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平清盛  第13話「祇園闘乱事件」

 久安2年(1146年)、平清盛は正四位下という異例の官位に昇進した。飛ぶ鳥を落とす勢いで出世を重ね、順風満帆に見えた清盛の人生だったが、「禍福はあざなえる縄の如し」の言葉どおり、翌年の久安3年(1147年)、人生初の試練を味わうことになる。

 6月15日、清盛は恒例の祇園臨時祭に際して、祇園社(現在の八坂神社)に田楽舞を奉納するため、田楽を奏する楽人と護衛の家臣を派遣した。当日、清盛の郎等は弓矢、刀剣などの武具を携えたまま境内に入ろうとしたところ、祇園社の神人は武装解除を求めて参詣を制したという。やがて郎等と神人はお互いに興奮し、ついには郎等の放った矢が神官や宝殿に命中し、けが人まで出る深刻な事態に発展してしまったのである。ドラマでは、清盛自身がわざと神輿を狙って矢を射たことになっていたが、これは吉川英治著の『新・平家物語』で描かれたフィクションで、オリジナルの『平家物語』によれば、郎等が威嚇のために放った矢が神輿に当たってしまったもので、あくまで過失だったようである。

 祇園社の神人はことの顛末を関わりが深い比叡山延暦寺衆徒(僧兵)に告げた。日頃から平氏の存在を快く思っていなかった延暦寺は、同月24日、延暦寺の所司(幹部)が鳥羽法皇(第74代天皇)の御所へ参内し、平忠盛・清盛父子の官位、官職の剥奪と配流を求めたとされる。一方、延暦寺の動きを察知した忠盛は、事件に関与した郎等7人を検非違使に引渡して事件の幕引きを図ろうとした。しかし、それでも延暦寺の怒りは収まらず、26日には祇園社、鎮守日吉社の神輿を担ぎだして強訴を引き起こした。

 衆徒が神輿などのご神体を担ぎ出すのは、宗教的権威によって強訴を正当化するためである。このときより半世紀ほど前の嘉保2年(1095年)、神輿の入洛を武力で鎮圧した関白・藤原師通が、その4年後に38歳の若さで急逝したため、延暦寺は天罰が下ったと喧伝し、貴族たちは神威に恐れをなして為す術をなくしていた。あの、専制君主だった白河法皇(第72代天皇)でさえ、自分の思いどおりにならない「天下三不如意」として、「鴨川の水、双六の賽」とともに「山法師(僧兵の強訴)」をあげているほどである。法皇や摂関家でさえもてあましていた強訴の矛先が清盛に向けられたのだ。清盛にとっては、まさしく人生初の政治的危機であった。

 鳥羽院は検非違使の源光安や、源氏の棟梁・源為義らに強訴の入洛阻止を命じた。といっても、武力で鎮圧しようというものではない。強訴といってもあくまで神威をかさに着てのデモ行為であり、基本的に衆徒らが朝廷に対して武力に訴えることはなかった。しかしこのとき、衆徒の叫び声、シュプレヒコールが洛中まで響いていたと伝えられるほどで、このときの強訴がいかに激しいものであったかが窺える。こういった状況下で、鳥羽院は延暦寺側に使者を送り、公平に裁断する旨を伝えて一旦衆徒を比叡山に引き返させ、同月30日、摂政・藤原忠通、内大臣・藤原頼長以下16人の公卿を院御所の招集して対策会議を開き、善後策を協議させた。公卿の多くは、忠盛と清盛は事件の発端には関わっていないのだから、下手人だけを罰すればいいとの意見だったという。しかし、「悪左府」の異名をとった切れ者・藤原頼長だけは違っていた。

 頼長のいうところでは、たとえその場に居あわせなくとも、下手人たちの雇い主としての責任は免れないとして、清盛たちの有罪を主張した。部下の失敗は上司の責任、秘書官の犯した罪は政治家の責任、大久保隆規氏の犯した罪は小沢一郎氏の罪である・・・と。一方で頼長は、清盛側の郎等も負傷したのだから、祇園社側の下手人も捕えて罰すべきであるとも述べている。もっともといえばもっともな意見で、さすがは曲がったことが嫌いな頼長である。しかし、正論ばかりでは世の中は立ち回らない。鳥羽院はあくまで忠盛たちを守りぬく考えであった。

