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土佐勤王党と山内容堂 (前編)

 幕末史に燦然とその名を残す土佐勤王党。尊皇攘夷をスローガンに立ち上がった彼らは、一瞬の花火のように燃え上がり、消えていった。同時代の同じような思想集団としては、水戸の天狗党や薩摩の精忠組などがあげられる。彼らは皆、藩内において低い身分の者たちの集団で、その多くは動乱の中に消え、あるいは藩上層部によって処刑された。

 彼らのような下級層にとってこの「尊皇攘夷論」は、250年もの長い間、身分によって虐げられてきた憤懣を晴らす、恰好の材料だった。元々「尊王論」「攘夷論」という、それぞれ独立した考えとしてあったものが、ペリー来航によって結ばれた不平等条約のため、諸物価の高騰や流通制度など日本経済に大混乱を招き庶民の生活を圧迫、その憤懣から「攘夷論」が叫ばれはじめ、やがてそれに、日本は神国であるというナショナリズムの発想である「尊皇論」が結びつき、「尊皇攘夷論」となって諸藩の志士や公卿に支持された。さらにそこに、天皇に忠義を尽すという「勤王論」が加わり、やがてそれが250年続いた「封建制」を瓦解させ、倒幕のエネルギーと化していった。

 武市半平太を首魁とした土佐勤王党も、当然この尊皇攘夷をスローガンとした。特に身分差別が激しかったとされる土佐藩下士たちにとっては、封建社会を打破する一筋の光であっただろう。そんな背景もあってか彼ら土佐勤王党は、上記の天狗党や精忠組のような単純な「思想集団」に留まらず、藩論を勤王に統一する「一藩勤王」というテーゼを掲げた「政治集団」となった。そしてその改革を実現するために邪魔者を排除する「暗殺集団」となっていったのである。「思想集団」「政治集団」「暗殺集団」の3つの顔を持ってしまった土佐勤王党。彼らはなぜ、ああも足早に時代を駆け抜けてしまったのだろう。

 当時、土佐藩の藩政を握っていた参政・吉田東洋は、半平太たち土佐勤王党とは180度違う「開国論」の持ち主だった。東洋にとって勤王党の主張は、書生の戯言でしかなかっただろう。そんな東洋を相手に、下士集団に過ぎない勤王党が「尊皇攘夷」を声高に訴えることが出来たのは、このとき江戸にて謹慎の身だった前藩主、容堂こと山内豊信の存在があったからだ。後に勤王党を壊滅させるに至る容堂だが、若き日の彼は熱心な尊王家だった。彼の正室が三条家の幼女だったこともあり、朝廷への政治工作にも加担し、そのことによって安政の大獄時に謹慎の身となった。謹慎前、朝廷に宛てた容堂の「使命覚書」がある。

 「豊信(容堂)は一朝事有り、錦旗ひるがへるの日は、列藩、親藩を問はず、その不臣はこれを討ち、王事に勤めん。」

 この言葉が、武市半平太たち勤王党員たちを後押しした。天皇に忠義を尽すことが、自藩の君主に忠義を尽すことでもある。彼らの思いには一辺の迷いもなかっただろう。

 土佐勤王党の盟約書(盟曰)には次のような文言がある。

 「かしこくも我が老公(容堂)夙に此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、却てその為めに罪を得玉ひぬ、斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉ひぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと。」
 「錦旗若し一とたび揚らバ、団結して水火をも踏まむと、爰(ここ)に神明に誓ひ、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払わんとす。」

 この盟約の文言は、明らかに上記容堂の言葉を取り入れたものだとわかる。ここでは、天皇と「我が老公」である容堂が忠誠の対象となっている。幕府が容堂に謹慎を命じたことを批判し、そしてその志を自分たちが引き継ぐと誓っている。この思いが、彼らが臆することなく突き進む糧となった。そして容堂の本質を見誤る要因ともなったのである。

土佐勤王党と山内容堂 (中編)
土佐勤王党と山内容堂 (後編)

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by sakanoueno-kumo | 2010-07-22 02:38 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

Commented by ayumiyori at 2010-07-22 17:20 x
こんにちは^^なるほど、納得の土佐勤皇党のご説明です。わかりやすいです。教科書に下級武士との描き方、不明だった部分でした。後半もお待ちいたします。いつもありがとうございます。
Commented by sakanoueno-kumo at 2010-07-22 20:22
< ayumiyoriさん。
ありがとうございます。
本当は先週に起稿したかったんですけど、時間がとれませんでした。
後ほど続きを起稿します。

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