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毛利氏の本拠・吉田郡山城攻城記 その4 <勢溜の壇~尾崎丸>

「その3」のつづきです。

南西の勢溜の壇にやってきました。


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勢溜の壇は本丸の峰から南西に長く伸びる尾根上に10段の大型の曲輪からなる壇です。


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その説明板。


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ここでまた縄張り図を載せます。

勢溜の壇は大きな曲輪が何段も連なっていることがよくわかりますね。


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吉田郡山城が防御力の面で実力を発揮したのは、天文9年(1540年)、出雲国尼子氏との間で起きた吉田郡山城の戦いでした。

吉田郡山城主の毛利元就は、当初は尼子経久に従い、抜群の働きをしていました。

しかし、経久はそのことで元就に次第に警戒心を抱くようになります。

下剋上によってのし上がった経久にしてみれば、同じように元就の下剋上を恐れていたんでしょうね。

そこで、ひそかに元就の弟・元網の擁立に動き出し、それを察知した元就は、尼子とは敵対関係にあった周防の大内義隆に接近し始めます。


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尼子氏としては、元就の寝返りは許せないことでしたが、天文6年(1537年)に経久が死に、孫の晴久が家督相続をしたばかりで、すぐに元就討伐に動けませんでした。

元就にしてみれば、これはラッキーだったでしょう。

そして天文9年(1540年)になって、ついに晴久は元就討伐の決意を固め、6月、進撃を開始します。

このときは、尼子氏は攻めあぐねて吉田郡山城に近づくこともできませんでしたが、同年8月、尼子久幸を総大将として、総勢3万の軍勢で吉田郡山城を包囲します。

それに対し、守る元就方の兵力は8000で、しかもその圧倒的多数は百姓で、実際の戦闘要員は2800ほどだったといわれます。

数の上から見ると、元就に勝ち目のない戦いだったといっていいでしょう。


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眺望の利く場所に出ました。


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郡山合戦の際に尼子軍によって築かれた青光井山陣城跡は、微妙に木の死角になっていて見えません。


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MAPです。

いちばん右端に青山城とありますが、そこが尼子軍の陣城だったようですね。

独立した青山光井山という谷を挟んだ二つの山頂に尼子軍の陣城は築かれ、それを総称してのちに青光井山と呼ばれるようになりました。


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そこから南へ向かって下山します。


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尾崎丸と書かれた誘導看板が。


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尾崎丸北側の堀切です。


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なかなか大きな堀切

往時はもっと深かったのでしょう。

この堀切で尾根を分断して、尾崎丸を独立させていたようです。


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そして堀切の南には2段の小さな段曲輪があり、その下に広い尾崎丸があります。


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尾崎丸です。


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説明板です。

長さ42m×幅20の広さです。

尾崎とは、毛利隆元が尾崎殿と称されていたことに由来するようです。


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広い曲輪です。


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城道に戻って、堀底道のような切通道を下山します。


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尾崎丸の西側に、一段上がった削平地が見えます。


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看板には展望スポットとあります。

行ってみましょう。


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たしかに、実に眺望のきく曲輪です。

物見台のようなものがあった曲輪かもしれませんね。


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尼子軍に包囲された元就は、圧倒的な兵力差を考え、籠城戦に持ち込むことに決め、大内義隆からの後詰を待つことにします。

しかし、なかなか後詰の軍勢は現れず、籠城開始から約3か月後の123日、ようやく援軍が尼子軍の背後に到着しました。

援軍が遅くなった理由はわかりません。

このとき援軍を率いていたのが、大内義隆の重臣筆頭の陶隆房でした。

のちに隆房が義隆を討ち、晴賢と名を変え、厳島の戦いで元就と戦うことになろうとは、このときは二人とも考えてもいなかったでしょうね。

援軍の到着によって城の内と外からの挟撃体制が整います。

年が明けた天文10年(1541年)113日、冬の寒さと兵糧補給が思うようにならずに焦りが出てきた尼子久幸は、とうそう総攻撃を開始。

久幸自らも突撃していきましたが、そこで討ち死にしてしまいます。

指揮官を失った尼子軍は戦意を喪失し、その夜、撤退しました。


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さて、だいぶん南に下ってきましたが、巨大な山城はまだまだ城域がつづきます。

「その5」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2024-06-17 19:57 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

