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麒麟がくる 第6話「三好長慶襲撃計画」 ~足利義輝、細川晴元、三好長慶~

 今回は細川晴元三好長慶覇権争いが主体の話でしたね。この2人の関係を見るには、まずはこの時代の政局について知る必要があります。


麒麟がくる 第6話「三好長慶襲撃計画」 ~足利義輝、細川晴元、三好長慶~_e0158128_16120757.jpg 足利義輝が将軍職に就いていたこの時代、室町幕府の権威は地に落ちたも同然の状態でした。この時代より80年ほど前に起きた応仁の乱を幕府が収拾できなかったことで、将軍の存在意義がなくなってしまっていたんですね。代わって実権を握ったのが、幕府ナンバー2のポジションにあった管領、特に細川氏でした。室町幕府の管領は当初、斯波氏、細川氏、畠山氏の三家(三管領家)が持ち回りで務めましたが、これも応仁の乱以降、細川氏以外の二氏は急速に勢力を失い、細川氏が独占するようになっていました。本来、管領は将軍を補佐する立場だったのですが、いつしか彼らは将軍の言うことなど聞かなくなり、むしろ、歯向かえば逆に攻撃してくるほど力関係は逆転していた状態で、義輝の祖父の代には、将軍家は京を追われて近江国に逃れていました。そのため、義輝が生まれたのも、近江国だったといいます。


麒麟がくる 第6話「三好長慶襲撃計画」 ~足利義輝、細川晴元、三好長慶~_e0158128_16120457.jpg そんな細川氏の中でも、権力争いが絶えませんでした。父の死によって7歳で家督を継いだ細川晴元は、13歳のとき、父の政敵だった細川高国打倒の兵を挙げ、この戦いに勝利します。このとき晴元の力となったのが、三好長慶の父・三好元長でした。三好氏は阿波細川氏に代々仕える譜代の臣で、この功績により、更に重臣としての地位を高めます。しかし、その関係も長くはつづかず、三好元長が細川高国との和睦を図ったことによって不仲となります。その後も両者は勢力争いのなかで対立、和睦を繰り返しますが、やがて元長は晴元によって自害に追い込まれます。そうすると、今度は元長の嫡男・長慶と和睦して配下に組み入れます。この晴元と長慶の関係も、ひっついたり離れたりを繰り返すのですが、ドラマのこの時期は、関係が悪化していた時期ですね。ネタバレになりますが、晴元はやがて長慶によって失脚させられます。まあ、長慶にしてみれば、父の仇ですからね。当然の反逆だったといえるでしょう。


 なぜ晴元は、対立と和睦を繰り返しながらも三好氏を配下に組み入れたかというと、激しい覇権争いの続くなか、政権を維持するには三好氏の武力を頼るしかなかったんですね。


 将軍・足利義輝は、父の足利義晴とともに晴元によって京を追われていましたが、ドラマのこの前年に晴元と和睦し、京に戻ってきていました。ドラマで三好長慶と松永久秀の襲撃計画を聞きつけた明智光秀が、三淵藤英細川藤孝に助けを求めにいったところ、三好も松永も昨年までは争っていた間柄で、駆けつける理由がないと断っていましたが、そういう背景からの台詞だったわけです。


 ドラマでは三好長慶と松永久秀を助けるために家臣を現場に向かわせた義輝でしたが、この翌年には長慶と対立することとなり、これもネタバレになりますが、この15年後、松永久秀と三好一族の三好三人衆によって殺害されます。まさに、昨日の友は今日の敵。誰と誰が味方で誰が敵か、わけのわからない時代でした。つくづく、こんな時代に生まれなくてよかったと思います。いちばん恐るべきは隣国の敵よりも有力な家臣、そんな時代だったんですね。その秩序の乱れを、「何かが違う」と憂うドラマの光秀。もっとも、明智光秀その人こそ、日本史上最も有名な反逆事件を起こすことになるんですけどね。



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# by sakanoueno-kumo | 2020-02-25 16:14 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)  

近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>

「その2」で紹介した坂本城本丸跡から県道を挟んで西側が、かつて二ノ丸だったとされています。

二ノ丸跡を歩いてみましょう。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16071725.jpg


二ノ丸跡の真ん中あたりに、「坂本城址」と刻まれた石碑説明板がありました。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16072691.jpg


石碑は大正4年(1915年)に立てられたもののようです。


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説明板です。


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後ろの赤い傘は、観光客用の演出でしょうか?


