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太平記を歩く。 その157 「足利尊氏邸・等持寺跡」 京都市中京区

延元3年/暦応元年(1338年)、足利尊氏光明天皇(北朝第2代天皇)から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が樹立します。

その、室町幕府発祥の地を訪れました。


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京都市中京区のオフィス街になかに、「足利尊氏邸・等持寺跡」と刻まれた石碑があります。

ビルの隅っこの植え込みのなかにあるその石碑は、気づかずに通り過ぎてしまうほど質素なものでしたが、かつてこのあたりに、尊氏の邸「三条坊門第」(二条万里小路第)があったとされています。


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現地説明板によると、尊氏邸の範囲については諸説ありますが、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250m、東西120mの土地を占めていたと考えられているそうです。

実に約9000坪以上、これは邸というより、ほとんど城ですね。

尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文3年(1358年)にここで薨じました。

のちにこの邸宅は「等持寺」という寺院に改められました。

尊氏は3つの寺院を建てることを願っていましたが実現できず、そのため「等持寺」という文字の中には3つの寺が含まれることになったと伝えられています。


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等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集め、室町時代の政治・文化に大きな役割を果たしました。

しかし、応仁の乱以降は次第に衰退し、結局は別院であった等持院に合併されてしまったそうです。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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by sakanoueno-kumo | 2017-11-28 22:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その4 「旧魚屋萬蔵宅(いろは丸事件第1回談判場)」

「いろは丸事件」坂本龍馬紀州藩鞆の浦での談判は、慶応3年(1867年)4月24日から26日にかけて3回行われましたが、その最初の談判の会場が、ここ旧魚屋萬蔵宅だったといいます。


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といっても、この建物は当時のものではありません。

旧町役人の家である魚屋萬蔵宅は、明治以後、何度も増改築が繰り返され、戦後には通りに面した部分に近代的な増築が施され、伝統的な外観を大きく損ねる建物になっていたそうです。

長く呉服店として使用されていたそうですが、平成13年(2001年)からは空き家になり、老朽化が進んでいたそうです。

その後、地元のNPO「鞆まちづくり工房」をはじめ、さまざまな協力を得て改修し、旅館「御舟宿いろは」として平成18年(2008年)にオープンしたそうです。

なんと、外観はあの宮﨑駿氏がデザインしたんだとか。

宮崎氏は、ここ鞆の浦の滞在中に映画『崖の上のポニョ』の構想を練ったそうで、そのときの縁で、ここの改修工事に関わったそうです。


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「いろは丸事件談判跡」と刻まれた石碑があります。


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中に入ると、1階は御食事処でした。

観光のつもりで入ったのですが、「いらっしゃいませ」と言われてしまい、ちょうど昼食がまだだったこともあり、やむなく食事をとることに(苦笑)。

でも、「鯛いろは漬け御膳」、メチャウマでした。


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修復作業の際の調査により、旧魚屋萬蔵宅は江戸時代後期に当たる18世紀後半に建てられたと推測されたそうです。

また、龍馬たちの談判の場は2階だとされていましたが、調査の結果、2階部分は明治以降に増築されたことが判明し、談判が行われたのは1階の8畳間であると断定されたそうです。

それが、この部屋。


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もちろん、改修されていますので当時のままの部屋ではありません。


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慶応3年(1867年)4月24日、この部屋で交渉の席についた龍馬は、明光丸船長・高柳楠之助に、「今回のような海難事故は例のないこと。万国公法にのっとり、この後の交渉を進めたい」と提案します。

万国公法はアメリカの法学者が著した国際法の教科書で、龍馬は神戸海軍操練所時代に勝海舟らを通じてこれを学び、日本語への翻訳を計画するほどに内容を熟知していたといいます。


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しかし、この時代のほとんどの日本人は国際ルールなど知らず、そのため、万国公法をたてに取って談判に臨めば、自分の土俵で相撲をとれるいう目算があったのでしょう。

龍馬は、事故の交渉事は現場近くで行うのが国際ルールとして、「事件解決まで明光丸の出港をひかえられたい」と要求しますが、高柳は首を縦にふりません。

「万国公法に基づき非は明光丸にある」と主張する龍馬と、「すべて藩命に従う」とする高柳。

交渉はまったく進まないまま、ここ旧魚屋萬蔵宅での第1回目の談判を終えます。


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談判時も、こんな中庭があったのでしょうか?


