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大坂の陣401年記念ゆかりの地めぐり その41 ~豊臣秀頼首塚(清涼寺)~

約1年前、「大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり」と題して、40回に渡って大坂の陣関連史跡を紹介しましたが、今年、どうしてもシリーズに加えたい史跡を訪れる機会があり、大坂の陣401年目ではありますが、稿を起こしました。

その史跡とは、右大臣・豊臣秀頼首塚

京都市右京区嵯峨の清凉寺にあります。


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今年の秋、別の目的で嵐山界隈を訪れたのですが、目的地に駐車場がなかったため、たまたま近くにあった清凉寺の駐車場に車を停め、同寺の境内を通ったところ、何かの石碑が目に入り近づいたところ・・・。


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「秀頼公首塚」と刻まれています。

「秀頼」って、あの秀頼?

大坂城と共に散った秀頼の首塚が、なんで嵐山に?

そもそも、秀頼の首って城とともに灰になったんじゃないの?

・・・などと考えを巡らせながらスマホでググってみると、たしかにあの豊臣秀頼の首塚でした。


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ウィキペディア情報によると、昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見されたそうで、骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので、顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認されたそうで、年齢や骨から類推する体格から、秀頼のものではないかと推測されたのだとか。

その後、昭和58年(1983年)に、この地に埋葬されたそうです。

ぜんぜん知りませんでした。
でも、それだけの情報で秀頼の骨と断定するのは、いささか無理がある気もしますけどね。

20代の体格のいい武者など数多くいたでしょうし、仮に本当に秀頼の遺骨と知って埋葬されたのであれば、記録が残っていないはずがないんじゃないかと・・・。

そういうツッコミを入れるのは無粋かもしれませんが。


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傍らには、「大坂の陣諸霊供養碑」と刻まれた石碑があります。


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一方で、秀頼には俗説として生存説も数多く存在します。

有名なものとしては、秀頼は肥後熊本藩主の加藤家、もしくは大叔父の織田長益(有楽斎)の用意した舟の船倉に潜んで徳川方の追及をかわし、真田信繁(幸村)と共に薩摩国谷山に逃れたという説。

しかし、谷山では大酒を呑んでは暴れるため、領民には嫌われていたとか。

のちに秀頼が生存していることを幕府に訴え出た者がいたそうですが、「秀頼はもはや死んだも同然」ということで、不問に付されたと伝えられます。

また、秀頼が地元の女性との間に谷村与三郎という男子をもうけたとか、真田信繁(幸村)も鹿児島県頴娃町に隠れ住んだなどともいわれています。

現在、鹿児島市のJR指宿枕崎線谷山駅の近くに、秀頼のものと伝えられる墓碑があるそうです。

また、他の説としては、日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号して45歳まで生きたという異説も残っています。

いずれも、信憑性に乏しい俗説ですけどね。


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上の写真は、大坂城山里丸に建つ、「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の碑」です。

わずか21年の生涯のなかで、徳川家康との二条城会見のとき以外、大坂城の外に出ることは皆無だったといわれる秀頼。

その秀頼の墓が、大坂城から遠くはなれた嵐山の地にあるというのは、少し違和感を覚えなくもないです。

360年以上大坂城内に眠っていたのだから、そのまま城内に埋葬してあげられなかったのかなあと・・・。

なんとなく、居心地が悪そうに思えました。


以上、豊臣秀頼没後401年目に立ち寄った、秀頼首塚でした。




「大坂夏の陣ゆかりの地」シリーズの、他の稿はこちらから。

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大坂夏の陣ゆかりの地



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-15 15:25 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(2)  

真田丸 第38話「昌幸」 ~二条城会見と真田昌幸の死~

e0158128_18432594.jpg 真田昌幸・信繁父子が紀伊国九度山村に流された慶長5年(1600年)12月から、昌幸が死去する慶長16年(1611年)6月までの約10年余りが一気に描かれましたね。この間、征夷大将軍となった徳川家康は江戸に幕府を開き、その2年後には息子の徳川秀忠に将軍の座を譲り、徳川政権の盤石化を図りました。一方で、慶長8年(1603年)にはわずか7歳の孫娘・千姫を大坂の豊臣秀頼に嫁がせ、旧主である豊臣家との関係が良好であること世間に知らしめます。一般に、関ケ原の戦い後すぐに家康は豊臣家を滅ぼすつもりだったように思われがちですが、決してそうではなかったことがわかります。


