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後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その3 「蛇塚~又兵衛田」

「その1」で紹介した周辺の後藤又兵衛史跡マップに「蛇塚」なるスポットが載せられていたので、足を運んでみました。


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これがその「蛇塚」です。

なにやら古墳跡のようにも見えますが、これが又兵衛ゆかりの史跡なんだとか。

以下、説明板の文章をそのまま引用します。


むかし、南山田の池田という所におった大蛇が田畑を荒らし回り、村人を苦しめていた。近くの城山に城があって、そこに後藤又兵衛が住んでいた。その近くの射場という所で弓の稽古をしていた又兵衛は、「拙者が退治をしてやろう」と言ったそうだ。

 やがて池田に大蛇が出た。又兵衛が、射場から弓を射ると見事に大蛇に命中して退治してくれた。しかし、大蛇は余りに大きかったので、頭の方を寺垣内に埋め、胴体を四畑に、尻尾は奥の谷へ埋めた。それでこの辺りを蛇塚というそうな。 (口伝により)


つまり、又兵衛が大蛇退治し、ここに埋めたんだそうです(頭か胴体か尻尾かはわかりませんが)。

ただ、又兵衛がこの地に住んでいたのは少年時代だったはずですから、にわかに信じがたい話ではありますけどね。

ていうか、そもそも大蛇自体が伝説ですけど。


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もう1ヶ所、又兵衛ゆかりの史跡を紹介。

南山田城跡の北側は、現在、田園地帯になっているのですが、その1角に、「又兵衛田」と呼ばれる田んぼがあります。


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以下、説明板の文をそのまま引用します。


「又兵衛田」

1611年(慶長16年)以降、姫路城の城主・池田輝政の配慮で後藤又兵衛の扶持米を作ったとされる田で、「又兵衛田」と言い伝えられてきた。

黒田家を出奔後の後藤又兵衛の命をつないできた貴重な田である。


晩年の又兵衛が、一時、播磨に戻ってきたとは知っていましたが、この地に戻ってきてたの?


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黒田官兵衛の元で武功を重ね、一時は大隈1万6千石もの大封を与えられていた又兵衛でしたが、新しい主君の黒田長政とそりが合わず、慶長11年(1606年)に黒田家を出奔してしまいまず。

それでも、又兵衛の武勇は天下に轟いており、細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康など名立たる大名から誘いがかかりますが、長政がしいた「奉公構」によって実現しませんでした。

「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことで、豊臣政権によって始まった制度でした。

その後、又兵衛は京に流れて浪人生活となり、そして、慶長19年(1614年)に大坂と幕府の関係に暗雲が立ち込めると、大野治長の招きで大坂城に入ります。

そして、翌年の5月6日、道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦壮絶な死を遂げるんですね。

大坂の陣では真田信繁(幸村)と並び称される英雄の又兵衛ですが、大坂城の浪人衆からは、又兵衛が最も慕われていたといいます。

あのまま自分を押し殺して長政に従っていれば、大隈1万6千石で穏やかな余生を迎えていたことでしょう。

でも、後世にはそれほど名を知られていなかったでしょうね。

又兵衛にとってどちらが幸せだったかはわかりませんが、自身の生き方を貫いた又兵衛の生き様に、後世のわたしたちは魅せられるのでしょう。


又兵衛関連の史跡は、大坂の陣シリーズでも紹介しています。

よければ一読ください。

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by sakanoueno-kumo | 2016-10-21 18:34 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

軍師官兵衛 最終回「乱世ここに終わる」その2 ~エピローグ~

 関ヶ原の戦いにおける黒田長政の活躍によって、黒田家は筑前国名島に52万3000石を与えられます。新天地に入国した黒田官兵衛・長政父子は、さっそく博多のそばに新しい城の建設を開始。同時に、この地を「福岡」と名づけます。これ以後、長政を藩祖とした福岡藩黒田家は、幕末まで12代続きます。

 そして徳川家康征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれた慶長8年(1603年)頃から、官兵衛は病に伏すところとなります。その頃から、官兵衛はどういうわけか、人が変わったように家臣に冷たく当たるようになり、難癖をつけては罵るようになったといいます。家臣たちは官兵衛の激変に「ご乱心」と恐れおののいたといいますが、見かねた長政が諌めたところ、官兵衛は「そちのためにやっているのだ。」と囁きます。曰く、家臣たちに酷い仕打ちをするのは、自分が疎まれることで、早く長政の代になってほしいと家臣たちに思わせるためだと・・・。自分が憎まれることによって、長政の求心力を高めようと考えたんですね。

 また、当時は主君が亡くなると家臣が殉死する習慣があったため、これを防ぐ狙いもあったのだとか。有能な家臣が殉死して黒田家家臣団が弱体化することを恐れたというわけですね。いずれも実話かどうかはわかりませんが、人生の最期の最期まで、合理的知略に富んだ逸話が絶えません。と同時に、官兵衛の長政に対する親心もうかがえますね。このエピソードもドラマで演ってほしかったなぁ・・・。

 慶長9年(1604年)に入って、いよいよ死期を悟った官兵衛は、股肱の臣である栗山善助を呼びつけ、自身の愛用していたを授けます。本来であれば、息子の長政に引き継ぐべきものですが、官兵衛はあえてこれを善助に託すことで、長政への忠誠心を今一度促し、また、長政には善助を父のように思うようにと言い残しました。そして、3月20日、黒田官兵衛はその波乱に満ちた生涯の幕を閉じます。享年59歳。その辞世の句は、