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石碑から50mほど東にある東南寺です。

ここも、かつては坂本城の一部でした。


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境内奥の石仏を積み上げた場所は、本能寺の変後に坂本城が落城した際、明智方の将士を葬った首塚と伝わるそうです。

ここを訪れたときはそのことを知らず、後にネットで調べて知ったので、アップの写真がありません。

痛恨です。

明智光秀の重臣だった明智左馬助秀満は、安土城で光秀の死を知ると、有名な「明智左馬介の湖水渡り」でここ坂本城に入り、しばらく防戦しますが、最後は自ら城に火を放って自害したといいます。

この首塚のなかに、左馬助の首もあるかもしれません。


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南北に走る旧大道です。


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この道を境に、東が二ノ丸、西が三ノ丸だったそうです。


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石碑に書かれた説明文によると、この大道はかつて坂本城のだったそうで、坂本城廃城後、埋め立てられて北国へ通じる大道を作ったそうです。


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三ノ丸跡を歩きます。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16241931.jpg


グーグルマップに坂本城外堀跡という表示があったので、その場所に来てみたのですが、

南に両社神社、北に酒井神社があるものの、外堀跡を示す遺構や石碑などがありません。

どこでしょう?


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こちらは酒井神社。


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こちらは両社神社。

どちらも、広島藩主の浅野長晟が建立した神社だそうです。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16242219.jpg


両社神社の石垣です。

なんとなく城跡っぽいですね。

グーグルマップの表示はここを指していたので、写真を撮りました。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_18521948.jpg


さて、二ノ丸、三ノ丸を制覇しましたが、もうちょっとシリーズを続けます。

「その4」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-02-22 11:26 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>

「その1」で紹介した坂本城址公園から150mほど北上したところに、かつて坂本城本丸があったとされます。

現在、その場所には、「坂本城本丸跡」と刻まれた石碑があります。


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石碑の説明文は読みにくいですが、こうあります。


坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。

天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。


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ここは以前、企業の研修所があったようですが、ここを訪れた平成30年(2018年)8月現在、企業さんが手放されたのか、看板が撤去された無人の建物だけになっていました。

「その1」にあった案内MAPによると、この本丸跡の湖岸に坂本城の石垣があるといいます。

行ってみましょう。


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湖岸にやってきました。

たしかに石垣があります。


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これがそうでしょうか?


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確かに石垣の遺構のようにも見えますが、後世のもののようにも思えますが、あとで調べてみると、石垣の遺構は琵琶湖が渇水して水位が下がったときのみ姿を表すそうなので、これは違うようです。

まぎらわしいですね。


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ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』には、坂本城についてこう記されています。


「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」


フロイスの個人的な感想ではありますが、彼の目には安土城に勝るとも劣らない豪壮華麗な城に見えたようです。


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20520379.jpg


本丸跡から見た琵琶湖北東の対岸です。

たぶん、写真左端に見える山々の一角が、安土城だと思うのですが・・・。


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さて、本丸を制覇したので、二ノ丸、三ノ丸に向かいます。

「その3」につづきます。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-02-21 00:24 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>

近畿の水がめ琵琶湖の南湖西岸に、かつて明智光秀が築いた坂本城がありました。

現在、その遺構は都市化によってほとんど残っていませんが、城跡周辺を歩いてみました。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_22512642.jpg


まず訪れたのは、琵琶湖畔に整備されている坂本城址公園

その入口には、「坂本城址」と刻まれた石碑が立ちます。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_22524480.jpg


西側を振り返ると、比叡山が見えます。

元亀2年9月12日(1571年9月30日)、織田信長は比叡山を焼き討ちにしますが、その中心実行部隊として活躍した明智光秀に近江国滋賀郡5万石を与え、ここ坂本城の築城を命じました。

その目的は、比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得だったといいます。

たしかに、比叡山を監視するには絶好の場所かもしれません。

もっとも、比叡山から見下されているという気もしないでもないですが。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_22540036.jpg


公園内には、石碑や説明板、それから光秀の像もあります。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_22574287.jpg


まずは光秀像


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微妙・・・・。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_22574969.jpg


五木ひろしさんみたい(笑)。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_22575380.jpg


以前、福井城の結城秀康像の稿(※参照)や、三木城の別所長治像の稿(※参照)でも述べましたが、どうも、平成に作られたであろう新しい像は安っぽい

どう見ても戦国武将には見えず、三国志の騎馬武者って感じに見えます。

どれも同じ作者に見えますね。

三木城の別所長治像なんて、着物が左前の死人襟(死人合わせ)になっていて、ひどいものでした。

中国で低予算で作らせているんじゃないかと。

明治から昭和初期に作られた像は、どれも立派なものばかりですからね。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_23030247.jpg


像前の業績碑


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_23030641.jpg


その横の歌碑です。

われならで 誰かは植ゑむ 一つ松 心して吹け 志賀の浦風 光秀

かつてこの近くにあった「唐崎の松」という名木が、大風によって枯れたしまい、それを惜しんだ光秀が詠んだとされる歌です。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_23040814.jpg


こちらは、「光秀の意地」の碑。

唄うは鳥羽一郎さんだそうです。

聞いたことねーっ!

