幕末京都逍遥 その78 「尊攘堂」

前稿と同じく京都大学キャンパス内に、「尊攘堂」という名称の洋館があります。

ここは、元長州藩士で子爵となった品川弥二郎が、師の吉田松陰遺志を継いで建造したものに由来します。


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「尊攘」とは、言うまでもなく「尊皇攘夷」のことですね。

吉田松陰は生前、京都に尊攘堂を建てて勤王の志士を祀り、人々の心を奮い立たせようという志を抱いていましたが、それを果たせずに刑死します。

松蔭は死を前にして、その志を門人の入江九一に託しますが、その入江も、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で落命し、松蔭の遺志は遂げられませんでした。


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入江と共に松下村塾の門下生だった品川は、後年、この話を知り、師の遺志を果たそうと決意。

明治20年(1887年)にドイツから帰国すると、高倉通錦小路に尊攘堂を建造し、勤王志士の霊を祀り、志士の殉難の史料、遺墨、遺品などを収集し、祭儀を営み、一般の参拝を許し、収蔵品を観覧させました。

これが、初代の尊攘堂でした。


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品川の死後、明治34年(1901年)に所蔵品は京都帝国大学に寄贈され、明治36年(1903年)、大学構内に二代目の尊攘堂が新築されます。

それが、この尊攘堂です。


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平成10年(1998年)に国の登録有形文化財として登録されています。


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この石碑は、昭和15年(1940年)10月に皇紀2600年を記念して建てられ、 第二次世界大戦が終わった昭和20年(1945年)8月21日に一度撤去されたそうです。

その後、ながらく所在が不明となっていたそうですが、平成25年(2013年)3月1日、構内で遺跡の立合調査を行った際、樹木の根元に放置された状況で置かれているこの石碑が偶然発見されたそうです。


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石碑は、正面に「尊攘堂」、側面には「皇紀二千六百年記念」と刻まれ、反対側の側面にはこの建物の由来が刻まれています。

平成26年(2014年)12月、元あった場所に近い位置に設置されたそうです。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-06-20 23:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第23話「寺田屋騒動」 その2 ~薩摩藩士同士討ち事件~

 昨日(その1)の続きです。


 捕縛された西郷吉之助(隆盛)村田新八が鹿児島に護送された約2周間後の文久2年4月23日(1862年5月21日)、京のまちを震撼させる大事件が起きます。後世に「寺田屋事件」あるいは「寺田屋騒動」と呼ばれる薩摩藩士の同士討ち事件。幕末史を語る上で必須とされる大事件です。


e0158128_11283315.jpg 事件の1週間前の4月16日、薩摩藩の国父・島津久光1000人の家臣を率いて上洛します。その目的は、朝廷、幕府、雄藩の政治的提携を企図する幕政改革、いわゆる公武合体の実現のためで、これは、亡き兄・島津斉彬の遺志でもありました。しかし、斉彬の生前の頃とは違って、桜田門外の変以後、世論は「倒幕」「佐幕」かの時代に突入しており、久光の上洛は、倒幕派の志士たちを大いに刺激することとなります。久光の上洛は日本中の尊攘派志士たちの希望の光でした。


薩摩藩内の尊王攘夷派グループ精忠組のメンバーで、過激派として知られていた有馬新七もそのひとりでした。有馬は、藩主の「諭告書」が出されたのを受けて脱藩突出策を中止した大久保一蔵(利通)らに対し、かねてから不満を募らせていました。つまり、突出策を捨てきれないでいたんですね。有馬は久光に従って京に入りましたが、水面下で諸藩の過激派志士と結び、久光の上洛を背景に京にて武力蜂起し、一気に倒幕勢力を形成しようと目論んでいました。


