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明治維新を血に染めた堺事件。 その2 「妙國寺・土佐十一烈士之墓」

「その1」で紹介した堺事件発祥の地碑から1kmほど西にある妙國寺で、くじ引きで決められた20人の土佐藩士が切腹することになりました。

現在、その境内には、切腹して果てた土佐藩士と、堺事件死亡したフランス水兵たちの供養塔が建てられています。


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事件から8日後の慶応4年2月23日(1868年3月16日)、ここ妙國寺の本堂庭前でフランス水兵に向けて発砲した土佐藩士の切腹が行われました。

急に降り出したのせいで2時間ほど執行が遅れましたが、居並ぶフランス関係者と日本側の立会いの元、順番に切腹が始まります。


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最初に切腹したのは、六番隊警備隊長の箕浦元章(猪之吉)

箕浦はみごとに横一文字に腹を切り裂くも、介錯人の切り込みが浅く、3度目の刃でようやく首が落とされたといいます。

一説には、箕浦は腹を切り裂いた直後、腹部に手を入れて自らの腸を取り出し、目の前で検分するフランス人に差し出して大喝したという話も残ります。

これが本当なら、介錯人が仕損じた理由もうなずけます。

その後も箕浦に続けとばかりに、深く切り裂いた口から内臓が外に飛び出すなど、凄まじいシーンの連続だったといいます。

そのあまりの凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールが恐れおののき、11人が切腹したところで、切腹に立ち会っていた外国局判事・五代友厚(才助)中止を要請し、ここで打ち切りとなりました。

偶然だったのかどうか、奇しくも事件で死亡したフランス水兵と同じ11人が切腹したことになります。

結果として、喧嘩両成敗、両者痛み分けという着地点になったわけですね。


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こちらが境内にある供養塔です。


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真ん中の碑には「南妙法蓮華経」、左の石碑には「土佐藩十一烈士之英霊」、そして右側の石碑には「佛国遭難将兵慰霊碑」と刻まれています。

これらは事件から50年後の大正5年(1916年)に建てられたものです。


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真ん中の碑の台には、切腹した11人の名前が刻まれています。


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フランス水兵の慰霊碑には、Themonument of the French martyrs(フランスの殉教者の記念碑)」と刻まれています。


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切腹した11人の亡骸は、妙國寺の向かいの宝珠院に葬られています。


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現在、宝珠院は幼稚園を兼ねており、わたしが訪れた土曜日は休日で、中には入れませんでした。

堺市のホームページによると、中に見える巨木の下に、11人の墓石が並んでいるそうです。


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宝珠院の前にある石碑です。


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一方、生き残った9人死ぬ覚悟だっただけに、突然の中止に納得がいかず、「死者の家族に合わす顔がない。この期に及んで死を免じられることは志士の恥じることとなる。」として、潔く腹を切ることを望んだといいます。

しかし、五代友厚は「フランス側がこれ以上の切腹を望まない以上、無駄に死ぬ必要はない」として、これを許しませんでした。

結局9人は、熊本、広島両藩預かりとなったのち、土佐に帰されました。


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その後、11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った9人は「ご命運様」と呼ばれ、死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかったといいます。

周辺に残る石碑や道標が、参拝者が絶えなかった往時の様子をしのばせています。


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先日の稿で紹介した神戸事件と、この堺事件が、世界に日本の「ハラキリ」を広めるきっかけとなりました。

明治新政府最初の外交問題は、血まみれの決着となりました。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-12-14 00:57 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

明治維新を血に染めた堺事件。 その1 「堺事件発祥の地碑」

新政府軍と旧幕府軍が衝突した鳥羽伏見の戦いが終結した直後の慶応4年2月15日(1868年3月8日)、泉州・堺において、無断上陸したフランス兵と堺の治安を預かる土佐藩士衝突する事件が発生しました。

退去を要求するも聞き入れられず、ついには銃撃戦に発展。

フランス側に22人の死傷者を出す結果となりました。

後世に「堺事件」として知られる事件です。

折しもこの1ヶ月ほど前、神戸で同じような事件が起き(神戸事件)、この6日前にその当事者が切腹したばかりでした。


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現在、堺事件が起きた旧堺港跡には、事件を伝えるバカでかい石碑が建てられています。


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事の発端は15日昼ごろ、大坂から政府の許可なしで陸路、堺に入ろうとしたフランス兵を土佐藩士が大和川に架かる大和橋で阻止したことにはじまります。

このとき、一旦フランス兵は抵抗せずに引き返しますが、午後3時ごろ、今度は海路から堺港に入ったフランス兵が、無断上陸して市内をうろついていました。

夕刻、近隣住民の苦情を受けた六番隊警備隊長の箕浦元章(猪之吉)と八番隊警備隊長の西村氏同(佐平次)らは、艦に戻るように説得を試みるも言葉が通じず、やむなく土佐藩兵はフランス水兵を捕縛しようとしました。

