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タグ:黒田官兵衛孝高 ( 42 ) タグの人気記事

 

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~

前稿で黒田官兵衛が出てきましたので、引き続き官兵衛つながりで。

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。

三木合戦は始まった当初、羽柴秀吉は一時この地に本陣を置きました。

それを進言したのが、他ならぬ黒田官兵衛だったといいます。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。

ロープウェイは黒田官兵衛キャララッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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そしてこちらが有名な三之堂

秀吉が本陣を置いた場所です。

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財です。


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三木城攻めが膠着状態に入ると、官兵衛は秀吉に書写山まで一旦撤退するよう進言。

その後、ここを拠点に神吉城・志方城・魚住城・端谷城・高砂城などの別所方の支城を攻め落としながら、三木城を取り囲む付城網を築きます。

当時の大寺院というのは、ある種、城と同じくらいの防御力がありましたからね。


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食堂のなかには、当時、羽柴軍の家臣が書いたとされる「羽柴子一郎秀長」という落書が残っていました。

左側に写るアクリルでカバーされた柱がそれです。

写真を撮ったのですが、アクリルが反射して上手く撮れてませんでした。


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ここ、三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』ロケ地となっています。

場面は当然、秀吉の播磨攻略時の拠点としてです。

また、平成15年(2003年)の『武蔵-MUSASHI-』でもロケ地になっていますし、あのトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』の撮影も、ここで行われました。

絵になるロケーションなんでしょうね。

書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

  ↓↓↓

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺 ~後編~」

さて、まだまだ播磨には三木合戦ゆかりの地がたくさんありますが、ここでまた、ひとまず休憩します。

また折を見て続きをやりますね。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-09 17:22 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その45 ~兵主神社・太閤の腰掛け石~

兵庫県西脇市にある兵主神社を訪れました。

ここは、三木合戦の際に羽柴秀吉が、黒田官兵衛孝高に戦勝を祈願させたと伝わる神社です。


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現地説明板によると、兵主神社の祭神は大巳貴命ですが、兵主は中国『史記』に出てくる軍神、武神でもあることから、秀吉は黒田官兵衛に代参させ、奉納金とともに灯明田七反を添えて戦勝祈願を行ったと伝えられています。


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奉納金は、拝殿の建設費に充てられました。

そのとき建てられたのが、現在に残る茅葺入母屋造り長床式の拝殿です。


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天正19年(1591年)8月27日造立の棟札があるそうで、三木合戦が終わってから11年後に建てられたということがわかります。


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戦勝祈願の伝承が史実かどうかはわかりませんが、安土桃山時代の建築物ということは間違いなく、兵庫県の重要文化財に指定されています。


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兵主神社のある兵庫県西脇市黒田庄町は、黒田官兵衛生誕の地との伝承があります。

通説では、黒田官兵衛の家系は近江国の出自とされていますが、江戸時代の史料などに見る別の説では、官兵衛やその父・黒田職隆は、多可郡黒田村(現在の兵庫県西脇市黒田庄黒田)生まれ」とする説が多数あり、この辺りでは昔からそう信じられてきたそうです。

すぐ近くには、黒田氏9代の居城だったといわれる黒田城跡もあるのですが、三木合戦とは無関係なので、また別の機会に紹介します。


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近くにある極楽寺の境内には、「太閤の腰掛け石」と伝わる石があります。


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その伝承によれば、三木合戦の際に秀吉が大志野(現在の西脇市黒田庄町南部)に陣を布いたとき、この石に腰かけて采配を行ったとされています。


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これが、その「太閤の腰掛け石」。


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太閤伝承がなければ、何の変哲もない単なる石です。


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説明板です。
その横には小さな祠が祀られています。


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「その23」でも紹介しましたし、「山崎合戦」の稿(山崎合戦のまちを歩く。その2)でも紹介しましたが、秀吉が座ったと伝わる石や岩は各地にあります。

事実かどうかは定かではありませんが、座っただけで伝説が残るっていうのは、やはり、それだけ伝説的な人だったってことですね。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-08 20:55 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~

現存する姫路城の石垣は、羽柴秀吉時代、池田輝政時代、本田忠政時代の築城時2期と、その後に修復されたものとに分けられますが、三の丸東側の一角にある下山里には、その最も古い羽柴時代の石垣が残っています。

それがこれ、上山里下段石垣です。↓↓↓


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天正8年(1580年)、織田信長の命で播磨攻めを開始した羽柴秀吉は、黒田官兵衛孝高に献上された姫路城を拠点とします。