 その後も容易に結論が出ず、業を煮やした衆徒は再び入洛する構えを見せたが、このときも鳥羽院は武士たちを比叡山の降り口に派遣して防御態勢をしいた。行軍に際しては鳥羽院自ら閲兵にあたり、武士たちは家伝の綺羅びやかな武具をまとって晴れやかに出陣していったと伝えられる。この出陣は半月に及んだ。

 結局、裁断が下ったのは7月27日、忠盛、清盛父子は贖銅三十斤という罰金刑を科せられた。さすがに無罪放免とはいかなかったものの、衆徒たちが求める流罪をはねのけるかたちの極めて軽い処分であった。この予想外の軽い処分は、鳥羽院の意向によるものだと考えられている。鳥羽院は、軍事的にも経済的にも強大な力を有する忠盛、清盛父子を、今後も重用したいと考えていたためだった。この裁断に対して延暦寺側は、天台座主(延暦寺の最高位の役職)をはじめ延暦寺の首脳たちは納得したが、おさまらないの衆徒たちだった。やがて衆徒の怒りの矛先は首脳陣に向けられ、延暦寺内部の抗争に発展したため、清盛たちはそれ以上追求を受けずにすみ、いつしか事態は有耶無耶のまま収束に向かった。さすがの清盛もホッと胸を撫で下ろしたことだろう。

 この出来事によって、清盛は延暦寺の脅威を痛感したはずだ。後年、清盛は奈良の興福寺や延暦寺と対立関係にある園城寺に対しては強圧的に臨んだが、延暦寺に対しては出来る限り協調を保とうとした。それは、このときの苦い経験からくるものだったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-02 16:52 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第11話「もののけの涙」

 平清盛の最初の妻については、高階基章という廷臣の娘だったということと、長男・平重盛、次男・平基盛の二人の男子を産んだということ以外は何もわかっていない。したがって今話の彼女に関するストーリーは全て創作である。重盛が生まれたのは保延4年(1138年)、基盛が生まれたのは保延5年(1139年)とされており、清盛の2番目の妻となる時子が三男・平宗盛を生むのが8年後の久安3年(1147年)のことなので、おそらくはこの間に何らかの理由で死別したものと思われる。清盛と最初の妻との結婚は身分違いの“格差婚”で、出自からいえば2番目の妻である時子の方が上であることから、名前もわからない身分違いの最初の妻を「正室」と見るか否かは歴史家の中でも意見がわかれているらしい。ただ、清盛があくまで重盛を平家の後継者と考えていた様子から見れば、最初の妻を「正室」、時子を「継室」と考えるのが正しいのかもしれない。いずれにせよ、最初の妻と清盛との夫婦生活は、おそらく7~8年で終わったようである。

 永治元年(1141年)、朝廷では崇徳天皇(第75代天皇)が異母弟の体仁親王に譲位。わずか3歳の近衛天皇(第75代天皇)が即位した。崇徳帝が近衛帝への譲位を承諾したのは、近衛帝が自身の「皇太子」の立場で即位すると考えていたからだった。たとえ弟であっても皇太子に位を譲るのだから、崇徳帝は「父」の資格をもって院政を行えると期待していたのである。しかし、譲位の内容を記した宣命には「皇太弟」と書かれており、父権はあくまで鳥羽法皇(第74代天皇)のままだった。騙されたと知った崇徳帝は、鳥羽院を深く恨んだという。天皇の兄では院政は行えないのである。

 ここで鳥羽院と崇徳院の関係を今一度おさらいしておくと、崇徳院は鳥羽院と待賢門院璋子との間に長男として生まれながら、鳥羽院は祖父の白河法皇(第72代天皇)と璋子が密通して出来たのが崇徳院だと信じて疑わず、鳥羽院は終生、崇徳院のことを「叔父子」と呼んで忌み嫌ったと伝えられる。これがもし事実ならば、鳥羽院の白河院に対する恨みは相当なものだっただろう。崇徳帝を排して弟の近衛帝を即位させたのも、白河院の定めた「直系」を排して、自身が決めた「直系」に移行し、鳥羽院の思いどおりの院政が行えるようにしたばかりか、自身の死後も崇徳院に院政の権限を与えないためという意図もあったと思われる。白河院の命によって、わずか5歳の顕仁親王(崇徳院)に天皇の座を譲って以来、鳥羽院はずっとこの日を待っていたのかもしれない。鳥羽院の白河院に対する恨みはわからなくはないものの、崇徳院にしてみればすべて生まれる前の出来事。にもかかわらず、父からは「叔父子」と呼ばれて冷遇され、白河院への恨みをはらす対象となってしまった崇徳院は、少々気の毒な気がしないでもない。すべての悪の元凶は白河院にあった。「もののけ」と言われても仕方がないところである。