土佐藩兵とフランス水兵は小競り合いとなり、そのうちフランス水兵が土佐藩の隊旗を奪って逃走しようとしたため、焦った土佐藩の箕浦はとっさに発砲、双方銃撃戦となります。

結局、このとき死亡したフランス水兵は11人で、射殺のほか溺死者もおり、負傷者も入れると22人にものぼりました。

いずれも20代の若者だったといいます。

なお詳細な原因は話者ごとに食い違っており、フランス側は何もしないのに突如銃撃を受けたと主張しています。


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こちらの小さな石碑には、「明治初年仏人撃攘之処」と彫られています。


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この事件を重く見た在日フランス公使のレオン・ロッシュは、土佐藩に遺族への賠償金として15万ドル(7、8億円相当)の支払いや、発砲にかかわった全員の処刑を求めてきました。

これを受けた土佐藩前藩主の山内容堂は、たまたま京の土佐藩邸に滞在していた英公使館員アルジャーノン・ミットフォードに、藩士の処罰の意向をロッシュに伝えるように依頼しました。

この指示を受けた土佐藩上層部が事情を聴取したところ、29人の藩士「発泡した」と供述しました。

しかし、朝廷の岩倉具視、三条実美らは、フランスの要求には無理難題が多く隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰する事を懸念し、処罰される者の数を減らすように要求します。

そこで、外国局判事・五代友厚(才助)らがフランス側と交渉し、隊士全員を処罰せず隊長以下20人切腹することが決まります。


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この20人の決め方ですが、箕浦元章(猪之吉)と西村氏同(佐平次)の隊長2人と小頭2人の計4人はすでに死罪が決まっていましたが、あとの16人は、なんとなんと、稲荷神社のくじ引きで決めることになったそうです。

生死をくじ引きで決めたっていうんですから、びっくりですね。

この時代の武士たちにとって、命は軽いものだったんですね。

もっとも、裁く側も裁かれる側も、納得していない処刑ですから、ある意味、くじ引きで決めたほうが恨みっこなしだったかもしれません。

藩も政府も、できれば助けてやりたい、でも助けられない。

なら、くじ引きが一番公平だったといえるかもしれませんね。


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こうして選ばれた20人は、2月23日、事件現場近くの妙國寺で切腹することに決まりました。

つづきは「その2」にて。


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ちなみに、この「堺事件発祥の地碑」の隣には、幕末の尊皇攘夷集団・天誅組に関する石碑が並びます。

この碑については、以前の当ブログ「天誅組の足跡を訪ねて」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-12-13 01:01 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

明治政府初の外交問題となった神戸事件。 その2 「滝善三郎正信碑」

「その1」の続きです。

神戸事件の起きた三宮神社から3kmほど南西にある能福寺に、神戸事件の責任を負って切腹した滝善三郎正信顕彰碑があります。

ここ能福寺は、日本三大大仏の兵庫大仏や、平清盛廟がある寺院として知られています。


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そのお寺の境内の一角にひっそりと建てられているのが、滝善三郎正信碑です。


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慶応4年1月11日(1868年2月4日)に起きた神戸事件の責任を問われて切腹を申し付けられた滝は、2月9日夜、このすぐ近くにあった永福寺で、内外検証人の面前で行なわれました。

日本政府側からは伊藤博文、中島信行が立ち合い、列強諸国側は米英仏蘭伊普の士官、公使館書記7名が列席しました。

英国外交官アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』には、このときの様子が次のように記されています。


滝は仏壇の前の赤い毛氈の上に座ったが、きわめて平静で前方へ倒れ伏すのに都合の良い位置を選んだ。

白木の台に乗せられた短刀を受け取るや滝は、やや乱れた声ではあったが、「二月四日神戸で、逃げんとする外国人に対し不法にも発砲を命じた者はこの自分にほかならぬ、この罪によって、自分は切腹すると述べ、この場の皆様にそれを見届けてもらいたい」と述べ、できるだけ深く刺して右のわき腹までぐいと引いた。


また、同じく英国外交官アルジャーノン・ミットフォードも、このときの切腹の模様を詳細に記録しています。


善三郎は裃を帯あたりまで脱ぎ下げ、上半身を露にした。

そしてその袖を注意深くひざ膝の下へ入れて後ろへ倒れないようにした。武士は切腹のあとに前に倒れて死ぬものとされていたからである。

善三郎はしっかりとした手つきで前におかれた短刀を取り上げると、いとおしいかのように眺め、しばらくの間、考えを集中しているように見えた。

そして善三郎は、その短刀で左の腹下を深く突き刺し、次いでゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きをかえてやや上方へ切り上げた。