五木ひろしさんだったら、さっきの像とリンクするんですが(笑)。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_23091042.jpg


こちらは案内板。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_23091369.jpg


地図を拡大します。

なんだ、ここ城跡公園は、城の縄張りの外じゃないか!

本丸、二ノ丸跡はもう少し北、三ノ丸跡はもう少し西にあったようです。

本丸跡も湖岸に、「坂本城石垣」と記載されています。

あとで探しに行ってみます。


近江坂本城跡を歩く。 その1 <坂本城址公園>_e0158128_23101702.jpg


公園から湖岸に通じているようです。


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琵琶湖です。

南東に見える高いビルは、大津のホテルです。


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こちらは東側。


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そして、こちらは北東側。

対岸の右に見える富士山のような形の山は、近江富士と呼ばれる三上山です。

ということは、写真右側の遠くに見える山々のあたりに安土城があるはずです。


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さて、「その2」では、本丸跡付近を歩きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-02-20 11:48 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

麒麟がくる 第5話「伊平次を探せ」 ~鉄砲伝来と細川藤孝との出会い~

 今回は、斎藤利政(のちの道三)の命を受けた明智光秀が、将軍家が鉄砲を大量に必要としているかを探るべく、近江国、そしてを訪れる話。もちろんフィクションです。鉄砲がはじめて日本に伝わったのは、天文12年(1543年)のこととされていますから(異説あり)、ドラマのこの当時は、まだ4、5年しか経っておらず、それほど世に出回っていない時代です。ドラマでは「鉄砲」という言葉が使われていますが、「鉄砲」という言葉が既にあったかどうかはわかりませんが、この当時の火縄銃の名称は、伝来した場所からとって「種子島」と呼ばれていたはずです。革新的な製品が誕生したとき、その生産者や生産地の名称がそのまま製品名になるというのは、今も昔もよくある話ですね。わたしが社会人になった30年ほど前、上司たちはコピーを取ることを「ゼロックスする」といっていましたが、あれと同じでしょうか? 若い人は知らないでしょうね(笑)。ちなみに、わたしの部下は、いまも紅茶のことを「リプトン」と呼んでいますが、あれは彼だけです(笑)。


鉄砲を種子島に持ち込んだのは、中国船に乗っていたポルトガル人のフランシスコキリシタダモッタの2人とされています。このフランシスコを、かの宣教師フランシスコ・ザビエルと混同して覚えている人がよくいますが、別人です。ザビエルが日本に来たのは鉄砲伝来より四半世紀のちの天文18年(1569年)のことで、上陸したのも種子島ではなく鹿児島。持ち込んだのも鉄砲ではなくキリスト教でした(献上品のなかには鉄砲もあったかもしれませんが)。


 種子島の島主・種子島時堯は、鉄砲を2丁買い求め、1丁は家宝とし、もう1丁を刀鍛冶八板金兵衛清定に命じて分解させ、研究させます。当時の日本にはネジというものがなく悪戦苦闘が続いたようですが、やがて国産の火縄銃、その名も「種子島」が金兵衛らによって完成すると、瞬く間に各地に生産が広まり、和泉国の、紀伊国の根来、そしてドラマに登場した近江国の国友、同じく近江国の日野などが代表的な産地となります。他にも、「鉄砲町」という地名がいまも全国各地に残っていますが、それらはすべて、鉄砲鍛冶が住む町でした。ドラマに出てきた鉄炮鍛冶の伊平次は架空の人物だと思いますが、上述した八板金兵衛清定も元は刀鍛冶だったことを思えば、的外れな設定ではないでしょうね。鉄砲も刀も武器で、しかもを材料としているという点で、刀鍛冶がそのまま鉄砲鍛冶になったという例が多かったんじゃないでしょうか。


その後、生産ラインが充実すると、戦場における新兵器として、戦国大名たちは挙って鉄砲を買い求めはじめ、やがてこれが、日本の天下統一を左右していくことになるんですね。ちなみに、戦国時代末期には、日本は50万丁以上の鉄砲を所持していたともいわれ、この当時、世界最大の銃保有国となるに至ります。話はそれますが、幕末、黒船艦隊の脅威から明治維新を迎え、わずか半世紀ほどで世界一二を争う海軍を保有するに至る日本。第二次世界大戦後の焼け野原から、わずか半世紀ほどで世界一二を争う経済大国となった日本。その是非は別として、戦国時代も現代も、わが国の適応能力の高さには目をみはるものがあります。


