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どうする家康 第20話「岡崎クーデター」 ~大岡弥四郎事件~

どうする家康 第20話「岡崎クーデター」 ~大岡弥四郎事件~_e0158128_19584314.jpg武田信玄の死後、徳川家康は武田に奪われた領土をいったんは奪還しますが、これに対して、信玄の後継者となった武田勝頼は攻勢に出て、天正2年(1574年)正月には東美濃の明智城が攻め落とされ、4月には犬居城の戦いで徳川軍が大敗を喫し、6月には遠江の高天神城を奪還されるなど、武田の猛攻によって、たちまち徳川は劣勢となりました。武田勝頼といえば、名門武田氏を滅亡に追いやった愚将として語られることが多いですが、ドラマで描かれていたように、決して無能な人物ではなかったんですね。信玄が死んだことによって家康は窮地を脱したという後世のイメージは、武田氏滅亡という結果から逆算してついたものでしょう。実際には、家康のピンチはまだまだ続いていました。


 そんななか起きたのが、今回のサブタイトルの「岡崎クーデター」でした。その首謀者と伝わるのが、今回のドラマで描かれた大岡弥四郎ですが、『三河物語』『徳川実紀』では、彼の名を大賀弥四郎としています。どちらが正しいのかわかりませんが、本稿では、ドラマに合わせて大岡弥四郎説を採ります。


 『三河物語』によると、弥四郎らは武田勝頼に内通してその侵攻を手助けしようとしていたといいます。その計画とは、家康が岡崎城を来訪したという虚偽の情報を流して開門させ、侵攻してきた武田軍を城内に導くというものでした。そして城を占領し、城主の松平信康自害に追い込み、城内の家臣らの妻子を人質に取って彼らを武田に服属させ、そのうえで、家康やその家臣たちを討ち取るというものでした。しかし、クーデターメンバー内の山田八蔵(重英)が、途中で思い直して事の次第を信康にリークしました。報せを受けた信康は最初は信じなかったようですが、八蔵の提案で家来に密談を間諜させたため事は露見し、クーデターは事前に食い止められることとなったといいます。


 他方、『徳川実紀』はまったく違うシナリオを伝えます。それによると、弥四郎は算術に長じていたので家康に認められて勘定方に用いられ、のちに三河国奥郡の代官に抜擢され、やがて岡崎にいる信康からも重用されるようになったといいます。しかし、家康、信康のふたりから信任を得たことで弥四郎は増長し、岡崎城家老たちすら異見できないほどの権威を着ていたといい、家康の家臣の近藤壱岐という譜代の武士が加増となった際、弥四郎は自分が執り成しをしたためであると放言したため、怒った近藤は加増を辞去することを申し出ました。このことがきかっけで家康が弥四郎の日ごろの悪行を耳にすることとなり、弥四郎の罪を問うて家財を没収したところ、そのなかから、岡崎城を乗っ取って武田勝頼を手引きするという計画が書かれた武田方への書簡が発見され、謀反が露見したといいます。


 どちらの説が正しいかはわかりませんが、ドラマは『三河物語』をベースに描かれていましたね。まあ、そっちの方がドラマにもなるし、このあとの展開にもつなげやすいからでしょう。実際、この時期の徳川家臣団は、織田信長に付くべしとする者と、織田を見限って武田に付くべしと考える者たちとの対立があったといわれます。劇中、投獄された弥四郎が信康に吐いていた悪態は、この当時の多くの徳川家臣団の心の叫びだったかもしれませんね。この大岡弥四郎のクーデターが、のちの信康自刃事件につながったとも言われます。


 ドラマで、五徳姫がクーデター未遂を起こした弥四郎らに対して、五徳姫が「この者たちをしかと処罰なさいませ。このうえなく惨いやり方で」と言っていましたが、実際に五徳姫がそのようなことを言ったかどうかはわかりませんが、弥四郎はその言葉どおり、このうえなく惨いやりかたで処刑されます。すなわち、岡崎および浜松城下において引き回しの上、岡崎で土に埋められ、首を通行人にのこぎりで引かせるという鋸引きの刑に処せられました。また、弥四郎の妻子は磔刑に処せられたといいます。


