感したに違いありません。そして自身の立場にも危機感を覚え始めたのか、しばしば奇行をとるようになったといわれます。


 文禄4年(1595年)7月3日、石田三成、増田長盛、前田玄以ら奉行たちが秀次のもとに訪れ、秀吉に対しての謀反の疑いを言い立てます。秀次は懸命に弁明しますが受け入れられず、7月8日、秀次は秀吉に直に釈明すべく伏見城に出向きますが、秀吉との面会は叶わず、「高野山への追放」という厳しい処分を言い渡されます。高野山へ入った秀次は出家しますが、そのまま隠遁生活とはいかず、それから1週間後の7月15日、秀吉の命により切腹して果てます。享年28歳。


 その後、秀吉の秀次に対する仕置は彼ひとりの命にとどまらず、一族すべての抹殺を命じ、秀次の死から半月後の8月2日、京都三条河原にて梟首された秀次の首の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名処刑されます。彼女たちは牛車に乗せられて市中を引き回された後、三条河原へと到着。その変わり果てた秀次の首と対面したのち、次々と惨殺されていったといいます。戦国時代の京都三条河原といえば、処刑場の代表地ともいえる場所で、死刑執行や処刑見物が日常茶飯事のことであったにもかかわらず、このときの秀次妻子に対する処刑は、見物人の中から卒倒・嘔吐する者が相次いだと伝えられます。彼女たちの死骸はその場に掘られた大穴に次々と放り込まれ、その上に四角推の大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めた石櫃が据えられました。秀吉はこの塚を「畜生塚」と名付け、道行く人たちへの見せしめとしたと伝えられます。


 以上が従来の「秀次事件」で、わが子可愛さに暴走する晩年の秀吉の狂気として描かれることの多い事件ですね。ところが今回の「秀次事件」は、秀次に愛情を注ぐ秀吉の思いとは裏腹に、秀次自身が被害妄想を膨らませて自滅していくというストーリー。蟄居や切腹の理由も、すべて後付とう設定でした。今までにない解釈で面白い物語でしたが、通説とはあまりにかけ離れていて、三谷さん、ちょっとやり過ぎなんじゃない?・・・と思ったのですが、調べてみると、この設定は三谷さんの完全オリジナルというわけではなく、国学院大の矢部健太郎教授が提唱する新説を下敷きにしているそうです。


e0158128_20022019.jpg 矢部説によると、江戸時代初期に記された『太閤記』に、「切腹命令」の文書に石田三成ら五奉行が7月13日付で署名したと記されていることを指摘し、京都から高野山まで約130kmあり、しかも厳しい登り坂が多く、とても2日で歩くのは不可能だと「13日に書かれた命令書を持って高野山まで多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」としています。さらに、秀吉が同月12日に、高野山の僧・木食応其へ宛てた書状に着目。そこには「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されているそうで、「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えていたと思う」としています。たしかに、そう言われてみれば・・・ですね。


 また、秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記」文禄4年(1595年)7月16日条に、「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す 無実ゆえかくのこと候のよし申すなり」とあるそうですが、矢部教授はこの「切らせられ」という記述は、秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだ、と指摘しており、秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹したと説いています。ドラマとは少し違いますが、自ら腹を切ったという解釈は同じですね。


 さらに矢部説では、『太閤記』の「秀次に謀反の動きがあった」という記述は、事態収拾のために秀吉と三成らが作り上げた後付けの公式見解だったのではないか、と推測しています。まさに、ドラマのとおりですね。事ここに至った以上、秀吉の命令で行われたことにしなければ、豊臣政権の威光の失墜に繋がりかねませんから、後付けで公式見解をこじつけたという見方は、十分に有り得る解釈だと思います。


 しかし、であれば、一族皆殺しまで行う必要があったのか、という疑問が浮かびます。ところが、これに対しては時代考証担当の丸島和洋氏が自身のツイッター上で、秀次の嫌疑が「謀反人」である以上、「妻子の処刑はやむを得ないこと」と発言されています。その容疑が事実であれ後付であれ、謀反人の妻子を生かしておくことは、豊臣政権の威光の失墜に繋がりかねない、ということですね。いずれにせよ、惨い話です。