麒麟がくる 第5話「伊平次を探せ」 ~鉄砲伝来と細川藤孝との出会い~_e0158128_16193644.jpg のちに光秀のマブダチとなる細川藤孝(のちの幽斎)が出てきましたね。言うまでもなく細川護熙元総理ご先祖様です。光秀の盟友といえば、まず最初にこの人が思い浮かぶと思いますが、光秀と藤孝が、いつ、どのように出会ったかは史料がなく、詳しいことはわかっていません。司馬遼太郎『国盗り物語』では、斎藤道三の命により美濃を落ち延びた光秀が、諸国を流浪中に藤孝と出会い、その縁で足利将軍家の知己を得るという展開でしたが、イエズス会宣教師ルイス・フロイス『日本史』によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったが、その能力を買われ、信長の重用されていったと記されています。今回のドラマでは、いきなり刀を交えるという出会いでしたが、今後、どのように描かれるのでしょうね。


 その二人の斬り合いを制止したのが、室町幕府第13代将軍・足利義輝でしたが、たしかに義輝は「剣豪将軍」と呼ばれるほどの剣の使い手だったといわれる将軍ですが(異説あり)、無粋なことを言うようですが、ドラマの設定時はまだ数え13歳、現在でいえば小学校6年生です。向井理さん、無理がありますね(笑)。まあ、光秀にしても、一般的に通説となっている享禄元年(1528年)生まれ説でいえば、このときはまだ21歳。鷹揚に観ましょう(笑)。



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# by sakanoueno-kumo | 2020-02-17 16:24 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 番外編 <安土城考古博物館、信長の館>

「その10」の続き、番外編です。

安土城跡から車で5分ぐらいのところに、安土城関連の展示館が2ヶ所あります。

まず訪れたのは、安土城考古博物館


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ここで目を引いたのが、復元模型でした。


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上の写真は、「その3」で紹介した伝羽柴秀吉邸跡の復元模型。

上下2段に分かれた郭で構成は、まさに、さっき歩いた遺構そのままですね。

こういうのを作ってもらえると、たいへんわかりやすい。

ちなみに、右側の石段が大手道石段です。


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その大手道石段の模型。

上の写真は、安土城築城時の大手道の想像模型です。


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こちらは、昭和の発掘前の大手道

幕末の火災によって焼失した摠見寺(参照:その10)が、その後、昭和7年(1832年)に大手道脇の「伝徳川家康邸跡」に移築された際(参照:その4)、大手道の一部を埋め立てて石垣を築いたため、まっすぐ伸びていた大手道石段は姿を消し、大手道は石垣を大きく迂回するかたちになっていたそうです。


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つづいて、発掘中の大手道

往時のまっすぐの大手道石段が姿を表しました。


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そして、発掘整備後の大手道

現在の大手道ですね。

大手道の変遷がよくわかります。


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続いて、安土城考古博物館のとなりにある「信長の館」にやってきました。


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館内には、安土城天守の5階と6階が実物大で復元されています。


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35mm換算の広角レンズを使っても、全景を撮ることができません。


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安土城天守は絵図などの史料は残っておらず、その姿は定かではありません。

この復元天守は、古文書などの元に研究者が想像したもの。

つまり、復元天守ではなく、想像天守です。


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「その8」で紹介したポルトガル宣教師ルイス・フロイスの記述によると、「ヨーロッパにも例がない絢爛豪華な建物」絶賛しています。

フロイスは「ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。」と記述しており、この復元天守は、その赤の階層と、最上階の金色の階層となります。


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5階は内陣外陣囲う八角形構造になっており、内陣のなかは金箔の壁と釈迦説法図襖絵に囲まれた総朱塗りの床の中央に、2枚のが敷かれています。


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こんな部屋、落ち着かないだろうなあ。


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外陣も総朱塗りの廊下になっており、壁には双龍争珠図などが描かれています。


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黄金の最上階を見上げます。


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最上階に上ってきました。


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こちらは、フロイスの記述も『信長公記』の記録も、どちらも金色だったと伝えていますから、金箔貼りだったことは間違いないでしょう。


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も金です。


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最上階の内部は、黒塗りの柱と床をベースに、壁は総金箔貼りとなっています。


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何度も言いますが、これはあくまで想像の天守。

実際に織田信長がもしこれを見たら、ぜんぜん違う!と言って殺されるかもしれません(笑)。


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こちらは、館内にある50分の1の復元模型

こっちの方がわかりやすいです。


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そして、館内の展示で興味深かったのは、本能寺の変の約半月前の天正10年5月15日(1582年6月15日)、織田信長が武田勝頼討伐に功をなした徳川家康穴山梅雪を安土城に招待してもてなした際の饗応メニューのレプリカの展示です。

