幕末京都逍遥 その114 「泉涌寺・孝明天皇陵(後月輪東山陵)」

東山にある泉涌寺を訪れました。

泉涌寺は、歴代天皇家の菩提所で、鎌倉時代の四条天皇(第87代天皇)以来14代の天皇陵をはじめ、皇妃、親王陵墓など39の陵墓があります。


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大門は慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したもので、重要文化財です。


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こちらは、江戸幕府4代将軍徳川家綱によって再建されたという仏殿

重要文化財です。


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こちらは御座所

建物内には、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用する玉座の間があります。

今上天皇も在位中に3度、ここを訪れて玉座の間を使用されたそうです。


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ここを訪れたのは平成29年(2017年)11月20日で、御座所の庭園は見事に紅葉が色づいていました。

せっかくなので、アップします。


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そして、こちらが境内の奥にある月輪陵

四条天皇(第87代天皇)をはじめ後水尾天皇(第108代天皇)から仁孝天皇(第120代天皇)までの25陵、5灰塚、9墓が営まれています。


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こちらがその一覧です。


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門の横の道を進むと、月輪陵内が見渡せます。

九重塔が各天皇の陵だそうです。

圧巻です。


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月輪陵のさらに背後に、後月輪東山陵と呼ばれる孝明天皇(第121代天皇)陵があります。

幕末シリーズなので、ここからが本題です。


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天保2年(1831年)生まれの孝明天皇は、弘化3年2月13日(1846年3月10日)から慶応2年12月25日(1867年1月30日)まで、約21年弱の間、在位していました。

まさに、「幕末」と言われる時代は、孝明天皇の時代だったといえるでしょう。

この孝明天皇が大の外国人嫌いだったことで、それまであった「攘夷論」「尊王思想」という本来別々だったものが結びつき、「尊王攘夷」というスローガンが生まれました。

これが、やがて討幕の導火線となっていくのですが、当の孝明天皇自身は、攘夷論であっても佐幕派であり、公武合体論でした。

このあたりに、幕末のややこしさが生じるんですね。


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孝明天皇の死については、暗殺説がかなり流布していたようです。

従来の定説となっている病状を見ると、亡くなる半月ほど前の12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、その翌日からひどく発熱します。

12日、13日と熱は下がらず、14日に診察した医師によると、「痘瘡(天然痘)か陰症疫の疑いあり」と診断されます。

睡眠も食事も満足にとれず、うわ言を発し、16日になると全身に発疹があらわれ、17日正式に痘瘡と公表されました。

そこで七社七寺への祈祷が命じられ、将軍以下、京都守護職松平容保らも見舞いに参内したようです。

翌18日以降、少しずつ病状は回復に向かっていたのですが、24日夜から病状が急変し、翌25日の公卿・中山忠能の日記に「何共恐れ入り候御様子」と書かれるほどの病状となります。

嘔気をもよおし、は多く、しだいに体力を失い、脈も弱まり、25日亥の刻(午後11時ごろ)に、ついに崩御となりました。


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このような病状の急変が、さまざまな風説を生む原因となったようです。

なかでも多くささやかれたのが毒殺説

専門家によると、何かに中毒したことによる急死の症状に酷似しているらしく、毒を盛られた可能性は否定出来ないとのことです。

もっとも、当然のことながらそれを立証できる証拠はなにもなく、全ては憶測に過ぎません。


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ただ、当時このような風説が流布される客観的な条件はじゅうぶんそろっていました。

この当時、政局は混沌としており、公武のトップである天皇と将軍の死は(この5ヶ月前には、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂も急逝していた)、佐幕派、倒幕派ともに大きな政治的意味があったことはいうまでもありません。