 というわけで、今回の設定は、その真偽はどうであれ、新説に基づいたストーリーだったんですね。よく勉強されているなあと関心します。また、秀吉の好意のすれ違いと、真田信繁、信幸兄弟の好意のすれ違いを合わせて描いていたのは、実に秀逸だと思いました。さすが三谷さんですね。


 ちなみに、生き残った秀次の娘で信繁の側室になったとされる隆清院という女性については、確実な史料に乏しく、真偽は定かではありません。従って、呂宋行きの話も、すべてドラマのオリジナルです。まあ、これはこれでいいんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-19 19:42 | 真田丸 | Comments(4)  

真田丸  第26話「瓜売」 ~文禄の役と瓜畑遊び~

 天正19年(1591年)8月5日に愛児・鶴丸を失った豊臣秀吉は、すぐさま、来春に「唐入り」(朝鮮出兵)を決行することを全国に布告します。世に言う「文禄・慶長の役」の始まりですね。ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスの記した『日本史』によれば、支那征服への思いはかつて織田信長も抱いていたといいますから、秀吉はその思想を引き継いだのかもしれません。秀吉の構想は信長のそれより壮大なもので、のみならず台湾フィリピン、さらにはインド南蛮への進出も視野に入れた「アジア帝国」を夢想していたともいわれます。

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「朝鮮と民を従えて、わしは大王になるぞ!」

 本当に、こんな台詞を言ったかもしれませんね。

 「唐入り」を布告した秀吉は、同じ年の10月、その準備として肥前国に名護屋城の築城を開始します。工事は加藤清正、小西行長らを中心に突貫作業で進められ、わずか半年で竣工しました。さらに、その名護屋城の周りには全国の諸大名の陣屋が建ち並び、わずか数ヶ月の間に人口は20万人に膨れ上がり、戦時だけとはいえ大坂に次ぐ大都市となりました。集結した諸大名たちは、秀吉による天下統一の世を、改めて肌で感じたことでしょう。

 年が明けた文禄元年(1592年)4月、豊臣軍(あえて日本軍とは言いません)は総勢15万8千の大兵団を率いて朝鮮半島へ侵攻を開始します。総大将は豊臣家一門扱いとなっていた宇喜多秀家。朝鮮半島に上陸した豊臣軍は、わずか数時間で釜山城を制圧。その後も連戦連勝を重ね、わずか20日間で首都の漢城を占領しますが、その快進撃もそこまで。その後、からの援軍が登場し、さらに、海上では朝鮮水軍の前に苦戦を強いられ、戦況は膠着状態に陥ります。

そんななか、秀吉は名護屋城のそばにある瓜畑に諸大名を集め、「瓜畑遊び」なるイベントを催します。「瓜畑遊び」とは、現代でいうところのコスプレパーティ。この話は、江戸時代に刊行された『絵本太閤記』などの書物に登場するエピソードです。それによると、前田利家高野聖蒲生氏郷茶商人織田有楽斎は旅の老僧、そして堅物の徳川家康までもが、あじか売りを演じて周囲を大いに笑わせました。そして秀吉が演じたのは、今話のタイトルの瓜売り。菅笠に腰蓑姿で籠を担ぎ、「味よしの瓜めせめせ」と、調子に乗せて声を張り上げる姿は、もともと卑賤の出である秀吉らしく堂に入ったものだったと伝わります。

 なぜ、秀吉はこのようなイベントを企画したのか。戦況が膠着状態のなか、中だるみしていた士気を鼓舞する意図だったかもしれませんし、あるいは、ただ単に名護屋城での生活が退屈だっただけかもしれません。まあ、現代でもそうですが、上に立つものがこういった無礼講の席を持つということは、チームワークを高める意味では効果が期待できます。このあたりは「人たらし」と言われた秀吉らしい演出で、数々の悪政を行いながらも、秀吉が後世に愛される理由は、こういった明るさにあるのでしょうね。

このイベントに真田昌幸が参加していたかどうかは定かではなく、もちろん、秀吉と出し物がかぶったという話は、ドラマのオリジナルです。それにしても、「瓜売り」の出し物をめぐって右往左往する様子は笑えましたね。