ところが、倒幕の意思などまったくない久光は、朝廷との面会で浪士鎮圧の命を受けます。もともと秩序を重んじる保守的な久光は、かねてから過激派の行動を苦々しく思っていました。久光は有馬たち過激派志士の行動を「暴発」として抑え込もうとします。この展開に驚愕した有馬たち過激派は、憂国の念から憤激し、幕府と協調路線をとる関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を襲撃し、そのを久光に奉じることで、否が応でも久光を倒幕へ向かわせようと画策します。4月22日、久留米藩の真木和泉と密談した有馬は、23日に計画を実行することで合意。そして当日、薩摩藩の定宿だったここ寺田屋に集まることで決まります。


e0158128_20170202.jpge0158128_20165813.jpgこの情報をキャッチした久光は、精忠組のメンバーである奈良原喜八郎(繁)、大山格之助(綱良)ら剣に覚えがある鎮撫使9名を選び、「場合によっては切り捨てても構わぬ」と言い含めて寺田屋に派遣しました。寺田屋に着いた奈良原たちは、当初はで有馬たちと面会して説得にあたりましたが、やがて、双方激高して激しい斬り合いに発展します。有馬は剣の達人だったといいますが、狭い室内での斬り合いだったため刀が折れてしまい、鎮撫使の道島五郎兵衛に掴みかかって壁に押さえつけ、近くにいた仲間の橋口吉之丞「我がごと刺せ」と命じ、背中から刀で貫かれて相手共々絶命しました。その後、2階にいた志士たちも降りてきて加勢しようとしますが、これを見た奈良原は刀を投げ捨てて両手を広げてこれに立ち塞がり、「待ってくれ、君命だ、同志討ちしたところで仕方がない」と懸命に訴え、ようやく騒動は沈静化します。このとき説得に応じて投降したメンバーの中には、西郷信吾(従道)、大山弥助(巌)、篠原冬一郎(国幹)らがいました。いずれも帰藩のうえ謹慎を命じられています。


この戦闘で寺田屋にいた6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負い(のちにこの2名も切腹)、鎮撫士側は、有馬と共に橋口に突き刺された道島五郎兵衛のみが死亡しました。この悲劇によって、久光は朝廷より大きな信頼を得ることになったわけですから、なんとも皮肉な話ですね。


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# by sakanoueno-kumo | 2018-06-19 00:10 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第23話「寺田屋騒動」 その1 ~大久保の刺し違えんとするエピソード~

e0158128_15131310.jpg 島津久光の東上に先立って鹿児島を発った西郷吉之助(隆盛)村田新八でしたが、下関で福岡脱藩浪士の平野國臣らから上方で尊王攘夷派の挙兵計画があることを聞き、その中に薩摩藩士が含まれていることを知ると、西郷は彼らを鎮めるために矢も盾もたまらず下関を発って上方へ向かいます。しかし、西郷は鹿児島を発つ際、久光より下関で待機せよとの指示を受けていました。したがって、西郷のこの無断上坂は君命を無視した行為でした。これを知った久光は当然の如く激怒。鹿児島での会見の際の「地ゴロ」発言の遺恨も相まってか、久光は西郷に切腹の沙汰を口にしたといいます。


 この西郷の独断専行について、西郷自身が文久2年(1862年)7月に奄美大島在住の木場伝内に宛てた書簡のなかで、久光の上洛に期待して京阪に集まった攘夷派の浪士たちは、皆、自分(西郷)を当てにして死を覚悟した志士たちなので、「死地に入らず候わでは、死地の兵を救う事出来申す間敷」と判断しての行動だったと説明しています。つまり、自分が現地に入って直接説得しなければ事態を収拾できない、と。西郷らしい行動といえますが、しかし、この判断は、裏を返せば久光には事態の収拾はできないと言っているようなものであり、久光を軽んじた行為だと思われても仕方がなかったでしょう。事実、西郷は久光のことを軽んじていました。久光の激怒は当然だったといえます。


e0158128_11283315.jpg 怒る久光に許しを得て東上した大久保一蔵(利通)は、伏見で西郷と会います。ここで二人の間でどのような話があったかは史料がなくわかりませんが、大久保が報告のために久光の元に戻ると、先に堀次郎(伊地知貞馨)有村俊斎(海江田信義)が西郷についての情報を久光の耳に入れていました。その内容は、堀曰く、長州藩の長井雅楽という大奸物と腹を合わせていると西郷から激しく面詰されたといい、有村は、西郷が平野國臣とともに戦死しようと話し合っていると報告していました。この報告は、久光の怒りに拍車をかけます。


