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太平記を歩く。 その70 「慶雲寺」 神戸市須磨区

前稿の宝満寺につづいて、この時期の足利尊氏にまつわる伝承が残る寺院が神戸市内にもう1ヵ所あります。

湊川の戦いの舞台からはちょっと離れているのですが、須磨区車にある慶雲寺です。


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その伝承によると、湊川の戦いのとき、足利尊氏軍の軍勢の近くに一人の僧侶が現われ、その僧が尊氏めがけて飛んでくる幾本もの矢を空中で受け止めては投げ捨ててくれたといいます。

そのおかげで、味方をまったく傷つかずにすみ、尊氏軍の勝利に終わりました。

尊氏は戦勝後、その僧を日ごろ信仰してきた兵庫にある魚御堂地蔵の化身と考え、矢拾い地蔵としてここ車の地に移し、その仏像を祀る寺として善福寺を創建しました。

魚御堂は、平清盛が魚を供養するために建てた寺です。

その後、善福寺は明治20年(1887年)に慶雲庵と合併して、慶雲寺となりました。


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もちろん、この話も伝承の域を出ず、にわかに信じられる話ではありません。

ですが、寛政8年(1796年)に刊行された『摂津名所図会』という江戸時代の観光ガイドブックの文を引用すると、


「善福寺中村にあり。妙法寺より十町ばかり北なり。真言宗。本尊矢拾地蔵、長五尺二分。建武年中、足利尊氏公兵庫合戦の時、この本尊を信仰ありしゆゑ、応験ありて一法師と現れ、敵より射る矢を宙にて拾ひ味方の勝利としたまふゆゑにこの名を呼びけり。旧地は兵庫南浜魚御堂なり。」


とあります。

少なくとも、寛政時代には、この伝承はあったようですね。


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境内から見下ろした景色です。

湊川の戦いの舞台となった場所は、山の向こうです。

残念ながら、昭和28年(1953年)の火災によって、矢拾い地蔵は焼失したそうです。

次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-16 01:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その69 「福海寺(足利尊氏開祖)」 神戸市兵庫区

足利尊氏が開祖という神戸市兵庫区の福海寺に来ました。

建武3年(1336年)、京都を脱出して西へと敗走する足利尊氏が、新田義貞の軍勢に追われたとき、この地にあった観音堂の下に身を隠して難を逃れたといわれ、その報恩のため、のちに尊氏がこの寺を建立したと伝えられています。


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先の話になりますが、「湊川の戦い」楠本正成が戦死し、新田義貞が敗走したことにより、足利尊氏は京へ戻り、延元元年/建武3年(1336年)8月に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を廃し、持明院統光明天皇(北朝第2代天皇)を擁立します。

しかし、その12月、京を脱出した後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れ、自己が正統の天皇であると主張し、ここに京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)が両立することになり、南北朝の動乱がはじまります。


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そんななか、尊氏は延元3年/建武5年(1338年)8月に、光明天皇から征夷大将軍の宣下を賜り、幕府を開きました。

そして、興国5年/康永3年(1344年)、ここ福海寺を創建します。


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入口横の壁にあった「太平記合戦図」です。

先述した福海寺の前身である針ヶ崎観音堂の下に避難する様子が描かれているそうです。


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境内には、尊氏の歌碑があります。


「彼の岸へ 渡す誓いの船出には 我も乗りえん 賽は火の海」


尊氏が兵庫から落のびる心境を詠ったものだとか。


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寺の紋である「二引両」は、足利氏の家紋からきています。

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なお、足利尊氏が兵庫で敗れ九州へ逃げたあと、逃げ遅れた足利軍の軍勢は持っていた軍旗の「二引両」の紋の間を黒く塗って2本線1本線にし、にわか「一引両」(新田家の家紋)にしたという逸話が残されています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-15 00:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その68 「宝満寺」 神戸市長田区

神戸市長田区にある宝満寺を訪れました。

打出合戦に敗れた足利尊氏が敗走中にここを訪れ、再起を願い、武運を守るようにと祈願したと伝えられます。


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その後、尊氏は兵庫から九州へ敗走しますが、筑紫(福岡県)の多々良浜菊池武敏軍と戦った多々良浜の戦いのとき、突然、突風が吹き、その中から一人の少年が尊氏の前に現われ、矢竹をほしいと頼んだといいます。