さて、次稿では、第2回、第3回の談判が行われた場所を訪ねます。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-25 00:11 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その3 「桝屋清右衛門宅(龍馬の隠れ家)」

坂本龍馬鞆の浦に滞在した4日間、宿泊していたとされる桝屋清右衛門宅を訪れました。

屋根が片方だけ長い特徴的なつくりですが、これは、正面から見たときに実際よりも建物を大きく見せかけてる工法で、鞆では19世紀以降に流行した手法だそうです。

商家の見栄っ張りな気風がよく現れている建物だそうです。


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「坂本龍馬宿泊跡」と刻まれた石碑が。


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入口は2ヵ所ありますが、南側の入口から入ります。


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玄関を入るとすぐに、龍馬の写真パネルが迎えてくれます。


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こちらは説明板。


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順路を進むと、日本間に時代劇などでよく見る商家の衝立が。

ここに番頭さんがいたのでしょうか?


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横のふすまには坂本家の桔梗の家紋が入った袴下が飾られています。


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順路に沿って奥に進みます。


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物置のような箪笥部屋に、梯子が架かっています。


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当時は、屋根裏部屋に行くにはこの梯子しかなかったようで、板が閉じられていれば、上に部屋があることはわからなかったそうです。

まさに隠し部屋ですね。

あるいは命を狙われるかもしれない談判に臨む龍馬としては、このような場所に潜む必要があったわけです。


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いまは観光用に階段が設置されています。


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階段を上ると、海援隊のメンバーが集っていました(笑)。

左から3番目が龍馬です。


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そして更にこの細い階段を上ると・・・。


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ありました!

龍馬の隠れ部屋です。

広さは約8畳で、壁は当時のままだそうです。


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ホームページの解説によると、龍馬がここに宿泊した理由は、長崎の豪商・小曽根乾堂の末弟である小曾根英四郎が積荷の仕切り役としていろは丸に乗っており、その小曾根家と桝屋は商取引があったと思われ、英四郎の仲立ちで桝屋を宿舎に定めたと考えられているそうです。

ここ桝屋清右衛門宅に龍馬が泊ったという伝承がありましたが、長年その場所は確認されていなかったそうです。

そこで平成元年(1989年)、「坂本龍馬は屋根裏部屋に泊った」との言い伝えから地元の有志が天井を調査したところ、1カ所だけ天井板が外れ、この隠れ部屋が発見されたそうです。

部屋は当時のまま手つかずで残されていたそうで、ほこりや傷みがひどく、一般に公開できる状態ではなかったそうですが、広島県などの補助金を利用し整備を進め、平成23年(2011年)から一般公開することになったそうです。


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龍馬がここに泊まったとしては、紀州藩との賠償交渉の経過が記された『備後鞆津応接筆記』のなかに残されているそうで、そこには、「才谷梅太郎」の偽名で宿泊していたと記されているそうです。


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机の上の手紙は、「才谷梅太郎」の名で京都の伏見寺田屋お登勢に宛てて書いた手紙(複製)で、その日付から、龍馬がこの鞆の浦で書いたものと思われるそうです。


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身の危険を感じながらも、龍馬はこの部屋で談判の策を練っていたんでしょうね。

次回はその談判の場を訪れます。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-23 23:41 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その76 「赤松居館跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

少し北に戻って、「その72」で紹介した白旗城跡のある白旗山の西麓にある「赤松居館跡」を訪れました。

国道373号線沿いにある駐車場には、「赤松円心の郷」と書かれた大きな観光用看板があります。


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駐車場内には、赤松則村(円心)を紹介する大きな陶板があります。