 鳥羽院の寵愛を受け、近衛帝の生母であることを背景に、皇后・美福門院得子の勢力は待賢門院璋子を日に日に圧倒していった。ドラマにあった、璋子に仕えていた判官代・源盛行とその妻・津守嶋子が得子を呪詛したという疑いで土佐国に流されたという話は史実で、近衛帝即位の直後の出来事だった。白河院の死後、凋落の一途を辿っていた璋子が、さらに崇徳帝の退位によって国母の座も奪われ、その恨みの矛先を得子に向けて呪詛の指示を出したといわれているが、一方で、これを機に待賢門院璋子とその一派を一掃するために、関白の藤原忠通と美福門院得子がしかけた謀略だったのではないかという見方もある。いずれにせよ、この約1ヶ月後に待賢門院璋子は出家した。おそらく、この呪詛事件に関連しての出家だったであろうことは間違いなさそうである。かつて鳥羽院から「もののけ」と罵られた待賢門院璋子。このとき「もののけ」の目に涙があったかどうかは知る由もないが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-21 00:32 | 平清盛 | Comments(2)  

院政と上皇について。

 今年の大河ドラマの主役・平清盛が生きた時代、わが国の政治は「院政」によって動かされていた。院政とは、退位した天皇である上皇(太上天皇の略。出家すると法皇になる)が、父権に基づき天皇の上にたって、上皇の家政機関である院庁で行う政治のことである。現代でも、総理大臣の職を退いてなお影響力を行使し続けることを「院政をしく」などというが、それはこの歴史的な政治形態からきたものである。

e0158128_19195149.jpg 清盛が生まれる約30年前までは、摂関家と呼ばれた公家・藤原氏が国政の実権を掌握していた。摂関家とは天皇の代理である摂政、天皇の補佐役である関白とを世襲する家柄のことで、摂関家の繰り広げる政治のことを摂関政治と呼び、その時代を政治史の上では摂関時代と呼ぶ。そんな中、摂関政治に疑問を持った白河法皇(第72代天皇)が、応徳3年(1086年)にまだ8歳の善仁親王(堀河天皇)に譲位したことが、院政の始まりとされる(白河院の父である後三条上皇(第71代天皇)が最初という説もある)。その後、鳥羽法皇(第74代天皇)、後白河法皇(第77代天皇)、後鳥羽法皇(第82代天皇)の政権がその最盛期となった。

 院政は「治天の君」と呼ばれる天皇家の家長が、現役の天皇の父または祖父の立場から政治を主導するものだが、上皇であれば誰でも院政が行えたわけではない。たとえば、鳥羽院の第一皇子である崇徳天皇(第75代天皇)が、永治元年(1141年)に異母弟の体仁親王(近衛天皇)に譲位して上皇になった後も、実権は「治天の君」である鳥羽院が握り続けていたし、承久3年(1221年)に承久の乱が起きたときは、後鳥羽法皇のほかに土御門上皇(第83代天皇)と順徳上皇(第84代天皇)という二人の上皇がいたという例もある。崇徳院の場合、近衛天皇への譲位を承諾したのは、近衛天皇が自身の「皇太子」の立場で即位すると考えていたからだった。たとえ弟であっても、皇太子に位を譲るのだから、崇徳院は「父」の資格をもって院政を行えると期待していたのである。しかし、譲位の内容を記した宣命には「皇太弟」と書かれており、父権はあくまで鳥羽院のままだった。騙されたと知った崇徳院は、鳥羽院を深く恨んだという。天皇の兄では院政は行えないのである。