e0158128_18385012.jpg その家康に豊臣家を滅ぼす決意をさせたのが、慶長16年(1611年)3月38日に行われた家康と秀頼の二条城における会見だったと描かれることが多いですよね。成長した秀頼の器量の大きさとわが息子・秀忠の凡庸さを比較し、秀頼を殺す決意を固めた・・・と。この話自体は後世の創作ですが、たしかに、この二条城会見を境に家康が豊臣家滅亡への謀略をはじめたのは事実で、このとき、家康に何らかの意識変化があったのかもしれません。何よりこの会見に随伴した加藤清正、浅野幸長、池田輝政など旧豊臣恩顧の武将たちが、会見直後にことごとく死んでいったことから、家康の差し金による暗殺説が、当時からささやかれていました。ドラマでも、清正の死去は暗殺説が採られていましたね。これは、現在では歴史家さんのあいだでは邪説とされているのですが、物語的には、そっちのほうが面白いですからね。


e0158128_02592871.jpg で、九度山村での真田父子に目を移します。蟄居生活を強いられた昌幸・信繁でしたが、罪人としての幽閉生活というほどではなく、山狩り釣りなど、高野山領内であればある程度自由に動き回れたようです。この間、信繁には子供も生まれ、ある意味、平穏で幸福な日々だったともいるかもしれません。ただ、経済的には困窮していたようで、昌幸は嫡男・信之に何度も援助金を催促する書状を送っています。くさっても五万石の大名だったわけですから、わずかな家臣を従えた貧乏暮しは、耐え難い屈辱だったでしょうね。そんななか、昌幸を唯一支えていたのは、家康から赦免されて上田に戻るという一縷の希望でした。


 昌幸は信之や浅野長政を通じて赦免嘆願を繰り返し行っています。時期は定かではありませんが、その赦免嘆願は本多正信を通じて家康の耳にまで届いていたようで、それを伝え聞いた昌幸は、「赦免される日が近いゆえ、下山したら一度お会いしたい」と、楽観視した書状を旧知の人物に送っています。しかし、家康は二度も煮え湯を飲まされた昌幸を、決して許すことはありませんでした。


 やがて赦免の希望が叶わないことを悟った昌幸は、日に日に衰えていきます。このころ書かれた書状では、すっかり気力を失った弱気な言葉がつづられ、かつての名将の面影はもはやありませんでした。そして慶長16年(1611年)、いよいよ自らの死期を悟った昌幸は、信繁を枕頭に呼び、徳川と豊臣の決戦がはじまった際の秘策を授けたと伝わります。それが、ドラマに出てきた『兵法奥義』ですね。原本は大坂城とともに灰となったと伝えられますが、実在したかどうかは定かではありません。その秘策とは、籠城戦では勝ち目がなく、積極的に討って出て勝負をかけよ、というものでした。ドラマでは、この秘策を聞いて「自分には場数が足りないので自信がない」と発言した信繁に対して、「わしの立てる策に場数などいらん。」と昌幸は言っていましたが、伝承では、この秘策も家康を二度も破った自分の意見ならば豊臣家も従うだろうが、無名の信繁では握りつぶされるであろうと予言しています。で、実際そうなるんですよね。今年の大河ドラマでは、そういった千里眼的予知能力の持ち主はまったく出てきません。そこもいいですよね。


 慶長16年(1611年)6月4日、昌幸没。享年65。真田家を近世大名までのし上げた、真田家にとってはまさに中興の祖ともいうべき人物の波乱の生涯が幕を閉じました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-26 18:46 | 真田丸 | Comments(2)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~

大坂城南外堀から500mほど南下したところにある玉造稲荷神社に、豊臣秀頼の銅像があります。
ここはかつて、豊臣時代の大坂城の三の丸にあたり、その鎮守社として、豊臣家から篤い崇敬を受けた神社でした。
戦国時代の戦火で荒廃していましたが、慶長8年(1603年)3月、秀頼により社殿が再建されたと伝えられます。

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関が原の戦い以後、豊臣家は摂津・河内・和泉3カ国65万石余の一大名に転落したといわれますが、しかし、朝廷から賜る位階官職はその後も昇進を続けており、一定の影響力を保っていました。
徳川家康の孫娘・千姫と結婚したのも、慶長8年(1603年)のことです。
家康はこの頃から、婿となった秀頼に対して、秀吉の菩提を弔って畿内一円の社寺の修理を行うように勧めました。
ここ、玉造稲荷神社の修理も、その一貫だったものと思われます。

