西郷どん 第46話「西南戦争」その4 ~西郷軍解散と木戸孝允の死~

 昨日の続きです 

田原坂の陣を奪われた西郷軍は、以後、退却を重ねていくことになります。3月20日に田原坂をあとにした西郷軍の本営は、4月以降、神瀬、木山を経て、もともと薩摩国に接し、薩摩の影響の強い人吉へと移されました。ここで西郷隆盛は、負傷した別府晋介鹿児島に帰らせ、先に熊本から帰郷していた桂久武とともに、新たな兵員の募集に当たらせました。この期に及んで、まだ西郷は戦いを諦めてはいなかったようです。しかし、この時点ではすでに武器弾薬や食料は底をつき、その敗北は誰の目にも明らかな状態になっていました。


 そんな状況のなか、逮捕された大山綱良に変わって新たに鹿児島県令に任に就いていた岩村通俊から、5月7日、すでに決着がついたとしたうえで、これ以上の犠牲者を出さないために、西郷に対して投降を呼びかける告諭書が出されます。しかし、西郷はこれを受け入れることはありませんでした。ここで投降するなど、死んでいった兵たちに申し訳が立たないといった心境だったのかもしれません。また、同時期に、鹿児島城下にいた西郷軍が奪還を目指して兵を挙げ、城下の大部分が焼け野原となる攻撃を仕掛けていたことも関係していました。事ここに至っては、もう後戻りはできなかったんでしょうね。


e0158128_15131310.jpg やがて人吉の西郷軍の本営も政府軍に攻撃を受け、6月1日に陥落します。やむなく西郷軍は宮崎方面へ逃れ、都城、宮崎、高鍋と本営を転々としたのち、延岡の北方にあった長井村へ逃れ、8月15日、ここで西南戦争最後の激戦が展開されることになります。2月の挙兵以来、これまで西郷は戦闘の指揮を桐野利秋らに任せて口出しすることはありませんでしたが、このとき、初めて自ら指揮を執りました。西郷は、丘陵の中央に位置した和田越えの頂上に立ち、約3千人の兵を集めて彼らを激励し、士気を鼓舞したといいます。それは、弾丸が雨のように降り注ぐ中での指揮でした。このとき、村田新八らが危険だから高台を降りるようにといくら勧めても、西郷はその場を動こうとはせず、やむなく、兵数人で西郷の巨体を抱え、無理やり後方へ運んだといいます。このとき西郷はどんな心中だったのか。あるいは、敗色が濃厚となるなか、弾に当たって戦死しようとしていたのかもしれません。


 西郷の指揮もむなしく、西郷軍の士気は低下し、投降者が相次ぎました。やがて西郷は、これ以上の戦争継続は困難と判断し、8月16日、軍の解散を布告し、全将兵に行動の自由を許しました。このとき、西郷自身も、自らの身体にけじめを付けるべく、陸軍大将の軍服を焼却するなどの身辺整理を行ったといいます。西郷は解散令を出したあと、自ら人を呼び、野戦病院の始末などの事務処理細かく指示したといいます。これも、鹿児島出立以来、はじめてのことでした。このときの西郷について、作家・司馬遼太郎氏はその著書『翔ぶが如く』のなかで、次のように述べています。


 「西郷は戦いのあいだ狩猟などをして何もせず、和田越をのぞいては前線にさえ立たなかったが、最後にのぞみ、解散についてのさまざまな始末を、幕僚にはかることなくみずからやったという点、この人物の何事かが見えるようである」


 部下を信頼して仕事を任せる。失敗すれば、その責任をとって後始末をする。そう考えれば、理想的な上司像といえるかもしれませんが、これが、戦争の指揮官として理想的といえるかどうかは、難しいところですね。


 全軍解散となった西郷軍でしたが、それでも、西郷を慕う私学校以来の約300人行動を共にすることを希望します。そして、このあと長井村から脱出を図る有名な作戦が決行されます。それは次回、最終回にて。


 e0158128_19334109.jpg最後に、木戸孝允についても触れておきましょう。西郷たちが人吉を本営としていた明治10年(1877年)5月26日、木戸は京都の邸で病にて息を引き取りました。木戸はその死の直前、西南の地で挙兵した西郷と明治政府を案じ、昏睡状態のなか見舞いに訪れた大久保利通の手を握りしめ、「西郷、いいがげんにせんか」と言ったといいます。盟友といえたかどうかはわかりませんが、木戸にとって西郷、大久保は共に明治新国家を作り上げた同志であったことは間違いなく、その同志のふたりが敵対している現状は、木戸にとって最大の心残りだったに違いありません。結局、西郷は木戸の死から4ヶ月後、大久保も約1年後に落命します。「維新三傑」と呼ばれたこの3人が、偶然にもわずか1年の間にこの世を去ることになるという事実も、歴史というのは実にドラマチックにできていると思わずにいられません。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-12-14 01:09 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その3 ~田原坂の戦い~

 昨日の続きです

 高瀬の戦いのあと、西郷軍は福岡方面から南下してくる新政府軍を迎え討つために北上し、やがて田原坂で激突します。この戦いは、西郷軍、政府軍双方に多くの死傷者を出す西南戦争一の激戦となりました。3月4日、この田原坂にほど近い吉次峠の激戦で、西郷隆盛の片腕だった一番大隊長の篠原国幹戦死しています。