 そんな強い政治力を有していた上皇たちも、独自の軍事力は持っていなかった。このため、当初は公家の身辺警護などに当たっていた武士のうち、優秀な者が上皇の身辺警護に当たる「北面の武士」に登用される。さらに、盗賊海賊が暗躍した際、大寺院の僧兵たちが強訴を企てた際などに、院は武士を動員さするようになる。そんな院政下で頭角を表したのが、伊勢平氏の平正盛平忠盛平清盛の三代だった。また、院政は「院近臣」という新たな政治勢力を生み出した。富裕な受領や乳母の夫や子、学者や実務官僚など、家柄よりも経済力や学識、院との個人的な繋がりによって取り立てられた人たちである。保元の乱後に実権を握った信西は後白河院の乳母の夫で、出家前は下級貴族だった。また、平治の乱で滅亡した藤原信頼は後白河院の男色相手であり、鹿ケ谷事件で島流しになった平康頼は後白河院の今様の弟子だった。武士も学者も、院近臣としての立場を足がかりにして出世したのである。

 治承3年(1179年)の政変によって政権を掌握した平清盛が政治体制として利用したのも院政だった。孫である安徳天皇(第81代天皇)を即位させた清盛は、外祖父の立場から天下に号令するのではなく、娘婿の高倉上皇(第80代天皇)による院政をとおして清盛の意志を国政に反映させた。その高倉院が崩御したのち、清盛は後白河院に院政の復活を要請するが、この清盛の行動からも、天皇の外祖父という立場だけでは政権運営が難しく、院政という政治形態をいかに必要としていたかが伺える。この時代、天皇という位よりもはるかに上皇の位が上だった。

 この、白河院、鳥羽院、後白河院の三上皇(もしくは後鳥羽院も入れた四上皇)の時代を政治史の面から院政時代と呼ぶ。だが、これ以後院政制度がなくなったわけではなく、鎌倉時代以降は政治史が幕府中心となるため目立たなくなるだけで、朝廷ではこれ以後も連綿と院政が受け継がれ、幕末の光格上皇(第119代天皇・明治天皇の曽祖父)まで続く。現代では光格院が最後の上皇で、明治維新後の憲法では天皇が生前に退位することがなくなった。だが、ご高齢で病の体をおしてまで公務に励まれる今上天皇のお姿を見ていると、先ごろ秋篠宮親王が言及しておられたように、「天皇定年制」を真剣に考える必要があるように思える。天皇は一定の年齢に達すると皇太子に譲位して上皇となる。実に理にかなった制度を、皇室は1000年以上も前から確立していた。昔と違って人間の寿命が延びた今だからこそ必要な制度といえるのではないだろうか。現行のわが国の制度では、それは「院政」ならぬ、ただの「院制」の復活に過ぎないのだから。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-16 18:03 | 歴史考察 | Comments(2)  

平清盛 第9話「ふたりのはみだし者」

 このドラマの中で頻繁に登場する双六遊びのシーン。現代の私たちは双六というと、家族ぐるみで楽しむ和やかな盤上遊戯というイメージだが、平安時代における双六は、を用いる博打で、射幸心を著しくくすぐる危険な遊戯だった。このため、ときの為政者は再三再四、双六禁止令を出したようだが、なかなか徹底されることはなかったという。今の世の中でも、どれだけ不況の中でもパチンコ屋の売上は落ちることはないと聞くが、博打の麻薬性というのは、いつの時代も変わらないらしい。『平家物語』によると、白河法皇(第72代天皇)は、自分の思いどおりにならないものとして「鴨川の水、双六の賽、山法師」の3つをあげて嘆いており(天下三不如意)、どうやら白河院も双六に熱中していたようである。そしてドラマ中、双六に負けて身ぐるみを剥がれていたのが、その白河院の曾孫であり、平清盛の後半生に深く関わってくることになる、雅仁親王ことのちの後白河法皇(第77代天皇)である。