 「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

 「いっこうに悔いが思い浮かばぬ」といったドラマの官兵衛の台詞は、この辞世の句からきたものでしょうね。言い残す言葉もなく、ついにあの世にいくことになったが、その道は迷うことなく、なるようにまかせよう・・・・。人生の最期にこんな言葉が言えるのは、精一杯生きてきた者だけでしょうね。

 「殿、よく生き抜かれましたなぁ・・・。」

 そう言った妻・は、官兵衛の死後、出家して院号を照福院とし、官兵衛の死から23年、息子の長政より長生きします。

 織田信長にその才を見出され、豊臣秀吉を天下人に押し上げ、徳川家康に一目置かれた智将・黒田官兵衛。一方で、その人となりは、生涯名利を好まず、質素倹約を旨とし、戦国武将としては地味な存在の武将といえるでしょう。しかし、そんないぶし銀的な生き方が、官兵衛の魅力だとわたしは思います。それが、官兵衛をして「天下を取ってほしい」という思いに繋がるのでしょうね。もし、官兵衛が天下人になっていたら、歴史はどう変わっただろうと・・・。でも、歴史は官兵衛を天下人に選びませんでした。黒田官兵衛という人物に与えられた歴史的役割は、やはり、「軍師官兵衛」だったということですね。


 1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。今年も、なんとか完走出来て安堵しています。年内には総括を起稿したいと思っています。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-23 22:43 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(4)  

軍師官兵衛 最終回「乱世ここに終わる」その1 ~官兵衛天下取り説~

 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国は関が原において、徳川家康の率いる東軍8万の軍勢と、石田三成を大将とする西軍10万の軍勢が衝突します。世にいう関が原の戦いですね。結果は、ほとんどの人が周知のところだと思いますが、戦いはわずか半日東軍の圧勝で終わります。

 兵の数では優っていた西軍でしたが、毛利軍、島津軍などは参戦することなく、実際に戦っていたのは3分の1ほどだったといわれます。それでも、大谷軍、宇喜多軍、小西軍の奮戦もあり、前半は優勢に運んだ西軍でしたが、勝利を目前にして形成は瞬く間に逆転。一気に総崩れとなります。そのいちばんの要因は、いうまでもなく小早川秀秋寝返りに尽きるのですが、それ以外にも、戦線を離脱する者や役割を放棄して退く者など、多くの裏切り行為があったといいます。徳川方の「関ヶ原」は、事前の切り崩し工作から始まっていました。一説には、戦前に家康が諸大名に宛てた書状は200通にも及ぶと言われています。まさしく「段取り八分」だったわけですね。

 東軍に属していた黒田長政は、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、三成の片腕である島左近を戦闘不能に追い込む活躍を見せます。また、実戦以外でも、吉川広家小早川秀秋を味方に引き入れる工作で貢献したといいます。文句のない活躍ぶりで、父・黒田官兵衛ぬきでも、黒田武士の存在感を大いに示したといえますね。

 また、戦後、捕縛されて縄目のまま城門にさらされていた三成に対して、通りすがる武将たちの多くが罵声を浴びせるなか、長政は馬から降りて一礼し、「勝敗は武士の常、恥にはござらぬ」と言って自身の着ていた陣羽織を三成の肩にかけた、という逸話があります。ドラマでもそのまま描かれていましたね。実話かどうかはわかりませんが、もし事実だとすれば、長政という人物の廉直な人間性をうかがい知ることができます。

 関ヶ原の戦いが家康の勝利で幕を閉じた同じ頃、九州は豊後国で大友義統を降伏に追い込んだ官兵衛は、安岐城、富来城を攻撃して兵を進めます。このとき、官兵衛は関ヶ原の戦いがわずか半日で決したという知らせを受けたようですが、それでも官兵衛は戦いの手を緩めず、ほぼ1ヵ月かけて豊後を平定。さらに、その勢いで久留米城柳川城を攻撃するなど、その勢いは止まるところを知らず、家康の停戦命令を受けて、ようやく矛を収めます。

 このときの官兵衛の猛攻が、官兵衛天下取り説の根拠となっています。関ヶ原の戦いで中央に大名たちが集結しているをついて、九州から西日本を平らげ、一気に天下取りに名乗りを上げる狙いだったが、予想外に関ヶ原の戦いが早く決着がついてしまったため、官兵衛の野望は露と消えた・・・と。ドラマも、この説で描かれていましたが、本当のところはどうだったのでしょう?