 どうする家康 第20話「岡崎クーデター」 ~大岡弥四郎事件~_e0158128_20512604.jpgドラマでは、この事件の糸を引いていのは武田方の間諜・千代で、それを悟った瀬名(築山殿)が、千代と接触して何らかのアクションを起こそうとしていましたが、おそらくこれが、信康自刃事件につながっていくんでしょうね。実際、一説として、武田が遣わした歩き巫女が築山殿に取り入り、信康を国主にするという武田方の提案に乗り、築山殿が謀反に参画していたという話もあります。それが露見するところとなり、信康自刃事件となった、と。ドラマでは逆に瀬名から千代に近づいていましたから、この逸話をベースに、何かオリジナルの展開を考えているのでしょうね。いずれにせよ、周知のとおり結末は悲劇です。どんな話になるか楽しみですが、その前に、次回は長篠の戦いですね。



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# by sakanoueno-kumo | 2023-05-29 20:02 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)  

八王子城攻城記。 その1 <登山口~金子丸~柵門跡>

過日、東京出張の折、1日だけオフがあったので、かねてから行きたかった東京都八王子市にある八王子城跡を訪れました。

八王子城は、小田原城を本拠とする北条氏の3代目・北条氏康の三男で、北条氏政の弟にあたる北条氏照が、小田原城の支城として築いた城です。


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城の縄張りは、標高445 m、比高約240 m深沢山(城山)山上に築かれた要害部と、麓の居館部に分けられます。

この日は、まず山上の城跡を目指しました。


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登山口には、タイルに印刷された案内板がありました。


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「史蹟 八王子城跡」と刻まれた石碑があります。


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登山口には鳥居があります。

現在、山頂の城跡には八王子神社が鎮座しており、登山道はその参道になっています。

いざ、出陣!


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ここを訪れたのは令和4年(2022年)86日。

真夏の登山道は雑草が生い茂っています。


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誘導看板には、「金子曲輪・本丸」の文字が。


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石垣跡がありました。

でも、おそらくこれは城跡の遺構ではないでしょうね。

きっと、かつて参道に石垣があったのでしょう。


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石の鳥居があります。


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鳥居を過ぎると石段が。

これも、おそらく城跡の遺構ではなく、神社の参道の名残でしょうね。


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水路かな?


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登山口から上るとこ約10分。

長細い削平地に出ました。


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標柱には「金子丸」とあります。

さっきの誘導看板にあった金子曲輪ですね。


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説明板によると、金子三郎左衛門家重が守っていたと伝わる曲輪だそうです。

金子家重なる武将をわたしは知りませんが、おそらく北条方の武将でしょうね。


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天正18年(1590年)623日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝を総大将とする北国勢35000の大軍が侵攻。

このとき、八王子城主の北条氏照をはじめ主力は小田原城に詰めており、八王子城には留守を預かる横地吉信、狩野一庵ら老武将を中心に、農民、職人、さらには妻子も含めた人々が籠城していました。

その数は4000とも、わずか1000に過ぎなかったともいわれます。

横地らは必死に抗戦するも、多勢に無勢、わずか1日で落城してしまいました。


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初老の叔父さんが読書中でした。


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引き続き山頂を目指して行軍します。


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七合目


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また削平地に出ました。


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駒札には、「柵門跡」とあります。

名前の由来など詳しいことは不明とのこと。


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まだまだ登山道はつづきます。


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しばらく登ると、茂みのなかに石碑を見つけました。


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「東京和合講社先達 邨井天界霊」と刻まれています。

意味はわかりません。


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見晴らしのいい場所に出ました。


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この日はあいにくの曇り空で靄っていて、さらに東京の土地勘がないこともあって、この景色がどこのものかがよくわかりません。


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登山口から約20分、何か建物が見えてきました。

ようやく山頂の城域に着いたようですが、長くなっちゃったので、「その2」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2023-05-25 22:27 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

どうする家康 第19話「お手付きしてどうする!」 ~武田信玄の死と足利義昭の追放、お万の方の懐妊~

 三方ヶ原の戦い徳川家康をこてんぱんにやっつけた武田信玄は、まさに破竹の勢いといえる快進撃で西上を進めますが、その途中に血を吐いて倒れ、そのまま病死したと伝わります。歴史は武田信玄を時代の覇者に選びませんでした。