 西郷軍は、当初、徴兵制によって徴収された農民を中心とする政府軍の兵士を馬鹿にしていましたが、政府軍には最新式のスナイドル銃が配備され、上官の指示にもよく従う統制のとれた政府軍兵士の攻撃に、思わぬ苦戦を強いられることとなります。一方の西郷軍は、旧式のエンフィードル銃が主力でした。スナイドル銃は元込め式1分間に6発発射できたのに対し、エンフィードル銃は1分間に2発しか発射できませんでした。加えて、この戦いの間は雨天の日が多く、先込め式のエンフィードル銃は雨に弱く、武器の差は圧倒的に政府軍が有利でした。


 ただ、そうしたなか、政府軍の兵士に大きな恐怖心を与えて大混乱に陥れたのは、西郷軍兵士による抜刀しての斬り込みでした。西郷軍の兵士のほとんどは元薩摩藩士であり、幼い頃から示現流剣術で鍛えた強者揃いでした。一方、政府軍の兵士は士族以外の者が多く、剣術の心得のない者が圧倒的でした。彼らにしてみれば、銃弾の雨のなかを怯むことなく抜刀して突撃してくる薩摩兵は、恐怖以外の何物でもなかったでしょう。周章狼狽した政府軍兵士たちはたちまち戦意を失い、命を落とす者が続出します。


 e0158128_21495406.jpgこれに対して政府軍は、薩摩兵ひとりに対してスナイドル銃を持った兵士5、6人で応戦し、間断なく銃弾を浴びせるという作戦に出ますが、これも計算どおりにはいきませんでした。そこで、警視庁大警視でありながら西南戦争勃発後は陸軍少将を兼任し、このとき警視隊で組織された別働第三旅司令長官の任にあたっていた川路利良は、警視隊のなかから特に剣術に長けていた110人を選んで「抜刀隊」を編制し、西郷軍の抜刀攻撃に対抗させました。目には目を、刀には刀を、ということですね。その中には、旧会津藩士も含まれていました。彼らは今でも戊辰戦争時に賊軍の汚名を着せられた恨みを持ち続けており、このとき西郷軍相手に「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら斬り込んでいったといわれています。抜刀隊のあげた戦果は絶大でした。


e0158128_22143981.jpgしかし、この川路が立案した抜刀隊の編制には、当時、政府軍の事実上総指揮官だった山縣有朋は反対だったといいます。陸軍卿兼参議だった山縣は、徴兵制度を最も推進してきたひとりでした。その徴兵制度に反発したのが私学校党であり、全国にいる不平士族たちです。いま、ここで元士族だけを集めた抜刀隊を編制するということは、これまで推し進めてきた国民皆兵の政策を、自ら否定することになる。山縣の頭の中では、戦術も政治だったんですね。ただ勝てばいいというわけではない。徴兵制度による兵でサムライ集団を破ってこそ、真の近代軍制が確立されるという思いだったのでしょう。しかし、理想を追って戦に負けたら本末転倒な話で、川路の説得に山縣はこれを渋々許したといいます。


 この抜刀隊の働きもあって、戦局は目に見えて政府軍に有利となっていきました。それでも頑強な抵抗を見せる西郷軍に対して、政府軍はさらに第三旅団、第四旅団を投入し、兵力と兵器の差で西郷軍を圧倒しました。このとき政府軍は1日あたり平均32万発の弾丸を敵陣に撃ち込んだといい、多い日には60万発を超えたといいます。これは、日露戦争における旅順攻撃時の倍の数字でした。この当時の政府の弾丸製造能力1日12万発だったといいますから、足らずは外国からの輸入でまかなっていたようです。これに対して西郷軍は、弾薬不足に悩まされ、着弾した弾丸を拾って鋳造したり、鍋や釜を溶かして作った手作りの弾丸を使用したといいます。これほどの兵力の差がありながら、田原坂の戦いは約3週間近く続いたのですから、薩摩兵恐るべしといえるでしょうか。

 明日の稿に続きます。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-12-12 23:59 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その2 ~熊本城攻防戦~

 昨日の続きです。

 東上を開始した西郷軍は、連日の雪のためにその行軍は難行しましたが、明治10年(1877年)2月21日、熊本城下に到着しました。当時、熊本城には日本陸軍の熊本鎮台が置かれていました。ここで西郷軍は軍議を開き、全軍をもって熊本城を攻撃するか、一部の兵で城を攻撃し、残りはこのまま熊本城を捨て置いて北上するかが話し合われます。冷静に考えれば、彼らの目的が上京して政府に詰問するためにあるならば、熊本城の攻撃に固執する必要などなかったはずなのですが、なぜか、このとき彼らの下した決断は、全軍上げての熊本城攻撃でした。ドラマでは、政府が彼らを賊軍とみなして征討令を発したため、戦わざるを得なくなったという設定にしていましたが、たとえそうだとしても、熊本城に固執する理由はどこにも見当たりません。なぜ熊本城攻撃に決したのでしょう。