 もはやどんなに力を尽くしても久光の怒りを解くのは不可能だと判断した大久保は、ちょうど自分が泊まっていた明石の旅館に西郷が現れると、西郷を人気のない浜辺に連れ出し、「ここで刺し違えて死のう」と言ったといいます。しかし、これを西郷は拒否します。曰く、「自分はどのような処罰を受けようともかまわないが、ふたりとも死んでしまっては、先君(島津斉彬)の遺志を継承する者がいなくなる。だから、決して自殺などしない」というものでした。こう諭された大久保は、自分もこの逆境を耐え忍ぶことを決意したといいます。


e0158128_17375658.jpgドラマとは少しシチュエーションが違いますが、大久保が西郷に刺し違えようと迫った話は有名ですね。この話は、この翌々日に大久保自身が大坂で本田親雄に語った秘事で、後年、大久保の死後に本田が明らかにして有名になったエピソードです。もっとも、大久保が刺し違えて死のうと言ったのは、西郷に甘んじて罪を受けさせるために打った芝居だったのではないかと見る歴史家もいます。その理由は、大久保がその日の日記に「(西郷が)従容として許諾、拙子も既に決断を申し入れ候、何分右通りにて安心いて此上なし」と記していることを指摘し、本気で死のうとしていた人間が、その直後に「安心」などと書けるだろうか、芝居だったからこそ本音がでたのではないか、との解釈です。


 たしかに、後年の大久保の性質から見て、すぐに「死」を口にする西郷と違い、「絶望」という言葉を知らないかの如く、どんなに窮しても、一縷の望みを探して努力してやまない男が大久保です。簡単に「死のう」なんて言葉を口にする人物ではないんですね。そう考えれば、大久保の「刺し違えて死のう」は、あるいは芝居だったかもしれませんが、でも、大久保とて若き日は感情に任せて勢いで行動したこともあったでしょうし、冷静沈着なイメージの大久保ですが、決して情に薄い人物ではありません。西郷を大島から呼び戻したのは大久保だったわけで、その責任を感じて口から出た本音だったのではないでしょうか。


 結局、西郷は死一等を減じられて遠島処分となります。久光の本心で言えば死罪を申し付けたかったのでしょうが、あるいは、ドラマのように周囲の助命嘆願があったのかもしれませんね。もっとも、久光の胸の内では、この遠島は一生鹿児島に帰ることのない終身刑のつもりだったようです。そうなっていれば、歴史はまた違ったものになったでしょうね。


 ちなみに、ドラマでは久光に報告したことが誤解を招いて怒りを買ったことを詫にきた有村に対し、寛大に受け止めていた西郷でしたが、実際には、久光の激怒を招いたのは有村や堀の「讒口」、つまり、西郷を陥れるための虚言によるものだと受け止め、以後、西郷は彼らを恨み続けます。ドラマでの西郷、ちょっといい人すぎますね。


 寺田屋事件の話にいくまでに長くなっちゃいました。つづきは明晩、「その2」の稿にて。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-06-18 01:22 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その77 「陸援隊屯所跡」

中岡慎太郎が組織した陸援隊屯所があったとされる場所にやってきました。

現在その場所は京都大学の農学部や理学部がある北部構内の敷地になっています。

先日、京都大学の学生が交差点でこたつに座って逮捕されるという意味不明な事件がありましたが、あのすぐ近くです。


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残念ながら石碑などは建てられていません。

写真は大学の校門周りの風景で、当時を偲ぶようなものは何も残っていません。


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陸援隊は中岡の同志・坂本龍馬が組織した海援隊に呼応するかたちで発足し、中岡を隊長として総員70人ほどだったといいます。

ただ、龍馬の海援隊は海軍という顔と商社という側面を持っていたのに対し、中岡の陸援隊は、あくまで討幕を見据えた軍隊でした。

なので、海援隊のように団体としての収入があったわけではありません。

元々この場所は、河原町の土佐藩邸手狭になったために第二藩邸として建てられた場所で、慶応3年(1867年)6月、ここに陸援隊を駐屯させ、いざというときの遊軍として備えました。