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なんか、バカ殿様っぽい顔をしていませんか(笑)。

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家康が二条城で成人した秀頼と会見したとき、その凛々しい風貌を見て、豊臣家を滅ぼす決意をしたといいますが、このバカボン顔でそう思うかな?・・・と(笑)。

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秀頼が奉納したと言われる鳥居です。
もとは本殿正面に建っていたそうですが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災によって一部損傷を受けたため、現在は上部、脚部に分けて境内の片隅に保存されています。
400年の歴史を刻む鳥居ですね。

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秀頼公胞衣塚大明神です。
ここには、秀頼と母・淀殿を結ぶ胞衣(卵膜、胎盤など)が鎮まっているそうです。

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大坂の陣とは関係ありませんが、境内には、千利休居士顕彰碑があります。
説明板によると、かつてここの南西に、千利休の屋敷があったそうです。

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家康が秀頼に社寺の修理を進めた理由は、豊臣家に散財させて経済力を削ぐためだったといわれますが、だとすれば、千姫を嫁がせたこの頃から、すでに大坂の陣は始まっていたといえるでしょうか。
そして、その一連の修理事業をすすめるなかで、大坂の陣の銃爪となった方広寺鐘銘事件へと繋がっていくんですね。

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秀頼によって再興された玉造稲荷神社の社殿は、大坂夏の陣の際に再び焼失し、その後、元和5年(1619年)に徳川幕府によって再建されたそうです。

もうちょっと続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-22 13:43 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~

若江地区から離れますが、大阪市内の中之島公園内の美術館横にも「木邨長門守重成表忠碑」と刻まれた、でっかい石碑があります。
なぜ中之島公園内に木村重成の石碑があるかというと、かつてこの地に豊臣秀吉・秀頼・秀長を祀る豊國神社があり、その境内にこの石碑が建てられましたが、昭和36年(1961年)に神社は大坂城二の丸に移転し、この石碑だけがここに残されたそうです。

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写真ではわかりづらいですが、高さは4m以上は優にあり、奥行きも1mくらいあると思います。
たぶん、デカすぎて大坂城に移設出来なかったんじゃないでしょうか。

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豊臣秀頼の小姓として仕えた重成ですが、その父・木村重茲は、豊臣秀吉がまだ筑前守だった時代から仕え、各地の戦いで功をあげ、越前国府中12万石を与えられていました。
しかし、晩年の秀吉の悪行のひとつである秀次事件に連座して罪に問われ、摂津国茨木の大門寺において自害して果てます。
このとき、重成の兄や姉も処刑されていますが、当時3歳だった重成はなぜか罪に問われず、しばらく生母とともに近江に逃れていましたが、関ヶ原の戦い後に生母とともに大坂城に召し出されたと伝わります。
そこで、生母は宮内卿と称して秀頼付の保姆となり、重成は秀頼の小姓に挙げられました。
成人した重成は、容姿端麗にして文武の造詣深く、男子としてすべての美点を備えた人物だっとか。
秀頼の信頼も厚く、豊臣姓も与えられていました。

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この表忠碑は、旧彦根藩士で第6代大阪府知事の西村捨三という人が建てたそうですが、名だたる豊臣家の家臣のなかで、なぜ重成の碑をこの地に建てるに至ったかは、よくわかりません。
西村府知事が重成のファンだったんですかね?

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
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by sakanoueno-kumo | 2015-11-10 18:51 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~

蓮城寺から歩いてすぐの場所に、木村重成の銅像があります。
この辺りが、若江の戦いの重成本陣だったようです。

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けっこう立派な銅像なんですが、ここを探し当てるのにずいぶん苦労しました。
住宅地の間に隠れるように建っていて、上の写真の1角度のみ銅像が確認できて、少しずれると、住宅や樹木に隠れてわかりません。
結局、何度探しても見当たらず、蓮城寺の方に教えてもらうと、何度も前を歩きながら気づかなかった場所でした。

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重成は豊臣秀頼とほぼ同世代で、重成の母が秀頼の乳母を務めたことから、重成も幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれます。
秀頼の信頼が厚く、元服後には豊臣姓を与えられ、重臣として秀頼に仕えました。
主従関係とはいえ、秀頼にしてみれば、数少ない同世代の友達だったのかもしれませんね。

