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真田氏ゆかりの九度山を歩く。 その2 <真田庵>

「その1」のつづきです。

九度山にある善名称院というお寺は、別名「真田庵」と呼ばれます。

ここは、真田昌幸、信繁(幸村)父子が、蟄居生活の間を過ごした庵跡と伝わります。


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真田庵の北門です。


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長押には、真田家の家紋「六文銭」と、菊の御紋が並んでいます。


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こちらは南門


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南門の扉にも、同じく六文銭菊の御紋があります。


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六文銭はいいとして、なぜ菊の御紋があるのかと調べてみたら、ここ善名称院は江戸時代の桃園天皇(第116代天皇)ゆかりの寺院でもあるそうです。


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門内にある真田庵由緒


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これは、昭和60年(1985年)のドラマ『真田太平記』のポスターですね。

このとき真田信繁(幸村)を演じた草刈正雄さんが、30年後の平成28年(2016年)の大河ドラマ『真田丸』真田昌幸を演じたことが話題になりましたよね。

真田信之役は渡瀬恒彦さん、女優さんは紺野美沙子さんと遥くららさんですね。

このとき、真田昌幸を演じたのは丹波哲郎さんでした。

遠い将来、堺雅人さんが昌幸を演じる日がくるかも。


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境内です。


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城郭風の本堂です。

八棟造だそうです。

善名称院は、寛保元年(1741年)に大安上人が、真田父子の庵跡との伝承のあるこの地に、地蔵菩薩を安置した一堂を創建したのが始まりだそうです。


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真田屋敷跡の説明看板。


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そして、境内には、真田昌幸の墓と伝わる墓碑があります。

あくまで「伝」だそうですが、信繁(幸村)が建てたと伝わる昌幸の墓です。


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昌幸が死んだのは、関ヶ原の戦いから11年後の慶長16年6月4日(1611年7月13日)、大阪冬の陣の3年前でした。

享年65。

昌幸の遺体は付き従っていた家臣によって火葬にされ、慶長17年(1612年)8月に分骨を上田に運んだといわれ、墓所は長野県の真田山長国寺真田山長谷寺にありますが、荼毘に付されたのはここ九度山ですから、当然、九度山にも埋葬されたはずです。

なので、「伝」といっても、十分に信憑性のある「伝」といえます。


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時代を感じさせる宝篋印塔です。


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手前の「真田昌幸公」と刻まれたこの石碑は、おそらく後世に建てられたものでしょう。


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「真田安房守昌幸墓地」と書かれた説明板。


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その横には、昌幸を祀った真田地主大権現が鎮座します。


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その由緒書です。

ここには、真田家三代の御霊を合祀したと書かれていますね。

三代とは、昌幸と信繁(幸村)、そしてもうひとりは、真田大助でしょうか?


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大権現の柵にも六文銭が。


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鳥居にも六文銭


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社の欄間にも六文銭があります。


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真田地主大権現の横には、「眞田家臣一族之霊」と刻まれた宝篋印塔があります。

こちらは、時代的に新しそうです。


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他にも、「真田昌幸公四百年忌碑」とか「真田幸村公碑」とか、「真田父子四百回忌碑」とか、真田関連の石碑だらけです。


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こちらは、与謝蕪村の歌碑です。

「かくれ住んで 花に真田が 謡かな」


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その横には、古井戸があります。


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その横の石碑には「幸村 雷封じの井」と刻まれています・


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説明板によると、幸村が閑居中、屋敷に落ちた雷を取り押さえて井戸に封じ込み、里の人々の難を救ったという伝承があるのだとか。

いやいやいやいや(笑)。

伝承にツッコミを入れるのは無粋というものですが、さすがにこれはねぇ。

AUのCMにもなりません(笑)。


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もっとも、ここが真田父子の庵跡だったという伝承が事実ならば、昌幸や信繁がこの井戸の水を飲んでいたということはあったかもしれませんね。


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虚実とりまぜた真田庵の伝承ですが、ここ九度山で真田父子が14年間過ごしていたということは間違いなく、歴史に思いを馳せることができます。




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# by sakanoueno-kumo | 2021-05-13 23:07 | 和歌山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

