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真田丸 第25話「離別」 ~豊臣秀長、鶴松の死、千利休の切腹~

e0158128_19071167.jpg小田原征伐を終えて天下統一を成し遂げた翌年の天正19年(1591年)、豊臣秀吉の身の回りを立て続けに不幸が襲います。1月には最も信頼していた実弟・豊臣秀長を亡くし、2月には、これまた側近中の側近だった千利休を自らの命によって切腹させるに至り、その半年後の8月には愛息・鶴松を病で失うという、秀吉にとっては厄年のような年となります。

 秀長が病没したのは1月22日。温厚篤実な人物だったと伝わる秀長は、秀吉の数少ない一族のナンバー2として、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から兄の片腕として働き、秀吉が天下人となってからは、から豊臣政権を支えました。そんな秀長を、秀吉は誰よりも信頼していたといい、まさに、「縁の下の力持ち」という言葉が相応しい人物だったといいます。その秀長を失ったことで、秀吉はブレーキが効かなくなった車のように暴走し始めます。その手始めが、千利休の切腹だった・・・というのが、これまでの一般的な描かれ方でした。

e0158128_19072829.jpg 秀吉が利休を切腹させたことは歴史上の事実ですが、その理由については定かではなく、これまで小説やドラマなどで描かれてきた設定も、すべて作家さんの想像の世界です。一般的には、朝鮮出兵に強硬に反対したため・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、紫野大徳寺の山門に置かれた利休等身大の休像が秀吉の逆鱗にふれた・・・といった描かれ方が多かったと思いますが、今回のドラマでは、小田原城攻めにおいて利休が豊臣軍、北条軍の双方に弾薬を売りつけていたことが露見するという設定でした。

「いくさは儲かりまっせ。」

 いわゆる「死の商人」ってやつですね。今も昔も、戦争を食い物にする営利団体がいる限り、戦いは世の中から消えません。今回、それを利休にやらせていたのは斬新でした。実際、堺の商家の出といわれる利休ですから、ない話ではありません。悟りを開いた高僧のようなキャラに描かれることの多い利休ですが、実は、それらの人物像というのは、すべて後世の虚像に過ぎません。今回のダーティー利休、あながち的外れでもないかもしれません。

また、利休を切腹に追いやったのは、利休をはじめ堺の商人の力を失墜させようという石田三成大谷吉継策謀という設定。これも秀逸でしたね。実際、利休の豊臣政権への影響力を、三成ら吏僚たちは苦々しく思っていたといいますから、これも、ない話ではないように思えます。それも、積極的に利休を追い込んだのは三成ではなく、吉継だったというのも面白かった。冷徹なキャラで描かれることの多い三成ですが、今回のドラマでは、加藤清正福島正則の誘いに応じて水垢離に付き合ったりと、ときおり人間味が見え隠れします。

e0158128_19074758.jpg そして同じ年の8月5日、秀吉と淀殿の愛息・鶴松が死去します。鶴松は生まれつき虚弱で床に伏すことが多かったといわれ、日本一権力を持つモンスターペアレントの秀吉は、天下の名医をかき集めて治療にあたらせ、全国の寺社に祈祷を命じますが、その甲斐むなしく、わずか2年2ヵ月の生涯を閉じます。このときの秀吉の落胆ぶりは傍目にも痛々しいもので、一説には、この悲しみを紛らわすために、無謀な朝鮮出兵に走ったともいわれます。実際、鶴松の死の直後すぐに肥前名護屋城を築き、着々と朝鮮出兵を始めとする外征に専念するようになっていきます。悲しさを紛らわすために無理矢理仕事に没頭する・・・。同じ男としてわかるような気がしますね。

 この時代、5人中3人は成人することなく死んだといわれますから、鶴松の夭逝は決して珍しい話ではありませんでしたが、鶴松の死後に始まった「文禄の役」が、この翌々年の秀頼の誕生から和議に向かったことを思えば、鶴松という一人の幼児の死が、外征と内政に与えた影響は決して小さくありません。鶴松の死は、豊臣家にとっての不幸であるとともに、日本の不幸だったといえるかもしれません。わずか2年2ヵ月しか生きていない鶴松自身が、歴史上に何かを残したということは当然ありませんが、彼が生まれたことによって歴史が大きく動いたことは間違いなく、日本史上に大きな存在感を残しました。人生というのは、つくづく長さじゃないんですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-27 19:09 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

