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太平記を歩く。 その202 「等持院」 京都市北区

シリーズ200を超えましたが、関西を中心とした『太平記』ゆかりの地は、ほぼ網羅できたんじゃないかと思っています。

というわけで、このあたりで、ひとまず一区切りにしようかな・・・と。

そこで、その節目を飾るのは、足利将軍家の菩提寺「等持院」です。


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ここ等持院は「その158」で紹介した臨済宗天龍寺派の古刹で、室町幕府を開いた足利尊氏が、興国2年/暦応4年(1341年)に「その157」で紹介した洛中の等持寺を建立し、その2年後の興国4年/康永2年(1343年)、この地に別院北等持寺を建立したことに始まるといわれます。


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開山当初は「北等持寺」と呼ばれましたが、尊氏の死後はその墓所とされ、尊氏の法名をとって「等持院」に寺号を改めたと伝わります。


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ここ等持院は紅葉の名所としても知られていますが、わたしが訪れたこの日は11月26日。

だいぶん枯れかけてはいましたが、辛うじて残っていました。


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庫裏と呼ばれる入口を潜ると、すぐに方丈(本堂)があります。


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屋根瓦には足利家の家紋(足利二つ引)が見えます。


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方丈に入るとすぐに、達磨図の衝立が目に入ります。

これ、似たような衝立が天龍寺にもありましたよね。

こちらの絵は、天龍寺の元管長で等持院の住職でもあった関牧翁の作だそうです。


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こちらは方丈から望む南側の庭園。


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方丈の回廊を奥に進むと、はなれのような建物があります。


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それがこれ、霊光殿という建物です。

実は、ここに来たいちばんの目的はここ。

この中に、尊氏が日頃念持仏として信仰していた利運地蔵菩薩(伝弘法大師作)を中心として、足利歴代の将軍木像(第5代義量と第14代義栄を除く)が、徳川家康の像と共に安置されています。

残念ながら木像の撮影は禁止だったので、建物外から中を望遠レンズでブームイン

これくらいは勘弁してください。


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左右に木像のシルエットが見えるのがわかるでしょうか?

これらの像がいつの時代に作られたものかは、説明書きなどがなかったためわかりませんでしたが、家康の像は、42歳の厄除けのために自ら作らせたものだそうです。

時代は下って幕末、文久3年(1863年)2月22日、倒幕派の志士たちによって足利尊氏・足利義詮・足利義満三代の木像の首が鴨川の河原にさらされる事件が発生しますが(足利三代木像梟首事件)、そのときの木像が、ここに安置されている木像です。

3体の首のあたりをじっくり観察しましたが、斬首された痕跡はわかりませんでした。

どうやって繋いだんでしょう?


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方丈北側に目をやると、夢窓疎石の作と伝わる見事な庭園が広がります。


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しばし庭園を散策。


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水面に映る紅葉。

ちょっと枯れかけですが。


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紅葉、紅葉、紅葉。


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庭園の一角に、「足利家十五代供養塔」と伝わる全高5m十三重塔があります。

等持院では、代々、大切に供養されてきました。


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で、庭園の片隅に樹樹に隠れるようにひっそりとある宝篋印塔

これが、尊氏の墓だそうです。


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高さ約1.5m

室町幕府の開祖の墓としては、なんと小じんまりした墓でしょう。

これまでこのシリーズで見てきた楠木正成新田義貞などの墓と比べても、ずいぶんと小さく質素なたたずまい。

どう見ても征夷大将軍の墓とは思えません。


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尊氏が死んだのは正平13年/延文3年(1358年)4月30日、自身の落胤で弟・足利直義の養子となっていた足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、洛中の等持寺で死去したと伝わります。

享年54


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『太平記』巻33「将軍御逝去事」では、尊氏の死を次のように伝えます。


病日に随て重くなり、時を添て憑少く見へ給ひしかば、御所中の男女機を呑み、近習の従者涙を押へて、日夜寝食を忘たり。懸りし程に、身体次第に衰へて、同二十九日寅刻、春秋五十四歳にて遂に逝去し給けり。さらぬ別の悲さはさる事ながら、国家の柱石摧けぬれば、天下今も如何とて、歎き悲む事無限。さて可有非ずとて、中一日有て、衣笠山の麓等持院に葬し奉る。

