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花燃ゆ 第36話「高杉晋作の遺言」 ~おもしろき こともなき世を おもしろく~

 四境戦争で幕府軍15万に圧勝した長州藩でしたが、その勝利のいちばんの立役者である高杉晋作が、戦後まもなくに伏してしまいます。というか、戦前から肺疾患の気配があったようで、とくに戦い終盤の小倉城攻めがこたえたらしく、慶応2年(1866年)9月4日に、白石正一郎邸で大量に吐血したと、白石の日記に記されています。戦の指揮の疲労も去ることながら、戦中も戦後も、晋作は連日のように芸姑をあげて大酒をあおっていたようで、それも、病状を悪化させた要因だったのでしょう。

 自身の容体が容易なことでないと自覚した晋作は、病気療養に専念すべく、白石邸を出て、下関郊外にある桜山という丘の麓に家を建て、そこに引っ越します。晋作はこの家を「東行庵」と名づけました。「東行」とは、かつて晋作が10年間隠棲するといって出家した際に、自らつけたですね。晋作はこの東行庵で、まさに世捨て人のようにを詠み、詩文を書いて過ごします。作家・司馬遼太郎氏は高杉晋作について、「幕末ではなく平和な時代に生まれていれば、有名な詩人になっていただろう。」と言っていますが、それは、この時期に残した数々の名句、名文によるイメージでしょう。東行庵は、療養所であると同時に、詩人・高杉晋作のアトリエでした。

 藩は晋作の病状がおもわしくないことを重く見、世子・毛利元徳から見舞状、見舞金の下付があり、すべての御役目を解かれ、病気療養手当が毎月支給されました。また、藩内で名医と評判の高い長野昌英李家文厚を藩命によって主治医にし、さらに、藩主の侍医である竹田友伯を出張先の太宰府から呼び戻し、晋作の治療にあたらせるなど、一介の書生への待遇としては異例の処置をとります。書生とはいえ、晋作はすでに救国の英雄的存在となっており、藩としては、いま晋作に死なれてはたまらないという思いがあったのでしょう。

 なぜかドラマでは出てきませんでしたが、東行庵で晋作の看病を務めたのは、妻の雅子でも美和でもなく、愛妾おうのと女流歌人の野村望東尼の両人でした。このふたりがドラマ自体にキャスティングされていないのならともかく、二人共何度か登場しているのに、なぜ最期のシーンに登場させなかったのでしょうか? 最期は愛妾ではなく正妻に看取らせるため? だとしたら、女性脚本家ならではの愚にも付かぬ設定ですね。わたしは、最終回まで観ずに批判することは極力しないようにしてきましたが、今話はさすがにひどすぎます。妻と息子に励まされて幸せそうに微笑む高杉晋作なんて、世の晋作像とはおよそかけ離れたキャラですし、ましてや、美和を呼びつけて未来を託すなんて、なんて安っぽい脚本でしょうか。吉田松陰久坂玄瑞の死が、それなりに上手く描かれていただけに、第三の見せ場である晋作の最期が、あまりにも幼稚な設定でガッカリです。

 妻の雅子が病床を訪れたのは、死の3週間ほど前の慶応3年(1867年)3月24日でした。この頃の晋作は、自力で立つこともままならないほど衰弱しきっていましたが、それでも突然、「林亀(料亭)に行きたい」などと口にし、周囲を困らせました。これを聞いたおうのは、三味線を弾いて林亀にいるかのように装い、晋作の気分を落ち着かせたというエピソードがあります。そして4月13日夜にも、今度は「対帆楼(料亭)に行きたい」というので、駕籠をよんで病床から乗りますが、駕籠のなかで便を漏らし、引き返して病床につきました。そしてその14日未明に死去します。享年28歳

 死の淵にあって晋作は、枕元にいた野村望東尼に筆と紙を要求し、

 「おもしろき こともなき世を おもしろく」

 とまで書いたところで力尽きて筆を落としてしまい、この尻切れとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないと考えた望東尼が、

 「すみなすものは 心なりけり」

 と書き足して晋作に見せると、「・・・面白いのう」と微笑んで、そのまま息を引き取った、という有名なエピソードがありますが、近年の研究によれば、この歌は死の前年にすでに詠まれていたという記録があるそうで、死の淵の逸話は誰かの作り話だろうという見方が有力なんだそうです。歴史研究が進むのは望ましいことですが、ときにそれでドラマチックな側面を失うこともあり、残念な思いになったりします。しかし、死の淵の逸話がどうであれ、高杉晋作という人物の短い生涯が、ドラマチックであったことは間違いありません。

 「人の生涯には春夏秋冬があり、それは人生の長さに関係しない」
 「男子たるもの、自身の人生を一遍の詩にすることが大事だ。」


 とは、吉田松陰が晋作ら弟子たちに残した言葉ですが、まさしく、晋作の生涯には激しすぎるほどの春夏秋冬があり、一遍の詩だったといえるでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-07 18:05 | 花燃ゆ | Comments(4)  

花燃ゆ 第35話「孤高の戦い」 ~四境戦争~

 慶応2年(1866年)1月に薩長同盟が結ばれた同じ年の6月、幕府による第二次長州征伐が開始されます。幕府軍の兵力は総勢15万の大軍。一方、迎え撃つ長州藩の兵力は、奇兵隊ら諸隊を中心とするわずか4千ほどでした。誰がどう贔屓目にみても衆寡敵せず。30倍以上の兵力差では、勝ち目があるはずがありません。ところがところが、長州藩はこの戦いに勝っちゃうんですね。ここが、長州史のいちばんの見せ場です。