信繁「えらいことになりました!・・・そしてまずいことに、明らかに父上の方がお上手なのです。」

昌幸「なんたることじゃ!」

且元「これはいかん!太閤殿下に恥をかかせるだけだ。安房守殿、申し訳ないがもっと下手にできませぬか?」

信幸「父上はこの日のために血のにじむような稽古をしてまいりました!」

家康「そんなに安房守の瓜売りはよく出来ておるのか?」

信繁「身内が言うのもなんですが大したものです!なんとか徳川様から太閤殿下に出し物を変えるよう、それとなく勧めてはもらえませぬか?」

家康「力になりたいのはやまやまだが、今更それは申せまい。残念だが、ここは安房守に折れてもらうしかないな。」

信繁「思い切って瓜売り勝負と致しましょう。父上のあとに太閤殿下が演じられると見劣りしますゆえ太閤殿下が先でそのあとに父上が・・・あ~!それもよくないな!う~ん・・・。」

昌幸「もうよい!・・・真田安房守、本日急な病にて参れません。」

盛清「それがよかろう・・・。」

たかが余興ネタの話が、ほとんど政治問題でしたね(笑)。皆の真剣ぶりが滑稽で笑えましたが、考えてみれば、現代でも無礼講の席とはいえ上司やクライアントに花を持たせる気遣いは当然のことで、当人にとってみれば重大問題。くだらない話のようですが、的を射ているといえます。秀吉が企画したイベントですが、参加者たちは、きっと秀吉にいい気分になってもらうよう気を揉んだでしょうからね。

 さて、そんな「瓜畑遊び」の前か後か、ちょうど同じ頃、淀殿の2度目の懐妊が発覚、そして文禄2年(1593年)8月3日、待望の男児が生まれました。名は「拾」。のちの豊臣秀頼ですね。秀吉はこれを機に名護屋城から大坂城に戻り、それが影響してか、明・朝鮮連合軍と戦いは講和に舵が切られはじめます。もともと鶴松死去と共に始まった「唐入り」でしたから、再び男児が生まれたことで、秀吉の大陸に対する情熱は、多少は薄らいだかもしれませんね。ただ、この男児出産の報せでいちばん動揺したのは、前年12月に秀吉から関白職を譲り受けていた甥の豊臣秀次だったであろうことは、想像に難くありません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-04 20:43 | 真田丸 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~

樫井古戦場跡から南西に10kmほど下った阪南市に、法福寺という寺院があるのですが、ここは別名、「お菊寺」と呼ばれています。
お菊とは、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次小督局の間に生まれた姫で、前稿で紹介した(参照:その14淡輪六郎兵衛重政の姪にあたります。

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お菊の父・豊臣秀次は、天下人・秀吉の後継者候補として関白職を継ぎますが、その後、秀吉に待望の跡継ぎ(のちの豊臣秀頼)が生まれたことから、謀反の嫌疑をかけられ、切腹に追いやられた悲劇の人物ですね(異説あり)。
このとき、秀吉は秀次の一族すべての処刑を命じますが、伝承によると、生後間もなかったお菊は処刑を免れ、和泉国有手村(現在の阪南市鳥取)の後藤六郎兵衛輿義という人物の養女として育てられます。

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その後、成長したお菊は、紀州国の代官、山口朝安兵内に嫁ぎましたが、ほどなく大坂夏の陣が起こり、結婚5日目にして夫は大坂城に入城してしまいます。
お菊は夫の役にたとうと、密使として働きますが、やがて大坂城の落城とともに夫は討死し、お菊自身も捕らえられます。
そして、大坂城落城から1か月後の6月6日、紀伊南穂村の河原で処刑されました。
享年20歳

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ここ法福寺は後藤家の菩提寺で、お菊を育てた養母が、お菊を哀れんで木像をつくり、ここに納め冥福を祈ったと伝えられます。
その後、寛政7年(1795年)に法福寺は火災に遭い、お菊の木像とともに全焼してしまいますが、安政5年(1858年)に村人の手によって木造が新たに造像され、現在に至っています。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-24 01:39 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第44話「落ちゆく巨星」 その1 ~秀次事件~

 53歳にして授かった待望の男児・鶴松を55歳で亡くした豊臣秀吉が、57歳にして奇跡的に授かった男児・。のちの豊臣秀頼ですね。ただでさえ歳取ってからの子供は可愛いといいますし、何より、一時はあきらめていた実子への家督継承の道が再び見えたのだから、拾にかける思いは並々ならぬものだったに違いありません。その溺愛ぶりは鶴松のとき以上に激しいものでした。