(病は日を追って重くなり、時とともに容態も思わしくないように見えてきたので、将軍の屋敷に仕える男女らは固唾を飲んで見守り、側近く仕える従者らは涙をこらえ、日夜寝食も忘れていました。やがて身体は次第次第に衰え、四月二十九日の寅刻(午前四時頃)、享年五十四歳にして、ついに逝去しました。それでなくても別れは悲しいものなのに、国家の柱石が砕けてしまったので、天下は今後一体どうなるのかと嘆き悲しむ限りです。しかし、いつまでも悲しんでいるわけにもいかず、中一日おいて、衣笠山の麓にある等持院に葬りました。)


ここ等持院に葬ったと伝えていますね。

さらに『太平記』はこう続けます。


哀なる哉、武将に備て二十五年、向ふ処は必順ふといへ共、無常の敵の来るをば防ぐに其兵なし。悲哉、天下を治て六十余州、命に随ふ者多しといへ共、有為の境を辞するには伴て行く人もなし。身は忽に化して暮天数片の煙と立上り、骨は空く留て卵塔一掬の塵と成にけり。

(生まれながらの武将として二十五年、向かう先は全て彼に従ってきたといえども、死を迎えるにあたってそれを防ぐ兵士はいません。悲しいかな、天下を治めて六十余州、彼の命令に従う者は多いといえども、この世を去るにあたって伴ってくれる人もいません。身は忽ちにして暮れ行く空を立ちのぼる僅かな煙となり、はかなく残った骨は僅かばかりが墓石の塵となりました。


『太平記』は南朝よりに書かれた物語ですが、尊氏の死に際しては、ひとつの時代の終わりを伝えています。


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さて、冒頭でも述べたとおり、この稿をもって『太平記を歩く』シリーズはひとまず終わりにします。

関西を中心に山陰、北陸をめぐってきた202回でしたが、日本全土に目を向けると、『太平記』ゆかりの地は、関東、東北、東海、四国、九州などにまだまだ数多くあります。

いつの日か、また続きを再開できればと思っていますが、なにぶん遠方ばかりになるため、資金と時間が許せばですが・・・。

そのときは、また、おつきあいください。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-17 09:02 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その200 「光厳天皇髪塔」 京都市右京区

光厳天皇(北朝初代天皇)の御陵前稿で紹介した常照皇寺にあり、「その196」で紹介した天野山金剛寺に遺髪を葬った分骨陵がありますが、「その158」で紹介した嵐山の天龍寺の東側正門前にある金剛院の境内にも、光厳天皇の髪塔があります。


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金剛院の境内といっても、嵐山の観光のメインストリート沿いにあるため、お寺の境内といった雰囲気ではありません。


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なぜ、この地に光厳天皇の遺髪が葬られたのかは、調べてみたのですが、わかりませんでした。

金剛院と天野山金剛寺が、何かつながりがあるのでしょうか?

あるいは、天龍寺を建立した足利幕府が、その境外塔頭である金剛院に持ってきたのかもしれません。

ただ、天龍寺が後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の菩提を弔うために足利尊氏によって創建された寺院であることを思えば、その真向かいに光厳天皇の遺髪を葬るというのは、どういう意図だったのでしょうね。

当人たちは、それを望んだかどうか・・・。


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「髪塔」とされていますが、現在、塔は存在せず、「髪塚」といった方が正しいかもしれません。

おそらく、かつては宝篋印塔があったのでしょう。


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前稿でも紹介したとおり、後醍醐天皇に勝るとも劣らない波乱万丈な人生を送った光厳天皇ですが、現在の天皇家の歴史は南朝が正統とされているため、歴代天皇には数えられません。

しかし、現在の皇室は北朝の血筋であり、そういうこともあってか、一応は宮内庁によって管理されています。

まあ、いわば、備考欄のような扱いですけどね。


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でも、戦前は、北朝5代天皇の存在すら学校で教えなかったといいますから、戦前教育を受けた世代の人たちには、知られていなかった天皇といえます。