真田氏ゆかりの九度山を歩く。 その1 <九度山・真田ミュージアム>

過日、和歌山県九度山町に行ってきました。

もう、ずいぶん前に訪れていたのですが、他のシリーズネタを起稿していたら、いつの間にかお蔵入りになっており・・・。

今更ではありますが、備忘録としてお届けします。


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九度山といえば、戦国武将の真田氏ゆかり地として有名です。

関ヶ原の戦いで西軍に与して敗れた真田昌幸・信繁(幸村)親子が、流罪となった里です。

観光客用の駐車場には、さっそく「幸村の里」と書かれた六文銭の家紋入のが出迎えてくれます。


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九度山の観光マップです。

残念ながら、この全てをめぐってはいません。


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まず訪れたのは、九度山・真田ミュージアム

平成28年(2016年)の大河ドラマ『真田丸』の放送に合わせて、同年3月にオープンしたテーマ館です。


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毎年、大河ドラマに合わせてゆかりの地にテーマ館がオープンしますが、そのほとんどは1年間限定だったりするのですが、ここはドラマが終わったあとも、ずっと九度山町によって運営されています。


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エントランスには、真田家三代甲冑姿と背後に大きなバナーが飾られています。

通常、真田家三代といえば、真田幸隆、昌幸、信之・信繁(幸村)兄弟を指すことがほとんどだと思いますが、ここでは、昌幸、信繁(幸村)、そして信繁の息子・大助の三代です。

幸隆と信之は、九度山とは無縁ですからね。


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中央が真田昌幸

あの徳川家康に二度も煮え湯を飲ませた智将の昌幸も、長い蟄居生活で日に日に衰えていき、ここ九度山にて死去しました。


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左が真田信繁(幸村)

大坂の陣で日の本一の兵(つわもの)と呼ばれ、戦国武将の人気投票では常に上位に名を連ねる信繁ですが、よく知られる「幸村」という名前は、その死後、江戸時代の軍記物語などの中で使われていたもので、本来は「信繁」が正しい諱です。

ただ、一般的には幸村のほうが圧倒的にメジャーですから、小説やドラマなどでは幸村で通されることが多く、ここ真田ミュージアムでも幸村として紹介されていました。


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そして、右が真田大助

信繁(幸村)の息子としてここ九度山で生まれ、慶長19年(1614年)、父とともに九度山を脱出し、通説では、父の死の翌日、大坂城落城とともに豊臣秀頼殉死したと伝わります。

享年13とも16とも。

ちなみに大助は通称で、諱は幸昌


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館内は他のテーマ館などと同じく、パネル展示が主体でした。


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そのパネル展示のデザインが濃い赤で統一されていて、まさに真田の赤備えでかっこいい空間演出でしたね。


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こちらは、真田父子が14年間過ごした九度山の館を再現したものです。


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こちらは、昌幸、信繁(幸村)父子が、徳川との最終決戦を睨んでその準備をしている様子だそうです。

伝承では、自らの死期を悟った昌幸は、信繁を枕頭に呼び、徳川と豊臣の決戦がはじまった際の秘策を授けたと伝わります。

真田昌幸の『兵法奥義』と言われるもので、原本は大坂城とともに灰となったと伝えられますが、実在したかどうかは定かではありません。

その秘策とは、籠城戦では勝ち目がなく、積極的に討って出て勝負をかけよ、というものでしたが、実際には、その意見は取り入れられず、籠城戦となってしまうんですよね。

そこで信繁(幸村)が考え出したのが、大坂城南に築いた攻撃的な出城、真田丸だったわけです。


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井戸があります。


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このトンネルは抜け穴をイメージしているのでしょうか?

大阪冬の陣の際、真田丸から大阪城内に通じる抜け穴があったとの伝承があり、今も大阪市天王寺区の三光神社にある信繁(幸村)像の横に抜け穴の跡がありますが、信憑性はありません。

また、ここ九度山にも、大坂城に通じていたと伝わる抜け穴の跡があります。

それこそ、ありえないですね(笑)。

九度山から大坂城まで直線距離で約45km

現代の地下鉄でも、そこまで長い距離のものはありません(笑)


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こちらは大坂の陣のコーナー


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大坂夏の陣合戦図屏風があります。


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もちろんレプリカですが。


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そして、真田丸のジオラマが。


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これはスゴイ!