 この拾の誕生により、立場が危うくなってしまったのが秀吉の甥である豊臣秀次。彼は秀吉の実姉・瑞龍院の長男で、この十数年前に秀吉の養子となっていました。鶴松の死後、自身の年齢から考えてもはや実子は見込めないと考えた秀吉は、秀次を自身の後継者に任命して、関白職も譲ります。しかし、それからほどなくして淀殿が拾を出産。きっと秀吉は、秀次に関白職を譲った自身の早計さを嘆いたことでしょう。その思いが、後世に悪評を残すことになる「秀次事件」に発展していきます。

 秀吉も最初は、拾と秀次の娘を婚約させるなど、「秀次のあと、拾の成人を待って政権移譲」といった方向で事を進めていました。娘婿に継承というかたちであれば、秀次の面目も立ち、悪いようにはしないだろうという秀吉の考えだったのでしょう。しかし、その頃にはおそらく自分はこの世にいない・・・そう考えると、秀次が約束どおり拾を後継者とするか、心配で心配でいたたまれなかったのでしょうね。秀吉は次第に、自分が生きている間に拾を後継者にしたいと考えるようになります。そこには、ドラマのように淀殿の希望もあったかもしれません。そしてその思いは、身内に優しかったはずの秀吉を豹変させます。

 まず秀吉は、伏見城を築城し、拾とともに聚楽第からそちらに移ります。秀吉が伏見城に移ると、後を追うように豊臣家重臣たちも挙ってそちらに移り始めます。寂れていく聚楽第に残された秀次は、きっと危機感を覚えたに違いありません。結果を知る後世の私たちからみれば、この時点で秀次は自ら関白職を辞し、拾のために席を空けるべきだったでしょう。そうすれば、歴史はまた違ったものになっていたかもしれません。しかし、残念ながら秀次は、その地位に固執してしまうんですね。権力というものは、一度手にすると手放したくなくなるもので、それは、現代の社会でも変わりません。

 文禄4年(1595年)7月3日、石田三成増田長盛前田玄以ら奉行たちが秀次のもとに訪れ、秀吉に対しての謀反の疑いを言い立てます。秀次は懸命に弁明しますが受け入れられず、7月8日、秀次は秀吉に直に釈明すべく伏見城に出向きますが、秀吉との面会は叶わず、「高野山への追放」という厳しい処分を言い渡されます。高野山へ入った秀次は出家しますが、そのまま隠遁生活とはいかず、それから1週間後の7月15日、秀吉の命により切腹して果てます。享年28歳。一時は権力の頂点を手に入れた秀次でしたが、やはり、棚ボタで手に入れた地位とは脆いものです。

 その後、秀吉の秀次に対する仕置は彼ひとりの命にとどまらず、一族すべての抹殺を命じ、秀次の死から半月後の8月2日、京都三条河原にて梟首された秀次の首の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑されます。彼女たちは牛車に乗せられて市中を引き回された後、三条河原へと到着。その変わり果てた秀次の首と対面したのち、次々と惨殺されていったといいます。戦国時代の京都三条河原といえば、処刑場の代表地ともいえる場所で、死刑執行や処刑見物が日常茶飯事のことであったにもかかわらず、この時の秀次妻子に対する処刑は、見物人の中から卒倒・嘔吐する者が相次いだと伝えられます。彼女たちの死骸はその場に掘られた大穴に次々と放り込まれ、その上に四角推の大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めた石櫃が据えられたといいます。秀吉はこの塚を「畜生塚」と名付け、道行く人たちへの見せしめとしたと伝えられます。このときの秀吉は、もはや正常な精神状態ではなかったのかもしれません。

 この秀吉の愚行は、当時の日本の倫理観社会常識に照らし合わせても悪逆無道な行為で、この秀次事件が後世に残した影響は計り知れません。この事件で数少ない豊臣一族を処刑してしまったことが、結局のところ豊臣政権の弱体化を招いたことは確かで、このとき秀次の謀反の企てに関与していた疑われた大名たちが、総じて「関ヶ原の戦い」で徳川方に属することとなったのも事実です。わが子・拾の行く末を案ずるあまり、豊臣家の行く末が見えなくなった秀吉。まさに、歴史上もっとも大きな権力を持った究極のモンスターペアレントといえるでしょうね。

