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太平記を歩く。 その183 「高師直塚」 兵庫県伊丹市

西宮市から国道171号線を北東に進んで伊丹市に入ったあたりに、「師直冢」と刻まれた石碑があります。

師直とは言うまでもなく、足利尊氏の執事・高師直のことです。

「観応の擾乱」における「打出浜の戦い」に破れた尊氏軍は、逃げ込んだ松岡城にて足利直義和議を結びますが、その条件として、師直を出家させるということになり、師直らが京都に護送される途上、養父を師直に殺された上杉能賢に襲われて殺害されます。


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『太平記』巻29「師直以下被誅事付仁義血気勇者事」によると、師直が殺されたのは「その181」で紹介した鷲林寺付近とされていますが、実際には、正確な位置はわかっていないようです。

この石碑は、鷲林寺からは随分離れているのですが、このあたりで殺害されたということでしょうか?


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伊丹市のHPによると、江戸時代の山田村にはすでに高師直塚があり、「山崎通分間延絵図」にも塚地が西国街道北側に描かれているそうです。

大正4年(1915年)になって村の人々が石碑を建てたそうですが、その後、場所が転々とかわって現在地に移ったそうです。


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国道171号線は、旧西国街道にあたります。

京への帰路で襲われたとありますから、山奥にある鷲林寺前よりも、街道沿いのこの辺りだったと考えるほうが、無理がないかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-18 23:21 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(2)  

太平記を歩く。 その181 「鷲林寺」 西宮市

西宮市にある鷲林寺を訪れました。

ここは、正平6年/観応2年(1351年)2月17日に起きた「観応の擾乱」における「打出浜の戦い」において、足利直義が陣を布いたとされる場所です。


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「光明寺合戦」で勝負を決することができなかった足利尊氏軍は、軍勢を兵庫に移し、摂津の赤松範資と合流して大軍を形成します。


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同年2月17日、ここ鷲林寺や越水に陣を布く直義に対し、これを攻めるべく尊氏は2万の軍勢を現在の神戸市東灘区の御影の浜に進めますが、あまりにも兵の数が多すぎて逆に統制がとれず、敗北を喫します。


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総崩れとなった尊氏は松岡城へ逃げ込み、そこで高師直を出家させるという条件で直義と和睦するのですが、師直らが京都に護送される途中、ここ鷲林寺前で養父を師直に殺された上杉能賢に襲われ、師直以下一族の多くが殺害されました。


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多宝塔です。


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ここを訪れたのは3月で、写真は裸木が目立ちますが、春は、秋には紅葉が綺麗なところです。


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敷地内にある石塔群です。

説明看板によると、これらの塔が作られたのは13世紀後半から14世紀初めと考えられているそうです。

あるいは、「打出浜の戦い」に関係してるかも・・・。


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七重塔に「信玄公墓」と書かれた木札が置かれていますが、そんな伝承があるそうです。

ただ、時代的に合わないようで、あくまで伝承の域をでません。


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この時代、大寺と城はセットだった場合が多く、かつてここにも鷲林寺(十林寺)城があったという説もあります。

そこで、寺の裏山を登ってみました。


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城跡らしき遺構は確認できませんが、登山道は大きな岩がゴロゴロと転がっていて、城の名残といえなくもない気がしましした。


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かなり急勾配な登山道で、しかも大きな岩が多いため、結構キツイ登山でした。


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15分ほど登ったところにある岩場からの眺望です。

北は宝塚方面から川西池田まで、東は広大な大阪平野、南は西宮から大阪湾を望む大パノラマです。


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正面に見下ろすのは、標高309.2mの甲山です。


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このロケーションですから、として利用しないはずがありません。


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かつて鷲林寺は寺領70町歩・塔頭76坊を誇る大寺院だったそうですが、見てのとおり、陣を布くのに絶好の場所にあったため、その後も幾度となく戦火に巻き込まれ、最後は、天正7年(1579年)の荒木村重討伐の織田軍により、鷲林寺は兵火にかかり、衰退していったそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-14 08:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その172 「楠木正行首洗の井戸(枚岡神社)」 大阪府東大阪市