精巧に造られていますね。


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真田丸の規模や形、正確な場所は今でも特定されておらず、議論がなされています。

かつては半円形、あるいは三日月型といった説が多かったと思いますが、近年では、正方形に近い方型という見方が浮上してきて、有力視されています。

この模型も新説に合わせて作られていますね。

たしか、大河ドラマ『真田丸』も、この模型に近かったと記憶しています。


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その大河ドラマ『真田丸』の題字が展示されていました。

これもレアですね。


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そして、ドラマのキャストたちの等身大パネルも。

昔に比べて近年の大河ドラマは視聴率が取れなくなっていますが、それでも、大河ドラマが地方の観光にもたらす影響というのは絶大ですね。

見ごたえのあるテーマ館でした。

「その2」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2021-05-12 20:59 | 和歌山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

青天を衝け 第13話「栄一、京の都へ」 ~栄一の上洛と長七郎の投獄~

 文久3年(1863年)118日、渋沢栄一渋沢喜作は血洗島村をあとにし、京都に向かうことにしました。栄一24、喜作26のときでした。もっとも、京都に行くには途中の関所を越すための手形がいります。そこで彼らは、まず江戸に立ち寄ります。かねて知遇を得ていた平岡円四郎を頼り、京都に行くための手助けをしてもらうためでした。あいにく円四郎は京都に行って不在だったものの、奥方より平岡円四郎家来名義の手形をもらうことができ、京都を目指します。


青天を衝け 第13話「栄一、京の都へ」 ~栄一の上洛と長七郎の投獄~_e0158128_16424734.jpg 故郷を出てから18日目の1125日、栄一らは京都に着きました。そして二人は、さっそく都の情勢を知るべく、諸国の藩士や天下の志士たちを訪問し、交際を始めました。栄一は父からもらった100の金のうち、30を江戸と道中で使ったそうです。ドラマでは描かれていませんが、栄一の息子・渋沢秀雄の著書『父 渋沢栄一』によると、江戸に立ち寄った際には生まれて初めての吉原遊びもしてようです。京でも、旅籠代交際費で瞬く間に浪費し、年末にはもはや残り少なくなっていました。そこで栄一は、その正月、一橋家家臣の猪飼正為から25両の借金をしたようです。一方で、二人が泊まっていた旅籠は、一般的な宿よりずいぶん高い宿泊費の旅籠だったとか。このあたりは、やはり、大百姓のボンボンだったということでしょうね。


青天を衝け 第13話「栄一、京の都へ」 ~栄一の上洛と長七郎の投獄~_e0158128_16512779.jpg 栄一らが京都に入った翌日の文久3年(1863年)1126日、徳川慶喜も京都に入ります。以後、慶喜は鳥羽伏見の戦い後まで京阪地域にとどまることになるのですが、もっとも、これは当初から予定されていたことではなく、最初は数か月程度の滞在予定だったはずが、諸々の情勢が慶喜の江戸下向を許さず、足掛け6年に及ぶことになります。


 文久3年も押し詰まった12月晦日、慶喜は松平容保、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂とともに朝廷から朝議参預に命じられ、小御所や二条関白邸で開かれることになった朝議に参画することになります。世に言いう参預会議ですね。これは、もともと薩摩藩国父の島津久光のはたらきかけによって出来たポストで、久光は、朝廷、幕府、有力諸藩が集って政を行う合議制会議の必要性をかねてから主張していました。もっとも、この参預会議はあっという間に瓦解してしまうのですが、それは次週描かれるようですね。