当時、日本に駐在していたイギリスの外交官・アーネスト・サトウが後年に書いた日記でこう述べています。


「当時の噂では、帝の崩御は天然痘によるものだと聞いていたが、しかし数年後、その間の消息によく通じているある日本人が、わたしに確言したところによれば、帝は毒殺されたのだという。この帝は所信をもって、外国人に対していかなる譲歩にも断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなることを予見した人々によって、殺されたというのだ。この保守的な帝がいたのでは、戦争を引き起こすような事態以外のなにものも期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺に求めるのは、東洋諸国ではごくありふれたことであり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋のために毒殺されたという噂が流布した。しかし当時は、帝についてそのような噂は聞かなかった。帝が、ようやく15、6歳になったばかりの少年(睦仁親王)を継承者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役だったであろうことは否定できない」


これによると、倒幕派が攘夷論者である孝明天皇を毒殺したということになりますね。

攘夷論では朝廷が外国と関係を持つようになっては大障害になるという観点からの毒殺説ですが、イマイチ理由としては弱い気がします。

それよりも、佐幕派の天皇では、倒幕を遂行するにはどうにも邪魔である、というほうがまだ説得力がある気がします。

事実、岩倉具視がこれを画策したという風説があります。

岩倉具視の義妹である堀河紀子が宮中女官として入っており、その紀子を操って痘瘡の薬のなかに毒物を混入させた・・・と。

もちろん風説であって、岩倉にしてみれば迷惑千万なはなしかもしれませんが、岩倉の場合それ以前の和宮降嫁問題のときにも、天皇毒殺をはかったという評判がたったことがあった人物で、疑惑の目で見られたのも無理はなかったかもしれません。


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薩摩藩士・大久保利通は、「玉(天皇)をわが方に抱えることが、千載の一事で、もし幕府に奪われては藩の滅亡」としていました。

天皇を味方につけた方が勝つということですね。

しかし、ときの天皇である孝明天皇は、はっきりとした政治的発言をおこない、しかもそれは佐幕説でした。

倒幕派にとっては、孝明天皇は邪魔な存在で、その死が倒幕派にとって有利なことであったのは明らかでした。

だからこそ毒殺説が生まれたのでしょう。

実際に毒殺が行なわれたのか、あるいは本当に痘瘡による病死だったのか、今となっては真相は闇の中ですが、いずれにせよ、孝明天皇の死が倒幕派を大きく勢いづかせたことは間違いありません。

古代・中世はさておき、孝明天皇は日本の近世以降の天皇のなかで、珍しく政治的行動・発言をおこなった、ただひとりの天皇といえるかもしれません。

そのため、36歳の若さでこの世を去ることとなってしまった・・・かどうかは定かではありませんが・・・。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-08-15 23:41 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その113 「戒光寺(御陵衛士菩提寺)」

東山にある泉涌寺の塔頭・戒光寺に、慶応3年11月18日(1867年12月13日)に起きた油小路通事件で落命した伊東甲子太郎御陵衛士4人の墓があります。


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ここに葬られているのは、新選組・近藤勇らの謀略によって殺された伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人。

彼らの遺体は、事件後3日間現場に放置されていたといいます。

これは、生き残った御陵衛士の他のメンバーを誘き寄せるための新選組の策でしたが、結局、残党は現れず、その後、4人の遺体は新選組の手によって「その104」で紹介した光縁寺に葬られたそうです。

その後、明治に入って、御陵衛士の残党が光縁寺から戒光寺に改葬したそうです。


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戒光寺の本寺である泉涌寺は歴代天皇家の菩提所で、慶応2年12月25日(1867年1月30日)に崩御した孝明天皇(第121代天皇)の御陵(後月輪東山陵)もありました。

彼らの結成した「御陵衛士」の名称は、孝明天皇の御陵の護衛者という意味です。

熱烈な勤王志士だった伊東は、戒光寺の長老である堪然の仲介によって、孝明天皇の御陵守護の任を拝命していました。


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現在、4人の墓は一般公開されていません。

以前は普通に墓参できていたみたいですが、現在は墓参するには事前申し込みが必要で、それも、わたしのような観光客には許可いただけないみたいです。

その理由は、過去の聖霊に畏敬の念を持たない不心得者から墓を守るため、だそうです。

残念ですが、何か、そうせざるを得ない出来事があったのでしょうね。

たしかに、墓は観光名所ではないので、やむを得ません。


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御陵衛士を結成してからわずか8ヶ月で落命した伊東甲子太郎ら4人。