とにかく、町全体で円心推しですね。


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居館跡です。


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何もないただの広場です。


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説明板です。


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説明板によると、東西105m、南北約55mのほぼ方半町に削平された台地上の字「御屋敷」にあり、ここが「赤松居館跡」と伝えられているそうです。

史料によると、円心の三男・赤松則祐により建てられ、のちにその子・赤松義則によって修理されているそうです。

また、その子孫で赤松氏を再興した赤松政則も、一時ここに住んでいたとか。


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東側の幼稚園(現在は廃園となり、「赤松の郷昆虫文化館」となっている)の建設前に行われた調査では、土師器皿などの中世の遺物が出土したそうで、ここが赤松氏代々の居館跡と考えて間違いなさそうです。


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居館跡の一角には、なぜか「苔縄城址」と刻まれた石碑があります。

ここは「その73」で紹介した苔縄城跡からは、3km以上離れています。

どういう意味でしょう?


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居館跡から望む白旗城跡です。

この時代の山城というのは居住スペースではなく、臨戦態勢に入ったときに籠るためのであって、平時は麓の居館に住むのが一般的でした。

いつもあんな山の上に居たんじゃ、領民に目を配れないですからね。


さて、次稿では、居館跡のすぐ隣りにある寺社をめぐります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-27 23:57 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その53 「名和氏館跡」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した名和神社から600mほど南東に、名和氏館跡と伝わる場所があります。

説明書きによると、ここは名和2代の屋敷跡で、「又太郎屋敷」または「デーノヤシキ(殿の屋敷)」と呼ばれているそうです。


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名和2代と書かれていましたが、誰と誰のことかは説明されていませんでした。

「又太郎屋敷」という呼称から、ひとりは名和又太郎長年だと思いますが、もうひとりは嫡男の名和義高?・・・あるいは次男の名和基長? 三男の名和高光

でも、長男の義高は父の死の2年後に河内国の堺浦で討死したと伝わり、三男の高光は父と時を同じくして比叡山の西坂本で討死したといわれ、次男の基長は、のちに高野山に入山してとなったといいます。

その後、名和氏は九州に下り、肥後国八代郡の地頭となっていますから、この地には戻っていません。

じゃあ、長年の父・名和行高のことでしょうか?

もうちょっと詳しく説明してほしいですね。


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名和氏は村上源氏雅兼流を自称していますが、おそらくこれは後付の由緒で、播磨国の赤松氏や河内国の楠木氏と同様、地域に根付いた土豪悪党の類だったと思われます。

「悪党」とは、現代で言うところの悪人の意味ではなく、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した自主独立の武士の集団を指します。

室町時代の「国人」の前身ですね。

この頃の「悪」は、「悪い」というより「強い」といったニュアンスの言葉だったようです。


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名和氏は海運業を営んで財をなしたと伝わりますが、海賊のようなものだったのでしょうか?


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敷地内にある碑は、天保6年(1835)に鳥取藩主の池田治道の遺命により建立されたものだそうですが、池田治道が死んだのは寛政10年(1798年)、この碑の建つ40年近く前になります。


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碑には確かに「天保六年八月」と刻まれています。

その頃に死んだ藩主となると、その2代あとの池田斉稷です。

その間違いじゃないでしょうか?


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屋敷は約2700㎡(800坪)ほどで、現在の家屋で考えれば豪邸ですが、当時の土豪の屋敷跡としてみれば、それほど広い敷地とは思えませんでした。

中世の屋敷というのは、土豪といえどもこの程度だったのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-17 22:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その31 ~箱木千年家~

「その29」で紹介した丹生山の麓に、「箱木千年家」の名称で知られる古民家があります。

ここは現存する日本最古の民家とされ、国の重要文化財となっています。


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この「箱木千年家」も、三木合戦に関わりがあります。

丹生山城跡を訪れたついでにここに立ち寄ったのですが、そのとき初めて、そのことを知りました。


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この家の主だった箱木家は、元は衝原氏と称した藤原鎌足の末裔といわれるこの地方の土豪で、三木合戦時の当主だった衝原与一左衛門藤豊は、三木城主の別所長治に仕えていたそうで、合戦の最中に討死したそうです。


