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坂本龍馬の命日に再考する、龍馬と中岡慎太郎の暗殺犯の諸説。

 本日、11月15日(旧暦)は坂本龍馬の命日。今から143年前の1867年(慶応3年)11月15日、京都・近江屋において坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かの手によって暗殺された。奇しくもこの日は、龍馬の33回目の誕生日でもあった。事件当日の内容は、2週後の大河ドラマ「龍馬伝」の最終回の稿に譲るとして、命日の今日は、未だ歴史の謎とされている暗殺犯の諸説、その代表的なものを簡単にまとめてみた。

■ 新選組説
 事件後、最初に疑われたのは新選組だった。彼らは言わずと知れた佐幕派の警察組織で、殺人集団ある。龍馬を襲う動機は十分にあり、また事件現場に証拠となる下駄刀の鞘が残っていたことが、疑いの発端となった。下駄は新選組がよく出入する料亭「瓢亭」のもので、鞘は新選組隊士・原田左之助のものであると、元新選組隊士であった高台寺党の伊東甲子太郎が証言している。この左之助説については、事件後2日間生き延びた中岡慎太郎が、刺客の中に「こなくそ」という伊予弁を使う人物がいたと証言したことで、伊予出身であるの原田左之助への疑いが強まった。以後明治に入るまでこの説が最も有力とされ、実際に新選組隊士・大石鍬次郎などはその疑いで処刑されている。しかし、その物証については後世の研究で矛盾点が立証され、また、慎太郎の証言についても信憑性を欠く部分が多く、現在では、この説を支持する人はほとんどない。

■ 見廻組説 
 この見廻組説が、現在もっとも定説とされているものである。上記、新選組の大石鍬次郎が官軍に捕えられたとき、龍馬暗殺の実行犯を「見廻組の今井信郎らの仕業だという話を聞いた。」と供述した。見廻組は幕府が設置した特殊治安部隊で、浪士結社の新選組に対して幕臣をもって組織された隊で、その任務は同じである。明治3年、函館の旧幕軍が降伏し、その降軍の中に今井信郎を発見、明治新政府の手によって捕えられた。今井はほどなく犯行を自供。供述によれば刺客団は隊長の佐々木唯三郎を頭に、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の7人。しかし、今井自身はあくまで見張り役をしただけで、直接手を下してはいないという。真実はわからないが、結局今井は禁錮刑という軽い刑ですみ、明治5年(1872年)、特赦によって釈放されている。その後28年経った明治33年(1900年)、今井信郎自身が雑誌「近畿評論」「坂本龍馬を自らが斬った」と発表し、物議を醸した。さらに、それから15年後の大正4年(1915年)、渡辺篤という老人が自身の死を目前にして、坂本龍馬を殺したのは自分だと告白している。この老人が上記、渡辺吉太郎かどうかは定かではない。ただ、この渡辺の告白と今井の供述は、刺客の人数や名前など食い違う点が多く、その点はよくわからないが、二人とも襲撃時の供述内容は具体的な部分でも一致する点が多く、ほぼ信頼できる説となっている。しかし、上記、今井の減刑については何らかの政治的圧力があったといわれており、また、今井の自白があったにもかかわらず、見廻組が実行犯という説は明治政府上層部のみに知られる事実として、なぜか世間には公表されず、そのため新選組説がその後も長く信じられることとなったことから、現在でも研究者の間で様々な推論がる。

■ 紀州藩説
 この説は、動機としてはもっともわかりやすい。慶応3年4月、海援隊が搭乗していた船・いろは丸と紀州藩の船・明光丸が衝突した、いわゆる「いろは丸事件」によって紀州藩は賠償金8万3千両を支払うこととなった。我が国最初の「海難裁判」といわれるこの事件で、大藩の紀州相手に龍馬率いる浪士集団が勝った。このとき紀州代表として交渉にあたったのが三浦休太郎という人物で、以後、龍馬に対して恨みを抱いていたという。その報復による暗殺というのがこの説。実際、この「いろは丸事件」の談判中、龍馬暗殺を企てていたという話もある。龍馬の死後、海援隊の番頭格だった陸奥陽之助などは紀州藩を疑い、海援隊・陸援隊士ら16名で三浦を襲撃している(天満屋事件)。しかし、新選組に護衛を依頼していた三浦休太郎は軽傷のみで終わり、以後明治43年(1910年)まで長寿している。動機としては、もっとも単純で説得力もあり、陸奥が疑ったのも無理はないように思うが、この説にはこれといった証拠もなく、憶測の域を出ない。

