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鎌倉殿の13人 第19話「果たせぬ凱旋」 ~日本第一之大天狗~

 兄の源頼朝より鎌倉入りを拒否され、所領もことごとく没収された源義経でしたが、改元して間もない文治元年(1185年)816日、頼朝の申請によって伊予守に任命されました。伊予守は播磨守と並ぶ最高ランクの受領で、河内源氏の先祖として崇拝されていた源頼義が就任した地位でもあったため、義経はこれ以上ない恩賞を受けたことになります。壇ノ浦の戦い後に頼朝より激しい怒りを買った義経でしたが、この時点では頼朝はまだ義経を見限ってはいなかったことがわかります。


鎌倉殿の13人 第19話「果たせぬ凱旋」 ~日本第一之大天狗~_e0158128_18315745.jpg ドラマで描かれていたように、本来、受領に昇進すれば、検非違使辞任するのが通例でした。ところが、義経は検非違使に留任します。九条兼実の日記『玉葉』によると、これを「未曾有」仰天しています。ドラマの兼実も驚いていましたね。そんな先例のない異常な人事を行うことができたのは、治天の君である後白河法皇以外には考えられません。検非違使は在京活動が原則であり、義経は京にとどまらざるを得なくなります。一方、受領は現地に赴任しないのが一般的であり、源氏一門の場合は、鎌倉在任が原則でした。伊予守になれば、義経も鎌倉に召喚されることになります。ドラマで描かれていたように、これが頼朝の狙いだったのかもしれませんね。でも、だとすれば、平宗盛を護送して腰越まで来たとき、なぜ鎌倉入りを拒絶したのか、と言いたくなりますけどね。まあ、5月と8月では事情が違ったのでしょう。一方、義経を検非違使に留任させた後白河法皇の狙いも、逆に義経を京に留めおく狙いだったのでしょう。法皇は義経が頼朝政権の一角となって鎌倉幕府の勢力がより強固となるのを牽制したのでしょうね。


 鎌倉殿の13人 第19話「果たせぬ凱旋」 ~日本第一之大天狗~_e0158128_20415557.jpg頼朝と義経の決裂が決定的となるのは、それから2ヶ月ほど経った10月になってからのことでした。頼朝は1024日に二人の父親である源義朝の盛大な法要を計画し、当然、義経にも列席を求めました。しかし、義経はこれを拒否します。同じ頃、二人の叔父である源行家の頼朝からの参向要請を拒否し、敵対する動きを見せます。これを見た頼朝は梶原景時の嫡男・景季を義経のもとに遣わし、行家追討を要請します。しかし、義経は病気を理由にこれを拒否。頼朝はこれを仮病と判断し、義経と行家が結託していると判断しました。おそらく、頼朝が義経討伐を決意したのは、このときだったでしょう。頼朝はまず刺客を送り、義経を挑発します。1017日、刺客の土佐坊昌俊60余騎が京の義経邸を襲いますが、義経の必死の応戦に行家が加わり、辛くもこれを撃退します。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し、行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げました。


そして翌日、後白河法皇より頼朝追討の宣旨を受けます。これについては、古くから後白河法皇が義経を扇動したと考えられてきましたが、最近の研究では、義経が法皇を脅して宣旨を発給させたという見方が通説となっています。『玉葉』によると、九条兼実は罪科のない頼朝に対して追討宣旨を発給することに反対したものの、容れられなかったとあります。


 自身の追討宣旨が下された頼朝でしたが、動じることなく父の法要をすませ、その後、供養に列席した御家人たちをそのまま上洛軍に編成し、1029日、頼朝自ら軍を率いて義経追討に出陣しました。頼朝自らの出陣は、治承4年(1180年)10月の富士川の戦い以来、5年ぶりのことでした。兄弟の戦いである以上、当事者である頼朝が出撃しないわけにはいかなかったのでしょうね。


