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鳥越城の支城・二曲城攻城記 その1 <登山口~三の郭~二の郭>

能登七尾城跡からの帰路、石川県白山市にある鳥越城跡に立ち寄ろうと思い立って高速を降り、30分近く車を走らせて道の駅「一向一揆の里」にたどり着いたのですが、そこで、20234月時点、鳥越城が入山禁止になっていたことを知って愕然!

202284日の大雨によって土砂崩れが起き、閉鎖中とのことでした。

ちゃんと調べてこないと、こういうことになるんですね。


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道の駅にあった新聞の切り抜き。


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目の前に鳥越城があるというのに登れない。

さすが難攻不落の山城です。


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で、どうしようかと思っていたところ、道の駅の人が、鳥越城の南向かい側に支城の二曲城があるよ、と。

標高267m、比高100ほどで登山道も整備されているのでサクッと登れそうだったので、せっかくここまで来たし、とりあえず行ってみることに。


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登山口です。


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登山口横に設置されていた説明板。

縄張り図も用意していなかったので、この案内図が頼りです。


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その横には、「加賀一向一揆 山ノ内門徒宗之霊」と刻まれた慰霊碑があります。

そう、ここ二曲城は、鳥越城と共に加賀一向一揆の拠点となった城で、山ノ内門徒宗というのは、加賀国白山麓の門徒組織のひとつで、その山内衆のリーダーが、鳥越城主となった鈴木出羽守重泰でした。

出羽守は加賀に侵攻してきた織田方との戦いのなかで謀殺され、のちに抵抗をつづけた山内衆数百人も、織田信長の命によってこの地で磔刑に処せられます。


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登山開始。


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分岐を右に曲がって尾根筋を南に進むと、堀切が現れます

薄くて写真では見づらいですが、一応、掘り切ってます。


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そして、その上に登ると、「三の郭」と刻まれた石名盤が。


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三の郭の南側には、二の郭との間の堀切と、そこから落ちる竪堀があります。


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竪堀を上から。


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そして、竪堀を降りて下から。


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そして、二の郭への虎口

右に曲がらされる喰い違い虎口です。

内枡形虎口とも言えるかな?


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二の郭です。


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周囲は土塁で囲われています。

おそらく、往時はもっと高かったのでしょう。


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「掘立柱建物跡」と刻まれた石名盤と、その周囲に掘立柱の復元?がありました。

発掘調査によってその痕跡が見つかったそうです。


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南側から見た二の郭

二の郭まで制覇したところで、「その2」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2024-10-15 16:08 | 石川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

能登七尾城攻城記 その6 <沓掛~寺屋敷跡~調度丸虎口>

「その5」のつづきです。

七尾城安寧寺跡からさらに北へ向かいます。


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七尾城北側の袴腰沓掛との間の堀切

沓掛場は登城のための衣装を調えたと言われる場所です。


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これがその沓掛場

ただの草むらですね(苦笑)。


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沓掛場からの眺望。

七尾湾が見えます。


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「とよの水」と書かれた誘導板がありました。

城内の水源で、枯れたことがないとのこと。


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たしかに、まあ、水はありましたが、微妙。。。

今にも枯れそうでしたが(苦笑)。


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ここからまた南東に向かいます。


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看板には、寺屋敷跡とあります。

説明板によると、代々墓守を兼ねた僧兵が居住していたとのこと。

行ってみましょう。


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寺屋敷跡です。

侍屋敷跡と書かれた資料もあります。

まあ、どっちでもいいですが、要は兵の居住空間だったのかな。


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真ん中にプリンのような盛土があります。


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何だろう?

土塁? 古墳? 塚?


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面積は三ノ丸の次に広い空間です。


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さて、さらに南へ進むと、「その1」で見た調度丸に戻ってくるはず。


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段々の石垣が見えてきました。


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横を見ると、こっちにも段々がありますね。

桜馬場の下の段石垣が有名ですが、往時は総石垣の城だったのかもしれません。


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調度丸北側の虎口が見えてきました。

「その1」では駐車場から行ったのでここを通らずに調度丸に行きましたが、麓から登ると、この虎口を通ることになっていたようですね。


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虎口です。


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右へ曲がらされて左側から横矢で狙われています。


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そしてその虎口の正面には、桜馬場段石垣がどーん!