 幕府が負けた理由はいくつもあります。まずひとつには、そもそもこの第二次長州征伐は、約1年も前から叫ばれていたものの、諸藩がなかなか応じませんでした。というのも、前年からこの年にかけて各地で一揆が起きており、諸大名たちはその対応に負われていました。幕府の無策によって米価が暴騰し、庶民の生活が貧窮していたのです。また、諸藩は1回目の長州征伐で多くの経費を使っており、財政難に陥っていました。そんな状態のなかでの長州再征の命令だったので、ほとんどの諸藩が兵を出し渋り、足並みが揃わなかったんですね。そうこうしているうちに1年がすぎ、やむなく幕府は、なるべく地理的に長州に近い西国の藩で征長軍を結成します。西国の藩にしてみれば、貧乏くじを引かされたようなもので、そんな経緯でできた軍ですから、モチベーションが上がるはずがありません。

 一方の長州軍は、大村益次郎を総参謀長に任じ、西洋式軍備を導入。同盟を結んだ薩摩藩の協力のもと、最新のミニエー銃ゲベール銃を大量に買い込んでいました。また、奇兵隊などの諸隊は下級藩士や領民などからの志願兵によって編成されており、指揮官の戦略どおりに動く組織が構築されていました。わが国における近代式軍隊の魁ですね。敵対する幕府軍のほうは、多くの兵が動きにくい甲冑を着込み、、旧式の火縄銃を手にしていました。また、諸藩の寄せ集めのため指揮系統が整わず、大軍の力を発揮できずにいました。どれほどの大軍であっても、それを動かす指揮系統が整っていなければ、軍は機能しないんですね。逆に少数精鋭の長州軍は、大村益次郎の考案によって戦線を芸州口、石見口、周防大島口、小倉口にに分け、それぞれの戦闘は各方面の指揮官に委ねました。それでこの戦いは、のちに「四境戦争」と呼ばれるようになるんですね。

 この戦いで高杉晋作海軍総督として丙寅丸(オテントサマ丸)に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊に夜襲をかけてみごと撃沈します。また、小倉口の戦いにおいても、大暴れして幕府軍を敗走させます。天才・高杉晋作がもっとも輝いていた時期ですが、皮肉にもこのとき晋作の身体は、すでに病魔で蝕まれていたんですね。

 そんななか、幕府軍の敗走を決定づけることとなったのが、第14代将軍・徳川家茂の死去でした。享年21歳。死因は脚気衝心だったと言われていますが、幕末の動乱期にわずか13歳で将軍となり、もみにもまれ、心労につぐ心労の日々だったことも、死期を早めた要因だったかもしれません。家茂の死に関しては厳重な箝口令が布かれますが、それでも、どこからともなく情報が漏れ、またたく間に幕府方では公然の秘密となります。こうなると、もはや士気はダダ下がり。もともとこの戦いに乗り気ではなかった諸藩の兵たちは、先を争って戦線離脱を開始します。

 こうして、4千の兵が15万の大軍に圧勝しました。この敗北によって、いよいよ幕府の権威は地に落ちます。歴史が大きく動くときというのは、このような奇跡が起こるものなんでしょうね。こういうのを、大きな歴史のうねりというのかもしれません。このとき、そのうねりを起こした主役は、まぎれもなく長州藩でした。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-31 22:32 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第32話「大逆転!」 ~功山寺挙兵~

 たったひとりで決起した高杉晋作でしたが、ほどなく力士隊を率いていた伊藤俊輔が同調して立ち上がります。すると、少しずつ共鳴する者たちが増え、遊撃隊も加わります。この時点の人数は、物の本によれば84人だったといわれていますが、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』では80人半藤一利氏の著書『幕末史』では60余人と書かれています。いずれにせよ、長州藩正規軍の兵力は役3000人。どう考えても衆寡敵せずですが、晋作はこの人数で挙兵します。

 「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

 とは、晋作の師である吉田松陰の有名な言葉ですが、これは、松蔭の生前、晋作が「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」と質問したことに対しての答えだったといいます。今こそ命を賭けるべきとき・・・晋作は師の言葉を思い出し、そう覚悟したことでしょう。

 挙兵決行日は元治元年(1864年)12月15日。本当は、先日の14日に挙兵する予定だったようですが、準備に手間取り翌日にずれ込んでしまったと言われています。12月14日は、師の吉田松陰が最初に脱藩した日であり、また、赤穂浪士吉良邸討ち入りの日でもありました。自身の覚悟を、赤穂四十七士や松蔭の覚悟になぞらえていたのではないかと言われています。奇しくも、この日は吉良邸討ち入りのときと同じく、下関では珍しい大雪でした。

 立ち上がった反乱軍は、三条実美五卿がいた功山寺に集結。ここで晋作は三条らに、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と言ったと伝えられます。この言葉は、この時期、ほうぼうに喧伝されました。周囲は大雪。死を覚悟し、わずか数十人で決起した反乱軍のリーダーの台詞としては、あまりにカッコよすぎですね。この辺りも、晋作が後世に人気の高い所以でしょう。そして、翌16日からは下関の会所、三田尻海軍局などを次々と襲撃して代官所を占領。さらに、軍監「癸亥丸」の奪取にも成功します。

