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太平記を歩く。 その160 「尊氏産湯之井」 京都府綾部市

前稿で紹介した「景徳山安国寺」の近くに、古い井戸跡があるのですが、ここは、足利尊氏が生まれたときに産湯として使用された井戸との伝承があるそうです。


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前稿でも紹介しましたが、ここ綾部市は旧丹波国何鹿郡八田郷上杉荘といい、尊氏の母・清子の実家である上杉氏の領国でした。


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説明看板によると、清子は出産のために故郷の丹波に帰り、安国寺の門前の別邸に住んで、当寺の地蔵菩薩安産を祈願し、嘉元3年(1305年)に尊氏を産んだと伝えられています。

700年前にも里帰り出産があったんですね。


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消えかかっていますが、「足利尊氏公産湯井戸」と刻まれています。


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後世に編纂された『難太平記』では、尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて、1羽は尊氏のに止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えています。

また、弟の足利直義の産湯の際にも2羽の山鳩が飛んできて、柄杓湯桶の端にとまったとか。

当時、山鳩は八幡宮の遣いと考えられており、源氏の祖である源八幡太郎義家を意味していました。

つまり、やがて天下人になるであろうお告げだったというんですね。

ただ、当時は執権北条一族に憚って、人々はこのことを口にしなかった・・・と。

やがて足利政権の時代がくると、あのときの八幡様のお告げは、やっぱり本当だった・・・と。

よく出来た話です(笑)。


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井戸の中を覗いてみましたが、ただの井戸でした。

当たり前ですが。


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近くには、尊氏の像がありました。


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この像は、平成15年(2003年)3月27日、京都縦貫自動車道(丹波綾部道路)綾部安国寺インターチェンジの新設を記念し、多くの市民や全国各地からの篤志により建立されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-03 10:02 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その159 「景徳山安国寺」 京都府綾部市

足利尊氏生誕地と伝わる京都府綾部市を訪れました。

足利氏といえば、栃木県の足利荘を思い浮かべるのですが、実は、尊氏が生まれたのは母・清子の実家、上杉氏の本貫地である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘だったそうです。

700年前にも、里帰り出産があったんですね。


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その生誕地にある安国寺に、尊氏と母の清子、そして妻の登子供養塔があると知り、車で約2時間かけて遠路はるばる訪れました。


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寺に入口には、「足利尊氏公誕生の地」と刻まれた石碑があります。


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紅葉の名所だと聞いていたので、その季節を狙って11月20日に訪れたのですが、あいにくので、残念ながら暗い写真ばかり。


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全国各地に「安国寺」という名称の寺がありますが、その多くは、尊氏の時代に建立および改修・改名されたものです。

延元3年/暦応元年(1338年)、征夷大将軍となって室町幕府を開いた尊氏は、禅僧・夢窓疎石の勧めで前稿で紹介した天龍寺の建立を始めるとともに、元弘の乱以降の戦死者を弔うため、国ごとに1寺1塔を建てる計画を立てます。

このときの寺を「安国寺」、塔を「利生塔」と称しました。

山城国の安国寺には、あの一休宗純(一休さん)がいたことで有名ですね。


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山門の扉には、足利氏の二つ引の紋章が。


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安国寺と利生塔は新しく造営されたものもありましたが、既存の寺院を修理してこれにあてた国もありました。

ここ綾部市の安国寺は、もとは清子の実家・上杉氏の菩提寺・光福寺としてあったものを、尊氏が丹波国の安国寺と定め、諸国安国寺の筆頭におきます。

自身の生誕地ということもあったでしょうが、母を敬う尊氏の思いが込められていたのでしょうね。


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雨じゃなければ、きれいな写真だったでしょうけどね。


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茅葺の仏殿は寛保3年(1743年)に再建されたものだそうです、。


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ここにも二つ引が。


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そして、こちらが境内奥にある、尊氏・清子・登子の供養塔と伝わる宝篋印塔です。

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向かって左から、清子、尊氏、登子の供養塔と伝わります。


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説明板です。

『安国寺文書』によると、二代将軍・足利義詮によって尊氏と登子の遺骨が安国寺に奉納されたと記されているそうで、南北朝時代のものとさせるこの宝篋印塔が、その墓碑だと考えられているそうです。

でも、だったら、清子の墓っていう伝承は、なんの根拠なんでしょうね?


