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いだてん~東京オリムピック噺~ 第24話「種まく人」 ~関東大震災~

 今回も前話に引き続いて関東大震災の話でしたね。大正12年(1923年)9月1日に発生した大地震は、死者・行方不明者10万8000人に達するという未曽有の被害をもたらしました。被災者340万人、その被害の大半が火災による二次災害で、死者・行方不明者の9割が焼死全焼した家屋が38万世帯といいますから、その被害の甚大さは筆舌に尽くしがたいものでした。それだけ多くの家が焼けたということは、それだけ住む家を失った人がいたということに他なりません。そこで政府は、応急措置とし学校、官公庁、寺社などの公共施設へ被災者を収容し、また、明治神宮外苑屋外天幕を張り、約1万人を収容しました。


 続いて、現代でいうところの仮設住宅にあたる「バラック」の建設が計画され、9月4日以降、東京府、市、警視庁の分担によって建設が開始されます。明治神宮外苑、日比谷公園、靖国神社境内、上野公園、芝離宮、芝公園の6ヵ所に大規模なバラックが建設され、また、小学校の焼け跡や公園、空き地、広場など90ヵ所に小規模なバラックが建てられ、10月上旬から収容が開始されました。わたしも、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災を経験したひとりですが、私の住まいは一部損壊ですんだため避難所生活を送る必要はありませんでしたが、町中の学校や公園、スポーツ施設など至るところに仮設住宅が建てられ、そこで生活している方々の姿を毎日目にしていました。平成の仮設住宅ですら、その過酷な生活環境には目を覆うものがありましたが、この時代のバラック生活の劣悪さは、おそらくその比ではなかったでしょう。


e0158128_19143177.jpg この惨事のなか、大日本体育協会の名誉会長となっていた嘉納治五郎は、9月30日に帝国ホテルで理事会、常務委員会を開き、翌年に行われる予定の第8回パリオリンピックに日本人選手を派遣することを決議します。その一環として、この秋に第一次予選会を行い、翌年の4月中旬には第二次予選会を東京で開催することを決定します。そして、そのために、競技場建設を急ぐよう求めるということも。翌10月1日に発表した大日本体育協会の宣言文には、こうあります。


 「翌年七月にパリで開かれる国際オリンピック大会に選手を送る計画のあったことは一般の知るところであり、この震災のために全ての計画を放棄するのは極めて遺憾であるとし、この際海外に日本国民の元気と復興の意気を示すためにも、派遣したほうがよい」


 こんなときだからこそ、国民の士気を鼓舞するためにもオリンピックに出るべきだ、と。東日本大震災のときも、プロ野球の開幕前だったことで、自粛すべきか否かで議論がありましたよね。100年前も今も、直面する問題は同じようです。


e0158128_22162429.jpg そんな震災のドサクサのなか、人見絹枝が上京してきましたね。実際には、この翌年の4月に上京し、二階堂トクヨが塾長を務める二階堂体操塾に入学します。ドラマでもいっていましたが、彼女はこの年の岡山県女子体育大会において、走幅跳4m67という当時の日本最高記録(非公認)で優勝しています。そんな彼女のスポーツの素質に注目した岡山高等女学校の教師が、彼女に東京の二階堂体操塾に進学するよう勧めたそうですが、ドラマでは、シマちゃんこと増野シマが彼女の素質を見抜いたという設定でしたね。シマちゃんはドラマのオリジナルで、実在の人物ではありません。そんな架空の人物であるシマちゃんに、物語は人見絹枝をスポーツの世界へ導くという重要な役割を与えていたんですね。シマちゃんのような名もなき女性がいたからこそ、人見絹枝のような稀代のアスリートが生まれた、と。まさにタイトルどおり「種まく人」でした。あるいは、本当にシマちゃんのような「種まく人」がいたかもしれません。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-06-24 22:17 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

犬走りの代表的な城、岸和田城攻城記。 その3 ~二ノ丸~

「その2」のつづきです。

岸和田城大手門の北西には、かつての二ノ丸跡があります。

現在は二の丸広場として市民憩いの公園となっています。


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いまは芝生広場になっていますが、かつてはここに二ノ丸御殿がありました。