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戻ってきました。

「その1」で見たときとは日の当たり方が違っていて、また違って見えますね。


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前稿で七尾城の戦いを詳しくやりましたが、七尾城にはその後、上杉氏の家臣である鰺坂長実城代として入ります。

しかし、畠山氏を裏切って上杉氏に寝返っていた遊佐続光が、今度は上杉氏を裏切って長実を追放し、七尾城を占拠しました。

しかし、その2年後には織田信長の侵攻によって能登は征服され、遊佐続光降伏するも信長は許さずに処刑した話は前稿でもしましたね。


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その後、能登は前田利家に与えられますが、利家は七尾城から小丸山城、さらに金沢城へ移ったため、天正17年には七尾城は役目を終え、廃城となります。


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最後に、駐車場横にあった二代畠山義忠公御歌の碑


「野も山も みなうづもるる 雪の中に しるしばかりの 杉の村立」


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# by sakanoueno-kumo | 2024-10-11 02:45 | 石川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

能登七尾城攻城記 その5 <安寧寺跡>

「その4」のつづきです。

七尾城三ノ丸から高い切岸を降りて、北西の安寧寺跡に向かいます。


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安寧寺跡です。

その名のとおり、ここにかつて安寧寺という寺院がありました。

安寧寺がいつからここにあったかは不明のようですが、元禄時代頃に描かれた七尾城絵図「安寧寺」があることから、遅くとも江戸時代にはあったようです。

ここに、畠山氏の墓碑や、七尾城の戦いの戦死者の慰霊碑などがあります。


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武田信玄上杉謙信が対立していたとき、信玄が一向一揆と結んだことにより、謙信は一向一揆と敵対していました。

ところが、天正元年(1573年)に信玄が没したことと、足利義昭が仲介に入ったことにより、謙信は一向一揆と結び、共通の敵である織田信長と戦うことになります。

天正4年(1576年)5月、信長の軍勢が越前から加賀へ進み、能登にも手を伸ばし始めると、謙信は能登七尾城の制圧を急ぎます。

当時、七尾城当主はわずか4歳の畠山春王丸で、実権は家臣の長続連綱連父子、遊佐続光、温井景隆らが握っていました。


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9月、謙信は越中から能登に兵を進めました。

このとき、七尾城中の重臣たちに勧降工作を行いますが、長続連・綱連親信長派の意見が大勢を占め、謙信と対決する姿勢を打ち出します。

10月、謙信は七尾城への攻撃を開始。

しかし、七尾城は天険の要害だったため容易に落とすことはできず、謙信は周辺の支城から落とす作戦に切り換え、七尾城を孤立させます。

そして、上杉軍は城を包囲したまま年を越しましたが、春になって一度囲みを解き、兵を越中に戻しました。

ここまでを第一次七尾城の戦いといいます。


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謙信は奪った支城に兵を残していましたが、畠山軍はこのタイミングで奪われた支城を奪い返します。

支城を奪い返されたとの報せを受けた謙信は、再び七尾城に向けて出陣します。

第二次七尾城の戦いの始まりです。

しかし、やはり七尾城の守りは固く、謙信も攻めあぐねていました。

またまた第一次七尾城の戦いのときの二の舞になるところでしたが、こかし、ここで思いもよらぬ展開となります。

伝染病が流行し、城内の籠城兵の多くが感染して死んでしまい、さらに、5歳になった城主春王丸までもが感染して死んでしまいます。

籠城兵が戦意を喪失したことは想像に難しくありませんね。


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春王丸の死後、長綱連が城代という立場で、実質上は城主として全軍を指揮しました。

綱連は、ただ籠城しているだけでは展望は開けないと考え、謙信に敵対する勢力からの援軍を模索します。

この時期、謙信に敵対しているのは、北条氏政織田信長でした。

綱連は、遠い関東の北条よりも、加賀まで力を伸ばしてきている信長に協力を仰いだほうが現実的だと考えたのでしょう。

弟の連龍をひそかに信長の元に送り、援軍派遣を要請させます。


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戦いは綱連の奮戦によって再び長期化の様相を見せ始めました。

謙信も、力攻めでは落とせそうにないと考えるようになり、そこで目を付けたのが、城内にいる遊佐続光でした。

謙信は、遊佐続光が、同じ家老であるはずの長綱連が実権を握っていることに不満を抱いているのではないかと考えます。

この謙信の推測はビンゴでした。

謙信は遊佐続光と、もう一人の重臣である温井隆景に、七尾城方を裏切れば、畠山の旧領と長氏一族の土地を恩賞として与えるといった餌をぶら下げて内応工作を仕掛けます。

913日、遊佐続光、温井隆景から謙信のもとに内応承諾の返事が届いたとき、謙信が月を見ながら作った漢詩が「九月十三夜」だといいます。

「霜は軍営に満ちて 秋気清し 数行の過雁 月三更 越山併せ得たり 能州の景 遮莫 家郷の 遠征を懐うを」という七言絶句です。

もっとも、この漢詩、本当に謙信が詠んだものかどうかは定かではないようですが。


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915日、遊佐続光は、温井隆景、三宅長盛らと図り、長続連と二人の弟・連常、連盛を、月見の宴と偽って自身の屋敷に招待し、その宴席で殺害します。