尊氏は、その少年に一本の矢竹を与えました。

その後、勢力を立て直した尊氏は、再び兵庫へ攻め上ってきますが、その際、再びここ宝満寺を訪れ、矢竹のことを僧に話したところ、その僧はたいそう驚き、寺の本尊の下で見つけたという矢竹を尊氏に見せたそうです。

その矢竹は、まぎれもなく尊氏が少年に与えたものだったとか。

尊氏はこの寺の本尊が自分を守っていてくれたのだと悟り、戦勝後、尊氏はこの本尊を深く信仰したと伝えられます。


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もちろん、にわかに信じられる話ではありませんが、尊氏は湊川の戦いの際、ここ宝満寺に本陣を布き、また、戦勝後も宝満寺を崇敬し、伽藍の修復や寺領の寄進をしたことは本当のようですから、尊氏が何らかのご利益を感じていたというのは事実なんでしょうね。


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説明板によると、その後、宝満寺は天正7年(1579年)に荒木村重によって焼き討ちされ、寺録も没収されたそうです。

天正7年といえば、村重は籠城していた有岡城から9月に尼崎城に移っており、兵庫の花隈城に入ったのは翌年の2月頃のこと。

焼き討ちされたのは天正8年じゃないでしょうか?

さらに、第二次世界大戦時の神戸大空襲により寺は全焼し、残念ながら寺史に関する史料はすべて焼失してしまったそうです。


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太平記とは関係ありませんが、境内には尼崎藩第2代藩主青山幸利慰霊碑と、その家老の天野八郎兵衛の顕彰碑があります。


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青山幸利は尼崎藩主として現在の神戸一帯の領主でもありましたが、たいへん厳正で領民思いの善政を行ったため、その感謝の意を込めて、貞享元年(1684年)にこの碑が建てられたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-14 01:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その67 「藤之寺(北風家菩提寺)」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある、藤之寺にやってきました。

ここは兵庫津の豪商・北風家の菩提寺として知られますが、その北風家の祖先が、『太平記』に関わっていると知り、ここを訪れました。


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伝承によると、建武3年(1336年)2月10・11日の打出合戦に破れた足利尊氏軍が、兵庫津から船で九州に敗走しようとしていたとき、この地に古くから住む豪族・白藤氏の第44代・白藤惟村が、北風を利用して足利軍の船に火をつけ、足利軍に大きなダメージを与えたそうです。

その功により、足利追討軍の新田義貞から軍忠状とその佩刀を賜り、北風にあやかって「喜多風」の姓を受け、さらに、惟村は新田義貞から「貞」の一字を譲り受け、喜多風貞村と名乗るようになったそうです。


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しかし、その新田軍が湊川の戦いで敗走すると、喜多風一族もそれとともに隠遁、その後、なんとか一族の滅亡は逃れたものの、室町時代は目立った活躍はなかったようです。

やがて江戸時代に入り、姓を「北風」と改めると、廻漕業を営むようになり、寛永年間(1624~1648)には、北風彦太郎が越後米、加賀米を西廻り下関を経て瀬戸内海から兵庫に廻漕するルートを開き、莫大な富を築きます。

第63代・北風荘右衛門貞幹のときには、俳人与謝蕪村パトロンとなったり、無名時代の高田屋嘉兵衛を後援したりしたそうです。

また、幕末から明治にかけての当主・北風正造(第66代荘右衛門貞忠)は、表向き幕府の御用達を勤めながら、勤皇の志士側たちに資金と情報を提供し、倒幕を推進しました。

しかし、正造はあまりにも公徳心が強すぎ、明治に入って家業は倒産してしまいます。


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新田軍に与したことから始まり、倒幕軍に与して終わった北風家。

時代は違えど勤皇だったんですね。

その北風家の一族が、ここに眠ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-09 23:52 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その66 「打出合戦、大楠公戦跡の碑」 兵庫県芦屋市

建武3年(1336年)2月10・11日に起きた、打出合戦の地を訪れました。

現在、その跡地である兵庫県芦屋市楠木町には、「大楠公戦跡」と刻まれた巨大な石碑があります。


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「建武の新政」に不満を募らせた武士たちの期待に呼応するかたちで、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に反旗を翻した足利尊氏は、建武2年(1335年)12月11日、攻め寄せた新田義貞軍を箱根竹ノ下で撃破すると、その勢いで、翌年1月に京都へ乱入しますが、それに対し、後醍醐天皇は奥州から北畠顕家を呼び戻し、足利軍と激突させます。

