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太平記を歩く。 その73 「苔縄城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

前稿で紹介した白旗城から千種川を挟んで西へ3kmほど離れたところに、標高411m愛宕山があるのですが、この山上が白旗城と同じく赤松氏の拠点だった苔縄城があった場所だと伝えられます。


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登城口は、いまは廃校となっている旧赤松小学校の敷地裏にあります。


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駐車スペースにあった案内板。

愛宕山への登山道は、「苔縄ふれあいの森」と名付けられたハイキングコースになっているようです。


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旧小学校敷地内にあった案内板。


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入山するとすぐに、防獣柵があります。

ここを開けて中に入り、登山道を進みます。


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道中は各所に誘導板が設置されていて、迷うことはありません。


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所々に休憩所が設けられています。


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道中、石塔のようなものを見つけたのですが、よく見ると、上に乗っかっているのは首のない地蔵のようです。


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台座には、『寛政四子七月日』と刻まれています。


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首なし地蔵を過ぎると、傾いた鳥居があります。


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鳥居を抜けると、展望台が見えます。


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展望台付近に石垣跡のようなものがあったのですが、よく見ると石が新しく、たぶん、城跡とは関係ないでしょうね。


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ただ、展望台が設置されている場所は急斜面に突然あらわれた平坦地で、あるいは、ここに曲輪のようなものがあったのではないでしょうか。


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説明板です。

苔縄城は(伝)となっていますね。

ここが苔縄城だったという確証は得られていないようです。


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左端の山が説明板に解説されていた、展望台から見た白旗城です。
下はその拡大。


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『太平記』によると、苔縄城の城主は赤松則村(円心)とあります。

円心は大塔宮護良親王の令旨を持って都から帰った子・赤松則祐の勧めで、一族に奮起を促し、「赤松城に集まる」ように伝えたといわれますが、その赤松城というのが、かつては「その30」で紹介した神戸大学キャンパス敷地内との説もありましたが、現在ではここ苔縄城と考えられています。

しかし、『播磨鑑』では「赤松円心の三男・則祐は元徳3年(1331年)に大塔宮の令旨を受けて、ここに城を築き、義兵を挙げて軍功があり、領国安穏であった」と記されているそうで、初代城主を則祐としています。

また別説として「城主ハ伊豆守祖妙善入道トモ」、あるいは「一説、則祐感状山ニ居住ノ後、又、此城ヲ築キ居ス」、さらに「子息義房其譲ヲ受ケテ居住ス」など、さまざまな記述があるようですが、初代城主は円心と考えるのが正しいとされているそうです。


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東側山麓に千種川が流れ、自然の要害をなしています。


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南側の眺望です。


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真南に見える山の山頂は、同じく赤松氏の拠点・駒山城があった場所です。


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拡大です。

ここも後日足を運びましたので、別の稿で紹介します。


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さて、ここから山頂に向けて登山、といきたかったのですが、ここを訪れたのは初夏で、ここからの道中は見てのとおりシダが生い茂っており、マムシが怖いので登山はここで断念しました。

説明板に(伝)とあったように、特に目を見張る遺構は確認されていないようですしね。


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愛宕山を背後に、下山です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-21 23:31 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その35 「山王神社」 神戸市北区

専念寺から南西に300mほどのところにある「山王神社」を訪れました。


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ここは何の予備知識もなく、専念寺を訪れたついでに、同じ集落で目に入ったので立ち寄ってみたのですが、偶然にも、ここも赤松則村(円心)・則祐父子ゆかりの神社だったようです。


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拝殿です。


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拝殿横に設置された説明板です。

「建武動乱の折り、戦勝を祈願して円心・則祐が金幣などを奉納した」とありますね。

でも、前稿の専念寺と同じく、その立地から考えると、建武年間(1334~1338年)ではなく、元弘3年(1333年)2月の摩耶山合戦の戦勝祈願ではなかったかと想像します。
赤松氏といえば播磨国の印象が強いのですが、神戸市内にもゆかりの史跡が多くあるんですね。

このたびの史跡巡りで、はじめて知りました。


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説明板では、源義経一の谷の戦いの戦勝を祈願して、弓矢を奉納したとも書かれています。

有名な「ひよどり越え」の場所は諸説ありますが、六甲山脈の北側(通称:裏六甲)は義経の進軍路と考えられていますから、この辺りでは義経の伝承も多くあります。

また、別の機会に紹介します。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-05 18:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その34 「唐櫃城跡(専念寺)」 神戸市北区

神戸市北区の有馬温泉の近くにある「専念寺」というお寺の地が、かつて唐櫃城があったとされる場所で、赤松則村(円心)が一時滞在していたといわれているそうで、訪れました。