 赤禰武人の不在中、奇兵隊をまとめていた山縣狂介は、当初は晋作の決起を時期尚早として反対の立場をとっていましたが、晋作ら反乱軍の勢いを見て、翌16日の奇兵隊の大部分を率いて合流します。山縣は若いときから、良くいえば慎重、悪くいえば老人のような性格で、長州藩若者特有の軽挙を好みませんでした。彼は晋作らに呼応するにあたって、自分は不本意ながら、やむなく決起するということを表すために、髪を剃って坊主になりました。往生際が悪いというか、その後、年が明けた絵堂・大田の戦いでは、山縣はそれなりに活躍を見せるのですが、司馬遼太郎などは『世に棲む日日』のなかで、「唯一、山県が軍人らしいところをみせた場面であった」と、皮肉たっぷりに書いています。決起して間もなく晋作に同調した伊藤俊輔と、勢いを見て乗っかってきた山縣狂介。のちにそれぞれ、初代、第三代の内閣総理大臣になるわけですが、後世の評価は、このときすでに見えていたような気がします。

 その後、瀬戸内海沿岸に布陣していた諸隊も次々に加わり、晋作は海の上から空砲威嚇砲撃を開始。俗論党の士気は下がり、反乱軍の勢いは一気に増していきます。この頃には、井上聞多率いる農民軍も加わり、その数は1000人を超えていました。こうなると、もう反乱軍ではなく、立派な革命軍です。革命が成るときというのは、人数ではなく勢いなんですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-10 21:40 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第31話「命がけの伝言」 ~高杉晋作の大演説~

 第一次長州征伐後に藩の実権を手中にした俗論党の首領・椋梨藤太は、次々に正義党派閥の者たちを槍玉にあげ、片っ端から処刑していきます。身の危険を感じた高杉晋作は、海を渡って筑前国福岡藩に逃れ、同藩志士の月形洗蔵や女流歌人・野村望東尼の庇護を受けます。桂小五郎禁門の変以後、但馬国出石藩に身を隠したまま。井上聞多は刺客の襲撃により瀕死の重傷を負い、伊藤俊輔は別府温泉に逃げていました。つい数ヶ月前まで長州藩を動かしていた男たちが、あっという間に政治の外側に追い出されてしまいます。

 晋作がつくった奇兵隊をはじめとする諸隊も、すべて解散を命じられ、萩城下から追い出されました。彼らは長府の功山寺近くに集まり、今後の去就についての相談を繰り返しますが、なかなか意見の一致をみません。強いリーダーシップを持った人物がいなかったんですね。このときの奇兵隊総督は赤禰武人でしたが、赤禰は俗論党に取り行って隊の存続を図ろうとしていました。それを潜伏先で知った晋作は、再び長州の地に戻って俗論党打倒することを決意します。

 戻ってきた晋作は、諸隊らの駐屯地にふらりと顔を出します。このとき赤禰は不在でした。そこで晋作は、「今こそ立ち上がるべきときである」と、隊士たちに激をとばしますが、なかなか皆、乗ってきません。俗論党による粛清の嵐に、行き場を失った諸隊士たちのモチベーションはダダ下がり状態で、晋作の攻撃的な策より、赤禰の進める俗論党との融和策のほうが、現実的だと思えたのでしょうね。無理もないことだったでしょう。ここに集まる諸隊士たちはわずが80人ほどで、弱体化したとはいえ数千人はくだらない長州藩正規兵が相手では、衆寡敵せずと見るのが当然でした。

 そんな彼らの反応を、赤禰の政論に毒されているとみた晋作は、次のように吠えます。

 「赤禰とは何者なるか! 大島郡の土百姓ではないか! これに反してこの晋作は、毛利家譜代恩顧の士である。武人の如き匹夫と同一視される男児ではではない!」

 身分階級にとらわれない奇兵隊を創設した晋作の言葉とは思えない暴言ですね。同じく土百姓あがりが多数いる諸隊のかれらは、晋作の言葉にドン引きします。これまた無理もありません。晋作が言いたかったことは、自分のような譜代恩顧の士暴挙をやろうといっているのだから、これは藩のためであり、実は暴挙ではなく忠義そのものなのだ、ということでした。ドラマでは、それに近い台詞を吐いていましたね。実際の晋作は、言葉足らずでかなり誤解をまねいたようです。このときの晋作について司馬遼太郎氏は、小説『世に棲む日日』のなかで、「晋作という男は直感で物事を判断する資質には富んでいたが、理屈で相手にわからせるという能力に欠けていた」と分析しています。天才にありがちな欠陥かもしれません。

 そしてここで、晋作は沈黙する隊士たちに向けて、後世に有名な大演説をぶちます。

 「もし諸君が僕の意見を聞いてくれないとすれば、もはや諸君に望むところはない。ただ従来の旧誼に甘え、一頭の馬を貸してもらいたい。僕はその馬で萩へ駆けつけ、御両殿様に直諫する。もし、御両殿様に受け入れてもらえなければ、その場で腹を掻っ切り、臓腑をつかみだし、城門へそれをたたきつけて、御両殿様のご聡明をめぐらし奉ろうと存ずる。萩への途中、もし俗論等にはばまれて斬殺されるとも、あえて厭わぬ。いまの場合、萩に向かって一里ゆけば一里の忠を尽くし、二里ゆけば二里の義をあらわす。尊皇の臣子たるもの一日として安閑としている場合ではない。」