 この説の出処は、官兵衛の死後100年以上経ってから編纂された『常山紀談』によるもので、その記述によると、
 「家康を倒すことはたやすい。九州平定後に島津氏を味方にし、二万の兵を率いて加藤清正と鍋島直茂を従わせ、道中で浪人を集めれば十万の軍勢になろう。その上で東に攻め上がれば、家康を滅ぼすなど簡単なことだ。」
 と、官兵衛が語ったとされます。また、同じく『常山紀談』では、官兵衛が自らの死に臨んで、
 「関が原で今少し石田三成が持ちこたえたなら、九州から攻め上り、日本を掌中に収めたかった。そのときは、子である汝を捨ててでも、一博奕打とうと思っていた。」
 と、長政に遺言したといいます。

 この『常山紀談』は、読み物としての歴史的価値は高いようですが、脚色部分が多く、史料としての価値は高くないようです。客観的に考えて、いかに官兵衛が智将といえども、大身ではない身で天下を狙うなど、いささか夢物語の観が拭えません。

 また、もう一つ有名な逸話として、『黒田故郷物語』に記されたエピソードがあります。関ヶ原の戦後、中津に戻ってきた長政が、官兵衛に家康が手を差し伸べてお礼を言ってくれたと自慢気に話します。その話を聞いた官兵衛は、「その手は右手か?左手か?」と問います。長様が右手だったと答えると、官兵衛は「そのとき、お前の左手は何をしていたのか?」と、言ったといいます。つまり、「なぜ左手で家康を刺さなかったのか?」ということ。有名な話ですね。

 しかし、この『黒田故郷物語』は、作者や成立年が不詳の書物であり、良質な史料とは言い難いもののようです。だいいち、現実的に考えて、短刀を胸に忍ばせて家康に近づくなど不可能だったはずで、残念ながら荒唐無稽な話だと言わざるを得ません。

 では、なぜこのような逸話が生まれたのかと考えたときに、おそらく、官兵衛に天下を取って欲しかったという、後世の人々の思いが作り出した虚構だったんじゃないでしょうか? 一土豪から大名まで上り詰めた智将・官兵衛に、歴史の“もしも”を見たかった・・・。左手のエピソードも、官兵衛なら、きっとこう言ったんじゃないか・・・という思いが、この台詞を生み出したのではないかと・・・。いまでも人気の高い官兵衛ですが、その人気は江戸時代から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とは違う天下人像として、人々の空想の中で息づいていたのかもしれません。

やはり長くなっちゃいました。
明日、「その2」を起稿します。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-22 22:00 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(4)  

軍師官兵衛 第48話「天下動乱」 ~光、栄の脱出劇と小山評定~

 徳川家康が上杉征伐のために東国に向かった隙を突いて挙兵した石田三成は、すぐさま大坂城を占拠。そして、家康に付き従って東国に向かった諸将の妻子人質にとるべく画策します。徳川方に与する諸将を少しでも切り崩そうとする作戦ですね。これは、当時の慣らいでいえば、特に卑怯な行いというわけでもなく、当然の策でした。然るに、大坂を留守にしていた諸将も、もし、三成に不穏な動きあらば、妻子の身が危険に晒されるであろうことは想定済みだったに違いありません。

 このとき大坂を空けていた黒田官兵衛、長政父子も、当然、三成の動きには警戒を怠っておらず、本来、父子どちらかに付き従っているべき栗山善助母里太兵衛らを、大坂に残しています。非常事態を想定したSP役だったのでしょう。官兵衛の正室・の命ももちろんですが、祝言をあげたばかりの長政の後妻・は家康の養女であり、いわば徳川家からの預かり物のようなもので、何としても敵の手に渡すわけにはいかなかったのでしょう。善助や太兵衛といった最も信頼の厚い家臣を大坂の残したのは、頷ける人選です。

 彼らの働きによって、光と栄は三成の人質包囲網からみごと脱出し、官兵衛のいる豊前国中津城に帰国します。このあたりに経緯については、『黒田家譜』にかなり詳細に記されています。それによると、夜中に二人をに入れ、商人姿に変装した太兵衛が二人の入った俵を天秤棒で担いで運搬し、黒田家に味方する納屋小左衛門という商人の屋敷に逃げ込みます。そこでしばらく身を潜めて脱出の機会を探しますが、三成の包囲網も厳重を極め、なかなか機を得ることができません。その間、黒田の屋敷は善助が守っていましたが、ある日、石田方から差し向けられた使者から、「二人の奥方が屋敷内にいるか確認したい」と迫られます。困った善助は、「お方様の面吟味などあるまじきこと。どうしてもと言うならば、垣根越しにお二人に気付かれぬよう・・・」とたくみに言い逃れ、似た顔の侍女たちを替え玉に仕立てて、なんとか使者を納得させたといいます。ほとんどドラマのとおりですね。

 なかなか脱出の機を得ることなく過ごしていたある日、長政と同じく家康に従軍していた細川忠興の妻・ガラシャが、人質となることを拒んで自らを選び、家臣に胸を突かせて屋敷に火を放ちます(ガラシャの死については、以前の拙稿『江~姫たちの戦国~ 第34話「姫の十字架」』でふれていますので、よければ一読ください)。この事件で大坂城周辺は大混乱。ここを絶好のタイミングと考えた善助や太兵衛らは、騒ぎに乗じて屋敷を脱出。小舟で川を下った後、大阪湾で船に乗り換え、海路、九州に逃げ延びます。

 ドラマでは、善助と太兵衛と井上九朗右衛門の3人が活躍していましたが、『黒田家譜』では、九朗右衛門ではなく宮崎助太夫となっています。善助と太兵衛は、官兵衛の有岡城脱出の際も活躍しており、夫婦揃っての脱出の恩人と言えます。二人共、武勇に長けた猛将だったと伝えられますが、戦場での働きも去ることながら、2度の脱出劇の活躍は、まさに何万石もの大身に値する働きだったといえるでしょう。それ故、『黒田家譜』でも多くの紙数を費やして称えているのでしょうね。