 通説では、信玄は若い頃からたびたび体調を崩すことがあったといわれ、このときも、三方ヶ原の戦いから約1ヶ月半後の野田城の戦いあたりからたびたび喀血するなど持病が悪化し(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検のときに喀血が再発したとも)、武田軍の突如として進撃を停止して長篠城療養するために軍を返します。そこで近習や一門衆によって話し合われ、甲斐への撤退が決まりますが、その帰路、甲斐に戻ることなく没したと伝わります。享年53。


 どうする家康 第19話「お手付きしてどうする!」 ~武田信玄の死と足利義昭の追放、お万の方の懐妊~_e0158128_16514833.jpg信玄の死因については様々な説がありますが、大きく2つにわけて、胃がん説肺結核説があります。胃がん説は『武田三代記』『甲陽軍鑑』に見られる説で、現在最も有力視されています。胃がんは末期には吐血下血などの症状が激しくなるといいますから、血を吐いて倒れたという伝聞にも一致します。しかし、信玄はかねてから血を吐く持病があったともいわれ、この説を信用すると、当時の医学で胃がんを患った人が何年も生きているなんてことは考えづらく、そうなると、同じく血を吐く症状のある肺結核説のほうが真実味があるかもしれません。もっとも、肺結核は感染しますから、もし信玄が何年も前から肺結核を患っていたとすれば、家臣たちに感染らないよう隔離されていて、とても上洛できるような身体ではなかったんじゃないかと・・・。たしか、中井貴一さんが演じた大河ドラマ『武田信玄』では、結核説を採っていましたね。


 ちなみに胃がんだと「吐血」、肺結核だと「喀血」というそうです。「吐血」は食道などの消化管からの出血で、黒っぽい血を吐くことが多いそうですが、「喀血」は、からの出血のため、真っ赤な鮮血を吐くそうです。


 信玄はその死に際して、自らの死を3年間秘匿するよう遺言したと言われています。ところが、実際には信玄の死はすぐに知れ渡っていたようで、徳川家康上杉謙信織田信長も、かなり早い段階で信玄の死を確信していたようです。テレビも新聞もインターネットもない時代ですが、当時の有力武将たちは、間者を何人も持ち、諜報活動にはぬかりありませんでした。逆にわざとガセネタを流して混乱させる場合もあるのですが、信玄の死の情報の場合、あからさまに兵を撤退するという不可解な行動をみれば、諜報活動などなくともバレバレだったんじゃないでしょうか。


 どうする家康 第19話「お手付きしてどうする!」 ~武田信玄の死と足利義昭の追放、お万の方の懐妊~_e0158128_12084744.jpgただ、信玄の死を知らなかったっぽい人物がひとりいました。将軍・足利義昭です。義昭は三方ヶ原の戦いから約2か月後の元亀4213日(1573326日)に反信長の兵を挙げました。義昭は信玄の西上を期待していたのでしょう。三方原での敗戦によって、信長の領国である尾張美濃は、いつ武田軍に攻め込まれてもおかしくない状況になりました。そのため、信長はただちに本国防衛に力を入れなければならず、しかし、そうなると、京都、畿内の兵力は手薄になる。このチャンスに、武田、朝倉、浅井といった反信長勢を集結させれば、一気に形勢逆転できる。義昭はそう考えていたに違いありません。信長への積年の不満が、ここで一気に吹き出したのでしょう。しかし、このときは信長が正親町天皇を動かし、その調停によって、いったんは和睦します。


 ところが、同年7月、義昭はまたまた打倒信長に動き出します。しかし、頼みの綱の信玄は、この3か月前に死去していました。義昭はそれを知らなかったのでしょうね。義昭の挙兵は信長の差し向けた大軍によって瞬く間に鎮圧され、義昭は命こそ取られませんでしたが、信長によって京から追放されました。ここに、15代続いた室町幕府は滅亡しました。「滅亡」と言っても死んだわけではないので、まだちょこちょこ悪あがきをするんですけどね。実質的には、ここが足利政権の終焉だったといっていいでしょう。


 このあと、信長はすぐさま浅井、朝倉攻めを開始するのですが、ドラマではまったく描かれず、いきなりお市の方と娘たちが救い出されたシーンになっていましたね。まあ、浅井、朝倉攻めは主人公の家康が関わっていない歴史ですから、割愛されても仕方がないでしょうけど。


