赤穂高取峠の早駕籠像に見る、浅野内匠頭刃傷沙汰の報せにかかった労力と経費。

前稿までシリーズ5回に分けて赤穂城跡めぐりを紹介してきましたが、その帰路、赤穂市と相生市の境にある高取峠にある駕籠かきの像が目に入り、立ち寄ってみることにしました。


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駕籠かきが4人いるので、早駕籠のようですね。


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説明板によると、この早駕籠は元禄14年(1701年)3月14日に江戸城松之廊下で勃発した浅野内匠頭長矩刃傷沙汰を知らせるための使者が乗った駕籠だそうです。


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事件が起きたのは3月14日。

第1報の使者は早水藤左衛門萱野三平の2人でした。

彼らが江戸を発ったのは当日の未の下刻(午後3時半頃)で、赤穂城に着いたのが3月19日の寅の下刻(午前5時半頃)だったといいますから、江戸から155里(約620km)の距離を、わずか4日半で走行したことになります。

1日に140kmほど進んだことになりますね。

普通にだだ走るだけでも大変なのに、駕籠を担いで走るわけですからね。

しかも、ジョギングシューズじゃなく、わらじで。

どのくらいの頻度で担ぎ手が交代するのかはわかりませんが、おそらく昼夜ぶっ通しで走らないと不可能なスピードで、ちょっと想像を絶しますね。


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それと、駕籠かきは駅ごとに交代するでしょうが、乗ってるほうは変わらないですから、4日半ぶっ通しでこの狭い駕籠のなかというのも、エコノミー症候群になりそうです。


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早水と萱野が持ち帰った報せは、刃傷沙汰のみでした。

しかし、浅野内匠頭長矩はその日のうちに切腹させられましたから、ふたりはそれを知らずに江戸を発ったわけです。

そのため、長矩の切腹と赤穂藩の取り潰しを報せる早駕籠が、その日の夜更けに江戸を発っています。

その第2報の使者は原惣右衛門大石瀬左衛門でした。


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ここで少し俗な話しをすると、この2回の報せをするために、どれほどの労力経費がかかったのでしょう?

今でも、もし東京から赤穂までタクシーで行ったら、ちょっと想像つきませんが、たぶん10万円20万円ではきかないんじゃないでしょうか?

この当時の駕籠も同じで、決して安い交通機関ではありませんでした。

少し時代があとになりますが、天保年間(1830~44年)ごろの町駕籠の運賃は1里あたり400文(約1万円)ほどと言われ、担ぎ手が4人だと、その倍かかりました。

となると、155里の距離を1里2万円で計算すると、なんと310万円

かけることの早水、萱野、原、大石の4人ですから、このとき4人が使った早駕籠代は1,240万円ってことになります。

長距離割引があったかどうかはわかりませんが、深夜割増もあったかも。

お家の一大事ですからそんなこと言ってられなかったでしょうが、大きな出費ですよね。

これ、必要経費で落ちますかね?


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あと、どれだけの労力を費やしたかを考えてみると、駕籠かきがどれくらいの頻度で交代するのかわかりませんが、たぶん、1回のチームが走行できる距離は20kmくらいが限界なんじゃないでしょうか?

となれば、620km進むのに、31回交代したことになります。

かけることの1チーム4人ですから、ひとりの早駕籠に対して述べ124人が担いだことになり、さらに早水、萱野、原、大石の4人ですから、なんと担ぎ手の総人数は496人

すごい労力ですね。

長矩がもうちょっと我慢していれば、これほどの無駄な労力と経費はかからなかったわけです。

もちろん、お家断絶四十七士の死といった不幸に比べれば小さなことですが、そんな小さなことひとつ取ってみても、やっぱ、藩主の行動としては、浅はかだったといえるのではないでしょうか。


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ちなみに歴史の話を少しすると、早駕籠に乗って帰国した早水、萱野、原、大石の4人のうち、萱野以外は四十七士に名を連ねて吉良邸討ち入りに参加し、武士としての本懐を遂げることになりますが、萱野三平は、赤穂城開場後に父から吉良家と繋がりの深い大島家へ仕官するよう強く勧められ、同志との義盟や旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになって苦しみ、切腹して果てます。

無念だったでしょうね。


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わたしがここを訪れたのは桜が満開の4月9日でしたが、彼らを乗せた早駕籠がこの峠を通過したのは、旧暦の3月19日、いまの暦で言えば4月21日でした。