ここで北畠・新田ら朝廷軍に押された足利軍は、1月30日に京を脱出し、丹波路を通り三草越えの道をとって、2月3日には兵庫の魚ノ御堂に陣を布きます。

ここで足利軍は、周防国の大内氏に援軍を得ることができ、再び京奪還を目指して東へ軍を進めました。

その途上、追撃してきた新田義貞・楠木正成軍と、この地で激しい戦闘となります。

これが打出合戦です。


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結局、尊氏はこの合戦に敗れ、12日に全軍をあげて兵庫から船で海路九州へと敗走

このときの様子を『太平記』では、「とるものもとりあへず、乗りおくれじとあはて騒ぐ。舟はわずかに三百余艘なり。乗らんとする人は二十萬騎に余れり」と伝えています。

かなり混乱していたようですね。


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このあたりの住所は、「芦屋市楠木町」といいます。

言うまでもなく、その由来は楠公さんから来たのでしょう。


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国道2号線を挟んで北側が楠木町、南側が打出町です。

さらにその南側は、現在は阪神高速道路が走っていますが、当時はでした。

平成7年(1975年)1月17日の阪神・淡路大震災のとき、高速道路が横倒しになって、バスが半分落下しかけていた映像を覚えている方も多いかと思いますが、ちょうどあのあたりです。


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また、同じく『太平記』における終盤のクライマックスといえる「観応の擾乱」のなかで、足利直義と足利尊氏・高師直の兄弟間で戦った「打出浜の戦い」も、このあたりが舞台でした。


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ちなみに、この「打出」は、「打出の小槌」の伝承の舞台でもあります。

歴史に深く関わる摂津国打出浜は、現在も芦屋市打出という住所で往時を偲ばせてくれます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-08 22:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その65 「一乗寺下り松」 京都市左京区

京都市左京区にある「一乗寺下り松」を訪れました。

ここに、「大楠公戦陣蹟」と刻まれた、大きな石碑があります。


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「建武の新政」に不満を募らせた武士たちによって混乱が生じはじめた建武2年(1335年)7月、滅亡した鎌倉幕府執権だった北条高時の遺児・北条時行が、幕府再興を掲げて信濃で挙兵し、進軍して鎌倉を占拠する「中先代の乱」が起きます。

これを鎮圧に向かった足利尊氏は、乱を平定したのちも鎌倉に留まり、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の帰京を促す呼びかけにも応じず、やがて、鎌倉幕府に変わる新しい武家政権の樹立を求める声に呼応するかたちで立ち上がります。


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後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏は、12月11日、攻め寄せた新田義貞軍を箱根竹ノ下で撃破(竹ノ下の戦い)。

その勢いで、尊氏は翌年1月に京都へ乱入します。

これを迎え撃つ天皇方は、各地で諸将が守備します。

その一人、楠木正成が陣を布いたのが、ここ一乗寺下り松でした。


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石碑の裏には、「昭和二十年五月二十五日建立」とあります。

第二次世界大戦終戦の約3ヶ月前ですね。

この時期といえば、各地が空襲に見舞われ、日本全土が焦土と化していた頃で、よくこんなものを建てる余裕があったなと思うのですが、そんな時期だからこそ、皇国の忠臣の象徴である楠木正成の碑が必要だったのかもしれません。

そう思えば、これは史跡というより、負の遺産ですね。


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傍らにある小さな石碑には、そんな正成を頌える文が刻まれています。


碑文

「建武三年正月足利尊氏兵八十万を率ゐて来寇す 官軍之を邀へ廿七日を期して京に決戦せむとす 乃ち前宵楠木結城伯耆の諸将其勢三千餘騎叡山を西に降りて下松に陣し 明くる遅しと進み撃ち一挙にして賊徒を西海に却け了んぬ これ多くは楠公神策の然らしめし所太平記の著者も楠木は元来勇気無双の上智謀第一と讃歎せり しかれとも我か国悠久三千年必すしも文武智勇の人に乏しかりきとせず しかも楠公に貴き所以は其智勇常に天皇に帰一し奉りしに在り かゝる楠公精神こそ以て新に樹立すへき産業日本の指針たるへく又以て永く興隆すへき平和日本の標幟たるへし 即ち新に陪碑して公の徳を謳はむとする所以なり」