戦前は逆賊あつかいだった足利尊氏が擁立した天皇ですからね。

いまでも、南北朝時代って、それほど時間を割いて教えませんよね。

そのせいもあってか、この日も、観光客でいっぱいの嵐山のメインストリート沿いにありながら、この塚の前で足を止めていたのは、わたしだけでした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-14 22:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その188 「八幡行宮阯」 京都府八幡市

京都府八幡市にある八幡行宮跡を訪れました。

ここは、正平7年/文和元年(1352年)2月に前稿で紹介した住吉行宮に移った後村上天皇(第97代天皇、南朝第2代天皇)が、その後、さらに京の都を目指して北上した行宮跡と伝わります。


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昭和15年(1940年)に建てられたこの石碑は、現在、車道沿いのカーブミラーに隠れてあまり目立ちません。


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「観応の擾乱」で幕府内が混乱する最中、足利尊氏は対立する足利直義・足利直冬追討の綸旨を得るため、正平6年/観応2年(1351年)10月、南朝の後村上天皇に一時降伏し、政権返上を申し出ます。

これを受けた後村上天皇は、北朝崇光天皇(北朝第3代天皇)の廃帝を宣言し、年号を南朝の正平6年に統一します。

世にいう「正平の一統」です。

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翌年の2月26日、足利直義は鎌倉で急死

通説では病死とされていますが、『太平記』では、これを尊氏の毒殺としています。


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八幡行宮跡碑から路地を東に50~60mほど入ったところには、「後村上天皇行宮趾」と刻まれた石碑があります。

こちらの方が立派な石碑です。


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北朝方の混乱を見た南朝の北畠親房は、正平一統を破棄

尊氏の征夷大将軍を解任し、宗良親王(後村上天皇の異母兄)を征夷大将軍として東西で呼応し、京都と鎌倉の同時奪還を企てます。


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後村上天皇は都の奪還を目指して当時南朝の本拠地が置かれていた大和国賀名生を出立。

同2月28日に前稿で紹介した摂津国住吉を行宮とし、閏2月19日、後村上天皇は都を目と鼻の先としたここ男山八幡に到着し、石清水八幡宮別当・田中定清の邸を仮皇居とします。

それが、ここ「八幡行宮阯」です。


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しかし、後村上天皇がこの地を行宮としたのは3か月足らず

北朝方の巻き返しに遭い、激戦の末、結局、京の都の地を踏むことなく、賀名生に戻ることになります。

世にいう「正平の役」です。

「八幡の戦い」ともいいますね。

次稿では、その古戦場跡をめぐります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-25 23:55 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その186 「御所八幡宮」 京都市中京区

「その157」で紹介した「足利尊氏邸・等持寺跡」から高倉通を50mほど下ったところに、「御所八幡宮」という小さな神社があるのですが、ここも、足利尊氏ゆかりの場所です。


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応神天皇(第15代天皇)、その生母の神功皇后、そして比売神の三神を祭神とするここ御所八幡宮は、もとは御池通堺町西南角御所八幡町にあったそうですが、太平洋戦争中に御池通りの強制疎開によってこの地に移転されたそうです。


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神社の由緒書によると、鎌倉時代の弘安元年(1278)に二條内裏焼失したことにより、一時、公卿・中院通成三條坊門万里小路邸を内裏とした後宇多天皇(第91代天皇)が、邸内に石清水八幡宮を勧請したことに始まります。


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その後、時代が下って足利尊氏による室町幕府が樹立すると、副将軍の職にあった弟の足利直義がこの地に邸を構えていましたが、正平7年/文和元年(1352年)に直義が没すると、兄の尊氏は御所八幡宮を再興して足利氏の鎮守としました。


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この八幡社が「御所」八幡宮と呼ばれるのは、将軍である尊氏が鎮守としたことから由来し、尊氏の法名によって「等持寺八幡」とも、また、このあたりの地名をとって「高倉八幡」とも呼ばれてきました。


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ちなみに、直義の死は尊氏による毒殺という見方が一般的ですが、これは『太平記』のみが伝える説で、証拠となる史料は存在しません。