 どうする家康 第19話「お手付きしてどうする!」 ~武田信玄の死と足利義昭の追放、お万の方の懐妊~_e0158128_20512604.jpg今回のサブタイトルは「お手付きしてどうする!」ですから、家康のお手付きとなった万の方についても少しだけ。家康の側室は子を産んだ女性だけでも11いますが、万の方は、家康の次男で、のちに結城秀康となる於義伊の生母です。通説では、ドラマで描かれていたとおり、はじめは正室の築山殿(瀬名)侍女をしていて、のちに家康の侍女となり、家康のお手付きとなったといわれますが、築山殿の侍女だったという当時の記録は残っておらず、史実かどうかはわからないようです。ただ、万の方は築山殿によって家康の正式な側室として認められず、したがって浜松城での出産も許されず、追放されました。伝承では、嫉妬に狂った築山殿が、お万の方を浜松城内の木に縛り付けて折檻したとも言われますが、歴史家・黒田基樹氏の著書『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』によると、側室を決めるのは正妻の権限であり、万の方は正妻の築山殿が側室として承認していなかったにもかかわらず懐妊したため、その慣わしによって城外に追放したと説かれています。それが、江戸時代になって、妻の嫉妬などという矮小化した理解になっていった、と。ドラマも、その解釈で描かれていましたね。第10話で、家康の側室選びオーディションがコミカルに描かれていましたが、ここで万の方を追放した理由付けをするための伏線だったわけですね。なるほど。


 ちなみに、築山殿が万の方を木に縛り付けて折檻したという伝承は、ドラマでは逆に、万の方が築山殿の同情を買うために仕込んだ策だったという設定でしたね。なるほど、ドラマの瀬名は悪女じゃないですから、上手い設定だったとは思いますが、そもそもそこまでして描かないといけない伝承でもない気もしますが。


 その後、万の方は城外の豪農・中村源左衛門に屋敷にて於義伊を産みますが、上述した経緯から、家康はしばらくの間、於義伊をわが子として認知しませんでした。認知されるのは、築山殿の死後のことです。それもあって、築山殿の嫉妬説が人口に膾炙されていったのでしょうね。


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# by sakanoueno-kumo | 2023-05-22 12:20 | どうする家康 | Trackback | Comments(10)  

どうする家康 第18話「真・三方ヶ原合戦」 ~三方ヶ原の戦い~

 遠江を瞬く間に制圧していった武田信玄は、徳川家康の本城である浜松城を目の前にして、突如、進路を西に変えて三方ヶ原台地に上がり、そのまま浜松城を無視して三河に向かう姿勢を示します。徳川方は、武田軍が浜松城に攻め寄せてくると考え、籠城戦で迎え討つべく準備を進めていたところ、意表を衝かれた格好となりました。そこで家康は、急遽、作戦を変更。一部家臣の反対を押し切り、武田軍を背後から襲う積極攻撃策に打って出ます。


どうする家康 第18話「真・三方ヶ原合戦」 ~三方ヶ原の戦い~_e0158128_20183912.jpg 三方ヶ原を通過する武田軍を背後から突こうと出撃した徳川軍でしたが、武田軍はその心を読み、三方ヶ原を通過せずに待ち構えていました。およそ2万5千と伝わる武田軍に対して、徳川軍は半分以下の約1万(諸説あり)。しかも、野戦を得意中の得意とする信玄ですから、若い家康が太刀打ち出来るはずがありません。徳川軍はわずか2時間あまりで大敗北を喫します。敗走する徳川軍を武田軍は執拗に追撃し、家康の身代わりになって討死したと伝わる夏目広次(吉信)、鈴木久三郎らをはじめ、ドラマで描かれていた本多忠真、鳥居忠広、成瀬藤蔵ら三河譜代の家臣たちの多くが討死しました。からくも逃げ切った家康は、恐怖のあまり鞍の上に脱糞したといわれ、それを部下に指摘されると、「これは味噌だ!」と反論したなんて逸話もあります。家康はこのときの大失策を今後の戒めにするため、「しかみ像」と呼ばれる肖像画を書かせたという逸話は、あまりにも有名ですね(異説あり)。


