土佐の独眼竜・清岡道之助と、野根山23士の悲劇。

 「禁門の変」があった元治元年(1864年)、土佐では郷士たちによる反乱が起きていた。安芸郡の郷士・清岡道之助を首領とする23名が野根山に屯集し、土佐勤王党弾圧により投獄された武市半平太の釈放と、藩論の統一を要求し挙兵した。半平太投獄から約1年後のことである。

 清岡道之助は天保4年(1833年)生まれでこのとき32歳。坂本龍馬より2歳上で、龍馬の義兄である高松順蔵の元で学んでいた時期があり、龍馬とも親しかったという。その後、岩崎弥太郎も学んでいた岡本寧浦に儒学を学び、さらに江戸へ遊学して陽明学や兵学も学んだ。向学心に熱い秀才だったようだ。道之助は左目が不自由だったため武芸の道を諦め、学問で身を立てようと人一倍勉学に励んだといわれている。そんなインテリ郷士だから、当然の如く武市半平太の勤王思想にも感化され、土佐勤王党にも加盟して志士活動もしていた。

 文久3年(1863年)9月、土佐勤王党の弾圧が始まり武市半平太が投獄されると、土佐七郡に住む同志たちの代表者が集まり、道之助も安芸郡の代表者として出席し、今後の対策を協議した。道之助は武力で藩庁に圧力をかける強硬論を主張したが賛同を得ることが出来ず、土佐勤王党幹部で同党の盟約文を起草したともいわれる大石弥太郎が、半平太釈放を賢明に嘆願するが、それも受け入れられることはく、憤懣をつのらせた道之助は、次第に苛烈な思想に傾倒してゆくようになる。

 そして業を煮やした道之助は安芸郡郷士単独での決起を強行し、同志23名で野根山にある土佐三関の一つとされる岩佐番所に武装屯集し、土佐藩庁に半平太以下同志の釈放を要求した。この嘆願を「徒党強訴」とみなした土佐藩庁は、藩兵800人を動員して鎮圧にあたらせた。23人に対して800人である。半平太投獄の最中、藩庁が如何に郷士たちの行動に神経質になっていたかがうかがえる。この大群にはさすがに抵抗出来るはずもなく、道之助たちは隣領の阿波へ逃げ込んだ。当初の予定では嘆願が受け入れられない場合、長州藩が進発する京へ向かい、これに合流する策であったが、長州藩は禁門の変ですでに敗走し、その報をいまだ知らない道之助たちはまったくの孤立状態におちいった。

 
 阿波領に逃げ込んだ道之助たちは、船便を得て脱藩するつもりがあえなく阿波藩兵に捕らえられ、土佐藩へと引き渡された。その際、阿波藩は寛大なる処置を土佐藩に依頼したという。しかし、その依頼が叶えられることはなかった。9月3日、田野郡奉行所に護送された道之助たち23名の郷士たちは、一度も取調べを受ける事もなく、2日後の9月5日、安芸郡の奈半利川の河原に連行されて一人残らず斬首された。清岡道之助、享年32歳。処刑に際して、彼らは辞世を詠むことも許されず、その歌は完全なかたちで伝わっていない。辞世を高らかに吟じる道之助の声は途中で途絶え、首が落とされたという。

 23人の遺骸は道之助の遺言によって福田寺に葬られた。道之助の妻・静は、亡夫の頭髪に櫛を入れて整え、柄杓の柄で首と胴をつないだという。彼女が夫の霊を慰めて詠んだ歌が、墓前の石碑に今も刻まれている。
 「よしやこの 土にかばねは埋むとも 名をば千歳の松にとどめん」
 本堂の傍らには、後に作られた「二十三士記念碑」と、彼らが賢明に助けようとした武市半平太の小さな銅像がある。

 清岡道之助という人物は、坂本龍馬や武市半平太のように有名ではない。しかし、彼のように、おそらくは明治まで生きていれば要職に就いたであろう有能な人物が、いとも簡単にその命を落とし、大業を成し得ず歴史の中に埋もれていった例が、この時代には数えきれないほどある。そんな一人ひとりの犠牲の上に、龍馬などの英雄伝説があることを忘れてはならない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-07-10 00:59 | 歴史考察 | Trackback | Comments(4)  

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Commented by ayumiyori at 2010-07-14 10:05 x
二十三士それぞれに家族のあることを思えば辞世の句を詠ませる情けさえ無いのが悲しいですね。忘れてはならない犠牲、身にしみるようです。ありがとうございます。
Commented by sakanoueno-kumo at 2010-07-14 14:32
< ayumiyoriさん。
道之助の子・邦之助は、慶應義塾で学問に励み、福沢諭吉の3女と結婚して中央財界で活躍したそうです。
さらにその子・瑛一は慶応大学教授となり、ハワイ大学と慶応義塾大学との交流に貢献したそうです。
おそらく道之助に似て秀才だったのでしょうね。
妻・静の姪は、後に総理大臣となる浜口雄幸の妻となります。
辞世は残せなくとも、その思いは家族に伝わっていたでしょう。

妻・静は武市半平太の妻・冨と同じく大正まで天寿を全うします。
若き日の静の美貌は有名だったそうで、片目の男との縁談に周りは反対したそうですが、夫婦仲はこれまた武市夫婦同様、仲睦まじかったそうです。
現在に残る二十三士の墓碑は、大正2年に静が私財を投じて建てたものだそうです。
半平太の妻・冨といい、この静といい、夫亡き後半世紀もの長い間、夫への思いを持ち続けている姿には感動を覚えます。

私が死んだあと、私の妻は果たして・・・・考えないことにします(笑)。
Commented by niida at 2015-08-16 06:34 x
曾祖母の家を確認するために高知市を訪れた時、二十三士の物語を知りました。その時はまだ温泉が営業していました。最年少の党員は16歳と記されていました。
自分の信念を貫くために命を捧げる、仲間を信じて行動する勇気、このような人々が日本の歴史を作ってきたことを実感しました。
Commented by sakanoueno-kumo at 2015-08-17 20:20
< niidaさん

古い稿へのコメントありがとうございます。
野根山二十三士の逸話は、幕末好きの方々にもあまり知られていません。
あるいは、地元高知県の方々には、よく知られているのでしょうか?
わたしは、何かの物語の中で、この話を知りました。

わたしたちが知らないだけで、歴史の英雄たちの陰では、彼らのように、その働きを人々に知られることなく歴史の中に埋もれていった例は、きっと数えきれないほどあるのだろうと思います。
そういう一人ひとりの屍の上に、今日の日本があるということを、わたしたちはもっと知るべきでしょうね。

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