さらに昔の中世にまで遡ると、ここ二ノ丸が本丸だったそうです。


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岸和田城の歴史は古く、南北朝時代、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の建武の新政によって摂津国、河内国、和泉国の3ヵ国守護に任ぜられた楠木正成が、甥の和田新兵衛高家を和泉国の代官にし、この地に城を構えさせました。

それが岸和田城の始まりとされていますが、そのときの城は今より少し東にあったとされ、現在、岸和田古城跡として石碑と案内板が設置されています。

参照:太平記を歩く。 その64 「岸和田古城跡」

一説には、このあたりは、かつては「岸」と呼ばれていたのが、和田氏が代官となったことで「岸の和田氏」と呼ばれるようになり、やがてそれが「岸和田」という地名になったのだとか。

その後、和田氏の一族である信濃氏が岸和田に入り、その信濃氏の時代に新たに築かれた城が、現在の二ノ丸を本丸とした城だったと伝わりますが、別の説では、永禄年間(1558~1570年)頃の松浦肥前守、三好義賢らの時代とも言われます。

正確なことはわかっていません。


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二ノ丸公園東隅にはが再建されています。


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入口には「二ノ丸多聞」と書かれていたのですが、なんと中は公衆トイレ


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こちらは、伏見櫓跡


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説明板によると、かつてここには京都の伏見城から移築された伏見櫓があったそうです。

元和9年(1623年)に伏見城が廃城になった際、その建物が全国の主要な城に移築されて「伏見櫓」と名付けられましたが、ここ岸和田城にも移築されたということは、徳川時代になっても岸和田城は重要視されていたことがわかります。

現在、広島県の福山城にも、伏見櫓が残されています(参照:備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」)。


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こちらは二ノ丸公園内に建つ「心技館」という道場。

私が訪れたこの日も、中から剣道の練習をしている様子が聞こえていました。


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公園内にある皆吉爽雨の歌碑。

「城山へかつ天守へと登高す」


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同じく公園内に建つ岸和田の女流歌人・河野繁子の歌碑。

「めぐりつつ登り来りし高殿の俯仰の視野に花あふれたり」


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二ノ丸広場から望む天守です。


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二ノ丸公園西側に残るです。


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向かいに絵図が設置されていました。

二ノ丸を囲う堀は「百聞堀」と書かれています。

中堀にあたるのかな?


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内堀の西側にある駐車場の前に、岸和田藩薬園跡と書かれた説明板が設置されています。

かつてこの場所に岸和田藩第9代藩主・岡部長慎が命じて作らせた薬園があったそうです。


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また、岸和田城は、慶長20年(1615年)の大阪夏の陣の舞台のひとつにもなっています。

そのときの件については、以前の拙稿で紹介していますので、よければ一読ください。

(参照:大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11

最後に、続日本100名城のスタンプです。

やっぱ、スタンプにも犬走りが描かれています。


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# by sakanoueno-kumo | 2019-06-22 00:05 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

犬走りの代表的な城、岸和田城攻城記。 その2 ~本丸~

「その1」の続きです。

岸和田城内堀北西の土橋を渡って本丸に向かいます。

土橋入口の左右に設置された行灯には、それぞれ「千亀利城」「猪伏山」という文字が書かれています。


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「猪伏山」とは岸和田城が築かれた丘の名称で、「千亀利城」とは岸和田城の別称です。


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大手櫓門は再建です。


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門をくぐると枡形虎口になっており、その隅に石碑が建てられています。


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碑文は漢文で、文末に「正五位勲五等舊臣 土屋弘 謹撰」とあります。

土屋弘とは、旧岸和田藩士の儒学者で、明治維新後は、堺県中属、堺県師範学校長、奈良師範学校長、華族女学校教授、東洋大学教授などを歴任し、教育の振興に尽くした人だそうです。


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内側から見た大手櫓門。


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大手門から本丸まではスロープ状の道になっていましたが、おそらく往時はこんなコースはなかったのでしょう。


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スロープの途中には、「岡部氏紀年碑」と刻まれた大きな石碑があります。

岡部氏とは、岡部宣勝を初代として明治維新まで13代続いた岸和田藩主の岡部氏のことです。


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本丸に来ました。

眼の前に美しい天守がそびえます。


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前稿でも述べたとおり、岸和田城を近世城郭として整備したのは、豊臣秀吉の叔父に当たる小出秀政でした。

