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土佐勤王党と山内容堂 (後編)

 土佐藩の政変から京における土佐勤王党の台頭までの流れを、江戸で謹慎中の山内容堂はどんな思いで見ていたのだろうか。彼ら勤王党は、自身が信頼を厚くしていた吉田東洋を殺した憎き集団であり、しかし、「君辱かしめを受る時は臣死す」と容堂に忠誠を誓っている集団でもあった。容堂にとって土佐勤王党は、物語などで描かれるような、不快な存在でしかなかったのだろうか。

 約8年ぶりに謹慎が解かれ藩政に復活した山内容堂は、ちょうど時を同じく京で政変が起き、攘夷派が一掃されたことも相俟って、公然と土佐勤王党弾圧に乗り出した。これより勤王党は一変して衰退の道を辿ることになる。手始めは平井収二郎間崎哲馬弘瀬健太の3名が切腹。そして文久3年(1863年)9月21日、武市半平太が投獄されたことにより、土佐勤王党は壊滅する。結局、彼ら勤王党が活躍したのは、文久2年(1862年)4月8日に吉田東洋が暗殺されてから、わずか1年半足らずの間に過ぎなかった。

 武市半平太の投獄生活は1年8ヶ月にも及んだ。他の軽格党員たちは過酷な拷問を受けたが、半平太は同年1月に白札から留守居組という上士格に昇格していたため拷問は受けなかった。党員たちは厳しい拷問に耐え、吉田東洋暗殺を否認し続けた。中には拷問に屈することを恐れ、服毒自殺した者もいた。結局、東洋暗殺の罪状を立証出来ぬまま、「君主に対する不敬行為」という罪目で半平太は切腹を命ぜられ、慶応元年(1865年)5月11日、「三文字の割腹」の法という壮絶な最後を遂げる。

 ここで少し疑問に思うことがある。それは、武市半平太の投獄から切腹までになぜ1年8ヵ月もの年月を費やしたのかだ。容堂にとって半平太が、嫌悪の対象でしかなかったのであれば、すぐにでも処罰できたはずだ。東洋暗殺の罪を暴くためといっても、結局は立証できず、「君主に対する不敬行為」という曖昧な罪状で切腹に至っている。その気になれば、罪状なんてどうでも良かったはずだ。実際、平井収二郎たち3名は、投獄後間もなく処刑されているし、土佐の独眼竜・清岡道之助と、野根山23士の悲劇。の稿で紹介した清岡道之助たち23名などは、一度も取調べを受ける事もなく首を落とされている。半平太は上士格だったということが理由ならば、即刻降格させればいい。もともと彼の昇格は容堂の隠居中のことであり、容堂の認めるところではなかったのだから。もっと言えば、隠居中の身であっても藩政にまったく口を差し挟めなかったわけではなく、勤王党の台頭を阻むこともできたはずだ。しかし彼はそれをせず、彼らが江戸に下った際には逆に力になったりしている。容堂にとって半平太は、本当に不快な存在でしかなかったのだろうか。

 ここで私見を述べさせてもらうと、容堂は迷っていたのではないだろうか。「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と揶揄された山内容堂。「錦旗ひるがへるの日」と誓ったのも彼の本心で、しかし関ヶ原以来の徳川恩顧を重んじるのもまた彼の本心だった。「開国やむなし」と考え至ったのも彼の本心で、しかし「帝の御心に添いたい」と思うのもまた彼の本心だった。参政としての吉田東洋の行政能力には絶大な信頼を置いていたものの、「婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか」といった東洋の考えと容堂は違っていた。下士の分際で藩政を掌握した土佐勤王党には不快感を抱くものの、自身が出来なかった「錦旗ひるがへるの日は、列藩、親藩を問はず、その不臣はこれを討ち、王事に勤めん。」の言葉どおりに行動した勤王党に対して、半ば痛快に思えたときもあったのではないだろうか。そして「君辱かしめを受る時は臣死す」と容堂に忠誠を誓った武市半平太を、殺すに憚られる思いがあったのではないだろうか。半平太投獄から切腹までの1年8ヵ月、容堂は半平太を生かす道を模索していたのではないだろうか。

 結果的に山内容堂は「秩序」を選んだ。藩を治める立場の者の判断としては当然だったのかもしれない。しかし、このとき多くの有為な人材を失ったことによって、維新に際して土佐藩は完全に薩長の後塵を拝することになる。維新後、木戸孝允(桂小五郎)が酒席で容堂に向かって「殿はなぜ武市を斬りました?」と責めた際、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたという。明治5年(1872年)脳卒中で倒れ病床に伏した容堂は、「半平太、許せ。半平太、許せ。」と何度もうわごとを繰り返したといわれている。容堂の本心はどこにあったのか、彼自身にしかわからない。

 幕末の一時代を猛スピードで駆け抜けた土佐勤王党。彼らは新しい日本が生まれるための「陣痛」のような存在だった。「産みの苦しみ」がなければ、新しい命は生まれない。その苦しみが大きければ大きいほど、生まれてくる命は強いものとなる。彼らの存在がなければ、後の坂本龍馬中岡慎太郎の活躍もなかったかもしれない。新国家誕生の産みの苦しみ。彼ら土佐勤王党は、歴史に大きな役割を果たしたといえよう。

土佐勤王党と山内容堂 (前編)
土佐勤王党と山内容堂 (中編)


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by sakanoueno-kumo | 2010-07-24 00:37 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

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Commented by heitaroh at 2010-07-26 17:51
TBを戴いておりながら、多忙さに紛れ返事が遅くなりました。
今も、まだ、少しバタバタとしており、気分的になかなか、ゆっくりと落ち着いて拝見できる状態ではないのですが、容堂が迷いの中にあったというのは大いに有り得ることだろうと思います。

ただ、それでも、土佐勤皇党が東洋を殺したのだとしたら、私には武市がそれほどの人物であったようには思えませんし、武市がやはりひとかどの人物であったとすれば、逆に島村寿之助が本当の事件の背景を知らなかった・・・ということになるのだろうと思います。

ちなみに、本日、某所にて高知県立博物館(?)のポスターを見ましたが、武市が獄中で自分を描いた絵・・・でしょうか、それがポスターになってまして、もし、これが武市が描いた絵だとしたら、彼の筆の透徹さを見る限り、やはり、大した人物だったのだろうという気がしました。
Commented by sakanoueno-kumo at 2010-07-26 18:42
< heitarohさん。
お忙しいのにわざわざコメントありがとうございます。
武市は実際、大した人物だったと思いますよ。
ただ、以前heitarohさんが言っておられた「人間のやることは惑いと錯誤の連続である」という言葉をお借りすれば、そんな武市でも過ちはあって然りではないでしょうか。

heitarohさんの説かれる合理的な見解も、とても興味深くいつも読ませていただいていますが、歴史小説の世界を脱却できない私としては、どうしても歴史を叙情的に見てしまいます。

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