 長くなっちゃったので、次回「その2」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-03 22:20 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第28話「秀忠に嫁げ」

 文禄2年(1593年)8月3日、豊臣秀吉と側室・淀殿の間に2人目の男児が生まれた。幼名は拾丸。のちの豊臣秀頼である。この2年前に亡くした最初の子の鶴松を、「捨て子は育つ」の格言に従って“棄(すて)”と名付けたのに対して、今度は捨て子を再度拾い上げたという縁起をかついで、“拾(ひろい)”と名付けた。さらに名前だけではなく、家臣に命じて本当に赤子を道ばたに棄てさせ、すぐさまその子を拾って帰るという念の入れようだったとか。そんなエピソードからも、53歳にして授かった鶴松を55歳で亡くした秀吉が、57歳で再び授かった拾にかける思いは並々ならぬものだったことが伺える。当然、その溺愛ぶりも異常を極めた。

 生母・淀殿の拾に対する愛情も相当なものだったようで、ドラマにもあったように、淀殿自身の母乳で育てていたらしいことが、彼女の母乳の出を心配する秀吉の手紙から伺える。当時の慣わしからして、高貴な身分の赤子は乳母の乳によって育てられるもので、拾にも当然、乳母はいたようだが、淀殿にしてみれば、鶴松を亡くした悲しみの分、拾を片時も離したくなかったのかもしれない。ドラマでは秀吉の拾に対する溺愛ぶりに不安を覚える淀殿だったが、実際には、彼女の愛情も異常だったのかもしれない。その深すぎる彼女の愛情が、のちに豊臣家を滅ぼすことになろうなどとは、このときの淀殿は知る由もなかった。

 この拾の誕生により、人生が一変してしまった人物・豊臣秀次。彼は、秀吉の実姉・瑞龍院の長男で、この十数年前に秀吉の養子となっていた。鶴松の死後、自身の年齢から考えてもはや実子は見込めないと考えた秀吉は、秀次を自身の後継者に任命して、関白職も譲った。しかし、幸か不幸かほどなく淀殿が拾を出産。こうなれば、生まれた実子に地位を譲りたいと考えるのは、秀吉のみならずこの時代の武将なら当然の思いだったであろう。ただ、秀吉のその思いはあまりにも露骨すぎた。ここから、後世に悪評を残すこととなった「秀次事件」への道を辿ることとなる。

 秀吉も最初は、拾と秀次の娘を婚約させるなど、「秀次のあと、拾の成人を待って政権移譲」といった方向で進めていた。娘婿に継承というかたちなら、秀次の面目も立ち、悪いようにはしないだろうという秀吉の考えからの融和策だったのであろう。しかし、その頃にはおそらく自分はこの世にいない・・・そう考えると、秀吉はちゃんと秀次が拾を後継者とするか、心配でいたたまれなかったのかもしれない。次第に秀吉は、自分が生きている間に拾を後継者にしたいと考えるようになった。それには、淀殿の希望もあったかもしれない。そしてその思いは、身内に優しかったはずの秀吉を豹変させた。

 そんな秀吉の思いは、当然、秀次も感じ取っていたであろう。次第に秀次は、「秀吉は自分を殺そうとしているのではないか。」という不安と猜疑心を抱き始める。結果を知る後世の私たちからみれば、この時点で秀次は自ら関白職を辞し、拾のために席を空けるべきだった。そうすれば、のちの悲劇は起こらなかったであろう。しかし、残念ながら秀次は、その地位に固執してしまった。そしてその不安と猜疑心は積もる一方で、しばしば奇行をとるようになったとされている。