その際、築城の普請を秀吉から任されたのが、それまで姫路城の城代だった官兵衛でした。

したがって、この上山里下段石垣は、官兵衛ゆかりの石垣と見られています。


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素人目で見てもわかるように、ほとんど加工されていない自然石が積まれた石垣は、時代の古さを感じさせますね。

これは、野面積と呼ばれる積み方だそうです。


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秀吉が築城した姫路城は、現存天守より小さい3重の天守だったようですが、それでも、その時代としては目新しい城だったようです。


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下山里の片隅には、五輪塔があります。

これは、姫路城改修の際に石垣のなかから出てきたものを集めて、復元したものだそうです。

その前にある石灯籠は、のちの姫路城主酒井家墓地から移設したものだそうです。


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ここ下山里は、ちょっとタイムスリップした空間でした。

次回へ続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-02-18 00:29 | 姫路城めぐり | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その28 ~御着城跡~

とうとう姫路市まで来ました。
姫路市の城というと、世界遺産姫路城をいちばんに思い浮かべると思いますが、三木合戦当時の姫路城は現在のような立派なお城ではなく、ここ御着城支城にすぎませんでした。

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当時の姫路城主は黒田官兵衛孝高、そして、その本家の御着城主は小寺政職
大河ドラマ『軍師官兵衛』片岡鶴太郎さんが演じていた赤鼻のバカ殿さまですね。
当時の官兵衛は小寺官兵衛と名乗っており、小寺家の傘下にありました。
いうなれば、御着城が本社で姫路城が支店だったわけです。

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現在、かつての城の敷地は国道2号線で分断されており、本丸跡城跡公園として整備されています。
遺構は堀切が少し確認できるくらいで、ほとんど残っていません。
公園内には、御着城をイメージした姫路市東出張所が建てられています。

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御着城は政職の祖父にあたる小寺政隆が永正16年(1519年)に築いたと伝わりますが、現地説明看板によれば、昭和52~54年の発掘調査で、14世紀後半からこの地に城が存在していたことが判明したそうで、小寺家がこの地に来る以前から、播磨国の守護大名である赤松氏の支配下として、何らかの機能を果たしていたようです。

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公園内には、黒田官兵衛顕彰碑があります。
ここの城主は小寺氏なんですけどね。

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ほかにも、小園内には「黒田官兵衛ゆかりの地」と書かれた幟がたくさん立てられていました。
まあ、昨年の大河ドラマのブームもありましたし、知名度から言ってやむを得ないのでしょうが、あくまでここの城主は小寺氏です(笑)。

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公園の隣には、官兵衛の祖父にあたる黒田重隆と、官兵衛の生母廟所があります。
黒田家は重隆の時代に小寺家に仕えるようになりました。
官兵衛の生母は、「その16」で紹介した枝吉城主の明石氏の出身だと伝えられます。

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写真左が重隆公、右が官兵衛の生母の五輪塔です。
でも、なんで御着城跡に黒田家の廟所が?・・・と思ったのですが、調べてみると、元は隣村に葬っていたものを、享和2年(1802年)に末裔の福岡藩主の命で、この地に移されたそうです。
じゃあ本家本元の小寺家ゆかりの史跡は?・・・と探してみると、公園の隅に小さな誘導表示が・・・。

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で、国道2号線を渡ってみると、小さな古い公園があり、そこに、小寺大明神と呼ばれるがありました。
ここには、小寺家一族が祀られているそうで、説明板によると、宝暦5年(1755年)の絵図も載っているそうです。

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初代城主・小寺政隆の歌碑があります。

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黒田家の廟所に比べると、本丸跡から離れた場所にひっそりと遠慮がちに建っているように思えた小寺大明神ですが、それも、のちに大大名となった黒田家と、没落した小寺家の格差といえるでしょうか。

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周知のとおり、小寺政職は当初、織田方に与していましたが、三木合戦が始まると別所氏に呼応して反旗を翻し、荒木村重と組んで家臣である官兵衛を陥れました。
しかし、三木城が落城すると政職はたちまち城を捨てて毛利領へ逃亡し、その後、羽柴秀吉軍の攻撃を受けた御着城は、残された別所氏家臣の岡本秀治が降伏し、落城しました。
そんな歴史を思うと、小寺大明神の扱いがこの程度なのは、仕方ないかもしれませんね。
公園の片隅には、旧御国小学校校庭の発掘調査で出土した、羽柴軍との戦いでの戦死者を弔うために立てられた五輪塔があります。

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さて、今年2月から始めた三木合戦ゆかりの地めぐりシリーズですが、気がつけば7月、になってしまいました。
姫路市まできましたし、他のテーマもやりたいので、このへんで一旦おきたいと思います。
といっても、播磨にはまだまだ三木合戦に関連する史跡がたくさんあります。
ですので、終わりではなく、いったん休憩して、また機会を作って続きができたらと思っています。
そのときは、またお付き合いくださいね。



