幕末京都逍遥 その152 「城南宮」

「その150」で紹介した小枝橋から300mほど東にある城南宮は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩軍が陣を布いた場所です。


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鳥羽街道を北上してきた旧幕府軍に対して、薩摩藩を中心とする新政府軍は、ここ城南宮から小枝橋方面に東西に長い陣を布いて北上軍への備えとしました。


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境内には、鳥羽・伏見の戦いを説明する駒札が建てられています。


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この大鳥居からの参道に、薩摩軍の大砲がズラリと並んでいたと伝えられ、明治に入って描かれた合戦絵巻にも、ここに大砲が並んでいる様子が描かれています。

「その150」でも紹介しましたが、鳥羽・伏見の戦いの戦端は、薩摩軍が放った一発の砲によって開かれました。

その最初の砲は、ここ城南宮に置かれた砲だったという説もあります。


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ニノ鳥居です。


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舞殿です。


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わたしがここを訪れたとき、本殿は改修工事中でした。


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後年、西郷隆盛が鳥羽・伏見の戦いを回顧して、

「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」

と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、薩摩は、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、どうしても戦争がしたかったんですね。

だから、一旦は恭順を公言していた旧幕府軍を挑発し、無理にけしかけて戦争に持ち込みます。

しかも、偽の錦旗まで用意して。

これって、すでに瀕死の状態にある日本に対して、戦争を終らせるためといって原爆を投下したアメリカ軍と同じですよね。

歴史を否定するつもりはありませんが、歴史を歪曲して賛美するのも好きではありません。

鳥羽・伏見の戦いは「義戦」ではありません。

薩長と旧幕府との「私戦」です。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-20 00:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その151 「鳥羽離宮跡」

「その150」で紹介した小枝橋の石碑が建つ場所のすぐ南側に、鳥羽離宮跡があります。

鳥羽離宮は平安時代後期に白河天皇(第72代天皇)、鳥羽天皇(第74代天皇)、後白河天皇(第77代天皇)院政を行った御殿があったところです。

ここも、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦い時には戦場となりました。


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現在、鳥羽離宮跡は鳥羽離宮公園として整備されています。


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公園の北側に、かつて鳥羽離宮の庭園の築山だった「秋の山」という小さな丘があるのですが、その傍に、説明板と案内板が設置されています。


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前稿で紹介した小枝橋での戦端が説明されています。

ただ、気になったのは最後の一文


新しい時代「明治」、ここ伏見から始まったともいえます。


とあります。

「その146」でも述べましたが、わたしは、鳥羽伏見の戦いを含む戊辰戦争は、する必要のなかった戦争だと思っています。

なので、この鳥羽・伏見の戦いがあったからこそ日本は近代国家を築けたかのような表現は好ましく思えません。

わたしなら、こう記します。

「翌年の函館五稜郭の戦いまで続く凄惨な内戦は、ここ伏見から始まりました。」と。


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説明板の横には、鳥羽・伏見の戦いの布陣図碑があります。


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秋の山の頂には、鳥羽・伏見の戦い顕彰碑が建てられています。


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碑文は漢文なのでよくわかりませんが、薩摩藩出身の元官僚で、黒田清隆内閣総理大臣だったときにはその秘書官を務めてのちに貴族院議員となった小牧昌業撰とありますから、おそらく、鳥羽・伏見の戦いを賛美する文章が刻まれているのでしょう。

公園では少年野球の子どもたちが元気いっぱいに汗を流していました。

かつて、ここで多くの無用の血が流れたなんて、彼らは知らないでしょうね。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-18 23:23 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その150 「鳥羽伏見の戦い勃発地(小枝橋)」

伏見から3kmほど北上した鳥羽地区に移動します。

名神高速道京都南ICから少し南下して西へ折れると、南北に流れる鴨川にあたるのですが、そこに小枝橋という鴨川に架かる橋があります。

この橋は、鳥羽・伏見の戦い戦端が開かれた場所と伝わります。


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慶応4年1月2日(1868年1月26日)、薩摩藩との戦いを決意した徳川慶喜は、朝廷の判断を仰ぐために1万5千の大軍を大坂から京へ進めます。

その進軍ルートは2つ、会津藩・桑名藩・新選組「その147」で紹介した伏見奉行所を目指し、旧幕府軍鳥羽街道を北上して洛中を目指しました。

これに対して薩摩藩を中心とした新政府軍は、ここ小枝橋から東にある城南宮に向けて東西に長い陣を布いて北上軍への備えとし、また「その146」で紹介した伏見の御香宮にも砲兵部隊を配置します。