 秀次の奇行については、夜な夜な町に出没して“千人斬り”と称した辻斬り行為を重ねていた・・・とか、洛中の美女を人妻であろうと見境なく拐わせて、自身の居所である聚楽第に連れ込んだ・・・とか、正親町天皇の諒闇中(喪中)にも関わらず狩り(殺生)をした・・・とか、さらには「人は生まれる前どうなっているのだ」といって妊婦の腹を無理矢理裂いた・・・とか。そしてついには、「殺生関白」という悪名が轟いたと伝えられる。しかし、この奇行話についてはどれも根拠に乏しく、後世の作り話か、当時に流布された秀次を陥れるためのデマと考える向きが多い。ただ、謀反の企てという点でいえば、まったく事実無根とも言い難いようで、秀次は独自に伊達政宗・最上義光・蒲生氏郷・徳川秀忠・山内一豊等と親交を持ち、朝鮮出兵で財政が火の車となった大名に金銭の貸付を行ってもいる。この金貸し行為が、結果として秀吉に対する謀反の根拠のひとつとなったのだが、はたして本当に謀反の企てのための融資だったのか・・・それともこれも、秀吉のこじつけだったのか・・・。

 文禄4年(1595年)7月8日、秀次は関白職を剥奪されて高野山に追放され、出家した。以降、出家した元の関白=禅閤となり、豊臣の姓から豊禅閤(ほうぜんこう)と呼ばれた。そして1週間後の7月15日、切腹して果てる。享年28歳。

 豊臣秀次、辞世。
 磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦

 秀吉の秀次に対する仕置は彼ひとりの命にとどまらず、一族すべての抹殺を命じ、秀次の死から半月後の8月2日、京都三条河原にて梟首された秀次の首の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑された。彼女たちは牛車に乗せられて市中を引き回された後、三条河原へと到着。その変わり果てた秀次の首と対面したのち、次々と惨殺されていった。戦国時代の京都三条河原といえば、処刑場の代表地ともいえる場所で、死刑執行処刑見物が日常茶飯事のことでありながら、この時の秀次妻子に対する処刑は見物人の中から卒倒・嘔吐する者が相次いだと伝えられている。彼女たちの死骸はその場に掘られた大穴に次々と放り込まれ、その上に四角推の大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めた石櫃が据えられたという。秀吉はこの塚を“畜生塚”と名付け、道行く人たちへの見せしめとしたのだった。

 この秀吉の行いは、当時の日本の倫理観社会常識に照らし合わせても悪逆無道な行為で、この秀次事件が後世に残した影響は計り知れない。この事件で数少ない豊臣一族を処刑してしまったことで、豊臣政権の弱体化を招いたことは確かであり、このとき秀次の謀反の疑いに関与していたとみられた大名たちが、総じて“関ヶ原の戦い”で徳川方に属することとなったのも事実である。わが子・拾の行く末を案ずるあまり、豊臣家の行く末が見えなくなった秀吉。今風にいえば、究極のモンスターペアレントといえるだろうか。晩年の秀吉の愚行の中でも、もっとも陰惨な結末を招いた秀次事件。「年寄りの馬鹿者ほど始末の悪いものはない。」というのは西洋のことわざだったと思うが、この時期の秀吉は、まさにその言葉どおり、始末に終えない愚か者になり下がっていた。そこには、前半生の明るい秀吉の姿は、どこにも見られなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-25 03:27 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第25話「愛の嵐」

 千利休の切腹、鶴松の死、朝鮮出兵へ始動、豊臣秀次の関白就任、お江豊臣秀勝の婚儀と、良くいえば盛りだくさんの内容、悪くいえば詰め込み感満載の今話。この天正19年(1591年)という年は、それほど豊臣秀吉にとって目まぐるしい1年だった。1月には最も信頼していた実弟・豊臣秀長を亡くし、2月には、これまた側近の補佐役だった千利休を自らの命によって切腹させ、その半年後の8月には愛息・鶴松を病で失うという、秀吉にとっては厄年のような年だった。