この凄まじい苦痛に満ちた動作のなか、彼は顔の筋ひとつも動かさなかった。

短刀を引き抜いた善三郎は前方に体を傾け、首を差し出した。

そのとき、初めて苦痛の表情が彼の顔を横切った。

だが、声はなかった。

その瞬間、それまで善三郎そのそばにうずくまって事の次第をもらさず見つめていた介錯が立ち上がり、一瞬、空中で剣を構えた。

一閃、重々しくあたりの空気を引き裂くような音、どうとばかりに倒れる物体。

太刀の一撃で、たちまち胴体は切り離れた。

堂内寂として声なく、ただわれわれの目前にあるもはや生命を失った肉塊から、どくどくと流れ出る血潮の恐ろしげな音が聞こえるだけであった。

介錯は低く一礼し、あらかじめ用意された白紙で刀をぬぐい、切腹の座から引き下がった。血に塗られた短刀は証拠として、おごそかに持ち去られた。

政府の検視役の二人は席を立ち、外国人検視役のところへ近づき滝善三郎の処分が滞りなく遂行されたことを申し述べた。

儀式は終わり、我々は寺を後にした。


この当時は「切腹」と言っても短刀を腹に当てた時点で介錯が首を落とすとか、短刀に代わりに扇子を使う「扇腹」(おうぎばら)などが一般的だったのだがそうですが(幕末期は本来の作法通りも少なくはなかった)、ミットフォードによると、滝善三郎の切腹は古来よりの作法に則ったかたちだったことがわかります。

外国人の前で、日本人の侍スピリッツを見せつけたのかもしれません。


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このミットフォードが本国に伝えた切腹の様子を、イギリスの新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が銅版画付きで報じたことにより、世界的にセンセーションを巻き起こし、「ハラキリ」という言葉が西洋でも広まることになります。


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前稿で紹介したとおり、滝の行為は行列の前を横切った外国人を制止するためのもので、これは、当時の武士として当然の行為でした。

しかし、明治新政府政権は諸国列強に押し切られるかたちで、滝善三郎1人の命を代償として問題を解決させたわけです。

幕末、倒幕派のスローガン「尊皇攘夷」でしたが、明治新政府はその公約である「攘夷」政策を、この事件の対処によって放棄したことになります。

その意味でも、神戸事件は歴史上大きな転換となった出来事といえるでしょうか。

その犠牲となった滝は浮かばれませんが、もし、この事件がなければ、滝善三郎正信という人物の名が後世に残ることはおそらくなかったでしょう。

そう思えば、滝は割り切れない思いはあるにせよ、武士の一分がたったといえるかもしれません。


辞世

きのふみし 夢は今更引かへて 神戸が宇良に 名をやあげなむ


滝の切腹から6日後、堺において土佐藩士がフランス水兵と衝突する堺事件が起きることになります。

次回、その堺事件を追います。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-12-12 01:30 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

明治政府初の外交問題となった神戸事件。 その1 「三宮神社」

神戸市中央区のド中心部にあたる大丸神戸店前に、三宮神社という小さな神社があります。

幕末、ここで大きな国際事件が起きました。

慶応4年1月11日(1868年2月4日)、ここ三宮神社前で備前岡山藩兵外国人水兵が衝突し、負傷させた事件です。

この事件は明治政府初の外交問題となり、後世に「神戸事件」とよばれます。


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京都では鳥羽伏見の戦いが開戦した慶応4年1月3日(1868年1月27日)、明治新政府は兵庫開港に際して、備前岡山藩に摂津西宮の警備を命じます。

これを受けた備前岡山藩は、家老の池田伊勢、同じく家老の日置帯刀2000の兵を率いて1月5日に出立、兵庫に向かいました。


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1月11日昼過ぎ、藩兵の隊列が西国街道を三宮神社近くに差し掛かったとき、近くの建物から出てきたフランス人水兵2人が、行列の前を横切ろうとしました。

これは当時の武士たちにすれば、武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長の滝善三郎正信が槍を持って制止に入ります。

しかし、言葉が通じず、フランス人水兵が強引に横切ろうとしたため、やむなく手にしていた槍で突きかかり、腰に軽傷を負わせます。

負傷した水兵は逃げ出しますが、別の水兵たちが拳銃を取り出したため、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲し、銃撃戦となります。


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現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークスは激怒し、折しも兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達。

アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなりました。

備前側では、家老の日置が藩兵隊に射撃中止、撤退を命令し、お互いに死者も無く負傷者もほとんどなく終わりました。


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しかし、列強諸国は事件を重く見、6ヵ国の公使連名で政府に発砲を命じた士官の死罪を求めます。