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あいにくの雨でしたが、せっかく綾部市まで来たので、次稿、もう一回綾部市をやります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-01 00:11 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その158 「天龍寺」 京都市右京区

世界遺産に登録されている京都・嵐山の天龍寺を訪れました。

ここは、暦応2年/延元4年(1339年)に吉野で崩御した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の菩提を弔うために、足利尊氏夢窓疎石を開山として創建したと伝わる大寺院です。


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後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏が、なんで菩提を弔う寺院を?・・・と思ってしまいますが、そこは、複雑な心中があったのでしょうね。

尊氏の「尊」は、後醍醐天皇の諱「尊治」から偏諱を受けて改名したもの。

そんな関係にありながら、結果的に敵対する関係になってしまったことで、少なからず胸を痛めていたのかもしれません。

逆賊の誹りを逃れたいという思惑もあったかもしれませんね。

あるいは、天皇が怨霊となって祟りをなすのを恐れたのかもしれません。

そんな尊氏に後醍醐天皇の菩提を弔うことを強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石だったと伝わります。


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元々この地は、嵯峨天皇(第52代天皇)の后である檀林皇后が開創した檀林寺のあったところで、のちに後嵯峨上皇(第88代天皇)ととその皇子である亀山天皇(第90代天皇)の仙洞御所・亀山殿が営まれた場所です。

後醍醐天皇は、この地で幼少期を過ごしたと伝わります。


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寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定だったそうですが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたといわれます。


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造営に際して尊氏や光厳上皇(北朝初代天皇)が荘園を寄進しましたが、それでも費用が足りず、直義は夢窓疎石と相談のうえ、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画しました。

これが有名な「天龍寺船」の始まりです。


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庫裏と呼ばれる堂の玄関を入った正面に置かれる達磨図の大衝立。

前管長である平田精耕老師の筆によるもので、大方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴した天龍寺の顔といえるものです。


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こちらは大方丈のなか。

庫裏、大方丈内は自由に見学できるのですが、観光客がいっぱいで、いい写真がありません。


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こちらが、大方丈の西側に広がる曹源池庭園

夢窓疎石作の庭園といわれ、わが国最初の史跡・特別名勝に指定された庭園です。


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そして、平成6年(1994年)、世界文化遺産に登録されました。


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こちらは、境内西北にある多宝殿

ここに、後醍醐天皇の木像が安置されています。


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畳の間には入れませんが、ラッキーなことに撮影禁止ではありませんでした。


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ズームです。

肖像画に似てますね。

いつの時代に作られたものかは、調べがつきませんでした。


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康永2年(1343年)に完成した天龍寺は京都五山の第一位に擬せられ、室町幕府の隆盛とともに最盛期には子院が150を数える巨大寺院にまで成長しますが、その後、度重なる大火に見舞われ、やがて室町幕府の衰退とともに寺運も衰え、応仁の乱によって堂塔伽藍がことごとく焼失すると、しばらく再建もままならない状態が続きます。

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この状況を救ったのが豊臣秀吉で、豊臣政権下で天龍寺は蘇り、その後、徳川政権下でも庇護を受け、江戸時代中期にはかつての隆盛を取り戻すまでに至りますが、幕末の禁門の変の際に長州軍の拠点となったことで薩摩軍から砲撃を受け、ことごとく破壊されました。

現代の建造物のほとんどは、明治期に再建されたものです。


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嵐山といえば紅葉の名所で知られ、ここ天龍寺の庭園も、美しい景観が見られるとのことです。

ここを訪れたのは10月10日、ちょっと早かったですね。

今度は紅葉狩りに訪れたいと思います。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-30 01:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その157 「足利尊氏邸・等持寺跡」 京都市中京区

延元3年/暦応元年(1338年)、足利尊氏光明天皇(北朝第2代天皇)から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が樹立します。