そのとき築かれた天守は5層の大天守でした。


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ところが、その大天守は文政10年(1827年)11月20日の落雷によって焼失し、その後、幕府に復興願いを届出済みで、それによると3層の天守、2層の小天守とありますが、結局は再建されませんでした。

江戸時代後期には、もう天守など再建する必要はなかったのでしょう。

お金も掛かるし。


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現在の天守は、昭和29年(1954年)に市民の寄付や旧城主の子孫である岡部氏の要望などによって鉄筋コンクリートで再建されたものです。

もっとも、予算の都合で5層天守ではなく3層となりました。

なので、復元天守ではなく、史料に基づかない模擬天守です。


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でも、見ようによっては、落雷の焼失後に幕府に再建を願い出た3層の天守、2層の小天守の設計ともとれます。

江戸時代の再建計画が昭和になってやっと実現したといえるかもしれません。


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それでは、天守の中に入りましょう。


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天守の中は、おおかたの復元天守と同じく、岸和田藩にまつわる史料館となっています。


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岸和田城の縄張り模型が展示されています。

これは堅固です。


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最上階の展望台からの南西側の眺望です。

向こうに見える山脈を越えると、紀伊国(現在の和歌山県)です。


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こちらは反対側の北西の眺望。

向こうに大阪湾が見えます。


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展望台から本丸を見下ろすと、変わったデザインの庭が見えます。

この庭は「八陣の庭」といい、庭園設計の第一人者、重森三玲氏によって設計監督されたもので、室町時代以前の城郭平面図をもとに地取し、諸葛孔明八陣法をテーマに作庭されたものだそうです。

真ん中の巨石が大将で、周囲に天、地、龍、虎、風、雲、鳥、蛇が布陣されているそうです。

なぜ、岸和田城の庭に諸葛孔明なのかは不明。


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さて、天守まで制覇しましたが、次回、もう一回だけシリーズ続けます。

「その3」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-06-21 00:36 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

犬走りの代表的な城、岸和田城攻城記。 その1 ~内堀~

だんじり祭りで有名な大阪府岸和田市にある岸和田城は、犬走り石垣の代表的な城として知られています。

「犬走り」とは、石垣と堀の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分のことで、犬が通れるくらいの幅しかない道という意味合いから、そう呼ばれます。


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写真は内堀の南東からの撮影です。

石垣の下に犬走りがあるのがわかるかと思います。


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南東は本丸大手門のちょうど真裏になります。

犬走りから本丸に登る石段が見えますが、内堀に橋は架かっていないので、搦手門というわけではなさそうです。


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石段のアップです。


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天守のアップです。


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内堀に沿って1周してみましょう。


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内堀南西側からの撮影です。

ここも犬走りが続いていますね。


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本来、城の防御の面からみれば、犬走りは敵に侵入の足掛かりを与えてしまうため、決して有利とはいえない構造です。


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一方で、石垣や土塁の崩落を防ぐための効果があると考えられ、ここ岸和田城の犬走りは、もろい泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐために作られたという説が有力だそうです。


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西側から見た天守です。


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内堀西隅まで来ると、ここで犬走りが終わっています。

その上に見えるのが、本丸隅櫓

その向こうに大手門につながる土橋が見えます。


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角度を変えて、南西内堀の犬走りを見ます。

櫓、多聞櫓の向こうに少しだけ天守が見えます。


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北東側の内堀にやってきました。

こちらは、なぜか犬走りがありません。

どういう意図なんでしょう?


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岸和田城といえば、岡部宣勝を初代として明治維新まで13代続いた岡部氏の城という印象が強いですが、現在残る岸和田城を築いたのは、豊臣秀吉の叔父に当たる小出秀政でした。

秀吉は紀州周辺の反豊臣勢力根来衆雑賀衆への抑えとして、ここ和泉国の岸和田に多重の堀に囲まれた巨大な城を作らせました。

それが、岸和田城です。


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内堀東隅まで来ました。

ここからまた犬走りが始まって、最初の写真の南西につながります。

ちなみに、出隅の石垣の色が違っているのは、平成11年(1999年)の豪雨で石垣の一部が崩れたために修復したせいだそうです。

やっぱ、北東側にも犬走りを造るべきだったんじゃないですかね?


