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龍馬伝 第45話「龍馬の休日」

 前話の「英艦イカルス号事件」に一応の決着を見た坂本龍馬は、慶応3年(1867年)9月18日、芸州藩汽船・震天丸を借用して長崎を出航した。今話で登場した佐々木高行(三四郎)と相談して購入したライフル銃1000挺を土佐に届けるためだった。同月20日、震天丸は下関に寄港する。滞在は2日間、22日には下関を出帆して土佐へ向う。これが、お龍との永訣となった。

 このときより7ヵ月ほど遡った慶応3年(1867年)2月10日、龍馬はお龍を連れて下関を訪れ、豪商・伊藤助太夫の家の一室を借り受け、そこを「自然堂(じねんどう)」と名付け、夫婦の生活の場とした。「自然堂」とは龍馬の号。号とは文人などの雅名のことで、今風に言うとペンネーム。慶応元年(1865年)以来親交があったとされる伊藤助太夫は、このときしばしば龍馬夫妻を歌会へ誘ったと伝えられており、「自然堂」の号はその際に使用していたものと思われるが、現存する龍馬の書簡では、龍馬暗殺の1ヵ月前に陸奥宗光に宛てた手紙で使用されているだけである。
自然堂・・・いかにも自然体なイメージの龍馬らしい号だ。

 龍馬は2月27日から病気になり、「いろは丸事件」が起こる少し前の3月下旬まで自然堂でお龍と2人の時間を過ごした。前年の幕長戦争以降、休む間もなく働き通しだった龍馬にとっては、夫婦水入らずの、ひとときの安らぎの期間だった。

 伊藤家で催された春の歌会で、龍馬が詠んで第2位となった歌。
 「こころから のどけくもあるか 野辺ハ猶 雪げながらの 春風ぞ吹く」
 そして、お龍の歌。
 「薄墨の 雲と見る間に 筆の山 門司の浦はに そそぐ夕立」
 楽しい時間だったことが感じられる。この歌会には三吉慎蔵も参加していたらしい。龍馬、お龍、三吉・・・このときより約1年前、寺田屋の修羅場で生死を共にしたこの3人が、1年後にこうしてのどかに歌会に参加している姿など、事件当夜にはまさか想像だにしなかっただろう。

 ドラマにあった、龍馬の朝帰りのエピソードもこのときである。ある日、龍馬は稲荷町の遊郭で遊び朝帰りをした。お龍は怒って責め立てた。ピストルを突き付けたかどうかはわからないが・・・。その現場をたまたま訪ねてきた長府藩士・梶山鼎介に目撃されてしまう。よほどバツが悪かったのか、龍馬は三味線を爪弾きながら即興で俚謡を歌った。
 「こい(恋)わ 志はん(思案)の ほかとやら あなと(穴戸・長門)のせとの いなりまち(稲荷町)ねこ(猫)も しゃくし(杓子)も おもしろふ あそぶ くるわ(廓)の はるげしき こゝに ひとりの さるまハし たぬきいっぴき ふりすてゝ ぎ利(義理)も なさけも なきなみだ(涙)ほかにこゝろハ あるまいと かけてちかいし山の神 うちにいるのに こゝろのやみぢ(闇路)さぐりさぐりて いでゝ行」
 歌詞に出てくる「猿回し」とは龍馬自身のこと。「たぬき」はお龍。自分の心はいつもお龍にある・・・としながらも、でもたまには遊びたい・・・といった意味の歌で、この歌を聞いてさすがのお龍も破顔して許してくれたという。龍馬自筆の俚謡は梶山鼎介がその場で貰い、現在は長府博物館にあるそうだ。私も朝帰りした際、ギターを弾いて歌ってみたら、妻は許してくれるだろうか・・・。おそらく逆効果になるに違いない(笑)。この対処法は、薩長同盟と同じく龍馬にしかできない芸当だ(笑)。

 思えば二人が夫婦として一緒に時を過ごしたのは、「寺田屋事件」後の闘病生活から薩摩旅行のときと、この自然堂での1ヵ月半ほどの間だけだった。伊藤家での生活は、龍馬の死後40年も生きたお龍にとって、忘れ難い思い出の地となったことだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-09 01:37 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(0)  

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