毛利氏の本拠・吉田郡山城攻城記 その3 <三ノ丸、二ノ丸、本丸>

「その2」のつづきです。

吉田郡山城三ノ丸へ登ってきました。


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石碑には「三之丸跡」と刻まれています。

「本丸・二ノ丸・三ノ丸」という呼称は豊臣時代以降の言葉で、中世の山城には適していないのですが、説明看板がそうなっているので、便宜上ここでもその呼び方でいきます。


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その説明板。


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ここで、全稿でも見た縄張り図を載せます。


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三ノ丸は城内で最大の曲輪で、東西45m、南北47の広さがあります。


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曲輪内は土塁や削りだしなどで4に分かれています。

西の段東の段を仕切る石塁跡です。


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しっかり石積みが残っていますね。


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仕切り石塁を中央に、西と東に分かれています。


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引きで見るとよくわかりますね。


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三ノ丸南東と御蔵屋敷下段に続く帯郭との間には、石垣の痕跡がかろうじて残っています。

城内の石垣は江戸時代にほとんど崩されてしまいましたが、ここだけはわずかにとどめています。


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その説明書き。


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よく残っていますね。


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三ノ丸西の段へ向かう石段

これも、よく残っていますね。


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枡形虎口っぽい形状が見られます。


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振り返るとこんな感じ。


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三ノ丸西の段です。


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土塁跡とあります。


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その土塁


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三ノ丸西の段から見た本丸切岸


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二ノ丸へ登ります。


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二ノ丸虎口


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二ノ丸です。


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石碑と説明板。


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二ノ丸の規模は東西36m、南北20の広さです。


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二ノ丸にも石が散乱しています。

かつての石垣の痕跡でしょうか?


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本丸方向を見ると、段曲輪になっていることがわかりますね。


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まずその下の段に登ってきました。

ここは本丸下段というべきでしょうか?


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説明書きです。

本丸はい一辺35mの方形の曲輪で、北端には一段高くなった櫓台があります。


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毛利氏の本拠として知られる吉田郡山城は、14世紀半ばに毛利時親によって築かれたといわれ、16世紀中ごろに毛利元就によって全山要塞化され、戦国期最大級の山城となりました。

吉田の地と毛利氏との関係が始まったのは、南北朝時代の延元元年/建武3年(1336年)に毛利時親が地頭として入ってからだと考えられています。

しかし、その頃の城はのような小規模なものだったようです。


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毛利氏が大きく変わったのは、明応6年(1497年)に誕生した毛利元就によってでした。

次男であったため家督を継ぐ予定ではありませんでしたが、父の毛利弘元、兄の毛利興元が相次いで亡くなり、まだ9歳だった甥の幸松丸も死去。

元就の手に家督が転がり込んできます。

それまで元就は吉田郡山城の支城である猿掛城にいましたが、家督相続を機にここに移ってきました。

このとき「郡山城」という呼称が史料に初めて登場しています。


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櫓台切岸です。


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櫓台に上がってきました。

櫓台は長さ23m、幅10の広さです。


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毛利氏を継いだ元就は城の改修に着手。

城域を郡山全体に広げ、城内に子の隆元や重臣らの居館を設けました。

戦時に城内に籠るだけではなく、平時には居館として用いる城にしました。

それが、大小270にもおよぶ曲輪の数々だと考えられます。


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ここ櫓台の上には、おそらく見張用の物見櫓が置かれていたのでしょう。

その後、元就の孫の輝元の時代には、三重三階の天守が築かれたとも言われていますが、史料に乏しく定かではありません。

江戸時代に作成された『吉田郡山城下古図』には本丸に三重天守が描かれていますが、これは想像で描かれたものだとうとの見方が定説になっているようです。


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櫓台上から見下ろした本丸下段、その向こうに二ノ丸も見えます。


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さて、本丸まで制覇したので、昼食をとって、次は南西の勢溜の壇を通って下山します。

「その4」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2024-05-27 10:21 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

毛利氏の本拠・吉田郡山城攻城記 その2 <御蔵屋敷跡・釣井の壇、姫之丸壇、釜屋の壇、羽子の丸、厩の壇>

「その1」のつづきです。

毛利元就の墓所から登山道を登ること約15分、曲輪に到着しました。


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吉田郡山城の城域は東西約1100m、南北約900に及ぶ広大な規模を誇り、山頂の主郭を中心に6方向放射線状に延びた稜線上に曲輪群を展開した大規模な城塞でした。

それぞれの稜線上には、北西に釣井の壇、北に姫之丸壇、北東に釜屋の壇、南東に厩の壇、南に妙寿寺曲輪、南西に勢溜の壇と命名された曲輪群があり、そこから伸びる尾根上に段曲輪が連なり、その曲輪の数は大小270に達するといいます。