さぞかし無念だったに違いありませんが、ここ戒光寺に葬られたことで、死してなお、御陵をお守りし続けているといえます。

ある意味、武士の本懐かもしれません。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-08-14 23:20 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第30話「怪人 岩倉具視」 ~岩倉具視の蟄居生活~

500円札の肖像で知られる岩倉具視が主人公の回でしたね。ドラマ中、自身をヤモリと卑下していましたが、実際に、当時、岩倉は「守宮(やもり)」あだ名されていました。すばしこくて出没を予測できない策謀ぶりを評したあだ名だったようですが、当時の軟弱な公家のなかで、珍しく智謀と胆力を兼ね備えた人物だったといいます。


e0158128_01162523.jpg文政8年(1825年)に参議正三位・堀河康親の次男として生まれた岩倉は、天保9年(1838年)に公卿・岩倉具慶の養子になります。安政元年(1854年)には孝明天皇(第121代天皇)の侍従となり、次第に朝廷内において台頭し、発言力を増してきました。


若き日の岩倉は攘夷派で、幕府の推し進める日米修好通商条約の調印に反対して「廷臣八十八卿列参事件」の中心人物となりますが、その後、幕府との調和の必要性を悟り、公武合体をすすめるため、孝明天皇の妹・和宮親子内親王の将軍家への降嫁を推進ます。このとき岩倉は、将軍・徳川家茂から直筆の誓書を提出させることに成功し、孝明天皇から直々にその功労を労われました。岩倉の推し進めた公武合体は、あくまで朝廷主導の公武合体であり、一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのですが、ところが、尊皇攘夷派は岩倉を佐幕派の巨頭と見るようになり、尊攘派の圧力によって失脚に追い込まれます。


文久2年(1862年)8月に蟄居処分となって朝廷を去った岩倉は、落飾して西賀茂の霊源寺や洛西の西芳寺に身を隠しますが、同年10月に長男の岩倉具綱が洛北の岩倉村に住居を用意してくれたので、移り住みました。以降、洛中への帰参が許される慶応3年(1867年)11月まで、岩倉村で5年間も蟄居生活を送ることとります。


e0158128_17375658.jpg 岩倉がふたたび政治活動をはじめたのは、慶応元年(1865年)秋ごろから、つまり、ドラマのこの時期からでした。この頃になると、薩摩藩や朝廷内の同志たちが再び岩倉のもとへ訪れるようになります。ドラマ中、西郷吉之助(隆盛)が箱の中に眠っていたたくさんの意見書を見つけて感嘆するシーンがありましたが、これは、おそらくこの時期の岩倉が書いた『叢裡鳴虫』という政治意見書のエピソードを下敷きにした話でしょう。岩倉はこの意見書を来訪した薩摩藩士の井上石見に託し、大久保一蔵(利通)小松帯刀の意見を求めました。西郷はいません。この時期、岩倉と熱心に接していたのは大久保で、西郷と岩倉の接点は薄く、むしろ、どちらかといえば西郷は岩倉を苦手としていたようです。


 岩倉の示した意見書『叢裡鳴虫』は、「草むらに隠れて鳴く虫」を例えた題名で、自身の置かれた境遇を表した言葉ですが、その内容は、公武一和を説いたものでした。このなかで岩倉は、島津久光の偉材であることをたたえたうえで、先の禁門の変後の長州藩の処遇について、薩摩藩がイニシアティブをとって寛大な処置をすべきだと説いています。そして注目すべきは、薩長両藩が手を結び、朝廷と協力すべきだと説いていることです。岩倉は洛北のあばら家で蟄居生活を送りながらも、すでに薩長同盟の必要性を感じていたんですね。ただのヤモリではなかったということです。