鎌倉殿の13人 第19話「果たせぬ凱旋」 ~日本第一之大天狗~_e0158128_20044046.jpg一方の義経は、挙兵したものの兵を集められずにいました。義経にしてみれば、わずか8ヶ月前の屋島から壇ノ浦にかけての戦いのときのように、多数の西国武士の協力を想定していたのでしょう。しかし、あのときと今とでは、事情が違っていたんですね。そもそもあのとき彼らが義経に従ったのは、反平家という利害の一致からであり、義経の個人的魅力ではなく、頼朝の代官という地位と、後白河法皇による平家追討命令でした。今回は、いわば頼朝と義経の壮大な兄弟喧嘩であり、西国武士にとっては、戦う理由がひとつもありません。『玉葉』のなかで九条兼実は、義経に強制された頼朝追討命令に正当性はなく、しかも、法皇を拉致するという噂までたって人望を失い、協力者がいなかったとしています。まさに、法往寺合戦後の木曾義仲二の舞いでした。


 京で頼朝軍を迎え撃つことを諦めた義経と行家は、113日、態勢を立て直すべく九州を目指して都落ちします。その数、わずか200ほどだったといいます。法皇を拉致するといった噂も流れていましたが、義経一行は京に混乱を起こすことなく整然と退去したといいます。これを見た九条兼実は『玉葉』のなかで、義経の行動を「義士」と称えています。ここは義仲のときとは違うところでした。


 義経と行家の挙兵が失敗に終わったと見た頼朝は、上洛を中止して鎌倉に戻り、代わりに北条時政に千騎の兵を預けて代官として上洛させました。同じ頃、朝廷では義経と行家の没落を受けて、1111日に義経、行家の追討院宣が下されています。九条兼実は『玉葉』のなかで、「世間の変転、政務の軽忽、これをもって察すべし」と、後白河法皇の軽率さを痛烈に批判しています。ドラマでは、義経追討を命じる法皇に対して、兼実は「もう一度お願いいたします」と何度も聞き返していましたね。三谷さん流のコミカルな演出で笑っちゃいましたが、おそらく『玉葉』の兼実の激しい批判をベースにしたシーンだったのでしょう。義経から強要されていたとはいえ、頼朝追討宣旨に反対したものの受け入れられなかった兼実としては、この短期間の掌返しには呆れていたようです。


 さらに法皇は使者を鎌倉に送り、「行家、義経謀叛の事、偏に天魔の所為たるか」とし、頼朝追討宣旨は義経に脅されたために下したものであり、法皇の本心ではないと言い訳しました。しかし、頼朝は返書で、後白河法皇の意思なくして、平家を倒して政務を後白河法皇に返した忠義を謀叛に転じることはありえないとし、法皇を、「日本第一之大天狗」と罵倒したことは、あまりにも有名ですね。法皇は宣旨を義経の脅しによるものとし、木曾義仲のときと同じだと弁明しましたが、頼朝はこれを認めませんでした。たしかに、宣旨そのものは義経に強要されたものだったかもしれませんが、伊予守の受領就任に際して検非違使を留任させ、頼朝の意に反して義経を京に留め置いたのは法皇の意思に他なりません。元より敵対していた義仲と頼朝とは違い、義経と頼朝は、法皇の仲介によっては和解の可能性もあったかもしれません。義経と頼朝の決裂は、半分は法皇の所為だったといえるでしょうね。


 ただ、それがわかっていたのなら、頼朝は義経に対してもう少し寛大になれなかったのかと思ってしまいますが、経緯はどうあれ、義経が反頼朝の旗を挙げた以上、これを見過ごすわけにはいかなかったのでしょう。頼朝と義経の対立というと、どうしても頼朝が猜疑心の強い冷酷な悪人として描かれることが多いですが、今回のドラマは、なんとか関係を修復しようとする頼朝の苦悩が描かれていて切なかったですね。その結末がわかっているだけに、二人のボタンの掛け違いの幕をどのように閉じるのか、次回が楽しみです。



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# by sakanoueno-kumo | 2022-05-16 21:09 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(0)  