■土佐藩黒幕説
 龍馬の所属藩であるはずの土佐藩だが、藩内での龍馬の身分は低く、しかもこの1年ほど前までは脱藩の罪で追われていた罪人の立場。この時期、天下の名士として名を轟かせていた龍馬だったが、他藩である薩摩や長州から懇意にされるほど土佐人からは重視されず、むしろ疎ましく思う者たちがいたであろうことも容易に想像できる。「大政奉還」という藩論を掲げて手を結んだ土佐藩参政・後藤象二郎と龍馬だったが、その信頼関係はどこまで築かれていたかはわからない。龍馬が起草したといわれる「船中八策」の案を後藤が自分の手柄にするため龍馬を殺したという説があるが、この論でいくと龍馬の秘書官であった海援隊士・長岡謙吉なども殺さねばならず、少し無理がある推論だ。他、土佐藩にも薩摩藩と同じ武力倒幕を推す派もおり、その代表格である谷干城の仕業という説。谷は龍馬の暗殺現場に真っ先に駆けつけた人物。事件後2日間生き延びた中岡慎太郎の証言は、この谷によって語られたものだ。現場の遺留品なども彼が発見したものであり、上記・新選組説を強く信じていて、局長・近藤勇を斬首に処したのも谷である。見方を変えれば、その新選組説を作ったのが谷だったとも言えるわけだが、これも少々深読みし過ぎの観は否めない。谷は生涯を通して龍馬の暗殺犯を追ったという。

■薩摩藩黒幕説
 土佐藩説に比べて、こちらはリアリティーがある。龍馬と親交の深かった薩摩藩だったが、この時期に来てその関係は変わってくる。龍馬の推し進める「大政奉還」に表面では賛同しながらも、実際には武力倒幕の準備を着々と進めていた薩摩藩にとっては、平和改革路線を主張する龍馬は目障りな存在になりつつあった。革命成就後の地位確保のために、龍馬を消したというのがこの説の推論。実行犯は中村半次郎(桐野利秋)という説もあるが、暗殺未遂の場合を想定すると、他藩に顔の売れた中村ではリスクが大きく考え難い。直接薩摩藩士が手を下さず、黒幕として足が付かない刺客を送ったと考えるのが妥当だろう。とすれば、この時期薩摩藩を動かしていたのは、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀の3人で、このうちの誰かが下命したと考えられる。西郷と小松は龍馬と昵懇だったが、大久保と龍馬の関係はあまり伝わっていないことから大久保を黒幕とする説があるが、逆に大久保は龍馬という人物をそれほど重視していた様子はうかがえず、また、事件後、大久保は龍馬や慎太郎と親交の深かった岩倉具視宛の手紙の中で、二人の死について驚きと遺憾の意を記しており、これを信じれば大久保は事件とは無関係ということになる。その手紙すら、味方をも欺くための偽文書と疑うこともできるが、そこまでいくと深読みしすぎのようにも思える。一方で西郷を黒幕とする説。上記見廻組説で実行犯のひとりとされた今井信郎の減刑に、西郷の口添えがあったという説がある。西郷と今井に面識はなかった。この話が事実だとすれば、西郷がなぜ面識のない今井の助命運動に疾走したのか、という疑問になり、そのことで、龍馬暗殺と西郷の何らかの関わりを想像できるが、この西郷の口添え説を裏付ける史料は残っておらず、憶測の域を出ない。ただ、後世の小説などにあるような、西郷と龍馬の間に信頼関係があったかどうかは疑わしく、また、もしそのような信頼関係があったとしても、幕末きってのマキャヴェリスト西郷にとって、武力倒幕を断行するにあたって目障りな存在となった龍馬を消すことなど、ためらいの余地もなかっただろう。大久保説は、のちの明治政府での政争で後世に与えた不人気なイメージが作り出したもので、客観的に見れば、黒幕は西郷と考えるほうが、説得力があるように私は思う。

 他にも俗説は多々あるが、上記が主だったものである。私個人的には、実行犯は通説となっている見廻組とみてほぼ間違いないのではないかと思う。そこに黒幕がいたとすれば、これも現在通説となっている薩摩藩、その中でも西郷隆盛説にもっとも真実味を感じる。しかし武力倒幕を進めるにあたって、殺さねばならないほど薩摩が龍馬を重要視していたかという点では首を傾げるし、武力派にとっていわば同志である中岡慎太郎の死は薩摩にとって痛手だったはずで、そういった疑問は残る。その点で考えれば、単純に見廻組単独犯説というのも捨てきれない。実際に龍馬は前年の「寺田屋事件」以降、捕り方を殺害した罪で幕府から追われる身となっていた。「大政奉還」は幕府延命の妙案であり、それが龍馬によって推進されていることも幕府上層部の一部には知られていたものの、末端の知るところではなく、この時期でもまだ、坂本龍馬は幕府にとっての危険人物という認識だった。濡れ衣を着せられた新選組も同様の認識だったようだ。事実、今井は、「上からの命令」と供述しており、事件当日の昼間に堂々と近江屋に訪れ龍馬の不在を確認している事実から考えれば、見廻組にとっては正当な警察権の行使だった可能性は否定できない。