 一方で、上杉討伐に向かっていた家康陣営が、三成と対決すべく結束し、軍を西へ返すことを決定した小山評定の席において、事前に家康が長政を呼びつけ、進退を決めかねている福島正則を説得するよう根回ししたという有名な逸話ですが、これについては『黒田家譜』には何も記されておらず、家康が上杉と三成のどちらを攻めるか諮問したところ、福島正則、黒田長政、徳永法師が大坂へ向かうべきだと進言し、了承されたと記されているだけです。また、福島正則が率先して徳川支持を表明し、その声に煽動された諸将が次々に続いていったという有名な話も、一次史料に乏しく後世の創作と見る向きが強いようです。このあたりの諸将の根回し、裏切り、抜け駆け、逡巡などの人間模様が、いちばん面白いところなんですけどね。

 ただ、この時点ではまだ、徳川方有利などといった空気はまったくなかったわけで、家康にしてみれば、大坂へ向かう東海道中の諸将がどれだけ味方してくれるかというのが、いちばんの気がかりだったに違いありません。そう考えれば、史料は乏しくとも、似たような人間模様は繰り広げられていたんじゃないでしょうか。

 官兵衛の動きについては、次話に譲ることにします。


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by sakanoueno-kumo | 2014-12-01 22:16 | 軍師官兵衛 | Trackback(2) | Comments(2)  

軍師官兵衛 第47話「如水謀る」 ~関ヶ原の合戦序章と長政・糸の離縁~

 石田三成が政治の表舞台から失脚したことで、表面的には沈静化したように見えた豊臣政権内の勢力争いですが、水面下では、双方味方集めの工作合戦が繰り広げられており、事態はいよいよきな臭いムードが漂いはじめます。

 慶長5年(1600年)、三成と昵懇だった(といわれる)会津国の上杉景勝が、徳川家康との対立姿勢を示します。家康は上杉家に対して何度も上洛を促す使者を送りますが、景勝は病気と称してこれを拒否しつづけ、一方で、領内の城の補修工事を進めます。この態度から、上杉家は謀反の疑いをかけられるのですが、上杉家家老の直江兼続は、その釈明のための書状を家康に送ります。しかし、その書状には、家康を痛烈に非難した内容が書かれていたといわれ、それを読んだ家康が激怒し、上杉討伐を決定します

 家康が上杉討伐のため東国に向かったことによって、大坂はガラ空きとなり、その隙をついて三成が挙兵。そして関が原の合戦へと繋がっていくわけですが、この一連の流れは、三成と直江兼続が事前に密謀を交わし、家康を東西から挟み撃ちにする企てだったという説があります。ドラマでも、黒田官兵衛がその謀略を見抜いた上で、三成に作戦の甘さを忠告していましたよね。実際に官兵衛が見抜いていたかどうかはわかりませんが、反家康を表明している二人の挙兵があまりにも出来すぎなタイミングで行われていることや、三成が兼続に宛てた手紙に「密約」を匂わす文章があることなどから、この説を推す歴史家の方も少なくありません。

 一方で、二人の共謀説に否定的な意見も多く、その理由としては、当時、上杉家は新領国に国替えをして間もない時期であり、資金面から考えても、大戦を挑むなんてあり得ないというもの。現在では、こちらの説のほうが有力だそうです。どちらが真実かはわかりませんが、密約があったとする方が、ドラマチックではありますよね。ただ、その更に上手だったのが家康で、三成の挙兵を誘うため、あえて大坂を空にしたとする説。つまりは、三成と兼続の仕組んだ罠も、すべて家康が描いたシナリオだったという見方です。ドラマでも、この説を採っていましたね。晩年の権謀術数に長けた家康なら、それも考えられなくもないかもしれません。しかし、当時の状勢で言えば、まだ西軍(三成方)の方に分があった段階で、家康にそんな余裕をかますゆとりはなかったようにも思えます。結果を知っている後世の私たちは、歴史上の出来事をひとつの物語として繋ぎあわせて、そこに関連性を求めて理由付けをしたくなりますが、実際には、それぞれがそれぞれに個々の保身利益のために動いた結果が、歴史を作っているものなんじゃないかと思います。すべては偶然が重なって生まれたものなんじゃないかと・・・。

 有力大名との婚姻を進めて味方づくりを図っていた家康は、その狙いを黒田長政にも向け、自身の養女である栄姫を長政の正室として嫁がせます。これにより、16年連れ添った離縁することになるのですが、現代の感覚で言えば理解し難い行為ですが、この時代の常識で言えば、やむを得ない選択だったといえるでしょう。家康の意向には逆らえないといった理由もあったでしょうが、糸との間には16年間で娘がひとり生まれただけであり、「嫁して三年子無きは去れ」という当時の常識から思えば、黒田家にしてみれば家康の申し出は糸を離縁する大義名分になったかもしれません。実際、後に長政と栄姫の間には、忠之、長興、高政という3人の男子が生まれます。糸には気の毒な話ですが、黒田家にとっては、結果オーライの縁談だったといえます。

 ただ、そうは言っても、当時としても一方的な離縁は不条理な仕打ちではあったようで、この離縁によって糸の実家の蜂須賀家は怒り心頭となり、以後150年に渡り黒田家と蜂須賀家は絶交状態となります。