 天下の志士たちと交際して世の動きを見た栄一と喜作は、郷里の尾高長七郎へ手紙を送り、幕府の命運も尽きつつあるから、長七郎も至急上京して共に倒幕運動を画策しようと促しました。その数日後、長七郎からの返事が届きます。その手紙には、思いもよらぬ変事が記されていました。長七郎は同士の中村三平福田義助の両人と共に江戸から郷里に帰る途中、戸田の原で誤って飛脚を殺害してしまい、三人とも幕吏に捉えられて江戸伝馬町の牢に入れられてしまったらしく、そのとき、長七郎の懐には栄一らが送った手紙があり、幕吏に押収されてしまったとのこと。これを読んだ二人が愕然としたことは言うまでもありません。栄一の自伝『雨夜譚』よると、喜作は今から江戸に行って三人を救い出そうと息巻いたようですが、栄一は自分たちが江戸へ行ったところで捕まりに行くようなものだといってこれを制止したといいます。賢明な判断だったでしょうね。


 翌朝、二人のもとに平岡円四郎から手紙が届きました。その内容は、相談したいことがあるから、すぐに来てくれというもの。行き場を失っていた二人は、すぐさま平岡を訪ねました。栄一の自伝『雨夜譚』によると、そこでの二人と円四郎のやり取りは、ほぼドラマのとおりです。円四郎は、栄一らに事態の経緯を問いただし、栄一らも、正直にそれを話しました。円四郎は、それを知ったうえで、仕官を勧めます。栄一らにとっては、それは渡りに船の話だったでしょうが、しかし、これまで攘夷倒幕をスローガンに行動してきた二人だけに、その誘いに乗るには大いなる矛盾が生じます。二人はこの勧めにどう答えるのか・・・というところで続きは次回になります。


 ちなみに、長七郎が飛脚を斬った理由は、本人の申し立てによると、一匹の狐が自分を目掛けて飛び掛かってきたので、思わず抜き打ちに斬って落としたら、それが人間だったと供述しています。長七郎は、栄一らの挙兵を阻止したあと、どうやら精神に異常をきたしていたともいわれます。おそらく、たまたま飛脚とすれ違った瞬間、病的な発作が長七郎に狐の幻覚を起こさせたというのが真実だったのかもしれません。現代でも、鬱病などの精神疾患に悩む人は、根っから生真面目な性格の人が多いと聞きます。きっと長七郎は、ピュアで生真面目な性格の人で、ドラマで描かれていたように、坂下門の変で同志たちと行動を共にできなかったことが、ずっと心のわだかまりになっていたのかもしれませんね。



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# by sakanoueno-kumo | 2021-05-09 23:04 | 青天を衝け | Trackback | Comments(2)  

周匝茶臼山城跡を歩く。 その3 <片桐池田家墓所>

「その2」のつづきです。

周匝茶臼山城跡への登城道の脇に、備前周匝の領主を務めた片桐池田家の歴代当主の墓が並んでいます。

片桐池田家は岡山藩主・池田氏の一族で、岡山藩の家老として明治維新まで続いた家です。


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池田家東墓所の最上段に設置された看板です。

ここに眠る歴代領主の説明書きがあります。

ここに眠るのは2代~7代当主とその妻のようで、初代と8代以降は別の場所に葬られているようですね。

初代・池田長政は、織田信長の重臣の一人だった池田恒興の四男で、兄は世界遺産の姫路城を築いた池田輝政

関ヶ原の戦い後に播磨国赤穂城主になりますが、その後、加増されて備前国下津井3万2000石の領主となります。


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こちらは、2代・池田長明の墓。


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長明は長政の嫡男として備前下津井に生まれ、その後、主家の池田家の転封に合わせて、播磨龍野、伯耆八橋に移りますが、池田輝政の孫にあたる池田光政が岡山藩主となると、その家老として、ここ周匝2万2000石の領主となります。

以降、代々周匝を治め、明治維新を迎えることになります。

実質、長明が周匝領主として初代といっていいでしょうね。

長明が初代社長で、長政は名誉会長といったところでしょうか?