次回、これまで紹介した史跡の分布図を起稿します。

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by sakanoueno-kumo | 2015-07-01 18:49 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その4 ~もうひとつの竹中半兵衛墓所~

三木市内には、もう1か所、竹中半兵衛のものと伝えられるがあります。
場所は、前稿(その3)で紹介した平井山の麓の墓所から、直線距離で1kmほど離れたところにある栄運寺というお寺の裏山。
平井山の墓所は有名ですが、こちらはあまり知られていません。

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栄運寺は、写真のようなのどかな田園風景を見下ろすように、山の麓の高台にあります。
晴れてたらきっといい景色だったのでしょうけど、あいにくこの日は雨上がりの重い雲に覆われた日で、路面も乾いていません。

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近くに駐車場はないので、ずいぶん遠くに車を停めて徒歩で向かいます。

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栄運寺が見えてきました。

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境内に向かう手前に、墓所への誘導看板を発見。
ここから、山道を登ります。

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なかなかハードな傾斜道です。

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しばらく登ると、また誘導看板がありました。
おかげで迷わずに進めます。

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誘導看板から少し奥に進むと、古い墓石のある場所にたどり着きました。
どうやら、ここがもうひとつの半兵衛の墓所と思われるのようです。

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宝塔のような墓石の裏には、天正七年六月十三日と刻まれています。
たしかに、半兵衛が死んだと伝えられる日です。

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墓石に立てかけられた卒塔婆には、戒名が揮毫されています。

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向かいの小さな石には、よく見ると「竹中」と書かれているようです。
あるいは、こちらが墓石で、向かい側の立派な石塔は、供養塔のようなものかもしれません。

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平井山の墓所から1kmほどしか離れていないこの場所に、なぜ半兵衛の墓があるのかわかりませんが、おそらくどちらも半兵衛の墓とみていいのでしょうね。
なぜ2つの墓が存在しているのかはわかりませんが、たぶん、建てられた時期が違うのでしょう。
見た感じ、こちらのほうが古そうに思えましたから、あるいは、没後すぐに埋葬されたのは、こっちかもしれません。
あくまで、わたしの印象ですが・・・。

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半兵衛は死ぬ半年ほど前、このとき有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛孝高の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)を、織田信長の処刑の命に背いてかくまったという話は有名ですね。
しかし、その後、官兵衛が有岡城から生還したときには、半兵衛はこの世にいませんでした。
きっと、官兵衛もこの地に参ったのではないでしょうか。

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三木の人々にとっては敵方の武将である竹中半兵衛の墓にもかかわらず、400年以上もの長きに渡り、地元の人の手によって守られてきたことを思えば、いまこうして歴史に触れることができることを、感謝せずにはいられません。
豊臣秀吉の墓所なんて、豊臣氏の滅亡と共に破壊されてしまいましたからね。
三木市民のご先祖さまに感謝です。

そんなこんなで、後日、まだまだ続きます。

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by sakanoueno-kumo | 2015-03-19 23:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(2)  

軍師官兵衛 総評

 2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』の全50話が終わりました。今年も、なんとか全話レビューを起稿することが出来て安堵しているところですが、最後に、あらためて本作品を総括してみたいと思います。

 今年の主人公である黒田官兵衛は、これまでもたびたび主役予想に名前が挙がっていた人気の人物でしたが、わたし自身も、予てから官兵衛主役の大河を望んでいたひとりでした。古くは吉川英治氏の『黒田如水』司馬遼太郎氏の『播磨灘物語』、最近では池田平太郎氏の『黒田家三代』など、官兵衛主役の小説は何冊か読んでいましたし、地元兵庫県出身の偉人ということもあって、勝手に親近感を持っておりました。姫路市でずいぶん前から官兵衛の大河誘致運動が熱心に行われていることも知っていましたし、それらのPRイベントの仕事に参加させてもらったこともありました。そんなこんなで、『軍師官兵衛』の制作発表があってからは、たいへん楽しみにしておりました。

 それだけ期待が大きいと、逆にハードルが高くなって期待はずれに感じてしまいがちだと思うので、なるべく先入観を持たずに観ようと心がけた1年だったのですが、全話が終わった感想を率直に述べると、たいへん良い出来だったとわたしは思います。少なくとも、ここ近年(今世紀に入ってから)の大河作品のなかでは、わたし個人的にはいちばん良かったんじゃないでしょうか。久々に、大河ドラマを観た!という気分です。