 ちなみに、ドラマ中、岩倉が開いた賭場に乞食に扮した桂小五郎が列席していましたが、もちろん、これはドラマの創作であり、ありえない設定です。この時期、桂は但馬の出石藩で商人に扮して潜伏していました。どうも、このドラマでは必要以上に桂と西郷の接点を作りたいようです。それは、今後のドラマの展開の伏線なんでしょうか。


 ちなみにちなみに、岩倉と西郷は、実は2歳しか変わりません。老獪な策謀家というイメージでのキャスティングだったのでしょうが、ちょっと無理があったような気がしないでもないですね。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-08-13 01:20 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その112 「御陵衛士屯所跡(月真院)」

東山にある高台寺の塔頭、月真院を訪れました。

ここは、新選組から分裂した伊東甲子太郎率いる御陵衛士が屯所とした場所です。


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伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました。

そんな伊東を近藤勇参謀兼文学師範に任じて重用しますが、しかし、もともとは水戸学を学んだ勤王志士だった伊東は、近藤らとは「攘夷」の点では結ばれていても、佐幕色を強めていく新選組の方針に矛盾を感じはじめ、やがて新選組を離脱

同志14名と共に御陵衛士を結成します。


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「御陵衛士」とは、孝明天皇(第121代天皇)の御陵(墓)護衛者という意味。

熱烈な勤王志士だった伊東は、孝明天皇陵(後月輪東山陵)のある泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命していたため、この名称を掲げたのでしょう。


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慶応3年3月10日(1867年4月14日)に新選組を離脱した御陵衛士は、はじめは五条橋東詰の長円寺(善立寺説もあり)に屯所を構えていましたが、同年6月、ここ月真院に屯所を移しました。

新選組とは表面的には話し合いでの分裂でしたが、その思想は佐幕勤王倒幕という真逆の立場であったため、新選組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たといいます。


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高台寺の塔頭を拠点としたため、御陵衛士はのちに「高台寺党」とも呼ばれるようになります。


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それから5ヶ月後の慶応3年11月18日(1867年12月13日)、「その110」で紹介した油小路において、新選組近藤勇らの謀略によって伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人が死亡。

残った同士は薩摩藩邸に逃げ、御陵衛士は解散を余儀なくされます。

ここに、わずか8ヵ月の御陵衛士の短い歴史が終わります。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-08-11 01:44 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その111 「天満屋事件跡(中井庄五郎殉難地)」

前稿で紹介した本光寺から油小路通を400mほど北上したところに、「勤王之士 贈従五位 中井正五郎殉難之地」と刻まれた石碑があります。

ここは、幕末、天満屋という旅籠があった場所で、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、ここで世に言う「天満屋事件」が起きます。


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慶応3年11月15日(1867年12月9日)、四条河原町の近江屋において坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺されますが、龍馬の死を知った海援隊士たちが最初に疑ったのが、紀州藩士による「いろは丸事件」報復でした。

「いろは丸事件」とは、龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日に起きた龍馬率いる海援隊の汽船・いろは丸と紀州藩の大型汽船・明光丸が瀬戸内海讃岐沖で衝突する事件ですが、このとき龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文の損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から5万円で、約25億円~42億円に相当します)、その後、後藤象二郎の協力も得て龍馬はこの日本最初の海難審判全面勝利します(平成に入ってからの海底のいろは丸の潜水調査では、龍馬の主張した武器類は見つかりませんでした)。

その後、紀州藩からの減額交渉があり、紀州藩が海援隊に賠償金7万両を支払うことで決着を見るのですが、その7万両が土佐商会(土佐藩が経営する長崎の商社で、この当時、海援隊を管理していた)に支払われたのが11月7日。

しかし、その8日後に龍馬は凶刃に倒れます。

海援隊士の陸奥陽之助(宗光)は、実行犯を新選組、そしてその黒幕を紀州藩公用人の三浦休太郎(安)と決めつけました。

三浦は紀州藩の京都における周旋方(諸藩との外交交渉係)で、在京諸藩の幕府擁護論のリーダー的存在であり、「いろは丸事件」の談判では、紀州藩代表として龍馬と直接交渉した人物でした。