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ここでパンフレットの縄張り図を載せます。


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石碑には、御蔵屋敷跡とあります。

ここは、南西の勢溜の壇と北西に釣井の壇をつなぐ曲輪。

面積は約600の規模で、兵糧蔵跡と言われています。


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その説明板。


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周囲を高い土塁で囲っていて、石が散乱しています。


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おそらく高い石垣があったのでしょうね。


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そこから勢溜の壇には降りずに、北へ向かいます。


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北西の釣井の壇にやってきました。

その名のとおり、井戸のあった曲輪ですね。


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その説明板。


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そして、これがその井戸跡です。

現在は埋もれていて深さは4ほどになっていて水は湧いていません。


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釣井の壇の規模は長さ75m、幅15m、面積約1000の長大な曲輪です。


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釣井の壇に残る石積みの跡です。


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つづいて、北側の姫之丸壇にやってきました。


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その説明板。


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「その1」で紹介した「百万一心」碑を元就が埋めたといわれる曲輪で、文化13年(1816年)に長州藩士だった武田泰信が「百万一心」碑をここで発見したと伝わります。


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北側に三段の段曲輪が連なります。


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姫の壇から南側を見ると、主郭の高い切岸が聳えます。


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つづいて、北東の釜屋の壇に向かいます。

誘導看板が三本の矢なのが粋ですね。


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釜屋の壇です。


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20m×24、面積約300の台形の曲輪で、主郭から15m下がったところにあり、ここから北東に段曲輪が五段続いています。


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段曲輪を北東に進みます。


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振り返るとこんな感じ。


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北東には、独立した曲輪の羽子の丸があります。


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釜屋の壇の五段の段曲輪を進むと、羽子の丸との間の堀切があります。


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幅約7m、深さ3ほどの堀切で、羽子の丸を独立させる目的のものだったのでしょうね。


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堀底はこんな感じ。


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羽子の丸側から見た堀切


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羽子の丸へ向かいます。


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羽子の丸です。


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北東端に独立した羽子の丸は、先端頂部の曲輪の面積は650あり、そこから南へは三段、東側への三段の段曲輪が連なり、それらを帯曲輪でつなぎ、さらに付曲輪を加えるなど、堅固なつくりを構えています。


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羽子の丸は主郭からすると鬼門の位置にあり、重要な曲輪だったと考えられます。


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三角点をよく見ると「毛利家」の文字が。


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羽子の丸から釜屋の壇に戻ります。


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そこから南東の厩の壇にやってきました。


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厩の壇です。


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その説明板。

17m×24の段から尾根に沿って7と、それから北に分かれる4段の曲輪からなります、


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その名のとおり、かつてここに厩舎があったと考えられているそうです。


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さて、山頂の主郭を取り巻く周囲の曲輪を一周しました。

次は主郭を目指しますが、「その3」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2024-05-22 20:53 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

毛利氏の本拠・吉田郡山城攻城記 その1 <毛利元就墓所>

戦国時代、中国地方の覇者として君臨した毛利氏の本拠として知られる吉田郡山城

江の川(可愛川)多治比川にはさまれた吉田盆地の北に位置し、城域は郡山全体におよびます。

築城初期はのような小規模な城だったと考えられていますが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、毛利元就の時代には郡山全体を要塞とする巨大な城郭となりました。

のちに毛利輝元広島城を築いて移るまで、長らく毛利の本拠となっていた城です。


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麓の郡山城址碑と説明板。

郡山城といえば、奈良の大和郡山城をはじめ、岩手県、福島県、大阪府、島根県、鹿児島県など複数の同名城が存在しますので、ここは吉田郡山城で通します。


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その説明板。


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説明板の横には、毛利元就像が。


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なかなか凛々しい!