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3日午前、旧幕府軍と新政府軍が、ここ小枝橋で接触します。

旧幕府軍を率いていたのは大目付滝川具挙でした。

滝川はこの1週間前の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報を慶喜にもたらし、江戸での薩摩藩士の横暴を説き、旧幕府軍を強硬論に導いた人物でした。


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滝川は立ちふさがった新政府軍に対して「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」と要求します。

ところが、ここを守備していた薩摩藩の椎原小弥太は、「朝廷に確認するまで待て」と、行く手を阻みます。

そこから長時間にわたって「通せ」「通さない」押し問答が繰り返され、このままでは埒が明かないとしびれを切らした滝川は強行突破を試みますが、これに対して新政府軍が発砲し、これをきっかけに戦闘がはじまります。


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この砲声は3kmほど南の伏見にも届き、それを合図に同時スタートのように戦闘が始まりました。

こうして鳥羽・伏見の戦いが起こります。


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現在の小枝橋です。

当然ですが、いまは鉄筋コンクリート製です。


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当時の小枝橋は、ここより少し南に架かっていたそうです。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-17 23:12 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第38話「傷だらけの維新」その2 ~東京遷都~

 昨日の続きです。本稿では、ドラマで描かれなかった京都での動きについてです。

江戸無血開城から上野戦争、北越戦争、会津戦争と東日本で軍事が繰り広げられていた同じ頃、京都に残っていた大久保利通新政府の基礎づくりに精力を注いでいました。そのひとつが、「遷都」でした。


e0158128_17375658.jpg 慶応4年1月19日(1868年2月12日)、大久保は総裁の有栖川熾仁親王と議定の三条実美に対して、天皇が大坂へ行幸して、そのまま滞在すべきであるという内容の建白書を提出します。そのなかで大久保は、遷都を機に、政治の一新を実現すべきだと強調していましたが、もうひとつの狙いは、数百年の古いしきたり慣例に凝り固まっている朝廷を改革することで、また、そのような朝廷から若き天皇を引き離し、ヨーロッパの皇帝のような、新しい天皇像を育てることを考えていました。その具体策としては、天皇が表の御座所に親臨して、万機を親裁すること、ただし、表には女官の出入りを厳禁とすること、毎日、総裁以下政府首脳にお目見えすること、侍読を置き、内外の形勢について勉強すること、馬術の訓練をすること等々。当時の天皇は女官に囲まれて後宮で1日のほとんどを過ごす生活で、大久保はそういった旧体制から天皇を遮断し、天皇の日常そのものを改革して、新国家建設のシンボルとなるような天皇親政の体制を築き上げようとしていました。これが、大久保の遷都案の骨子だったわけです。


 しかし、この時点では遷都に否定的な意見が多く、この建白書は1月23日の太政官会議否決されます。千年の都を移すわけですから、そう簡単には事は運びません。


 3月14日、天皇は五箇条の御誓文を誓い、諸臣は誓約に署名してこれに答えました。これは、新政府の成立宣言であり、その儀式でした。そして、このあと、大久保の希望であった天皇の大坂行幸が3月21日から閏4月8日までの間で実現します。


 4月9日、本願寺別院の行在所で、大久保ははじめて天皇に拝謁します。無位無官の者が公的な場で天皇に面会したのは、近世以降の歴史ではこれが最初のことだったでしょう。大久保はこの日の日記に、「身に余る仕合わせ」と記しています。


 4月11日に江戸城開城され、5月15日の上野戦争で江戸の街が新政府軍によって制圧されると、大久保、三条、木戸孝允、大村益次郎らの間で、天皇の関東行幸が計画されます。江戸の街を手に入れたとはいえ、まだまだ旧幕府の色が残る関東を、天皇の威光によって掌握しようという狙いでした。そして7月17日、「自今、江戸を称して東京とせん」という詔書が発令されます。すなわち、江戸を東の京=東京として、西京=京都と同等扱いにするという声明でした。


e0158128_17024408.jpg 8月4日、西の都の京都から東の都の東京へ天皇が行幸することが発表され、元号が「明治」改元された9月20日に京都を発ちます。3000人余り供奉を従えて東海道を進む天皇の行列は、新政府誕生のデモンストレーションとしては十分過ぎるほどの効果があったでしょう。沿道の民衆たちは、はじめて見る天皇という存在に、新しい時代の到来を感じたに違いありません。そして10月13日に天皇の行列は東京に着き、半年前まで徳川家の居城だった江戸城に入り、これを「東京城」と改めました。そして同じ日、新政府軍が東北から凱旋してきました。巧みな演出といえます。