食事は河原町の土佐藩邸から支給されていたそうです。

でも、河原町の藩邸からは4kmほど距離があります。

いざというときの部隊としては、いささか離れすぎだったんじゃないでしょうか。

龍馬と中岡が近江屋で襲撃されたとき、第一発見者の峯吉は、ここまで裸馬に乗って報せにきたといいますが、近くに土佐藩邸があったのに、なぜ、こんな遠くまで来なければならなかったのかがわかりません。


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キャンパスの一角にある地蔵堂です。

これは、大正10年ごろにここに大学の地質学教室を建てる工事中、地中から、高さ30cmぐらいの石地蔵50体以上も掘り出されたそうで、その後、ここに祀られたそうです。

陸援隊の屯所だったときは、地中に眠っていた地蔵ということですね。


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中岡の死後、陸援隊は田中光顕、谷干城らが指導し、官軍挙兵後は高野山で紀州藩兵を牽制するなどの働きをしますが、明治維新後は御親兵に吸収されました。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-06-17 01:07 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その76 「梁川星巌邸跡」

前稿で紹介した吉田屋跡から鴨川を挟んで東側に、かつて梁川星巌の屋敷がありました。

現在、その場所には「梁川星巌邸跡」と刻まれた石碑が建ちます。


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美濃国安八郡曽根村の郷士の家に生まれた星厳は、幕末を代表する漢詩人として知られ、晩年は尊攘派志士たちの精神的支柱となった人物です。


 今來古往蹟茫茫

 石馬無聲抔土荒

 春入櫻花滿山白

 南朝天子御魂香


上の漢詩は南朝の史跡を懐古して詠んだという有名な「芳野懐古」です。

星巌はこの漢詩で勤王詩人としてのイメージを確立しました。


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時の幕府大老・井伊直弼「安政の大獄」が始まると、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内大学と共に悪謀四天王のひとりとされ、現代で言うところの指名手配容疑者となりますが、大量逮捕開始の3日前、当時猛威をふるっていたコレラに感染して急逝します。

コレラに感染していなくとも、逮捕されて処刑されていたであろうことを思えば、星厳にとってはどちらが良かったでしょうね。

星巖の死に様は、詩人であることにちなんで、「死に(詩に)上手」と評されたそうです。

さぶとん1枚!(笑)


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現在、石碑が建つ場所は有料駐車場となっています。

15分100円、1日最大1300円、観光地の京都の駐車場としては、良心的な価格ですね。

さすがは勤王の志士です・・・って、関係ないか(笑)。

ざぶとん没収ですね(笑)。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-06-16 11:40 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その75 「吉田屋跡(立命館草創の地)」

かつて「三本木」という花街にあった料亭「吉田屋」跡を訪れました。

幕末、吉田屋は尊攘派の志士たちの密会の場として頻繁に利用されており、桂小五郎(木戸孝允)の愛妾だった芸姑・幾松が芸妓時代を過ごしていたのもこの吉田屋だったといいます。

新選組に追われていた桂を幾松が匿ったという有名なエピソードも、ここ吉田屋が舞台だったといわれています。


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また、慶応3年6月22日(1867年7月23日)、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎、寺村左膳、真辺栄三郎、福岡孝弟の両藩首脳が会合し、さらに「浪人の巨魁」として坂本龍馬中岡慎太郎が陪席して締結した「薩土盟約」の会場も、ここ吉田屋だったといいます。

この席で土佐藩は大政奉還論を主張し、その方針に沿って盟約が結ばれます。

すなわち、武力倒幕を原則回避する方針ですね。


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ところが、結局は半年後に鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られます。

そのため、薩摩側にとってこの盟約は、倒幕準備のための時間かせぎだったとか、幕府の大政奉還拒否を想定しての倒幕の名分獲得などの思惑だったとも言われますが、事実はどうだったのでしょうね。