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さて、内堀を1周したので、「その2」では本丸を攻めます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-06-19 22:03 | 大阪の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第23話「大地」 ~関東大震災~

 大正12年(1923年)9月1日、関東地方を中心に広い範囲に被害をもたらした大地震が発生します。いわゆる「関東大震災」です。震源地は相模湾の真ん中あたりで、現代の観測値でいえば、マグニチュード7.9、最大震度6という規模だったと言われています。その被害の範囲も広大で、房総半島の太平洋側から、東京府、埼玉県、神奈川県、さらには東伊豆から静岡県の東の方、また、山梨県の一部まで家屋の倒壊があったと言われています。木造建築がほどんどだった時代とはいえ、その地震の規模の大きさがうかがえます。


e0158128_21313576.jpg また、これもよく知られていることですが、地震が起きたのが午前11時58分という、ちょうど昼食の準備の時間帯だったことも、被害を拡大させました。当然のことながら、当時はIHキッチン電子レンジもなく、どの家庭でもなどのを使って炊事をしていたわけで、その火が燃え移って大規模な火災が発生しました。消化器消火栓なども当然なく、水道すらまだほとんど家庭には通ってなかった時代ですから、なす術もなかったのでしょう。また、不運なことに、ちょうどこのとき台風が日本海沿岸を北上中で、その強風がいっそう火を煽ったようです。特に横浜市は中心部がほとんど全滅だったようですし、東京も、下町の本所・深川、今で言う江東区とか墨田区、それから日本橋・京橋など、要するに宮城(皇居)から東側は壊滅的だったようです。ドラマの舞台となっている浅草も例外ではなく、当時、浅草のシンボルだった凌雲閣(通称:浅草十二階)も、8階より上が倒壊。地震発生当時、頂上展望台付近には12、3名の見物者がいたといいますが、看板に引っかかって助かった1名を除いて全員が崩壊に巻き込まれて死亡したといいます。その中に、まさかシマちゃんがいようとは・・・。


 関東大震災の被災者は340万人、死者・行方不明者は10万8000人に達しました。時代が違うので比べようがありませんが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災6500人ほど、平成23年(2011年)の東日本大震災1万8000人ほどだったことを思えば、その被害の大きさに驚かされます。阪神・淡路大震災のときは建物倒壊による圧死、東日本大震災のときは津波による溺死が圧倒的に多かったそうですが、関東大震災では、やはり焼死がいちばん多かったようです。昭和20年(1945年)の東京大空襲の際の被害がこれに匹敵するのだとか。東京は、わずか20年ほどの間に2度も焼け野原になったんですね。


e0158128_21332287.jpg もうひとつ不運だったのは、このとき日本政府は、地震発生の8日前に内閣総理大臣加藤友三郎急死しており、外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣を兼任するという臨時内閣のときでした。この緊急事態を受け、地震翌日の9月2日に山本権兵衛が新総理に就任するというドタバタでことにあたったのですが、政府機関が集中する東京が壊滅していることもあって、政府の対応もスムーズにはいかなかったようです。そういえば、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災も、当時、自社さ連合政権で首相が旧社会党の村山富市総理だったため、自衛隊の出動が遅れたと言われていますよね(真偽は定かではありませんが)。また、平成23年(2011年)の東日本大震災のときも、あの稚拙民主党政権下だったため、菅直人総理の右往左往する姿しか思い出せません。どうも、わが国の政府が混乱しているときに、「大震災」と呼ばれるような未曾有の災害が起きるようです。偶然と言ってしまえばそれまでですが、政治が不安定になったとき、地震に気をつけたほうがいいかもしれません。


 わたしの住まいは神戸市で、あの阪神・淡路大震災を経験しました。ドラマにあった安否をたずねる貼り紙が、24年前の神戸のまちにもあちこちに貼られていました。ドラマを観て思い出しちゃいましたね。シマちゃん、生きていてほしいと思いますが、たぶん、ドラマではその安否は描かれないんでしょうね。胸が詰まります。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-06-17 21:33 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

悲運の藤堂高吉を家祖とする名張藤堂家邸跡を訪ねて。

三重県名張市にある名張陣屋跡を訪れました。

現在残る名張陣屋跡は「名張藤堂家邸跡」として一般公開されています。


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名張藤堂家は、藤堂高虎の養子となった藤堂高吉にはじまります。


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こちらが入口です。


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説明板です。


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敷地内に入ります。


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名張藤堂家は寛永13年(1636年)からこの地に居を構えますが、当時の屋敷は宝永7年(1710年)の名張大火によって焼失したため、現存する建物はその後に再建されたものだそうです。