陸奥たちが三浦を疑ったのは無理もなかったでしょう。


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龍馬が暗殺された約3週間後の12月7日夜、陸奥ら海援隊・陸援隊士16名が、三浦が泊まっていた天満屋を襲撃します。

しかし、身の危険を察知していた三浦は、会津藩を通して新選組に警護を依頼しており、襲撃当日は、新選組隊士らと酒宴の最中でした。

そのため、狭い天満屋は双方入り乱れた大乱闘となり、三浦の家臣2名、新撰組隊士1名、襲撃者側に1名死者が出ましたが、三浦本人は、顔に軽いけがをしただけでした。

その襲撃側の死者1名というのが、石碑に刻まれた中井正五郎という人物です。


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十津川郷士の中井正五郎は、生前の龍馬が若造の自分を軽んじることなく時論を語ってくれたことに感激し、心酔して龍馬信奉者となった人物でした。

そして陸奥の天満屋襲撃の計画を知るとこれに加わり、一番乗りで討ち入って奮戦し、討死したといわれます。

ただ、幕末史的にはそれほど有名でもなければ重要な人物でもありません。

事件の主役はあくまで三浦と海援隊であり、三浦側にも死者がでています。

なのに、中井は龍馬の仇討ち(といっても冤罪の可能性が大ですが)で果敢に戦って討死したというだけで従五位の官位を送られて石碑に名が刻まれたわけです。

いまなら「天満屋事件跡」と刻むでしょう。

明治政府の偏った歴史観が伺える石碑です。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-08-10 00:43 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その110 「伊東甲子太郎外数名殉難之跡(本光寺)」

前稿で紹介した不動堂明王院から北へ150mほど上ったところにある本光寺の山門の横に、「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」と刻まれた石碑があります。

ここは新選組元隊士の伊東甲子太郎御陵衛士の面々が粛清された油小路事件があったとされる場所です。


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伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました。

そんな伊東を近藤勇参謀兼文学師範に任じて重用しますが、しかし、もともとは水戸学を学んだ勤王志士だった伊東は、近藤らとは「攘夷」の点では結ばれていても、佐幕色を強めていく新選組の方針に矛盾を感じはじめ、やがて新選組を離脱

同志14名と共に御陵衛士を結成します。


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やがて近藤勇は、御陵衛士にスパイとして送り込んでいた斎藤一から、伊東が近藤の暗殺を計画しているとの報告を受け、伊東の殺害を決意します。


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慶応3年11月18日(12月13日)、近藤は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を開き、その帰路、新選組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せて、酔っている伊東を襲撃しました。

槍で襲われた伊東は、深手を負いながらも一太刀敵に浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで倒れたといいます。

その絶命した場所が、ここ本光寺前だったと伝えられます。


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この扉の前だったのでしょうか?


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山門をくぐると、古い石塔があり、その横に「伊東甲子太郎絶命の跡」と刻まれた新しい石碑があります。

伝承によると、かつてこの石塔は本光寺門前にあったそうで、伊東はこの石塔に寄りかかるように絶命したといいます。


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その後、伊東の遺骸は七条油小路の辻に放置されました。

これは、遺骸を引き取りに来た御陵衛士の仲間を誘き寄せるための罠で、その計画通り、藤堂平助ら同志8名が現場に現れ、待ち伏せていた永倉新八 、原田左之助ら約40名の新選組がこれを迎えちました。

近藤は、幹部のなかでは最年少だった藤堂は生かしておくよう命じていたといいますが、その命令が新選組隊士全員に行き届いておらず、激闘のすえ絶命します。

その他、御陵衛士の服部武雄、毛内有之助も死亡しました。

この事件が起きたのは坂本龍馬が暗殺された3日後のことで、伊東と藤堂は龍馬暗殺の当日、龍馬が暗殺された近江屋を訪問し、命を狙われているから土佐藩邸に移るよう忠告したといいますが、その日の夜に龍馬が暗殺されて、自分たちの忠告が届かなかったことを嘆いたといいます。