 e0158128_21591928.jpg一説には、軍議の席で桐野利秋が、「熊本城など、この青竹棒でひとたたきでごわす。」豪語し、慎重派の意見を一蹴したと言われています。このエピソードが事実かどうかはわかりませんが、この当時、鎮台兵の大半が徴兵制で集められた元農民たちで編制されていました。一方の西郷軍は、元薩摩藩士を中心とするサムライ集団で、そのサムライたちのなかでも、薩摩隼人の強さというのは戦国時代から江戸時代を通してほとんど伝説的に信仰されており、また、その強さが本物であることを、戊辰戦争における戦功で実証していました。また、薩摩隼人は兵としての強さだけではなく、その勇敢さにも誇りを持っていました。そんな彼らからしてみれば、百姓兵が守る熊本城など、桐野に言われるまでもなく、青竹一本でひとたたきと思っていたに違いありません。


 e0158128_13192830.jpgところが、事はそう容易くはありませんでした。当時、熊本鎮台司令長官は土佐出身で陸軍少将の谷干城で、作戦立案に当たる参謀長は、西郷らと同じ薩摩出身の陸軍中佐・樺山資紀でしたが、彼らは3千人を超える兵士と籠城し、かつ、要所に地雷を埋めて西郷軍が近づけないようにするなど、徹底して守りを固めていました。また、西郷軍が熊本入する少し前、熊本城内で火災が起きて天守が焼け落ちており、さらに、城下町の家屋にも燃え移って、町は焼け野原になっていました。この火災の原因は不明ですが、西郷軍の城攻めを想定して、攻められにくいように鎮台側が自ら放火したとの説が有力です。そんなこともあって、西郷軍は熊本城攻撃に想定外の時間を取られることになります。


 2月22日に始まった熊本城への攻撃は、3日間に渡って続けられましたが、鎮台方に決定的なダメージを与えることはできませんでした。結局、西郷軍は方針転換を迫られ、一部の兵士を熊本城攻城戦に残し、本隊は小倉方面より南下してくる政府軍と対戦するため、熊本の北にあった高瀬方面に向かうことになります。そして、この高瀬の地で、西郷隆盛の末弟の西郷小兵衛が戦死を遂げることになります。


 e0158128_15131310.jpgその後、熊本城攻城戦は一進一退を繰り広げながら、4月8日には鎮台方の部隊が西郷軍の包囲を突破し、さらに、14日には陸軍少佐の山川浩らの援軍が熊本城に入城したため、攻防戦は終焉をみました。結局、西郷軍は50日余りも城を包囲しながら、熊本鎮台を落とすことができませんでした。その敗因は、政府軍との武器の差や、谷ら鎮台司令部の用意周到さも挙げられますが、一番の理由は、桐野らの鎮台兵に対する「侮り」だったのではないでしょうか。桐野はかつて熊本鎮台の司令長官を務めていた時期もあり、熊本城を知り尽くしているという点でも、この城攻めを甘くみていました。そして、その「甘く見ていた」という点は、西郷にもありました。西郷は自身が立てば、自身の声望によって多くの不平士族が立ち上がり、民衆は支援し、この熊本城も、戦わずして明け渡されるだろうと考えていた節があります。そんな西郷や桐野の甘い見通しが、彼らの死地に導いたといえるかもしれません。

 明日に続きます。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-12-11 22:58 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その1 ~西郷の挙兵~

 明治10年(1877年)2月15日に挙兵した西郷軍は、出水街道と大口街道の二道に分かれて東上を開始。そしてその総大将である西郷隆盛も、2月17日に鹿児島を発ちます。このとき、南国の鹿児島では珍しい50年に一度と言われた大雪が数日前から降り続き、町を白く染めていたと伝えられます。西郷軍は出陣するにあたって7大隊を編成し、篠原国幹、村田新八、永山弥一郎、桐野利秋、池上四郎、別府晋介に、それぞれ大隊長として指揮をとらせました。そこに集まった兵は、総勢1万3千人を超えたといいます(もっとも、そのすべてが自ら望んで集まったというわけではなく、半ば強制的に集められた兵も数多く含まれていましたが)。


 e0158128_15131310.jpgドラマでは描かれていませんでしたが、西郷は鹿児島の町を出て島津久光の暮らす磯の邸の前を通過するとき、雪の積もる門前にひざまずき、両手をついて頭を下げたと伝えられます。この時期、久光は少しずつ西郷を理解する姿勢を示し始めていたようですが、西郷自身の久光嫌いは相変わらずだったといい、先の政変で帰郷してからも、ほとんど久光の前に顔を出すことはなかったといいます。しかし、この度の出陣にあたっては、島津家の旧臣を大勢率いていく以上、武士の忠義として筋を通したのでしょう。あるいは、少し穿った見方をすれば、西郷軍のなかには久光を主筋として崇拝している者たちも多数おり、西郷としては、配下への統率上、このようなパフォーマンスも必要と考えたのかもしれません。


 西郷軍の行軍が開始されると、政府はすぐに対応策をとります。東京よりも鹿児島に近い京都と大阪に対策本部を置き、大久保利通も京都に移動しました。そして西郷が鹿児島を発った2月17日に会議が開かれ、有栖川宮熾仁親王鹿児島県逆徒征討総督に任じて勅使として鹿児島に派遣することが決まります。これは、西郷と久光が反乱軍に与しないよう説諭するためのものでした。この時点では、まだ西郷が挙兵に加わっているかどうかの情報が政府に入っていなかったんですね。


 e0158128_15131733.jpg大久保も西郷が軽々しく暴挙には与しないだろうと考えていたようで、2月7日付で伊藤博文に宛てた書簡のなかで、「仮令西郷不同意にて説諭を加ゆるにしても、到底此度は破れに相違なく候」と見たうえで、「此節、事端を此事に発しきは誠に朝廷不幸の幸と、窃かに心中には笑いを生じ候くらいにこれ有り候」と記しています。つまり、私学校党から西郷を切り離して、過激輩たちを追討できれば、むしろ喜ばしいことだというんですね。これまで中央政府に服さず、独立国のように振る舞ってきた鹿児島県士族を、これを期に叩き潰して改善するチャンスだと捉えていたようです。自身の理想のためには故郷も旧友も捨てる。さすがは信念の人・大久保、非常なまでの冷徹さです。