 後白河法皇は鳥羽法皇(第74代天皇)の第四皇子として大治2年(1127年)にこの世に生を受けた。元永元年(1118年)生まれの清盛よりも9歳年下ということになる。生母はあの天然悪女系キャラの中宮・璋子(待賢門院)。鳥羽院の第一皇子である顕仁親王は言うまでもなくのちの崇徳上皇(第75代天皇)だが、崇徳院は鳥羽院の祖父である白河院が璋子と密通して生まれた子だといわれ、その醜聞を信じて疑わなかった鳥羽院は崇徳院を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたと伝えられる(参照:第5話)。その後、鳥羽院と璋子の間には、次々に皇子が生まれるが、第二皇子通仁親王は生後まもなく失明したそうで、しかも病弱だったらしく6歳で夭折したという。また、第三皇子君仁親王は足が不自由な身体障害児として生まれ、耳も聞こえなかったらしい。さらに、崇徳院になかなか子供が出来なかったため、この時点では顕仁親王にも帝位に就く可能性は少なからずあった。しかし、保延5年(1139年)、鳥羽院と皇后の得子(美福門院)との間に体仁親王(のちの第76代・近衛天皇)が生まれたことにより、その可能性はほぼなくなったと誰もが思った。そのことは、当時12歳だった顕仁親王こと後白河院自身が一番そう思っていたことだろう。

 事実、親王時代の後白河院は政治的な問題には一切感心を示さず、当時流行していた歌謡・今様に耽溺する日々を送っていたという。今でいえば、名家の御曹司に生まれながらロックミュージシャンを目指して音楽にうつつをぬかすドラ息子、といったところだろうか。後白河院の今様好きは度を越していたようで、後年、今様などの当時の歌謡を集めた全二十巻の『梁塵秘抄』という歌謡集を編纂した。このドラマのテーマ曲ともなっている「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん」という歌も、『梁塵秘抄』に収録された歌のひとつである。仮に顕仁親王が後白河天皇に即位していなければ、この『梁塵秘抄』を編纂した皇子として、芸能国文学の分野のみに名を残していたに違いない。

 しかし、誰もが天皇に即位することはないと思っていた顕仁親王は、様々な政治的思惑によって再び表舞台へ浮上することとなり、なるはずのなかった天皇の座に就くこととなる。兄である崇徳院は後白河院のことを「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評しており、また、後白河院の天皇即位を後押しした乳父の信西(藤原通憲)でさえ、「和漢の間 比類少なき暗主なり」と、こき下ろしている。たしかに、遊び人だったといわれる一面においてはそうだったかもしれないが、こののち天皇、上皇、法皇として三十数年もの長きに渡って君臨し続けたのも事実で、後世にその評価は分かれるところである。本ドラマでの後白河院はどう描かれるか・・・。今後の展開を楽しみにしたい。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-05 17:04 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第5話「海賊討伐」

 「おまえは人ではない・・・“もののけ”だ。」
と、ドラマでは、およそ人の気持ちがわからない天然系の悪女として描かれている待賢門院璋子。たしかにあれでは、鳥羽院が“もののけ”と罵りたくなるのも無理はない。ある意味、歴史を大きく動かしたといえる彼女。実際にはどんな女性だったのだろうか。

 鳥羽法皇(第74代天皇)の后妃として知られる待賢門院(藤原璋子)美福門院(藤原得子)。もちろん、他にも后妃はいたようだが、天皇の生母となったのはこの二人だけである。この時代、天皇に複数の皇后がいた場合、そのうちの一人を中宮と呼んだが、武家の正室と側室とは違って、中宮と皇后との間には待遇などの面で大差はなかったようである。待賢門院璋子は崇徳上皇(第75代天皇)、後白河法皇(第77代天皇)の生母で、美福門院得子は近衛天皇(第76代天皇)の生母となった。

 待賢門院璋子は、藤原北家の傍流である閑院流当主・藤原公実光子(隆方の娘)の間の末娘として、康和元年(1101年)にこの世に生を受けた。生母・光子は鳥羽院、堀河天皇(第73代天皇)の乳母をつとめた女性だったというが、その縁あってか、璋子は白河法皇(第72代天皇)の寵妃であった祇園女御の養女となったとされている。さらに璋子はその祇園女御の縁で、白河院にもことのほか可愛がられて育ったという。