 糸はその後、蜂須賀家領国の阿波国で暮らし、長政より20年以上長生きします。その娘であるは黒田家に残り、井上九朗右衛門の嫡男・井上庸名の正室になったと伝えられます。黒田家と蜂須賀家が不通関係である以上、糸と菊はその後会うこともなかったでしょうね。きっと菊の幸せだけを祈りながらの余生だったことでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2014-11-26 20:17 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(0)  

軍師官兵衛 第42話「太閤の野望」 ~文禄の役~ その1

 朝鮮出兵を決意した豊臣秀吉は、天正19年(1591年)10月、その準備として肥前国に名護屋城の築城を開始します。工事を命じられたのは主に九州の諸大名で、加藤清正小西行長らを中心に、黒田官兵衛・長政父子の名もありました。『黒田家譜』によると、黒田家が任されたのは「縄張り」という作業であり、その総奉行には長政が着任したそうです。工事は突貫作業で進められ、わずか半年で竣工しました。

 文禄元年(1592年)4月、朝鮮出兵が開始されます。9つの隊で形成された豊臣軍(あえて日本軍とは言いません)は総勢15万8千の大兵団で、総大将は豊臣家一門扱いとなっていた宇喜多秀家が努めます。第1軍は小西行長軍、第2軍は加藤清正軍、そして黒田軍6千は長政を主将として大友義統とともに第3軍に任じられていました。ドラマでも描かれていましたが、この小西軍と加藤軍が終始、互いに競り合い、牽制し合うという関係で、結果的にそれが軍の統率を乱すことになります。官兵衛は、当初は渡海せずに秀吉の側付きで名護屋城いましたが、総大将が若干21歳の若さの秀家であるため、その補佐をすべく、軍監として参加することになります。

 釜山に上陸した豊臣軍は、わずか数時間で釜山城を制圧、その2日後にはすぐ北にある東莱城を陥落させます。これにより釜山全域を占領した豊臣軍は、その後も快進撃を続け、わずか20日間で首都の漢城に入ります。ところが、すでに漢城はもぬけの殻となっていました。豊臣軍の快進撃に恐れおののいた李氏朝鮮国国王は、数日前に平壌に逃亡していたのです。そのおかげで豊臣軍は労せずして首都を占領。現地の民衆たちも、民を見捨てて逃げてしまった国王に愛想を尽かし、豊臣軍に協力する者が続出したといいます。ルイス・フロイスの記述によれば、「(朝鮮人たちは)恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似でなにか必要なものはないかと訊ねるありさまで、日本人の方が面食らっていた」とあります。こういう話は、きっとあちらの歴史教科書には載ってないんでしょうね。

 その後も豊臣軍は着々と戦勝を重ねて北上し、6月15日には小西行長軍・黒田長政軍が平壌城を陥落させます。このとき、長政は大いに奮闘しました。ドラマでは描かれていませんでしたが、こんな逸話があります。

 このとき長政は李応理という剛者に矢で射られるも、その矢を抜かないまま李応理に斬りつけ、そのまま組み合って河の中に落ちました。からくも李応理との射ち合いには勝ったものの、が重く溺れそうになり、なんとか助けをかりて岸に上がります。そんな長政をそばで見ていた家臣の後藤又兵衛は、「わが主君は、この程度の敵に討たれるようなお人ではござらん!」と、長政を助けようとせず見物していたといいます。これに長政は激怒し、かねてから不仲になりつつあった両者の確執がいっそう深まったとか。実話かどうかはわかりませんが・・・。ドラマでは、長政と又兵衛の確執部分にはあまりふれないようですね。

 同じ頃、別働隊の加藤清正軍も会寧で李氏朝鮮の王子2人を捕縛しました。たまりかねた李氏朝鮮の国王・宣祖は、明に援軍を要請。そして7月16日、明軍が平壌城奪還にやってきます。しかし、このときは小西軍がこれを見事に撃退します。明が参戦してきたこの機に、豊臣軍は進軍を平壌までとし、明・朝鮮連合軍も講和を申し出てきました。しかし、相手は異国人ですから、日本国内で和議を結ぶようにはいきません。なってたって、相手は中国ですからね。

 長くなっちゃったので、後日「その2」につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-10-21 00:23 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(0)  

軍師官兵衛 第37話「城井谷の悲劇」 ~宇都宮鎮房謀殺~

 肥後国人一揆鎮圧の加勢のために黒田官兵衛が出陣すると、そのタイミングを待っていたかの如く宇都宮鎮房が挙兵します。このとき官兵衛より留守を預かっていた嫡男・黒田長政は、さっそくその鎮圧のために兵を出します。その知らせを聞いた官兵衛は、鎮房の籠もる城井谷城がいかに攻め落とすのが難しいかを説いて制止し、また、家臣の後藤又兵衛も慎重論を唱えますが、血気盛んな長政はそれらの声を振りきり、2000の兵を率いて城井谷城に攻め込みます。しかし、案の定、官兵衛の懸念は的中し、天然の要塞である城井谷城を攻めあぐねた長政は、いたずらに兵を失っただけの大失態を演じてしまいます。勇猛果敢で知られる長政ですが、このあたりのエピソードからは、まだまだ青さばかりが目立ちますね。