 その理由を簡単にまとめると、まず、昨年、一昨年の作品と同じく、史実、通説を軸にしたストーリーづくりが、ちゃんと成されていたこと。わたしは、決して史実至上主義ではなく、物語である以上フィクションは不可欠だと思っていますが、さりとて、さすがに歴史を歪曲してしまうほどの虚構はいかがなものかと思いますし、何より、事実は小説よりも奇なりで、史実、通説を超えるほど面白い物語を創作するのは、容易なことではないとは思います。安直なフィクションは、荒唐無稽な物語になっちゃいますからね。その意味では、本作は大筋の部分は通説どおりに描かれていて、ストーリーに安心感がありました。もちろん、重箱の隅をつつくような粗探しをすれば、ツッコミどころはあるのですが、わたしは、そういった観方は好きではありませんし、本作に関していえば、それも少なかったように思います。

 次に、主人公の描き方についてですが、ここが最も重要で最も難しいところなんですよね。どれだけ主人公の魅力を引き出せるかがポイントで、それによって作品の評価が大きく変わってきます。いちばん良いのは、そのドラマを観てその人物のことが好きになったと言われるような描き方で、その例で言えば、昭和62年(1987年)放送の『独眼竜政宗』などは、その最たる例でしょう。過去、名作と言われた作品は、ほとんどがそうでしたよね。

 ただ、だからと言って、実在の人物を描くわけですから、虚像で塗り固めたものではダメですし、また、それでは魅力的な人物にはならないでしょう。その人物の本来持つ魅力をどれだけ引き出せるか・・・。歴史上の偉人たちの魅力というのは、いい意味で清濁併せ呑むところにあると思います。聖人君子では絶対に魅力的には映らないでしょうし、かといって、極悪非道でも観る人を引きつけることは出来ない。難しいですよね。

 その意味では、本作の黒田官兵衛は、たいへん魅力的だったと思います。いうまでもなく黒田官兵衛の魅力は「智将」としての部分ですが、必要以上に策士の部分を強調し過ぎると、ただの野心家となってしまうでしょうし、無理に正義の味方的ヒーローにしてしまうと、行動の辻褄があわなくなってシラケてしまいます。本作では、その清濁が上手く描けていたんじゃないでしょうか。

 そう思えた理由は、脚本演出の良さもありますが、岡田准一さんの演技力の高さも大きかったでしょうね。印象深いのは、織田信長横死の知らせを受けたあとの安国寺恵瓊との密会のシーン。知略家同士がお互いの腹の中を探りながらの談合で見せたあの腹黒い笑みや、その後、信長討死を隠したまま毛利氏と和睦を成立させた際のほくそ笑みなど、最近の大河作品ではあまり観られなかったダークな演技は圧巻でした。また、関ヶ原の戦いの混乱に乗じて天下を狙ったときの野望に満ちた目も、たまんなかったですね。やっぱ、大河の主人公には、ああいう目をして欲しいんです。近年の作品には、あの目がなかったんですよね。

 脇を固める俳優さん方で言えば、ヒロインの役の中谷美紀さんはさすがですね。美人だし演技上手いし、まさに本作の華でした。意外にも、大河ドラマ初出演だったんですね。NHKは何をやってたんだ?・・・と。それから、江口洋介さんの織田信長が意外に良かったです。なかなか凄みがありましたよね。竹中直人さんの豊臣秀吉にいたっては、これ以上のハマリ役はないといっていいと思いますが、ただ、竹中秀吉は過去に堪能していますから、新鮮味には欠けましたよね。もうちょっと別の秀吉像も見てみたかった気がします。その意味で目新しかったのは寺尾聰さんの徳川家康ですが、う~ん・・・といったところでしょうか(笑)。たぶん、家康を演じるために無理に太られたのでしょうね。その意気込みには拍手を贈りたいです。今回フィーチャーされた荒木村重役の田中哲司さんは、正直あまり知らなかったのですが、いい俳優さんですね。今後、村重のイメージは田中さんで定着しそうです。今回、最も素晴らしいと思ったのは、黒田長政役の松坂桃李さん。こんな役もできるんですね。この人、いつか大河の主役演るんじゃないでしょうか。あと、黒田職隆役の柴田恭兵さんは・・・まあ、演技はさておき存在感はありました(笑)。最後に、今回最もミスキャストだったのは、春風亭小朝さんの明智光秀。なんでやねん!といいたくなる配役でした(笑)。

 これまで述べてきたとおり、今年の大河はわたしにとって、たいへん高評価の作品となりましたが、まったく不満がなかったわけではありません。たとえば、石田三成の人物像などは、もうちょっとどうにかならなかったかとは思いますね。官兵衛主役の物語ですから、三成がヒール役になるのは仕方ないとしても、あの嫉妬深く陰険なイジメっ子のようなキャラは、いただけなかったですね。仮にも関ヶ原の西軍の将ですから、悪役に描くにしても、もうちょっと大物感を出してほしかったと思います。