ただ、直義の死は尊氏による幽閉中だったこと、その死があまりにも突然だったこと、直義が没した日が奇しくも自身の宿敵であった高師直・師泰兄弟の一周忌に当たる日だったことなどから、あくまで推論の域を出ないにしても、毒殺説はかなりあり得る話だとわたしは思います。


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直義の死によって「観応の擾乱」は一応の決着を見ますが、直義派の武士による抵抗は、その後、尊氏の落胤で直義の養子となった足利直冬を盟主として、尊氏の死後まで続きます。


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現在、ここ御所八幡宮は安産・幼児の守り神として知られ、子供の夜泣き疳の虫退治に御利益があるという三宅八幡宮とともに「むし八幡」と呼ばれ、地元の人に親しまれています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-23 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その183 「高師直塚」 兵庫県伊丹市

西宮市から国道171号線を北東に進んで伊丹市に入ったあたりに、「師直冢」と刻まれた石碑があります。

師直とは言うまでもなく、足利尊氏の執事・高師直のことです。

「観応の擾乱」における「打出浜の戦い」に破れた尊氏軍は、逃げ込んだ松岡城にて足利直義和議を結びますが、その条件として、師直を出家させるということになり、師直らが京都に護送される途上、養父を師直に殺された上杉能賢に襲われて殺害されます。


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『太平記』巻29「師直以下被誅事付仁義血気勇者事」によると、師直が殺されたのは「その181」で紹介した鷲林寺付近とされていますが、実際には、正確な位置はわかっていないようです。

この石碑は、鷲林寺からは随分離れているのですが、このあたりで殺害されたということでしょうか?


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伊丹市のHPによると、江戸時代の山田村にはすでに高師直塚があり、「山崎通分間延絵図」にも塚地が西国街道北側に描かれているそうです。

大正4年(1915年)になって村の人々が石碑を建てたそうですが、その後、場所が転々とかわって現在地に移ったそうです。


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国道171号線は、旧西国街道にあたります。

京への帰路で襲われたとありますから、山奥にある鷲林寺前よりも、街道沿いのこの辺りだったと考えるほうが、無理がないかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-18 23:21 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(2)  

太平記を歩く。 その182 「松岡城跡(勝福寺)」 神戸市須磨区

正平6年/観応2年(1351年)年2月17日に起きた「打出浜の戦い」に破れた足利尊氏軍は、西へ敗走して松岡城へ逃げ込みます。

その松岡城は、神戸市須磨区にある勝福寺付近だったといわれています。


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この辺りの住所は大手町といいますから、日本のあちこちにある大手という地名のほとんどがそうであるように、かつて城の正面にあたる場所だった名残だと考えられます。


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『太平記』巻29「松岡城周章事」によると、

「小清水の軍に打負て、引退兵二万余騎、四方四町に足ぬ松岡の城へ、我も我もとこみ入ける程に、沓の子を打たるが如にて、少もはたらくべき様も無りけり。」


とあります。

「小清水」とは、たぶん「越水」のことで、越水に陣を布いた足利直義軍のことでしょう。

「四方四町」というのがどのくらいの面積なのかわかりませんが、文面から見て、たいして大きな城ではなかったようですね。

『太平記』には、この時残った軍勢が「かれこれ五百騎に過ぎ候はじ」とありますから、城が狭くてほとんどの兵が閉め出されたということでしょうか。


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勝福寺の裏山に少しだけ登ってみましたが、登山道が整備されていて、遺構といえるかどうかはわかりませんでした。


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その裏山からの眺望です。

この日は天気が良くなかったので霞んでいますが、晴れていればが望めます。


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もはやこれまでと悟った尊氏は、ここ松岡城での切腹を決意したと伝わります。

その夜、別れの酒宴を開いていたところ、逃げたと思っていた尊氏の家臣・饗庭命鶴が駆け付け、直義との和議が成立したことを伝えました。

間一髪で切腹を取り止めた尊氏は、2月25日に松岡城を出発、山陽道を京へと引き返すのですが、その帰路、「その181」で紹介した鷲林寺の前で高師直が殺され、また、その翌年には足利直義が尊氏に殺害(異説あり)されたことで、「観応の擾乱」は一応の決着をみます。