 「おいが政府じゃ!」


 と言ったかどうかはわかりませんが、そういう気概はあったでしょうね。


 e0158128_20170202.jpg決起した西郷軍を全面的に支援したのが、鹿児島県令の大山綱良でした。西郷とは最も古い付き合いの大山でしたが、維新後は久光の側近として鹿児島県の大参事、権令となり、西郷、大久保らの推し進める新政府の改革を批判する立場をとっていました。しかし、西郷の帰郷後は私学校設立などを積極的に支援し、このたびの決起においても援護活動を行います。大山は西郷が立つとすぐに太政大臣・三条実美と右大臣・岩倉具視に宛てて書面を発し、西郷に刺客を差し向けたことを問い詰め、これを「政府の御失体」と糾弾しています。さらに、官金を軍資金として西郷軍に送金するなどの支援をしていたため、その罪を問われて逮捕され、西南戦争終結後、長崎において斬首されます。西郷、大久保とはまた違ったかたちでしたが、大山もまた、最後まで信念を貫いて戦う侍だったんですね。

 明日の稿につづきます。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-12-10 22:14 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

映画『ボヘミアン・ラプソディ』鑑賞記

映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観てきました。

わたしは特にクイーンのファンだったというわけではないのですが、洋楽に目覚め始めた中学から高校時代、友人に勧められて最初に聴いたアルバムがクイーンの『グレイテスト・ヒッツ』でした。

その後、ハードロック、ヘヴィ・メタル系にハマっていったので、そこからクイーンの他のアルバムを聴き込むということはなかったのですが、わたしにとっては、洋楽ロックの入口といっていいバンドでした。

加えて、現在51歳のわたしら世代にとって、LIVE AIDはリアルタイムの観た伝説のステージで、クイーンのパフォーマンスもハッキリ覚えています。

これは、観に行かないわけにはいかないかな、と。




ネットやラジオなどで聞く前評判は絶賛の嵐で、こういう場合、ハードルが上がりすぎて期待はずれになることが多いのですが、その心配はなかったですね。

素晴らしい作品でした。

音楽はもちろん、脚本も、構成も、カメラワークも、キャスティングも、全て見事だったと思います。

4人とも、よくこんな似たキャスティングができましたね。

フレディ・マーキュリーももちろんですが、ブライアン・メイ激似でしたね。

ギターの弾き方までそっくり。

ずいぶん研究したんでしょうね。

ロジャー・テイラーの甘いマスクもそっくり。

ジョン・ディーコンは時代時代で髪型が変わるのですが、その変化も忠実に描かれていました。

フレディのコアなファンからすれば、フレディが生き返ってきたように感じられたんじゃないでしょうか。


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まず、いきなりオープニングで映画配給元の20世紀フォックスのファンファーレが、エレキギターで演奏されます。

これが、ブライアン・メイのレッド・スペシャル(ブライアンと父親が100年前の暖炉の木材で作ったという伝説の名器)の音なんですよね。

これで、もう掴みはオッケー!

物語は1985年のLIVE AIDの会場、ウェンブリースタジアムのステージに向かうフレディの後ろ姿から始まり、その後、舞台は1970年にフィードバック。

そこからバンド結成成功までのサクセスストーリー、黄金期、迷走、分裂の危機などを乗り越え、再びLIVE AIDのステージで集結するというストーリー。

フレディ・マーキュリーというナイーブな奇才の孤独な苦悩を基軸に描いた伝記映画です。

クイーンの映画というより、フレディの伝記映画といったほうがいいでしょうか。

クイーンは決してフレディのワンマンバンドではなかったと思いますが、いい意味でも悪い意味でも、フレディの生涯は数奇な人生だったといえるでしょうから、彼を中心に描かないと物語になりません。


バンド結成時のエピソードなどは、どこまでが実話でどこからがフィクションなのかはわたしにはわかりませんが、車を売って初めてレコーディングした話や、ドラムにコインや酒をばら撒いて叩いたり、ギターアンプを振り子のように揺らしてみたり、たぶん、初期の頃はあんな風に音楽作りを楽しんでいたんでしょうね。

映画作りにはブライアン・メイとロジャー・テイラーが関わっているそうですから、たぶん、本当の話なんでしょう。

その後、ビッグになっていくに連れ、楽しみが苦しみに変わっていく

これはきっと、他のアーチストたちも同じ道なんでしょうね。

少し残念だったのは、バンド結成時のエピが少なかったこと。

あっという間にビッグになった印象でした。

まあ、映画の尺もあるから仕方がないのでしょうが。


それから、ビッグになってからのフレディの豪遊ぶりも、実際にはもっとえげつないものだったでしょうし、凋落ぶりも、きっと、もっと見るに耐えないものだったでしょう。

バンド内の確執も、きっとあんなもんじゃなかったでしょうね。

でも、そこはマイルドに描かれていましたね。

まあ、あまりそこに深く踏み込みすぎると、きっと観てて不快なものになるでしょうから、映画としては、あれぐらいでいいのでしょうね。

ただ、細かいことをいえば、フレディがメンバーを裏切ってソロ活動の契約をしたことで、分裂の危機が生じたように描かれていましたが、実際には、他のメンバーも同じくソロ・アルバムを出しています。