 どうする家康 第18話「真・三方ヶ原合戦」 ~三方ヶ原の戦い~_e0158128_20231152.jpgなお、逃げ戻った浜松城で、酒井忠次が一計を案じ、かがり火を焚かせて城門を開け放ったため、これを見た武田軍が、何か計略があるのではないかと疑って攻めなかったという逸話がありますが、これは同時代の史料には見られず、後世に作られた話のようです。おそらくこれは、『三国志演義』に出てくる諸葛孔明の逸話「空城の計」を真似た作り話でしょう。『三国志』は歴史書ですが、『三国志演義』は小説です。それによると、の軍師だった諸葛孔明は、少数の軍勢で魏の大軍に攻め込まれるピンチに陥ったとき、城門を開かせ、自らは楼上に上ってを弾きながら敵を向かえました。これを見た敵軍の司馬仲達は、何か計略があるに違いないと勘ぐって兵を退いたと伝えられます。酒井忠次はこれを真似たわけですね。ドラマでは描かれていませんでしたが、忠次はこのとき威勢よく太鼓を叩いたといわれ、後世に「酒井の太鼓」として伝えられています。まあ、史実じゃないようですけどね。ドラマでは、浜松城の作戦が「空城の計」の故事を真似たものだと気づきながら、先を急ぐ武田信玄があえて見過ごしたという展開でしたね。このあたりは、伝承と創作を上手く絡めた脚本だったんじゃないでしょうか。


 今回フィーチャーされた夏目広次についてですが、これまで家康から再三にわたって名前を間違えられていましたが、夏目広次の名乗りは、通説では「吉信」となっていました。ところが、近年発見された古文書により、この頃の名乗りは「広次」だったことが判明したそうです(むしろ、逆に吉信の名乗りは一級史料では確認されていません)。ドラマで描かれていた「吉信」から「広次」への改名エピソードは、これを題材にした脚本家のオリジナルでしょうね。また、その夏目広次(吉信)が家康の身代わりになって討死したという話は、『徳川実紀』に記されています。それによると、


 夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに、からうじて濱松に歸りいらせ給ふ。(中略)君敵中に引かへしたまふをみて。手に持たる鑓の柄をもて御馬の尻をたゝき立て。御馬を濱松の方へをしむけ。その身は敵中にむかひ討死せしとぞ。


 とあります。ここでは、吉信(広次)は自らの馬に家康を乗せて濱松まで逃げ戻らせ、自身は敵中に打って出て討死したとあります。ドラマでは、馬ではなく家康の具足を着て敵中に打って出て討死するという描かれかたでしたね。おそらく、これは脚本家のオリジナルでしょう。ただ、夏目広次が家康の身代わりとなって討死したという話は、史実とみてよさそうです。また、ドラマには出てきませんでしたが、鈴木久三郎という家臣も、家康から軍配を奪い取って敵中に打って出て、家康の身代わりとなって死んだと伝えられます。おそらく、他にも同じように家康の身代わりとなって死んでいった名前も伝わっていない家臣がたくさんいたでしょう。大きな代償を払うことになった三方ヶ原の戦いでした。


 「わしは皆に生かされた。決して無駄にはせぬ。」


 劇中、浜松城に逃げ戻った家康が涙ながらに語った台詞ですが、確かに、そんな心境だったかもしれませんね。後年、天下人となった豊臣秀吉が、諸大名が顔を並べた席でそれぞれの宝物をたずねたところ、家康は、「我が宝は、我のために命を投げ出す家臣なり」と答えたといい、それを聞いた秀吉が、「そのような宝を私も欲しい」と言ったという逸話があります。この話が実話だとしたら、その思いの原点はこの三方ヶ原の戦いだったかもしれません。



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# by sakanoueno-kumo | 2023-05-15 20:27 | どうする家康 | Trackback | Comments(10)  

どうする家康 第17話「三方ヶ原合戦」 ~信玄の進軍ルートと一言坂の戦い~

 いよいよ徳川家康の人生最大のピンチと言われる三方ヶ原の戦いに突入します。


元亀2年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭織田信長討伐令を出し、これに応えるかたちで武田信玄は、徳川の領国である遠江国、三河国に侵攻する西上作戦を行います。信玄の西上を可能にしたのは、相模国北条氏康が死んだことで再び北条氏と和睦して甲相同盟を結び、後顧の憂いが絶たれたことにありました。信玄は破竹の勢いで侵攻し、徳川領の支城を次々と落としていきます。