これは、詳細な献立の史料が残っているそうで、ほぼ忠実に再現できるそうです。


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こちらが本膳

問題の鮒寿司があります。

このとき、信長は魚が腐っているといって激怒し、饗応役を務めていた明智光秀足蹴にしたといい、その怨恨が、本能寺の変に繋がったという説がありますよね。

そのときの腐った魚というのが、この鮒寿司だったんじゃないかと言われています。

鮒は近江の高級食材だったのですが、海産物が豊かな尾張や三河の信長や家康にしてみれば、臭みの強い鮒は口に合わず、腐っていると勘違いしたのではないかと。

光秀にしてみれば、最高級の料理でもてなしたつもりだったのでしょうが、たしかに、現代でも好き嫌いに分かれることが多い鮒寿司のチョイスは、ちょっと失敗だったかもしれません。


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こちらは二膳

こちらにも、鮎、鯉などの淡水魚が揃っています。

鯉も癖が強い魚ですもんねえ。


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こちらは三膳

日本人はこんな昔からカニを食べてたんですね。


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こちらは与膳

また、鮒が出てきています。

鮒汁は近江の特産だそうですが、これも口に合わなかったかもしれませんね。


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そして五膳

汁は鴨の汁だそうです。


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最後に御菓子

いわばデザートですね。

すごいコース料理です。


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饗応役でのトラブルが本能寺の変に繋がったかどうかは定かではありませんが、この夜、何らかの理由で光秀が信長から叱責されたのは事実のようです。

ルイス・フロイスの記述によると、「この饗応の準備について信長は光秀と言い争いになり、怒った信長が、光秀を一度か二度足蹴にした」と伝えています。

今年の大河ドラマは明智光秀が主人公の『麒麟がくる』ですが、この饗応役のエピソードは、果たしてどのように描かれるでしょうね。


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さて、番外編まで続いた安土城攻城記でしたが、このへんで終わりにします。

長々とお付きあいいただき、ありがとうございました。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-02-16 01:55 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その10 <摠見寺跡~百々橋口道>

「その9」の続きです。

安土城跡をほぼ攻略したので、下山します。

下山道は大手道ではなく、旧摠見寺跡ルートを選びました。


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「その5」で紹介した「伝織田信忠邸址」まで戻ると、その前が大手道と摠見寺跡ルートの分岐点となっています。

摠見寺跡ルートは、かつては百々橋口道と呼ばれ、安土城の通用口でした。


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長い石段を登りきったところに、巨大な石垣が現れます。

かつてここには摠見寺裏門が建っていましたが、明治13年(1880年)に近くの超光寺移設されました。

現在も超光寺の表門として現存しています。


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裏門の石段を登ると、そこが旧摠見寺跡です。

摠見寺は安土城の築城時に織田信長によって建立された寺院です。

天主城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。


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本能寺の変によって天主付近が炎上しましたが、摠見寺は類焼をまぬがれました。

しかし、江戸時代末期の嘉永7年(1854年)に起きた火災によって、本堂など主要な建物のほとんどを焼失してしまいました。

その後、昭和7年(1832年)に「その4」で紹介した大手道脇の「伝徳川家康邸跡」に寺地を移し、現在に至っています。


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現在、旧摠見寺跡には本堂跡と見られる石垣や礎石の跡のみが残されています。


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それにしても、一向宗浄土真宗本願寺勢力などとの長い戦いや、比叡山焼き討ちなどの行為から見るに、宗教、特に仏教勢力をことのほか憎んでいたと思われる信長が、なぜ、自らの居城の敷地内に寺院を建立したのでしょう?

その理由について、イエズス会宣教師ルイス・フロイス『日本史』によると、次のように記述されています。


天正7年5月11日(1579年6月15日)、信長は安土城で自らを神とする儀式を行い、摠見寺で信長の誕生日を祝祭日と定め、参詣する者には現世利益がかなうとした。


つまり、自らを神格化しようとしていたというんですね。

このフロイスのいう信長の自己神格化については、日本側の史料で記述したものはまったく存在せず、フロイスの記述を信用するかどうかについては研究者間で争いがあり、いまも決着はついていません。

ただ、安土城の登城ルートは大手道よりこちらの百々橋口道がメインだったといわれ、また、大手道のように随所に曲輪もなく、ここ摠見寺までは誰でも登ってこれたといいます。

ここに立派な寺院があり、その向こうに寺院を見下ろすように安土城天守がそびえ、そこに信長がいる。

それを見た当時の人々の目には、まるで信長が仏様をも超越した「神」のように思えたかもしれません。


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敷地内には、享徳3年(1454年)の建立と伝わる三重塔があるのですが(安土築城時にここへ移設)、この日は改修工事中だったようで、ネットが覆われていました。

残念。


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発掘調査によると、本堂跡の奥には庫裏書院などがあったとされていますが、現在は埋め戻され展望台となっています。


