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真田丸 第49話「前夜」 その2 ~男は一人もなく候~

昨日の続きです。

 ドラマではなぜか臆病者キャラに描かれている長宗我部盛親ですが、このとき八尾方面に布陣していた盛親は大活躍します。同じく八尾方面を進軍していた徳川方の藤堂高虎軍の左翼、藤堂高刑隊、桑名吉成隊とバッタリ出くわした長宗我部隊は、霧を隠れ蓑に猛攻撃を仕掛けます。このときの長宗我部隊の攻撃はすさまじく、藤堂高刑、桑名吉成は討死し、藤堂隊はほとんど壊滅寸前にまで追い込まれますが、そこに、若江方面での木村重成隊の敗報が届き、孤軍となることを恐れた長宗我部隊は、やむなく大坂城に撤退しました。

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 たぶん、そこまでドラマでやらないだろうと思うので、盛親のその後も記します。盛親は翌日の最終決戦には出陣せず、大坂城京橋口を守っていましたが、豊臣方の敗北が決定的になると、「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を図って逃亡しました。しかし、武運は盛親に味方せず、ほどなく潜んでいるところを発見され、その後、見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられ、そして、豊臣家敗北から1週間後の慶長20年(1615年)5月15日、京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原に晒されました。享年41。

 舞台を大和口に戻します。後藤隊の敗走後にようやく到着した真田信繁隊は、遅参の穴を埋めるべく奮闘し、伊達政宗軍を押し返す戦いを見せます。しかし、八尾・若江方面での木村・長宗我部隊の敗報が届くと、このままでは徳川軍に包囲されると判断し、退却を決断します。その際、真田隊は殿を買ってでました。このとき、徳川軍は撤退する豊臣方を追撃しようとしますが、伊達政宗は「わが隊は昨夜からの激闘により将兵はみな疲れている」と追撃を断固として拒否し、そのため、徳川軍の追撃はありませんでした。その様子を見た信繫は、

「関東軍百万も候へ、男は一人もなく候」

と、徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれています。

 「徳川兵に真の武士はひとりもおらんのか~!」

と叫んだあのシーンは、この逸話からきたものですね。

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 ドラマでは、その伊達政宗に信繁の家族が預けられるという設定でしたが、実際には、半分正しくて半分は創作です。伊達政宗の家臣・片倉重長の元に庇護されたのは、三女・阿梅、五女・なほ、七女・おかね、そして次男の大八らだったようで、正室の竹林院(ドラマでは)は四女・あくり、五女・おしょうぶらとともに大坂落城後に城から落ち延びるものの、5月19日に紀伊浅野家に捕縛されています。翌日、家康に引き渡されますが、赦免されて剃髪し、その後は京都で暮らしたといいます。

 阿梅らが伊達家の片倉家に庇護された経緯については、落城の混乱時に拉致されたとする説と、信繁の生前に託されたという説の2説ありますが、史料的に信ぴょう性が高いのは、拉致説のようですね。でも、物語的には託されたという話のほうがドラマチックですから、そこに家族全員ひっくるめちゃったのでしょう。阿梅はのちに片倉重長の後妻となり、当時赤ん坊だった大八は素性をかくして片倉家に匿われ、やがて片倉久米之介守信と改名して仙台藩士となります。その後、守信より8代後の幕末期に真田姓に戻し、仙台真田家として現在も続いています。

 最後に、ようやく信繁と結ばれたきりちゃんですが、ナレーションにもあったとおり、史料では高梨内記の娘とあるだけで、その人物像は詳らかではありません。一説には、四女・あくりの生母ともいわれますが、それも確かではなく、いつ死んだかも定かではありません。ほとんど謎の人物といえますが、そんなきりに、三谷幸喜さんは本ドラマにおける狂言回しの役目を与えていたんですね。前半は視聴者からウザいだの不要だのと散々な批判を受けていましたが、最後はうまく落とし前を付けたんじゃないでしょうか。

 さて、次週はいよいよ最終回。副題は「無題」だそうですね。どんな結末に描かれるのか、楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-14 01:30 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第44話「築城」 ~真田丸~

 真田信繁(幸村)らが推した出撃策は首脳(ドラマでは大蔵卿局織田有楽斎)たちによって一蹴され、籠城策と決まった豊臣方。おそらく大阪城内に多くいたであろう内応者からその報せを受けた徳川家康は、「これで勝ったのう・・・」と、したり顔で呟いていましたが、果たしてどうだったでしょうね。百戦錬磨の家康ですが、元来、家康は城攻め苦手で、野戦を得意としていました。結果的に大阪の陣は家康の老獪さで徳川軍が勝利することになるわけですが、開戦前のこの時点で、しかも天下無双の大坂城を前に、敵の籠城策を知って喜んだとはとても思えません。むしろ、討って出てきてくれたほうが好都合だと思っていたんじゃないでしょうか?