実際、西郷、大久保は武力倒幕派でしたが、小松は大政奉還論だったといいます。

この時点では、まだ薩摩側も揺れ動いていたということではないでしょうか。


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維新後、吉田屋は清輝楼、大和屋旅館として継承され、その後、明治33年(1900年)5月19日に西園寺公望の秘書官だった中川小十郎によって、立命館大学の前身である京都法政学校が創立されました。

現在、「立命館草創の地」と刻まれ、当時の建物の写真が転写された石碑が建てられています。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-06-14 23:30 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その74 「横井小楠殉節地」

京都御苑の南東、寺町通りと丸太町通の交差点を少し南に下ったあたりの歩道に、「横井小楠殉節地」と刻まれた石碑があります。

ここは、維新の十傑のひとりでもある横井小楠が襲われて落命した場所です。


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元は肥後熊本藩士でしたが、越前福井藩主の松平春嶽に招聘されて福井藩のアドバイザーとなり、春嶽が幕府の政事総裁職に就任すると、幕政改革にも関与します。

一方で、小楠は討幕派の志士たちにも、大きな影響を与えました。

幕末の人物たちのなかで、小楠に限っては、佐幕派、討幕派を超越した存在だったといっていいでしょう。


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勝海舟『氷川清話』の中で、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ」と語っており、また、その西郷隆盛も、「小楠が諸国遊歴した際、人材であると言った人で、その後、名を挙げなかった者はいなかった」と、小楠の人物鑑識眼を高く評価しています。

坂本龍馬が作成した有名な「船中八策」「新政府綱領八策」は、小楠が幕府に提出した「国是七条」と福井藩に提出した「国是十二条」をそれぞれ下敷きにしたと言われていますし、また、由利公正が起草した「五か条の御誓文」にも、小楠の「国是十二条」が大きく影響しています。

維新後、新政府に招かれ参与に就任しましたが、ただ、彼の思想があまりにも革新的だったため、単純な尊攘派からたびたび命を狙われ、そして明治2年1月5日(1869年2月15日)、太政官に出仕して退朝する途中に6人の尊攘過激派に襲われて落命します。


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向こうに見える森のような場所は、京都御苑です。

刺客たちは、御所のすぐ傍での襲撃を避けて、このあたりで待ち伏せしたのでしょうか。


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石碑の側面には「昭和七年七月再建之」とあります。

ネット情報によると、大正5年(1916年)建立の石標が損壊し、昭和7年(1932年)に新しく再建されたようです。

小楠は後世、佐幕派としてただひとり、維新十傑に数えられています。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-06-13 23:13 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その73 「常林寺(勝海舟宿坊跡)」

京都御苑の北西角から300mほど東へ進んで鴨川に架かる賀茂大橋を渡ってすぐのところに、常林寺というお寺があります。

ここは幕末、勝海舟宿坊だったと伝わるお寺です。


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常林寺山門前に立つ駒札の説明書きによると、創建は天正元年(1573年)、念仏専修僧魯道上人によって開創された寺院だそうです。

往時は知恩院末の有力寺院として活躍したそうですが、寛文11年(1671年)の大火で焼失し、現在の地に移ってきたそうです。


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時代は進んで幕末、常林寺は勝海舟の京都における宿坊だったと伝わり、子母澤寛の歴史小説『勝海舟』でも取り上げられています。

長崎に神戸に安芸と飛び回っていた勝でしたから、京都に宿坊があって当然だったでしょう。


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説明書きによると、勝を訪ねてきた坂本龍馬中岡慎太郎が本堂に宿泊したと紹介されていますが、これはどうでしょうね。

龍馬はともかく、中岡と勝の接点があったとは思えません。

ふたりで勝を訪ねてくるなんてことは、ちょっと考えにくいですね。

なんでも龍馬に結びつけて観光誘致に利用するのは感心できません。


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勝の京都でのエピソードとしては、龍馬が勝の進めていた海軍操練所設立のために奔走していたとき、勝の側にいられない自分に代わって土佐勤王党のメンバーで人斬りの異名で恐れられていた岡田以蔵を勝の京都での護衛役にし、勝が路上で3人の浪士に襲われた際、以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てたという有名な話があります。

そのあと勝は以蔵に対して、「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭しますが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返したといいます。