 この演説は、長州維新史料のあらゆるところに記録されているそうで、よほど当時、語り伝えられたのでしょう。高杉晋作のいちばんの見せ場といえるかもしれません。ただ、このとき諸隊士たちは晋作の迫力に圧倒されますが、この時点ではまだ、誰一人晋作とともに立ち上がろうとする者はいませんでした。まさに、たった一人の決起。ここから、晋作の奇跡の大逆転劇がはじまります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-03 16:57 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第28話「泣かない女」 ~伊藤俊輔、井上聞多の留学と、下関戦争の講和談判~

 ドラマは未亡人となった奥御殿に入る「大奥編」に入りましたが、残念ながらわたしは文の奥御殿勤めの逸話をほとんど知りませんので、当ブログはあくまで長州藩を中心とした幕末の情勢に終始します。

 時は遡って、禁門の変(蛤御門の変)の1年以上前、長州藩は極秘で5人の若者を英国に留学させていました。メンバーは伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)で、いずれも維新後それぞれの分野で活躍することになる人物ですが、そのなかでも特に伊藤俊輔と井上聞多は、政府高官となる人物として周知のところだと思います。この当時、攘夷の先鋒藩だった長州藩が西洋に留学生を出すなど矛盾した政策でしたが、これを企画実行したのは、このとき藩政の中心にいた周布政之助だったようです。周布は、攘夷論を表向きは肯定しながら、一方で、攘夷が不可能であることも感じ取っていました。そこで、来るべき西洋化の時代に向けての人材養成の必要性を感じていましたが、藩内は攘夷の狂気が絶頂のなか、表だった留学生派遣は不可能で、5人はあくまで「秘密留学生」としての密出国でした。周布のこのときの機転がなければ、伊藤や井上ののちの栄達はなかったかもしれませんね。

 留学した伊藤らは西洋との国力の違いを目の当たりにし、攘夷がいかに無謀な政策であるかを痛感しますが、彼らの留学中に長州藩は馬関海峡で攘夷を決行し、更に八月十八日の政変で京のまちを終われ、政局はめまぐるしく変わっていきました。留学先の英国の新聞で長州藩の現状を知った伊藤と井上は、藩の危機を案じ、他の3人の制止を聞かずに帰国を決意します。ふたりの英国滞在はわずか半年、中途半端な留学となりましたが、他の3人がその後、単なる西洋仕込みの知識人というだけに終わったことを思えば、ここが伊藤と井上の人生のターニングポイントだったといえるかもしれません。

 ふたりが帰国した約1ヵ月後に禁門の変が起こり、長州藩は瀕死の敗北を喫しますが、その翌月には、朝廷より勅許を得た幕府から長州征伐の軍令が下り、さらに時を同じくして元治元年(1864年)8月5日には、前年の馬関海峡における砲撃事件の賠償交渉が遅々として進まないことに業を煮やした英仏米蘭の四ヵ国連合艦隊17隻が、馬関海峡に姿を現し、一斉に砲撃を開始しました。まさに、泣きっ面に蜂とはこのことでしょう。このときの長州藩は、国内外すべてを敵に回した究極のいじめられっ子でした。

 8月8日、長州藩の降伏が決定すると、その講和の席に誰を送り込むかを思案した結果、外国人相手に交渉できる胆力があるのは高杉晋作しかいないだろう、ということになります。このとき晋作若干24歳。ついこの前まで罪人として獄に繋がれていた若造が、いきなり藩代表として事にあたるわけですから、いかにこの時期の長州藩上層部に人材がいなかったかがわかります。しかし、150石の身では藩代表とはなれないため、臨時で藩筆頭家老である宍戸家の養子ということにし、名を宍戸刑馬として交渉にあたりました。そしてその通訳官として、英国帰りの伊藤と井上が同席することになります。ふたりはこのために帰ってきたようなものですね。

 談判の席において連合軍はさまざまな条件を突きつけてきますが、そのなかで、彦島を(香港のように)百年ほど租借地にさせてくれとの要求があったといいます。晋作は、他の条件はほぼ受け入れたたのに対し、この要求は頑として拒否します。後年の伊藤の回想によると、このとき晋作は、古事記、日本書紀の講釈をはじめたといいます。
 「そもそも日本国なるは高天原よりはじまり、はじめ国常立命ましまし、つづいて伊弉諾・伊弉冊なる二柱の神現れ・・・」
 と、他の長州藩士も連合国側も呆然とするなか、延々と説き続けました。つまり晋作がいうところは、日本は神代より一民族の国家であり、1センチ四方の土地とて譲ることは出来ないということでしたが、その結論に至るまで、およそ2日間日本の歴史を説き続けたといい、相手が呆れて止めても聞かず、最終的には、相手側が疲れ果てて「もういいよ」と、租借の要求を撤回しました。租借地=植民地化ということを、上海を見てきた晋作は十分知っていたのでしょうが、これを取り下げさせた晋作の交渉術は、見事というべきか無茶苦茶というべきか・・・。いずれにせよ、もし租借の要求を受け入れていれば、日本の歴史はずいぶん変わっていたかもしれませんね。このときの晋作の様子を、英国通訳官だったアーネスト・サトウはのちに、「戦争に負けたくせに『魔王』の如く威張っていた」と描写しています。