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大阪冬の陣の武功によってその名を広めましたが、夏の陣における若江の戦いで討死します。
前稿でも紹介しましたが、夏の陣の戦後、徳川家康が討ち取られた重成の首を検分したところ、頭髪にが焚きこめてあったので、家康はその覚悟を大いに称えたという逸話が残っています。

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奥には、重成の夫人・青柳の顕彰碑がありました。
大蔵卿局の姪と伝わる青柳は、重成討死のとき妊娠しており、戦後、近江の親族によって匿われ男児を出産し、そして、重成の一周忌を終えると20歳の若さで自害したといいます。
悲しい話です。

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副碑を見ると、この銅像は昭和7年(1932年)に建てられたそうです。
ただ、その副碑が、写真のように倒れたまま無造作に放置されていました。
蓮城寺の方のお話では、ここの地主さんが土地を売りたいと考えているそうで、銅像を蓮城寺に移設できないか、という依頼があったのだとか。
まあ、いろんな事情があるのでしょうが、80年以上ここに建っていたわけで、できればそのままにしておいて欲しいですね。
部外者が勝手なことを言うようですが・・・。

もう一回、木村重成で推します。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-06 17:29 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~

鴫野・今福古戦場の近くにある白山神社に、本多忠朝物見いちょうといわれる銀杏の大樹があると聞き、訪れました。

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現地説明看板によると、ここ白山神社は古くから中浜、鴫野、森の諸村の氏神だったそうですが、天正4年(1576年)、織田信長石山本願寺のあいだで繰り広げられた石山合戦にて社殿は兵火にかかるも、その後、慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により再建されたそうです。

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しかし、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣本多忠朝が陣を置き、再び兵火にかかったそうです。
忠朝は境内の大きな銀杏の木に登り、豊臣方の動きを偵察したと伝えられていますが、この巨樹がそれだそうです。

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この樹は大阪府が指定する天然記念物となっているそうで、たしかにたいそうな巨樹でしたが、わたしは銀杏の木の樹齢を知らないのですが、忠朝物見の木ってことは、400年前から巨樹だったってことでしょう?
じゃあ、いったこの樹はいま何歳なんでしょう?

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面白い伝承ではありますが、眉唾ものですね。

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神社はその後、元和3年(1617年)に大坂城在番城代・内藤信正によって再建されたそうです。

次回へつづく。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-18 21:02 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

天守の北側の山里口を抜けて石垣を下ったあたりを、山里丸と呼びます。
豊臣時代には、山里の風情を持つ松林などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていました。
茶会花見を楽しむ豊臣家のくつろぎの場所だったそうです。

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天正11年(1583年)に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は、翌年1月、天守よりも早く、ここで茶室完成のお披露目を行っています。
没後は遺児・豊臣秀頼によって、父・秀吉を祀る豊国社がこの場所に建てられました。

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いまでも、絢爛な天守とは異質な、閑静な風情の空間として存在しています。

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現在、この山里丸の一角に、「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」と刻まれた石碑が建っています。

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慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣によって大坂城は落城しますが、その翌日、秀頼と淀殿、そしてその側近の者たちは、ここ山里丸にあったに籠り、側近の大野治長が、秀頼の妻で徳川家康の孫でもある千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願するも、家康の容れるところとならず、結果、櫓に自ら火を放ち、自害して果てます。

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石碑は、いくつかの史料にある「朱三櫓」があったとされる場所に建てられていますが、実際には、秀頼の最期の場所がどこであったかは諸説あって、正確なことはわかっていません。
まあ、慰霊碑ですから、だいたいこの辺りだったと考えればいいのかなぁと思います。

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その後、秀頼と淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、また遺体も確認されなかったため、当時から様々な生存説が囁かれてきました。
ふたりの不死鳥伝説を以前まとめた稿がありますので、よければそちらを一読ください。
    ↓↓↓
映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その2 ~豊臣家の不死鳥伝説~
まあ、どの生存説も根拠に乏しく事実無根とみていいのでしょうが、ただ、それだけ多くの生存説を生み出した背景には、当時の庶民感情のなかに、徳川新政権への反感と、豊臣政権の復活を望む思いが、少なからず存在していたことの表れだったのでしょう。