これを受けて政府は2月2日、砲兵隊長・滝善三郎の死罪、隊の責任者である日置帯刀の謹慎を命じました。

本来であれば、日置が責任を取るべき立場であったのかもしれませんが、一説には、藩が日置を失うことを惜しみ、滝に因果を含めたともいわれます。

また藩主の池田茂政が滝に対し、「馬前の討死に勝る忠臣」と称え、「国家のため、藩のため、帯刀のために頼む」と声をかけたともいわれます。

現代の企業でもよくある話ですね。

いわゆる「トカゲの尻尾切り」ってやつです。

ただ、この時代のそれは、命を差し出すことですから、たまったもんじゃありません。


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神社の境内には、事件当時、備前岡山藩兵が率いていた大砲と同じ型のものが展示されています。


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事件から1ヶ月足らずの2月9日、永福寺において列強外交官列席のもと、滝は切腹して果てました。

享年32。

「その2」では、滝の最期を追います。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-12-11 01:31 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第46話「炎のランナー」 ~アトミック・ボーイ~

 昭和39年(1964年)8月21日にギリシャ・オリンピアの太陽光で採火された聖火は、アジア地域11カ所を経由し、約2週間あまりのフライトで9月7日に沖縄に到着しました。当時の沖縄は言うまでもなくアメリカの統治下にあり、厳密には「日本の国土」ではありませんでした。したがって、日の丸を掲げることは原則禁止されていたのですが、聖火が沖縄に届いたその日、空港は沖縄の人々の振る日の丸で埋め尽くされていたそうです。当時の沖縄の人にとっては、感動のひとコマだったでしょうね。


 その後も、聖火は日の丸の歓迎をうけながら沖縄本島をめぐりました。その光景を見た沖縄の人たちは、本土との一体感を得ることができたといいます。何より、日本国内の聖火リレーの出発点を沖縄にしたことが、当時の政府ならびに組織委員会の大手柄でしたね。これにより、沖縄は日本の領土であるということを国内外に改めて示したわけで、日本政府は決して沖縄を見捨ててはいないというメッセージの発信だったといえます。それを可能にしたのは、琉球政府の強い働きかけやメディアの活躍もあったようですが、決め手となったのは、昭和28年(1953年)に日本体育協会に加盟していたことでした。スポーツは一足先に日本復帰していたんですね。


 あと、これをアメリカが鷹揚にみていたのも、占領統治下における宥和政策を世界に発信する狙いがあったのでしょう。この沖縄の聖火リレーは、日米双方にとって政治だったんですね。


 その後、聖火は空路で本土に渡り、鹿児島、宮崎、北海道から4つのルート東京へ向かいました。国内地上リレーの総距離は6755km、参加走者は10万713人だったそうです。10月7日から9日にかけて東京都庁に集められた各コースの聖火は、9日に皇居前に設置された聖火台で再びひとつの火となり、10日、皇居前から国立競技場までの6.5kmを男女7名によってリレーされ、最終聖火ランナー坂井義則の手に託されました。


e0158128_20002343.jpg オリンピックの聖火リレーの最終ランナーというと、従来、過去の大会でのメダリストが務めるケースが多く、このときも、当初は日本選手初の金メダリストの織田幹雄をはじめ、レジェンドと言える過去のオリンピック選手の案で決まりかけていたそうです(あるいは、金栗四三の案も出ていたかもしれませんね)。ところが、「聖火ランナーは若者であるべきだ」という声が上がり、これに最終ランナー候補だった織田が賛同したことから、聖火リレーの最終ランナーは若者に任せることになります。そこで、開会式の約2ヶ月前の8月はじめに東京と近郊在住の10代の陸上選手10人が最終日の走者候補に選ばれ、最終的に最終走者となったのは、原爆が投下された昭和20年(1945年)8月6日に広島県で生まれた坂井義則でした。


 坂井の起用については、賛否両論あったようです。原爆投下の日に広島で生まれた若者といえば、戦後復興をアピールしたい日本にとってはこれ以上ない人選だと思うのですが、逆に、原爆とオリンピックを結びつけることに異議を唱える声も少なくはなかったようです。その理由は詳らかではありませんが、おそらく、原爆を投下したアメリカを刺激したくないという思いがあったのでしょう。しかし、結果的に坂井の起用は世界中から大絶賛され、国内外のメディアは坂井を「アトミック・ボーイ(原爆の子)」と呼び、戦後復興と平和の象徴として大々的に報道しました。


 ちなみに、坂井はオリンピックこそ出場できなかったものの、その後も陸上選手としても活躍し、早稲田大学卒業後にはフジテレビに入社し、スポーツと報道分野で活躍されました。あのアナウンサーの逸見政孝氏は同期入社だったそうです。