 大久保たちの狙いは東京に政府を移すことにありましたが、この時点ではまだ遷都とはいわず、あくまで行幸でした。朝廷内には遷都反対派が多数おり、それらの目を配慮してのことでした。そして、これがあくまで行幸であることを示すかのように、天皇はこの年の暮れに一旦京都に還幸します。この還幸は、遷都反対派を安心させるための大久保の政治だったのでしょうね。そして年が明けた明治2年3月28日(1869年5月9日)、天皇は再び東京に行幸し、この日、政府は東京城を「皇城」とすると布告し、その後、天皇が京都に還幸することはありませんでした。以後、東京が日本の首都となり、現在に至ります。ただ、結局、新政府は一度も遷都を宣言することなく政府機能を東京に移しており、そのことから、現在でも、天皇は東京に行幸しているだけで、日本の都は京都だと主張する京都人の方がときどきおられますね。まあ、屁理屈といえばそうですが、間違っていないといえばそうともいえます。いつか突然、還幸されるかもしれませんよ。ただ、京都御所は観光地になっちゃってますが。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-16 23:53 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第38話「傷だらけの維新」その1 ~西郷吉二郎の戦死~

 上野の彰義隊をわずか一日で討伐し、不完全ながらも江戸の街を鎮圧した西郷吉之助(隆盛)は、慶応4年5月28日(1968年7月17日)に京都に向かうべく江戸を発ちます。これは、新政府軍に抵抗の姿勢を示していた会津藩をはじめとする東北諸藩の対応策を協議するためでした。そこで新政府軍の兵力強化の必要性を感じた西郷は、国元からの援軍を得るためため、6月9日、藩主・島津忠義とともに京都を発ち、鹿児島に向かいます。


e0158128_15445401.jpg 6月14日に鹿児島に帰った西郷でしたが、越後方面での戦いで新政府軍が苦戦を強いられているとの報せを受け、8月6日、一大隊の薩摩藩兵を伴い、春日丸で越後に向けて出発します。越後長岡藩7万4千石の小藩でしたが、長岡藩兵は近代的な訓練最新兵器の武装を施されており、また、執政の河井継之助の巧みな用兵と指揮により、一時は新政府の大軍を押し返すほどの抵抗を見せます。戊辰戦争の中でもひときわ激戦と伝わる越後長岡藩との激闘は、6月、7月と展開されますが、7月29日に新政府軍が長岡城を陥落させたことで、ほぼ収束していました。そのあと、8月10日に西郷率いる援軍が越後に上陸します。ドラマでは、西郷が軍議に参加して指揮をとっていましたが、実際には、この戦いには参加できなかったんですね。


e0158128_15131310.jpg越後に上陸した西郷は、辛い現実と直面することになります。すぐ下の弟・西郷吉二郎の死です。ドラマでは、吉二郎は兄の西郷とともに鹿児島を発ってこの戦いに参戦したように描かれていましたが、実際には、もっと以前から参戦しており、越後長岡藩との戦いでは、番兵二番隊の監軍として従軍しています。吉二郎は、れっきとした薩摩兵の幹部でした。ところが、兄の西郷が越後に上陸する8日前の8月2日、五十嵐川の戦いにおいて銃弾を受け、その傷がもとで12日後の8月14日、越後高田の病院で死去します。享年36。


 吉二郎は西郷とは5歳違いの弟で、次男ということもあって、兄の西郷が長年にわたって藩外での活動に奔走するなか、不在中の長兄に代わって、一家の面倒を見ていました。また、西郷が奄美大島徳之島、沖永良部島に流刑になっていたときも、困窮のなか一家を支えていたのも吉二郎でした。吉二郎がいたからこそ、西郷が思う存分国事に奔走できたといっても過言ではなく、そのため、かねてから西郷は、吉二郎に対して常に感謝の気持ちを忘れず、弟でありながら、兄のように敬っていたと言われます。そんな弟の死によって西郷が受けたダメージは、計り知れないものがあったでしょう。西郷はその吉二郎の死について、奄美大島の知人に宛てた手紙に次のように記しています。