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この日も誰かが生けた花が供えられていましたが、この碑は天守に向かう道からすこし脇道にそれた場所にあり、この日も大勢の観光客がいたにも関わらず、ここに足を運ぶ人は少なかったですね。
それが何とも寂しく、でも、目立つ場所でたくさんの観光客に囲まれるよりは、陽の当たらない場所でひっそりと静かに眠っていたいと思っているかもしれませんね。
命日はもう過ぎましたが、今年はふたりの400回忌の年です。
合掌。

あと、もう一回だけ続きます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
   ↓↓↓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-21 20:03 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~

今回は、二の丸と本丸を仕切る内堀を見ていきます。
まずは東面から。
内堀の総延長は約2.7kmで、寛永元年(1624年)の徳川幕府による再築第二期工事により、豊臣時代の本丸に盛土をほどこして石垣が築かれたそうです。
東面の石垣の高さは水面から約24mもあるそうです。

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どうです、この立派な石垣
迫力満点です。

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東側内堀の外から見た天守です。

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向こうに見えるのは、内堀北東にある極楽橋です。

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極楽橋と天守です。

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この橋は昭和40年(1965年)に再建されたものですが、天正11年(1583年)に豊臣秀吉が築城を開始したときにこの付近に架けられた橋も極楽橋と呼び、大阪夏の陣による落城後、徳川幕府による再築時にも、この場所に極楽橋が架けられました。
長さは約54m、幅は江戸時代には約8m(4間)あったそうですが、現在は約5.4mに縮小されているそうです。

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手前のミニスカートのお姉さんを狙って撮影したわけでゃないので、誤解なきよう!

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そのまま、内堀北側に進み、ほぼ真北に来ました。

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内堀北西から見た天守と石垣です。
この辺りは、天守がもっともかっこ良く撮影できるスポットとして有名です。

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ズームしました。

内堀西側は、「その3」で紹介した西の丸庭園になっており、現在は二の丸北側から入ることは出来ません。

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内堀東側の二の丸は現在梅林となっていますが、かつてここは市正曲輪と呼ばれ、豊臣秀頼の後見人として重職を担った片桐且元の屋敷があったとされています。
且元は東市正に任じられており、そこから市正曲輪と名付けられたんですね。
且元は秀吉の死後、豊臣、徳川両家のあいだに出来たを、なんとか埋めようと尽力した人ですが、いわゆる「国家安康」で有名な方広寺の鐘の件あたりから、豊臣家内部であらぬ疑いをかけられ、結果、弟の片桐貞隆とともに大坂城を脱出してしまいました。
これが結果的に、大坂冬の陣の引き金となります。

最後に、内堀南側にやって来ました。

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本丸を囲む内堀は、東・北・西は水堀となっているのに対し、南の内堀だけは、見てのとおり空堀になっています。

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現在の石垣は徳川幕府による再築工事で築かれたものですが、当初から空堀だったそうで、さらに、かつての豊臣時代の大坂城でも、南の内堀は空堀だったそうで、大坂の陣で徳川方が埋めたからではないそうです。
なぜ、ここだけ空堀なのかは不明なんだとか。
歴史の謎ですね。

さて、いよいよ本丸突入です。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-31 19:20 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その2 ~豊臣家の不死鳥伝説~

昨日の続きです。
途絶えたと思われていた豊臣家の血筋が実は脈々と生き続けていたというのが、映画『プリンセス・トヨトミ』での設定ですが、この種の伝説というのはこの映画に限ったことではなく数多く残っています。
慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の際に、豊臣秀吉の継嗣・豊臣秀頼は生母の淀殿と共に陥落する大坂城内の山里曲輪隅櫓で自刃して果てたというのはよく知られていますが、その秀頼が側室との間にもうけた嫡男・豊臣国松も、乳母と共に城を落ちるも徳川方の捜索により捕らえられ、市中引き回しのあと京の六条河原で田中六郎左衛門長宗我部盛親と共に斬首されました。
国松の年齢は不詳ですが、秀頼が文禄2年(1593年)生まれの23歳だったことから考えれば、国松は大きくとも7~8歳までだったことでしょう。
それが戦国の世のならいとはいえ、哀れな最後を遂げた幼い国松に人々の同情が集まったでしょうし、そんな酷い仕打ちをした徳川新政権が当時の庶民の反感を買ったであろうことは想像に難しくありません。