その、室町幕府発祥の地を訪れました。


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京都市中京区のオフィス街になかに、「足利尊氏邸・等持寺跡」と刻まれた石碑があります。

ビルの隅っこの植え込みのなかにあるその石碑は、気づかずに通り過ぎてしまうほど質素なものでしたが、かつてこのあたりに、尊氏の邸「三条坊門第」(二条万里小路第)があったとされています。


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現地説明板によると、尊氏邸の範囲については諸説ありますが、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250m、東西120mの土地を占めていたと考えられているそうです。

実に約9000坪以上、これは邸というより、ほとんど城ですね。

尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文3年(1358年)にここで薨じました。

のちにこの邸宅は「等持寺」という寺院に改められました。

尊氏は3つの寺院を建てることを願っていましたが実現できず、そのため「等持寺」という文字の中には3つの寺が含まれることになったと伝えられています。


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等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集め、室町時代の政治・文化に大きな役割を果たしました。

しかし、応仁の乱以降は次第に衰退し、結局は別院であった等持院に合併されてしまったそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-28 22:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その129 「後醍醐天皇導之稲荷」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺の南側入口の脇に小さなお稲荷さんがあります。


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近づいてみると、「後醍醐天皇導之稲荷」と刻まれた石柱が建てられています。

「導之稲荷」とはどういう意味か・・・。


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説明板によると、延元元年(1336年)12月21日、足利尊氏によって幽閉されていた京の花山院を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、12月28日、ここ吉野山行宮(仮の宮)に入りますが、その道中、夜道に迷ったとき、とある稲荷社の前で、


「むば玉の 暗き闇路に 迷うなり 我にかさなむ 三つのともしび」


と詠んだところ、ひとむらの紅い雲が現れて、吉野への臨幸の道を照らして天皇を導くと、その雲は金の御岳(吉野山)の上で消え失せたといいます。(吉野拾遺)

その稲荷を勧請したのがこの「導き稲荷」だそうです。


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歌のなかに出て来る「三つのともしび」とは、京都の伏見稲荷大社の神体山・稲荷山三つの峰に祀られている神をさすそうです。

夜道に迷って困っていると、稲荷山の御神体がわたしに重なった・・・といった意味でしょうか?


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心に迷いが生じたとき、ここ「導き稲荷」の神にお祈りすると、自ずから道が開けるという伝承があるそうです。

わたしのように常に迷って生きている者には、ご利益はあまり期待できないかもしれませんが。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-22 23:54 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その124 「花山院邸跡(宗像神社)」 京都市上京区

京都御苑内にある宗像神社を訪れました。

ここは、かつて花山院邸があった場所で、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、一時幽閉されていた場所です。


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建武の新政が崩壊し、延元元年/建武3年(1336年)10月10日、足利尊氏に降伏した後醍醐天皇は、ここ花山院に幽閉されることになります。

ここで天皇は厳しく監視され、これまで従っていた側近たちは引き離され、接触できるのは女房達だけだったといいます。


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11月1日、ここで後醍醐天皇と足利尊氏の会見が行われます。

尊氏の要求は、三種の神器の引き渡しでした。

尊氏は8月に持明院統光明天皇(北朝第2代天皇)を即位させており、その正当性を得るためにも、三種の神器が必要だったわけです。


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そこで、尊氏は次の天皇には後醍醐天皇の皇子の成良親王を即位させることを約束します。

この条件を後醍醐天皇は受け入れ、三種の神器を光明天皇に引き渡しました。

しかし、実はこの三種の神器は偽物でした。

天皇は尊氏を信用していなかったんですね。


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12月21日、後醍醐天皇はわずかな供を従えて花山院を抜け出し、かつて大塔宮護良親王が挙兵した吉野へと向かいました。

吉野へと落ちのびた後醍醐天皇は、その地で新たな朝廷を樹立します。

これが吉野朝廷、いわゆる南朝ですね。

これにより、尊氏が立てた光明天皇の朝廷は北朝となります。

かくして南北朝の争乱がはじまったわけです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-16 01:42 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その109 「東寺」 京都市南区