 さて、令和2年(2020年)の東京オリンピック最終聖火ランナーですが、巷では国民栄誉賞受賞で金メダリストの高橋尚子さん、山下泰裕さん、吉田沙保里さんなど、様々な予想が飛び交っているようです。が、56年前の坂井義則の先例に倣うとするならば、東日本大震災からの復興途中にある今、被災者でスポーツと関わりのある人のなかから選ばれるのではないでしょうか。さすがに震災当日に生まれた子となると、まだ9歳なので無理があるでしょうが、何か象徴となるような人。あるいは原発被災者のなかから選ばれるかもしれません。ある意味、これも「アトミック・ボーイ」と言えるかもしれませんね。もっとも、こちらの場合、未だ復興の目処は立っておらず、かつての沖縄とは違った意味で、国土が失われたままです。帰還困難区域を聖火リレーが通ることもなければ、日の丸が掲げられることもありません。56年前の再現とはいかないでしょうね。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-12-09 20:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その9 <多田弥太郎顕彰之碑>

「その8」のつづきです。

「その3」で紹介した山口護国神社から直線距離で25kmほど北上したところに、「生野の変」で挙兵した志士のひとり、多田弥太郎終焉の地があります。

現在、その場所には顕彰碑が建てられています。


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場所は現在、養父市と豊岡市の市境にある浅間トンネルを抜けてすぐの豊岡市側にあります。

かつてこの浅間峠は、生野の天領と出石藩との国境でした。


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看板には、「勤皇志士多田弥太郎顕彰之碑」とあります。


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多田弥太郎は出石藩士の家に生まれ、大坂・江戸・京都で諸学を学び、帰藩して藩校弘道館の寮長を務めました。

外国船の出没に不安を抱いた多田は、長崎で高島流砲術を学び、その普及を試みるも、藩の旧勢力と対立し、9年間幽閉されます。

閉門を解かれたのち、尊王攘夷派の公家と接近します。

そして文久3年8月18日(1863年9月30日)に起きた八月十八日の政変を知ると、七卿落ちで京を追われた一行と三田尻で合流し、そこで平野國臣らの要請に応じ、同郷の高橋甲太郎、中条右京とともに生野の挙兵に参加します。


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生野の挙兵では節制方を務めました。

しかし、形勢が悪化すると、強硬派の河上弥市(南八郎)らに解散を促しますが、拒否されたため、総帥の澤宣嘉を説得し、本陣を脱出しました。

総帥がいなくなった生野本陣はまたたく間に破陣し、河上ら残党は翌日に壮絶な死を遂げたという話は、これまでの稿で述べたとおりです。


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生野本陣を脱出した多田は、山中で澤宣嘉一行とはぐれ、大阪・京都に逃亡、潜伏しました。

しかし、敗走から4ヶ月後、但馬国で出石藩士に発見され、元治元年2月28日(1864年4月4日)、駕籠で出石に護送される途中、浅間峠を越えて藩領に入った直後に刺殺されます。

享年39。

最期の言葉は「今に分かる」だったと伝わります。


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遺骸は藩命により獄に埋められ、父母、妻子、弟妹すべて禁固に処せられました。

しかし、時は過ぎて明治24年(1891年)、靖国神社に合祀されるとともに、明治政府より従四位を贈位されました。


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そして、大正14年(1925年)浅間坂に「贈従四位多田君隕命遺蹟碑」が建てられました。

それがこの碑です。


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もっとも、当初はこの場所ではなく旧街道にありましたが、昭和38年(1963年)に浅間トンネルが開通したことによって旧県道は廃道となり、その後しばらく石碑は放置されていましたが、昭和61年(1986年)11月にこの地に移されたそうです。


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墓標は、今でも峠の山中にあるそうです。


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反逆罪の大悪人が、ひとたび革命が起これば正義の忠臣として讃えられる。

政治犯というのはそういうものなんでしょうが、この生野の変天誅組の変などの「義士」と呼ばれる浪士たちは、どうも政治犯というレベルにも達しない稚拙なテロリストという印象でしかありません。

そんな彼らを合祀している靖国神社というところは、やはり、政治利用のために創設された偏った神社と言わざるを得ません。

というと、一部の方々からかなりお叱りを受けるでしょうが。


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現在の浅間トンネルです。

たぶん、あのトンネルの上あたりで、多田は殺されたのでしょう。

合掌。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-12-07 16:02 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その8 <平野國臣・横田友次郎捕縛の地>

「その7」で紹介した黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑から北西に5kmほど、「その3」で紹介した山口護国神社から直線距離で35kmほど北上した養父市上網場に、「平野國臣捕縛地」と刻まれた石碑があります。


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文久3年10月13日(1863年11月23日)夜の生野破陣後、平野國臣は鳥取藩士の横田友次郎とともに城崎に向かいますが、その途中、上網場村の旅籠京屋豊岡藩兵捕縛されました。