昔の気候でいえば、あるいは桜がまだ咲いていたかもしれませんね。

ふと、立ち寄った高取峠で、そんなことを思いながら赤穂をあとにしました。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-02-23 11:55 | 島根の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その5 「水手門、塩屋門」

「その4」の続きです。

シリーズ最後は、赤穂城二ノ丸南側の水手門跡からスタートです。


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かつて赤穂城の南はヨシ原が広がる干潟に面していて、満潮時には海水が石垣に迫るほどだったそうです。

ここ水手門は、赤穂湾に出るための船着き場だったそうです。


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こちらはその説明板。


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現在、水手門の南には水堀があります。

海はこれより1km以上南。

往時とはまったく地形が変わってしまっています。

地面に見られる四角い礎石跡は、おそらく門の痕跡なんでしょうね。


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外から見た水手門跡です。

突堤の下に雁木があるのがわかりますね。

時代劇なんかを見てると、ああいった雁木の石段に船をつけてますよね。


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突堤は現在、城の外と中を結ぶのような役割になっていますが、往時の突堤は、防波堤の役割でした。


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突堤から見る石垣越しのが綺麗です。


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水手門を出て、城跡外周をぐるっと歩いて三ノ丸西側にやってきました。

写真は西隅櫓台跡の石垣。

往時はこの台の上に二重櫓があったそうです。

ただ、その横の石垣が無残に倒壊しています。


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こちらは西隅櫓台の少し北にある塩屋門跡

赤穂城搦手門にあたります。

枡形虎口の形状ですが、高麗門だけで櫓門はなく、奥に太鼓楼があったそうです。


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その案内板です。

古写真にその姿が見られます。


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説明板によると、元禄14年(1701年)3月14日に藩主・浅野内匠頭長矩が起こした刃傷沙汰で、その第1報を持った早水藤左衛門萱野三平と、そして切腹と赤穂藩の取り潰しを知らせる第2報原惣右衛門大石瀬左衛門が入ったのがこの門だったそうで、また、4月19日の城の明け渡しの日に、備中国足守藩第5代藩主の木下公定が通ったのも、この門だったそうです。


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塩屋門の片隅には、歌人・良寛の歌碑が。


山おろしよ いたくなふきそ しろたえの ころもかたしき たびねせし夜は


良寛が諸国行脚の途中、赤穂に立ち寄った際に詠んだ歌だそうですが・・・スミマセン、意味がわかりません(笑)。

和歌のわかる人、誰か解説してください。


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塩屋門とは真反対の三ノ丸東側にある、清水門にやってきました。

ここは、他の門とくらべて小さな門に見えます。


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説明板によると、元禄14年(1701年)4月19日、幕府に城を明け渡したあと、大石内蔵助良雄が退城したのがこの門だったそうです。


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清水門南側には、二重櫓が建っていた二ノ丸東北櫓台があります。

やけに石垣がきれいなので、たぶん復元かと思われます。


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その向かいには、米蔵をイメージしたという歴史博物館があります。


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清水門北側の堀と石垣です。

桜が綺麗ですね。


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で、城跡を1周して「その1」で紹介した大手門に戻ってきたのですが、この日は「春の義士祭」というお祭りの日だったようで、大手門から女性四十七士の行列が出来ました。

毎年4月の第2日曜日に開催されているそうです。

せっかくなので写真を掲載します。


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先頭を歩くのが大石内蔵助良雄とすれば、その後ろを歩く女性の槍の先に吊るされた白布の包が、吉良上野介義央の首でしょうね。


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思わぬパレードに遭遇したところで、赤穂城シリーズを終わります。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-02-22 02:03 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その4 「元禄桜苑」

「その3」の続きです。

赤穂城本丸の東側にある厩口門を出て、二ノ丸南に向かいます。

写真は、本丸側から見た桜と厩口門の高麗門


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天気が曇りじゃなかったら、もっと綺麗だったでしょうね。


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門の外にも桜が見えます。


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こちらは本丸の外から見た厩口門。


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正保2年(1645年)に入封した浅野長直によって築かれた赤穂城ですが、浅野家は3代当主の浅野内匠頭長矩刃傷事件が起こり、改易となります。

城は一旦、お隣の播磨龍野藩主・脇坂安照の預かりとなりますが、その後、下野国烏山藩より永井直敬が3万3,000石で入封。

しかし、直敬はわずか4年で転封となり、代わって備中国西江原藩より森長直が2万石で入部。

以後、明治4年(1871年)の廃藩置県までの12代、165年間、森家が赤穂城主を務めます。


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説明板によると、この門が厩口門と呼ばれていたのは浅野家時代で、森家の時代には「台所門」と呼ばれていたそうです。