将又(はたまた)愚弟吉次郎には越後表に於て戦死いたし残念此の事に御座候。外の両弟は皆々無難罷帰り、仕合せの次第に候。拙者第一先に戦死致すべき処、小弟を先立たせ涕泣いたすのみに御座候。御悲察給るべく候。


 自分が真っ先に戦死すべきところを、弟を先に死なせてしまったと、悲痛な心情を訴えています。こののち西郷は、毎年、吉二郎の命日には自ら謹慎したと伝わります。


e0158128_15491606.jpg 会津戦争はまったくのスルーでしたね。まあ、西郷は北越戦争のあと庄内藩に転進しており、会津戦争には従軍していませんから、このスルーはやむを得ないかもしれませんが、ただ、西郷の国民的人気を不動のものにしたといっていい庄内藩の処遇についての逸話がまったく描かれなかったのは驚きです。一連の戊辰戦争のなかで、最後まで新政府軍に抵抗していたのが庄内藩でしたが、その降伏後、庄内藩に進駐したのが西郷率いる薩摩藩兵でした。庄内藩は前年に起きた江戸薩摩藩邸焼討事件からの因縁もあり、だれもが厳しい処分を覚悟していましたが、ところが、庄内藩に進駐した西郷の態度は一事が万事、礼儀正しく慈愛に満ちたものでした。そして、庄内藩に対しての処分もすこぶる寛大で平和的なものだったため、藩主の酒井忠篤、家老の菅実秀などは西郷に心服してしまい、以後、庄内の人々は西郷に対する敬愛の念を抱き続け、明治3年(1870年)には、忠篤自身が藩士70余名を伴って鹿児島に赴き、数ヶ月に渡って西郷の教えを乞うなどの交流を持ちます。そして西郷没後の明治22年(1889年)には、西郷から受けた恩に報いようと、後世に読みつがれることになる西郷の語録『南洲翁遺訓』が、庄内藩士によって編纂、刊行されるに至ります。ある意味、後世の西郷像を決定づけたエピソードとも言ってよく、他の話を削ってでも、これは必ず描くだろうと思っていたのですが・・・。作品内の割愛のポイントがよくわからないですね。


 ちなみに、ドラマ内で西郷従道が戦争を好まない平和主義者のような描かれ方をしていますが、これも、その意図がよくわかりません。従道は明治維新後、陸軍卿海軍大臣など、軍事畑一筋の人生を歩んだ人です。若き日の従道がドラマで描かれているような反戦思想の人物だったとはとても思えないのですが、大河ドラマでは、登場人物のなかに必ずこのような平和主義者を作らないとダメなんですかね。だとしても、それは従道の担当ではないような・・・。脚本の意図がよくわからないですね。


 ちなみにちなみに、余談ですが、吉二郎の死に西郷が涙するシーンで、「巨人菅野投手がノーヒットノーラン」との速報テロップが出ましたが、あれ、どう考えても邪魔でしたよね。一刻を争う災害の速報などならともかく、巨人ファンしか喜ばないようなどうでもいいニュースのテロップを流して、せっかくの感動シーンを台無しにしてしまいました。この配慮のなさは、2010年の『龍馬伝』の最終回の龍馬暗殺のシーンで愛媛県知事選の当確速報という他府県人にはどうでもいいテロップを流して批判されていましたが、あのときと同じです(参照:龍馬伝最終回の、配慮に欠けた速報テロップの風刺漫画に笑う。)。あんなテロップを出したら視聴者が興ざめすることはわかりそうなものですが、おそらく、NHKの報道部のおごりなんだろうと想像します。放送局内部では、報道部が他のどの制作部よりも力を持っているという話を聞いたことがありますが、天下の国営放送の報道部ですからね。娯楽番組など、端から下に見ているのでしょう。


 さて、西郷が戦地を転戦している間、大久保利通は京都で新政府の基礎づくりに精力を注いでいました。「その2」では、ドラマで描かれなかった大久保の働きをお話します。



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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-15 15:51 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その149 「魚三楼(弾痕)」

「その147」で紹介した伏見奉行所の近くにある料亭・魚三楼には、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおける銃撃戦でできたとされる弾痕があります。


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城下町である伏見は、L字路、T字路といった敵から見通せないように工夫された街路がいくつも組み合わさった「遠見遮断」と言われる構造になっています。