強烈ですね。

碑文の後半を要訳すると、「楠公の貴いところは、その智をもって常に天皇のために尽くしたところにあり、この楠公の精神こそ、これからの日本の産業の指針とすべきで、日本の平和の標識とすべきだ」といったところでしょうか。

ほとんど敗色濃厚だったこの時期にこのようなことを言っているのですから、当時のわが国の指導者たちが、いかに狂っていたかがわかります。

正成自身、後世にこのような扱いを受けようとは、夢にも思っていなかったでしょう。


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ちなみに、ここ一乗寺下り松は、江戸時代初期に剣豪・宮本武蔵吉岡一門数十人決闘を行った場所としても有名で、「宮本吉岡決闘之地」と刻まれた石碑があります。

ていうか、観光客用の看板などは、ほとんどが「武蔵ゆかりの地」を謳っており、「大楠公戦陣蹟」は知る人ぞ知るって感じでしたけどね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-07 23:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その39 「六波羅探題府跡(六波羅蜜寺)」 京都市東山区

大塔宮護良親王楠木正成、赤松則村(円心)のはたらきに加え、幕府方だった足利高氏(尊氏)寝返りが決定打となり、元弘3年(1333年)5月7日、とうとう六波羅探題が落とされます。


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六波羅探題は現在の京都市立六原小学校にあったとされ、現在はその近くにある六波羅蜜寺石碑が建てられています。


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『太平記』によると、足利軍と六波羅軍の合戦を源平合戦になぞらえています。

足利は源氏、北条は平氏だからでしょう。

六波羅軍は足利軍の猛攻を必死に抵抗しますが、6時間の激戦のすえ、ついに壊滅します。

足利軍は、なおも追いすがる残敵を払いのけ、大宮大路の各木戸を打ち破り、二条大路から八条大路までの七つの大通りを埋め尽くしながら、ここ六波羅密寺に押し寄せました。


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やがて、赤松則村(円心)軍、千種忠顕軍も合流し、六波羅探題の館を包囲。

追い詰められた六波羅探題北方の北条仲時は、六波羅探題南方の北条時益とともに、後伏見上皇(第93代天皇)、花園上皇(第95代天皇)、光厳天皇(北朝初代天皇)を伴って東国へ落ち延びようとしますが、道中の近江国で野伏に襲われて時益は落命し、仲時も番場峠野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺にて天皇と上皇の玉輦を移したあと、本堂前で一族432人と共に自刃します。享年28。

次回は、その蓮華寺を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-13 22:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その38 「篠村八幡宮(足利高氏旗揚げの地)」 京都府亀岡市

京都府亀岡市にある篠村八幡宮を訪れました。

ここは、足利高氏(尊氏)尊王討幕の旗揚げをした地として知られます。

シリーズ38にして、ようやく高氏の登場です。


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鎌倉幕府の役人だった足利高氏は、当初は幕府軍として笠置山の戦い下赤坂城の戦いに従軍していましたが、そのとき、父の足利貞氏の喪中であることを理由に出兵動員を辞退しましたが、幕府はこれを許しませんでした。

『太平記』では、このことで高氏は幕府に反感を持つようになったと伝えています。


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元弘3年(1333年)閏2月24日に隠岐を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が伯耆国船上山にて挙兵すると、幕府はその鎮圧を高氏に命じます。

これを受けた高氏は、兵を率いて西へ進軍しますが、4月27日にこの地に兵を留め、社前で神に誓って決意を表明し、4月29日、後醍醐天皇側に寝返って討幕する意思を表明します。


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本殿横には、「足利高氏旗揚げの地」と刻まれた石碑があります。


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『太平記』によると、討幕の決意を表明した高氏は、戦勝祈願の願文を神前で読み上げ、その願文に添えて鏑矢を1本、神前に奉納しました。

その際、弟の足利直義をはじめ、一族の吉良、一色、仁木、細川、今川、高、上杉らの諸将も、我も我もとを一本ずつ納めて必勝を祈願したといい、そのため社壇には矢が塚のように高く積み上げらたといいます。


