「その4」のつづきです。
七尾城三ノ丸から高い切岸を降りて、北西の安寧寺跡に向かいます。
安寧寺跡です。
その名のとおり、ここにかつて安寧寺という寺院がありました。
安寧寺がいつからここにあったかは不明のようですが、元禄時代頃に描かれた七尾城絵図に「安寧寺」があることから、遅くとも江戸時代にはあったようです。
ここに、畠山氏の墓碑や、七尾城の戦いの戦死者の慰霊碑などがあります。
武田信玄と上杉謙信が対立していたとき、信玄が一向一揆と結んだことにより、謙信は一向一揆と敵対していました。
ところが、天正元年(1573年)に信玄が没したことと、足利義昭が仲介に入ったことにより、謙信は一向一揆と結び、共通の敵である織田信長と戦うことになります。
天正4年(1576年)5月、信長の軍勢が越前から加賀へ進み、能登にも手を伸ばし始めると、謙信は能登七尾城の制圧を急ぎます。
当時、七尾城当主はわずか4歳の畠山春王丸で、実権は家臣の長続連と綱連父子、遊佐続光、温井景隆らが握っていました。
9月、謙信は越中から能登に兵を進めました。
このとき、七尾城中の重臣たちに勧降工作を行いますが、長続連・綱連ら親信長派の意見が大勢を占め、謙信と対決する姿勢を打ち出します。
10月、謙信は七尾城への攻撃を開始。
しかし、七尾城は天険の要害だったため容易に落とすことはできず、謙信は周辺の支城から落とす作戦に切り換え、七尾城を孤立させます。
そして、上杉軍は城を包囲したまま年を越しましたが、春になって一度囲みを解き、兵を越中に戻しました。
ここまでを第一次七尾城の戦いといいます。
謙信は奪った支城に兵を残していましたが、畠山軍はこのタイミングで奪われた支城を奪い返します。
支城を奪い返されたとの報せを受けた謙信は、再び七尾城に向けて出陣します。
第二次七尾城の戦いの始まりです。
しかし、やはり七尾城の守りは固く、謙信も攻めあぐねていました。
またまた第一次七尾城の戦いのときの二の舞になるところでしたが、こかし、ここで思いもよらぬ展開となります。
伝染病が流行し、城内の籠城兵の多くが感染して死んでしまい、さらに、5歳になった城主春王丸までもが感染して死んでしまいます。
籠城兵が戦意を喪失したことは想像に難しくありませんね。
春王丸の死後、長綱連が城代という立場で、実質上は城主として全軍を指揮しました。
綱連は、ただ籠城しているだけでは展望は開けないと考え、謙信に敵対する勢力からの援軍を模索します。
この時期、謙信に敵対しているのは、北条氏政と織田信長でした。
綱連は、遠い関東の北条よりも、加賀まで力を伸ばしてきている信長に協力を仰いだほうが現実的だと考えたのでしょう。
弟の連龍をひそかに信長の元に送り、援軍派遣を要請させます。
戦いは綱連の奮戦によって再び長期化の様相を見せ始めました。
謙信も、力攻めでは落とせそうにないと考えるようになり、そこで目を付けたのが、城内にいる遊佐続光でした。
謙信は、遊佐続光が、同じ家老であるはずの長綱連が実権を握っていることに不満を抱いているのではないかと考えます。
この謙信の推測はビンゴでした。
謙信は遊佐続光と、もう一人の重臣である温井隆景に、七尾城方を裏切れば、畠山の旧領と長氏一族の土地を恩賞として与えるといった餌をぶら下げて内応工作を仕掛けます。
9月13日、遊佐続光、温井隆景から謙信のもとに内応承諾の返事が届いたとき、謙信が月を見ながら作った漢詩が「九月十三夜」だといいます。
「霜は軍営に満ちて 秋気清し 数行の過雁 月三更 越山併せ得たり 能州の景 遮莫 家郷の 遠征を懐うを」という七言絶句です。
もっとも、この漢詩、本当に謙信が詠んだものかどうかは定かではないようですが。
9月15日、遊佐続光は、温井隆景、三宅長盛らと図り、長続連と二人の弟・連常、連盛を、月見の宴と偽って自身の屋敷に招待し、その宴席で殺害します。
それを知った連綱も、駆け付けようとしたところを待ち伏せしていた続光の兵によって討たれました。
このあと、長一族は続光らによってことごとく殺され、生き残ったのは、信長のもとに援軍要請に行っていた連龍と、もう一人、綱連の末子の菊末丸だけだったといいます。
菊末丸は乳母に抱えられて城を脱出し、無事、越中に逃れたとい言われています。
遊佐続光らは、長氏一族を謀殺したあと七尾城を開城し、長かった七尾城の戦いは終わりました。
七尾城陥落の報せを受けた謙信は、すぐさま家臣の川田長親、鰺坂長実を送り、七尾城を受け取らせています。
一方、長連龍の要請を受けた信長は、後詰のため柴田勝家を総大将とする援軍を送り込んできていました。
もし、七尾城開城があと数日遅れていたら、謙信は苦戦を強いられるところだったでしょう。
間一髪でしたね。
9月18日に織田軍は手取川で上杉軍と戦い、23日、織田軍はさらに攻撃を仕掛けましたが、このときになって15日に七尾城が陥落していたことを知り、退却を始めた織田軍は追撃され、多大な犠牲者を出して逃げ帰ったといいます。
謙信が七尾城に入ったのは、その直後の9月26日のことでした。
その後、しばらく能登は上杉勢力下でしたが、天正6年(1578年)3月に謙信が没すると、上杉家中で御館の乱というお家騒動が発生し、能登国内の反上杉勢力や飛騨経由で越中に攻めこんだ織田勢力に圧迫され、結局能登は信長の手に帰することになります。
上杉に降って能登の実権を完全に我が物にしていた遊佐続光は、息子の盛光と共に信長に降伏しましたが、信長は長一族を殺した罪を許さず、続光父子は処刑されます。
別の説では、降伏ではなく早々に七尾城を逃げ出して潜伏していたところを、長連龍に探し出されて一族皆殺しにされたという説もあります。
いずれにせよ、裏切ったり裏切られたり、権力をつかんだと思ったら引きずり降ろされたり、人の世はいつの時代も栄枯盛衰。
禍福は糾える縄の如し・・・ですね。
七尾城の戦いだけでめっちゃ長くなっちゃいました。
今回は安寧寺跡だけで終わり。
「その6」につづきます。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