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その展望台からの西側の眺望です。

眼下に広がるのは、琵琶湖に通じる西の湖


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旧摠見寺跡をあとにして、長い石段を降ります。


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石段の途中にある旧摠見寺の正門、仁王門

当時の現存建物です。


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棟木に「元亀二年(1571年)七月甲賀武士山中俊好建立」と記されており、信長の安土城築城時に近江国甲賀郡柏木神社よりここに移築されたと考えられています。


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金剛力士像も当時のものです。


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往時の参道はそのまま百々橋口に繋がっていたのですが、現在、百々橋口は封鎖されており、道は途中で迂回して「その3」で紹介した「伝羽柴秀吉邸址」に繋がっています。

現在、安土山には入山料がいるため、入り口を1ヶ所するためなんでしょうね。


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さて、これで安土城をすべて攻略しましたが、もう1回だけシリーズを続けます。

次回、「番外編」に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-02-15 00:17 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

名将、野村克也さんのご逝去を悼む。

ノムさんこと野村克也さんが11日に亡くなられました。

昭和のプロ野球界を代表する名捕手として、そして、打者としては戦後初の3冠王など数々の記録を打ち立て、監督としては、南海、ヤクルト、阪神、楽天で指揮を執り、名将と評されたノムさん。

この3日間、テレビもラジオもネットも新聞も、メディアというメディアでノムさんの話題で持ちきりのようで、あらためて、その功績の偉大さだけでなく、存在の大きさを知らされています。


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わたしの住む神戸の地方紙、神戸新聞でも12日の朝刊は1面記事でした。

さすがに、神戸新聞の写真は阪神のユニフォーム姿ですね。

阪神ファンであるわたしとしても、やはり、阪神の監督時代のノムさんを思い出さずにはいられません。


長く低迷していた阪神を再建すべく電撃招聘されたノムさんでしたが、監督在任中の成績は3年連続最下位と振るいませんでした。

「阪神の監督を受けたのは失敗だった」というのがノムさんの晩年の口癖だったといいますが、一方で、野村監督の3年間があったから、その2年後のリーグ優勝があったという声も少なくありません(2003年の優勝監督となった星野仙一氏自身がそう語っておられましたね)。

その評価が正しいのかどうかは、素人のわたしにはわかりませんが、ただ、のちに監督となる和田豊氏、矢野燿大氏をはじめ、新庄剛志氏、桧山進次郎氏、赤星憲広氏、井川慶氏など、その後もノムさんを恩師と仰ぐ選手が大勢いたことを思えば、やはり、ノムさんが阪神に残した功績は大きかったといえるのかもしれません。


ノムさんの長いミーティングというのは有名ですが、阪神の監督となって初めてのミーティングのとき、マスコミの取材に対して「監督が変わっても僕たちのやることは変わらない」と発言した当時の選手会長・和田豊選手に対し、「監督が変わっても選手が変わらないと強くはならない。君のようなチームリーダーがそんな考えだから、チームが低迷したままなんだ!」と、名指しで叱責したというエピソードは有名ですね。

以後、和田選手は自身の考えを改め、シーズンに入ってからもベンチではずっとノムさんの近くに座ってノムさんのボヤキに耳を傾けていたと。

これは、おそらく、和田選手が真面目で実直なチームリーダーだと見越した上で、あえて槍玉に挙げてチームを引き締めたんでしょうね。

野村流人心掌握術といえるでしょうか。


かと思えば、当初、誰もがノムさんのID野球と相性が合わないだろうと予想していた新庄剛志選手が、意外にもノムさんの元で花を咲かせたことは驚きでしたね。

天才肌の選手にありがちな気まぐれなところのある新庄選手でしたから、絶対ノムさんと衝突すると誰もが思っていましたが、そこは老練なノムさん、新庄選手ような選手の扱いを心得ていましたね。

いきなり新庄に投手をやらせるという斬新な手段は賛否両論でしたが、あれは真剣だったのか話題づくりだったのか、その真意はわかりませんが、あれがキッカケとなって新庄選手が打者として飛躍したのは確かです。

この度の訃報を受けて新庄氏は自身のインスタで、「宇宙人の名付け親」を冒頭に、「新庄お前はファンに愛される カッコつけて野球をやればええんや 選手に自由に野球をやりなさいって指導したのはお前だけや」といわれたというエピソードを紹介していました。

その選手によって指導法を変える。

これも、野村流人心掌握術なのかもしれません。


監督就任1年目のシーズンが最下位に終わったあと、ノムさんは全選手に反省文を書かせたそうです。

そして、それを丁寧に読み込んだ上で、一人ひとりの選手に対して、その反省文に対する所感と、来季に向けてどうすべきかの課題を書いて返したそうです。

ほとんど学校の先生ですね。

そのなかで、本人の反省文より長い返答を返されたのが、桧山進次郎選手だったそうです。

それまで、本塁打は打つものの低打率で三振も多かった桧山選手が、2年後の2001年には4番を任されて打率3割をクリア。

本塁打こそ減ったものの、中距離打者としての地位を確立しました。

桧山氏も、この度の訃報を受けて感謝の言葉を送っておられましたね。


もちろん、皆が皆、ノムさんを慕っていたわけではありません。

ノムさんが監督になったおかげで日の目を見た選手もいれば、逆に日陰に回された選手もいました。

今岡誠選手や大豊泰昭選手がそうでしたね。

今岡氏などは、いまでもノムさんのことを批判し続けています。

でも、それも仕方がないでしょうね。

誰からも慕われる指揮官なんて、長嶋茂雄さんぐらいじゃないでしょうか?