 その天下無双の大坂城ですが、とはいえ、まったく弱点がなかったわけではありません。北は淀川、東は河川と湿地帯、西は湿地帯と大阪湾に守られていましたが、南側だけは河内平野と陸続きで、天然の要害というべき地形ではありませんでした。生前の豊臣秀吉もこの点は重々心配しており、晩年に総構えを築き、その弱点を封じようとしていました。


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 ちなみに、現在の大坂城は大坂夏の陣以後に徳川幕府によって再建されたもので、豊臣時代のものではありません。豊臣時代の城跡に盛土をして、堀の幅も石垣の高さも豊臣時代のほぼ2倍の大きさになっていますが、面積でいえば、豊臣時代の縄張りのほうがはるかに大きく、約15km四方、現在の徳川大坂城の約5倍の規模だったといいます。例えば、現在の大坂城の最南端は大阪環状線森ノ宮駅付近ですが、当時の最南端は、そこから更に1駅南下した玉造付近にありました。大坂城全体がひとつの都市だったといえます。このとてつもない広さだったからこそ、10万ともいわれる牢人たちを収容できたんですね。


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 大坂城の弱点である南側の守りを強化するために作られた出城が、今年の大河ドラマのタイトル「真田丸」でした。ここで信繁は迫りくる徳川勢を相手に巧みな戦術を展開し、一躍歴史の表舞台に名乗りをあげることになるのですが、この真田丸が実際、誰によって築かれたものであったかは定かではありません。史料によれば、信繁が南の弱点を見抜いて築いたという説や、ドラマのように、もともとは後藤又兵衛基次がここに目をつけて砦を築こうと準備していたところ、信繁が横取りしたという説もあり、あるいは、又兵衛が諸軍の遊軍を命じられたため、代わって信繁が守ることになったというものもあります。ただ、物理的に考えれば、信繁や又兵衛が入城してから築いたにしては日数が少なすぎで、もともと彼らが入城前から構築が始まっていたものを、信繁(あるいは又兵衛)が引き継いだと考えるのが自然かもしれません。


 いずれにせよ、信繁率いる真田軍がここを守備したことは間違いなく、「真田丸」と呼ばれるようになったのも事実です。もっとも、この出城を真田軍が単独で守ったわけではなく、長宗我部盛親軍と半分ずつ分担して守備していたのですが、真田軍の活躍があまりにも派手だったため、「真田丸」と呼ばれるようになったのだとか。盛親は面白くなかったでしょうね。ちなみに、「真田丸」の呼称は当初からついていたものではなかったようですが、翌年の夏の陣のときにはこの出城の跡地を「真田丸」と呼ぶようになっていたようで、そう呼び始めたのは徳川方だったようです。敵方にそう名付けられたということは、やはり、相当インパクトが強かったのでしょうね。


 有名な真田軍の「赤備え」についてですが、かつて真田家が仕えた武田信玄の配下である飯富虎昌山県昌景らの軍勢が「赤備え」で統一していたと伝わり、その流れをくんだものだったと考えられます。古来、武将の間で「赤」は、強者の象徴でした。古くは源平合戦で赤い紐で編んだ鎧などが登場しており、これは、自身が強者であることをアピールするためのものだったと言われます。当時、鎧を赤くするためには「辰砂」という赤い色の鉱物が必要で、たいへん高価なものだったそうです。武田軍の伝統を継承し、強者であることを顕示し、高価な赤備えを纏った真田軍。この戦いにかける強い思いがうかがえます。