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専念寺は、「その33」で紹介した五社八幡神社から直線距離にして約2km南にあり、摩耶山城からは六甲山脈を超えた北側になります(神戸では、六甲山北側のことを「裏六甲」といいます)。


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現地説明板によると、円心が滞在していたのは「建武の頃」とありますが、その立地から考えると、円心がこの地に居たのは、摩耶山合戦の頃、すなわち元弘3年(1333年)2月前後ではなかったかと想像します。


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説明板によると、境内には円心とその三男・赤松則祐供養塔があると紹介されているのですが、肝心の供養塔を示す標示がなかったので、どれかわかりませんでした。

ご住職に訪ねようと思ったのですが、どなたかの法事が行われていて、聞くこともできず・・・。

とりあえず、それっぽい古い石碑を片っ端に撮影しました(笑)。


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これなんて、円心と則祐が二つ並んでるっぽくないですか?


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たぶん、この中のどれかです(笑)。


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唐櫃城の遺構らしきものは確認できませんでした。

たぶん、この裏山なんでしょうが、柵があって入れませんでした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-03-31 17:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その32 「五鬼城展望公園」 神戸市灘区

摩耶山の麓にある、「五鬼城展望公園」を訪れました。

かつてここは摩耶山城のひとつだったと考えられています。

摩耶山の登山口に位置し、「摩耶山合戦」に関わっていないはずはないと思い、シリーズに加えました。


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「五鬼城展望公園」へのルートは、摩耶山登山道と同じです。


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五鬼城の名称の由来は、昔この地を支配していた豪族・五鬼氏からきたものだそうです。

以下、説明板より引用。


五鬼城之由来


昔この地に五鬼氏と云う豪族が住んでいた。祖頃この辺りは昼尚鬱蒼たる大森林に覆われていた。この自然の要塞を砦として外敵のしばしばの襲来にも一度として敗れた事なく、従って一族は益々隆盛を極めて繁栄したものである。当時この付近に住む土着民達の暮しは大変貧しく「病気貧乏ふしあわせ」等で苦しむ人々が多く実に憐れな生活であった、此の姿を見た五鬼氏は五情の戒めを説いて幸せの道として多くの人々の救済に尽くされた。この素晴らしい威徳を讃えて永くこの地の守護神とされたが、今日では僅かに五鬼城の名称のみ残されているにすぎない。


五鬼城講


調べてみましたが、五鬼氏という豪族がいつの時代にいたのか、よくわかりません。

そもそも、この伝承が事実かどうかも定かではありません。


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南北朝時代から戦国時代にかけて、志摩国の海を支配した水軍で有名な九鬼氏がいますよね。

「九鬼氏」「五鬼氏」・・・なんか関連があるのかな?

ここ摩耶山周辺も海に近い海運の要地

あるいは、五鬼氏も兵庫津を支配する水軍だったのでは・・・なんて、これ、すべて私の想像で、根拠はありません。


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公園は標高270m付近にあり、神戸市東部から大阪湾にかけて一望できる展望台になっています。


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西南の三宮方面の眺望です。


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ビルの間に港神戸の象徴ポートタワーが埋もれています。

わたしが子どもの頃は、ポートタワーが神戸でいちばん高かったんですけどね。


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真南の眺望です。

遥か彼方に見えるのは、大阪泉南から和歌山にかけてです。


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そして西側の眺望、大阪湾が一望でき、その彼方に見える山は、右から「その14」「その15」「その16」「その17」で紹介した金剛山、その左が葛城山、そして「その27」で紹介した二上山です


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拡大です。


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ちなみに写真左端に見えるのが、「その30」で紹介した神戸大学キャンパス、その少し右に見える森が、「その31」で紹介した六甲八幡神社です。

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神戸大学にズームイン。

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六甲八幡神社にズームイン

こうして見ると、戦場となった位置関係がわかりますね。

赤松則村(円心)・則祐親子はこの地に立って一王山十善寺の配下と連携を取りつつ、八幡の森に陣を布いていた六波羅軍を撃破したわけです。

たしかに、この位置関係を見れば、赤松軍の圧勝の理由がわかるような気がしますね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-29 18:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その30 「赤松城跡(神戸大学キャンパス内)」 神戸市灘区

神戸市灘区の山の手にある国立神戸大学のキャンパスが、赤松則村(円心)の建てた「赤松城」だったという伝承があります。


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『太平記』によると、円心は大塔宮護良親王令旨を持って都から帰った子・赤松則祐の勧めで、一族に奮起を促し、「当国赤松城に馳せ参ぜしむべし」と伝えたといわれますが、その赤松城というのが、ここ神戸大学の敷地だったとの説です。