ただ、それも明治初年に大部分が失われたため、現在残る建物は、ほんの一部だけです。


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建物前の庭です。


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地面にかつての屋敷図面の石板が埋め込まれています。


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建物内に入ってみましょう。


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現存する建物は、「御西」と称された中奥、祝之間、茶室など日常生活に使用された奥向の一部だけだそうです。


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名張藤堂家の系図です。

初代の藤堂高吉はなかなか数奇な人生だった人で、元は織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれましたが、本能寺の変で信長死去の後、羽柴秀吉の所望により、実子がいなかった弟の羽柴秀長養子となります。

これは、天下を望む秀吉が、柴田勝家を討ち滅ぼすために丹羽長秀と縁を結ぶ目的だったといわれます。

この縁組で高吉は秀長の後継ぎなるはずでしたが、天下人となった秀吉は甥の秀保を立てたため、話はおじゃんになりました。

その後、高吉を家来と結婚させようとしますが、このとき秀長の家臣だった藤堂高虎が願い出て、高吉を養子に貰い受けました。

このとき、名を高吉としました。


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高虎は実子に恵まれなかったため、高吉を跡継ぎにするつもりでしたが、高虎48歳にして実子が生まれたため、その話はまたまたおじゃんに。

やむなく高吉は高虎の家臣となりますが、高虎は高吉を疎んじはじめ、参勤交代にも同伴しなかったといいます。

高吉は何も悪いことしてないのですが、悲運としか言いようがありません。


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高虎の死後は実子の藤堂高次の家臣として仕えるようになりますが、その高次の命によって高吉は伊勢国へ2万石の移封となり、その後、ここ名張に移封となりました。

その際、次男以下3人に5000石を分知させられ、1万5000石に減封となりました。

高次は高吉の存在を危険視したとされ(幕府に高吉を藤堂本家から独立した大名に取り立てようという動きがあったためといわれる)、名張移封も、高吉に対する高次の冷遇の一環であったといわれます。

まさに、たらい回し人生ですね。


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中奥の間にあったこの屏風絵は、「長徳」の落款が記されています。

名張藤堂家7代目の藤堂長徳の作品のようです。


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です。

便所も畳敷きなんですね。


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湯殿です。


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茶室「清閑楼」です。


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茶室から見える庭です。


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向こうに見えるのは、太鼓門


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東側の「祝之間」は、武具や書簡など名張藤堂家に伝わる品々の展示コーナーになっています。


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羽柴秀吉・丹羽長秀の書簡です。

ふたりとも高吉の人生を狂わせた人物ですね。


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こちらは秀吉の朱印状


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さて、建物の外へ出て、先ほど庭に見えた太鼓門を見に行ってみましょう。


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こちらが太鼓門です。


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名張藤堂家と藤堂藩本家の間の確執は高吉の死後も200年近く続きました。

享保19年(1734年)には第5代・藤堂長熙は藩祖・高吉の実家である丹羽氏を通して幕府に独立を働きかけますが、翌年にそれが本家の知るところとなり、本家と分家の一触即発の状態になりました。

最終的には重臣3名が主君のあずかり知らぬところと主張し、責任を被って切腹したため落着しましが、長熙は隠居を命じられ、藤堂長美が跡を継ぎました(享保騒動、名張騒動とも)。

以降、本家から2名の横目付が派遣され、徹底した監視下に置かれるようになります。

しかし、第8代当主の藤堂長教が本家の藩主・藤堂高嶷の娘と結婚すると、ようやく両家の関係が徐々に良好になっていったそうです。

現代でも、後継者争い相続争いが確執を生むといった話は珍しくありませんが、200年近い対立というのは、双方、しんどかったでしょうね。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-06-15 20:27 | 三重の史跡・観光 | Comments(0)  

室町時代の庭園が残る多気北畠氏城館跡を訪ねて。<後編> 武家庭園

<前編>の続きです。

多気北畠氏城館跡内にある庭園を散策します。

ここからは有料。


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入口横には、「名勝及史蹟多気北畠氏城館址」と刻まれた石碑があります。


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案内板です。

庭園は7代国司・北畠晴具の時代、享禄元年(1518年)頃の管領・細川高国の作庭という説に合致するそうです。


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いざ、庭園内へ。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)11月18日。