 魔王の働きによって連合国との講和は決着をつけましたが、長州藩の試練はまだまだ続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-14 17:24 | 花燃ゆ | Comments(4)  

花燃ゆ 第24話「母になるために」 ~来島又兵衛の進発論と、そうせい侯~

 文久3年(1868年)の八月十八日の政変によって、京における政治基盤の一切を失った長州藩は、今後の対策を巡って藩内が紛糾していました。政庁内は、藩の名誉回復勢力挽回を目指して挙兵、京に向かうべし!・・・とする「進発派」と、それを時期尚早とする「割拠派」に分かれます。進発派の中心人物は、長老格の来島又兵衛。長老と言っても、このとき又兵衛は48歳で、長州藩きっての豪傑とて名高く、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物でした。彼は上洛を声高に主張しながら、高杉晋作が作った奇兵隊を見習って、さまざまな身分の有志600人を集めた「遊撃隊」を組織し、周防三田尻に駐屯します。

 藩当局も一時は又兵衛の主張に傾いていたのですが、京に潜伏している桂小五郎らの反対意見などもあって方針を一変、慎重論に変わります。しかし、又兵衛はそれで収まるはずがなく、言動はさらに激しさを増していきます。又兵衛は隊士たちからの人望も厚く、隊は又兵衛と共に命を捨てるといった気運が高まり、いつ暴発してもおかしくないムードとなります。

 なんとか沈静化を図りたい藩当局は、又兵衛を説得する使者として、高杉晋作を派遣します。晋作はこの時期、奇兵隊総督の任を罷免され、藩内閣の閣僚ともいうべき「政務役」という重責の任に就いていました。このとき晋作は若干24歳異例の出世でした。三田尻に乗り込んだ晋作は、3日間粘って又兵衛の説得にあたりますが、24歳の晋作が48歳の又兵衛を説得するのは困難なことで、結局は徒労に終わります。すると、ここで晋作は何を思ったのか、萩に戻らずにそのまま船に乗り、脱藩してしまうんですね。これには藩当局はもちろん、又兵衛もビックリしたことでしょう。この辺が、高杉晋作という人の尋常ならざるところです。政務役に抜擢されてから、わずか半年のことでした。

 さて、今話はそれ以外に特に政治的な動きがなかったので、これまで書きそびれてきた長州藩主・毛利敬親についてふれてみたいと思います。ドラマでは、たいへん寛大で懐の深い殿さまとして描かれている敬親ですが、実際には、敬親は名君暗君かで意見が真っ二つに分かれる人物です。というのも、敬親は家臣の意見に対して異議を唱えることが皆無だったといい、ドラマで描かれているように、藩内保守派、改革派のどちらから上申されても、常に「ああ、そうせい」と許していたそうで、そんな敬親のことを家臣たちは、「そうせい侯」と陰で揶揄していました。そのため、後世に有能か無能かで意見が分かれていて、維新の原動力となった長州藩の藩主でありながら、いわゆる幕末の四賢侯にも数えられていません。

 実際にはどうだったかはわかりませんが、ただ、敬親のような人物が長州藩主であったからこそ、幕末の長州が長州たりえたといえるでしょう。ふつう他藩では、藩主の思想、意向によって政治が動くものですが、長州藩にはその機能がなく、家臣たちが藩を動かしました。そのせいで、高杉晋作や久坂玄瑞などの書生あがりが政治活動の中心になりました。藩主という抑制装置が機能していないため、藩の活動はどんどん過激になっていきます。それが、幕末の長州藩でした。幕末の日本史は、長州藩が大暴れしたことによって作られた歴史といっても過言ではありません。その長州藩を演出したのは、松蔭でも晋作でも玄瑞でもなく、敬親だったといえるかもしれませんね。もし、長州藩の藩主が、土佐藩の山内容堂のような人物であれば、晋作や玄瑞などはとっくに処刑されていたに違いないでしょうし、そうすると、日本の歴史もまったく違ったものになっていたかもしれません。

 「藩主として余はいまだ迷い、自問自答を繰り返す身じゃが. 志ある者の邪魔立てだけはすまいと決めておる。」

 何話か前の、との面会シーンでの敬親の台詞ですが、あるいは、このとおりの考えだったのかもしれません。幕末の長州藩主は、いわゆる「君臨すれども統治せず」だったわけですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-15 21:05 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第22話「妻と奇兵隊」 ~下関戦争と奇兵隊~

 文久3年(1863年)5月、馬関海峡を通る外国船を次々に砲撃し、攘夷を決行した長州藩でしたが、当然、外国側がそのまま黙っているはずがなく、6月1日にはアメリカ軍監が下関沖に現れ、長州藩の軍監2隻を撃沈します。続いて5日にはフランス軍監2隻が下関に入ってきて、長門下関の砲台を撃破。さらに陸戦隊約250人に上陸されて砲台を占領され、長州藩の本営・慈雲寺を焼かれてしまいます。完膚なきまでに叩きのめされたといっていい惨敗でした。幼稚園児が大人に喧嘩を売ったようなもので、当然といえば当然の結果ですよね。そもそも、一橋慶喜がその場しのぎで決定した5月10日の攘夷決行命令でしたから、実行した藩はほとんどありません。ところが、長州藩だけは藩をあげて実行しちゃうんですよね。このときの長州藩について、司馬遼太郎氏は小説『世に棲む日日』のなかで、次のように表現しています。