そのため、鳥羽伏見の戦いの際には、見通しの悪い街路を挟んで激しい市街戦が繰り広げられ、沿道の家屋の多くも戦災に遭いました。


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この魚三楼があった京町通も激戦の舞台となりました。

そのときの弾痕と伝えられるのが、表格子に残るこれです。


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生々しいですね。


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現在も残されている「両軍伏見市街戦概要図」では、この京町通りの南側に新選組が布陣していたといわれているそうで、あるいは、新選組の残した弾痕かもしれません。

このとき最も勇敢に戦ったといわれるのが、土方歳三率いる新選組と、林権助率いる会津砲兵隊だったと言われています。


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魚三楼は明和元年(1764年)創業という歴史をもつそうです。

鳥羽伏見の戦いでは、薩摩軍のまかないも担当していたといいます。

この戦いで伏見一帯は焼け野原になりますが、幸い、この建物は焼失を免れ、この弾痕を後世に伝えてくれました。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-13 00:20 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その148 「伏見口の戦い激戦地跡」

「その137」 「その138」で紹介した寺田屋のすぐ西側にある京橋の傍に、「伏見口の戦い激戦地跡」と刻まれた石碑があります。


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京橋は宇治川に注ぐ川に架かる橋です。

江戸時代、京橋周辺は船着場として栄えました。

寺田屋がその船着場の旅館として幕末ににぎわっていたという話は、以前の稿でお話ししたかと思います。


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鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られる前日の慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船でここに上陸しました。

その際、会津軍の進軍を阻止すべく立ちはだかった薩摩軍小競り合いになり、やがて銃撃戦となります。

鳥羽伏見の戦いの前哨戦ですね。

その中には、「その147」で紹介した伏見奉行所から駆け付けた新選組の面々もいました。


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翌日も小競り合いは続き、そうこうしているうちに鳥羽方面から砲声が聞こえ、鳥羽・伏見の戦いが始まります。


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石碑の建つ京橋から川を見下ろします。

現在、雁木などが復元され、当時を思わせる景観が楽しめます。


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観光客を乗せた十石舟が走っています。


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戦いは薩長軍の勝利に終わり、退却する会津軍、新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けたそうです。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-12 00:48 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その147 「伏見奉行所跡」

「その146」で紹介した御香宮神社から200mほど南下したところに、かつて伏見奉行所がありました。

現在、その跡地には石碑が建てられ、往時を思わせるが演出されています。


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慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が下されると、4日後の12月13日に会津藩の命を受けた新選組は、伏見方面の治安維持の名目で伏見奉行所へ駐屯することとなります。

そして16日には、近藤勇を隊長に総勢150名が伏見奉行所に入りました。


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ところが、その2日後に近藤勇は、伏見奉行所へ帰る途中に伏見街道の墨染で狙撃され、肩を撃たれて重傷を負ってしまいます。

その後、新選組の指揮は副長の土方歳三が執ることとなります。


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年が明けた慶応4年1月3日(1868年1月27日)に鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られると、伏見奉行所の兵は大手筋を挟んで目と鼻の先にある御香宮神社に陣を布く薩摩軍と激戦を交わします。

しかし、火力に歴然とした差があり、やがて伏見奉行所は炎上、土方率いる旧幕府軍は、撤退を余儀なくされます。

このときの戦いで、土方はもはや剣の時代が終わったことを悟ったといいます。


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維新後、伏見奉行所の跡地は陸軍の土地となり、工兵隊の基地になりました。

伏見奉行所の石碑の向かい側には、「伏見工兵第十六大隊跡」と刻まれた石碑があります。

基地は第二次世界大戦後に米軍に接収され、その後、米軍から返還されると、市営住宅が建てられ、現在は桃楼団地という団地街になっています。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-11 01:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その146 「御香宮神社(薩摩軍本営跡)」

伏見にある御香宮神社を訪れました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、薩摩藩の本営が置かれていた場所です。


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御香宮神社の創建の由緒は不詳ですが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録があるほど古い神社です。


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現地説明板によると、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が下されますが、その2日前の12月7日、ここ御香宮神社の表門に「徳川氏陣営」と書いた大きな木礼が掲げられました。

ところが、その翌日に薩摩藩士の吉井幸輔(のちの友実)がその札を外し、ここに部隊を置いたのが最初だそうです。


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やがて年が明けた慶応4年1月2日1868年1月26日)、徳川慶喜は大軍を率いて大阪より進軍し、その先鋒が翌3日の午後に伏見京橋に着きます。