東大阪市に枚岡神社という由緒ある神社があるのですが、その参道にあたる枚岡梅林の入口に、楠木正行ゆかりの井戸があります。


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その伝承によると、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」において、楠木正行・正時兄弟率いる南朝軍と、足利幕府方の高師直率いる北朝軍が激突し、南朝方は惨敗を喫しますが、そのとき、討ち取られた正行の首が、この井戸で洗われたといいます。


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四條畷の戦いの舞台は、「その163」から「その167」で紹介した現在の四条畷市通説となっていますが、「その170」「その171」で紹介した東大阪市の四条付近だったという説も根強く、もし、この井戸が伝承どおりの井戸だったとすれば、後者の説に沿ったものだと思われます。


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井戸を囲う石はそれほど古いものではなさそうで、とても由緒ある井戸には見えません。


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立札には、「楠木正行公縁の井戸」と記されていますが、以前は、「楠木正行公首洗いの井戸」と書かれていたそうです。

表現が惨たらしいので、変えちゃったのでしょうか?

縁の井戸と言われても、どんな縁かわからないですよね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-25 19:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その161 「吉田兼好隠棲庵跡」 大阪市阿倍野区

大阪市阿倍野区にある正圓寺の境内に、かつて吉田兼好隠棲地があったことを示す石碑があると知り、訪れました。

吉田兼好といえば、『徒然草』の作者として名高い歌人随筆家という認識ですが、元は後宇多天皇(第91代天皇)に仕える北面の武士でした。

正中元年(1324年)に比叡山剃髪し、京都吉田山に隠れ住み、南北朝時代に入ると戦乱を避けてこの地に移り住み、貧自適な暮らしを営んでいたと言われています。

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そんな兼好をなぜこのシリーズに加えたかというと、『太平記』巻21「塩冶判官讒死事」に、兼好が出てくるんです。

その内容は、高師直塩谷判官高貞の奥さんに横恋慕し、そのラブレター代筆を兼好に頼んだという話です。

以下、原文。


哀なる方に心引れば、高志浜のあだ浪に、うき名の立事もこそあれ。」と、かこち顔也。侍従帰て角こそと語りければ、武蔵守いと心を空に成て、度重らばなさけによはることもこそあれ、文をやりてみばやとて、兼好と云ける能書の遁世者を呼寄て、紅葉重の薄様の、取手もくゆる計にこがれたるに、言を尽してぞ聞へける。返事遅しと待処に、使帰り来て、「御文をば手に取ながら、あけてだに見給はず、庭に捨られたるを、人目にかけじと懐に入帰り参て候ぬる。」と語りければ、師直大に気を損じて、「いやいや、物の用に立ぬ物は手書也けり。今日より其兼好法師、是へよすべからず。」とぞ忿ける。


塩谷判官高貞の奥さんはラブレターを見もせずに、箱ごと庭へ投げ捨ててしまうんですね。

これに怒った師直は、兼好に八つ当たりして、出入禁止にしてしまいます。

なんて自分勝手な話でしょう。

そんなこともあって、兼好はこの地で隠棲したのかもしれません。


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石碑は、「吉田兼好法師隠棲庵址」「兼好法師の藁打石」と刻まれたものがあります。

藁打石と伝えられる大石は、元は当寺院の北の方に丸山古墳があり、その近くにあった柘榴塚の大石が伝えられたものだそうで、現在は2つの石碑の中央にある「大聖歓喜天」と刻まれた標碑の礎石が、その藁打石と言い伝えられているそうです。


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こちらにも、「兼好法師隠棲庵址」の石碑が。


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こちらは句碑。

「兼好の 午睡さますな 蝉しぐれ」燦浪

とあります。


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こちらは『徒然草』の冒頭ですね。

「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」


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ちなみに、ラブレター作戦に失敗した高師直は、塩冶判官を陥れて彼女を手に入れるため、諸方に讒言を行い、追い詰められた判官が自国に逃げ落ちるのを追撃し、最後は判官も奥さんも死んでしまいます。

ひどい話ですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-05 22:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)  