ひと通り城跡内を歩いたので、次は中堀の外を散策します。

まずは、鉄御門を出た南側にある「三の丸緑地」

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現在は、市民憩いの場となっています。

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三の丸緑地から道路を挟んで東側にある「柳御門跡」

ここも石垣は「野面積み」ですね。

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石垣と押しボタン信号のミスマッチです(笑)。

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大和郡山市役所前の「中堀跡」

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そこから更に東へ進むと、「外堀跡」「外堀緑地公園」として整備されています。

写真はその南門

かつて郡山城の外堀は、惣構として九条町大門、鍛冶町大門、高田町大門、柳町大門の4つの大門を通じて出入りをしていましたが、この南門は、柳町大門をイメージして再現されたものだそうです。

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その外堀公園に設置されていた城下町MAPです。

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外堀を普請したのは、豊臣秀長の死後、文禄4年(1595年)に20万石で入部した増田長盛でした。

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この頃には約1万人の家臣が城下に集中し、武家屋敷も多くなり、城下町では商工業が発達するなど、外堀で城下全体を囲む惣構の必要が生じていました。

そこで長盛は、秋篠川の付け替えや溜池をつないで、周囲が50町13間(約5.5km)の外堀を完成させます。

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外堀のほとんどは素掘りで、中堀や内堀のように石垣は積まれなかったようですが、掘削した土を堀の内側に積み上げて土塁を作り、防御壁としました。

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それらの説明板です。

赤いTシャツを着たわたしが映っています(笑)。

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城下町には、箱本十三町と書かれた説明板とMAPが各所に設置されていました。

天正13年(1585年)に入城した豊臣秀長は、城下町の繁栄のため、奈良や堺の商人たちを郡山に呼び寄せ、地租免除などの特権を与えて箱本制度という自治組織を作りました。

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城下町に復元された「火見櫓」です。

延宝8年(1680年)、郡山で大規模な火災があり、町屋670軒あまりが焼失しました。
貞享3年(1696年)、当時の藩主・
本多忠平が、この延宝の大火」を教訓として城下町の防火進めるために、堺町、本町、柳5丁目、今井町に火見櫓を建てました。

城下町を描いた町割図という絵図には堺町の火見櫓が描かれているそうです。

建物の屋上に四角い望楼を高く建てて、四方に窓を開けたもので、17町が交代で見張りを行っていたそうです。

さて、シリーズ6まで続いた郡山城シリーズですが、ひとまずこれで終わりとします。

この日は2015年8月8日の夏真っ盛りの猛暑日で、汗だくになって歩きまわりました。

郡山城は桜の名所だと聞きますから、今度は春に訪れてみたいですね。




大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-26 23:12 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

大和国、郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」

だいぶん前になりますが、奈良県は大和郡山市にある郡山城を訪れました。

「郡山城」という名称の城は全国に複数あって混同しがちなので、便宜上ここを大和郡山城と呼んだりしますが、正式名称は郡山城です。

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郡山城の築城は天正8年(1580年)、筒井順慶が筒井から郡山に移ったときに始められ、天正11年(1583年)には天守閣が完成。

その後、天正13年(1585年)8月に、豊臣秀吉の実弟・豊臣秀長が入城。

秀長は紀伊国、和泉国、大和国の3カ国百万石の太守・大納言として、城の拡張工事を行いました。

現在のこる石垣などの遺構は、秀長時代のものだそうです。

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城跡公園北東の角にある「桜御門跡」です。

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時代を感じさせる「野面積み」ですね。

「野面積み」とは、自然石をそのまま積み上げる手法で、加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないので、隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありましたが、逆に隙間があるおかげで排水性が良く頑丈でした。

主に関ヶ原の戦い以前の16世紀の城に用いられた手法です。

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城跡の東の堀に沿って近鉄橿原線が走っていて、そこから堀を挟んで「東隅櫓」が見えます。