 千利休の切腹に関しては、前話の稿ですべて語ってしまったので、そちらをご一読いただきたい(参照:第24話「利休切腹」

 秀吉と淀殿の愛息・鶴松が死去したのは、天正19年(1591年)8月5日だったと伝わる。鶴松は生まれつき病弱だったといわれ、おそらく死因は病死だったと思われる。享年3歳。このときの秀吉の落胆ぶりは、筆舌に尽くし難いほど痛々しいものだったであろう。そもそも、50歳を過ぎても尚、子宝に恵まれなかった秀吉は、一度は実子を諦め、それゆえ多くの養子を迎え入れていた。そこに、正真正銘自身の血を引く男児が生まれたのである。秀吉が狂喜して即座に鶴松を後継者としたのは、自身の老い先を考えても当然のことだった。ただでさえ歳をとってからの子は可愛いといわれる。それが待望の第一子となれば(石松丸の件は別にして<参照:第22話「父母の肖像」>)、その溺愛ぶりは想像に余りある。そんな鶴松をわずか3歳で亡くしたのだから、そのショックは計り知れない。秀吉は死んだ鶴松のために、法名・祥雲院に因んだ祥雲寺を建て、剃髪し、木像を彫り、細川幽斎とともに亡き愛児を偲ぶ歌を幾つも作った。一般には、この悲しみを紛らわすために、無謀な朝鮮出兵に走ったといわれるほどである。秀吉は、鶴松の死の直後に肥前名護屋城を築き、着々と朝鮮出兵を始めとする外征に専念するようになった。

 この時代、5人中3人は成人することなく死んだといわれ、幼児の死は珍しい話でも何でもなく、鶴松の夭逝は、特に不幸な出来事というわけではなかったのだが、鶴松の死後に始まった「文禄の役」が、この翌々年の秀頼の誕生から和議に向かったことを思えば、鶴松という一人の幼児の死が、外征と内政に与えた影響は決して小さくない。鶴松の死は、豊臣家のみにとっての不幸ではなく、日本の不幸だったといえるかもしれない。

 鶴松の死の時点で55歳だった秀吉は、もはや実子は望めぬと考え、同年12月、甥の豊臣秀次を家督相続の後継者として養子に迎え入れ、関白職を譲った。そして自身は関白の父として太閤と呼ばれるようになる。しかし、そのことによってのちに秀次は、不幸な道を辿ることになる。たった3年間の短い生涯だった鶴松。3年間しか生きていない彼が、歴史上に何かを残したということは当然ないが、彼が生まれたことによって歴史は大きく動いた。たった3年間という短い生涯で、これほど歴史に大きく関わった人物は他にいないだろう。少々大袈裟にいえば、彼はそのために生まれてきたのかもしれない。そう考えれば、人の人生というものは長さではない・・・と、つくづく感じさせられる。

 お江豊臣秀勝の結婚の時期は、鶴松の死後の文禄元年(1592年)という説と、天正14年(1586年)という説があるらしい。前述の説でいえば、同年3月には第一次朝鮮出兵が始まり、秀勝も8千人の将兵を率いて出陣しているので、二人の新婚生活は1ヵ月ほどだったということになる。後述の説でいえば、お江は前夫の佐治一成離縁させられた直後のこととなるが、秀勝が秀吉の養子となった年でもあり、二人の間に女児が生まれていることを思えば、たった1ヵ月の夫婦生活より、6年間連れ添ったと考えるほうが、自然だと思うのだが、いかがなものだろう(といっても、お江が女児を出産したのは、秀勝の死の前後といわれ、文禄元年説でも一応はつじつまが合うのだが)。むしろ、佐治一成と離縁してから8年間も、秀吉がお江を放っておいたというほうが不自然なように思うのだが・・・。

 ドラマでは、文禄元年説をとっている。となれば、1度目の結婚生活と同じく短い結婚生活で終わることになる。しかも今回は、1度目以上に辛い終焉となる。


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by sakanoueno-kumo | 2011-07-04 02:50 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(4)  

天地人 第33話「五人の兼続」

 五大老、五奉行制。当時はこのような呼び名は存在せず、後の江戸時代になって作られた名称だそうである。豊臣秀吉の死後、息子・秀頼を五人の大老が補佐し、合議制をとることにより徳川家康の台頭を防ごうという考えのもとに布かれた制度。もっとも、これは生前の秀吉本人が己亡きあとの豊臣家の行く末を案じ設置したものという見方が一般的。百歩譲って三成が進言したというシナリオまではあってもいいけど、兼続の発案のような展開は少々やりすぎのような気もする。

 晩年の秀吉の愚行の中で、朝鮮出兵、千利休切腹に並んで悪名の高い豊臣秀次とその一族の処刑。秀次は秀吉の姉・ともと木下弥助の間の長男で、秀吉の嫡男・鶴松が死去したため、実子への世襲をあきらめた秀吉が後継者として養子にし、関白職を譲った。しかし、ほどなく秀吉に再び実子拾(ひろい)・後の秀頼が誕生。その後は小早川秀秋と同様、秀吉から疎んじられるようになり、そして文禄4年(1595年)、謀反の嫌疑をかけられ、切腹する。享年28歳。さらにその半月後には京の三条河原において、秀次の首が据えられた塚の前で遺児や正室、側室、侍女ら総勢39名が斬首された。