松永久秀終焉の地・信貴山城。 その4 <北曲輪群~松永屋敷跡>

「その3」のつづきです。

主郭跡まで攻略しましたが、信貴山城には主郭から北側に扇状に広がる東西550m、南北700の城域に、大小120以上の曲輪が配置されています。


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主郭から北側に降りていきます。

ここを訪れたのは令和2年(2020年)1129日。

かろうじて紅葉が残っていました。


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主郭北側一段下の曲輪です。


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北側を見下すと、下にも削平地があります。


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主郭北側二段下の曲輪です。


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さらにその下には、広い削平地と案内板が見えます。


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降りてきました。


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案内板には、立入屋敷とあります。

説明文によると、戦国時代の大工頭・中井家所蔵「和州平群郡信貴山城跡之図」では、この曲輪を「立入殿屋敷」と記しているそうで、「立入殿」とは、「信貴在城衆」の1人である立入勘介のことと推測されているそうです。

信貴在城衆は信貴山城において松永久秀の政治の実務を担った家臣団であり、この曲輪が軍事的にも政治的にも重要な曲輪だったことがうかがえます。


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写真では広さが伝わりづらいですね。


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立入屋敷跡から北側を見下ろすと、何段も連なった広大な曲輪群が見えます。

どうやら、あそこが松永屋敷跡のようです。


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松永屋敷跡の東側切岸の下まで降りてきました。


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案内板です。


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縄張り図を拡大します。

現在地の左側(西側)に松永屋敷跡の曲輪が南北に伸びています。


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切岸が高い。


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案内板前の切岸を上ると、松永屋敷跡の上から二段目の曲輪に出ました。


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よくわからない謎の木工人形があります。


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二段目の曲輪の西側には土塁があります。


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その土塁の上に設置された信貴山城の説明書き。

「まぼろしの天空城」とあります。


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こちらは松永久秀の説明書きです。


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二段目から三段目に降ります。


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松永屋敷跡三段目の曲輪です。


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二段目と三段目の高低差はこんな感じ。


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三段目の曲輪の北側に、こんもりと盛り上がった場所が見えます。


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その前に案内板が立っています。


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図によると、この盛り上がった四段目の曲輪が、松永屋敷で最も広い曲輪のようです。


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四段目の曲輪です。


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確かに広い。


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この敷地面積だと、そうとう大きな屋敷が構えられます。

三好長慶から大和国の統治を任された松永久秀は、永禄2年(1559年)に信貴山城を築いて軍事の拠点とし、翌年に多聞山城を築いて政務の拠点としたといいますが、これだけ広い屋敷があったのなら、かなりの兵が籠城できたでしょうね。


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松永屋敷跡北側を見下ろすと、また削平地があります。


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切岸を降りてみましょう。


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降りてきました。

階段が設置されているのは、松永屋敷跡四段目曲輪北側の切岸です


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さらに東側の下にも曲輪があります。


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降りてきました。


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もう何段目とかわからなくなっちゃいました。


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とにかく、松永屋敷跡を取り巻く曲輪跡を歩きます。

松永屋敷跡に東側は小さな曲輪が幾重にも連なっています。


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があります。


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堀切跡には橋が設置されています。


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写真では伝わりづらいですが、とにかく無数の曲輪群です。


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松永屋敷跡の東側に、明らかに虎口跡と見られる場所を見つけました。


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切通虎口ですね。

登ってみましょう。


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さっきの松永屋敷跡三段目曲輪に戻ってきました。


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上から見た虎口跡


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虎口跡の案内板が設置されていました。


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さっきの松永屋敷跡四段目曲輪が見えます。


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さて、最初の松永屋敷跡二段目の曲輪に戻ってきました。

謎の木人形の向こうには、松永屋敷跡一段目の曲輪の切岸が見えます。


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登ってみましょう。


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松永屋敷跡一段目の曲輪です。


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北側には、先ほどの二段目、三段目、四段目の曲輪が連なります。


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そして松永屋敷跡一段目曲輪の北側には、めっちゃ高い切岸が。