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こちらは、3代・池田長久の墓。


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長久は、岡山城下の旭川の洪水対策の水路工事に尽力した人だそうです。


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こちらは、3代・池田長久の夫人の墓。


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こちらは、4代・池田長喬の墓。


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長喬は、江戸城松之廊下で吉良上野介義央浅野内匠頭に斬りつけられたという有名な赤穂事件が起きたあと、赤穂藩の様子を情報収集し、江戸の藩主・池田綱政に書状で報告した人だそうです。


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こちらは、4代・池田長喬の夫人の墓。


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こちらは、5代・池田長處の墓。


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難しい字ですが、長處(ながつね)と読みます。


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そしてこちらは、5代・池田長處の夫人の墓。


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こちらは、5代・池田長處の弟・池田長宗の墓。


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こちらは、6代・池田長仍の墓。


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こちらも難しい字ですが、長仍(ながゆき)と読みます。


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そしてこちらは、6代・池田長仍の夫人の墓。


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こちらは、7代・池田長玄の墓。


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長玄は、幕府老中・松平定信寛政の改革にともなって岡山藩も藩政改革を開始すると、改革反対派の仕置家老に代わって仕置職に任じられ、藩政を担いました。

しかし、岡山藩の寛政の改革は反対派の激しい抵抗辞職に追い込まれ、改革は失敗に終わります。


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そして、最後に7代・池田長玄の夫人の墓。


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墓地の最西端に石碑立て札があります。


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墓地を過ぎて駐車場に行く途中に、大仙山城跡への誘導板と説明板がありました。

大仙山城の築城主は不明ですが、周匝茶臼山城と尾根続きの至近距離なので、おそらく連携した城だったのでしょうね。

こっちにも行こうかどうしようか迷ったのですが、「その1」で述べたとおり、この日は予定になかった寄り道だったため、パスすることにしました。

また、機会があれば大仙山城跡も攻めてみたいと思います。




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# by sakanoueno-kumo | 2021-05-08 00:00 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

周匝茶臼山城跡を歩く。 その2 <主郭・腰曲輪・空堀>

「その1」のつづきです。

周匝茶臼山城の天守は模擬天守なので、歴史的な価値はなく、見どころはその周辺の遺構にあります。


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江戸時代の城がそのまま残る「現存天守」は、世界遺産の姫路城をはじめ全国に12天守しかなく、そのほかはすべて昭和以降に再建されたものですが、その中でも、「復元天守」「復興天守」「模擬天守」といった名称に分類されます。

「復元天守」は、古写真や図面などの史料に基づいて、往時の天守を忠実に再現したもののことで、「復興天守」と呼ばれるものは、かつて天守はあったものの、その史料が乏しく、実際にあったものとはちょっと違う再建となった天守を言います。

最後に、「模擬天守」と呼ばれるものは、実際には天守がなかったはずの城にほかの城を参考にして天守を建てたもの。

あるいは、天守が存在したけれど、実際の天守とは全く違うものを建ててしまったものなどをいいます。

ここ、周匝茶臼山城は天文年間(1532年~1555年)初め頃に築かれて天正5年(1577年)に落城した城ですから、天守のような建物があったとしても、このような江戸時代風の天守があったとは考えらず、これは、あくまで模擬天守です。


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主郭の隅には、「茶臼山城跡」と刻まれた石碑と、歌碑があります。


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「吉井詩情」五木ひろし。

知らねぇ~(笑)。

ご当地ソングのようですが、地元の方々は知っているのでしょうか?

でも、せっかく城跡なんだから、歌碑は歌碑でも、戦国時代の浦上宗景の辞世とか、片桐池田家の歴代城主が詠んだ歌とかのほうが良かったのでは?

五木ひろしさん、岡山県出身じゃないし。


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主郭北側の一段下の曲輪に降りてみましょう。


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主郭北側の腰郭から見た、主郭切岸です。

かなりの高低差です。


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主郭切岸に沿って外周を歩いてきます。


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主郭南側の空堀

立派な堀切です。


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空堀の下から主郭切岸を見上げます。


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主郭東側にも曲輪があります。


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二ノ丸といった扱いでしょうか?


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説明板には、「腰郭の跡」とあります。

腰郭というには、少し離れているような・・・。


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こちらにも空堀があります。


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その説明板。


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縄張り図を見ると、東に太鼓の丸と名付けられた曲輪もあるようでしたが、この日は予定外の寄り道だったため、時間の都合でパスしました。

このあと、駐車場に戻る途中の片桐池田家の墓所を参りました。

「その3」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2021-05-07 00:11 | 岡山の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)