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明治41年(1908年)の発掘調査遺構石垣跡が発見され、ここが『太平記』に出てくる赤松城に違いないという郷土史家の意見から、神戸大学構内に「赤松城之址」という標柱も立てられ、昭和7年(1932年)9月には、このあたりの地名も赤松町と名づけられました。

ところが、その後の調査で、実際の赤松城は播磨国佐用郡の苔縄城とわかり、ここにあったのは一王山十善寺の跡であることが判明。

元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際に、円心はここ一王山十善寺をとして利用し、六波羅軍によって焼かれたようです。


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城跡(砦跡)は大学敷地内では最も高い場所にある経済学部付近だと知り、キャンパス内を歩いてみたのですが、「赤松城之址」の標柱は見当たりませんでした。

あるいは、もうないのかもしれませんね。


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神戸大学から見た摩耶山です。

この地を訪れてみて、なるほど、摩耶山合戦に際しては、東の砦として絶好の場所だと思いましたね。

西に摩耶山を見渡せ、このちょうど真南には、六波羅軍が陣を布いた八幡の森が一望できたはずです。


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標柱は見つかりませんでしたが、「赤松町」という地名はしっかり残っています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-24 22:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その29 「摩耶山城跡」 神戸市北区

神戸市に横たわる六甲山脈のなかで、六甲山の次に標高の高い摩耶山上に、かつて摩耶山城がありました。

ここは、元弘3年(1333年)に播磨国の守護大名、赤松則村(円心)によって築かれた城です。


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城跡には徒歩でも登れますが、登山に慣れないわたしは摩耶ケーブルで登ります。


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摩耶ケーブルの終点「虹の駅」のある一帯が東の曲輪群だそうです。


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虹の駅からの眺望。

神戸港から大阪湾が一望できます。

空気が澄んでいたら、 「その15」「その16」「その17」で紹介した金剛山まで見えるのですが、この日は残念ながら霞んで見えません。

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元弘2年(1332年)11月に大塔宮護良親王が吉野で挙兵、続いて12月に楠木正成が河内千早城にて挙兵。

こうした倒幕の動きを受け、元弘3年(1333年)2月、赤松則村(円心)はこの地に摩耶山城を築き、幕府の六波羅勢を迎え撃ちます。

これが、『太平記』にある「摩耶山合戦」です。


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『太平記』によれば、大塔宮に従っていた則村の三男赤松則祐が、親王の令旨を携え、父・則村に挙兵をすすめたとされています。

これを受けて則村は播磨から摂津に進軍。

『太平記』には、「兵庫の北に当たって摩耶という山寺ありけるに、まず城郭を構えて」とあり、このとき摩耶山城が築かれたと伝えます。


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幕府六波羅軍は5000の兵で摩耶山城を囲みますが、赤松軍は大塔宮によってもたらされた援軍を受けて7000の兵を従え、これを撃破。

幕府軍は敗走します。


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この摩耶山合戦の戦勝で勢いに乗った反幕府軍は、同年5月7日に足利尊氏、赤松則村(円心)らによって六波羅に攻め込み、同月20日には新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府はその幕を閉じることになります。

遠く関東の鎌倉幕府の瓦解は、ここ神戸の山中から始まったんですね。


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摩耶山城の北側にあった摩耶山天上寺跡は、現在摩耶山史跡公園となっています。

摩耶山天上寺は40年前までこの地にありましたが、昭和51年(1976年)に火災で消失し、より山頂に近い北側に移設されました。

かつては、この地に赤松則村(円心)・則祐親子の五輪塔が建っていたのだとか。


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史跡公園内には、建物跡の礎石だけが残されています。


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公園内の説明板には、在りし日の摩耶山天上寺の空撮写真が紹介されています。


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奇跡的に消失を免れた仁王門です。


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摩耶山史跡公園のすぐ西側には、「摩耶の大杉」と呼ばれる六甲山随一の巨木がそびえます。

幹周りは約8mあり、樹齢1000年と言われています。

一緒に写っている身長150cmのわたしの娘と比べれば、その大きさが伝わるでしょうか?

現地の説明看板によれば、約200年前に摩耶山一帯で起きた大水害のときにもビクともしなかったため、その生命力に驚いた人々は神霊が宿っているに違いないと、「大杉大明神」として崇めるようになったのだとか。


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残念ながらこの大杉は、昭和51年(1976年)の旧摩耶天上寺の大火災の後、火を被ったことが原因で、徐々に樹勢が衰え、現在は枯死してしまいました。

樹齢1000年ということは、「摩耶山合戦」のときにも、すでに樹齢300年の大樹だったんですね。

移り変わる歴史の変遷を見続けてきたこの大杉の姿は、枯死してもなおその存在感を人々に印象づけています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-19 09:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)