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その厩口門もしくは台所門から内堀に沿って南に向かいます。


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桜並木が見えてきました。

石垣が切れている部分は、前稿で紹介した刎橋門跡です。


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こちらが二ノ丸側からみた刎橋門跡。


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そのまま南に進むと、内堀最南端に隅櫓跡の石垣があります。

横矢掛けの形状をしています。


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本丸西側の二ノ丸は市民憩いの芝生広場公園として整備されており、元禄桜苑と名づけられた花見の名所となっています。


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この日は天気が良くなかったので、あまり花見客はいませんでしたが、たぶん、いつもはもっと賑わっているのでしょう。


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水面に映る逆さ桜


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晴れてたらもっと綺麗だったでしょうね。


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元禄桜苑の最北端には、「その2」で紹介した二ノ丸庭園に入る西仕切門があります。

ただ、二ノ丸庭園は整備中のため、平成29年(2017年)4月現在、この門はまだ閉じられたままです。


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元禄桜苑最南端には、南沖櫓台があります。


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土塁を登ってみました。

南沖櫓台の外側には、現在外堀が巡らされていますが、かつてはこの先はだったそうです。


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南沖櫓台から見た土塁と桜です。


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南沖櫓台の東側にある水手門跡の向かい側に、米蔵があります。

この米蔵の建物は復元で、現在は休憩所になっています。

説明板によると、古絵図や古文書によると、かつてこの場所に2棟ないし3棟の米蔵があったそうです。


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さて、本丸、二ノ丸と攻略しましたが、もう1回だけシリーズを続けます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-02-20 16:49 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第7話「おかしな二人」 ~華麗なる一族・三島家~

 今話はオリンピック代表となった2人の話。オリンピックに行きたくてもお金の工面がつかない金栗四三と、お金はあってもオリンピック出場には難色を示す三島弥彦。2人の両極端な境遇の対比が面白かったですね。


e0158128_16513466.jpg金栗とともにオリンピック代表となった三島弥彦は、当時のスポーツ界のスーパースターでした。東京帝国大学の法科生で、当時の成人男性の平均身長が155cm前後だった時代に170cmを超える長身で、東京帝大に行く前の学習院の学生時代には、野球部エースにして主将ボート部でも活躍し、東京帝大入学後は柔道二段乗馬もたしなみ相撲も強く、スキー、スケートにも長けていたとか。まさにスポーツ万能を絵に描いたようなスーパーアスリート百獣の王、霊長類最強男子だったようです。


三島弥彦が生まれた三島家は元薩摩藩士で、父の三島通庸は、あの西郷隆盛大久保利通が結成した精忠組の一員でした。その後、西郷に見出され鳥羽・伏見の戦いなどで活躍し、維新後は大久保に取り立てられて明治政府に出仕し、複数の県令(いまで言う県知事)を経て警視総監を務め、子爵を授けられた家柄でした。その父は弥彦が2歳のときに亡くなりますが、弥彦の兄・三島彌太郎日銀総裁になり、父と同じく子爵を授けられます。彌太郎は徳富蘆花の小説『不如帰』の登場人物、川島武夫のモデルと言われていますね。彌太郎の最初の妻は大山巌の娘で、二人目の妻は四条隆謌侯爵の娘です。


 弥彦のもうひとりの兄・豊沢弥二の妻・のお姉さんの夏子の孫にあたるのが、作家で割腹自殺したあの三島由紀夫です。また、その夏子の養祖父にあたるのが、幕末の徳川幕府大目付だった永井尚志。永井は幕臣として榎本武揚土方歳三とともに五稜郭の戦いで最後まで薩長軍に抗った人ですね。あの坂本龍馬暗殺される前日に永井と会っており、龍馬暗殺の黒幕説のひとりでもあります。


 また、弥彦の姉・峰子は、大久保利通の次男・牧野伸顕に嫁いでおり、その娘婿が昭和の名総理・吉田茂。その孫が、元総理で現財務大臣の麻生太郎氏です。また、その麻生太郎氏の妹が、皇室の寛仁親王妃信子さま。先ごろ亡くなられたヒゲ殿下こと三笠宮殿下お妃さまです。さらに、弥彦の妻となる文子の祖父は、幕末の名君・佐賀藩主の鍋島閑叟です。こうして見ても、弥彦の生まれた三島家というのは、まさに華麗なる一族だったんですね。