そんな背景から生まれたのか、国松の生存説が大分県日出町に残っています。
その説によれば、側近に護られた国松は薩摩国に落ち延びて島津氏に匿われたのち、豊後国日出藩に身を寄せていたとされます。
当時の日出藩主・木下延俊は、豊臣秀吉の正室・高台院の甥でした。
延俊は国松を城内で匿い、頃合いを見計らって自身の四男・木下延由(延次)として幕府に届け出たとも伝えられます。
その根拠として、延由の位牌に国松という文字が刻まれているというのですが、いかがなものでしょう。
実際の延由は、のちに5千石の旗本となっています。

他の説としては、天草四郎が国松だったという伝承もあります。
「島原の乱」は、豊臣家が起こした最後の反乱だったという面白い仮設ですが、この説についていえば、どう考えても年齢が合わないので、邪説と考えていいでしょう。
その天草四郎にもまた生存説がありますから、キリがありません(笑)。
それだけ、国松に生きていてほしいと願う当時の人々の思いから生まれた伝承だったのかもしれません。

e0158128_10592658.jpg国松の父である秀頼の生存説も数多くあります。
大坂城落城の際、秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者はおらず、死体も発見されなかったことから、当時から様々な生存説が囁かれてきました。
有名なものとしては、秀頼は肥後熊本藩主加藤家、もしくは大叔父の織田長益(有楽斎)の用意した舟の船倉に潜んで徳川方の追及をかわし、真田信繁(幸村)と共に薩摩国谷山に逃れたという説。
しかし、谷山では大酒を呑んでは暴れるため、領民には嫌われていたとか。
のちに秀頼が生存していることを幕府に訴え出た者がいたそうですが、「秀頼はもはや死んだも同然」ということで、不問に付されたと伝えられます。
また、秀頼が地元の女性との間に谷村与三郎という男子をもうけたとか、真田信繁(幸村)も鹿児島県頴娃町に隠れ住んだなどともいわれています。
現在、鹿児島市のJR指宿枕崎線谷山駅の近くに、秀頼のものと伝えられる墓碑があるそうです。
他の説としては、上述した国松の生存説と同様、日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号して45歳まで生きたという異説も残っています。

e0158128_110087.jpgその秀頼の生母・淀殿にも生存説が存在します。
大阪夏の陣に徳川方として従軍していた上野総社藩主・秋元長朝が、大坂城落城の前後に豊臣方の高い身分と思われる女性から助けを求められ、これを保護したそうです。
長朝はその女性の気品と美貌から淀殿と見抜き、秘かに居城である総社城に連れ帰りました。
長朝が徳川家に無断で淀殿を連れ帰ったのは、美女とうたわれた淀殿を自らのにしようと考えたためでした。
しかし、気位が高い淀殿は長朝の邪恋を受け入れようとしません。
結局、淀殿は最後は自ら利根川へ入水自殺を遂げたとも、業を煮やした長朝に惨殺されたともいわれています。
現在、前橋市の元景寺には淀殿のものといわれる墓碑があり、淀殿が用いたという打掛駕籠の引き戸なども保存されているそうです。

とまあ、そんな具合で豊臣家にまつわる不死鳥伝説は数多く存在するのですが、いずれも根拠に乏しく伝承の域をでません。
秀頼と淀殿の生存説は、おそらくどれも事実無根と考えて無理はないでしょう。
唯一信憑性があるとすれば、国松の生存説ですね。
おそらく当時、国松の顔を見知る者などほとんどいなかったと思いますし、豊臣方の残党が替え玉の子供を徳川方に捕らえさせた・・・あるいは、国松を取り逃がした徳川方が、その事実を隠蔽するため、替え玉を処刑して事の終結をはかった・・・などなど、どれも考えられなくもない話です。
しかし、国松を匿うという行為は徳川家に背くということで、そこまでのリスクを背負ってまで国松を匿う義理が、秀頼と淀殿の落命後にあったかといえば、甚だ疑問ではありますけどね。
いずれにせよ、これだけ多くの不死鳥伝説が存在することからみるに、当時の庶民感情の中に、徳川新政権への反感と、豊臣政権の復活を望む声が、少なからず存在していたことの表れだと思います。
国松の生存説は、そんな人々の希望だったのかもしれません。
そう考えれば、映画『プリンセス・トヨトミ 』の中で400年豊臣家の血筋を守り続けてきた「大阪国」の国民たちの思いは、あながち的外れではないのかもしれませんね。
ひょっとしたら、私たちの知らないところで「大阪国」は存在するかもしれませんよ(笑)。