 闇雲に攻め入るだけでは落とせないと悟った黒田軍は、官兵衛の帰国後、兵糧攻めを開始。それと平行して宇都宮氏に与する周辺豪族を徐々に撃破していき、宇都宮軍を孤立無援に追い込んでいきます。さらに、黒田軍が毛利氏小早川氏の援軍を得ると、さすがの鎮房も観念し、小早川氏の仲裁の元に和議を結びます。その条件は、鎮房の息子・宇都宮朝房と、娘の鶴姫を人質に出すというものでした。一説には、鶴姫を長政の側室に差し出したという説もありますが、『黒田家譜』ではそれを虚説だとしており、真偽は定かではありません。

 ようやく豊前を落ち着かせた官兵衛は、天正16年(1588年)正月、居城を馬ヶ岳城から中津城へと移します。しかし、人質こそ出したものの、相変わらず城井谷城に居座ったまま黒田家のもとに出仕しようとしない鎮房との間には、依然として緊張感が張り詰めていました。やはり、新しい領主と元の領主が同じ領内で共存共栄するというのは、無理があったのでしょうね。

 春、豊臣秀吉より再び肥後行きを命じられた官兵衛は、鎮房の動向が気になりながらも中津城を離れます。このとき官兵衛は、鎮房より人質として預かった朝房を同行させます。そして、長政にくれぐれも鎮房のこと油断なきよう申し付けたとか。前回鎮房が挙兵したのも官兵衛不在のときでしたから、当然の警戒だったといえるでしょう。そして、案の定今回も官兵衛不在中に事が起こり、結果的に鎮房は、長政によって謀殺されてしまうんですね。

 鎮房謀殺の流れについて『黒田家譜』には、以下のように記されています。これまで城井谷城から動こうとしなかった鎮房が、官兵衛が不在と見るや200の兵を率いて中津城に押しかけ、一礼のためとして長政に謁見を求めてきます。これを受けた長政は、「まことに一礼のためならば、官兵衛・長政父子がそろっているときに、日限を伺って小勢でくるべきであり、案内もなくにわかに押し掛けるなど、無礼の極みである!もし、謁見に至ってなおも無礼をはたらくようであれば、即座に誅殺すべし!」と、家臣たちに命じたとか。そして、謁見した鎮房は、やはり無礼な態度であったため、酒席に乗じて誅殺した・・・と。あくまで鎮房の無礼による討伐だったとの記述です。

 しかし、黒田家主観で記された『黒田家譜』の記述が、どこまで信用できるかは疑問ですよね。作家・池田平太郎氏の著書『黒田家三代』では、鎮房は「傲然と押しかけてきた」のではなく、「おびき寄せられて殺された」のではなかったか、と説いています。ドラマも、その解釈で描かれていましたね。たしかに、そのほうが無理がないように思えます。

 ドラマでは、鎮房謀殺は長政の独断だったように描かれていましたが、肥後に向かう前に官兵衛が命じていたとする説もあります。そのあたりの経緯は、すべて想像するしかありませんが、おびき寄せて殺したという説が正しければ、タイミングを見て事にあたるよう、あらかじめ官兵衛が長政に示唆していたと考ても無理はないですよね。ネタバレになりますが、鎮房謀殺の知らせを聞いた官兵衛は、ただちにその子・朝房の命を奪います。はじめからそれを見据えて肥後に連れていっていたのかもしれません。

 鎮房を討ち取った長政は、その後、合元寺に待機していた200の兵を一人残らず討ち取り、さらに、残党が残る城井谷城へと兵を進め、鎮房の父を殺害し、残った兵を捕縛してにするなど、残酷な刑に処します。おそらくこのあたりはドラマでは描かれないところですが、官兵衛も長政も、九州攻めから豊前平定に至るまで、各地で抵抗勢力に残酷な刑を科しています。これらがすべて秀吉の命令だったかどうかはわかりませんが、新参者が新天地を支配するには、そういった力技もなければ不可能なことで、あまり殺生を好まなかったと言われる官兵衛とて、例外ではなかったということでしょうね。こうした試練を経て、官兵衛は九州に根を下ろしていきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-16 21:40 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(0)  

軍師官兵衛 第31話「天下人への道」 ~賤ヶ岳の戦いの官兵衛の逸話~

 清州会議柴田勝家とお市の方の婚儀織田信長の葬儀賤ヶ岳の戦い越前北ノ庄城の戦いと、超足早に描かれた本話でしたが、この間、およそ1年近くの時が流れています。これまでの戦国ものの大河作品であれば、3~4話ほどに分けて描かれていた重要なポイントですが、本作ではわずか1話の、それも半分ほどしか使っていませんでしたね。まあ、この辺りの流れのなかには、主役である黒田官兵衛の活躍があまり見えませんから、とくに詳細に描く必要性がないとの判断だったのかもしれませんが、だったら、「天下人への道」というサブタイトルにしなけりゃよかったのになあ・・と。

 で、せっかくなので、ドラマで描かれなかった賤ヶ岳の戦いでの官兵衛のエピソードを紹介します。羽柴秀吉と柴田勝家とが対峙したこの戦い。ドラマでは、あっという間に秀吉軍の勝利で終わった賤ヶ岳の戦いですが、実際には、柴田軍もかなり奮闘し、一時は秀吉軍を劣勢に追い込むほどの猛攻を見せます。さすがは、織田家筆頭家老にして猛将として名高い勝家、明智軍のように簡単にはいきません。