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勝福寺の石段の上り口の左手に証楽上人の墓所があるのですが、このあたりを「ハラキリ堂」と呼んでいるそうで、切腹しようとした尊氏に由来していると考えられています。


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ところでこの松岡城、もうひとつの説として、打出浜の戦いの舞台から見て東にあたる鳴尾方面にあったという説もあります。

寛政年間(18世紀末)に刊行されてベストセラーとなった江戸時代の観光ガイドブック『摂津名所図会』によると、

松岡古城 小松鳴尾の山手にあり、観応二年将軍尊氏公、轟師直と共に退きて、ここに拠れり。


と記されています(参照:摂津名所図会)。

下の写真は西宮市の廣田神社にある江戸中期の案内板


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右下のあたりに「松岡古城」と書かれているのがわかるでしょうか?


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この地図は、『摂津名所図会』を元に作られたものだそうです。

現在では、先述した須磨区の勝福寺付近が通説とされていますが、だとしたら、『摂津名所図会』が刊行された当時、このあたりに城跡とみられる何らかの史跡が存在したのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-17 23:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その179 「光明寺城(滝野城)跡」 加東市

兵庫県加東市にある光明寺にやってきました。

この裏山にかつて光明寺城(別名:滝野城)があり、「観応の擾乱」における「光明寺合戦」の舞台になりました。


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足利直義によって派遣された石塔頼房が、中国筋平定のため書写山にいた足利尊氏を討つべく、ここ光明寺に陣を布いて京にいた直義に援軍を求めました。

それを知った尊氏は援軍の来る前にうち破ろうと、1万の兵で光明寺を囲みます。

正平6年/観応2年(1350年)年2月4日のことでした。


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尊氏は引尾山高師直鳴尾山赤松則祐八幡山に陣を布いて光明寺の石塔軍と戦いますが、10日間に及ぶ戦闘にも決着がつかず、やがて援軍が迫ると、尊氏は光明寺の包囲を解いて摂津へと軍勢を移し、そして、「その66」で紹介した打出浜の戦いにつながります。


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標高230m、比高150mの場所に本堂がある光明寺ですが、かなり上まで車で登っていけますので、訪れるにそう難しくはありません。


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駐車場から見た東の眺望です。


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南は遥かに東播磨平野が広がります。


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入口には五峰山光明寺と刻まれた石碑があります。


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光明寺は推古帝2年(594年)法道仙人開基と伝えられ、文明年間(1469年~1487年)頃には25の塔頭寺院が山頂に建つ並ぶ壮大な寺院だったそうですが、現在ではわずかに4つの院坊が残るのみとなっています。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日でしたが、紅葉の季節に来れば、きっとメチャメチャ綺麗だと思います。


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仁王門です。


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ここもの木だらけです。


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本堂です。


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本堂脇を抜けて裏山に入ると、すぐに「光明寺合戦本陣跡」と刻まれた石碑があります。

ここが、石塔頼房が5000余りの兵で陣を布いた場所と推定されているそうです。


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本陣跡には、観光客用に足利氏の家紋である二つ引両を記した陣楯が置かれ、本陣っぽく演出されていたようですが、随分以前のものらしく、ほとんど朽ち果てています。


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あるいは、大河ドラマ『太平記』のときに作られたものかもしれませんね。

だとしたら、25年前のことです。

そろそろ作りなおしてはどうでしょう?


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本陣跡の説明板です。


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本陣跡の近くには、『太平記』に記された「山鳩の悪夢」「高家無文の白旗」といった逸話を紹介した案内板がありました。


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本堂から少し下ったところに、物見台があります。

そこからの眺望です。


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ズームすると、遥か南に神戸市西区の雌岡山(めっこうさん)と雄岡山(おっこうさん)が見えます。


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参道脇には、滝野城主・阿閇重氏の墓があります。


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阿閇重氏という人物のことはよく知らないのですが、墓石には、「大永六丙戌年歿」と刻まれていますので、西暦1526年、現在より490年前に没した人物のようです。

その後、光明寺は現在まで続きますが、光明寺城(滝野城)がいつまで存在していたのかは、定かではありません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-11 22:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その178 「石龕寺」 兵庫県丹波市