その3日後に自分たちが殺されることになろうとは、露ほども思わなかったでしょうね。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-08-09 00:22 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その109 「新選組不動堂村屯所跡~不動堂明王院」

西本願寺の屯所を出た(追い出された?)新選組は、西本願寺から500mほど南の不動堂村に移転します。

現在、リーガロイヤルホテル京都の敷地内には、その跡地を示す石碑と説明板があります。


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石碑には、新選組のシンボルである「誠」の文字と、「事あらばわれも都の村人となりてやすめん皇御心」という近藤勇の歌が刻まれています。


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慶応3年6月10日(1867年7月11日)、新選組はこれまでの働きが認められて、会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、局長の近藤は御目見得以上の格(三百俵旗本)となります。

文字通り、近藤は幕府代表者の一員となったわけですが、このときから4ヶ月後に大政奉還が宣言されて幕府がなくなるわけですから、後世から見れば、貧乏くじを引いたようなものでした。

しかし、当時の近藤は、そんなことは露ほども思わなかったことでしょう。

近藤勇の甥で新選組隊士だった宮川信吉の書簡によれば、その5日後の6月15日、新選組は新しい不動堂村屯所に入所しています。

移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎が西本願寺と交渉の末、建築費・諸経費を西本願寺が負担することとなったそうです。

まあ、西本願寺にすれば、金払うから出ていってくれってことだったのでしょうが。

ちなみに吉村貫一郎というと、浅田次郎の小説『壬生義士伝』の主人公ですね。


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説明板によると、屯所の広さは約1万㎡あったそうで、表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れるほどあったといわれ、大名屋敷と比べても遜色ない構えだったとあります。


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リーガロイヤルホテル京都から東へ200mほどのところにあるホテル「ハトヤ瑞鳳閣」の前にも、不動堂村屯所跡の石碑があります。


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石碑には「此付近 新撰組最後の洛中屋敷跡」と刻まれています。


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こちらの説明板によると、屯所の位置については、上述した宮川信吉の書簡に「七条通下ル」と記されていること、また、永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあることから、この付近であることは確実であるものの、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明だとしています。

また、価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません・・・とも。

まるで、詳細に建物構造や規模を記したリーガロイヤルホテル前の説明板を批判しているかのような記述ですね。


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リーガロイヤルホテルとハトヤ瑞鳳閣のちょうど中間あたりに、不動堂明王院という小さなお寺があり、その正面には、「誠」の文字と「新選組まぼろしの屯所」と書かれた提灯がかけられていました。


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この不動堂明王院が屯所にあてられたのではないか、という説もあるんだそうですが、でも、なんで「まぼろし」なんでしょうね。

この辺りに屯所があったことは史実ですから、べつに幻ではないんじゃないかと・・・。


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新選組が不動堂村に屯所を構えたのはわずか6ヶ月でしたが、その間に、大政奉還があり、その後、王政復古の大号令が発せられ、新選組は5年間過ごした洛中をあとにし、鳥羽・伏見の戦いに向かいます。

現在もこの辺り一帯の住所は「南不動堂町」といい、往時を偲ばせてくれます。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-08-07 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第29話「三度目の結婚」 ~西郷の一時帰国と結婚~

e0158128_11283315.jpg 西郷吉之助(隆盛)の奮闘によって、第一次長州征伐は戦に発展せずに終結しましたが、これを最も喜んだのは、鹿児島の国元にいた島津久光・忠義父子でした。その理由は、戦を回避したことで兵や戦費を損なわずに済んだことも大きいですが、薩英戦争の経験により欧米列強の力を存分に知らしめられた久光は、いまここで内乱を起こすことで欧米諸国の国政への介入に発展しかねないという懸念を抱いていたからでした。一説には、西郷の長州藩に対する寛大な処置は、久光の指示だったのではないかとも言われます。ドラマでは、諸手を挙げて賛美していた忠義に対して、仏頂面で気に食わなそうだった久光でしたが、実際には、久光もこのたびの西郷の働きは大いに評価しており、これまでの西郷に対する不平不満がいくぶんか和らいだといいます。