 豊臣秀次という人物も小早川秀秋と同様、無能な人物に描かれることが多い。しかし、彼の大きな失敗は家康と戦った小牧・長久手の戦いによる敗戦の一度だけであり、武将としての彼の評価を下げるには酷。人物としても、嗜好殺人などの非人道的行為を繰り返したとも言われ、「殺生関白」という異名は有名なところだが、これも後に出来た作り話とする見方が強い。ただ、関白という位は身の丈に合わなかったというのが正しい見方かもしれない。いずれにしても悲しい運命を背負わされた人物であるには違いないし、秀次を死に追いやったことが、豊臣政権の力を弱める結果になったことも否めない。

 秀次事件の責めを石田三成に向ける徳川家康に対し上杉景勝が言った言葉。
「治部少輔は太閤殿下の家臣。主の責めを家臣に問うのは見当違いも甚だしい。」
 部下の責めは上司の責任。しかし上司の責めは部下の責任ではない。こんな当たり前の道理が、私たちの社会では為されていない姿を目にすることが多い。私も部下を持つ身。三成のような苦悩を部下に負わせないようにせねば・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2009-08-17 00:35 | 天地人 | Comments(0)  

天地人 第32話「世継ぎの運命(さだめ)」

 旅行をしていたため、エントリーが遅くなってしまいました。

 文禄2年(1593年)、太閤秀吉の新たな実子が誕生する。名を拾(ひろい)、後の豊臣秀頼である。秀頼自身、後に数奇な運命をたどることになるのだが、彼が生まれたことによって運命が大きく変わってしまった二人の人物。秀吉より関白の座を譲り受けた豊臣秀次と、幼いころより秀吉の養子として育った豊臣秀俊、後の小早川秀秋である。

 今回は小早川秀秋について。北政所の実兄・木下家定の五男として生を受けた彼は、天正13年(1585年)かぞえ4歳のときに秀吉の養子となる。その後病死した秀吉の実弟・秀勝の領地・丹波亀山10万石を与えられ、秀頼が誕生する1年前には従三位・権中納言の位も与えられた。しかし今話でもあったとおり、秀頼が誕生した1年後の文禄2年(1594年)、秀吉の命にて小早川隆景の養子として小早川家に入ることとなる。そして紆余曲折があった後、あの慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、キャスティングボートを握ることとなるのである。

 この小早川秀秋という人物。歴史小説やドラマなどでは愚鈍に描かれることが多い。優柔不断な性格で信頼できる家臣もおらず、戸惑ってばかりの印象が強い。しかし本当のところはどうだったのだろう。関ヶ原の戦い以前には、朝鮮の役や蔚山城の戦いなどで数々の武功も上げている。彼の後世に残る印象は多分に「関ヶ原の戦いにおける裏切り行為」のただ1点から来るものではないだろうか。歴史の「もしも」があるなら、「もしも秀頼が誕生しなかったら・・・」という設定の彼を見てみたいものである。しかしながら今回の秀秋も、上地雄輔君のキャスティングから想像すれば、おそらく今までどおりのキャラなのだろう。(上地君ゴメンナサイ。)

 養子に行きたくないと訴える秀秋に対して、自分も上杉の養子だったとして語る景勝。
「さりながら、それを受け入れ乗り越えるもまた侍の道。」
「今の私があるのは、己の運命(さだめ)を受け入れたからにございます。」
「運命(さだめ)には、抗えぬもの。」

 小早川秀秋の運命。豊臣秀次の運命。そして豊臣秀頼の運命。抗えない運命とは、いつどこで与えられるものなのだろうか?生まれ持ったものなのだろうか?運命を受け入れ乗り越えることが人の道ならば、それが出来る者だけが幸せになれるのだろうか?そんなことを感じた言葉だった。

 運命(さだめ)を受け入れ乗り越えられる、強い心が欲しいと願う私である。



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by sakanoueno-kumo | 2009-08-14 03:24 | 天地人 | Comments(0)