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が比叡山に入ると、京を占拠した足利尊氏は、はじめ男山八幡に陣を布いて比叡山に総攻撃を仕掛け、その後、延元元年/建武3年6月14日に、ここ東寺に布陣しました。

東寺は、世界文化遺産に登録されている京都の顔です。


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九条通りに面した正門・南大門です。


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そして南大門を潜ると、国宝・金堂が正面に見えます。


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金堂は1200年以上前からあったとされますが、現在のものは慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進によって再建したものだそうです。


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こちらは重要文化財の講堂


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そして、こちらが有名な五重塔

国宝です。


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東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔で、高さ54.8mは、木造塔としては日本一の高さを誇ります。


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尊氏が東寺に入ると、名和長年四条隆資など後醍醐天皇方の武将が次々に東寺に攻め込みますが、名和長年は討死し、四条隆資は足利方の土岐頼直に阻まれ、上手く進軍できません。

そんななかの延元元年/建武3年6月30日、新田義貞率いる2万の軍勢が猛然と大宮通りを東寺に向かって進軍し、六条大宮付近で足利軍の激しく激突。

苦戦した足利軍は東寺の東大門から境内になだれ込み、最後の一人が境内に入ると同時に東大門は閉ざされました。


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ここが、外側から見た東大門ですが、平成29年(2017年)5月現在、修築工事中とのことで、養生柵に囲われています。


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柵の上に腕を伸ばして撮影。


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こちらは、境内から見た東大門

工事関係者の車両が停まっています。

邪魔だなあ・・・。


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その説明板。

通称「不開門(あかずのもん)」と呼ばれているそうです。


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足利方によって東大門が閉ざされると、新田軍はその門めがけて無数の矢を放ったといいます。

義貞が門外より尊氏に一騎打ちを挑んだそうですが、尊氏はその挑発にのることなく、その後も東大門が開くことはありませんでした。

そんな由来で、「不開門(あかずのもん)」と呼ばれるようになったのだとか。


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門扉には新田軍が放った矢の跡があると聞いてきたのですが、残念ながら工事が終わるまで見ることはできなさそうです。


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こちらは、この戦いより半年間、尊氏が居館としていたと伝わる食堂です。


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そして、こちらはその間、光厳上皇(北朝初代天皇)の行宮となった小子坊。


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正門の門扉は菊の御紋です。


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この新田軍の総攻撃が失敗に終わったことで、その後、後醍醐天皇方の形勢は厳しくなり、やがて後醍醐天皇は足利方の和平工作に応じ始めます。

しかし、義貞にはこの事実は知らされておらず、義貞がこのことを知ったのは、和議を結ぶ当日でした。

これを知った義貞の家臣・堀口貞満が涙ながらに後醍醐天皇の無節操を非難して訴えるシーンが『太平記』に描かれます。

しかし、結果的に後醍醐天皇は、義貞を切り捨てるかたちをとりました。

一方で、天皇はこの和議は一時的な「計略」であるとの旨を義貞に伝え、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐためだったと取り繕います。

これを聞いた義貞は、恒良親王、尊良親王を奉じて北国へと下向させてほしいと提言し、後醍醐天皇もこれを受け入れます。


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後醍醐天皇による新田一族切捨てと尊氏との和睦は、『太平記』にしか見られない記述であり、創作の疑いも拭いきれません。

しかし、この日を機に後醍醐天皇方が2つに分裂したのは確かで、何らかの行き違いがあったのは間違いないでしょう。

義貞が恒良親王と尊良親王を奉じて北陸入りしたのは、自身が逆賊扱いされないための人質だったのかもしれません。

というわけで、次回から北陸の新田義貞らの足跡を追います。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-23 22:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その101 「真光寺」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある真光寺を訪れました。

一遍上人が中興の開祖として知られる同寺ですが、「湊川の戦い」の戦後、足利尊氏楠木正成供養を行ったと伝わる寺でもあります。


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正成の首は前稿で紹介した阿弥陀寺の石の上で首実検が行われたあと、京の六条河原1日だけ晒されますが、その後、尊氏はここ真光寺において正成の大供養会をとりおこない、首は正成の本拠地である河内の水分に届けさせたと、『太平記』は伝えます。