そこで薩摩藩士との間に小ぜり合いがおこり、そうこうしていると鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに、御香宮神社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(のちの巌)の指揮により、御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対して砲撃を開始します。

敵方の陣営より少し高い位置にあったこの地は、砲撃にはもってこいの場所だったようです。


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これに対して土方歳三の率いる新選組は、砲撃の火蓋切って応戦しますが、やがて薩摩軍の放った砲弾が奉行所を炎上させ、新選組をはじめとした旧幕府軍は徹底を余儀なくされ、市街戦へと持ち込まれました。


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新選組二番組隊長である永倉新八は、島田魁、伊藤鉄五郎など10名の配下とともに重い甲冑を脱いで身軽となり、「決死隊」と称して御香宮神社の薩摩本営に向けて斬り込んできますが、戦局を変えることができぬまま圧倒的な火力の前に撤退させられています。


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本殿です。

激戦のなか、奇跡的に戦火を免れました。


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境内には、「明治維新伏見の戦跡」と刻まれた石碑があります。


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明治100年を記念して建てられたもののようで、揮毫は当時の内閣総理大臣佐藤栄作によるものだそうです。


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その横には、説明版が。


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説明板の最期には、こうあります。

「かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上、否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。」


見事な薩長史観ですね。

このような戦争賛美の文面を内閣総理大臣の名が記された看板でうたうのは、いかがなものでしょう?


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ここからは私見ですが、わたしは、鳥羽伏見の戦いを含む戊辰戦争は、する必要はなかった戦争だと思っています。

幕府はすでに政権を朝廷に返上しており、王政復古の大号令の名のもと、新時代のイニシアティブは薩長にありました。

もちろん、旧幕臣たちの不満の火種が各地で燻ってはいましたが、そのトップである徳川慶喜が恭順を示していたのだから、本来、戦をする理由はなかったのです。

ところが、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、薩長は無理にけしかけて戦争に持ち込みます。

しかも、偽の錦旗まで用意して。

そうしてできたのちの明治政府が、この戦いを「義戦」と位置付けるんですね。

戦争に「義戦」なんてものはありません。

戦争は単なる「勢力争い」です。

戊辰戦争は、薩長の新政権が、いったんは白旗を挙げている旧政権に対して、無理やりけしかけて兵を挙げさせ、再び息を吹き返さないように息の根を止めた戦争です。

明治維新から150年が過ぎて平成も終わろうとしている今、そろそろ薩長史観から脱却せねばなりません。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-09 21:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その145 「伏見土佐藩邸跡」

前稿伏見長州藩邸跡前々稿伏見薩摩藩邸跡を見て回ったので、となれば、次は土佐藩邸跡に行かないわけにはいきません。


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土佐藩邸跡の石碑は、長州藩邸から300mほど東に建てられています。


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慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、土佐藩兵は警備についてはいましたが、前藩主山内容堂は、この戦いは薩摩・長州会津・桑名私闘と考え、戦いに参加しないように藩士たちに命じていました。

前年に薩摩藩と同盟を結んでいた土佐藩でしたが、土佐藩は薩長と少し事情が違っていました。

関ヶ原の戦いで徳川家に楯突いた島津家、毛利家と違い、山内家は関ヶ原の戦いの戦功で土佐国24万石を与えられた歴史を持つ徳川家恩顧の大名でした。

なので、容堂としては、できるだけ徳川家と敵対したくなかったんですね。


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しかし、藩大目付の板垣退助が、戦いが起こったときには薩摩藩に味方するように藩士たちに言い含めていたため、一部の兵が容堂の命令に背いて薩摩藩に加わり戦いました。

板垣はもとより武力倒幕論の持ち主で、薩長に遅れまいと水面下で動いていたんですね。

その甲斐あって、のちの明治政府では土佐藩が薩長土肥3番手の座に座ることとなります。

しかし、1、2番手と3番手の差は、あまりにも大きかったのですが。


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伏見薩摩藩邸跡の石碑には坂本龍馬の名が刻まれていましたが、こちらには石碑にも説明板にもまったくその名がありません。

寺田屋には頻繁に出入りしていた龍馬でしたが、ここ土佐藩邸には寄り付くことはほとんどなかったようです。

脱藩浪士という立場ですから、当然ですが。




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# by sakanoueno-kumo | 2018-10-06 15:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)