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白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~

男山・千姫天満宮の近くに、不動院という高野山真言宗のお寺があるのですが、かつてここに、現在に残る姫路城を築城した池田輝政の菩提寺があったと伝わります。

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不動院の創建は神亀5年(728年)、徳道上人によって開かれたのが始まりとされます。

徳道上人は奈良にある長谷寺を開いた人物で、当地にも同規模の寺院を開山させ長谷寺と称させたそうです。

当時は姫山の麓にありましたが、元亀3年(1572年)に姫路城の城代・黒田職隆黒田官兵衛の父親)が城を拡張した際、播磨国総社(射楯兵主神社)の境内に移され寺号を不動院に改称したそうです。


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天正9年(1581年)、羽柴秀吉が姫路城をさらに拡張すると、先に播磨国総社が現在地に遷され、万治3年(1660年)に不動院がその付近に移りました。

明治時代初頭に発令された神仏分離令により寺院として独立し、明治3年(1870年)に現在地である長徳寺境内に移転。

明治10年(1877年)に長徳寺が廃寺になると、不動院単独の境内地となりましたが、長徳寺の以前は、姫路藩主・池田家菩提寺国清寺(龍峯寺)があった跡地で、池田輝政、池田利隆はこの地に埋葬されたそうです(その後、池田家が転封すると改葬)。


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現在は、不動院境内に石碑が建てられているだけです。


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姫路城を築城した池田輝政は、同築城以前には、伏見城普請大和多内城普請を務め、姫路城以後も、高砂城、篠山城、江戸城、名古屋城などの普請に従事しており、とくに篠山城普請では総普請奉行を務めるほどの城づくり名人とされていますが、400年後の未来にその姫路城が世界遺産となり、世界各国から見物客が絶えない名所となろうとは、思いもしなかったでしょうね。

次回、シリーズ最終回。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-03 23:16 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

軍師官兵衛 第32話「さらば、父よ!」 ~小牧・長久手の戦い~

 天正12年(1584年)、羽柴秀吉によって安土城を追放された織田信長の次男・織田信雄が、東へ流れて徳川家康と手を結び、やがて反秀吉勢力を形成します。この家康・信雄連合軍と秀吉が対峙した小牧・長久手の戦いは、信長の死後、秀吉が初めて敗北を喫した戦いとして伝えられます。秀吉と家康が交えた唯一の戦いとしても知られていますね。家康側だったはずの池田恒興が突如秀吉側に寝返ったことに始まったこの戦いは、兵力では圧倒的に秀吉軍が勝っていたにもかかわらず、家康の巧みな奇襲作戦によって思わぬ大敗を喫します。この戦いで秀吉は、池田恒興や森長可など有力な武将を失います。命からがら逃げ帰った総大将の羽柴秀次を、家臣たちの前で激しく叱責したエピソードはよく知られていますね。

 最終的には、秀吉が信雄を懐柔したことにより、戦いはドローに持ち込まれますが、中国大返し以降、破竹の勢いで天下人に上り詰めようとしていた秀吉にとっては、冷水を浴びせられたともいえる手痛いドローで、また、一方の家康にとっては、のちの豊臣政権下において別格の地位を確立する足がかりとなった戦いといえます。

 この小牧・長久手の戦いに、参謀長であるはずの黒田官兵衛の姿はありませんでした。というのも、このとき官兵衛は、毛利家との領土確定交渉にあたっていたからです。一般的には、備中高松城での講和で領土問題も解決していたかに思われがちですが、実際には、棚上げしていただけだったんですね。あのときは、織田家の家臣としての交渉でしたし、何より、早く京へ帰って明智光秀を討たねばならなかったわけで・・・。

 この交渉を担当したのは官兵衛と蜂須賀小六。いずれも備中高松城攻めでも中心的役割を担っていたふたりですから、至極妥当な人選だったとはいえるでしょうが、強敵家康と対戦するという局面で、これまで最も頼りにしてきたはずの官兵衛を陣から外していたのは不思議ですよね。ドラマのように、官兵衛が家康との戦いに反対だったかどうかはわかりませんが、秀吉は単に家康を侮っていただけなのか、あるいは、俗に言われる軋轢が生じ始めていたのか、いずれにせよ、官兵衛が参謀から外れたこの戦いで手痛い敗北を喫したのは事実で、「官兵衛がいなかったから負けた」という声も、当時からあったかもしれません。とすれば、秀吉にとっては余計に面白くなかったでしょうね。そんなこんなで、二人の間の溝は深まっていったのかもしれません。