たぶん、この時期、メンバーみんながクイーンに疲れていたんじゃないでしょうか。

フレディひとりのわがままのように描かれていたのが、ちょっと気の毒でしたね。

無粋なことをいうようですが。


でも、それもこれも、ラストのLIVE AIDのステージでぶっ飛びました。

なんですか?・・・あれ。

そのまんまじゃないですか!!

フレディのパフォーマンスも、ステージのセットも、ピアノの上に置かれたペプシコーラまで、全てデジャブでした。

音も、たぶん実際の音源に映像をあててるんでしょうね。

すごいですね。

リアルタイムで観たLIVE AIDのステージでは、フレディたちのそれまでの紆余曲折を知らずに観ていましたから、「ああ、クイーン久しぶりだな」程度の感想でしたが、映画でのそれは、そこに至る彼らの苦悩や葛藤を重ねて観たので、あるいは30年前の本物のステージより心に響いたかもしれません。

これが、まさに音楽の力でしょうね。

このステージの映像だけでも、この映画を観てよかったな、と。

それも、映画館で観てよかったな、と。



クイーンのファンは当然もう観たでしょうが、とくにクイーンのファンではなかった人、クイーンを知らない今の若い人たちも、ぜひ観てほしい作品です。

きっと、心を揺さぶられます。


追記。

メアリー役の女優さん、美人だったなあ。


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# by sakanoueno-kumo | 2018-12-09 00:41 | 映画・小説・漫画 | Trackback | Comments(6)  

江戸城を歩く。 その5 「三ノ丸~二の丸」

「その4」の続きです。

皇居外苑から北上し、大手門に向かいます。


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慶長8年(1603年)に徳川家康が幕府を開くと、天下普請と称して全国の諸大名に散財させ、大坂城に負けない豪壮な城の拡張に着手し、やがてその事業は2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光に引き継がれ、寛永13年(1636年)に内外郭合わせてほぼ全容を完成させました。

現在、江戸城の中心部にあたる本丸、二の丸、三の丸の一部は、皇居東御苑として一般公開されています。


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大手門から東御苑に入ります。

入城は無料ですが、入口で警官に持ち物検査をされます。

皇居ですからね、仕方がないでしょう。


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大手門は枡形になっており、一ノ門である高麗門をくぐると、左手に雁木、右手に二ノ門渡櫓門があります。

往時の門は空襲で焼失し、現在の門は昭和42年(1967年)の復元です。


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しばらく歩くと大手三の門があります。

かつては門の前に堀があって三の丸と二の丸を分けていたそうです。

現在は石垣だけが残っていますが、往時はこの上にがありました。

江戸時代は、御三家以外の大名はここで駕籠を降りなければならなかったため、「下乗」の高札が立てられていたそうで、家臣たちはここで待っている間、他家の家臣と情報交換をしていたため、「下馬評」という言葉が生まれたといわれているそうです。

へぇ~!・・・ですね。


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大手三の門を通って二ノ丸に入ると、同人番所があります。

番所とは警備のための詰所で、ここは主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていました。

いまは二ノ丸側に移設されていますが、かつては大手三の門の外側、すなわち三の丸側にあったそうです。


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同人番所を通過すると、下乗門(三の御門)があります。

現在はその渡櫓門の台座石垣が残されています。


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下乗門を進むと広い空間があり、江戸城最大の番所、百人番所があります。

間口50mもある長大な建物で、ここに詰めていたのは、与力20騎同心100人で、鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で勤務していたそうです。


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たしかに、100人は余裕で入れそうです。


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そして百人番所を過ぎると、中之門があります。

ここは、二の丸から本丸に向かう玄関口です。

現在は渡櫓門の台座石垣のみが残されています。


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そして中之門を入ると、大番所があります。

本丸へ向かう道中の最後の番所なので、同人番所や百人番所よりも位の高い与力が詰めていました。


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ここからは本丸に向かう坂道です。


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そして、ここが本丸への最後の門である中雀門です。

中雀門は別名、御書院門とも呼ばれ、この門を出ると本丸御殿玄関に出ます。

かつては、多門櫓二重櫓に取り囲まれた厳重な門だったそうですが、文久3年(1863年)の火災で類焼してしまいました。


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石垣の表面が傷んでいるのは、そのときの火災によるものだそうです。


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本丸に入る前に、本丸に向かう別ルートを歩きます。


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大手三の門の北側にある二の丸庭園と本丸を結ぶ汐見坂です。

江戸築城初期のころは城のすぐ目の前までが迫っていたそうで、この坂から海を見渡せたため、汐見坂と呼ばれたそうです。


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汐見坂の南側に伸びる白鳥濠です。

ここの石垣は、打込接ですね。


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さて、二の丸はだいたい歩いて回ったので、次稿では本丸を歩きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-12-08 14:28 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その4 「皇居外苑」