ふたりは一旦、豊岡藩の獄に繋がれますが、年が明けた1月5日に身柄を姫路に護送され、11日に京都の六角獄舎に送られます。


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それから約半年後の元治元年7月19日(1864年8月20日)の起きた禁門の変(蛤御門の変)で、京のまちは火の海となりました。

「どんどん焼け」と呼ばれたその火の手は獄舎周辺まで迫り、火災に乗じて囚人が逃亡することを恐れた西町奉行所の役人・滝川具挙は、判決が出ていない状態のまま独断で囚人の処刑を断行します。

このとき斬首された囚人は37名

そのなかにいた生野の変のメンバーは、平野國臣、横田友次郎、本多素行、大村辰之助の4人でした。

<参照:六角獄舎跡(勤王志士平野國臣外十数名終焉之地)

彼らの遺骸は、13年後の明治10年(1877年)、京都の竹林寺に埋葬されました。

<参照:平野國臣以下三十七士之墓(竹林寺)


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平野國臣の勤王志士としとの経歴は長く、安政の大獄で追及を受けた僧・月照西郷隆盛とともに鹿児島へ逃れさせ、そのとき入水自殺を図った西郷を平野が助けたという話は有名です。

また、文久2年(1862年)には薩摩藩尊攘派の浪士たちと挙兵して攘夷断行を企てますが、一団は伏見寺田屋で捕えられ、平野は福岡藩で投獄されます。

いわゆる寺田屋事件ですね。

翌年に許されて上京し、学習院出仕に任ぜられますが、八月十八日の政変で京都を去り、その後、大和の天誅組に呼応して生野挙兵を画策します。


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これだけ輝かしい志士としての経歴を持ちながら、平野は後世にあまり知られてはいません。

生野挙兵メンバーのなかでは最も名前が売れているとは思いますが、いわゆる西郷隆盛大久保利通、木戸孝允の維新三傑をはじめ、維新を迎えることなく散っていった坂本龍馬高杉晋作、久坂玄瑞などと比べても、圧倒的に知名度が低い

その理由は、彼の出身が幕末にあまり目立たなかった福岡藩だったこともありますが、彼の志士としての運動を見るに、どれも中途半端で何事も成し得ていないところにあるように思います。

関西弁でいう「いっちょかみ」なんですよね。

この生野の変にしても、実質首謀者だったはずなのに、大和の天誅組の破陣を知るや途中から自重派となり、挙兵中止をうったえるも強硬派を抑えきれず、最後は逃亡してお縄につくという、無様な結末といえます。

もし、彼が西郷らと名を連ねるほどの一流の志士なら、はじめからこのような無謀な挙兵はしなかったでしょうから。

大和の天誅組の面々と同じく、所詮は二流の志士だったと。

手厳しいようですが。


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石碑には、平野の辞世の句が刻まれています。


見よや人 嵐の庭のもみじ葉は いずれ一葉も 散らずやはある


「その9」につづきます。


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# by sakanoueno-kumo | 2019-12-06 11:27 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その7 <黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑>

「その6」で紹介した三国神社自刃した中島太郎兵衛と、その弟の黒田與一郎顕彰碑が、兵庫県朝来市和田山町高田あります。

このあたりに、かつて彼ら兄弟の生家がありました。


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国道9号線を北上していると、顕彰碑の誘導看板があります。


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看板の向こうに見える鳥居は、高田八幡神社のものです。


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その鳥居のすぐ横の階段を上ると顕彰碑があります。


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中島太郎兵衛と黒田與一郎兄弟の生家は、代々、和田山高田村の大庄屋でしたが、幕末当時、凋落傾向にあったといいます。

ふたりは早くから但馬における農兵組織化にむけて北垣国道らとともに奔走し、美玉三平、平野國臣らが但馬に入ると、彼らとともに農兵を討幕のために転換させるよう画策しました。


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文久3年(1863年)8月に朝廷と幕府から農兵組立が発令されると、9月5日に養父神社第1回農兵組立会議が行われ、9月19日の第2回農兵組立会議は中島太郎兵衛宅で行われました。

この会議には生野代官所役人らも出席していましたが、代官所役人らが退席したあと、別室で密談が行われ、10月の挙兵が決定されました。

いわば、生野の変の首謀者メンバーだったんですね。


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文久3年10月12日(1863年11月22日)に生野代官所占拠した彼らでしたが、本陣での役割は、兄・太郎兵衛が節制方、弟・興一郎が農兵徴集方だったようです。

長州藩士を中心として他藩の浪士が多かった生野挙兵メンバーのなかで、地元出身で土地勘のある彼らは、きっと大きな役割を期待されていたのでしょう。

ところが、生野挙兵はあっけなく破陣

ふたりは薩摩藩士の美玉三平とともに播磨国山崎の木之谷まで逃亡しますが、深手を負っていた兄・太郎兵衛は自刃し、兄を介錯した興一郎はそのあと自ら縛につき、京都六角獄舎に送られ、慶応2年2月9日(1866年3月25日)に獄中死します。