 そんな名家に生まれた貴公子の弥彦は、オリンピック出場要請を受けた当初、「たかが駆けっくらをやりに外国くんだりまで出かけるのは、東京帝大の学生にとってどれほどの価値があるのでしょうか?」と、東京帝大総長に相談したといいます。その帝大総長の励ましに後押しされ、卒業試験延期をも決して、オリンピック出場の意を固めたそうです。こうして、日本初のオリンピック選手2人が出揃いました。いよいよ日本のオリンピック史の幕開けです。


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# by sakanoueno-kumo | 2019-02-18 01:32 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その3 「本丸」

「その2」の続きです。

いよいよ赤穂城本丸を攻めます。

写真は本丸門

発掘調査の遺構に基づき、明治時代の古写真絵図を参考にして平成8年(1996年)に総工費6億7,000万円をかけて完全復元したそうです。


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本丸門は枡形虎口の形状で、手前に高麗門、奥に櫓門が見えます。

大手門では高麗門だけが復元されていましたが、こちらは櫓門もあります。

やはり、高麗門と櫓門がセットで揃うと見事ですね。

THE城門!って感じです。


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説明板によると、奥の脇戸付櫓門一の門で、木造本瓦葺入母屋造り、幅13m、高さ11mあるそうです。

手前の高麗門が二の門で、木造本瓦葺切妻造り、幅4m、高さ6mだそうです。


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説明板には古写真が掲載されています。


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本丸門の左右に伸びる内堀です。


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一の門の高麗門をくぐると、枡形ニの門の櫓門が見えます。

枡形内は思った以上に狭く、これは攻めにくい。


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ニの門の横の石垣の上には狭間が並び、向かいには雁木があります。

ここに閉じ込められたら、上から撃たれ放題

まさに袋のネズミですね。


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櫓門をくぐると、櫓の内部無料公開の看板が。

これはラッキー。


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本丸側から見た櫓門です。


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そして、こちらがその内部。

往時はここに門番が詰めていたのでしょうが、今は史料展示コーナーになっています。


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櫓門から左右に伸びる土塀には、様々なかたちをした狭間があります。


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櫓門から本丸の敷地を見下ろします。

コンクリートで整備された部分は御殿跡で、表御殿、裏御殿、台所の3ブロックに分かれます。

奥の緑の部分は庭園で、その左側に見える石垣が天守台です。


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御殿跡に降りてきました。


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本丸の案内図と説明板、御殿の見取り図です。


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地面には、その間仕切りを示した石盤が埋め込まれていて、たいへんわかり易い。


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コンクリートもただ敷き詰めているだけじゃなく、板間はの形状、畳の間はの形状をしていて、実にディテールにこだわった再現でした。


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そして、こちらが奥の天守台です。


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赤穂城は、正保2年(1645年)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648年)より13年以上の歳月を費やし、寛文元年(1661年)に完成したものです。


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つまり、太平の世になってからの城で、この時代に築かれた城の多くは、徳川幕府への遠慮で天守が築かれませんでした。

赤穂城もその例外ではなく、天守台のみ築かれて、その上に天守が築かれることはありませんでした。


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天守台の上は芝生が敷き詰められています。

当初は5層天守の造営の計画もあったといいますが、それほど大きな面積ではありません。


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天守台から北側の御殿跡を見下ろします。

向こうに見えるのが二の門の櫓門。

往時は建物があったわけですから、門は見えなかったでしょうね。


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こちらは、天守台の西側にある表御殿大池泉と庭園です。

桜並木が見えるのは、本丸を囲う石垣内堀の外です。

天気が良かったら、綺麗な眺望だっただろうなぁ。


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天守台を降りて庭園を歩きます。

この池も、発掘調査に基いて復元されたものです。


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本丸南側にある刎橋門跡


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その名称のとおり、かつてここにははね上げ式の橋があったそうで、二ノ丸と通じていました。

向こうに見える桜並木は、二ノ丸です。


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さて、本丸をあとにして、「その4」は二ノ丸の桜を観にいきましょう。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-02-16 11:18 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その2 「二ノ丸庭園」

「その1」の続きです。

赤穂城三ノ丸武家屋敷跡を過ぎて二ノ丸門を通る手前に、山鹿素行の銅像があります。

山鹿素行は赤穂藩初代藩主の浅野長直に千石で召し抱えられた儒学者、兵学者で、赤穂城の築城にも参画した人物です。


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説明板によると、赤穂城築城時には二ノ丸虎口縄張りを一部素行が変更したとされます。

だから、ここ二ノ丸門の前に銅像があるんですね。


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山鹿素行は家中で兵法を教え、あの大石内蔵助良雄も門弟のひとりだったといいます。