見事な紅葉が彩ります。


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天気が良ければもっときれいだったのでしょうけど、この日は曇りだったうえに、ここを訪れたのが夕方4時を過ぎていたので、暗い写真になってしまったのが残念。


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北畠氏伊勢国との関わりは、『神皇正統記』の作者としても知られる北畠親房が延元元年(1336年)に伊勢国田丸城を拠点としたことに始まります。

親房は伊勢神宮の存在や南朝を支持する南伊勢の諸勢力、及び、吉野朝廷と東国との連絡経路等について考慮し、伊勢国に拠点をおいたものと考えられています。


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親房自身はやがて常陸国に移りますが、次男の北畠顕信と三男の北畠顕能が伊勢にとどまり、延元3年(1338年)に顕能が伊勢国司となりました。

ちなみに、長男が前稿で紹介した悲運の武将・北畠顕家です。

その後、南伊勢の各拠点が北朝方の攻撃を受け、興国3年/康永元年(1342年)に田丸城が落城すると、北畠氏はほどなくここ多気に拠点を移し、霧山城や館を築いたといわれています。


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南北朝が統一されたあとも北畠氏は伊勢国司としての地位を保ち、守護大名として室町時代を生き抜いていきます。

往時の北畠氏の勢力範囲は、拠点である多気の地だけにとどまらず、およそ旧一志郡以南の諸地域に及び、隣国である伊賀国大和国の南部をもその支配下におさめていたといわれます。


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しかし、時は流れて天正4年(1576年)、織田信長天下布武の動きの中で侵攻を受け、約240年続いた多気北畠氏の歴史は幕を閉じることになりました。

栄華盛衰は世の慣いです。


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説明板によると、近年、同時代の庭園が発掘調査によって各地で見つかっていますが、ここ多気北畠氏城館跡の庭園のように、埋もれずに残っているものは他に例がなく、たいへん稀有な存在といえるそうです。


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庭園内にはかなりの樹齢であろう巨樹がたくさん茂っていましたが、おそらく、往時はこのような巨樹はなく、もっと見通しの良い空間だったのでしょう。


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さて、名勝を堪能したので、庭園を出て裏山への登山道入口に来てみました。


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霧山城址まで1350mとあります。


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でも、この時点で時刻は16時半で、とても1km超えの登山などできません。

霊山城はまた、いずれ、機会があれば。

最後に続日本100名城スタンプを載せます。


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# by sakanoueno-kumo | 2019-06-13 23:58 | 三重の史跡・観光 | Comments(0)  

室町時代の庭園が残る多気北畠氏城館跡を訪ねて。<前編> 北畠神社

南北朝時代から戦国時代にかけて伊勢国の守護大名だった北畠氏の城館跡が、三重県津市の多気の地にあります。

多気(たげ)と読みます。


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多気北畠氏城館跡は多気のほぼ中央に位置する館跡詰城およびその背後の山頂にある霧山城をあわせた総称ですが、この日は夕方からの訪問だったため、麓の館跡のみの見学です。


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駐車場にイラストマップがあります。


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現在、館跡には北畠神社が鎮座します。

北畠神社はその名のとおり、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能を主祭神とする神社です。

石碑には、「別格官幣社」とあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)11月18日。

紅葉まっさかりの時期でした。


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境内入口の石鳥居です。


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社殿です。

北畠神社は建武中興十五社にも数えられています。

「建武中興十五社」とは、後醍醐天皇(第96代天皇)の建武の新政(建武の中興)に尽力した人物を祀った神社のことですが、北畠神社には主祭神の北畠顕能のほかに、父の北畠親房と兄の北畠顕家が合祀されていることから、建武中興十五社に数えられたのでしょう。

北畠神社の創建は寛永20年(1643年)3月と伝わり、建武中興十五社で唯一、近世以来の由緒を持ちます。

つまり、他の14社は明治以降の創建ということ。

明治政府が多分に政治利用するために創建したバッタもんの神様、とは言い過ぎでしょうか。


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境内には、合祀された北畠顕家の像があります。


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北畠顕家は建武の新政下、わずか16歳陸奥守兼鎮守府将軍に任じられた南朝方の武将で、一時は反旗を翻した足利尊氏軍を九州へ追いやる活躍を見せますが、延元3年/建武5年(1338年)、5月22日、阿倍野・石津の戦い21歳という若さで討死した悲運の武将です。