 それから、登場人物の呼称についてですが、大河作品ではいつの頃からか、三成のことを「治部少」、秀吉のことを「筑前守」といった呼び方は使わなくなりましたよね。この度も、天下人となったあとは「関白殿下」「太閤殿下」と呼んでいましたが、それまでは、ほとんどが「秀吉様」。実際には下の者が上の人をファーストネームで呼ぶなどあり得なかったと思いますよ。たぶん、わかりやすさを重視したのだと思いますが、難しいところですね。「ありがとう=かたじけない」や、「一人称=それがし、拙者」なども同様ですが、言葉は使わなければ消えていってしまいます。できるだけ、時代劇言語を継承して欲しいんですけどね。

 あと、本作に限らずですが、天下人を目論む武将たちに、「乱世を終わらせるため」とか「戦のない世を作るため」といったスローガンを語らせるのも、そろそろやめにしませんか? そういう風に言わせないと駄目なのでしょうか? あの台詞を聞くと、どうも安っぽく思えてなりません。彼らは皆、自分たちの野望を満たすため、あるいは、自家の存続と繁栄のために戦っていたわけで、決して世のため人のために戦っていたわけではありません。言うなれば、現代の企業戦士たちと同じで、自社の利益のため、家庭を守るため、自身の出世のために血眼になって働いているわけで、世の中のために働いている人なんて、ほとんどいないはずです。皆、自分たちのために働いて、その結果、世の中の繁栄に繋がっているわけで、戦国時代現代社会も同じですよ。あれがなければ、もっと良かったんですけどね。

 ちょっと批判めいたことも述べましたが、それらの不満点を差し引いても、わたしにとって『軍師官兵衛』は、名作のひとつに数えられる作品となりました。ただ、実は1年前の放送前から、本作はきっと良い作品になるんじゃないかと予感していたんですよね。というのも、一昨年の『平清盛』から、明らかに制作サイドのスタンスが変わりましたよね。その前年まで長らく続いていたトレンディードラマさながらのドラマスタイルを一新し、歴史ドラマを作ろうといった意気込みが伝わってくる作風に変わりました。そのスタンスが『平清盛』『八重の桜』を経て、本作で実ったとわたしは感じています。長らく続いていた暗黒時代は終わったと・・・。残念ながら視聴率には反映されていないようですが、この流れはぜひ今後も続けていって欲しいと、わたしは思います。

 とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。このあたりで『軍師官兵衛』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてアクセスいただいた方々、どなたさまも本当にありがとうございました。

●1年間の主要参考書籍
『誰も書かなかった黒田官兵衛の謎』 渡邊大門
『黒田家三代』 池田平太郎
『日本の歴史11~戦国大名』 杉山博
『日本の歴史12~天下一統』 林屋辰三郎
『播磨灘物語』 司馬遼太郎
『黒田如水』 吉川英治



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by sakanoueno-kumo | 2014-12-25 19:17 | 軍師官兵衛 | Comments(6)  

軍師官兵衛 最終回「乱世ここに終わる」その2 ~エピローグ~

 関ヶ原の戦いにおける黒田長政の活躍によって、黒田家は筑前国名島に52万3000石を与えられます。新天地に入国した黒田官兵衛・長政父子は、さっそく博多のそばに新しい城の建設を開始。同時に、この地を「福岡」と名づけます。これ以後、長政を藩祖とした福岡藩黒田家は、幕末まで12代続きます。

 そして徳川家康征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれた慶長8年(1603年)頃から、官兵衛は病に伏すところとなります。その頃から、官兵衛はどういうわけか、人が変わったように家臣に冷たく当たるようになり、難癖をつけては罵るようになったといいます。家臣たちは官兵衛の激変に「ご乱心」と恐れおののいたといいますが、見かねた長政が諌めたところ、官兵衛は「そちのためにやっているのだ。」と囁きます。曰く、家臣たちに酷い仕打ちをするのは、自分が疎まれることで、早く長政の代になってほしいと家臣たちに思わせるためだと・・・。自分が憎まれることによって、長政の求心力を高めようと考えたんですね。

 また、当時は主君が亡くなると家臣が殉死する習慣があったため、これを防ぐ狙いもあったのだとか。有能な家臣が殉死して黒田家家臣団が弱体化することを恐れたというわけですね。いずれも実話かどうかはわかりませんが、人生の最期の最期まで、合理的知略に富んだ逸話が絶えません。と同時に、官兵衛の長政に対する親心もうかがえますね。このエピソードもドラマで演ってほしかったなぁ・・・。