その後、大石たちが吉良邸討ち入りを成功させたことで、山鹿流「実戦的な軍学」という評判が立つことになったそうです。

その後、山鹿流兵法は幕末まで伝授され、吉田松陰松下村塾でも教材となりました。


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土台の銅板は漢文なので、よくわかりません。


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そしてここが、その二ノ丸門です。

今はただの道ですね。


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案内板です。

往時は切妻式櫓門が構えられていたそうです。


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こちらの案内板では、文久2年(1862年)12月9日に起きた文久事件が紹介されています。

文久事件とは、藩政改革を唱える急進派家臣の一派が、国家老の森主税と側用人の儒学者・村上真輔を赤穂城の門前で暗殺したことに端を発する事件で、その暗殺が行われたのが、この附近だったそうです。

本来は下級武士が藩の重臣を暗殺すれば大罪ですが、このとき、藩内の対立抗争の背景で急進派は賞賛され、逆に被害者であるはずの森主税や村上真輔の遺族が閉門の処分を受けることになります。

しかし、これを納得できない遺族たちは、事件から9年後の明治4年(1871年)2月30日、暗殺者たちが潜んでいた高野山に押しかけ、ついにそのをとりました。

世にいう「高野の仇討ち」です。

この事件がきかっけとなり、明治政府は「仇討ち禁止令」を発令するに至ります。

そのため、この事件は「日本最後の仇討ち」と言われているんですね。

高野の仇討ちといい忠臣蔵といい、赤穂は「仇討ち」のお国柄ですね。


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二ノ丸門を過ぎると、立派な土塀屋敷門が目に入ります。


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説明板によると、この門は家老の大石頼母良重屋敷門の復元だそうです。

大石頼母邸良重は大石内蔵助良雄の大叔父にあたる人で、浅野長直に重用され、長直の娘を妻に迎えて、ここ二ノ丸に屋敷をかまえていたそうです。


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平成10年(1998年)から3年ほどかけた二ノ丸発掘調査で屋敷跡の痕跡が多く見つかったそうで、その遺構に基いて復元されたそうです。


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門の横には、同じく復元された二の丸庭園の案内板がありました。

ここも、発掘調査をもとに平成14年(2002年)から約14年の歳月と約12億円をかけて修復したもので、ここを訪れた平成29年(2017年)4月現在もまだ整備中でした。


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門を潜ると、広大な庭園が広がります。


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「錦帯池」と呼ばれる池と、あずまやです。


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庭園は約1.5ヘクタールあるそうですが、わたしが訪れた1年前の時点では、4割に当たる約6,000㎡程度の公開でした。


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石垣に上ると、外堀が見下ろせます。


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北側の山には、「赤」の文字が。

夜にはイルミネーションで光るそうです。


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二ノ丸庭園の南を見ると、土塀の向こうにが広がります。

二ノ丸庭園は大石頼母屋敷門のあった東仕切門と、南側に通じる西仕切門があるのですが、平成29年(2017年)4月現在は、整備中のため西仕切門は開けられていませんでした。

なので、向こう側の桜並木に行く前に、本丸に向かうことにします。

続きは「その3」にて。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-02-14 23:51 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その1 「大手門~武家屋敷跡」

過日、播州赤穂城跡を訪れました。

赤穂といえば、「時は元禄15年、師走半ばの14日・・・」でお馴染みの赤穂浪士を誰もが思い浮かべるかと思いますが、あの浅野家の居城だった城です。

赤穂城は、正保2年(1645年)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648年)より13年以上の歳月を費やし、寛文元年(1661年)に完成したものです。

わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)4月9日、桜が満開の赤穂城を歩きます。


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写真は大手門太鼓橋です。

昭和30年(1955年)に復元されたものだそうです。


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その北側には、同じく昭和30年に復元された隅櫓があります。


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大手門の高麗門をくぐります。

復元だからだと思いますが、扉がありません。


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門をくぐると、石垣で枡形が形成されています。


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おそらく、往時は櫓門があったのでしょう。

発掘調査で確認された礎石位置を示す板(白い四角の部分)が地面に埋め込まれています。


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石垣は切込み接ぎですね。


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枡形虎口を進むと、奥に番所跡があります。

櫓門を通る人を検問する門番が詰める場所で、今でいえばガードマンの詰所ですね。

その右側に見えるのが、外からの写真で大手門の横にあった隅櫓。


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桜が綺麗です。


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番所を過ぎて二ノ丸へ向かう途中に、武家屋敷跡が連なります。

まず目に入るのが、近藤源八宅跡長屋門


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「長屋門」とありますが、現存している建物は長屋部分のみで、門は残っていません。

じゃあ、なんで「長屋門」なんでしょう?