 家康が若い兵たちに「仕寄せ」の作り方について講義するシーンがありましたが、時代考証担当の丸島和洋氏の話によると、『翁物語』に出てくる逸話のアレンジだそうです。似たような描写では、司馬遼太郎氏の小説『城塞』のなかでも、家康が戦経験のない若い兵の無知さを嘆くシーンが描かれています。実際、関ヶ原の戦いから14年の歳月が過ぎており、しかも、その関が原では徳川家譜代のほとんどの旗本たちは徳川秀忠と共に遅参しており、関ヶ原に勝利したものの、徳川方として戦ったのは外様大名ばかりでした。したがって、20万とも30万ともいわれる徳川軍ですが、これが初陣という若侍が圧倒的に多かったわけです。「戦争を知らない子供たち」だったわけですね。一方の豊臣方の牢人たちは、関が原はもちろん、文禄・慶長の役を戦った猛将揃いで、その点から言えば、決して豊臣方は兵力差ほど不利だとはいえませんでした。しかし、それらを率いる豊臣家首脳(大野治長ら)にそれほど戦経験がなく、さらには、淀殿や大蔵卿局などの女たちが軍議に口をはさむ始末では、百戦錬磨の猛将たちも、きっとやる気を削がれたでしょうね。このドラマでの淀殿のキャラが、まだつかめませんが・・・。


 さて、いよいよ次週、大阪冬の陣開戦です。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-07 23:06 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第42話「味方」 ~大坂五人衆~

 今回は「大坂の陣」における豊臣方の主役たちの顔見せの回、プロローグでしたね。慶長19年(1614年)10月以降、大坂城に集まった牢人はおよそ10万といわれますが、それら全てが勇猛果敢な武士たちだったわけではなく、金銀のみめあての者たちが多く含まれていたはずです。また、歴戦の武将たちにおいても、「豊臣家のため」といった忠義の者は少なく、新たな仕官が目的だったり、あるいは起死回生の成り上がりが望みであったりで、ほとんどが利己的な者たちの集まりだったといえます。このとき、実質豊臣家を仕切っていたのは大野治長でしたが、これら烏合の衆といえる集団を一枚岩にまとめるのは至難の業でした。


 そんな集団であっても、戦にのぞむためには大将が必要です。しかし、総大将をひとり定めるのも難しい。そこで、苦肉の策で5人の大将格を定めたのが、「大坂五人衆」だったというのがドラマの設定でした。長宗我部盛親、毛利勝永、真田信繁(幸村)の大名格三人衆に加え、陪臣格ではあるものの猛将として名高い、後藤又兵衛基次、明石全登を加えて五人衆となります。この「大坂五人衆」という呼称は江戸時代中期にまとめられた軍記物のなかに見られるもので、当時からこう呼ばれていたかは定かではありません。ただ、彼ら5人がそれぞれ一軍の将だったことは間違いないので、呼称はどうでもいいかもしれませんね。


e0158128_23464972.jpg 長宗我部盛親は土佐の国主として関ヶ原の戦いでは西軍に加担しますが、盛親はこの前年に国主になったばかりで経験も浅く、西軍についたのも、その未熟さゆえの判断ミスだったといいます。合戦当日においても、背後に陣を布いていた毛利隊の動向を気にして動けず、結局、戦うことなく力が発揮できないまま関が原の敗軍となります。その後、兄の津野親忠を殺害したことなどで徳川家康の怒りを買い、土佐一国を召し上げられてしまいます。牢人となった盛親は、寺子屋の師匠などをして身を立てていたといいますが、やがて豊臣と徳川の間の雲行きが怪しくなると、土佐時代の旧臣1000人を引き連れて大坂城入りします。


 毛利勝永の父・毛利勝信は、もとは豊臣秀吉の配下で黃母衣衆を務めており、天正15年(1587年)には武功により豊前小倉6万石を与えられていました。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易となり、その後は肥後の加藤清正のもとに身柄をあずけられ、やがて土佐の山内一豊のもとに移されました。しかし、山内家と毛利家は旧知の間柄だったこともあり、囚われの身とはならず厚遇されます。やがて父の勝信は死にますが、勝永は土佐で子宝にも恵まれ、平穏無事な暮らしをしていました。そんななか、大坂からの出陣要請が届きます。勝永は豊臣家の恩顧と山内家の恩義のなかで大いに悩みますが、結局、豊臣家に身を投じる決意をします。このとき、その決意を聞いた妻は、「主君のために働くのは家の名誉。残されるものが心配ならば、私たちはこの島の波に沈み命を絶ちましょう」と言って送り出した逸話は有名で、第2次世界大戦中、軍人の妻の鏡として国民教育に利用されました。