「その3」の続きです。

桜田門を出て凱旋濠沿いに東へ歩きます。

打込み接ぎの高い石垣が続きます。


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凱旋濠と日比谷濠の間の内堀通りを北上すると三の丸に入ります。

このあたりは、現在「皇居外苑」と呼ばれ、公園整備されています。


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内堀通り沿いに説明板が設置されていました。


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皇居外苑に中心に、大きな騎馬武者の像があります。

南北朝時代の武将、楠木正成の像です。


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わたしの住む神戸のまちにも、これとそっくりの楠公像があります(参照:太平記を歩く。その91「湊川公園」)。

神戸は湊川の戦いの地であり、楠公に縁の深いまちなので像があっても違和感はありませんが、江戸城となんの縁もない楠公像がなぜここにあるのか。

それは、戦前、楠公さんが国粋主義の忠臣の象徴として崇められていたからに他なりません。


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言うまでもなく、楠木正成は後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に忠義を尽くし、勝てる見込みのない戦いに自ら身を投じ、討死した人物です。

江戸時代、水戸藩を中心とした尊王思想が盛んになると、天皇に忠義を尽くした楠木正成は英雄視され、天皇に反旗を翻した足利尊氏逆賊とされました。


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明治44年(1911年)、南朝、北朝のどちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」が起き、「南朝正統論」国策として進められると、教科書では「南北朝時代」が「吉野朝時代」と改められ、南朝の正統性が国民に浸透させられていきます。

そんななか、楠木正成はその象徴的存在として扱われ、それがやがて「七生報国」などのスローガンを生んで政治利用され、やがてその思想が、日中戦争、太平洋戦争の戦火になだれ込んでいくことになるんですね。

この像は明治37年(1904年)に建てられたものだそうです。

皇居前に楠公像を建てたというのは、どのような政治的意図があったのか。

想像するに難しくありません。


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わたしがここを訪れたとき、大勢の中国人観光客がこの像の前で記念撮影をしていました。

わかってるのかなぁ・・・この像の人物のこと。


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第二次世界大戦後、軍神扱いされていた広瀬武夫の像がGHQによって撤去されましたが、この像はよく撤去されなかったですね。

いまとなっては、ここに楠公像があるのは、違和感しかありません。

徳川家康の像だったら、何の問題もないですけどね。

「その5」に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-12-07 23:26 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その3 「桜田門」

「その2」の続きです。

皇居正門から二重橋濠沿いに南へ歩きます。

打込み接ぎの高い石垣が続きます。


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濠が直角に西へ曲がったところに、渡櫓門が見えます。

皇居から霞が関エリアに抜ける「桜田門」です。


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桜田門といえば、なんと言っても思い出されるのは、幕末に起きた「桜田門外の変」でしょう。

安政7年3月3日(1860年3月24日)、ここ江戸城桜田門外水戸藩脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老・井伊直弼暗殺した事件です。


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安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政6年(1859年)が暮れて、大老・井伊直弼独裁専制志士弾圧に反発する空気はいよいよ緊迫し、「除奸」すなわち奸物・井伊を暗殺しようという計画が、水戸藩士と薩摩藩士のあいだで進められました。

過激派の中心人物だった水戸藩士の高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介らは、ひそかに脱藩して江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに、3月3日上巳の節句の日、登城する井伊直弼を桜田門外において襲撃する手はずをととのえます。


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この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。

雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の浪士たちの手によってさんざんに斬りつけられます。

駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。

襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。

享年46。

幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。


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この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。

水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。

この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れず、これをきっかけに、「天誅」と称した血なまぐさい暗殺が繰り返されるようになります。

その意味では、直弼の強権政治は新しい反幕・倒幕勢力を生み出す要因となり、またその死は、幕府の権威を落とすことになったといえるでしょうか。


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作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。


「暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」


この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは事実でしょうね。


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写真は桜田門外側の高麗門です。

この高麗門と上の渡櫓門枡形構造になっています。


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説明板によると、この門の正式名称は「外桜田門」というそうで、「その1」で紹介した桔梗門「内桜田門」といったそうです。


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「桜田門外の変」と呼ばれるくらいですから、この高麗門の外で起きたのでしょうね。


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桜田門前の交差点です。

このあたりで事件が起きたのかもしれません。


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桜田門西側の桜田濠


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桜田門東側の凱旋濠です。


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桜田門だけでずいぶん長くなっちゃいました。

次稿に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-12-06 23:47 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

西郷どん 第45話「西郷立つ」その3 ~弾薬庫襲撃事件~

昨日の続きです。

 西郷隆盛暗殺計画が持ち上がる少し前、政府内では鹿児島の不穏な動向に対処すべく、ある計画を立案します。その計画とは、鹿児島の兵器弾薬製造所を大阪へ移すというものでした。もちろん、これは鹿児島での反乱の発生を視野に入れた緊急対策でした。この製造所は、かつては薩摩藩の弾薬庫でしたが、維新後は政府軍の管轄下になっていました。国のものである以上、政府がこれをどこに移そうが鹿児島県には関係のないことですが、実際には、この当時の士族たちには、これが日本国の所有物だとする認識が薄く、また、たとえ国のものであったとしても、それを鹿児島から遠ざけようとする行為は、政府が私学校党軍事的な敵として認めたことになり、この状況で武器弾薬の移設を行うというのは、いたずらに私学校党の感情を刺激して挑発することになりかねないとして、海軍大輔の川村純義が激しく反対し、いったんは中止となっていました。しかし、鹿児島に潜入していた警視庁の密偵から私学校党の不穏な動向が伝えられると、政府は、武器弾薬が奪われるのを防ぐべく、夜中に製造所の武器弾薬の搬出を開始しました。