勝は「これには俺も一言もなかったよ」と、後年に述懐しています。

あるいは、以蔵こそ、ここに泊まっていたかもしれませんね。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-06-12 23:54 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第22話「偉大な兄 地ごろな弟」 ~地ゴロ発言~

e0158128_15131310.jpg 西郷吉之助(隆盛)が奄美大島より召喚された最大の理由は、かつて西郷がリーダー格だった誠忠組藩権力を掌握し、これから中央政局に乗り出していこうとするなかで、諸藩の志士や朝廷に名の売れた西郷に国事周旋を補佐させるためでした。ところが、帰藩した西郷は、誠忠組が推進してきた島津久光を担いで東上するという計画に真っ向から反対します。その理由は、久光は国父といえども藩主になった経験がなく、そのため、参勤交代などで江戸にも京にも行ったこともなく、有力諸侯や老中らとの交流もないため、東上して政治活動をするのは無理であり、そもそも、無位無官の身である久光には、中央政局で発言する資格がない、というものでした。上洛など時期尚早で、まずは、大藩の有力諸侯との連携構築が先である、と。たしかに西郷の指摘は的を射ており、問い詰められた中山中左衛門、小松帯刀、大久保利通ら久光の側近は、ぐうの音も出なかったといいます。


 そして後日、西郷が久光と会見した際、西郷の口から後世に有名な久光批判の発言が飛び出します。「地ロゴ」ですね。「地ロゴ」の語源は「地五郎」で、つまり「田舎者」という意味。すなわち、田舎者の久光が京や江戸に乗り込んで何ができるのか、といった批判で、これを聞いた久光が大いに気分を害したことはいうまでもありません。


e0158128_11283315.jpg 西郷のこの発言の裏には、おそらく西郷が常日頃から兄の故・島津斉彬と久光を比較し、今回のサブタイトルのように、都会的で偉大な兄に対して田舎者の弟といった久光を軽視する気持ちがあったのだろうと想像できますし、また、その背景には、かつてのお由羅騒動による久光派への敵対意識や、斉彬暗殺疑惑などの偏見も影響していたに違いありません。それらの過去の派閥抗争に久光は直接関係しておらず、また、斉彬と久光の関係は良好だったといわれていますが、斉彬を崇拝する西郷としては、簡単に割り切れない思いがあったのでしょう。久光公ごときが先君の遺志を継ごうなんて片腹痛い、と。


 また、久光とその側近に対する西郷の不満はそれだけではなく、奄美から帰藩したときの藩政にもありました。前話の稿でも述べたとおり、国父となった久光は島津斉興時代の家老・島津豊後(月照と西郷を追放した家老)を罷免し、前藩主の斉彬に重用された島津久徴主座家老としましたが、この久徴の就任を西郷はたいへん喜んでいました。というもの、久徴は日置島津家の出身で、かつてお由羅騒動に連座して切腹した赤山靱負実弟だったからです(参照:第4話)。西郷と赤山は浅からぬ関係で、その実弟である久徴の復職は、西郷にとってはこの上なく喜ばしい人事だったんですね。


 ところが、その久徴が、久光の上洛計画に異を唱えます。その理由は、いま久光が上洛しても成功は見込めないというもので、概ね西郷が大久保らを問い詰めた内容と同じでした。この反対を受けた久光は、久徴を罷免し、久徴を取り巻く日置派に属した藩士たちも閑職に追いやります。おそらくは、大久保たち誠忠組も、この人事に口を出していたに違いありません。西郷はこれも気に入らなかったのでしょうね。