 慶長9年(1604年)に入って、いよいよ死期を悟った官兵衛は、股肱の臣である栗山善助を呼びつけ、自身の愛用していたを授けます。本来であれば、息子の長政に引き継ぐべきものですが、官兵衛はあえてこれを善助に託すことで、長政への忠誠心を今一度促し、また、長政には善助を父のように思うようにと言い残しました。そして、3月20日、黒田官兵衛はその波乱に満ちた生涯の幕を閉じます。享年59歳。その辞世の句は、

 「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

 「いっこうに悔いが思い浮かばぬ」といったドラマの官兵衛の台詞は、この辞世の句からきたものでしょうね。言い残す言葉もなく、ついにあの世にいくことになったが、その道は迷うことなく、なるようにまかせよう・・・・。人生の最期にこんな言葉が言えるのは、精一杯生きてきた者だけでしょうね。

 「殿、よく生き抜かれましたなぁ・・・。」

 そう言った妻・は、官兵衛の死後、出家して院号を照福院とし、官兵衛の死から23年、息子の長政より長生きします。

 織田信長にその才を見出され、豊臣秀吉を天下人に押し上げ、徳川家康に一目置かれた智将・黒田官兵衛。一方で、その人となりは、生涯名利を好まず、質素倹約を旨とし、戦国武将としては地味な存在の武将といえるでしょう。しかし、そんないぶし銀的な生き方が、官兵衛の魅力だとわたしは思います。それが、官兵衛をして「天下を取ってほしい」という思いに繋がるのでしょうね。もし、官兵衛が天下人になっていたら、歴史はどう変わっただろうと・・・。でも、歴史は官兵衛を天下人に選びませんでした。黒田官兵衛という人物に与えられた歴史的役割は、やはり、「軍師官兵衛」だったということですね。


 1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。今年も、なんとか完走出来て安堵しています。年内には総括を起稿したいと思っています。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-23 22:43 | 軍師官兵衛 | Comments(4)  

軍師官兵衛 最終回「乱世ここに終わる」その1 ~官兵衛天下取り説~

 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国は関が原において、徳川家康の率いる東軍8万の軍勢と、石田三成を大将とする西軍10万の軍勢が衝突します。世にいう関が原の戦いですね。結果は、ほとんどの人が周知のところだと思いますが、戦いはわずか半日東軍の圧勝で終わります。

 兵の数では優っていた西軍でしたが、毛利軍、島津軍などは参戦することなく、実際に戦っていたのは3分の1ほどだったといわれます。それでも、大谷軍、宇喜多軍、小西軍の奮戦もあり、前半は優勢に運んだ西軍でしたが、勝利を目前にして形成は瞬く間に逆転。一気に総崩れとなります。そのいちばんの要因は、いうまでもなく小早川秀秋寝返りに尽きるのですが、それ以外にも、戦線を離脱する者や役割を放棄して退く者など、多くの裏切り行為があったといいます。徳川方の「関ヶ原」は、事前の切り崩し工作から始まっていました。一説には、戦前に家康が諸大名に宛てた書状は200通にも及ぶと言われています。まさしく「段取り八分」だったわけですね。

 東軍に属していた黒田長政は、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、三成の片腕である島左近を戦闘不能に追い込む活躍を見せます。また、実戦以外でも、吉川広家小早川秀秋を味方に引き入れる工作で貢献したといいます。文句のない活躍ぶりで、父・黒田官兵衛ぬきでも、黒田武士の存在感を大いに示したといえますね。

 また、戦後、捕縛されて縄目のまま城門にさらされていた三成に対して、通りすがる武将たちの多くが罵声を浴びせるなか、長政は馬から降りて一礼し、「勝敗は武士の常、恥にはござらぬ」と言って自身の着ていた陣羽織を三成の肩にかけた、という逸話があります。ドラマでもそのまま描かれていましたね。実話かどうかはわかりませんが、もし事実だとすれば、長政という人物の廉直な人間性をうかがい知ることができます。

 関ヶ原の戦いが家康の勝利で幕を閉じた同じ頃、九州は豊後国で大友義統を降伏に追い込んだ官兵衛は、安岐城、富来城を攻撃して兵を進めます。このとき、官兵衛は関ヶ原の戦いがわずか半日で決したという知らせを受けたようですが、それでも官兵衛は戦いの手を緩めず、ほぼ1ヵ月かけて豊後を平定。さらに、その勢いで久留米城柳川城を攻撃するなど、その勢いは止まるところを知らず、家康の停戦命令を受けて、ようやく矛を収めます。

 このときの官兵衛の猛攻が、官兵衛天下取り説の根拠となっています。関ヶ原の戦いで中央に大名たちが集結しているをついて、九州から西日本を平らげ、一気に天下取りに名乗りを上げる狙いだったが、予想外に関ヶ原の戦いが早く決着がついてしまったため、官兵衛の野望は露と消えた・・・と。ドラマも、この説で描かれていましたが、本当のところはどうだったのでしょう?