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はなれに展示されていた古文書です。


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拡大します。


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読みづらいですが、

「属三木城別所氏 天正五年四月一日」からはじまり、

「冷泉郷ノ御家臣◯津伊賀守ト合戦顕武功 同年羽柴筑前守秀吉 播ノ国府御着城小寺加賀守ヲ攻ムル時 俵◯別所小三郎長治君ノ箱木与一左衛門藤豊◯細河中村城主岡村孫大夫秀治各両将御着城に加勢出陣合戦箱木藤豊戦死」

とあります(※◯は読解不能です。)

藤豊は冷泉氏との戦いで武功をあげましたが、御着城攻めの際に討死したようです。

また、たぶん藤豊の息子だと思われる箱木與一郎藤徳という人物の欄には、

「母別所大和守村重女 藤徳人質為入三木城内然天正八年正月十七日大 別所長治君自殺し後 俵◯秀吉之三木篭城諸士退散ノ利衝原舘◯住」

とあります。

藤豊は人質として三木城に入りますが、別所長治の自刃で三木合戦が終了すると、三木城を退散してこの屋敷に戻った、ということでしょうね。


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以後、箱木家は士分を捨てて農家となり、江戸時代は庄屋としてこの家を守りました。


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『摂津名所図会』などの近世の記録によれば、この住宅は、大同元年(806年)に建てられたとされていましたが、近年の調査によれば、母屋は14世紀頃に建てられ、離れは江戸時代中期に建てられたことがわかったそうです。


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現在の建物は、呑吐ダムの建設により、昭和52年(1977年)7月から昭和54年(1979年)3月にかけて移築工事され、従来あった場所から数十メートル離れた場所に建っているそうです。


次回に続きます。



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三木合戦ゆかりの地

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by sakanoueno-kumo | 2016-11-02 23:25 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

夏休み中播磨路紀行2016 その3 「林田大庄屋旧三木家住宅」

姫路市林田町にある「林田大庄屋旧三木家住宅」を訪れました。

ここは、かつての英賀城主・三木氏の流れをくむ大庄屋の邸跡と伝えられます。


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天正8年(1580年)、織田信長の命で播磨国に侵攻してきた羽柴秀吉により英賀城が落城した際、そのときの英賀城主の三木氏一族は、各地に逃れました。

英賀城最後の城主となった三木通秋の弟にあたる三木定通が、ここ林田村に逃れて帰農し、林田村構の三木家の祖となったと伝えられ、江戸時代を通じて大庄屋を務めたそうです。

大庄屋はふつうの庄屋とは違って、数ヶ村から十数ヶ村を統括し、身分は農民ですが、名字帯刀を許され、格別の特権と扱いを受けていました。


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建物の建築年代は江戸時代初期と推定され、大庄屋の建築としては県下で年代が推定できる最古の遺構だそうです。

広大な敷地には主屋、長屋門・長屋、米蔵、内蔵、新蔵を有しています。


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母屋は17世紀建築だそうで、入母屋造り茅葺屋根です。


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中はこんな感じ。


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米蔵、内蔵は土蔵造で、19世紀前期の建築だそうです。


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庭園に面して縁側があります。

こういう光景は、都会でマンション暮らしの私らにしてみれば、憧れの空間です。


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その縁側で記念撮影。


次回につづきます。





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by sakanoueno-kumo | 2016-09-30 22:14 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

夏休み中播磨路紀行2016 その2 「もちむぎのやかた~辻川山公園」

前稿の「夢さき夢のさとコテージ村」から車で20分ほど東の兵庫県神崎郡福崎町にある、「もちむぎのやかた」を訪れました。

「もちむぎ」とは大麦の一種で、この地域の名産品だそうです。


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“もち”というくらいですから、たぶん、普通の麦より「もちもち」した食感なんだろうというのは想像がつきますよね。