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「花将軍 北畠顕家公」とあります。

これと同じような像が、同じく建武中興十五社に名を連ねる阿部野神社にもあります(参照:太平記を歩く。 その149 「阿部野神社」)。

顕家は紅顔の美少年だったと言われ、その貴公子ぶりからも「花将軍」と称されました。

平成3年(1991年)のNHK大河ドラマ『太平記』では、当時、「国民的美少女」と持てはやされた後藤久美子さんが演じて話題になりましたね。


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境内に設置された説明板では、日本最古の石垣が発掘されたと書かれていました。

でも、あたりを見渡すかぎり、それらしき石垣は見当たりませんでした。


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こちらにも、何か説明板があります。


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入口跡の石段が見つかったとありますが、これも、見当たりませんでした。

たぶん、埋め戻されたのでしょうね。


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こちらの説明板には、礎石建物跡が出土したとありましたが、これも埋め戻されたのでしょう。


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結局、遺構といえるようなものは見られませんでした。

仕方がないので、紅葉をアップします。


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さて、<後編>では室町時代から残る庭園を散策します。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-06-12 23:34 | 三重の史跡・観光 | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第22話「ヴィーナスの誕生」 ~田村富美子と梶川久子~

 今回は「ヴィーナスの誕生」というサブタイトルのとおり、日本女子スポーツの黎明期の話でしたね。大正10年(1921年)1月より女子師範学校で教鞭をとることになった金栗四三は、女子体育の振興に力を注ぎます。これまでスポーツに縁がなかった女子たちにその楽しさや魅力を知ってもらうために、金栗はまず、当時人気があったテニスを推奨。日本で初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催します。


 劇中、テニスや陸上でひときわ活躍していた村田富江という女性は架空の人物ですが、モデルとなった人物がいたようです。それは、軟式テニスのペアで活躍した田村富美子という女性で、その相方だった梶川久子という女性が、劇中の梶原(名字しかわからない)のモデルだと思われます。実在した2人は金栗の務める女子師範学校の生徒ではなく、お茶の水女子高師附高等女学校の生徒でした。金栗と教師生徒の関係だったわけではないようですね。富美子はドラマと同じく医者の娘でしたが、ドラマと違うのは、スポーツをすることについて理解ある親だったようです。


e0158128_18330050.jpg 大正12年(1923年)5月、田村と梶川は大阪で行われた極東選手権競技大会(中国、フィリピン、日本の3国間)に出場しました。このとき、前例のない女子選手の参加についての賛否が随分議論されたそうですが、そんな逆境を跳ね返して2人はみごと優勝します。当時、女子選手は袴姿でテニスをしていましたが、この大会で田村と梶川は、当時の世界ナンバーワン女子テニスプレイヤーだったフランスのスザンヌ・ランラン選手の写真を参考にしてデザインしたユニフォーム姿で出場します。これがたちまち大評判となり、大会後、彼女たちは一躍スターとなったそうです。ドラマで描かれていたように、巷では2人のブロマイドが売られ、彼女たちがデザインしたユニフォームが、三越百貨店で「田村・梶川式ユニフォーム」として売り出されることになったそうです。まさにコートの妖精。大正時代のマリア・シャラポワだったんですね。


私が子供の頃、漫画『エースをねらえ!』が大ヒットし、女子の運動部ではテニス部が圧倒的な人気でしたが、大正時代にも女子テニスのブームがあったというのは知りませんでした。いつの時代でも、JKは流行に敏感なんですね。


 ちなみに、田村が素足で走ったという話も実話だそうです。当時、数々の雑誌や新聞にこの写真が掲載されたのだとか。当時、生娘が素足を顕にするなど言語道断だった時代。彼女は、単にスポーツ万能だっただけではなく、かなり革新的な考えを持った女性だったのでしょうね。


 人見絹枝が出てきましたね。ちょっと陸上競技を知っている人なら、彼女の名前を知らない人はいないでしょう。ある意味、主人公の金栗四三より後世に有名な彼女ですが、ドラマのとおり、岡山県高等女学校時代はテニス選手として活躍していました。田村、梶川ペアと戦ったかどうかはわかりませんが。彼女のその後については、これからドラマで描かれるでしょう。