 「長州は藩をあげて気が狂った。攘夷々々と唱えるうちに、ついにゆきつくところまで行きついたという観がある。このわずか三十六万九千石の藩が、世界じゅうを相手に宣戦布告をやってのけたようなものであった」

 まさしく、この知らせを聞いた幕府や他藩は、長州藩は発狂したと思ったでしょうね。その結果、長州は外国との軍事力の違いを、まざまざと思い知らされることになります。

 事態を重く見た藩当局は、萩にて隠棲中だった高杉晋作を登用し、軍制の再構築を命じます。このとき晋作は若干24歳。後世に「天才」の呼び声が高い晋作ですが、この藩の存続に関わる危機的状況において、このような若僧に重責を負わせるあたり、晋作の軍才というのは、当時から非凡な存在として認められていたということでしょうね。

 下関についた晋作は、6月6日、新しい軍組織の案を提唱します。事ここまで至ったからには、もはや武士の身分に限らず、町民、農民なども混じえた有志の者を選抜し、近代的な軍隊を組織しようというものでした。有名な「奇兵隊」ですね。この案は、晋作の師匠である吉田松陰の持論『草莽崛起論』、あるいは著書の『西洋歩兵論』に影響されたものだといわれていますが、この時代、こういった合理的な発想で組織が作られること自体、革命的なことでした。封建社会の秩序を守っているのは、身分制度でした。身分があることによって、社会が安定して構築されていました。ところが、晋作の構想する奇兵隊では、それを一挙になくしてしまおうというわけです。またまた、『世に棲む日日』から引用しますと、

 「もはやその瞬間から封建身分社会が崩れたことになるであろう。げんにこの『奇兵隊』から、明治維新は出発するといっていい。・・・(中略)・・・徳川封建制という巨大な石垣のすき間に無階級戦士団という爆薬を挿しこみ、それを爆発させることによって自分の属する長州の藩秩序をゆるがせ、ついに天下をも崩してしまったのである。」

 とあります。長州藩が明治維新の主役になり得たのも、この「奇兵隊」の着想があったからかもしれません。

 しかし、軍を組織するにはお金がかかります。奇策を講じることについては天才的頭脳の持ち主だった晋作ですが、金の工面はできません。そこで泣きついたのが白石正一郎という下関の豪商。正一郎は商人ながら尊皇攘夷の志を強く持ち、長州藩士のみならず、幕末志士たちの多くと交流し、そのスポンザーとなります。そんな正一郎でしたから、当然、晋作が組織した奇兵隊の結成にも惜しみなく援助し、以後も晋作を経済面で大いに支えます。ところが、あまりにも支援しすぎたため、明治維新を迎える前に破産してしまうという結果をまねいちゃうんですね。しかし、正一郎はそのことについて、少しも後悔していなかったとか。幕末の豪傑というのは、武士に限ったことではなかったようです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-01 19:39 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第21話「決行の日」 ~高杉晋作の暴挙と馬関海峡の攘夷決行~

 処刑された当初の吉田松陰の遺骸は、小塚原刑場へ埋葬されていました。通常、幕法により刑死人の遺骸は捨ておかれることになっていましたが、長州藩の藩医で飯田正伯という人物が獄吏に賄賂を渡して遺骸の引き渡しを懇願し、特別に許しを得たといいます。遺骸の引き取り、埋葬に奔走したのは、伊藤俊輔、桂小五郎らでした。

 それから3年半が経った文久2年(1862年)8月、かつての安政の大獄によって刑を受けた者たちの名誉を回復する勅書が発せられたことに伴い、松蔭の埋葬場所に墓碑が建設されましたが、刑死者の埋葬場所にそのまま置いておくのは適切ではないという声が上がり、その翌年の1月には、遺骨は武蔵若林村の大夫山へと改葬されます。この改葬を発案、実行したのは、高杉晋作、伊藤俊輔らでした(ドラマでは伊藤は萩に残っていましたね。このあたり、どちらが正しいのかわかりません)。

 この改葬を指揮した高杉晋作は、陣羽織騎馬姿という戦装束でした。そして松蔭の遺骨を入れた柩を中心に列をなし、悠然と歩を進めます。それを見たひとびとは、皆どよめいて道をあけたといいます。

 道中、一行は徳川家将軍代々の廟所がある寛永寺にさしかかります。寛永寺には「三枚橋」と呼ばれる三つの橋が並んでかけられていましたが、その中央の橋は、将軍が寛永寺に参拝するときのみに使用されていた橋で、将軍以外の者がその橋をわたることは許されていません。そこを、晋作率いる一行は、押し通っちゃうんですね。もちろん、わざとです。当然、それを見た橋の番人は通行を阻止しようとしますが、晋作はそれを払いのけ、「勤王の志士吉田松蔭の殉国の霊がまかり通るのだ」と言い放って強行します。さらに、追いすがって名を名乗れと叫ぶ番人に対して、晋作は馬上ふりかえり、「長州浪人高杉晋作」と言い放ったとか。この暴挙の知らせは、すぐさま幕閣へ届きますが、普通なら、即刻打首に処せられる行為ですが、幕府は長州藩との摩擦を嫌って不問に付したといいます。

 いかにも高杉晋作らしい痛快なエピソードですが、この逸話が実話かどうかは定かではありません。しかし、この時期になると、これほどまでに幕府の権威は落ちていたということがわかるエピソードです。