正成と袂を分かつことになった尊氏でしたが、かつての戦友の死を、決して粗末に扱わなかった点、尊氏も思うところがあったのかもしれませんね。


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現在の境内には、その歴史を知らせてくれる史跡はありません。


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真光寺はたいへん大きなお寺で、一遍上人が没した寺だと伝わります。

境内の一角には一遍上人の廟所があり、五輪塔は国の重要文化財に指定されています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-09 23:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その100 「阿弥陀寺(楠木正成首改め石)」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある阿弥陀寺にやってきました。

ここには、湊川の戦いに勝利した足利尊氏が、討死した楠木正成首実検を行ったと伝わるがあります。


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本堂です。


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境内の一角に、池を松が囲んだ庭園風の場所があります。

その池の中央に、大きな石があるのですが、これが「楠木正成首改め石」だと伝わるものです。


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説明板によると、池中の大石は、平清盛が魚を供養するために建てた魚の御堂礎石とも伝えられますが、延元元年/建武3年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」に大捷した足利尊氏が、須佐の入江の奥にあった魚の御堂で、楠木正成の首あらためをしたとも伝えられます。

尊氏は、かつての戦友であり好敵手でもある正成の首と、この石の上で対面したんですね。

その後、この石は福岡藩主・黒田長政神戸別邸にあったそうですが、やがて屋敷は兵庫の絵屋の鷹見家にゆずられ、さらにその後、同寺に寄贈されたそうです。


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石の表面が一部赤くなっているのは、楠木正成の・・・ではなく、第二次大戦における神戸大空襲の折、石が焼けたためだそうです。


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あと、湊川の戦いには無関係ですが、境内には、元和6(1620)年に徳川幕府によって進められた大坂城再築普請に参加した加藤肥後守忠広清(清正の長男)の、石場を示す刻印石がありました。


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小さなお寺なんですが、平清盛、足利尊氏、楠木正成、黒田長政、加藤忠広と、各々の世代で歴史に名を刻んだ諸将たちと、深く関わった阿弥陀寺でした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-08 23:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その98 「生田の森」 神戸市中央区

足利尊氏水軍を討つべく経ケ島に陣を布いた新田義貞でしたが、足利軍の巧みな戦略の前に押され、中央区の生田の森まで後退することになります。


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すでに楠木正成軍を討った足利軍は、ここ生田の森で三方から集中して新田軍に襲いかかります。

『太平記』巻16「新田殿湊河合戦事」によると、新田軍は奮戦し、合戦は「新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見えたりける」との激しさを見せます。


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合戦の規模からすると、ここ生田の森での戦いが、「湊川の戦い」本戦と言っていいかと思います。

しかし、結局は衆寡敵せず

兵力差は歴然としており、新田軍は丹波路めざして敗走することになります。


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現在「生田の森」は、生田神社境内の北側に、少しだけその名残を残しています。


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「生田の森」は、「湊川の戦い」以外でも、12世紀末には源氏平家の間で行われた「一ノ谷の戦い」の舞台にもなり、また、16世紀末には、織田信長軍と荒木村重の間で行われた「花隈城の戦い」の舞台にもなりました。

いつの時代でも、砦となる立地条件は同じということですね。


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余談ですが、ここ生田神社は神戸市いちばんの繁華街である三宮のど真ん中にあり、近年では、女優の藤原紀香さんとお笑いタレントの陣内智則さんが結婚式をあげた神社として、全国に知られるところとなりました。


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以来、ここで結婚式をあげたいというカップルが増えたそうで、わたしが訪れたこの日も、1組のカップルが結ばれていました。

キッカケとなったふたりは、別れちゃいましたけどね(笑)。


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話を戻して、『太平記』によると、「生田ノ森の東より丹波路を差(さし)てぞ落行ける」とあります。

次回は落ち延びる新田軍の足跡を追います。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-03 23:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)