 官兵衛の父・黒田職隆が逝きましたね。『黒田家譜』によると、逝去したのは天正13年(1585年)8月22日、62歳だったと伝えられますが、その死因などはわかっていません。ドラマでは、官兵衛や長政を優しく見守るおおらかな人物として描かれていましたが、これも『黒田家譜』によると、「職隆は天性温和にして慈愛が深く、正直にして義を守ること剛毅である」と記されているそうです。実際にも、ドラマのような人物だったのかもしれませんね。職隆のような人望に厚い父が姫路に腰を据えていたからこそ、当主である官兵衛が気兼ねなく領国を留守にして、信長や秀吉のもとで立ち回れたといえるかもしれません。父の後ろ盾あっての官兵衛だったといえるでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2014-08-11 21:19 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第20話「囚われの軍師」 ~黒田職隆の大英断~

 2週遅れのレビューです。当方いま、めちゃめちゃ忙しい身でして、GW以降ずっと不眠不休の日々を送っております。ブログの方も気にはなっていたものの、先週はとてもそんな時間はとれず、いまもその状況は抜け切れていないのですが、これ以上滞ると、その後もやる気が萎えてしまうと思い、なんとか無理やり時間をつくってログインしました(こう仕事に追い詰められる生活になると、なんとなくASKAの気持ちがわからなくもない気になります・・・笑)。てなわけで、少し手短になりますが、ご容赦ください。

 黒田官兵衛荒木村重によって有岡城幽閉されるという最悪の事態をうけて、主を失った黒田家中は逆に一致結束したと伝えられます。その事実は、『黒田家文書』にある家臣の起請文によって確認されるそうで、それによれば、官兵衛の安否が不確かないま、家臣は一致団結して「御本丸」に忠節を尽くすと記されているそうです。本来、本丸とは城郭の天守のことをいいますが、ここに記されている「御本丸」とは、官兵衛の妻・のことだそうです。ここで興味深いのは、忠節を誓う対象が官兵衛の父・黒田職隆ではなく、御方様の光だったこと。この事実に、のちの江戸時代とは違う戦国武将の妻の存在感が見てとれます。もちろん、実質的な長は職隆だったでしょうが、光が家臣団の精神的支柱だったわけです。黒田家中は御方様を支える体制で結束したんですね。

 もうひとつ、窮地に陥った黒田家を救った大きな要因は、職隆の速やかな決断でした。官兵衛が有岡城から戻らない状況のなかで、職隆は変わらず織田信長に従うことを表明します。その理由は、織田家に人質に出している松寿丸の身を案じてのことに他ならないですが、もし、村重が黒田家を味方に引き入れるために官兵衛を人質に捕らえたとすれば、早々の織田家支持の表明は、まだ生きているかもしれない官兵衛の命を奪うことにもなりかねません。

 「いざというときが来たら、官兵衛を捨て、松寿を生かす」

 柴田職隆、迫真の演技でしたね。実際の職隆も、苦渋の決断だったに違いありません。結果、この職隆の判断によって、黒田家は織田軍の攻撃を受けずに済んだとすれば、大英断だったといえるでしょう。しかし、それで松寿丸の命を守れたかというと、信長はそう甘くはなかったんですね。

 威勢よく叛旗を翻した村重でしたが、早々に側近の中川清秀高山右近らに裏切られてしまいます。とくに中川清秀は、村重に謀反を促した人物といわれ、石山本願寺に兵糧を横流しして村重謀反のキッカケを作った張本人とも言われる人物ですが、村重を煽るだけ煽っておきながら、自身は戦うことなく信長に降伏しています。裏切り、寝返りが当たり前の時代とはいえ、なんとも節操のない話ですよね。右近の場合は、もともと謀反には反対の立場で、村重を翻意させようと何度も説得にあたったといいますから、必然の寝返りだったといえるかもしれません。一説には、信長から畿内のキリシタンを皆殺しにすると脅されたため、とも言われますが、いかがなものでしょう。

 いずれにせよ、側近にはしごを外された村重は、孤立無援の籠城戦に入ります。期待の毛利軍の援軍も得られず、圧倒的不利な状況に陥った村重でしたが、ここから村重は粘りを見せます。なかなか有岡城を落とせない信長は、この粘りの裏に官兵衛がいるのではないか・・・と、疑うんですね。そこで下した命令が、職隆の思いを断ち切るものだったわけです。その続きは次稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2014-05-27 22:03 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)  