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内部から見た源八長屋門です。

たぶん、最近改修されたんでしょうね。

壁も瓦も綺麗です。


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近藤源八正憲は甲州流兵法の学者で、禄高1000石の重職を担っていました。

源八の父は赤穂城の縄張りを進めた近藤三郎左衛門正純で、源八の妻は、あの大石内蔵助良雄の叔母にあたるそうです。

浅野刃傷・赤穂藩改易時にはかなりの高齢だったと見られ、仇討ちの義盟には加わりませんでした。


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そして、こちらが大石内蔵助良雄邸長屋門です。

内蔵助については、ここで改めて説明するまでもないですよね。


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説明板によると、浅野家筆頭家老の大石家三代が57年にわたって住んでいた屋敷の正門で、主君・浅野内匠頭長矩刃傷事件を知らせる江戸からの急使がたたいたのも、この門だったそうです。


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門の前には、「史蹟 大石良雄宅跡」と刻まれた石碑が立ちます。


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大石家の邸跡には、現在、大石神社があります。

大石神社については、平成24年(2012年)の当ブログ(赤穂四十七義士を祀る大石神社に初詣。)の稿で紹介しておりますので、今回はスルーします。


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あと、建物は存在しませんが、城跡内には多くの武家屋敷跡があります。

全部を説明していたら終わらないので、写真のみ紹介。


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四十七士の片岡源五郎右衛門宅跡。


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同じく四十七士の間瀬久太夫正明屋敷跡。


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こちらも四十七士の磯貝十郎左衛門屋敷跡。


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こちらは脱落組の鈴田重八屋敷跡。


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こちらも脱落組の田中貞四郎屋敷跡。


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こちらは、最初から大石たちとは意見を異にしていた大野九郎兵衛屋敷跡。


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こちらは藩医の寺井玄渓屋敷跡。


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素性がよくわからない神尾専右衛門邸跡。


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武家屋敷跡だけでずいぶん長くなっちゃいました。

最後に武家屋敷公園の桜を紹介して、「その2」に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-02-13 23:23 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第6話「お江戸日本橋」 ~『黎明の鐘』となれ!~

 明治44年(1911年)11月18日に行われた第5回ストックホルムオリンピック国内予選大会の結果を受けて、大日本体育協会はマラソンで世界記録を樹立した金栗四三と、100m、400m、800mで優勝した東京帝国大学卒業生の三島弥彦の二人を、日本代表としてストックホルムへ送り込むことを決めました。しかし、出場要請を受けたふたりの最初の反応は芳しくはなかったようです。オリンピックと言われても、当時の日本人にとってそれほど知られてはいなかったでしょうし、オリンピック代表となることが、それほど名誉なこととも思われていなかったでしょう。また、スポーツ自体も、学生の道楽程度にしか思われていませんでした。ストックホルム行きの要請を受けた三島弥彦は、東京帝大総長に、「たかが駆けっくらをやりに外国くんだりまで出かけるのは、東京帝大の学生にとってどれほどの価値があるのでしょうか?」と相談したといいます。当時の日本人にとって、オリンピックはその程度の認識でしかなかったんですね。


 また、同じく日本代表に選ばれたマラソンの金栗四三も、当初はその要請に積極的ではありませんでした。その理由は、単純に「自信がない」ということでした。羽田のレースでは思わぬ好成績を出すことができたものの、自分が世界のレベルで戦えるとはとても思えない。とても国民の期待に答えることはできない、と。世論は金栗の世界記録樹立のニュースに歓喜していましたが、当の本人は、これが出来すぎの結果であることを、冷静に認識していたんですね。しかし、そんな金栗に対して、嘉納治五郎は次のように諭します。


e0158128_19143177.jpg「わが国はまだ各方面とも欧米の先進国に遅れ、劣っている。取り分け遅れている部門に体育スポーツがある。オリンピックは欧米諸国参加のもと、すでに20年前に開催されている。私は高等師範の校長として全生徒に放課後に1時間の課外運動をやらせ、君も徒歩部員として毎日走っているが、日本の他の大学ではほとんどこんな時間は与えていない。君の準備が十分ではなく、万一ストックホルムのマラソンで敗れたとしても、それは君一人の責任ではない。何事によらず先覚者たちの苦心は、昔も今も変わりはない。その苦心があって、やがては花の咲く未来をもつものだ。日本スポーツ発展の基礎を築くため、選手としてオリンピック大会に出場してくれ・・・」(引用:「嘉納治五郎」嘉納治五郎先生伝記編纂委員会)