e0158128_15131310.jpg 元治2年1月15日(1865年2月10日)、鹿児島に帰国した西郷に対して、久光・忠義父子から感状が授けられました。これにより、藩内での西郷の名声はさらに増すことになります。しかし、一方で、藩外では必ずしも評価は高くありませんでした。長州藩への寛大な処置が事実上西郷の建言を受け入れたものだったということが世間に知られるにつれ、西郷が長州藩に恩を売り、長州藩と手を組んで討幕を考えているのではないかという疑惑の声が、幕府からも雄藩からも囁かれ始めます。実際に薩長同盟が結ばれるのはこれより1年後のことですが、薩長同盟といえば坂本龍馬中岡慎太郎が着想した電撃的な同盟だったかのように描かれることが多いですが、実際には、この頃からすでに世間から注目されていたんですね。


 ドラマで、幕府からの参勤交代の復活命令に久光が激高していましたが、少し説明しておくと、文久2年(1862年)に久光が兵を率いて江戸に赴き、幕政に介入した文久の改革において、これまで隔年だった参勤交代の頻度を3年に1回の3ヶ月とし、同時に、これまで人質として江戸に住んでいた大名の妻子についても帰国を許すという規制緩和を実現していました。久光初の政治行動において最大の功績だったわけですが、ここに来て幕府は、禁門の変で朝廷を掌握したことで頭に乗ったのか、制度を元に戻そうとします。しかし、この命令に従わない藩が多く存在したため、結果的に幕府の威信の低下を露見することとなります。


 ちなみに余談ですが、ドラマ中、「幕府」とか「藩」といった呼称が頻繁に出てきますが、実際には、この時代はまだこの言葉はほとんど一般に馴染みはなく、幕府をさす公用語「大公儀」、藩は「お国」とか「ご領国」と呼んでいました。したがって「討幕」という言葉も存在しません。「幕府」「藩」という言葉が公用語となったのは、明治に入ってからのことです。


e0158128_22241961.jpg さて、今話のメインは西郷の嫁取りでした。西郷が3度目の結婚をしたのは、元治2年1月28日(1865年2月23日)、帰国してから約2周間後のことでしたから、あるいは、帰国前から縁談が進んでいたのかもしれませんね。お相手は家老座書役岩山八郎太の次女・糸(糸子)。ドラマでは幼馴染の設定ですが、実際には15歳ほど年の差がありますから、ちょっと無理があるでしょうね。西郷家と岩山家では、家格でいえば岩山家のほうが上でしたが、禁門の変の功によって西郷家の家格が引き上げられたため、それを機にこの縁談が成立したと考えられます。一般に、糸は再婚だったと言われ、今回のドラマでもそう描かれていますが、この説は、確たる史料が存在しないようで、事実かどうかはわからないようです。ドラマでは、子供が出来ずに離縁されたと言っていましたが、こののち、糸と西郷との間には3人の子宝に恵まれることになります。


 こうして祝言を挙げた西郷と糸でしたが、落ち着く間もなく西郷は福岡に出張を命じられ、2月6日に鹿児島を発ちます。2人の新婚生活は、わずか1週間で終わります。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-08-06 22:25 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その108 「西本願寺(新選組屯所跡)」

世界遺産西本願寺にやってきました。

ここは幕末、新選組の第2の屯所となった場所です。


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文久3年(1863年)春に上洛して以来、洛西壬生村の八木邸(参照:その96)や前川邸(参照:その97)を屯所としてきた新選組でしたが、池田屋事件で一躍脚光を浴びると幕府の支援も厚くなり、やがて隊は200人を越える大所帯となり、大人数を収容できる新たな拠点が必要となりました。