 そんな激戦のなか、柴田軍に圧倒されて弱気になった官兵衛は、戦線に立っている嫡男・黒田長政の安否を気にかけます。長政は自身の武勇に自信過剰なところがあり、無謀に突進して自滅するのではないか・・・そう案じた官兵衛は、家臣の栗山善助を呼びつけ、長政を安全な場所まで逃すよう命じたといいます。子を思う親心とはいえ、戦場の指揮官としてはあるまじきこと。命令を受けた善助は耳を疑いますが、もう一度聞き返しても、官兵衛は引かずに強く命令するため、やむを得ず善助は、長政に理由を告げずに後に従え、馬を駈け出して戦線を退きます。

 ところが、しばらく馬を走らせたところで不審に思った長政は、「もしや逃げるのか?」と善助を問いただします。問い詰められた善助は事情を説明しますが、それを聞いた長政は、「父上がそんな命令をするはずがない。敵に背を向けるなというのが父上の教え。善助の聞き間違いだ!」といい、すぐさま戦線に引き返したといいます。その姿を見た善助は、さすがは黒田家の嫡男だと感涙し、また、これまで見せたことがない官兵衛の意外人間らしい一面に、のちにこの話を聞いた秀吉も笑みを浮かべたといいます。

 この逸話が事実かどうかはわかりませんが、実話だとすれば、いつも沈着冷静公私混同などしないイメージの官兵衛には珍しいエピソードですよね。また、勇猛果敢な長政の人となりもよく出た話だと思います。このとき、秀吉は岐阜城の織田信孝の挙兵に対処するため、一部の兵を率いて岐阜に出撃していました。その機をついて猛攻を仕掛けてきた柴田軍によって、中川清秀が討ち死にし、黒田軍の守る砦が最前線に立たされていました。そんな戦況下で、あるいは官兵衛は討ち死にを覚悟したのかもしれませんね。とすれば、黒田家の家名を残すために嫡男の長政を戦線離脱させるという選択は、当然のことだったのかもしれません。単なる親心というわけではなかったのでしょう。

 そんな長政と、蜂須賀小六の娘・との縁談がまとまりましたね。ドラマのとおり、糸を一旦秀吉の養女に迎え入れての縁談だったようです。黒田家と蜂須賀家は、こののち秀吉が天下人となっていく上で両翼を担うべき両家で、その結束を深める上でも大きな意味を持つ縁談でした。しかし、あくまで糸は長政の「最初の妻」なんですね。その辺りは、今後の物語に譲ることにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2014-08-04 23:27 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)  

軍師官兵衛 第26話「長政初陣」 ~黒田長政の初陣と恵林寺焼き討ち~

 天正9年(1581年)ごろに元服した松寿丸は、名を黒田長政と改めます。長政の「長」は、おそらく織田信長から偏諱をもらい受けたものでしょう(同時代、織田傘下に長政という名が多く存在しますが、おそらく、どれも信長から賜ったものだったと考えらます)。主君より偏諱を賜るということはたいへん名誉なことだったでしょうが、かつては信長に殺されかけた長政。その偏諱を名のるというのは、なんとも複雑な思いだったかもしれません。

この時期、黒田官兵衛が従う羽柴秀吉軍は、いよいよ毛利軍の本陣に迫るべく、備前備中征伐を開始していました。おそらく、長政の初陣はその一連の戦いであったと考えらます。ドラマでは、まず参陣したのは備前国児島の戦いという設定でしたね。しかし、ここでは長政の出番はありませんでした。この戦いの概要につては詳しくは知りませんが、秀吉の養子となった織田信長の四男・羽柴秀勝の初陣だったようですね。すでに備前国は、宇喜多家をはじめほぼ秀吉の傘下に入っており、ドラマでも言われていたように、秀勝の初勝利がお膳立てされた舞台だったのかもしれません。

 はれて長政の初陣となっていたのは冠山城の戦いで、備中境目七城といわれる備前備中の国境にあった小城攻めのひとつです。備中高松城攻めの前哨戦であるこの戦いで、ドラマの長政はみごとに兜首をあげていました(史実かどうかは知りません)。長政の初陣について『黒田家譜』には、

 「三月十五日、秀吉毛利家の城々を責めんため、播磨但馬因幡の兵を率して姫路を發騎し、備前の浮田秀家の兵を先手として、備中国へ打越、先巣雲塚の城を攻給ふ。此時長政初陣にて、みづから敵を討取、高名せらる」

 と記されています。ここにある「巣雲塚の城」というのが冠山城のことなのかはわかりませんが、自ら敵を討ち取って功名をあげたと書かれていますね。それが兜首だったかどうかは別として、何らかの功名をあげたのは事実かもしれません。しかし、そんな長政を官兵衛は叱責します。

 「おまえは猪か。おまえの戦いぶりは猪武者のそれだ。お前はいずれ黒田家を継ぎ、大将となる身。それが猪のごとく突っ走ってどうする? 考えて動け!」

 大将たるものいたずらに命を危険に晒すものではない・・・と。実際に長政は、よく言えば勇猛果敢、悪く言えば猪突猛進な武将だったようで、この後もたびたび官兵衛から叱責され、重臣からも諌められます。智将・官兵衛の子とは思えない猛将ぶりの長政ですが、結果的に長政は、父とは違うキャラで戦国の世を渡り歩き、黒田家を筑前52万石という大大名に導くんですね。父が偉大すぎただけで、決して凡庸な人ではありませんでした。