 ところが、この情報はすぐさま私学校党の耳に入り、これに挑発された私学校党二十数名が、明治10年(1877年)1月29日夜に草牟田にあった陸軍の弾薬庫を襲撃銃砲と弾薬約6万発を奪取しました。さらに翌日の夜には、約1000人もの私学校党が再び草牟田の陸軍火薬庫と磯海軍造船所内にあった弾薬庫をそれぞれ襲撃し、多量の武器弾薬を掠奪します。


 ドラマでは、この弾薬庫襲撃事件に私学校幹部の桐野利秋篠原国幹が関わっていたかのように描かれていましたが、実際には、このとき桐野ら主要幹部のほとんどが鹿児島城下を不在中で、西郷に至っては、鹿児島城下から遠く離れた大隅半島最南端の小根占で猟を楽しんでおり、事件は血気に逸る若者らの暴発だったようです。この幹部不在という状況が暴発を招いたともいえるかもしれませんが、いずれにせよ、事件の報を受けた桐野と別府晋介が、それぞれの在所から篠原の居宅に駆けつけ、善後策を協議した末、西郷に報せるべく辺見十郎太を小根占まで走らせました。


 事件の報告を受けた西郷はたいそう驚き、「しまった!」とつぶやいたといいます。そして辺見に対して怒気を発し、まるで辺見が火薬庫を襲った張本人であるかのごとく、「何事、弾薬などを追盗せえ!」怒鳴ったと伝えられます。このときの西郷の「しまった!」という言葉が、後世に西郷自身は挙兵に積極的ではなかったとされる根拠となっています。しかし、歴史家の家近良樹氏は、西郷は決起して政府を転覆させる野心を持っており、そのタイミングを窺ってはいたが、まだ機が熟していないと考えていたため、「しまった!」という言葉を発したのだろうと説かれています。いずれにせよ、西郷という人は多くを語らないため、その真意をうかがい知ることは容易ではありません。


 e0158128_21591928.jpg2月3日に鹿児島に戻った西郷は、2月5日、私学校内で幹部および分校校長ら200名たちとともに今後の対策を話し合いました。その席では挙兵論自重論の双方が激論を交わし、別府晋介や辺見十郎太らは問罪のための即時挙兵を主張しますが、慎重派の永山弥一郎河野主一浪らは、兵を挙げるのではなく西郷と桐野と篠原らが幹部のみが非武装で上京し、中原尚雄の西郷暗殺計画の供述書を持って政府に詰問すべしと主張し、一時はその方針に決まりかけます。しかし、ここで、それまでずっと黙っていた桐野が発した一言で、すべては一蹴されました。


「命が惜しいか!」


 この言葉は、勇敢さこそ第一の誉れとする薩摩隼人にとって最も屈辱の言葉であり、すべての議論を無にしてしまう一言でした。さらに篠原国幹が「議を言うな」と一同を黙らせ、最後に桐野が「断の一字あるのみ、旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案。これですべてが決しました。あとは、西郷の裁断を仰ぐのみ。桐野から裁断を求められた西郷は、あの有名な言葉を発します。


e0158128_15131310.jpg 「おいの体は皆に預けもんそ」


 この言葉は、西郷の息子である西郷菊次郎が隣室でふすま越しに聞いたと言われていますが、それが、いつ誰に対してだったかがよくわかっておらず、果たしてこのときの言葉だったかどうかも定かではありません。いまとなっては確かめようがありませんが、いかにも西郷らしい言葉といえます。この言葉も、先の「しまった!」という言葉同様、西郷は挙兵に対してあくまで受け身であり、決して本意ではなかったと言われる根拠となっています。西郷は挙兵には反対だったが、ことここに至っては戦は避けられず、弾薬庫を襲撃した私学校生たちを見捨てることはできず、彼らに身を任せた、と。実際のところ、どうだったのでしょうね。


 かくして西郷らは決起しました。その大義名分を記した通知書には、「今般政府に尋問の筋これ有り」と記されていました。「尋問の筋」とは、言うまでもなく中原尚雄が供述した西郷暗殺計画だったでしょう。しかしながら、後世から見れば、この動機はあくまで西郷個人の命を問題とする私怨いえ、決起の大義名分というには稚拙だったと言わざるを得ません。もし、これが、当時の士族一般が不平を抱いていた大久保政権の在り方を問うというかたちで決起していれば、あるいは、この後の事態は大きく変わったかもしれません。これが、もし桐野や篠原らが主導した大義名分だったとすれば、やはり、彼らに身を任せたのが失策だったということでしょうね。立つなら、西郷自身が主導すべきだったんじゃないでしょうか。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-12-05 15:14 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第45話「西郷立つ」その2 ~西郷暗殺計画~