そこで、元治2年3月10日(1865年4月5日)に、ここ西本願寺に屯所を移転します。


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新選組が屯所として使用したのは、西本願寺の北東にあった北集会所太鼓楼でした。

北集会所は明治6年(1873年)に姫路市の本徳寺に移設されたため、現在残る新選組ゆかりの場所は、写真の太鼓楼だけです。


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新選組が西本願寺を屯所とした理由は、西本願寺は勤王色が濃いうえに長州藩毛利家とも縁が深く、長州藩士たちが何かにつけ西本願寺を頼りにしていたため、近藤勇はあえてその場所に拠点を移すことで、将来禍根となりうる芽を摘んでしまおうと考えたとたといわれます。

このことが原因で、勤王の志が強かった総長の山南敬助との間に確執が生まれ、やがて山南の脱走、切腹に至ったともいわれます。


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西本願寺に屯所を構えた新選組は、境内で大砲を轟かせ実弾射撃を行うなど、僧侶や信徒にとっては迷惑千万な存在でした。

また、境内で食料としての豚の飼育を行っていたといいます。

当時、僧侶たちにとっては、境内で生き物を殺生するなど、許しがたき野蛮な行為でした。


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新選組が西本願寺を屯所としたのは約2年で、慶応3年(1867年)6月には近くの不動堂村に移転します。

その理由は、西本願寺のたっての願いだったようで、その移転費用も西本願寺が全額負担したそうです。

よほど嫌だったことがわかります。

幕末の京都の治安を守った新選組ですが、西本願寺の僧侶たちにとっては、厄介者でしかなかったようですね。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-08-05 00:26 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その107 「輪違屋(島原)」

島原で現在も唯一、茶屋を営業されているのが、輪違屋です。

輪違屋の創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まりました。

当時は「養花楼」といったそうです。


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前稿でも紹介しましたが、島原には大きくふたつに分けて「置屋」「揚屋」がありました。

「置屋」は、太夫芸妓に芸を教える教育の場で、お客さんは出入りしません。

「揚屋」は、現代でいう料亭にあたり、置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、遊宴を催す会場です。

輪違屋は「置屋」ですから、ここに、多くの太夫芸妓が所属していたわけです。


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現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)には、ほぼ現在の姿だったそうです。

明治に入ってから置屋だけでなく、茶屋を兼業するようになったそうです。


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輪違屋と聞けば、浅田次郎の小説『輪違屋糸里』が思い出されます。

糸里は輪違屋の天神(芸妓)で、新選組の副長助勤の平間重助の馴染みでした。

平間重助は筆頭局長の芹沢鴨の一派で、芹沢が殺された当日、ともに居合わせた人です。

芹沢らが襲われた夜、糸里は八木邸で芹沢らとともに酒宴を過ごし、その後、芹沢らとは別の部屋で平間とともにに就きました。

皆が寝入った深夜、近藤勇一派の数名が踏み込んできて芹沢らを殺害しますが、別の部屋で寝ていた平間と糸里は難を逃れます。

平間はその後、芹沢派の唯一の生き残りとして明治23年(1890年)まで生きたと伝わります。


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糸里という女性の話は、昭和の初めに作家の子母澤寛八木為三郎(新選組が屯所にしていた八木家の子息)から聞き書きした『新選組遺聞』にでてきます。

しかし、輪違屋に糸里という名の芸妓がいたという記録はないそうで、糸里の素性やその後は一切不明なんだとか。


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輪違屋の入口には、「観覧謝絶」の札が掲げられています。

いわゆる「一見さんおことわり」の店ということですが、もともとは置屋だったわけですから、一見さんであれ常連さんであれ、お客さんが出入りする場所ではなかったはずなんですが。

店内には、いまも近藤勇書の屏風や桂小五郎(木戸孝允)書の掛軸があるそうです。


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現在は揚屋と置屋を兼ね備えたお茶屋として、日本で唯一、現役の「如月太夫」を抱えて営業されています。

死ぬまでに一度、客として行ってみたいものです。

誰か連れてってください。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-08-04 00:31 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)