全国金魚すくい選手権大会があるようです(笑)。

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南東の角にある「鉄御門」から城跡公園内に入ります。

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こちらの石垣も同じく野面積みです。

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まずは内堀に沿って歩いてみました。

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鉄御門跡から西へ進んだところにある「表門跡」です。

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道は石畳に整備されており、車の通行も可能です。

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本丸南西にある「中仕切門跡」です。

枡形虎口となっています。

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そのすぐ西側にある「松蔭門跡」

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ここに「松蔭郭」という曲輪があったようです。

松蔭門の北側にある松蔭池に面する石垣です。

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この石垣は、「打込み矧ぎ」に見えますね。

「打込み矧ぎ」とは、表面に出る石の角や面をたたき、平たくして石の接合面の隙間を減らして積み上げる方法で、主に関ヶ原の戦い以後に用いられた手法です。

ここは、秀長時代のものではないのかもしれません。

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更に西へ進んで「西御門跡」

ここは奈良県立郡山高校城内学舎の校門にあたります。

郡山高校といえば、かつて甲子園の常連校だった高校ですね。

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さて、次回は門の中に入ります。



大和国、郡山城跡を歩く。 その2 「天守台」

大和国、郡山城跡を歩く。 その3 「本丸(法印郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その4 「本丸(毘沙門郭)」

大和国、郡山城跡を歩く。 その5 「本丸(主郭)」
大和国、郡山城跡を歩く。 その6 「三の丸・外堀」

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by sakanoueno-kumo | 2016-05-12 00:49 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第24話「利休切腹」

 天正19年(1591年)1月22日、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が病没した。秀長は、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代から兄の片腕として働き、秀吉が天下人となってからは、陰から豊臣政権を支えた。そんな秀長を、秀吉は誰よりも信頼していたという。まさに、「縁の下の力持ち」という言葉が相応しい人物だった。秀長は兄以上に千利休との親交も深く、「公儀のことは秀長、内々のことは宗易(利休)」という言葉からも伺えるように、豊臣政権下、豊臣秀長と千利休はまさに豊臣政権という車の両輪だった。特に秀長の場合、ときにはブレーキ役でもあっただろう。そんな秀長の死に伴って、豊臣政権の両輪補佐体制は崩壊、同時にブレーキも失った車は、暴走し始める。

 ドラマでは、秀長の死によって秀吉の愛児・鶴松の病が治ったという話になっていたが、史料によれば鶴松が病になったのは秀長の死の翌月、閏1月3日となっている。鶴松は生まれつき虚弱で、床に伏すことが多かったとか。ただ、このときの病状はよほど深刻だったようで、秀吉は寺社に祈祷を命じ、自らも紫野大徳寺へ参詣している。そのとき、ドラマで石田三成がいっていた、利休の等身大の休像を見つけた。木像は山門の上から見下ろすように置かれており、これに激怒した秀吉は、利休に蟄居を命じた。そして2月28日、秀吉の命により利休は切腹する。享年69歳。その首は、大徳寺山門から引き摺り下ろされて磔にされた木像に踏ませる形で晒されたと伝わる。

 利休が切腹の前日に詠んだといわれる辞世の句。
 人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
 意味は・・・難しくて私にはわからない(苦笑)。

 豊臣秀吉が千利休を切腹させたことは歴史上の事実として、過去、多くの小説やドラマで描かれてきた。しかし、その理由については定かではなく、すべては作家独自の想像の世界である。というのも、利休という人物が注目され始めたのは意外にも最近のことで、昭和11年に海音寺潮五郎氏が直木賞を受賞した作品、『天正女合戦』の中で、初めて秀吉との関係が描かれたそうである。現在では、千利休=芸術界の巨人という認識は常識だが、海音寺氏が発掘する以前は、単なる茶坊主としか見られていなかったらしい。この『天正女合戦』の構想をさらに発展させた作品が、昭和15年に刊行された同氏の『茶道太閤記』という作品で、これは秀吉と利休の対立を中心に描かれた物語だそうだが、この作品の連載当時には、「国民的英雄の豊臣秀吉と一茶坊主の千利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が多く寄せられたらしい。「千利休英雄説」が定着するまでには、それなりの困難があったようである。