 ちなみにちなみに、金栗が女生徒から「パパ」と呼ばれていたのは、どうやら本当の話らしいですよ。大正女子も、案外いまと変わらないんですね。そう呼ばれてニヤけている金栗も金栗ですが。おそらくドラマのように、スヤさんは怒っていたでしょう(笑)。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-06-10 18:35 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

又兵衛桜 ~樹齢300年超の伝説の枝垂れ桜~

先日の稿で紹介した宇陀松山城跡のすぐ近くに、「又兵衛桜」と呼ばれる樹齢300年以上1本桜があります。

以前から一度観に行きたいと思っていたのですが、平成最後の春、ようやく念願かなって訪れることができました。


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この日は平成31年(2019年)4月8日、令和に改元する3週間前です。

平成最後の桜ですね。


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人との対比で、その大きさがわかるかと思います。


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川下からの遠景。

遠くから見てもデカイ


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「又兵衛桜」の呼称は、戦国武将の後藤又兵衛基次に由来します。

後藤又兵衛といえば、若き日は「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして、晩年は大坂の陣の大坂方の武将として、真田信繁(幸村)と並び称される英雄として後世に人気の人物ですが、播磨国出身の又兵衛と奥大和の枝垂れ桜とどう関係があるのか。


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後藤又兵衛基次は、播磨の別所氏の家臣・後藤基国の次男として、永禄3年(1560年)に生まれたと伝わります。

黒田官兵衛孝高の家臣として武功を重ね、一時は大隈1万6千石もの大封を与えられていた又兵衛でしたが、官兵衛の死後、新しい主君の黒田長政とそりが合わず、慶長11年(1606年)に黒田家を出奔してしまいます。


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それでも、又兵衛の武勇は天下に轟いており、細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康など名立たる大名から誘いがかかりますが、長政がしいた「奉公構」によって実現しませんでした。

「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことで、豊臣政権によって始まった制度でした。


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その後、又兵衛は京に流れて浪人生活となり、そして、慶長19年(1614年)に大坂と幕府の関係に暗雲が立ち込めると、大野治長の招きで大坂城に入ります。

そこで又兵衛は、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝久、明石掃部とともに「豊臣方五人衆」と呼ばれました。


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そして、翌年の5月6日、大阪夏の陣道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦で壮絶な死を遂げるんですね。

享年56。

大坂城が落城して豊臣秀頼淀殿自刃する前日のことでした。


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とまあ、ここまでが通説の歴史ですが、ところが、別の説では、大阪夏の陣ののち又兵衛は密かに落ち延び、ここ奥大和の宇陀地方で隠棲し、再興の時期を待ったという伝説があります。

そのときの後藤家屋敷跡にあるのが、この又兵衛桜だと伝えられるんだそうです。


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大阪夏の陣における豊臣方の生存説は多数あり、又兵衛以外にも、真田信繁や豊臣秀頼、淀殿らの生存説も各地に残っています。

ただ、いずれも根拠に乏しく、伝承の域をでません。

おそらく、豊臣方の武将に生きていてほしいと願う人々の思いが、このような不死鳥伝説を生んだ理由でしょう。

当時の庶民感情のなかに、徳川新政権への反感と、豊臣政権の復活を望む声が、少なからず存在していたことの表れだと思います。


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実際には、又兵衛がその後も生きていたということは九分九厘なく、したがって、ここが又兵衛の屋敷跡という事実も存在せず、この桜は又兵衛とは縁もゆかりもないということになるでしょう。

でも、それを言っちゃあ無粋というもんですよね。

実際、樹齢300年以上の古木であることは間違いないわけですから、あるいは、400年前の大阪の陣に関わった誰かが、この桜を目にしていたかもしれません。


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かつては知る人ぞ知る名木でしたが、平成12年(2000年)のNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』のオープニング映像で使用されたことで有名になり、その後、多くの見物客が訪れるようになったそうです。


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この日も、たくさんの観光客で賑わっていて、道中も渋滞していました。

でも、京都や奈良などの桜の名所なんかに比べれば、ぜんぜんマシだったと思います。

京都の名所は外国人だらけで、ちょっとウンザリですからね。

その点、ここは外人さんはほとんどいませんでした。

外人さんはこんな奥地までは来ないようです(笑)。


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とにかく見事な枝垂れ桜

これを見てしまうと、普通のソメイヨシノショボく感じちゃいますね。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-06-06 00:55 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)