 この説の出処は、官兵衛の死後100年以上経ってから編纂された『常山紀談』によるもので、その記述によると、
 「家康を倒すことはたやすい。九州平定後に島津氏を味方にし、二万の兵を率いて加藤清正と鍋島直茂を従わせ、道中で浪人を集めれば十万の軍勢になろう。その上で東に攻め上がれば、家康を滅ぼすなど簡単なことだ。」
 と、官兵衛が語ったとされます。また、同じく『常山紀談』では、官兵衛が自らの死に臨んで、
 「関が原で今少し石田三成が持ちこたえたなら、九州から攻め上り、日本を掌中に収めたかった。そのときは、子である汝を捨ててでも、一博奕打とうと思っていた。」
 と、長政に遺言したといいます。

 この『常山紀談』は、読み物としての歴史的価値は高いようですが、脚色部分が多く、史料としての価値は高くないようです。客観的に考えて、いかに官兵衛が智将といえども、大身ではない身で天下を狙うなど、いささか夢物語の観が拭えません。

 また、もう一つ有名な逸話として、『黒田故郷物語』に記されたエピソードがあります。関ヶ原の戦後、中津に戻ってきた長政が、官兵衛に家康が手を差し伸べてお礼を言ってくれたと自慢気に話します。その話を聞いた官兵衛は、「その手は右手か?左手か?」と問います。長様が右手だったと答えると、官兵衛は「そのとき、お前の左手は何をしていたのか?」と、言ったといいます。つまり、「なぜ左手で家康を刺さなかったのか?」ということ。有名な話ですね。

 しかし、この『黒田故郷物語』は、作者や成立年が不詳の書物であり、良質な史料とは言い難いもののようです。だいいち、現実的に考えて、短刀を胸に忍ばせて家康に近づくなど不可能だったはずで、残念ながら荒唐無稽な話だと言わざるを得ません。

 では、なぜこのような逸話が生まれたのかと考えたときに、おそらく、官兵衛に天下を取って欲しかったという、後世の人々の思いが作り出した虚構だったんじゃないでしょうか? 一土豪から大名まで上り詰めた智将・官兵衛に、歴史の“もしも”を見たかった・・・。左手のエピソードも、官兵衛なら、きっとこう言ったんじゃないか・・・という思いが、この台詞を生み出したのではないかと・・・。いまでも人気の高い官兵衛ですが、その人気は江戸時代から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とは違う天下人像として、人々の空想の中で息づいていたのかもしれません。

やはり長くなっちゃいました。
明日、「その2」を起稿します。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-22 22:00 | 軍師官兵衛 | Comments(4)  

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その1 ~有岡城跡~

今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』は、いよいよ最終回を待つのみとなりましたが、今年、主役の黒田官兵衛以外で最も注目されたのは、荒木村重だったのではないでしょうか。
いままでの戦国ドラマでの村重といえば、織田信長反旗を翻すところで少し登場するだけでしたが、今回は官兵衛を1年間幽閉する役柄ということで、これまでになくフィーチャーされました。

で、その舞台となった兵庫県に住む私としては、この機を逃す手はないだろうと、先日、寸暇を惜しんで村重ゆかりの地をめぐってきました。
まずは、村重の居城にして官兵衛を1年間幽閉した有岡城跡です。

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有岡城は、現在の兵庫県伊丹市にあった城で、もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていました。
しかし、天正2年(1574年)11月、信長から摂津国主に任じられた村重は、伊丹氏を追い落として伊丹城に入城。
城の名を有岡城と改めて、大改造をおこないました。

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現在は、城郭などは残っておらず、発掘調査された主郭部のみが史跡公園として残されているだけです。

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発掘、復元された石垣です。

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土塁跡です。

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井戸跡です。

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村重と、その妻・だしの歌碑ですね。
「霜かれに 残りて我は 八重むくら なにわのうらの そこのみつくに」 あらきたし
「思いきや あまのかけ橋 ふみならし なにわの花も 夢ならむとは」 荒木村重


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村重が築いた有岡城は、城だけでなく侍町と町屋地区全域を巨大な堀と土塁で囲んだ惣構(そうがまえ)の城だったそうです。
その跡が400年以上経った今でも地形として残っており、数メートルの段差が繋がっています。
現在では、最古の惣構の遺構として、国の史跡に指定されています。