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境内には、そのときの矢が埋葬されたと伝わる「矢塚」があります。


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塚に建てられた石碑は、元禄15年(1702年)に奉納されたものだそうです。


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現地説明板によると、矢塚には椎の幼木が植えられ、その椎は樹齢600年程を経て周囲の椎と同じ程に成長していたそうですが、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れちゃったそうで、現在の椎は2代目だそうです。

第二次世界大戦時には、高氏の勝ち戦にあやかるべく、椎の倒木から作った肌身守を持参して出征した人がいたそうです。

戦前の日本では、楠木正成忠臣の象徴で高氏は逆賊扱いだったと思うのですが、必ずしもそうではなかったのでしょうか。


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矢塚横に聳えるツブラジイの巨樹です。

樹齢はわかりませんが、樹高は27mあり、「亀岡の名木」に指定されているそうです。

あるいは、この木も同じ頃に植えられたものかもしれません。


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境内の北の民家の横に、「旗立楊(はたたてやなぎ)」と呼ばれる楊が立っています。

旗揚げした高氏は、すぐさま全国各地の武将に協力を求める密書を送ったといい、5月7日までの間に、久下時重をはじめ、長澤、志宇知、山内、葦田、余田、酒井、波賀野、小山、波々伯部などが参じ、その数は2万3千にまで膨れ上がったといいます。


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このとき、次々と駆けつけてくる武将たちに陣の場所を示すため、高く聳え立つ楊の木に足利家の家紋「二両引」印の入った源氏の大白旗が掲げられたと伝えられています。


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楊の樹齢は100年程だそうで、現在の楊は昭和初期に植えられたものだそうで、高氏の時代から6~7代を経て引き継がれたものだそうです。


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高氏の寝返りが決定打となり、5月7日には京の六波羅探題が落とされ、そして5月22日に北条氏鎌倉幕府は滅亡します。

その後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、天皇の諱「尊治」から偏諱を受け「尊氏」と改名しました。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-12 18:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その7 「雀の松原」 神戸市東灘区

元弘元年(1331年)の笠置山の戦いに敗れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、翌年、隠岐島に配流となります。

その道中、後醍醐天皇は現在の神戸を通過するのですが、そのとき、ここ「雀の松原」を通ったと伝えられます。


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現在は住宅街のなかにある小さな公園に石碑のみが建てられていますが、かつてこのあたりは海岸線で、松林があったそうです。


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『太平記』より更に古い『源平盛衰記』『平家物語』にもその名称は見られ、後醍醐天皇のことが書かれた『増鏡』では、「(後醍醐天皇は)雀の松原、布引の滝など御覧じやらるるも、……生田の里をば訪はで過ぎさせ給ぬめり。湊川の宿に著かせ給へる」とあり、後醍醐天皇がここ雀の松原や布引の滝を見ながら隠岐へと流されていったことがわかります。


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碑文

「竹ならぬかげも雀のやどりとは、いつなりにけん松原の跡」


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側面には「中納言公尹卿」とあります。

鎌倉時代の公卿、洞院公尹のことです。


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右側の小石碑表面には

「雀松原遺址、杖とめて千代の古塚とへよかし是や昔の雀松原 平安山田寿房」

とあります。

調べてみましたが、山田寿房という人のことはよくわかりません。


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この石碑は阪神電鉄開通工事の際、軌道敷内にあって取り壊された真の旧蹟を惜しんで、地主が所有地を地盛りして若松を植え、移設したものだそうです。


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また、これより20年後の正平6年(1351年)に、足利尊氏足利直義兄弟が互いに戦った場所でもあります。(観応の擾乱)

打出の鷲林寺に陣を置く直義に対し、尊氏はこれを討つべく2万の軍勢を進めますが、兵が多すぎて逆に身動きが取れないと察知した尊氏の部下・薬師寺次郎左衛門公義が自らの手勢をここ雀の松原に待機させた場面が『太平記』に描かれており、そこには「一族の手勢二百余騎、雀ノ松原の木陰にひかえて」とあります。

結局、この打出・御影浜の戦いでは、大軍で統制がとれなかった尊氏方は敗れ、総崩れとなって西へ敗走します。


さて、次稿では、同じく後醍醐天皇が通ったという「布引の滝」を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-01 17:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)