 昨日の続きです。

 各地で不平士族の反乱が勃発していた同じ頃、鹿児島県では、県令・大山綱良以下の役人には一人も県外人を入れず、すべて私学校とその分校の幹部を就かせて、県政は中央政府の法令には一切従わず、私学校の指導で行われていました。県下の租税はいっさい中央にあげず、県下では秩禄処分もなく、太陽暦も採用せず旧暦を守り、士族は相変わらず刀を帯び、ひとたび西郷隆盛の命令が下ればただちに戦闘状態に入れるよう組織され、訓練されていました。つまりこれは、日本国内において事実上中央政府から独立した政権、鹿児島国だったといっていいでしょう。そしてそのなかで、西郷自身はなんの役職にも就かず、それらを超越した最高権威として君臨していました。


 彼らは、熊本・秋月・萩の乱にも、なお自重して動きませんでした。おそらく、西郷が軽挙を抑えていたのでしょう。しかし、中央の政権に一切従わない彼らを、政府は放っておくわけにはいきませんでした。政府・内務卿大久保利通は、内乱を避けるべく鹿児島県士族に限って特別の優遇をしてきましたが、それに対する木戸孝允らの反対は強く、鹿児島県のみを特殊あつかいすることに対して、大久保を避難する声が高まります。さすがの大久保もこの声を無視するわけにはいきませんでした。


e0158128_21495406.jpg各地で不平士族の反乱が続いた明治9年(1876年)の暮れ、警視庁大警視(現在の警視総監)の川路利良は、警視庁二等少警部の中原尚雄ら二十数名の警察官に対して、墓参りや母親の看病などの名目で鹿児島に帰省し、西郷らの動向を探るよう命令を下しました。中原らは年が明けた明治10年(1877年)1月に相次いで鹿児島に帰り、私学校の生徒たちに接近します。しかし、鹿児島ではこの前年より西郷を暗殺しようとする者が政府から送り込まれているとの風評があり、そのため、私学校党は西郷の身辺警護を強化していました。そんな最中での中原らの帰国だったので、私学校党は最初から中原らを疑っていたようで、中原らの密偵活動は、なかなか上手くことを運ぶことができませんでした。


 そこで中原は、谷口登太という旧知の友人を味方に引き込んでスパイにしようとしますが、この谷口が、実は私学校党から送り込まれた逆スパイでした。そうとは知らない中原は、谷口と酒を交わした際につい心を許し、自身の帰郷の目的は私学校の瓦解工作の任であること、また、西郷が挙兵の動きを見せれば踏みとどまるよう説得にあたり、もし聞き入れられなければ、「刺し違えるより外ない」との決意を打ち明けました。現存する中原の口供書には、こうあります。


「万一挙動ノ機ニ立至ラハ、西郷ニ対面刺違ヘルヨリ外仕様ハナイヨトノ申聞ニ随ヒ居候」


 川路から、万一の場合は西郷と差し違えよと命じられていたというんですね。また、谷口の報告書には、こうも記されています。


「第一西郷隆盛ヲ暗殺セハ、必ス学校ハ瓦解ニ可至、其他、桐野、篠原ノ両士迄斃候得ハ、其跡ハ至テ制シ安ク、尤モ西郷ニハ同人知己ノ事故、面会ヲ得テ可刺殺覚悟ニ候、勿論此人ト共ニ斃レ候得ハ、我身ニ於テハ不足ハ無之」

「まず西郷を暗殺する、そうすれば必ず私学校は瓦解する。つづいて桐野利秋、篠原国幹の両名を斃せば、あとは制しやすい。自分は西郷と面識があるから、面会して刺殺する覚悟である。もちろん、西郷とともに斃れれば、我が身において不足はない」


 これらの供述や報告書を鵜呑みにすれば、政府による西郷暗殺計画は実際にあったと判断できますが、しかし、これらは私学校党による激しい拷問を受けての供述であり、どこまで事実と見るかは判然としません。実際、中原は西南戦争の終結後、供述は拷問によって強要されたものだとして全否定しています。一説には、中原らが帰国の理由を「視察」のためと供述したものを、私学校党がわざと「刺殺」と読みかえて挙兵の名義としたとの見方もあります。つまり、決起するためにでっち上げた捏造だったということですね。これも、いまとなっては確認のしようがありませんが、ただ、一概に邪説だとして片付けられない側面もあります。それは、ポリスと私学校党の関係が背景にありました。


 私学校党の多くは元近衛兵で、西郷と同じく城下士の出身でした。一方のポリスたちの多くは、外城士(郷士)の出身でした。旧藩時代、薩摩藩では城下士が外城士を見下し、そのため、外城士は城下士を激しく憎んでいました。そんななか、西郷は外城士に対しても心配りをする人物だったといいますが、とはいえ、西郷とて当時の封建社会における例外ではなく、城下士に対する態度に比べれば、外城士への態度はいくらかは落ちました。そんな身分差別に対する不満、そして西郷との関わりの厚薄が、そのままこのときのポリスと私学校党の対立の根底にあったことは否定できません。


 西郷の暗殺計画が本当にあったのかどうか、仮に事実だったとして、それは川路利良の独断だったのか、あるいは、その背後に大久保利通の指示があったのか、いまとなっては明らかにはしえません。しかし、この報告を受けた西郷は、これを事実だと受け止めたようでした。そして、時を同じくして、もうひとつ、挙兵の実質的導火線となった事件が発生します。私学校党による弾薬庫襲撃事件ですね。続きは明日の稿にて。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-12-04 14:21 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)