それを知った連綱も、駆け付けようとしたところを待ち伏せしていた続光の兵によって討たれました。

このあと、長一族は続光らによってことごとく殺され、生き残ったのは、信長のもとに援軍要請に行っていた連龍と、もう一人、綱連の末子の菊末丸だけだったといいます。

菊末丸は乳母に抱えられて城を脱出し、無事、越中に逃れたとい言われています。


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遊佐続光らは、長氏一族を謀殺したあと七尾城を開城し、長かった七尾城の戦いは終わりました。

七尾城陥落の報せを受けた謙信は、すぐさま家臣の川田長親、鰺坂長実を送り、七尾城を受け取らせています。

一方、長連龍の要請を受けた信長は、後詰のため柴田勝家を総大将とする援軍を送り込んできていました。

もし、七尾城開城があと数日遅れていたら、謙信は苦戦を強いられるところだったでしょう。

間一髪でしたね。

918日に織田軍は手取川で上杉軍と戦い、23日、織田軍はさらに攻撃を仕掛けましたが、このときになって15日に七尾城が陥落していたことを知り、退却を始めた織田軍は追撃され、多大な犠牲者を出して逃げ帰ったといいます。

謙信が七尾城に入ったのは、その直後の926日のことでした。


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その後、しばらく能登は上杉勢力下でしたが、天正6年(1578年)3月に謙信が没すると、上杉家中で御館の乱というお家騒動が発生し、能登国内の反上杉勢力や飛騨経由で越中に攻めこんだ織田勢力に圧迫され、結局能登は信長の手に帰することになります。

上杉に降って能登の実権を完全に我が物にしていた遊佐続光は、息子の盛光と共に信長に降伏しましたが、信長は長一族を殺した罪を許さず、続光父子は処刑されます。

別の説では、降伏ではなく早々に七尾城を逃げ出して潜伏していたところを、長連龍に探し出されて一族皆殺しにされたという説もあります。

いずれにせよ、裏切ったり裏切られたり、権力をつかんだと思ったら引きずり降ろされたり、人の世はいつの時代も栄枯盛衰

禍福は糾える縄の如し・・・ですね。


七尾城の戦いだけでめっちゃ長くなっちゃいました。

今回は安寧寺跡だけで終わり。

「その6」につづきます。


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# by sakanoueno-kumo | 2024-10-07 13:57 | 石川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

能登七尾城攻城記 その4 <温井屋敷跡・二ノ丸・三ノ丸>

「その3」のつづきです。

七尾城本丸まで制覇したので、「その2」で見た再び遊佐屋敷跡桜馬場に戻って、さらに北側の城域を目指します。


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写真は桜馬場から北へ進んだ温井屋敷跡虎口にある石積み跡

看板には「九尺石」とあります。


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九尺というと、270cm

そんなにはなかった気がしますが、本丸や調度丸の石垣では見られなかった巨石が積まれていることは一目瞭然でした。

ここは温井屋敷跡の虎口であり、城域西側の門にあたることから、この巨石は鏡石のような役割だったのかもしれませんね。


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九尺石のある虎口は内枡形になっています。

桝形の外側が崩落していて引きの写真が撮れないのが残念。


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そして、虎口を入ったところの温井屋敷跡

桜馬場と二ノ丸の間にある曲輪で、その名称のとおり、城主畠山氏の重臣の温井氏の屋敷があったとされる場所です。

畠山氏の家臣団には「畠山八臣」と呼ばれる家柄があり、そのうち遊佐氏、神保氏、平氏、本田氏「畠山四臣」と呼び、また、温井氏、三宅氏、甲斐庄氏、伊丹氏「畠山四家」と呼びます。

主君を補佐して政治の実務にあたる「執事」という職は、この「畠山八臣」から選ばれました。


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ところが、8代畠山義続のとき、前当主畠山義総に寵愛された温井総貞と、義総に疎まれ抑圧されていた守護代嫡家の遊佐続光が台頭して双璧をなし、権力争いを展開します。

その結果能登国内は激しい内乱状態となりました。

これを、「能登天文の内乱」といい、この争いで七尾城の一部が焼失したそうです。

その混乱を解決すべく、新たに「畠山七人衆」と呼ばれる体制が生まれます。

これは、重臣たちの合議体制によって国政を運営するというもので、これによって重臣間(特に総貞と続光)の争いを収めることに成功したのですが、逆にそれが、畠山氏の支配力を形骸化していくことになります。


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温井屋敷跡から見た二ノ丸石垣

二段のセットバックになっていますね。

横のスロープは後世の整備っぽく感じましたけど、どうだろう?


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そのスロープを上がって上の二ノ丸を目指します。


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一段上の石垣。

きれいに残っていますね。


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二ノ丸跡です。


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本丸より少し面積は狭い感じかな?