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登山口の公園です。

向こうに見える山が郡山

山頂は標高390m、比高約190の登山です。


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公園内を登っていくと、登山口手前に堀跡があります。


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説明板には、内堀(薬研堀)とあります。

100mの断面V字形の堀を検出したそうで、薬研堀の発掘調査例では国内で最も長いそうです。

また、同じ場所で旧石器時代の遺跡も見つかっているそうです。


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登山口にある案内図。


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登山口には鳥居があり、その横の石碑には「毛利元就公墓所参道」とあります。


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登り始めて間もなく、石鳥居と毛利元就の墓と刻まれた石碑が現れました。


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石碑は昭和29年のもののようです。


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説明板には、「洞春寺跡」とあります。

洞春寺は、毛利輝元の三回忌にあたる天正元年(1573年)に菩提寺として孫の輝元が創建した寺院で、輝元の広島移城の際に広島城下に移り、のちに減封となった毛利氏とともに山口に移転したそうです。


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墓地の図面もあります。

元就以外も一族の墓があるようです。


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こちらにも一族の墓所の説明板が。


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その横には、毛利元就公四百年祭記念碑があります。


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こちらが、その一族の墓


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鉄柵の扉には「一文字三星」が。


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玉垣に隠れて墓碑が見えませんが、ここには元就の兄の毛利興元の墓、その子の毛利幸松丸の墓、毛利隆元夫人の墓があります。

興元と幸松丸が相次いで死去したことで、元就にお鉢が回ってくることになるんですよね。

毛利隆元は元就の嫡男ですが、その奥さんのことは知らないなぁ。

つまり、輝元のお母さんってことですよね。


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一族の墓の北側の一段高いところに、元就の墓があります。

なんか、すんごい倒木が行く手を阻んでいるんですが。


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説明板です。

洞春寺は広島城築城に伴って移転しましたが、元就墓所はこの場所に残され、その後、長州藩や浅野氏によって保護、整備されてきたとあります。


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ここもまた鉄扉に「一文字三星」がありますね。


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元就の墓です。

立派な五輪塔でもあるのかと思いきや、細長い石碑と中央に大樹があるのみ。

説明板によると、高さ0.9ほどの低い墳丘の中央に墓標樹ハリイブキが植えられたそうですが、文政12年(1829年)に墓を訪れた頼山陽が漢詩「吉田駅詩」にすでに枯れていることを詠んでいるそうで、現在はのちに育ったシラカシが支えるかたちでかろうじて樹立しているそうです。


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石碑を拡大すると「贈従三位大江朝臣元就卿御墓」と刻まれています。


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こちらの石碑には「明治四十二年四月二日」とあります。

明治42年に従三位が贈られたってことかな?

何で死後300年以上経った明治の世になって元就に従三位?・・・って思っちゃいますが、いわゆる明治政府=薩長閥政府

政治的理由があったのでしょうね。

毛利と島津は華族のなかでも特別ですから。


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元就の墓所と対面するように建てられてあるのが、「百万一心」碑です。

百万一心とは、元就が「百」の字を「一」「日」に分け、「万」の字を「一」「力」に分け、「一日一力一心」と読み、「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」と説き、家臣に「一致団結」「協力」の精神を諭したと言われる逸話です。

吉田郡山城の改築の際、人柱に代えて、本丸裏手の「姫の丸」(姫丸壇)にこの句を彫り込んだ石を埋めたところ、普請は無事に終えられたと伝わります。

この石碑は、文化13年(1816年)に長州藩士だった武田泰信が姫の丸で発見したとされます。


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その由来碑


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元就の墓所をあとにして、城跡へ向かいます。


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少し登ると、またまた宝篋印塔が。

説明板には、嘯岳鼎虎禅師の墓とあります。

洞春寺を開山した僧侶で、元就の葬儀の導師をつとめた人ですね。


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墓参りばっかでぜんぜん先に進みませんが、長くなっちゃったので、つづきは「その2」にて。




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# by sakanoueno-kumo | 2024-05-14 22:31 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

廃城から復活を遂げた龍野城。

龍野古城(鶏籠山城)を下山しました。

せっかくなので、麓の龍野城にも立ち寄ります。


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写真は西側の模擬二重櫓

その背後に見えるのが、山頂に龍野古城のある鶏籠山です。

昭和54年(1979年)に建てられたもので、本来は存在しなかった模擬櫓ですが、背後の鶏籠山と手前の城壁とともに現在の龍野城のシンボルとなっています。


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模擬二重櫓にズーム。


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天正9年(1581年)に赤松氏に代わって龍野城主となったのは、羽柴秀吉の側近として仕え、蜂須賀小六の名で知られる蜂須賀正勝でした。

正勝は龍野城主となったあとも戦功を重ね、天正13年(1585年)には長宗我部元親への押さえとして阿波一国を与えられました。

しかし、正勝は秀吉の側に仕えたいからといって阿波行きを拒否。

嫡男の蜂須賀家政が阿波へと移ります。


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この坂は錣(しころ)坂と呼ばれているそうです。

兜の錣(しころ)に似ていることから、そう呼ばれるようになったとか。


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その後、龍野城へは福島正則、木下勝俊、小出吉政などが入りますが、すべて短期間で城を去り、龍野は秀吉の直轄地となります。