兵庫県丹波市にある石龕寺までやってきました。

難しい漢字ですが、石龕寺(せきがんじ)と読みます。

ここは、「観応の擾乱」にて敗れた足利尊氏とその嫡子・足利義詮が、一時この地に身を寄せたと伝わる寺です。


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「観応の擾乱」とは、南朝、北朝の争いが続くなかで起きた、足利氏内部での内紛のことをいいます。

征夷大将軍に任ぜられ幕府を開いた足利尊氏は執事・高師直とともに、地方武士を取り込み、新体制を樹立しようとしていました。

しかし、尊氏の弟・足利直義は、こうした体制に反対で、鎌倉幕府的体制の再建をめざします。

こうして、尊氏・高師直と直義は対立することになり、とうとう両者は武力衝突してしまうんですね。

これが正平5年/観応元年(1350年)からの「観応の擾乱」です。


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まず、尊氏の子で直義の養子となっていた足利直冬が九州で挙兵、これを討つため尊氏が九州へと向かったすきに、直義は京を固めてしまいます。

それを知った尊氏は、年が明けた正平6年/観応2年(1350年)年1月、京へ引き返して直義と戦うも負けてしまい、兵庫へ落ちのびます。

その際、一時身を潜めていたのが、ここ石龕寺だったと伝わります。


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『太平記』巻29「将軍親子御退失事付井原石窟事」によれば、尊氏は嫡子の義詮に仁木頼章、義長兄弟を添え、2000騎を当地に留めたといいます。

このとき、石龕寺の僧が足利氏に丹波栗を献上したそうで、それを受けた義詮は、そのひとつに爪痕を付け、「都をば出て落ち栗の芽もあらば世に勝ち栗とならぬものかは」(もしこの栗が芽を出せば、都に出て天下を取ったものと思ってくれ)という歌を添え、栗を植え立ち去りました。

その後、首尾よくそのとおりとなったため、「爪あと栗」または「ててうち栗」として伝えられるそうです。


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仁王門の金剛力士像(仁王像)は仁治3年(1242年)に作られたもので、国の重要文化財に指定されています。

ということは、尊氏、義詮も同じものを目にしたんですね。


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携帯電話も圏外になるほど人里離れた山奥にある石龕寺は、その名称のどおり、城郭のごとく各所に石垣が積まれています。


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本堂です。

方三間、宝形造り、銅板葺、唐破風向拝付です。


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本堂前にある巨木「コウヨウザン」です。

推定樹齢300年だそうですから、さすがに、『太平記』の時代は知りません。


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とにかく石垣が見事です。


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本堂横には、奥の院に向かう参道入口があります。

ここから奥の院まで約30分の登山です。


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登山口を登るとすぐに、防獣柵があります。

ここを開けて進むと、道はいきなりハードになります。


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道中、明らかに石垣跡と思われる遺構が所々に点在していました。


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ここも、この時代の他の大寺院がそうであるように、寺と城が一体となって要塞化した武装寺院だったのでしょうか?


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急斜面を約30分登ると、建物が見えてきました。


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どうやら鐘楼のようです。


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奥の院鐘楼からの眺望です。


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石灯籠群の道を更に奥に進みます。


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奥の院拝殿です。


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さらに奥に進むと、休憩小屋が建てられた平坦地に、「足利将軍屋敷跡」と刻まれた石碑が建てられています。

どうやら、尊氏、義詮がしばらく逗留していたというのは、この場所のようです。


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でも、すいぶん狭小な敷地で、どう考えても、ここに2000の兵を留め置いたとは思えません。

たぶん、ここには将軍と側近の仁木兄弟と、身の回りの世話をする小姓が少数いたのみで、あとは、ここに登ってくる途中にあった石垣跡などにあったと思われる曲輪などにいたんでしょうね。


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ここ石龕寺は紅葉が美しいことで有名で、毎年11月第3日曜日には「もみじ祭り」が催されます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-10 23:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その160 「尊氏産湯之井」 京都府綾部市

前稿で紹介した「景徳山安国寺」の近くに、古い井戸跡があるのですが、ここは、足利尊氏が生まれたときに産湯として使用された井戸との伝承があるそうです。


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前稿でも紹介しましたが、ここ綾部市は旧丹波国何鹿郡八田郷上杉荘といい、尊氏の母・清子の実家である上杉氏の領国でした。