食べてみると想像どおり、「そば」と「うどん」の間のような食感でした。

結構、食べごたえがありましたね。


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もちむぎのやかたのすぐ北側に、標高126mの辻川山があるのですが、その麓にある「辻川山公園」に、面白いものがあります。

それが、これ。

  ↓↓↓

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河童の河次郎です(笑)。

これが15分毎にため池から出現します(笑)。

以下、説明板の文を引用。


河童の河太郎(ガタロウ)と河次郎(ガジロウ)


福崎町には、市川という大きな川が流れています。

この川の岸に駒々岩(こまがいわ)という大きな岩がありますが、そこには以前、河童の兄弟、兄の河太郎(ガタロウ)と弟の(ガジロウ)が住んでいました。二匹は、川へ水遊びにやってきた子どもの足を掴んで引きずり込み、「尻子玉」を抜いてしまうのです。

やがて、子どもたちは河童を怖がって誰も駒々岩で遊ぼうとしなくなりました。二匹の兄弟は、自分たちのせいだと後悔しました。

ある日、みんなの寝静まった夜、河太郎たちは柳田國男先生に会いたくて、毎日毎日この池で待っていました。

兄の河太郎は池のほとりで、弟の河次郎は皿が乾くと困るので池の中で、それぞれ待つことにしました。

二匹は、何年も何年も柳田國男先生を待ち続けました。

とうとう兄の河太郎は頭の皿の水がなくなって、固まって動けなくなってしまったのです。

こうして河太郎は、池の畔で動けなくなったまま、今も巌橋の方を見て柳田國男先生の帰りを待っているのです。

一方、弟の河次郎は池の中にいたので、今でも池の中から出てくることがあります。池の中をずっと覗いていると、尻子玉を抜かれるかも知れませんよ?

※この物語はフィクションです。

ということだそうです(笑)。

柳田國男という人物は、日本民俗学の創始者と呼ばれる学者さんで、明治、大正、昭和を生き、官僚も務めた方です。

この河童の話は、柳田國男が幼い頃を過ごした福崎町辻川での暮らしぶりなど、自身の人生を回顧して書いた著書『故郷七十年』に登場する話だそうです。

これが最近、TVのバラエティー番組で紹介されて、一気に有名になったのだとか。

この日もたくさんの観光客が訪れていました。

でも、幼い子は泣いて怖がってましたけどね(笑)。


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こちらは、池の畔で動けなくなったという河太郎です。


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河太郎と記念撮影です(笑)。


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河太郎の近くには、「天狗の森の妖翁」と名付けられた翼を持つ爺さんの像がありました。


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そして、その隣の広場では、逆さづり天狗が迎えてくれます。

これも、河童の河次郎と同じく定期的に出現します。


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よく見ると、和菓子を食べてます(笑)。

なんでも、町の特産品なんだとか。

これも、柳田國男の著書『妖怪談義』にまつわる演出だそうで、町おこしの目的で約1500万円かけ製作したそうです。

でも、これも幼い子はめっちゃ泣いてましたけどね(笑)。


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近くには、柳田國男の生家跡があります。


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その説明板です。


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生家跡のすぐ隣にある鈴の森神社です。


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柳田國男生家跡から辻川山山頂までの登山道は、「学問成就の道」と名付けられ、この地域出身の学者さんなどの胸像や、万葉集の歌碑などが各所に設置されています。


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辻川山山頂からの眺望。

福崎町が一望できます。


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まあ、河童も天狗も、話のネタにはなったかな?