 同じ頃、織田軍は甲州征伐で武田勝頼軍を攻め滅ぼしますが、武田家に与していた六角次郎恵林寺に逃げ込みます。織田方はその身柄の引き渡しを寺側に要求しますが、快川紹喜ら僧侶たちは、これを拒否します。怒った信長は、恵林寺の焼き討ちを命令。寺内の僧侶たち150余人を建物内に押し込み、寺院もろとも焼き殺しました。なんとも無残な仕打ちですね。このとき、閉じ込められた多くの僧侶が狼狽え、もがき苦しむなか、ひとり快川紹喜は狼狽えることなく鎮座し、

 「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」

 という遺偈(ゆいげ)を残して炎に包まれたと伝えられます。さすがは、朝廷より国師号を賜った高僧ですね。みごとな最後です。

 この快川紹喜は、武田信玄の招きによって恵林寺の僧侶となったそうですが、もとは美濃国土岐氏の出身だとも言われます。土岐氏といえば、明智光秀もその一族だといいますから、あるいは、ドラマのとおり快川紹喜と光秀は旧知の仲だったかもしれません。一説には、この出来事が本能寺の変の引き金になったとも言われます。じゅうぶんに考えられる話ですよね。本能寺の変が起こったのは、この2ヶ月後のことでした。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-30 22:25 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

軍師官兵衛 第21話「松寿丸の命」 ~竹中半兵衛の正義~

 荒木村重を説得するために有岡城に入ったまま戻らない黒田官兵衛に対して、織田信長はやがて強い不信感を抱き始めます。つまり、官兵衛は村重に味方したんじゃないかという疑念ですね。ドラマでは、思いのほか守りが堅い有岡城の戦いぶりを見て、信長は村重の影に官兵衛の存在を確信したという設定になっていましたが、あるいは本当にそうだったかもしれません。ミイラ取りがミイラになったと決めつけた信長は、羽柴秀吉のもとに人質となっている官兵衛の嫡男・松寿丸首をはねるよう命じます。この命令を受けたのが、秀吉の側近中の側近で、官兵衛とも誼のある竹中半兵衛だったといいます。

 半兵衛は信長に対して、官兵衛は忠義者であるがゆえ、決して敵に翻すことなどあり得ない、村重に与する理由がないと忠言し、また、ここで黒田家を敵にまわせば、中国攻めがうまく進まないとも述べます。それらを勘案すれば、松寿丸を殺すのは得策ではないと懸命に進言しますが、信長の怒りは収まりませんでした。

 力及ばずと悟った半兵衛は、一計を案じます。松寿丸を自身の領地である美濃国不破郡岩手の奥堤に連れ出し、密かに匿ったのです。そして、信長のもとには偽の首を秀吉に進呈させ、命令どおり処刑が行われたと見せかけます。下手をすれば半兵衛の立場が危うくなりかねない行為ですが、この半兵衛の機転によって、松寿丸の首はこの後50年近く繋がることになります。

 自身の危険を顧みないこの半兵衛の行いに、後世の物語などは、半兵衛と官兵衛との間に強い信頼関係と厚い友情があったと伝えます。しかし、裏切り、寝返りが当たり前のこの時代において、本当にそんな心通じ合う関係があったのかは甚だ疑問です。おそらく、松寿丸処刑の命を聞いた誰もが、「そこまでしなくとも」と思ったに違いありません。しかし、皆自身の身を守ることで精一杯で、信長の命に背くなど誰にも出来なかったことでしょう。松寿丸を助けたとて、自身にとって何の得にもならない。そんななか、身の危険を覚悟の上で信長の命に背いた半兵衛の姿に、彼の守るべき信念、価値観を見て取ることができる気がします。

 竹中半兵衛という人を知るに、美濃国斎藤家仕官時代の稲葉山城乗っ取り事件が不可欠ですが(参照:第3話)、あのエピソードから見ても、半兵衛という人は地位名声欲にはおよそ無頓着であることが見て取れますし、自身の正しいと思うことに命をかけられる人物であることがわかります。彼は何よりも義を重んじた・・・。半兵衛にとって、このときの信長の命には義を感じられず、一時の感情に任せた愚行であり、どうしても従う気にはなれなかった・・・。彼は、自身のなかの正義を守るために、松寿丸を助けたんじゃないかと思うんですね。自身の命がそう長くないことを悟っていたせいもあるかもしれません。彼は自身の人生最後に、自身の信念を曲げたくはなかった・・・。松寿丸を助けることによって、自身の人生を完成させたといっていいかもしれません。決して、官兵衛との友情といったような、単純なものではなかったんじゃないかとわたしは思います。

 それにしても、このときの信長の判断は明らかに早計ですよね。ネタバレになりますが、事実、のちに官兵衛が囚われの身であったことを知った信長は、松寿丸の処刑を命じたことを大いに悔み、半兵衛の機転によって処刑が行われなかったことを知って、深く半兵衛に感謝します。しかし、そのとき既に半兵衛は、この世にいませんでした。

 半兵衛は決して黒田家に恩を着せるつもりはなかったでしょうが、後年、福岡藩主となった松寿丸こと黒田長政は、このときの恩を決して忘れることなく、半兵衛の孫にあたる竹中重次を召し抱え、手厚く庇護しています。恩というものは、与えるものでも着せるものでもなく、受けた側が感じるものなんですね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-05-30 21:02 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(4)