 明石全登は、関ヶ原の戦い前は宇喜多秀家の重臣で、キリシタン大名としても有名です。その経歴には不明な点が多いのですが、関ヶ原の戦いで敗軍となって宇喜多家が没落すると、3000人のキリシタンとともに黒田長政の筑前国で匿われていたといいますが、その間の詳しい消息はわかっていません。大阪の陣が終わったあとの消息も定かではないので、ほぼ謎の人物といえます。


e0158128_13071626.jpg そして後藤又兵衛基次「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして名高い又兵衛は、黒田官兵衛孝高のもとで武功を重ね、一時は大隈1万6千石もの大封を与えられていましたが、官兵衛の死後、新しい主君の黒田長政とそりが合わず、慶長11年(1606年)に黒田家を出奔してしまいます。それでも、又兵衛の武勇は天下に轟いており、細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康など名立たる大名から誘いがかかりますが、長政がしいた「奉公構」によって実現しませんでした。「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことで、豊臣政権によって始まった制度でした。その後、又兵衛は京に流れて牢人生活となりまずが、信繁らと同じく大坂方からの要請を受け、大坂城入りします。


 以上が、信繁を含めた「大阪五人衆」の経歴。このあと、この5人を中心に話が展開していくことになるのでしょうね。他にも、塙団右衛門直之も出てきましたね。団右衛門は名前を書いた木札を信繁に渡していましたが、あれも、大坂冬の陣における本町橋夜襲の際の逸話からくるものです。


 あと、信繁が大坂城入りした報せを受けた家康が、「それは親か子か?」と質問し、掴んだ戸をガタガタと震わせて怯えるシーンがありましたが、これは江戸時代に編纂された『幸村君伝記』のなかにでてくるエピソードで、後世の創作でしょう。家康が昌幸の死を知らなかったとは思えませんし、家康がそれほど信繁を警戒していたとも思えません。ただ、あまりにも有名なエピソードだけに、採り上げないわけにはいかなかったのでしょうね。

 大阪の陣の役者は揃いました。いよいよ物語はクライマックスに向かいます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-25 23:48 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~

大阪府八尾市の久宝寺地区に、「長曽我部物見松遺址」と刻まれた石碑があります。
若江の戦いが行われた同じ日、豊臣方の長宗我部盛親隊と徳川方の藤堂高虎軍がこの地で激突しますが(八尾の戦い)、その戦いにおいて、長宗我部軍が藤堂隊の動静を探るために上ったと伝わる松の巨木が、かつてここにあったと伝えられます。

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現在は石碑樹齢若い松の木が植樹されています。

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長宗我部盛親は木村重成隊と共に中河内地区に出陣し、重成が若井へ、そして盛親は八尾に陣を布きました。
そこで、同じくこの地に進軍していた徳川方の藤堂高虎軍の左翼、藤堂高刑、桑名吉成隊と出くわし、そのまま激突します。

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このときの長宗我部隊の攻撃はすさまじく、藤堂高刑、桑名吉成は討死し、藤堂隊はほとんど壊滅寸前にまで追い込まれますが、そこに、若江方面での木村重成隊の敗報が届き、孤軍となることを恐れた長宗我部隊は、大坂城に撤退しました。

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写真はこの地区に流れる長瀬川
現在は見てのとおりの小さな川ですが、当時は川幅が180mほどある大河で、高い堤があったそうです。
長宗我部隊は、その堤の上に陣を布いたそうです。

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盛親はその後、翌日の最終決戦には出陣せず、大坂城京橋口を守っていましたが、豊臣方の敗北が決定的になると、「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を図って逃亡しました。
しかし、武運は盛親に味方せず、ほどなく潜んでいるところを発見され、その後、見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられ、そして、豊臣家敗北から1週間後の慶長20年(1615年)5月15日、京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原に晒されました。
享年41歳。
兵どもの夢の跡です。

シリーズはまだまだ続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-17 20:29 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)