詳しくは「その6」で紹介しましたね。


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この顕彰碑は昭和15年(1940年)11月10日に建立されたそうです。

わたしに言わせれば、彼らは顕彰されるようなことは何もしていないんですけどね。

彼らがやったことは、暴挙を画策して失敗して死んだ、ただそれだけなんですけどね。

顕彰碑が建てられた昭和15年(1940年)は、皇紀2600年にあたります。

そんなプロパガンダの顕彰碑といえるでしょう。

「その8」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-12-04 23:18 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第45話「火の鳥」 ~東京五輪音頭~

オリンピックの顔と顔 ソレトトント トトント 顔と顔


といえば、言わずと知れた『東京五輪音頭』ですが、当時をリアルタイムで知らない現在52歳のわたしにとっては、この歌イコール、当時、「国民的歌手」といわれた三波春夫というイメージでしかないのですが、実はこの歌、最初は三波だけではなかったそうですね。三波が「国民的歌手」と呼ばれるようになったのは、この歌とのちの大阪万博のテーマソング『世界の国からこんにちは』の2曲が大ヒットしたのちのことだそうで、この当時は、まだそこまでの存在ではなかったそうです。


 『東京五輪音頭』を作曲したのは、「古賀メロディー」と呼ばれる多くの名曲を世に送り出した昭和の名作曲家・古賀政男。当時の歌謡界ではナンバー1の作曲家への依頼は、当然の人選だったと言えるでしょう。ところが、当時、古賀政男はコロムビア・レコードの専属作曲家で、当時の歌謡界の規則では、古賀の作った歌はコロムビア専属の歌手しか歌えないことになっていたのですが、この曲に限っては、国民的祭典の歌ということで、古賀は「どこのレコード会社の歌手でも歌えるようにしてほしい」との意向を示し、コロムビアもこれを受け入れ、録音権を各レコード会社に開放しました。古賀にしてみれば、この機会に自身の歌をコロムビア以外の歌手に歌わせたいという思いがあったようです。


e0158128_14005076.jpg 各レコード会社に開放された『東京五輪音頭』は、必然的に競作となりました。ビクターは神楽坂浮子、つくば兄弟、そして当時、御三家の一人として人気を博していた橋幸夫を起用し、東芝はオリンピック大使にも選ばれていた人気アイドルの坂本九、ポリドールは大木伸夫・司富子、そして、キングは当時に人気実力ともに折り紙付きだった三橋美智也を起用します。本来であれば独占できたはずのコロンビアは、若手の注目株だった北島三郎と新人の畠山みどりによるデュエットで挑みました。そんななか、テイチクの三波春夫バージョンは、比較的後発だったようです。


 もっとも、古賀ははじめからこの曲を三橋美智也を想定で作ったそうです。古賀にしてみれば、他社の看板スターである三橋に自身の歌を歌ってもらう絶好のチャンスと捉えていたようですね。実際、オリンピック前年の昭和38年(1963年)のオリンピックデーに楽曲が発表された際も、三橋の歌が披露されました。そんなこともあって、発売前の下馬評では三橋バージョンのヒットが確実視されていたようです。ところが、いざ蓋を開けてみると、大ヒットしたのは三波春夫バージョンで、なぜか三橋バージョンはあまり振るわなかったんですね。


 三波春夫の一人勝ちになった理由については様々な分析があるようですが、一番はプロモーションの力の入れ具合にあったようです。ドラマでも描かれていましたが、三波が大トリを務めた昭和38年(1963年)12月31日のNHK紅白歌合戦では、毎年恒例のエンディング曲『蛍の光』の代わりに『東京五輪音頭』が歌われたそうです。現在まで長い紅白歌合戦の歴史のなかで、『蛍の光』以外の曲が歌われたのはこのときだけなんだとか。


あと、三波は競作歌手のなかで最年長で、唯一、戦争へ従軍してシベリアで捕虜となった経験があり、そのことから、戦後復興の象徴である東京オリンピックへの思い入れが人一倍強く、そういう強い気持ちが乗った歌だった、と、後年語っていたそうです。同じく戦後復興の象徴でこの6年後に行われた大阪万博のテーマソング『世界の国からこんにちは』も、8社のレコード会社が競作のなか三波バージョンが大ヒットしました。この2曲のヒットにより三波は「国民的歌手」と称されるようになり、晩年、三波はこの2曲を「生涯の宝物でございます」と語っていたそうです。


 ちなみに、令和2年(2020年)の東京オリンピックのテーマソングですが、当時の三波春夫のような国民的歌手という観点で言えば、桑田佳祐さんしかいないだろうと思っていましたが、やはり、民放共同企画のテーマソングは桑田さんが作られるそうですね。満場一致の人選だったとか。まあ、そうでしょう。もっとも、東京オリンピック招致決定の際に作られたという『東京VICTORYが、すでにテーマソングのような使われ方をしてきていましたが。