太平記を歩く。 その151 「北畠顕家供養塔」 大阪府堺市

前稿で紹介した阿倍野区にある北畠顕家の墓とは別に、堺市にも顕家の墓があります。


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阿倍野の墓は江戸時代に建てられたものですが、こちらは昭和12年(1936年)に顕家600回忌に町の有志によって建てられたものだそうで、墓というより、供養塔と言ったほうが正しいでしょうね。


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『太平記』では、顕家戦死の地摂津阿倍野と記されているので、一般には前稿の墓が有名ですが、近年の研究では、ここ堺市の石津で討死したという見方が主流だそうです。


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『神皇正統記』などでは、延元3年(1338年)5月22日朝、足利軍高師直率いる1万8千と戦い、ここ摂津国石津で戦死したと伝えています。

享年21。


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供養塔の前には、「此附近北畠顕家奮戦地」と刻まれた石碑があります。


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供養塔です。

「源顕家公 殉忠遺蹟供養塔 南部師行公」

と刻まれています。

南部師行とは、顕家と共にこの地で戦死した南朝方の武将です。


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その南部師行から数えることの33代目にあたる子孫の男爵・南部日実氏が揮毫した慰霊碑です。

残念ながら、右上が欠けてしまっています。


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隅にある「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の裏には、「正徳3年(1711年)建立、行家」と刻まれており、古くからこの地が古戦場であったと知られていたことがわかりますが、この稿を起稿するにあたってネットで調べていると、行「家」ではなく、「蒙」の草冠がない字だそうです。

たしかに言われてみれば、そうです。


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これは、当時、徳川幕府の目を恐れた人たちが、こういう形で顕家の霊を弔ったものだそうです。

へぇ~、ですね。


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慰霊碑の前に流れる石津川です。

おそらく、当時は浜辺だったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-28 09:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その143 「勝手神社跡」 奈良県吉野郡吉野町

南北に細長い吉野山のちょうど中央あたりにある、勝手神社跡を訪れました。

ここは吉野八社明神のひとつで、大山祇神、木花咲耶姫など六柱の神を祭神としています。


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吉野大峯の山々を鎮める信仰があり、吉野山口神社ともいいます。

また、仏法守護の神、軍神としても有名です。


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ただ、ここの社殿は、平成13年(2001年)9月27日、不審火により焼失してしまったそうで、いまは礎石を残すのみとなっていました。

ひどいことするやつがいたものです。


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正平3年/貞和4年(1348年)1月28日、足利方高師直の大軍は、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の吉野皇居を攻め、金峯山寺蔵王堂をはじめとする吉野山の主な堂塔伽藍を焼き払いました。


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後村上天皇はその難を避けて、さらに吉野の奥に落ち延びますが、その途中、この社前で馬を下り、


「たのむかひ 無きにつけても誓ひてし 勝手の神の名こそ惜しけれ」


と、詠まれたそうです。

天皇の無念の様子がうかがえる逸話ですが、火の海と化した吉野の山中で、悠長に歌を詠まれる余裕などあったのかどうか・・・。

無粋なことをいうようですが。


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社殿の創建は不明で、慶長9年(1604年)に豊臣秀頼が改築をしましたが、正保元年(1644年)12月に焼失したため、翌年に再建、明和4年(1767年)に再び火災に遭い、9年後の安永5年(1776年)4月に再建されました。

しかし、先述したとおり、平成13年(2001年)に不審火によって焼失し、現在に至ります。

日本の木造建造物は、火災との戦いの歴史です。


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敷地内には、再建復興御寄付のお願いと書かれた看板が立てられていました。

一日も早く再建できるよう願います。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-17 23:53 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その135 「攻めが辻」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した大橋跡から50mほど北に、「攻めが辻」と呼ばれる場所があります。

ここは、吉野神宮からの尾根道と、吉野駅からの七曲りを上り詰めて出合う場所で、三叉路になっています。


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ここは、吉野山に立てこもった大塔宮護良親王方の守りと、北条幕府方の二階堂貞藤(道蘊)率いる大軍の攻撃がぶつかり、激しい戦闘を繰り広げたところで、「攻めが辻」と呼ばれるようになったそうです。