 海音寺氏によって描かれた秀吉と利休の対立の構図は、その後、今東光氏の『お吟さま』野上彌生子氏の『秀吉と利休』井上靖氏の『本覚坊遺文』など、多くの一流作家の作品に継承され、描かれてきた。その中でも、秀吉が利休に切腹を言い渡した理由については様々で、既述した大徳寺木像事件や、二人の茶道に対する考え方の違いからの確執・・・とか、利休が安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やしているという疑い・・・とか、利休の政治介入を快く思っていなかった石田三成の陰謀・・・など、どの説にもそれなりの信憑性はあるが、どれも決定力に欠ける。のちの朝鮮出兵豊臣秀次を切腹させた秀吉の愚行からみて、利休の切腹が秀吉の狂気の狼煙のように描かれる場合が多いが、はたしてそうだったのだろうか。秀長の死から2ヵ月余りで、もうひとりの補佐役であったはずの利休を死罪に追いやるには、もっと重大な、死罪に値する理由があったのでは・・・と考えたりもする(たとえば、予てから秀吉に憤懣を抱いていた利休が、秀長が死んだことによって豊臣政権を見限り、諸大名を扇動して謀反を企てていた・・・とか)。利休の切腹は秀吉の狂気だったのか、はたまた、やむを得ない死罪だったのかは今となってはわからないが、いずれにしても、秀長と利休という両輪を短期間で失った秀吉は、孤独な独裁者となっていった。

 「甘いことしか言わん者より、耳に痛いことを言うてくれる者を、信じるんじゃぞ・・・」
 秀長が死に際にいった忠告は、秀吉には届かなかった。いや、届いていたけど、秀吉の関白としての意地が、それを許さなかったのかもしれない。人間、歳をとればとるほど、上にいけばいくほど、耳に痛いことをいってくれる者はいなくなる。それは、現代に生きる私たちとて同じである。利休の死を最も惜しんだのは、切腹を命じた秀吉自身だったのではないだろうか。


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by sakanoueno-kumo | 2011-06-30 01:18 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(8)  

天地人 第30話「女たちの上洛」

 天下人となった秀吉の愚行は数々あるが、その中でも朝鮮出兵と並んで最も不評なのが、この千利休を死に追いやった行い。秀吉は貿易の利益を独占するため、堺に対し重税をかけるなど圧力を加え、独立の象徴だった壕を埋めてしまう。堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は疎ましく思い始める。茶の湯に部分でも、秀吉が愛した「黄金の茶室」は、利休が愛する木と土の素朴な草庵とは対照的。そんな利休との思想的対立が深まっていく。本物語では省略されていたが、利休が切腹を命じられる約1カ月ほど前に、秀吉の最も信頼する弟、秀長が病死している。秀長は秀吉以上に利休を重用していた。利休と秀吉とを結ぶ太いパイプを失ったわけである。

「頭を下げてでも守らねばならぬものがある」と、景勝。
「頭を下げれば守れぬものもございます。」と、利休。
どちらも強い意志から出た「心の言葉」である。

「頭を下げてでも守らねばならぬもの」とはいったいどんなものだろう。
それは愛する家族や恋人、経営者であれば従業員・・・・つまり、「人」である。
それでは「頭を下げれば守れぬもの」とはいったいどういうものか。
それは、信念やこだわり、己の培ってきた道など・・・・つまり、「自分」である。
国主である景勝と茶人である利休。それぞれのおかれた立場から出た「心の言葉」である。

 私たちの社会において、「頭を下げてでも守らねばならぬもの」は、大人であれば大なり小なり背負っているもの。しかし、「頭を下げれば守れぬもの」は、大人になるにしたがって、失ってしまうことが多いのではないだろうか。
 非業の最期を遂げた千利休。しかし、生涯「自分」を守り続けることが出来た彼は、秀吉より幸せだったかもしれない。



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by sakanoueno-kumo | 2009-07-27 01:58 | 天地人 | Trackback | Comments(0)