ノムさんの野球は、データ重視のID野球と言われましたが、かと言って、V9時代の川上哲治監督のように、大差で勝っていても送りバントというような面白みのない野球では決してありませんでした。

阪神の監督時代は結果的に3年連続最下位だったにせよ、それまでの阪神暗黒時代と違って、面白い話題が多かった。

新庄の投手起用にはじまり、赤星憲広選手、藤本淳史選手をはじめ俊足選手7人のF1セブン」遠山奬志投手と葛西稔投手をピッチャーとファースト間でスイッチ起用した「遠山・葛西スペシャル」など、最下位でも印象に残っている名場面がたくさんあります。

その最たる例が、新庄選手の敬遠球サヨナラ打でしょう。

もはや伝説となったサヨナラ打ですが、これも、川上監督だったら絶対許されなかったでしょうね。

いま思い出しても、野村阪神の3年間は、面白かった。

のちに楽天の監督となったノムさんが、交流戦甲子園に来たとき、阪神ファンが大歓声で迎えたことを思えば、あの3年間が無駄だったと思っている阪神ファンはいないんじゃないでしょうか。

それだけに、晩年、「阪神の監督を受けたのは失敗だった」と語っておられたというのは、阪神ファンとしては悲しい限りです。


ノムさんのID野球というのは、決してデータがすべてという考えではなく、データを材料に「考える野球」をしろということですよね。

孫子の兵法にも「敵を知り己を知れば百戦殆からず」とあるように、勝つために情報を揃えて頭を使うのは当然のことなんですよね。

ノムさんのID野球というのは、わたしは一種の哲学だと思います。

だから、多くの人の心を動かす名言が生まれたのでしょう。

ノムさんの残した名言は数え切れないほどありますが、いちばん心に残っているのはこれです。


「どうするか」を考えない人に、「どうなるか」は見えない。


どんなときも問題意識を持ってのぞめってことですよね。

「考える野球」を提唱し続けたノムさんらしい言葉です。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

合掌。



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# by sakanoueno-kumo | 2020-02-13 22:02 | プロ野球 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その9 <伝二ノ丸跡(織田信長廟所)>

「その8」天守台まで攻略しましたが、少し戻って安土城伝二ノ丸跡に向かいます。

伝二ノ丸跡には、織田信長廟所があります。


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石段を上がると、左に「二の丸阯」、右に「織田信長公本廟」と刻まれた石碑があります。


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石碑は昭和6年(1931年)に建てられたもののようです。


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信長の死について今更解説する必要はないと思いますが、天正10年6月2日(1582年6月21日)に明智光秀が起こした本能寺の変によって横死しました。

信長の遺体は見つかっておらず、したがって、ここに信長は眠っていません。


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本能寺の変の翌年の天正11年(1583年)2月、羽柴秀吉が亡き主君・信長の菩提を弔うためにこの廟所を建立しました。

遺体は見つかっていないため、信長愛用の太刀や烏帽子、直垂などの遺品が埋葬されたと伝えられます。


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周知のとおり、信長の死後間もない天正10年6月27日(1582年7月16日)に行われた清須会議において、秀吉は信長の後継にわずか3歳三法師(織田秀信)を推薦し、自らがこの後見人となって織田家中のイニシアティブをとりました。

その後、秀吉は荒廃した安土城を改修して同年12月に三法師の居城とし、年が明けた正月には、三法師に年賀を表すべく安土城に登城しています。

その翌月にこの廟所を建立しているわけで、秀吉としては、三法師の後見人としてここに信長の墓を建てることで、自らが信長の後継者であることを世に示したともいえるでしょう。

この廟所は、秀吉の政治といえます。


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この門より向こうは立入禁止となっています。


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これまでの稿でも述べてきたとおり、ここが二ノ丸というのはあくまで「伝」であり、確証はありません。

現在の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸などの呼称は、安土城廃城後100年以上経った貞享年間(1684~88年)に描かれた絵図に記されたものであって、信憑性はありません。