 2人の愛情を受けて美しい女性に成長した璋子は、16歳となった永久5年(1117年)に白河院の孫である鳥羽帝の後宮に入内させられ、翌年、皇后の宣旨を受け中宮となる。当時、鳥羽帝は14歳。璋子は絶世の美女だったといわれ、14歳の鳥羽院にしてみれば、2歳年上の璋子の美しさに心を奪われるには、さして時間はいらなかっただろう。ただ、14歳と16歳のカップルで、現代で言えば、夫・中学2年生と妻・高校1年生。心身ともに夫婦となり得ていたかは微妙なところで、この翌年に生まれた第一皇子(崇徳帝)が、鳥羽帝のではないのでは・・・といった醜聞が飛び交うのも無理はなかった。しかも、その胤の主が、鳥羽帝の祖父であり璋子の養父でもある白河院だというのである。

 実際に白河院の璋子に対する溺愛ぶりは尋常ではなかったようで、たとえば『今鏡』によれば、幼いながらの類稀なる美貌の持ち主だった璋子を、白河院は毎夜懐に抱いて就寝した、と記されているらしい。また、白河院は適齢期となった璋子を、最初は関白・藤原忠実の嫡男・藤原忠通との縁組を進めようとするが、忠実の猛烈な反対により破談となり、やむなく孫の鳥羽院に入内させた、という逸話もある。この辺りの経緯は忠実の日記『殿暦』に詳細に記されているそうで、璋子が生んだ第一皇子が白河院の胤であるとの記述も、この日記に認められるそうである。真実は定かではないが、忠実・忠通はこの縁談話の破談によりしばらく中央政界から失脚させられており、そんなリスクを負ってまで破談に持ち込んだ事実を思えば、事実か否かはともかく白河院と璋子の不埒な噂というのは当時からあったのだろう。忠実はこの日記の中で璋子のことを、「奇怪不可思議の女御」と評している。

 そんな白河院と璋子の乱淫な噂を鳥羽帝も知っていたようで、崇徳帝のことを「叔父子」と呼んで冷遇したと伝えられる。実際にどちらの胤であったかは璋子しか知る由もないが、鳥羽帝がそう信じて疑わなかったところを見れば、鳥羽帝には男としての身に覚えがなかったのかもしれない。自身の嫁さんと祖父が密通していたなんて、男としてこの上ない屈辱だと思うが、にもかかわらず白河院、鳥羽帝、璋子の三人の関係は壊れることなく、三人仲良く連れ立って紀伊熊野参詣に赴くことも一度や二度ではなかったとか。現代の感覚では理解しがたい三角関係である。その後も璋子は鳥羽帝との間に五男二女も儲ける。白河院に逆らえなかったという理由もあっただろうが、璋子はよほど魅力的な女性だったのだろう。

 白河院と鳥羽院の二代を手玉に取った魔性の女・待賢門院璋子。ドラマでは、デリカシーの欠片もない天然キャラに描かれているが、男は往々にしてこの種の悪女に弱いものである(もちろん美人であることが大前提だが・・・笑)。これが計算された悪女なら男次第で変わりようもあるが、天然だから余計にタチが悪い。そんな“もののけ”・・・“奇怪不可思議の女御”に危うくハマりかけた男性は、現代でも結構いるのでは・・・? 


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-06 20:48 | 平清盛 | Comments(2)  

平清盛 第4話「殿上の闇討ち」

 平清盛の祖父・平正盛の代に白河法皇(第72代天皇)の引き立てによって中央政界へ進出した伊勢平氏は、清盛の父・平忠盛の代には鳥羽法皇(第74代天皇)の側近として脇を固め、さらに、得長寿院をはじめとする寺院を寄進するなどして忠勤にはげみ、清盛がが15歳となった長承元年(1132年)、忠盛は初めて武士として内昇殿を許された。内昇殿とは、天皇の居所である清涼殿の殿上の間に上ることを許されることで、貴族にとって非常に名誉なことであった。ましてや、武士である忠盛がこれを許されるのは破格の待遇であり、当時の貴族の日記のなかには「未曽有の事なり」と記した者もいたほどであった。