軍師官兵衛 第1話「生き残りの掟」  〜黒田重隆・職隆・孝高〜

 黒田官兵衛孝高は、天文15(1546)年11月29日、黒田職隆の嫡男として播磨国姫路に生まれました。官兵衛が生まれたときは雪が降っていて、英雄が生まれる奇瑞であった・・・と、『黒田家譜』に記されています。幼名は万吉。同じく『黒田家譜』によれば、幼少期の官兵衛に対する記述は賞賛の一色ですが、同史料は官兵衛の死後70年ほど経ってから編まれたもので、しかも筑前福岡藩黒田家の藩命で編纂されたものですから、すべてを信じることはできないでしょう。ただ、優秀な子ではあったのでしょうけどね。

 官兵衛の祖先である黒田氏のルーツは、佐々木源氏の流れをくむといわれおり、鎌倉時代の末期、佐々木宗清の時代に近江国伊香郡黒田村に移り住んだと伝えられています。ただ、この説を裏付ける史料は少なく、実際のところは定かではありません。日本人にとって黒田という名字はごくありふれたものですから、いくつものルーツが考えられるでしょうね。まあ、黒田家に限らず、戦国大名の多くは出自が曖昧なものですか・・・。

 黒田氏が一次史料にはじめて登場するのが、官兵衛の祖父・黒田重隆です。その意味では、黒田氏の実質的な始祖は重隆といえるかもしれません。上述した近江の黒田村にて生まれた重盛は、備前国福岡(現岡山県)に移住したといわれ、その後、姫路に移ったとされます。後世、黒田家が筑前国福崎を福岡と改称したのは、備前国福岡にちなんだといわれています。

 姫路に移り住んだ重隆は、目薬屋として立身出世を遂げたという話があります。伝承によると、経済的に困窮していた重隆は、ある日夢のお告げによって広峯神社に詣でたそうです。そこで神主と黒田家秘伝の目薬「玲珠膏」の話になり、神社の祈祷札にその目薬をつけて販売したところ、すっかり効能が評判となり、大いに売れたといいます。いわゆる抱き合わせ商法ですね。ドラマでもこの逸話を採用していました。こうして重隆は一財産を築いたといわれますが、この逸話は、江戸時代中期に記された『夢幻物語』に記されたものだそうで、根拠に乏しいようです。ただ、姫路に移り住んだ重隆の時代に、黒田家は富裕層に成長したのはたしかのようで、これが小寺氏の目に止まるところとなり、仕官の契機になったと考えられています。

 その後、重隆の息子、黒田職隆の時代に御着城主・小寺政職の配下に属します。職隆は思慮が深く武勇もあったそうで、瞬く間に小寺氏配下にて頭角を現し、政職も職隆を厚く遇したといいます。自身の偏諱である「職」の字を与えているところを見ても、政職がいかに職隆に目をかけていたかがわかりますね。さらに政職は、職隆に小寺という姓を名のることも許し、さらにさらに、明石正風の娘を自身の養女に向かえ、職隆のもとに嫁がせました。そして、その二人の間に生まれたのが、孝高こと官兵衛です。

 第1話は物語のプロローグで、いつものように主人公の子供時代を描いたものでした。昨年、一昨年の作品の第1話に比べると、可もなく不可もなしといった1話だったように思います。子役の子が演じる官兵衛は、『黒田家譜』で賞賛されるような神童ではなく、普通の少年でしたね。普通じゃなかったところといえば、話に夢中になってお漏らししたところでしょうか(笑)。でも、ドラマの万吉はそんな幼児でもなかったですよね。あれでは、神童というより、むしろ幼稚というか、暗愚というか・・・(笑)。
 「あの子は少々変わっているところもございますが、心根の優しい子です」
 万吉のお漏らしを嘆く父・職隆に対して母のいわが言った台詞ですが、人と変わっているところの描き方、他になにかなかったんでしょうか(苦笑)。

 官兵衛の幼少時代は第1話で終わり、次週からは元服後の官兵衛のようですね。最近の大河は、子役の子の出番が短いですね。昔の作品は、幼少期の話が2話か3話あったような・・・。近年、低視聴率に喘いでいることもあって、早く主役の俳優さんを出したいのでしょうか・・・。俳優さんの人気に頼らず、自信を持って製作してほしいと思います。

 とにもかくにも、今年も大河ドラマのレビューを始めました。ただ、第1話のレビューがこんなに遅くなってしまったように、仕事が忙しくてなかなか起稿する時間がとれません。そんなわけで、毎週とはいかないかもしれませんが、本年もよろしくお願いします。


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by sakanoueno-kumo | 2014-01-11 16:18 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(3)