 幕府の権威の失墜にまつわるエピソードでいえば、もう一つ。同じ年の3月、第14第将軍徳川家茂が、将軍としては229年ぶりに上洛します。京に入った家茂は、早速、上賀茂神社下鴨神社攘夷祈願に行幸する孝明天皇(第121代天皇)のお供をさせられます。天皇のお供をするということは、将軍が天皇の下であるということを世に知らしめる行為であり、これを画策したのが、久坂玄瑞を中心とする長州藩攘夷派でした。この時期、京では長州藩が朝廷をほぼ牛耳って動かしていました。

 この行列の見物人のなかにいた高杉晋作は、人々が土下座して平伏すなか、ひとり顔を上げて「いよう!征夷大将軍!」と、まるで舞台の歌舞伎役者に声をかけるような冷やかしの声を浴びせたといいます。これも本来であれば、その場で斬り捨てにされるべき無礼極まりない行為でしたが、この行列は天皇の権威の行列であり、将軍はあくまで“お供”にすぎません。晋作の声は将軍の供回りにいる旗本たちの耳にも入っていたでしょうが、勝手に飛び出して天皇の行列を乱すわけにはいかず、黙って耐えるしかなかったんですね。

 このエピソードも、実話かどうかは定かではありません。後年の山縣有朋などの話で、このとき晋作が何かを大声で叫んだことは間違いないようですが、それがどんな言葉だったかは、いろんな説があるようです。ただ、いずれにせよ、将軍が天皇のお供として付き従ったのは事実で、このときヤジが飛んだとしても、どうすることも出来なかったのも間違いなかったことでしょう。それだけ、幕府は軽んじられはじめていたわけですね。

 さらに晋作は、将軍暗殺計画まで口にし始めました。しかし、そんな晋作の過激な行動を恐れた久坂玄瑞や周布政之助らは、晋作を激しく詰問します。すると程なく、晋作は髪を剃り、法名を東行と名乗って出家するといいだしました。10年間、賜暇をもらいたい・・・と。周囲の者たちはきっと呆然としたでしょうね。とにかく、やることなすこと奇想天外、凡人の頭では理解しがたい晋作の行動。この非凡な生き方が、後世に人気の高い所以なんでしょうが、同時代に生きていた関係者たちは、振り回されっぱなしでたまったもんじゃなかったでしょうね。

 さて、本話のタイトル「決行の日」についてですが、「決行」とは即ち攘夷決行のことで、上洛していた将軍家茂は、朝廷から攘夷の実行を執拗に迫られ、これを応対していた将軍後見職の一橋慶喜は、なんとか誤魔化そうといろいろ手立てを講じますが、結局は天皇に押し切られるかたちで、「攘夷の期日を5月10日とする」と約束させられます。そして、4月22日に諸大名に公示されるのですが、そもそも幕府にしてみれば、攘夷実行の意思などさらさらなく、その場の逃げ口上にすぎなかった約束でした。諸大名たちのほとんども、空気を読みながら様子を伺っていました。ところが、長州藩だけが、約束どおり5月10日に砲門を開きます。彼らは、馬関海峡を通ったアメリカ商船ペンブローク号に発泡。相手は軍監ではなく商船ですから、逃げるしかありません。更に23日にはフランス軍監キャンシャン号にも、また26日にはオランダ軍監メデューサ号にも砲撃しました。このとき中心となっていたのが、ほかならぬ久坂玄瑞だったんですね。逃げていく外国船を見て長州藩士たちの意気は大いに上がったといいますが、ここから、幕末における長州藩の墜落が始まったともいえます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-26 15:24 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第20話「松蔭、復活!」 ~イギリス公使館焼き討ち事件~

 『航海遠略策』が長州藩の藩論に採用され、藩の中老に昇進した長井雅楽は、京に赴き公武の周旋活動に奔走していましたが、公武合体派の幕府老中・安藤信正、久世広周が文久2年(1862年)1月に起きた坂下門外の変で襲撃されて失脚すると、たちまち藩内の攘夷派が勢力を盛り返し、長井排斥運動が激しくなります。長井は同年3月に再び上京し、朝廷、公家への働きかけを展開しますが、久坂玄瑞ら攘夷派は弾劾状を藩主に提出するなど、長井の追い落とし工作を強めます。一方で、玄瑞らは朝廷に対して、「長井の主張のなかに朝廷を誹謗する文言がある」などと主張し、長井の立場はいよいよ悪くなっていきます。そして同年6月、藩主・毛利敬親は藩論を『航海遠略策』から『破約攘夷』へと切り替え、長井の役職を剥奪、帰国を命じました。

 前話の稿でも述べましたが、長井の提唱した『航海遠略策』は、後世の目からみればこの時期もっとも優れた見識だったといえます。しかし、政治というのは、機を見るに敏でなければならないんですね。どんな正論を吐いても、それがどれだけ良策であっても、追い風に乗らなければ支持されない。機を見るのを間違えれば、昨日までの英雄もたちまち失脚してしまいます。『大阪都構想』橋下徹氏と同じですね。

 同じ年の10月、孝明天皇(第121代天皇)は勅使の三条実美、姉小路公知を江戸に送り、幕府に攘夷の決行を迫ります。これを受けた幕府は、返答を引き延ばす作戦に出たため、全国の攘夷派の反発はいっそう高まります。そんななか、長州藩内攘夷派の中心的存在となっていた久坂玄瑞、高杉晋作らは、この状況下において、「世間の度肝を抜くようなことをしよう!」という思いを強くします。そこで、彼らは当初、横浜の外国人居留地の襲撃を計画しました。しかし、この計画を耳にした毛利元徳(次期藩主)は、勅使が江戸滞在中であることを理由に、晋作に襲撃を思いとどまるよう説得し、江戸藩邸での謹慎を命じました。