関ヶ原の戦い後はその戦功によって池田輝政播磨姫路52万石の領主となりますが、輝政は姫路城を居城としたため、龍野城には城代が置かれました。

その池田氏も輝政、利隆、光政3代続きましたが、光政が家督を継いだときまだ8歳で、幼少を理由に因幡鳥取32万石に転封となります。


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その後はまた城主の定まらない時代がつづき、徳川譜代の本多氏、小笠原氏、岡部氏など城主がめまぐるしく交代。

寛永14年(1637年)には京極高和が城主となります。

京極氏は、先代で叔父の京極忠高の時代までは、松江26万石の藩主だったのですが、忠高が嫡子を残さずに没したため、高和が養子の形で跡を継ぎ、その際、播磨龍野藩6万石に減らさたというわけです。

しかし、その京極氏も、万治元年(1658年)に丸亀城へと移り、龍野城は一時廃城となり、建物も取り壊されて天領となります。


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それから14年後の寛文12年(1672年)、幕命によって脇坂安政が龍野に入ります。

安政は城を再建する際、外様であることなどから幕府の嫌忌に触れることを恐れ、天守などは築かなかったといいます。

その甲斐あってか、脇坂氏は幕末まで10にわたって龍野と城を治めることになります。


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錣(しころ)坂を登って西側の裏門から入ります。


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脇坂家の家紋の輪違紋がありますね。


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模擬二重櫓を内側から。


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本丸御殿

昭和54年(1979年)に資料を参考に再建されました。


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明治から大正時代には、この地に旧制中学校兵庫県立龍野高等女学校が置かれたそうです。


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正面玄関は大唐破風を施した車寄せです。


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欄間にも脇坂家の家紋の輪違紋が。


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廊下です。


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手前の打掛のある部屋が下段の間、奥の床の間に甲冑がある部屋が上段の間です。

上段の間が一段高くなっているのがわかるでしょうか?


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上段の間

重ねられた畳の向こうに帳台構えが設けられていますね。


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床の間には甲冑が、その向こうの違い棚にも兜があります。


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上段の間の格子天井


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こちらは龍の間

その名のとおり、龍が描かれた襖があります。


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その隣の和室。

障子の向こうに見える竹の景色がまるで絵画のよう。


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枯山水風の中庭


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御殿を出て、東側の埋門を出ます。

ここが正門だったようですが、大手門とは言わずに埋門と呼んだようですね。

その名称は京極氏時代からだったようで、脇坂氏になってもその名のまま継承されたようです。

見てのとおりの枡形門ですが、深く掘りこんだ枡形になっているので、埋門で正しいといえるかもしれませんね。

有事はここを土で埋めると、敵は入ってこれません。


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階段の下。


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そして門の外です。

櫓門続櫓はどちらも昭和の再建です。


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東側の龍野歴史文化資料館には、脇坂氏の祖である脇坂安治が、丹波の赤鬼こと赤井直正から譲り受けたという伝説の貂の皮が特別展示されていました。

司馬遼太郎の短編『貂の皮』にもありますね。

もちろん、撮影禁止だったので写真はありませんが、通常は龍野神社に宝物として納められているようなので、見られてラッキーでした。

貂の皮については、過去の脇坂安治生誕地の稿で詳しく述べていますので、ご興味があれば一読ください。


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脇坂安治といえば賤ケ岳七本槍の一人として知られていますが、加藤清正福島正則などに比べて影が薄かったものの、七本鎗のメンバーでは脇坂家だけが大名として残り、安治の孫の代からは龍野城主となり、明治維新まで続きます。

最後の龍野藩主となった脇坂安斐は、明治維新後の版籍奉還で知藩事に転じるとともに華族に列し、廃藩置県まで知藩事を務めました。

廃藩置県直後に華族は東京在住が義務付けられ、その後、その義務が解除された後も華族の多くは東京で暮らし続けましたが、脇坂家は兵庫県龍野で暮らしました。

東京在住でない珍しい華族だったそうです。

加藤清正や福島正則のような華々しい活躍はなかったものの、堅実に生き抜いた初代安治の気質が、家風として生きていたのかもしれませんね。



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# by sakanoueno-kumo | 2024-04-25 20:54 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)