この切岸は、最初に見た立入屋敷跡の切岸です。


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今度は、松永屋敷跡の西側の曲輪を目指します。


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堀切跡です。

縄張り図では、この堀切の向こうの曲輪に礎石建物と書かれていました。


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土橋跡です。


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礎石建物の曲輪です。


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礎石らしい遺構は見当たらなかったのですが、おそらくここで礎石跡が見つかったのでしょうね。


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礎石建物の曲輪の北側には、ドでかい堀切があります。


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深い、でかい。


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その堀切の向こうにも、また曲輪跡が見えますが、堀切が深すぎるので、ここまで。


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礎石建物曲輪の南側に戻ってきました。


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そこから南側を上ると、立入屋敷跡に戻ってきました。

信貴山城にはまだまだ曲輪跡があるのですが、歩き回って足が棒になっちゃったので、これで下山します。


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信貴山麓に降りてきました。

写真は朝護孫子寺の参道にある開運橋で、トレッスル橋脚を用いたカンチレバー橋としては日本最初期のものだそうで、国の登録有形文化財となっています。


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驚いたのは、その有形文化財の橋からバンジージャンプをやっていたこと。


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よーやるわ。

私は、バンジージャンプやらスカイダイビングなどを好んでする人の気がしれません(笑)。

人間は飛べないんですから、無理に飛ぶ必要はないんです(笑)。


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開運橋からの南西の眺望です。


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北側を見ると、さっきまで登っていた信貴山が聳えます。

ここを訪れたのは令和2年(2020年)1129日。

秋の信貴山です。

最後に信貴山城の御城印を載せます。


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# by sakanoueno-kumo | 2022-05-14 12:45 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

松永久秀終焉の地・信貴山城。 その3 <主郭>

「その2」のつづきです。

雌嶽曲輪まで攻略したので、雄嶽の山頂にある信貴山城主郭を目指します。


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前稿で紹介した鞍部からのスタートです。

誘導板には信貴山城跡まで190とあります。


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ここでもう一度、前稿で紹介した縄張り図を載せます。


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山頂にある空鉢護法堂鳥居が連なります。


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鞍部から登ること約5分。

広い削平地に出ました。


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どうやらここが山頂の一段下のようです。


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そこから、山頂に上る道があります。

切通虎口にように見えますが、たぶん、近年のものでしょう。


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雄嶽山頂の曲輪です。

ここが信貴山城主郭です。


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主郭には、石碑と案内板が設置されています。


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現在の信貴山城跡の遺構は、松永久秀の時代のものです。

三好長慶から大和国の統治を任された松永久秀は、永禄2年(1559年)に信貴山城を築いて軍事の拠点とし、翌年に多聞山城を築いて政務の拠点としました。

長慶の死後、久秀は三好三人衆と対立し、永禄11年(1568年)には三好三人衆方の三好康長によって信貴山城は攻め落とされますが、久秀は同年6月に上洛した織田信長に接近して九十九茄子の茶器を献上し、信長の助力を得て信貴山城を奪還しました。


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元亀2年(1571年)、久秀は信長に反旗を翻しますが、翌年に多聞山城を明け渡して降伏しました。

しかし、天正5年(1577年)に久秀は再び信長に叛き、ここ信貴山城に立て籠もりました。

久秀謀反の報せを聞いた信長は、家臣の松井友閑を派遣して説得を試みますが、久秀はこれに応じませんでした。

このため、久秀が信長のもとに人質として差し出していた二人の息子が、京都六条河原で処刑されています。


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そして927日、信長は嫡男の織田信忠を総大将として、久秀討伐を開始。

101日、明智光秀、細川藤孝・忠興父子、筒井順慶らは、信貴山城の支城の片岡城を攻め落とし、103日、久秀が籠る信貴山城に迫った織田軍は城下に火を放ち105日から4万の大軍で攻撃を開始するも、難攻不落の信貴山城は容易には落ちませんでした。