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天正6年(1578年)秋、村重は織田信長に反旗を翻し、有岡城は包囲攻撃をうけました。
10ヵ月の篭城の末、村重は嫡男の荒木村次のいる尼崎城に逃れ、その後、主を失った有岡城は侍町を焼き払われて陥落しました。

次回は、その尼崎城跡を訪ねます。

荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その2 ~尼崎城跡~
荒木村重ゆかりの摂津路逍遥 その3 ~花隈城跡~


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-11 21:38 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第49話「如水最後の勝負」 ~石垣原の戦い~

 九州は豊前国中津城にて情勢をうかがっていた黒田官兵衛は、石田三成の蜂起を知ると、すぐさま戦準備を始めます。しかし、黒田家の兵力のほとんどは、徳川家康に従軍している黒田長政とともに東国に出兵中で、国内にはわずかな家臣しかいません。そこで官兵衛は、これまで倹約して蓄えていた金銀を惜しげも無くばらまき、浪人衆を雇います。小田原合戦以降、仕官を求める浪人が各地にあふれており、たちまち9000人もの軍が即席で出来上がりました。その中に、若き日の宮本武蔵がいたという話もありますが、定かではありません。

 そんなとき、三成からの使者が官兵衛のもとへ着きます。要件は、言うまでもなく西軍に味方するように促したものですが、三成の提示した条件は、「西軍に味方すれば好きな土地に領地を与えよう」というものでした。しかし、官兵衛はその程度の誘いに乗る男ではありません。「九州7ヵ国をいただけるのなら、お味方しましょう」と、飲めるはずのない要望を吹かっけて、使者を追い返します。豊臣秀吉にその才を買われて出世した三成ですが調略の才は、あまりなかったようです。

 一方、三成との決戦に向けて西へ進軍していた東軍内では、長政が父顔負けの暗躍ぶりを見せ、福島正則の説得、宇喜多秀家の不参戦、さらに、勝敗を決定づけた小早川秀秋の寝返り工作に貢献したといいます。若き日の長政は武勇一本の武将といったイメージでしたが、やはり、官兵衛の血を引いていたということでしょうか。

 関ヶ原の戦いの火蓋が切られるより先に、九州で西軍と東軍が激突します。官兵衛の領国の隣で、東軍を支持していた細川忠興の家臣・松井康之が守る豊後国杵築城を、西軍に属していた大友義統が襲撃します。杵築城は、元は義統の城でしたが、朝鮮出兵の折に敵前逃亡したことで秀吉の怒りを買い、改易されたという経緯があります。義統にとっては、旧領回復の執念を燃やした戦いでもありました。

 官兵衛は義統を討伐するため出陣します。その際、全軍の前で、「大友義統は朝鮮で敵を見ずに逃げ出した臆病者ゆえ、たとえ何万騎で来ようと、百に一つも負けることはない。」と演説をし、兵の士気を高めたと伝えられます。この演説の場所は後に「如水原」と呼ばれ、現在でも「大分県中津市上如水」という住所が残されています。

 関ヶ原の戦いの2日前、官兵衛軍と大友軍は、石垣原で激突します。当初は大友軍に押されぎみとなりますが、夕刻に官兵衛本隊が到着すると形成は逆転、大友軍は立石の本陣へ後退を余儀なくされます。この時点で戦意喪失となった総大将の義統は、翌々日に剃髪して降伏を申し出ます。この一連の戦いが、後世に九州版関ヶ原の戦いと言われる戦ですね。

 ドラマでは、井上九朗右衛門と一騎討ちをした大友軍の武将・吉弘統幸が、かつて黒田家の食客だったという設定でしたが、実際にも、大友家の改易のあと一時黒田家に招かれ、井上家に預けられていたそうです。そんな二人の一騎討ちについて『黒田家譜』には、こう記されています。
 「吉弘は南の岸の上にたち、井上は北の岸の上に立てあひ向ふ。両人は、先年よりしたしく馴近付たる事なれば、久しくて参り会たりとて、しばし物語しけるが、いさや花やかに戦て、勝負を決せんと互にいひ合せて、面もふらず戦ひける。」
 一説には、もはや勝ち目がないと悟った統幸が、九朗右衛門に功を挙げさせるるため、自刃して討たれたという説もあるそうです。そんな統幸のことを『黒田家譜』では、
 「吉弘がごとき眞の義士は、古今たぐひすくなき事なり」
と、絶賛しています。

 大友義統が降伏した同じ日、美濃国関ヶ原では両軍合わせて20万の兵が激突する、日本史上最大の戦が始まっていました。次回、いよいよ最終回です。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-09 20:00 | 軍師官兵衛 | Comments(4)