むしろ、本丸より二ノ丸や三ノ丸のほうが高いという構造や、秀吉がここに信長の廟所を設けたということからみるに、貞享古図の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸は誤りで、実際には、これら3つの郭をすべてまとめて本丸(本城)としていたのではないかと考えられています。

そして、信長の廟が建立されたこの地こそ、「御座敷」「御幸の御間」からなる本丸表御殿があったのではないかと言われています。


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ここは信長の廟所ということもあって、発掘調査はされていません。

ここを掘り起こせば、御殿跡の痕跡などが見つかるかもしれないのですが、墓を掘り起こすというのは、なかなか難しいのかもしれません。


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冒頭の石碑には「本廟」と刻まれていましたが、京都の阿弥陀寺にも、信長の本廟と伝わる墓石があります。

また、現在の本能寺(かつての本能寺とは場所が違う)にも信長の廟所があります。

それぞれ建てた人が違うのですが、いずれにしろ、そのどこにも信長の遺体は眠っていませんから、うちが本廟だ!と言ってしまえば、それで通るのでしょうね。

「その10」に続きます。




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# by sakanoueno-kumo | 2020-02-12 23:34 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

麒麟がくる 第4話「尾張潜入指令」 ~小豆坂の戦い~

 第4話の冒頭は戦シーンからでしたね。この戦いは、駿河国の今川義元と三河国の松平広忠の連合軍が、三河に侵攻してきた尾張国の織田信秀と激突した戦いで、後世に「小豆坂の戦い」と呼ばれます。ドラマでは少しだけしか描かれませんでしたが、今回はそれ以外は主にフィクションの回だったので、小豆坂の戦いについて解説します。


麒麟がくる 第4話「尾張潜入指令」 ~小豆坂の戦い~_e0158128_19571171.jpg 三河国を治める松平氏は、ながく西の織田氏、東の今川氏の脅威にさらされていました。松平広忠が当主だったこの当時、三河への進出を狙う織田氏と対峙するため、今川氏の後援を受けていましたが、天文13年(1544年)、刈谷城あたりを治めていた国人・水野信元が、今川氏を離反して織田氏に寝返ります。水野信元は松平広忠の正室・於大の方(弟という説も)でした。そこで広忠は於大の方を離縁し、さらに、今川との関係を密にすべく、息子の竹千代人質に出すことにします。のちの徳川家康ですね。ところが、天文16年(1547年)、護送の任にあたった田原城主・戸田康光裏切りによって織田方に渡されてしまいます。竹千代、数え6歳のときです。織田信秀は人質の竹千代を利用して織田の傘下に入るよう広忠に働きかけますが、広忠はこれに応じず、今川氏を頼って織田氏への徹底抗戦の構えを崩しませんでした。


天文17年(1548年)3月、信秀は本格的な三河侵攻を狙い、岡崎城攻めを開始します。庶長子の織田信広を先鋒とし、4000余りの兵を率いて安祥城から矢作川を渡河、上和田に着陣しました。一方、東の今川義元も、太原雪斎を大将、朝比奈泰能を副将とした約1万の兵を松平氏の援軍として出陣させ、同月19日、小豆坂で合戦となります。


 戦いは当初、織田軍の方が優勢だったといいますが、伏兵となっていた今川方の部隊が攻撃に転じ、織田本軍に横槍を入れたことで形勢は逆転。織田勢は総崩れとなります。戦いは松平・今川連合軍の勝利で終わりました。


 ドラマでは、この戦いで信秀は流れ矢に当たって重症を負っていましたが、調べてみたところ、そのような史料は確認できません(知っている人がいれば教えてください)。ドラマでの東庵の見立てでは、当たったのは毒矢で、その毒がまわって既に手遅れになっているかの報告が斎藤道三のもとにもたらされていましたが、実際には、信秀はまだあと4年生きます。見立て違い? それとも意図的なガセネタ? 東庵という人物、まだよくつかめませんね。


 織田氏の人質となった竹千代ですが、翌年、今川方の太原雪斎が安祥城を攻略し、織田信広を生け捕りにして竹千代との人質交換を果たします。その後、竹千代は今川氏の下で人質として過ごすことになるわけですね。織田氏の人質として過ごしていた期間は2年間ほどでしたが、小説やドラマなどでは、このとき9歳上の織田信長と知り合ったというエピソードがよく描かれますが、たしかな史料はありません。でも、会ってたっておかしくないですよね。6歳と15歳では意気投合はしなかったでしょうが、のちに今川氏を離反して織田氏と同盟を結ぶことになる家康。このとき、何らかのシンパシーを感じていた・・・なんてのは、ベタなドラマの観すぎですかね? まあ、少なくとも、薬売りに扮した明智光秀には会っていなかったと思いますが。



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# by sakanoueno-kumo | 2020-02-10 19:59 | 麒麟がくる | Trackback | Comments(2)