 ちなみに余談ですが、平成10年(1998年)の長野オリンピック閉会式では、サプライズで国民的コメディアン萩本欽一さんがMCをするという演出がありましたが、来年の東京オリンピックでは、わたしはこの役目を中居正広さんがやるんじゃないかと睨んでいます。中居さんはずっと務めていたTBSのオリンピックキャスターを降板したことが話題になっていましたが、実はこの大役があるから降りたんじゃないかと。さらに言えば、この大役が随分前から決まっていて、だから、あのときもジャニーズ事務所を辞めなかったんじゃないかと。深読みしすぎですかね?


 とまあ、話がそれちゃいましたが、今話は『東京五輪音頭』のお話でした。



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# by sakanoueno-kumo | 2019-12-02 14:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その6 <美玉三平・中島太郎兵衛終焉の地(美国神社)>

「その5」のつづきです。

「その1」で紹介した生野代官所跡から直線距離で南西に25kmほど離れた宍粟市山崎町木ノ谷で、生野の変の挙兵メンバーの美玉三平中島太郎兵衛が落命しました。

現在、その近くにある美国神社に、ふたりのがあります。


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美玉三平は薩摩藩出身の脱藩浪士、中島太郎兵衛は地元但馬国の豪農でした。

彼らは早くから地元の農兵組織化に奔走しており、平野國臣らと計画段階から密議を交わして生野挙兵を具体化した、いわば生野の変の首謀者メンバーでした。


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美国神社入口の石碑には、「勤皇志士之碑」と刻まれています。


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その横の小さな石碑には「生野義挙志士最期の地」と刻まれ、その両側面には、その説明文が刻まれています。

何度も言いますが、わたしは生野の変を「義挙」だとは思っていません。

「暴挙」です。


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境内です。


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境内の片隅に、ふたりのがあります。


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文久3年10月13日(1863年11月23日)夜の生野破陣後、美玉三平は中島太郎兵衛と弟の黒田興一郎とともに逃走します。

翌14日の午後4時ごろ、ここ播磨国山崎の木之谷に入りますが、そのとき、後方から500人近い農兵は押し寄せ、発砲してきました。

怒った美玉は抜刀して追い払おうとしますが、やがて銃弾が胸を貫き、しばらく息があったものの、その後、絶命します。

中島太郎兵衛と弟の興一郎は神社そばの民家に逃げ込みますが、兄・太郎兵衛の傷は深く、弟の介錯によって自刃します。

太郎兵衛はその死の直前、手持ちの270両を弟に渡し、これを持って逃げろと説得したといいます。

しかし、兄を介錯した興一郎はそのあと自ら縛につき、京都六角獄舎に送られ、慶応2年2月9日(1866年3月25日)に獄中死します。


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墓の建立者のなかには、生野挙兵メンバーの生き残りで維新後には京都府知事貴族院議員を務めた北垣国道の名があります。

北垣国道は中島らと同じ但馬出身ですから、同郷のよしみだったのでしょう。

また、その横には、蘭方医・松本良順の実弟で元幕臣の林董の名もあります。

その理由がよくわかりませんが、林董は一時期、兵庫県知事を務めており、おそらく、その縁で建立者に加わったのではないでしょうか。

だとすれば、おそらく、この墓石は林が県知事を務めていた明治23年(1890年)から翌24年の間に建てられたのでしょう。


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境内には、彼らの顛末を説明した石板があります。

それを読むと、明治21年(1888年)9月に美玉三平が、同24年(1891年)9月に中島太郎兵衛と黒田興一郎兄弟が、それぞれ靖国神社に合祀され、美玉と中島に従四位、黒田に正五位が贈られたとあります。

靖国合祀については色々と言いたいことがありますが、ここではひとまずそれは置いといて、おそらく靖国合祀に合わせてここに墓碑が建てられたのではないでしょうか。


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石板の文末には、黒田興一郎が獄中で兄の中島太郎兵衛と美玉三平を悼んだが刻まれています。


もののふの 名はいつまでも 木の谷の そのかんばしき 楠のもと


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せっかくなので、美国神社にも参拝して帰りましょう。


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社殿です。


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社殿から見下ろすと、ふたりの墓石が見えます。

青のプリウスαはわたしの愛車です(笑)。


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さっきの石板の説明によると、ここの元の名称は「山神社」でしたが、美玉、中島、黒田の3人の霊を併せ祀り、通称を「美国神社」としたのも、国に殉じた美徳を称えるためとあります。

美談にしちゃいけないんですけどね。

彼らのやったことは、単なるテロリズムですから。

「その7」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2019-11-29 21:39 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)