どうする家康 第17話「三方ヶ原合戦」 ~信玄の進軍ルートと一言坂の戦い~_e0158128_16514833.jpg 信玄の侵攻ルートについて、長年にわたって通説となっていたのは、諏訪の方のへ回って信濃から高遠、飯田天竜川を南下してきて、青崩峠を越えて遠江に入ってきたといわれてきましたが、近年、今回のドラマの時代考証を担当されている芝裕之氏や、歴史家の本多隆成氏らの研究により、従来の通説を大幅に改める新説が出されました。それによると、信玄本隊富士川筋から南下して駿河に入り、そこから西進して大井川を渡り、遠江へと侵攻してきたとしています。では、従来の通説だった天竜川を南下するルートはなかったのかというと、山県昌景、秋山虎繁らが率いる別動隊がそのルートだったようですね。別動隊は青崩峠を越えて三河に向かい、さらに遠江に進軍して二俣城の攻略時に本隊と合流しました。他方、信玄本隊は駿河から遠江に入り、海岸伝いに進んで高天神城を落としたあと、袋井から見附へと進軍したというのが、現在有力視されている新説です。今回のドラマでも新説に基づいて、鳥居彦衛門元忠から「駿河方より高天神城に向かう大軍ありとのこと!」との報告があり、家康が「高天神はやすやすとは落ちぬ」というも、瞬く間に落とされていましたね。あれが信玄本隊でしょう。


どうする家康 第17話「三方ヶ原合戦」 ~信玄の進軍ルートと一言坂の戦い~_e0158128_20522943.jpg 高天神城を落として見附方面へ向かった信玄は、徳川の本城である浜松城と支城の掛川城、高天神城を結ぶ要所・二俣城攻めに向かいました。また、山県ら別動隊も、二俣城に向かいます。二俣城を取られることを避けたい家康は、本多平八郎忠勝、内藤信成らを偵察隊として向かわせますが、その途中、武田の先発隊と遭遇します。偵察隊はすぐに退却するも、武田軍は素早い動きで追撃し、太田川の支流・三箇野川一言坂で戦いが始まりました。ドラマでは相手は山県昌景となっていましたが、通説では馬場信春隊だったようです。忠勝らは絶体絶命の危機に陥りますが、無謀ともいえる敵中突破でからくも戦場を離脱し、浜松に撤退しました。ドラマで血まみれになって平八郎と叔父の本多忠真が帰参していましたが、この一言坂の戦いでの負傷でしょう。


 その後、二俣城を落とした信玄は、いよいよ家康の本拠である浜松城を攻める進路を取ります。これに対して家康は、織田から送られた援軍と共に籠城戦で迎え討つべく準備を進めます。ところが、武田軍は途中で急に進路を西に変えて三方ヶ原台地に上がり、そのまま浜松城を無視して三河国に向かう姿勢を示します。これを知った家康は、急遽、作戦を変更。一部家臣の反対を押し切り、武田軍を背後から襲う積極攻撃策に打って出るんですね。


 信玄がなぜ進路を変えたかについては、あえて浜松城を無視することで家康を挑発し、得意の野戦に持ち込むためだったと言われますが、確かなことはわかりません。当時、信玄は百戦錬磨51歳。一方の家康は31歳の血気にはやる武将で、自分の庭を土足で通る武田軍を許しがたく、まんまと信玄の挑発に乗った、というのが一般的な見方です。また、ここで武田軍が通り過ぎるのを指をくわえて見ているようでは、家臣や国人衆たちから見限られる恐れがあったからかもしれません。ドラマでは、家康の嫡男・信康や妻の瀬名が住む岡崎を攻めさせないためという理由でしたね。いずれにせよ、家康は敗北を恐れずに打って出る覚悟を決めます。


 勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む


 孫子の言葉ですね。戦いに勝つ方は、まず勝算が立ってから戦いに挑み、負ける方は、戦いが始まってから勝つ方法を考える・・・といったところでしょうか。その論でいえば、後年の家康は間違いなく前者であり、このときの家康は、間違いなく後者でした。その結末は、次週に持ち越しですね。


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# by sakanoueno-kumo | 2023-05-08 20:58 | どうする家康 | Trackback | Comments(0)