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龍馬伝 第34話「侍、長次郎」

 「凡そ事大小となく社中に相談して行ふべし、若し一己の利の為に此の盟約に背く者あれば、割腹して其罪を謝すべし」
 まるで新選組の法度のような厳しい戒めのこの文は、実は亀山社中の盟約文である。この同志一同血判の上成立したという盟約によって、近藤長次郎は切腹して果てた。享年28歳。

 「私共とともニ致し候て盛なるハ、水道通横町の長次郎」と、坂本龍馬が姉・乙女に宛てた手紙の中で評した近藤長次郎は、勝海舟門下生時代から龍馬が常に有能な同志と認めていた人物だった。貧しい饅頭屋に生まれた長次郎だったが、家業を手伝いながら、龍馬も影響を受けた河田小龍の墨雲洞塾に学び、その驚異的な向学心とバイタリティーによる努力の末、文久3年(1863年)には藩から苗字帯刀を許され、終身二人扶持金十両を下賜されている。一説には、海舟門下生時代、長次郎の秀才ぶりを知った諸藩が彼を扶持したいとの申し出が相次いだことから、あわてて土佐藩が藩士に取り立てた・・・との話もある。実話かどうかはわからないが、長次郎の優秀ぶりがうかがえるエピソードだ。

 亀山社中の一員となってからの長次郎は上杉宋次郎と名を変え、その才覚をフルに発揮し、隊長とはいえ不在の多かった龍馬に代わり社中の運営の中心人物となった。そして薩長同盟の前段となる長州藩の薩摩名義による武器購入に尽力し、みごとにその仕事を結実させた。武器購入の担当官として長崎に訪れていた長州藩士・井上聞多(馨)伊藤俊輔(博文)からもその功労を推重され、長州藩主・毛利敬親からも謝礼の言葉を直々に賜った。このときが近藤長次郎の絶頂期だった。多少は天狗になっていたかもしれない。同志たちの反感を買っていたかもしれない。卑賤の身から成り上がり、他藩の殿様から直々に礼を言われるまでになったこの時期、自惚れるなという方が無理だったかもしれない。

 武器購入に続いて汽船・ユニオン号の購入にも尽力した長次郎だったが、このとき長州藩とユニオン号の引渡し条件について抗争を起こしてしまう。結局その件は、龍馬の介入によって問題は解決の方向に向かってはいくものの、長次郎は最後まで激しく抵抗し、納得はしていなかったという。そんなことも背景にあってか、長次郎は「英国留学」という野心をいだき、社中の同志には秘密で密航を企てた。慶応2年(1866年)1月14日、かねて依頼していたグラバーの船にいちどは搭乗したが、おりあしく風浪のため出航が1日延び、やむなく上陸したところ、計画を社中の同志たちに察知されてしまう。同志たちは長次郎を小曽根乾堂の邸に呼び出し、そして盟約違反を沢村惣之丞に告げられ、弁解しようとしたが一切聞き入れられず、やがて同志が設けた席に端座したまま、さびしく腹を切ったと、「維新土佐勤王史」は伝えている。また、毛利家文庫旧蔵の「土藩坂本龍馬伝」などには、ユニオン号所有問題にからんで薩長両藩に行き違いを生じさせたことへの責をとって自刃したとの説も伝わる。

 このとき長崎に不在だった龍馬は、のちにお龍「長次さんはまったく一人で罪を引き受けて死んだので己が居つたら殺しはせぬのぢゃつた」と語っている。しかし、長次郎の死を知った直後の龍馬の手記には、「術数有リ余ッテ至誠足ラズ。上杉氏(長次郎)之身ヲ亡ス所以ナリ」と記している。決して殺させはしなかったとしながらも、長次郎のありあまる「術数」による独断行為は、龍馬にとっても不快なものだったようだ。

 のちに作られた「海援隊約規」では、違背者の処分は隊長である龍馬に一任されている。これはおそらく、長次郎の死の轍を踏まえてのものだったのだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-25 00:52 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(4)  

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Tracked from 山南飛龍の徒然日記 at 2010-08-25 02:03
タイトル : 【大河ドラマ】龍馬伝第34回:侍、長次郎
泣ける話なのに、実に勿体ない回でした(´・ω・`)【今回の流れ】・ユニオン号引き渡しに際し、社中や薩摩が自由に使える件が問題になる 同盟を優先する龍馬の判断で管理は長州がす...... more
Tracked from ショコラの日記帳 at 2010-08-25 11:24
タイトル : 【龍馬伝】第34回と視聴率「侍、長次郎」
第34回の視聴率は、前回の13.7%より上がって、16.3%でした。戻って良かったです♪ 今回は、長次郎の切腹の話でした。冒頭の亀山社中の皆で写真を撮るシーン、楽しかったです♪高...... more
Commented by marquetry at 2010-08-25 12:57
龍馬は、悔しかったのよ...胸の内を相談されず、密航され、切腹まで...。皆を思って行動した事を、個人の利益ととられ、ほんのちょっとの誤解と不満が、命を失う事に繋がるなんてことは、龍馬は承諾したくなかったのよ...今までも、これからも。
Commented by sakanoueno-kumo at 2010-08-26 04:16
< marquetryさん。
悔しかったでしょうね。
龍馬にとって長次郎は信頼の厚い同志で、そして幼馴染でもあったのだから・・・。

>ほんのちょっとの誤解と不満が、命を失う事に繋がる

この時代、ほんの些細なことで、有能な人が簡単に死んでいきました。
龍馬の身辺でも、武市半平太をはじめ多くの同志たちが既にこの世を去っていました。
亀山社中の集った者たちは、そうした同志たちの死を横目で見ながら、命を粗末にせずに革命を起こそうという考えだったと思います。
それだけに、長次郎の死は、龍馬にとっては痛恨の事件だったことでしょう。
既に何十人もの友を見送ってきたこの時期の龍馬は、一刻も早く、人が理不尽な死に方をしないですむ世の中を作りたいと願っていたに違いないでしょう。
Commented by ショコラ at 2010-08-26 20:22 x
長次郎の死には、いくつか説があるようですが、ドラマでは綺麗事にまとめましたね(^^;)

龍馬、このドラマでは長崎に戻って来ましたが、京に行って戻らなかったという説もあるとか・・・
どうなんでしょう?

このドラマは、やはり龍馬を優男にしていますね(^^;)
Commented by sakanoueno-kumo at 2010-08-27 00:37
< ショコラさん。
おっしゃるとおりです。
近藤長次郎が切腹したのは慶応2年(1866年)1月14日のこと(近年では1月23日という説もあります)。
龍馬は同月の10日に、いよいよ薩長同盟の締結に向けて下関を発ち京へ向かっています。
薩長同盟締結が1月21日。
その翌々日の23日に龍馬は寺田屋の変で負傷し、しばらくは薩摩藩邸の床に伏します。
その後、湯治を兼ねた、有名な新婚旅行と言われる薩摩行きですから、龍馬が長崎の社中に戻ったのは、長次郎の死後半年以上が過ぎてからのことです。

半平太のときや亀弥太のときなど、とにかく主役である龍馬を絡めるようと、少し無理な設定を作り過ぎな気はしますね。

あと、涙を流しすぎ!・・・とも思います(笑)。

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