 殿上人となった忠盛に貴族たちが向ける視線は当然厳しかった。「出る杭は打たれる」のはいつの世も同じで、新参者の出世を快く思わない風潮はどんな社会にもあるものだが、平安時代末期のこの頃は、古参の公家たちが、新たに内昇殿を許された者に恥辱を加えるという、悪しき風習が蔓延っていたという。とくに、毎年11月に朝廷で行われる豊明節会の夜に、古参の公家が新たに内昇殿を許された者を罵倒嘲笑したり、暗闇に乗じてリンチするといった行為が頻発していたと伝えられる。当然、武家出身者としてはじめて内昇殿を許された忠盛に対してはいつも以上に情け容赦のない行為が計画されたはずで、そのことについてよく示しているのが、『平家物語』巻一の「殿上闇討」である。

 長承元年(1132年)11月の豊明節会の夜、陰湿かつ苛烈な「闇討ち」行為を予想した忠盛は、木刀を腰に差して節会へ参加すると共に、秘かに側近・平家貞を御所の小庭に待機させた。「闇討ち」などというと暗殺を想像してしまうが、この場合せいぜい乱暴狼藉をはたらく程度のことで、いってみれば集団リンチのようなもの。もっとも、殺人を生業とする武士の、しかもその棟梁である忠盛を集団リンチしようというのだから見上げたものだが、その程度の嫌がらせしかできないところに、斜陽の貴族階級と新興勢力である武士の違いを見ることができる。

 「闇討ち」を企てた古参の公家たちだったが、忠盛が懐に忍ばせた刀を抜き放ったため度肝を抜かれ、さらに家臣の家貞が小庭に潜んでいたことも知れたため、公家たちは「闇討ち」を断念せざるを得なかった。結果として忠盛の作戦勝ちといったところだが、気が治まらない公家たちは、直後の宴席でさらに卑劣な嫌がらせ行為を実行する。天皇の命により忠盛が得意のを披露していたところ、伴奏していた公家たちが急に拍子を変えたかと思うと、「伊勢平氏はすがめなりけり」とはやし立てたのである。「すがめ」とは、斜視のことで、忠盛は生まれつき斜視だったという。伊勢平氏の忠盛が斜視(すがめ)であったことと、伊勢国産の瓶子(へいし)が粗悪で酢瓶(すがめ)にしか使えないことをかけて、このように嘲笑したのである。人の肉体的欠陥をついて誂うという小学生レベルの行為から見ても、当時の貴族階級がいかに末期症状であったかがわかるというものである。

 公衆の面前で恥をかかされ怒りに震える忠盛であったが、宮中の酒席ではいかんともしがたく、悔しさを押し殺しながら早々に退出するしかなかった。その際、差していた刀を女官に預けて帰った。これが、後に思わぬかたちで忠盛の役に立つ。

 後日、公家たちは忠盛にしてやられた腹いせに、帯刀して節会へ参加した点と、無断で家臣を小庭に潜ませた点を捉え、忠盛に厳重な処分を下すよう鳥羽院に訴えた。これに対して忠盛は、預けていた刀を取り寄せてその場で抜いて見せた。その刀は先に述べたとおり木刀で、しかも本物に見せかけるように銀箔を貼ったものだった。これを知った鳥羽院は忠盛の機転に大いに感心し、家臣が小庭に潜んでいた件も、家貞が機転をきかせて独断で行ったものであることが判明し、結局はまったく罪に問われなかった。そればかりか、忠盛といい家貞といい、武士の機転と用意周到さに感心した鳥羽院は、これまで以上に忠盛を信頼するようになったという。

 というのが『平家物語』にある「殿上闇討」のくだりで、今話のストーリーはこの逸話を下敷きにしたドラマのオリジナルストーリーだと思われる。ドラマでは、忠盛を「闇討ち」しようとしたのは源為義となっていた。まあ、出典元の『平家物語』も読み物として書かれた物語である以上、そこに記された逸話も作り話である可能性も高く、ドラマでオリジナルの設定に作り変えるのは一向にかまわないと思うのだが、ただ少々、為義に気の毒な気がしないでもなかった。ドラマでは、あくまで平氏VS源氏という構図で展開されていくようである。

 「為義殿、斬り合いとならば源氏も平氏もここで終わりぞ。源氏と平氏どちらが強いか、それはまた先にとっておくことはできぬか。その勝負、武士が朝廷に対し、十分な力を得てからでもよいのではないか。」

 その勝負は、二人の息子、平清盛源義朝の代まで待たねばならない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-30 01:56 | 平清盛 | Comments(4)