 やむなく、計画を断念した晋作らでしたが、今度は勅使が江戸を離れたあとに実行する新たな計画を立案します。その計画は、江戸の御殿山に建設中だったイギリス公使館焼き討ちするというもの。そしてその実行部隊として御楯組なる組織を作ります。そのメンバーは、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ、井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、松島剛蔵小田村伊之助の兄)、品川弥二郎、堀真五郎ら十数人。顔ぶれを見ると、井上と松島を除いて、他は松下村塾門下生ばかりで、しかも、吉田松陰が目を掛けていた者ばかりです。生前、どんどん過激さを増す松蔭を持て余し気味だった彼らでしたが、結局、その過激なDNAは引き継がれていたんですね。

 ドラマで描かれていたのは実行前まででしたが、この先もいっちゃいます。文久2年(1862年)12月12日、彼らは手際よく計画を実行し、公使館はたちまちのうちに全焼しました。放火後、一目散に逃げ出し、近くの妓楼に登った晋作らは、全焼する公使館をながめながら酒盃を傾け、実に上機嫌だったといいます。結局、江戸幕府はこの放火の犯人を特定することができないまま、やがて瓦解してしまいます。事件の真相が明らかになったのは、ずっと後年、明治政府において栄達した伊藤博文井上馨が、「自分たちが公使館に放火した」暴露したことによります。そのときの彼らは、やはり上機嫌だったとか。時の総理大臣が放火の前科を誇らしげに語るというのもどうかと思いますが、考えてみれば、明治政府初期の大臣たちは、ほとんどが人殺しの経験があるんですよね。そら、肝が座ってたはずです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-19 21:04 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第19話「女たち、手を組む」 ~長井雅楽暗殺計画~

 長井雅楽が提唱した『航海遠略策』は、このときの時勢において、わが国のとるべき最良の道だったといえるでしょう。しかし、松下村塾系の過激書生たちをはじめとする攘夷志士たちからは極めて不評を買い、「長井、斬るべし」というムードが沸騰しはじめます。その先頭にたっていたのが、久坂玄瑞でした。彼は、仲間と結託して長井の暗殺を企てます。玄瑞ほどの英明な人物が、長井の言わんとする理論をわからなかったわけはないと思うのですが、彼にしてみれば、その正邪はどうでもよかったのでしょう。問題なのは、この案があくまで幕政中心に、幕府に擦り寄るかたちで唱えられたものだったということだと思います。

 玄瑞らの理屈でいえば、日本の中心にあるのは幕府ではなく、あくまで天皇であり、その天皇のご意向が攘夷である以上、国策は攘夷でなければなりません。もっと言えば、天皇のご威光をかさに、あるいは利用して、反幕府を主張していたとも言えます。ドラマでは、「攘夷」という言葉は頻繁に出てきますが、なぜか「尊皇」という思想はあまり強調されていません。この「尊皇」「攘夷」が結びついた「尊皇攘夷」思想が、やがて倒幕のエネルギーになっていくわけです。その精神をもっと描かなければ、彼らがなぜ命を賭してまで政治活動をするのかが伝わらないですよね。ドラマの描き方では、ただ正論に反抗する熱い若者たちといった感じでしかないような・・・。

 この時期、他藩の西郷隆盛ですら、「長井雅楽と申すは大奸物」と言い、「長井は討たなければならない」とも書簡に記しているそうです。西郷こそ、長井の考えを理解できない人物ではありませんでした。司馬遼太郎氏はこのときの西郷について、次のように述べています。

 「正論で革命はおこせない。革命をおこすものは僻論である」ということが、この時期の西郷の肚の中にはあったにちがいない。

 正論というものが、必ずしも正しい道というわけではないんですね。長井は優秀な人物でしたが、機を見る能力に欠けていた。もし、この案を3年後か4年後に出していれば、後世に坂本龍馬的存在になっていたかもしれません。

 そんな情勢のなか、高杉晋作は幕府役人に随行するかたちで、上海への渡航を藩から命じられます。その理由について司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、長井雅楽暗殺計画を嗅ぎつけた周布政之助が、その中心的存在である晋作を集団から引き離すことで、彼らの暴挙を抑える狙いだったという設定でした。いわゆる『腐ったみかんの方程式』ですね(笑)。タイミング的にない話でもないのかなぁ、と。実際に、長井の暗殺計画が実行されることはありませんでした(ドラマでは松浦亀太郎が斬りかかっていましたが、実際には、亀太郎は計画段階で翻意を促されて断念し、その後、切腹したようです)。ただ、暗殺計画こそ断念したものの、玄瑞の長井に対する追い落とし工作はいっそう激しくなっていきます。

 今話のタイトル『女たち、手を組む』は、結局なにが描きたかったのか、よくわかりませんでした。女性たちが結束して男性陣を翻弄するような挙に出るのか?・・・などと、タイトルから想像していたのですが、結局、内助の功?・・・それとも待つ身の寂しさ?・・・よくわからなかったのは、わたしがおじさんだからでしょうか・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-11 22:44 | 花燃ゆ | Comments(2)