 しかし、一介の学生に過ぎない金栗にしてみれば、「日本スポール発展の基礎を築くため」と言われても、「自分には荷が重すぎる。」として余計に尻込みするだけでした。


 嘉納はさらに説得を重ね、「勝ってこいというのではない。最善を尽くしてくれればいいのだ。」と促したうえで、こう続けました。


 「何事も初めはつらい。自信もなかろう。しかし苦労覚悟で出かけていくことこそ、人間として誇りがあるのではなかろうか。スポーツにしてもしかり、捨て石となり、いしずえとなるのは苦しいことだ。敗れた時の気持ちはわかる。だが、その任を果たさなければ、日本は永久に欧米諸国と肩を並べることが出来ないのだ。このオリンピックを見逃したら、次の機会は4年後にしかやってこない。もう4年の空白を指をくわえて待つ時期ではないのだ。金栗君、日本のスポーツ界のために『黎明の鐘』となれ!」(引用:「走れ25万キロ-マラソンの父金栗四三伝」)


 有名な「『黎明の鐘』となれ!」の言葉は、このときのものだったんですね。


 歴史の話を少ししておきましょう。日露戦争の以降、戦争に勝った日本から近代化の方法を見習おうと、清国から多くの留学生が日本にやってきていました。日本と清国は日清戦争で戦った間柄でしたが、その後、清国の政府は、戦前までの方針をあらため、封建社会は維持しつつも、日本政府とも協力して近代化のための改革を進める方針をとっていました。その清国からの留学生を最初に受け入れたのも、嘉納治五郎でした。嘉納は清国からの留学生のために宏文学院を開校し、13年間存続しました。その間の留学生は7192名、卒業したのは3810名でした。この頃の日清関係は、のちの日中関係のような深い溝はまだなかったんですね。


e0158128_16340747.jpg そんな最中、清国では大きな革命が起きます。日清戦争後、清王朝は義和団事件などの影響で弱体化していました。これに反発を強めた漢民族が、弱体化した清王朝の支配者である満州民族を追い落とし、新しく中華民国を建国します。これが、日本の元号でいえば明治44年(1911年)のことで、この革命を辛亥革命と呼びます。この革命の中心人物として中華民国の代表者に選ばれたのが、当時、革命運動家として有名だった孫文でした(ただし、孫文は暴動が起きた時点ではアメリカにいたため、革命そのものには参加していません)。この革命によって、約250年続いた清王朝は幕を閉じ、最後の皇帝・溥儀は退位します。映画『ラスト・エンペラー』の主人公ですね。この溥儀が、のちに日本の傀儡国家として建国された満州国皇帝に祭り上げられるのですが、それはずっと先の話。また、新たに建国した中華民国も、臨時の代表となった孫文に統治能力はなく、ゴタゴタのなか孫文を退けて実権を握ったのが、袁世凱でした。袁世凱は大総統になって独裁政治をはじめ、孫文は日本に亡命することになります。


 辛亥革命の影響は、日本に滞在中の清国留学生にも及びます。祖国が消滅したわけですから、当然ですよね。しかし、ドラマで描かれていたように、そんな留学生たちのために嘉納治五郎は多額の借金をして援助したといいます。このときの借金を、嘉納は生涯返せなかったとか。教育者の鏡といえるエピソードですが、この時代の政治家や学者たちは、国事のために私財を投げ売ったという話は珍しくありません。明治の指導者たちは、自分たちが日本を作っているという意識が強かったのでしょう。現代の政治家さんたちにも、その爪の垢を煎じて飲んでほしいものです。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-02-11 16:34 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

月山富田城跡登城記 その5 「塩治興久の墓」

「その4」の続きです。

月山富田城のある月山の麓に、尼子氏一族の塩冶興久の墓と伝わる墓石があります。

塩冶興久は尼子氏の中興の祖・尼子経久の三男で、出雲国西部で大きな勢力を持つ名族・塩冶氏養子となり、塩冶姓を名乗っていました。


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享禄3年(1530年)、興久は父・経久に対して反乱を起こし、出雲国を追放されます。

『陰徳太平記』によれば、所領加増が認められなかったために反乱を起こしたとありますが、実際には、尼子家中における重臣たちの勢力争いが背景にあったといわれます。

経久の時代に一気に勢力を拡大した尼子氏でしたが、その分、在来の国人領主たちの尼子氏統治に対する不満も大きく、かつて出雲国守護を務めたこともある名族・塩冶氏を押し立てての全面対決に至ったと考えられます。