次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-09-29 03:58 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

夏休み丹波路紀行2013 その5 「旧九鬼家住宅」

最後に、三田市街地にある旧九鬼家住宅を訪れました。
九鬼氏とは、九鬼久隆を初代とする三田藩主で、この旧九鬼家住宅は、その三田藩家老職の九鬼隆範の邸跡だそうです。
この日、本当は、同じ三田出身の人物で、日本人で初めてビール醸造に挑戦した蘭学者・川本幸民の邸跡を目当てに三田市街地に来たのですが、誘導看板にそって来たはずが、どういうわけか間違ってここに来てしまいました(笑)。
まあ、これも何かの縁と思い、立ち寄ってみることに・・・。

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九鬼氏は南北朝時代から続く名家で、戦国時代には志摩国鳥羽藩を拠点に水軍を統率し、豊臣秀吉の九州征伐や朝鮮出兵で水軍総督を務めた大名でした。
ところが、当時の鳥羽藩主・九鬼守隆の死後、五男の久隆と三男の隆季との間に家督争いが起こり、九鬼氏の水軍力を恐れた江戸幕府三代将軍・徳川家光は、この家督争いを理由に九鬼氏の石高5万6千石を分割。内陸の三田と綾部に移封させます。これにより九鬼氏は鳥羽の地と水軍を失い、宗家を三田に移し、廃藩置県までの約240年間、三田藩を統治することになります。

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九鬼隆範は幕末の天保6年(1835年)に越賀六兵衛隆影の二男として生まれ、 明治3年(1870年)に三田藩家老・九鬼伊織隆継に養子縁組で迎えられました。
翌年には神戸に出て砲術や測量術等を学び、東京横浜間鉄道工事や東京高崎間鉄道線路の測量等に従事し、日本の鉄道開発に貢献した人物です。
川本幸民の塾でも学んでいいたようですね。

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明治8年(1875年)頃に建てられた、全国でも数少ない擬洋風建築だそうで、兵庫県指定重要有形文化財に指定されています。
2階のベランダ部分と窓が洋風の作りで、母屋と道路に沿って建つ土蔵は純和風
商家の佇まいと洋風の造りが一体となった建物は、当主の九鬼隆範が自ら住宅として設計したものだそうです。
和洋折衷のデザインは、不思議な雰囲気ですね。

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中は、いわゆる一般的な日本家屋の造りでした。
でも、この日は公開されていませんでしたが、おそらく2階は洋風なんでしょうね。
明治初期の人たちにすれば、なんとも不思議な建物だったでしょうが、考えてみれば、現代では同じ家屋内に和室と洋室があるのは、何ら珍しくない設計です(外観の和洋折衷はあまり見かけないでしょうか)。
そう考えれば、ここは現代の日本人の住宅の“はしり”といえるかもしれませんね。

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子供たちの気を引いたのはこのテレビ
もちろん映りません。

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そしてもう一つ、子供たちのお気に入りだったのは縁側でした。
都会の子供たちにとって縁側なんて、「サザエさん」の中だけの世界ですもんね。
ただ、この九鬼家と磯野家の違いは、縁側の上にテラスがあるところです。
これも不思議なロケーションですよね。
でも、考えてみれば、縁側ってジャパニーズテラスですよね。
ここは建物南側ですから、どちらも同じ目的を持つ理にかなった造りということになります。
和洋テラスの融合ですね(笑)。

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結局、ここで日が暮れ始めたので、当初の目的だった川本幸民の邸跡には行きませんでした。
ここに来るまで九鬼隆範という人物のことはまったく知りませんでしたが、でも、きっと何かの縁でここへ引き寄せられたのでしょうね。
覚えておくことにします。

さてさて、それではこの辺りで夏休みシリーズを終わります。
今日は9月26日、明日から涼しくなるそうですね。
なんとか衣替えの前に終われてよかった(笑)。

夏休み丹波路紀行2013 その1 「丹波篠山渓谷の森公園」
夏休み丹波路紀行2013 その2 「お菓子の里丹波」
夏休み丹波路紀行2013 その3 「丹波竜化石工房ちーたんの館」
夏休み丹波路紀行2013 その4 「三田ガラス工芸館」
夏休み丹波路紀行2013 その5 「旧九鬼家住宅」


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-26 23:15 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)