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現在、その道脇には石標が建てられています。


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また、正平3年(1348年)に起きた高師直吉野焼き討ちの際にも、迎え討つ天皇方とこの地で激しい戦闘が繰り広げられました。


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わたしがここを訪れたのは夏真っ盛りの7月23日でしたが、春には、ここから千本桜が一目に見渡せるスポットだそうです。

かつて多くの兵の血が流れた場所だったなんて、桜見物に訪れた観光客は知らないでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-04 23:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その130 「銅の鳥居」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺の北側の参道に、で造られた鳥居があります。

この鳥居を「銅(かね)の鳥居」といい、安芸の宮島の朱塗りの鳥居、大阪四天王寺の石の鳥居と並んで、日本三鳥居のひとつといわれています。


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創立年代はわかっていませんが、一説には、聖武天皇(第45代天皇)が東大寺大仏を建立したとき、その余った銅を使って作られたといわれるそうです。


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地面から笠木の天まで8.23m、柱の周囲が3.2mあります。


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『太平記』巻26「吉野炎上事」によると、正平3年(1348年)1月28日に足利軍の高師直が起こした焼き討ちによって、この鳥居も焼失したとあります。

その後の再建は記録されていませんが、同じ日に焼け落ちた金峯山寺の蔵王堂再建供養会が、それから62年後の応永17年(1410年)に行われていることからみて、この銅の鳥居も同じ頃に再建されたものだろうと考えられています。


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その後、宝永3年(1706年)の火災、明治26年(1893年)の台風によって破損しましたが、その都度修理されて、いまは重要文化財に指定されています。

扁額の文字は「発心門」と読み、大峯修験の入峰のとき、この門で修行の心を新たにし、俗界と離れるわけです。

吉野山から山上が岳までの間に、発心、修行、等覚、妙覚4つの門があり、それぞれの門をくぐるごとに修行の心を強めていったそうですが、ここ銅の鳥居は、その最初の門にあたります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-24 08:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その127 「金峯山寺・蔵王堂」 奈良県吉野郡吉野町

世界遺産に登録されている吉野山のなかで、シンボル的存在がここ金峯山寺です。

創建は7世紀、開基は伝説の呪術者・役小角と伝わります。


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なかでも、本堂の蔵王堂はその象徴的建築物で、天武天皇(第40代天皇)の勅願によって建てられたともいわれます。


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蔵王堂は入「母屋造り」という建築様式で、正面5間(約9m)、側面6間(約11m)、高さ約34mと、日本の木造建築物としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇ります。


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さすがの大迫力です。


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現在でも修験道の根本道場として多くのひとびとの崇敬を集めている蔵王堂ですが、特に平安時代から鎌倉時代には隆盛をきわめ、多数の堂塔が並び建ち、吉野大衆と称せられる大勢の僧兵が集まっていたといいます。


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長い歴史のあいだには何度も火災に遭い、寛治7年(1093年)、嘉禄元年(1225年)、文永元年(1264年)に焼失した記録があります。

その都度、強い信仰の力によって復興されてきましたが、正平3年(1348年)1月28日、足利軍の高師直による焼き討ちによって兵火にかかったときには、その再建に実に60年余りも要しました。


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『太平記』巻26「吉野炎上の事」では、

「さらば焼払へとて、皇居並卿相雲客の宿所に火を懸たれば、魔風盛に吹懸て、二丈一基の笠鳥居・二丈五尺の金の鳥居・金剛力士の二階の門・北野天神示現の宮・七十二間の回廊・三十八所の神楽屋・宝蔵・竃殿・三尊光を和げて、万人頭を傾る金剛蔵王の社壇まで、一時に灰燼と成ては、烟蒼天に立登る。浅猿かりし有様也。」

と、その惨状を嘆いています。


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ちなみに、その後も天正14年(1586年)にも失火によって焼失し、現在の蔵王堂は天正20年(1592年)に再建されたものです。

そして平成16年(2004年)7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されました。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-20 22:56 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)