映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その1 ~荒唐無稽とはいえない「大阪国」~


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-18 17:00 | 映画・小説・漫画 | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第44話「江戸城騒乱」

 豊臣秀頼と正室・千姫の間に子供はいなかったが、秀頼は側室・伊茶との間に一男一女をもうけていた。慶長13年(1608年)生まれの長男は名を国松といい(偶然か否か徳川秀忠お江の間に生まれた次男と同名で、歳も近いのでややこしい)、慶長14年(1609年)生まれの長女は、名を奈阿姫という(彼女は別の側室・小石の方の生んだ子という説も)。もっとも、この二人の存在は淀殿をはじめ、ごく一部の者しか知らされていなかったようで、正室の千姫も大坂冬の陣以前は二人の存在を知らなかったともいわれる。慶長8年(1603年)、数えの7歳で秀頼のもとに輿入れした千姫は国松が生まれたときでもまだ13歳。側室や子供の存在を知らされてなかったとしても、頷ける話である。

 といっても秀頼と千姫が形だけの夫婦だったわけでもなさそうで、子供が生まれなかっただけで、仲睦まじい夫婦だったといわれている。千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式「鬢削(びんそぎ)」を千姫にしている姿を侍女が目撃した、という逸話も残されている。考えてみれば、秀頼は11歳から23歳、千姫は7歳から19歳までを二人で共に過ごしたわけで、その関係は夫婦というより幼馴染兄妹のようなもので、特に千姫にとっては徳川家で母・お江と共に過ごした日々よりはるかに長く、ほぼ人生の全てといってもいいほど。19歳の千姫にとっては、秀頼はかけがえのない存在だっただろう。

 そんな秀頼が大坂夏の陣自刃し、千姫は徳川方に救出されて生き延びることとなった。彼女自身が生きる道を望んだかどうかはわからないが、正室としてその最期を共にで出来なかったことに、きっと罪悪感を感じたことだろう。秀頼落命後、その長男・国松は徳川方に捕らえられ、市中引き回しのすえ斬首されたが(享年8歳)、長女の奈阿姫は千姫の懸命な助命嘆願が功を奏し、出家して子を残さないことを条件に生を許される。この当時、男子は父親のもの、女子は母親のものという考え方があった。父の正室のことを嫡母といい、秀頼の正室である千姫は奈阿姫の嫡母。その嫡母の千姫が母親代わりとなることを主張されれば、秀忠らも許さざるを得なかっただろうと想像する。当然、淀殿の孫で織田家浅井家の血を引く奈阿姫の助命は、お江も切望するところだったに違いない。

 その後、しばらくの間千姫と共に過ごした奈阿姫だったが、翌年に千姫が本多忠刻のもとに再び輿入れすると、彼女は相模鎌倉の東慶寺での修行生活に入り、天秀尼と名乗った。東慶寺は臨済宗の尼寺で、弘安8年(1285年)に覚山志道尼が開山した格式高い尼寺だった。そんな天秀尼と東慶寺に、その後も千姫は色々と庇護を加えたという。のちに天秀尼は第20世の住持(住職)となり、東慶寺の発展に功績を残す。東慶寺は離婚を希望する女性の駆込寺としても有名だが、千姫の庇護を受けていた天秀尼は江戸幕府と交渉しつつ、寺法の整備不幸な女性の保護に尽力した。しかし、出家した尼であるため生涯結婚することなく、正保2年(1645年)に37歳の若さで病没する。彼女の死によって、豊臣秀吉の直系は断絶した。長く母親がわりをつとめた千姫は、天秀尼病没の報に接して、きっと嘆き悲しんだことだろう。

 20歳で本多忠刻と再婚した千姫は、一男一女をもうけ束の間の幸せを取り戻したものの、千姫30歳のときに忠刻が病没して再び未亡人に。同じ年、実母であるお江も病没するなど不幸が続き、娘の勝姫と共に本多家を出て江戸城に入る。江戸にもどった千姫は落飾して天寿院と号し、弟の三代将軍徳川家光を陰から支えながら、70歳までの長い余生を竹橋の邸で静かに送った。

 織田家徳川家の血を引き、豊臣家と契りを結んだ戦国最期の姫君・千姫。その長い人生の最期を迎えたとき、半世紀以上前の秀頼との生活を顧みて何を思っただろうか。残念ながら彼女の心を後世に伝えるものは、何も残されていない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-16 11:56 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)