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説明板では、「尼子興久墓」となっています。

塩冶姓ではなんでダメなんでしょうね。


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出雲国を追われた興久は、妻の実家である山内氏を頼って備後国へと逃れて抵抗を続けますが、その後、天文3年(1534年)に自害

乱は終決しました。

この乱が尼子氏の勝利で終わったことにより、出雲国における尼子氏の権力基盤は盤石となっていきます。

尼子氏の栄華を築いたのは経久と言われますが、逆の意味で、興久もその功労者といえるかもしれません。


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さて、シリーズ5回に渡って紹介してきた月山富田城跡めぐりですが、本稿でひとまず終わりです。

月山富田城跡周辺には他にも尼子氏関連の史跡が数多くあったのですが、この日は時間的制約があってすべてを回ることが出来ませんでした。

また、機会を見つけて訪れてみたいと思います。

神戸から車で3時間以上かかるんですけどね。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-02-09 20:01 | 島根の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

月山富田城跡登城記 その4 「堀尾吉晴の墓・山中鹿介幸盛供養塔」

「その3」のつづきです。

月山の北西の登山道を登りはじめてすぐに、巌倉寺という古い寺があるのですが、そこに、月山富田城の最期の城主・堀尾吉晴の墓があります。


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巌倉寺は聖武天皇(第45代天皇)の神亀3年(726年)に建立されたといわれる歴史ある寺院で、元々上流の山佐にあったものを、12世紀の後半に月山富田城の城主だった佐々木義清が、祈願寺とするために御子守神社とともに城内に移したといわれています。


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本堂です。

本尊は一木造りの聖観世音菩薩だそうで、藤原氏の時代の技法を伝えるこの本尊は、同寺所有の帝釈天立像とともに国の重要文化財に指定されているそうです。


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本堂脇から奥の墓地へ向かいます。


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この石段を登ったところに、堀尾吉晴の墓があるようです。

さすがは城主の墓というだけあって、特別な場所といった感じです。


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堀尾吉晴の墓です。


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高さ3m余りの立派な五輪塔です。


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堀尾吉晴は、尾張国出身の武将で、織田信長の家臣時代から羽柴秀吉の配下として働き、のちの豊臣政権時代には三中老のひとりに任命されるなど、秀吉の信任が厚い武将でした。

秀吉の死後は徳川家康に与し、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの功により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城します。


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しかし、月山富田城は急峻な山奥の中世以来の山城だったため、交通も不便で城下町を形成する土地もなく、時代にそぐわない城でした。

そこで吉晴は、宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画。

慶長12年(1607年)に着工し、5年間にわたる難工事のすえ、慶長16年(1611年)に完成しました。

それが、先ごろ国宝に指定された松江城です。


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もっとも、吉晴は落成間近の慶長16年(1611年)6月に急死しており、息子の堀尾忠氏もそれ以前に急死していたことから、松江城の初代城主は吉晴の孫・堀尾忠晴となりました。


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吉晴の遺骸は、その遺言によってこの地に埋葬されたそうです。

なぜ、吉晴にとってはそれほど思い入れがあったとは思えないこの地を埋葬場所に遺言したんでしょうね?

あるいは、月山富田城400年の歴史を自身の代で終わらせたことに対する鎮魂の思いだったのでしょうか?


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吉晴の墓の横には、山中鹿介幸盛供養塔と伝わる墓碑があります。

これは、慶長7年(1602年)に吉晴の内儀(妻)が、鹿介の遺徳を偲んで建てたものだと伝わります。


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でも、尼子氏の家臣に過ぎない鹿介の供養塔を堀尾家が建てるだろうか・・・という疑問は拭えないですね。

鹿介が悲運の英雄として語り継がれるようになるのは江戸時代中期からで、鹿介に関する逸話のほとんどが、江戸期に創られたものだと言われます。

堀尾氏が出雲国に入ったこの時代、鹿介がそれほど英雄扱いされていたとは考えづらいですし、もし、供養塔を建てるとするならば、尼子氏のものだったんじゃないかと。

無粋なことを言うようですが。


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あと、同じく巌倉寺には、吉晴の娘・小耶姫の墓もあります。

小耶姫は若くして重い病にかかり、20歳で池に身を投げて自ら命を絶った悲劇の姫君で、ここをお参りすると、婦人病が治癒すると言われています。

あと、もう一回だけシリーズ続けます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-02-08 22:13 | 島根の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)