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説明看板によると、清子は出産のために故郷の丹波に帰り、安国寺の門前の別邸に住んで、当寺の地蔵菩薩安産を祈願し、嘉元3年(1305年)に尊氏を産んだと伝えられています。

700年前にも里帰り出産があったんですね。


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消えかかっていますが、「足利尊氏公産湯井戸」と刻まれています。


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後世に編纂された『難太平記』では、尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて、1羽は尊氏のに止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えています。

また、弟の足利直義の産湯の際にも2羽の山鳩が飛んできて、柄杓湯桶の端にとまったとか。

当時、山鳩は八幡宮の遣いと考えられており、源氏の祖である源八幡太郎義家を意味していました。

つまり、やがて天下人になるであろうお告げだったというんですね。

ただ、当時は執権北条一族に憚って、人々はこのことを口にしなかった・・・と。

やがて足利政権の時代がくると、あのときの八幡様のお告げは、やっぱり本当だった・・・と。

よく出来た話です(笑)。


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井戸の中を覗いてみましたが、ただの井戸でした。

当たり前ですが。


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近くには、尊氏の像がありました。


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この像は、平成15年(2003年)3月27日、京都縦貫自動車道(丹波綾部道路)綾部安国寺インターチェンジの新設を記念し、多くの市民や全国各地からの篤志により建立されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-03 10:02 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(2)  

太平記を歩く。 その159 「景徳山安国寺」 京都府綾部市

足利尊氏生誕地と伝わる京都府綾部市を訪れました。

足利氏といえば、栃木県の足利荘を思い浮かべるのですが、実は、尊氏が生まれたのは母・清子の実家、上杉氏の本貫地である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘だったそうです。

700年前にも、里帰り出産があったんですね。


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その生誕地にある安国寺に、尊氏と母の清子、そして妻の登子供養塔があると知り、車で約2時間かけて遠路はるばる訪れました。


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寺に入口には、「足利尊氏公誕生の地」と刻まれた石碑があります。


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紅葉の名所だと聞いていたので、その季節を狙って11月20日に訪れたのですが、あいにくので、残念ながら暗い写真ばかり。


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全国各地に「安国寺」という名称の寺がありますが、その多くは、尊氏の時代に建立および改修・改名されたものです。

延元3年/暦応元年(1338年)、征夷大将軍となって室町幕府を開いた尊氏は、禅僧・夢窓疎石の勧めで前稿で紹介した天龍寺の建立を始めるとともに、元弘の乱以降の戦死者を弔うため、国ごとに1寺1塔を建てる計画を立てます。

このときの寺を「安国寺」、塔を「利生塔」と称しました。

山城国の安国寺には、あの一休宗純(一休さん)がいたことで有名ですね。


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山門の扉には、足利氏の二つ引の紋章が。


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安国寺と利生塔は新しく造営されたものもありましたが、既存の寺院を修理してこれにあてた国もありました。

ここ綾部市の安国寺は、もとは清子の実家・上杉氏の菩提寺・光福寺としてあったものを、尊氏が丹波国の安国寺と定め、諸国安国寺の筆頭におきます。

自身の生誕地ということもあったでしょうが、母を敬う尊氏の思いが込められていたのでしょうね。


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雨じゃなければ、きれいな写真だったでしょうけどね。


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茅葺の仏殿は寛保3年(1743年)に再建されたものだそうです、。


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ここにも二つ引が。


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そして、こちらが境内奥にある、尊氏・清子・登子の供養塔と伝わる宝篋印塔です。

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向かって左から、清子、尊氏、登子の供養塔と伝わります。


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説明板です。

『安国寺文書』によると、二代将軍・足利義詮によって尊氏と登子の遺骨が安国寺に奉納されたと記されているそうで、南北朝時代のものとさせるこの宝篋印塔が、その墓碑だと考えられているそうです。

でも、だったら、清子の墓っていう伝承は、なんの根拠なんでしょうね?


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あいにくの雨でしたが、せっかく綾部市まで来たので、次稿、もう一回綾部市をやります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-01 00:11 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)