しかし、衆寡敵せず、援軍の見込みもないなか久秀はついに観念し、1010日、天守に火をかけて自害しました。

久秀は享年68、息子の久通は享年35でした。

この1010日というのは、ちょうど10年前の永禄10年(1567年)、久秀が三好三人衆との戦いで東大寺を焼いた日と同じ日でした。

そのため、人々は神罰だと噂したといいます。


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信貴山城が包囲されたとき、織田軍の佐久間信盛が茶器の古天明平蜘蛛をよこすよう求めるも、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答したといい、久秀自害の際、自らの手で粉々に打ち砕かれたとも、爆薬を仕込まれて木っ端みじんになったともいわれます。

しかし、これらの説は皆、江戸時代に入ってからの軍記物語などに見られる逸話で、史料として信憑性の高い『信長公記』には、平蜘蛛の釜については一言もふれられていません。

なので、実際にはどうなったかわからないようです。


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主郭跡の西側には、空鉢護法堂があります。

石碑の建つ主郭跡から鳥居群が伸びています。


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空鉢護法堂は一段高くなっていて、石段が伸びています。

かつて久秀時代の信貴山城には、「高殿」「高櫓」などと呼ばれる四重の天守があったと伝わります。

だとすれば、おそらく、今の空鉢護法堂がある場所にあったのでしょう。


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空鉢護法堂です。

朝護孫子寺の中興の祖と伝わる命蓮上人が竜王の教えを蒙り、信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)の如く、空鉢を飛ばして倉を飛び返らせ、驚き嘆く長者に慈悲の心を諭して福徳を授けたという出来事に由来します。


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空鉢護法堂の南側はデッキのようになっており、素晴らしい眺めが拝めます。


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空鉢護法堂からの眺望です。

手前に見えるこんもりとした丸い峰が、「その2」で紹介した雌嶽です。


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雌嶽にズームイン。


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南に金剛山系が見えます。

あの山々に、南北朝時代、楠木正成が築いたと伝わる千早城を始めとする楠木七城があります。


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西を見ると、河内平野。

PLの塔が見えます。


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東を見ると大和平野。

神武天皇陵(初代天皇)のある畝傍山が見えます。


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さて、主郭まで攻略しましたが、信貴山城跡のいちばんの見所は、実は遺構がほとんど消えてしまった主郭ではなく、松永屋敷跡を含む北側の曲輪群にあります。

「その4」では、その曲輪群を攻めます。




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# by sakanoueno-kumo | 2022-05-13 01:02 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その2 ~平家滅亡~

 「その1」のつづきです。

 屋島の戦いに敗走した平家軍は、安徳天皇とともに最後の拠点である長門彦島に逃れました。一方、屋島の戦いに勝利した源義経軍は、熊野水軍を味方につけるなど勢力を拡大しながら平家を追撃しました。そして、元暦2年(1185年)324日、源平合戦最後の戦いが長府沖の海域で始まりました。世にいう「壇ノ浦の戦い」です。九条兼実の日記『玉葉』によると、戦後、当日の合戦状況を義経は朝廷に次のように報告しています。


 追討大将軍義経、去る夜飛脚(札を相副ふ)を進し申して云はく、去る三月二十四日午の刻、長門の国團に於いて合戦す(海上に於いて合戦すと云々)。午正より申の刻に至る。伐ち取るの者と云ひ、生け取るの輩と云ひ、その数を知らず。この中、前の内大臣・右衛門の督清宗(内府子なり)・平大納言時忠・全眞僧都等生虜となると云々。また宝物等御坐すの由、同じく申し上ぐる所なり。但し旧主の御事分明ならずと云々。


 この報告によると、壇ノ浦の戦いは正午から午後4時頃にかけて海上で行われ、義経軍の圧勝に終わりました。義経は平家一門のうち平宗盛・清宗父子や、平時忠、全真僧都を生け捕りにし、三種の神器も無事だったが、安徳天皇の安否がつかめていないとしています。三種の神器については、実際には宝剣が海底に沈んで失われてしまっていますが、義経が飛脚を送った時点ではそれがわかっていなかったか、あるいは九条兼実の聞き違いだったのかもしれません。


鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その2 ~平家滅亡~_e0158128_20044046.jpg 壇ノ浦の戦いの義経軍の勝因については、潮流説が有名ですね。合戦の序盤は西から東に潮が流れていたため平家軍が有利だったが、やがて潮の流れが逆になり、東から攻める源氏軍が優勢となった、と。この潮の流れの変化を義経があらかじめ予測して作戦を立て、平家軍を撃滅した、と。この説は、大正時代に歴史学者の黒板勝美氏が提唱した論証です。しかし、戦後の潮流推計の進展により、現在ではこの説は否定されています。ドラマでもこの説は採っていなかったですね。先日、テレビの特番でもこの潮流説を検証していましたが、考えてみれば、追い風、向かい風ならともかく、追い潮、向かい潮であったとしても、同じ潮の流れに乗っている以上、双方の相対速度は変わらないので距離に影響はなく、弓矢の威力とも無関係ですよね。わたしはこの潮流説を信じていたので、裏切られた気分です(苦笑)。


 また、非戦闘員である水手、梶取討ち説も有名ですね。この時代の海戦では、非戦闘員の水手、梶取を射ることは戦の作法に反する行為でしたが、義経はあえてその掟破りの戦術を命じて平家軍を壊滅させた、と。そもそも義経の戦いは一の谷も屋島も奇襲ですから、これも義経ならやりかねないとわたしも思いますが、歴史家の呉座勇一氏の著書『頼朝と義時』では、『平家物語』をよく読むと、義経が水手、梶取を射るよう命じる場面はなく、義経軍が船員を殺害したのはもはや大勢が決して敵船に乗り込む段階でのことで、勝敗を左右したわけではないとしています。これもわたし、信じていたので、またまた裏切られた気分です(苦笑)。


 では、義経軍の勝因は何だったのか。呉座勇一氏は単純に戦力で上回っていたからと説かれていますが、そう言ってしまえば元も子もないので、『平家物語』の伝えるところに着目すると、序盤戦は平家軍が優勢だったものの、四国の粟田重能率いる水軍300寝返って義経軍についたため、平家軍は前面に義経軍、背後に粟田重能の四国の水軍、海辺に源範頼軍に囲まれ、逃げ場を失って壊滅したとあります。これなら信憑性がありそうですが、ただ、『吾妻鏡』によれば、阿波重能は合戦後の捕虜に含まれているそうで、真偽は定かではありません。やはり、単純に戦力で上回っていたから、というところに落ち着くのでしょうか。


 義経の伝説の「義経の八艘飛び」が描かれていましたね。これについては言うまでもなく虚構でしょう。そもそも『平家物語』では、義経が船から船へ飛び移ったのは一回だけですが、後世に話がどんどん盛られて「八艘飛び」になったようです。


 この戦いで平家方は、平知盛、経盛、教盛、有盛、行盛らが討死または自害しました。ただ、源氏方にとって誤算だったのは、二位尼(平時子)安徳天皇を抱いて入水して命を落とし、三種の神器のうち宝剣が海の底に沈んだことでした。安徳天皇と三種の神器の無事は、後白河法皇源頼朝が最も望んでいたことでした。平家追討という軍事目的のみを優先するあまり、法皇と頼朝の第一目的を果たせなかった義経。源氏の悲願であった平家討伐を果たしたにも関わらず、次第に頼朝との関係が悪化していきます。


鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その2 ~平家滅亡~_e0158128_18270643.jpg 頼朝と義経の確執について、よく知られているのは、壇ノ浦の戦い後の梶原景時による讒言があげられます。『吾妻鏡』によると、景時は頼朝に対して、「義経は自分一人で平家を滅ぼしたと勘違いして傲慢になり、御家人たちが反発している」告発し、これを信じた頼朝が、義経を寄せ付けなくなった、と。このエピソードは後世の判官贔屓の観点から景時の陰険な讒言と捉えられることが多いですが、「讒言」という言葉を辞書で引くと、他人をおとしいれるため、ありもしない話を作って目上の人に告げること、とあります。しかし、景時の告発は、決してありもしない話ではなく、むしろ、合戦に参加した御家人たちの不満を代弁したものといえるでしょう。彼らも命を賭けて屋島、そして壇ノ浦で戦ったにも関わらず、義経の華々しい活躍の前に大きな勲功を得る機会を奪われ、平家追討は義経の独壇場で終わってしまいました。景時の告発は、決して讒言ではなかったんですね。今回のドラマの景時は、頼朝、義経双方の立場、才を理解したうえで、頼朝政権維持のために義経を切り捨てるよう諫言したという設定でしたね。


鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その2 ~平家滅亡~_e0158128_20415557.jpg 頼朝と義経の決裂は、一般に「腰越状」とされます。『吾妻鏡』によると、壇ノ浦の戦いから約2ヵ月後、平家一門の総帥である平宗盛を鎌倉に護送中の義経が、上述した景時の告発もあって頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを許されずに腰越に留まっていたとき、頼朝の誤解を解くために弁明書を書いて提出するも、かえって頼朝の怒りを買ったといいます。その理由は定かではありませんが、そもそもこの腰越状が本当にあったのかも定かではなく、『吾妻鏡』による捏造説もあります。その理由はいろいろありますが、義経の五位衛門尉任官を、「当家の面目、希代の重職」としているところを指し、受領より格下の地位に過ぎず、「当家の面目、希代の重職」などではありえないなど、矛盾点がいくつも指摘されています。ところが、今回のドラマでは、これを逆手にとって、頼朝のかつての官職を知らない平宗盛が代筆したものとしていましたね。もちろんこれはあり得ない話ですが、創作としては秀逸でした。


 実際のところ、義経がなぜ頼朝の不興を買ったのかは定かではありませんが、二人が対立するのは歴史の事実です。検非違使に任官しなくとも、梶原景時の讒言がなくとも、腰越状がなくとも、やがて二人は対立する運命だったのかもしれませんね。


 「あのお方は、天に選ばれたお方。鎌倉殿も同じだ。お二人とも、己の信じた道を行くには手を選ばぬ。そのようなお二人が、並び立つはずはない」


 劇中、景時が義時に言った台詞ですが、案外、的を射ているかもしれませんね。両雄並び立たずです。



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# by sakanoueno-kumo | 2022-05-10 23:46 | 鎌倉殿の13人 | Trackback(1) | Comments(2)  

鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その1 ~屋島の戦い~

 今回は屋島の戦いから壇ノ浦の戦い、そして腰越状による源頼朝、義経兄弟の決裂まで、一気に話が進みましたね。これが頼朝もしくは義経が主人公の物語であれば、数話に渡ってじっくり描くべきところですが、本作の主人公はあくまで北条義時。義時が直接関わっていない話は長々とやらないって意図でしょうね。それでいいと思います。一昨年、主人公の明智光秀が直接関わっていない桶狭間の戦い2話も割いて描いておきながら、本来描くべき光秀の後半の歴史が駆け足になってしまった『麒麟がくる』を思えば、さすがは三谷さん、ペース配分をちゃんと考えてるなぁと感じます。もっとも、ここまで18回、義時が主人公といえる回はまだ一度もないんですけどね。まぁ、義時が歴史の表舞台に出てくるのは実は頼朝の死後、それまではプロローグといったところでしょう。


 一の谷の戦いの戦勝後、義経は後白河法皇より京の治安を守る検非違使に任じられていました。しかし、頼朝配下の御家人たちの恩賞や任官は、あくまで頼朝の推挙によって行われるべきとの建前があり、この義経の無断任官が頼朝の警戒心を刺激するところとなり、兄弟の確執となっていったというのが従来の説でした。ところが、最近の研究では、義経の任官は頼朝も認めるところであり、これが兄弟決裂の原因ではなかったという見方が一般化しつつあるようです。今回のドラマでも、義経の任官に対して頼朝が怒るといった話はなかったですね。


鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その1 ~屋島の戦い~_e0158128_20044046.jpg 元暦元年(1184年)829日、朝廷より平家追討官符に任じられた源範頼は、山陽道から九州に軍を進めました。この軍勢が平家追討の本隊で、ここに北条義時も従軍していました。しかし、範頼軍は飢餓に苦しむ西国を進んだため、兵糧不足などにより進軍は停滞。約5か月かけてようやく周防国から豊後国まで制圧しましたが、平知盛が守りを固める彦島を攻められず、膠着状態に陥っていました。この状況を見た鎌倉の頼朝は、義経に第二の遠征軍として平家の本拠地である讃岐国屋島を攻めるよう命じます。これを受けた義経は後白河法皇より京を離れる許可を得て、元暦2年(1185年)216日に京を出発。摂津国渡辺津から阿波国に渡ろうとするも、暴風雨で海が荒れていたためなかなか出航できずに時を過ごします。しかし、しびれを切らした義経は暴風雨のなかの渡海を決意。船頭らは恐れて出航を拒みますが、義経は郎党に命じて弓で船頭を脅し、わずか5の軍船に100ほどの軍勢を率いて出航を強行します。普通なら3日かかる距離を数時間で渡海し、地元の豪族を味方につけ、219日、平家の屋島内裏を奇襲しました。


 襲撃を受けた平家方は千余騎の軍勢が守備していたといいますが、義経の軍勢が少数であることを見抜けず、虚を突かれて敗走します。九条兼実の日記『玉葉』によると、「伝へ聞く、平家讃岐国シハク庄に在り。しかして九郎襲い攻むるの間、合戦に及ばず引退き、安芸厳島に着き了んぬと云々。その時わずかに百艘許りと云々」とあり、平家軍は戦闘らしい戦闘もしないまま、安徳天皇を伴って海路逃走したようです。平家軍は抗戦することもできたでしょうが、安徳天皇の安全を最優先したのかもしれません。


鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その1 ~屋島の戦い~_e0158128_18270643.jpg 義経と梶原景時確執の一因として、摂津国渡辺津から阿波国に渡海する際、景時が海戦に慣れない源氏の軍船に逆櫓を付けて操船を容易にしようと提案したのに対し、義経が「初めから逃げ支度をして勝てるものか」と言い返したという逸話が『平家物語』にあります。今回のドラマでも描かれていましたが、本作の景時は義経の軍人としての才を認めており、義経も景時のことを信頼しているという設定で、二人の口論のニュアンスも『平家物語』とは少し違っていましたね。もっとも、『吾妻鏡』『玉葉』の記述では、このころ景時は範頼軍に従軍していたという見方が有力で、『平家物語』のこのエピソードはフィクションの可能性が高いようです。


 あと、有名な那須与一「扇の的」の話も描かれなかったですね。もっとも、この逸話も『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物のみが伝える話であり、その信憑性は定かではありません。ネットでは「那須与一なぜスルー?」なんて言葉が飛び交っているようですが、同様の例でいえば、一の谷の戦いのときの有名な平敦盛の悲話もスルーでした。でもこれは仕方がないでしょう。冒頭でも述べたとおり、そもそも本作は北条義時が主人公の物語であり、源平合戦自体、このドラマにおいてそれほど重要なファクターではありません。ましてや、那須与一平敦盛の話を描くとなると完全に本筋から離れた余談になってしまいます。だいいち、これまで全く登場していない与一が急に出てきて目立ったら、その方が違和感あるでしょう。このスルーは当然だったんじゃないでしょうか?


 ドラマでは一瞬で終わった屋島の戦いだけで長くなっちゃいました。壇ノ浦の戦いはもっと長くなりそうなので、つづきは明日、「その2」にて。



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# by sakanoueno-kumo | 2022-05-09 20:10 | 鎌倉殿の13人 | Trackback | Comments(0)