e0158128_17375658.jpg 西郷の主張は決して間違ってはいませんでしたが、彼のやり方は、決して褒められたものではなかったでしょう。このとき西郷が奄美大島在住の木場伝内に宛てた書簡には、上述した中山、小松、大久保に対して、「愚行の形行残さず申し上げ候」とか、「甚だ以て疎地の御策」などといった厳しい言葉で痛烈に批判したと記されています。若き日の西郷は後年とは違い、相手を完膚なきまでに論破してしまう尖った男だったといいますが、これでは、相手の立場を配慮しない、顔をつぶすに等しいやり方です。いくら西郷の批判が的を射たものだったとしても、顔をつぶされた側は面白いはずがありません。西郷にしてみれば、かつて江戸や京で一流の志士高貴な方々と深い交流を持った自分と、国元にいる薩摩人では格が違うといった上から目線はあったかもしれません。また、3年という島暮らしの期間が、西郷を多少ひねくれさせていたかもしれませんね。大久保、小松がこのときどう思ったかは伝わっていませんが、中山は、大久保とともに久光の東上計画を作成した人物であっただけに、恥をかかされたという思いが人一倍強く残り、この後、薩摩藩内の反西郷勢力のリーダー格となり、西郷を大いに苦しめることになります。


 また、久光に対する有名な「地ゴロ」発言ですが、わたしはかねてから、いくら久光に批判的だったとはいえ、藩内最高権力者に対して、このような不躾な発言を直にするだろうかと疑問に思っていたのですが、今回のドラマでは、西郷に直接「地ゴロ」と言わせず、遠まわしに批判する西郷の意図を察した久光が、「おいを薩摩しか知らん地ゴロち抜かすか!」と問い詰めるという設定でしたね。たしかに、このほうが自然かもしれません。


ちなみに、この西郷の「地ゴロ」発言の出典は、はるか後年の明治19年(1886年)に久光が側近の市来四郎に対して述懐したものを市来が書き残したもので、信用に足る逸話とはいえません。あるいは、年老いた久光が多少話を盛っていたかもしれませんね。ただ、いずれにせよ、これに近い失礼な発言をしたのは事実と思われ、これが、西郷と久光の長い対立関係の開始を告げるゴングとなったことは間違いないでしょう。


 そんな西郷の反対意見も採用されることはなく、久光の東上は決行されることになります。そうなると西郷も、封建社会に生きる武士である以上、従わざるをえません。西郷は村田新八とともに久光らの出立に先立って出発し、形勢を視察したうえで下関で久光一行を待つことになります。ところが、その下関で、上方で尊王攘夷派の挙兵計画があることを聞き、その中に薩摩藩士が含まれていることを知ると、彼らを鎮めるために矢も盾もたまらず下関を発ってしまいます。これが、再び久光の逆鱗に触れることになるんですね。


 今話は「偉大な兄 地ごろな弟」というサブタイトルで、久光と斉彬の関係にかぶせて、西吉之助(隆盛)と西郷信吾(従道)兄弟を描いていましたが、たしかに信吾は次週の寺田屋事件に関わってはいますが、彼が歴史の表舞台に登場するのはまだまだ先のことです。ここで無理に弟を出して創作話を展開するより、上述した「地ゴロ」発言の経緯や側近たちの感情の機微などを、もう少し丁寧に描いてほしかったですね。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-06-11 16:28 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その72 「大久保利通邸跡」

京都御苑の東側、「その64」で紹介した清浄華院のすぐ北側に、かつて大久保利通が京で暮らしていた邸がありました。

現在、その場所には、「大久保利通旧邸」と刻まれた石碑が建ちます。


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盟友・西郷隆盛は幕末の初期段階から主君の島津斉彬の手足となって京に江戸にと奔走していましたが、大久保は薩摩藩領内から外に出る機会に恵まれず、はじめて京に上ったのは、文久2年(1862年)島津久光公武周旋のために京に入ったときだったようです。

以後、大久保は京に滞在することが頻繁となり、慶応2年(1866年)から慶応4年(1868年)までの間、この地に邸宅を構えていたそうです。


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この時期、他藩士たちとの外交を担当していたのは西郷で、京での大久保の役目は、主に朝廷工作でした。

だから、御所のすぐ近くに邸を構えたのでしょうね。

大久保はここを拠点に、岩倉具視らと密接に関わって朝廷工作に奔走し、やがて王政復古の道筋を立てていくんですね。

この頃はまだ、西郷と大久保は、同じ方向を向いていました。


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大久保が暗殺された3年後の明治14年(1881年)までは旧邸が残っていたそうですが、今は石碑がその場所のみを伝えてくれています。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-06-10 10:30 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)