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いちばん北側に説明看板があり・・・。


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その後ろ側に土塁というか、幅の広い土段があります。

ここに何か見張台のようなものがあったのかもしれませんね。

で、この土段の北側に、三ノ丸と二ノ丸を分断する大堀切があります。


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大堀切へ降りる階段が設置されていました。


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降りてきました。

大堀切です。


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40m、高さ26におよぶ、すんごい堀切。


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大きすぎて画角に入らない(苦笑)。


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三ノ丸へ向かいます。

これは虎口跡かな?



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三ノ丸です。


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広い!


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めちゃ広い!


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説明板によると、南北110m、東西25あるようです。


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地面に残る石列跡は、何か建物の痕跡でしょうか?

礎石とはちょっと違うような・・・。


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南側には、石が積まれた土塁があります。


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その南側をのぞき込むと、さっきの二ノ丸との間の大堀切が。

深い!


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さて、三ノ丸まで制覇しましたが、まだ城域はあります。

「その5」につづきます。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-09-30 17:38 | 石川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

能登七尾城攻城記 その3 <本丸>

「その2」のつづきです。

七尾城本丸に登ってきました。


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本丸には、「七尾城址」と刻まれた大きな石碑があります。

裏面を見ると、「昭和十七年仲秋」とありますから、9月から10月ごろに建てられた石碑のようですね。

真珠湾攻撃からまだ1年足らずですが、ミッドウェー海戦で大敗を喫した3か月後ぐらいですから、日本はまだこんな石碑を建てる余裕があったんですね。


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七尾城の正確な築城時期は不明ですが、初代畠山満慶時代の正長年間(142829年)頃と考えられています。

当初は小規模な砦にすぎなかったようですが、7代畠山義総の時代に戦国の城郭として縄張りが整備されたと考えられています。

義総が当主となる以前、能登畠山氏は次第に重臣たちに実権を奪われつつあったようですが、永正11年(1514年)の能登の内乱にともなって義総が下向すると、事態を収拾して能登畠山氏の戦国大名化に務めました。


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義総は幕府や朝廷に礼物を贈って官位を獲得するなど自らの権威を強化し、また、越後の長尾氏や越中の遊佐氏神保氏など実権を握る守護代たちと同盟を結び、領国の政情を安定させました。


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しかし、義総が死ぬと再び重臣たちが権力を握り、畠山氏の支配は形骸化していきます。

8代畠山義続の時代には重臣同士の対立から「能登天文の内乱」が起こり、七尾城の一部が焼失したそうです。

さらに、これを修築した9代畠山義綱は、重臣たちによって追放されました。

10畠山義慶11畠山義隆は相次いで死去したため、重臣による暗殺説も根強くあります。

最後の12春王丸はわずか2歳の幼君だったため、ほどなく上杉氏の能登侵攻により、ここ七尾城で10か月におよぶ攻防が繰り広げられるも、重臣遊佐続光裏切りによって、能登畠山氏は滅亡します。


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本丸は標高305の山頂にあり、広さは40×50とのことですが、きれいに整備されているからか、もっと広く感じましたね。

ここにかつては立派な建物があったのでしょう。


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本丸からの眺望。


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七尾市街七尾湾が一望できます。

能登島能登半島も見えますね。


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本丸南側には、一段高くなった場所があります。

資料によると天守台とありますが、天守があったとする史料は残っておらず、本当に天守台だったかどうかは定かではないようです。


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在、その天守台上には城山神社が鎮座しています。


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天守台に登っています。


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中央に小さな祠がありますね。


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そしてその天守台の周囲は、土塁で囲われています。


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立派な土塁!

こうして土塁で囲われているところを見ると、ここが重要な場所だったことはわかりますね。

天守か、あるいはそれに代わる重要な建造物がここにあったのでしょう。


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天守台から見下ろした本丸下段


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ちょうど石碑が真横からのアングルになっているので、ただの細い棒に見えますね。

薄っぺらい石碑でした。

戦時中に建てられた石碑だから予算の都合?笑


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天守台を降りて、本丸西側にも立派な土塁があります。


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高さ3ほどあるでしょうか?

かなり立派な土塁です。

この土塁の西側を降りていくと、「その2」で見た遊佐屋敷跡の曲輪があります。


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土塁の横に虎口跡があります。

ここから佐屋敷跡に降りていけるようです。


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外側から見た虎口


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横から見た土塁

高い!


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土塁の外側をよく見ると、雑草が伸びていてわかりづらいですが、石垣が積まれていました。

本丸と遊佐屋敷跡の間も、かなり強固なセキュリティで固めていますね。


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虎口の外は、外枡形になっています。


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さて、本丸まで制覇しました。

次は二ノ丸、三ノ丸方面に向かいます。

「その4」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2024-09-21 18:17 | 石川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)