 こうして見ても、どの説にしても決定的な論証はなく、この先新しい史料が見つかる可能性も低く、永遠に歴史の謎だろう。通常、犯人探しのセオリーは、「恨みを抱いていたのは誰か?」「目障りに思っていたのは誰か?」「得をしたのは誰か?」という着眼点で絞り込むものだが、龍馬の場合その条件に該当する者が多数いて、そのことが諸説を生む要因だといえる。後世の私たちから見れば愛すべき人物像の坂本龍馬だが、同時代に生きる者たちにとっては、必ずしもそうではなかったようだ。
 龍馬の語録にこんな言葉がある。
 「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。」
 「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ。」

 大事を成すためには、義理や情を捨てよ、という意味。儒教的な道徳が支配していたこの時代において、龍馬のこの言葉はあまりにも非常識な言葉だ。これは国事に疾走するための自戒の念を込めた言葉で、本当に龍馬がこの言葉どおり生きていたかはわからないが、彼の濶達な生き方は、ときに人の恨みをかったり目障りな存在となったであろうことは容易に想像できる。 「敷居をまたげば、男には七人の敵がいる。」という言葉があるが、志を遂げるためにその何十倍もの敵を作ったであろう晩年の龍馬にとって、非業の最後は、避けられない必然だったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-15 21:55 | 歴史考察 | Comments(9)  

Commented by marquetry at 2010-11-16 11:38
中学時代の私は、西郷隆盛説だった。とはいえ、実行犯は、ただの下っ端だったと思う。ケネディー暗殺と同じく、誰かが耳元でささやけば、FBIもCIAも暗殺の黒幕になるように、薩摩も長州も土佐も、幕府も朝廷も、誰かに愚痴をこぼすだけで、誰でも実行犯になり得たでしょう...なんたって従順な家来がたくさんいたでしょうから。...儒教の美学も、突き詰めてしまえば足かせ手かせ...恩を世代を超えて引きずり、恨みも末代まで...そんな時代を龍馬は切り裂き、当時の価値観をひっくり返したわけですから、確かに、だれでも犯人になり得ますよね。
...ぁあ〜やっぱり今の政府に爪の垢でも飲ませたいーーー。
本気の脅しが出来なければ、対外交の対話は、ただのおしゃべりに過ぎない...対話と言う武器を、ただの仲良し談話と勘違いしてる誰かさんに、もう一度歴史を勉強し直して頂きましょ!
Commented by heitaroh at 2010-11-16 13:56
伊東かしたろう説もありますよね。

私も、以前、これについて書いたと思っていたら書いてなかったようですので、また、後日、書きたいと思います。
Commented by sakanoueno-kumo at 2010-11-16 17:02
< marquetryさん。
若き日の龍馬は、攘夷攘夷の世論に決して感化されませんでした。
薩長が武力倒幕を推し進めていたこの時期も、龍馬は現実を見据え、大政奉還というもうひとつの道を主張するわけです。
世論に流されない、多数意見に飲まれない、龍馬の信念が垣間見れます。

尖閣諸島沖の動画流出事件で、明るみになった神戸の海保官を逮捕しない方針が決まったようですね。
おそらく海保官を擁護する世論を配慮してのことだと思いますが、擁護する声にも首を傾げますが、その声に敏感に反応する政府にはもっと首を傾げます。
国民の知る権利とは別問題でしょう。
国家機密を末端が漏らしたわけですから。
これを許したら、政府の存在は単なる飾りになってしまいます。
中国にもロシアにも、強気で臨んだかと思えばすぐにヘコタレ、世論にも流されて身動きできない現政権は、もはや政権の座に座り続けるべきではないでしょうね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2010-11-16 17:32
< heitarohさん。
伊東甲子太郎説は割愛させていただきました。
あと、後藤象二郎と岩崎弥太郎の共犯説もあるようです。
龍馬を殺して「いろは丸事件」で得た賠償金を着服したと・・・。
そしてその金が、のちの弥太郎の藩札買占めの資金になったと・・・。
考えられなくもないです。

平太郎さんの見解を楽しみにしています。
Commented by しばやん at 2010-11-17 00:14 x
龍馬の暗殺された日が33回目の誕生日だったと言うことははじめて知りました。
龍馬暗殺の件は私もいろいろ調べて書きましたが、今では大久保・岩倉あたりが黒幕に絡んでいるのではないかと推測しています。
しかしこれだけの内容を簡潔に纏められたのはさすがです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2010-11-17 15:23
< しばやんさん。
いえいえ、本当は数稿に分けて詳細に起稿したかったのですが、当方、今めちゃめちゃ忙しい毎日でして、とても資料を広げて起稿する余裕もなく、簡潔にまとめるしかなかった次第です。
TBしていただいた貴兄のブログも数日前にチラッと覗いていたのですが、じっくり読み込む余裕がありませんでした。
時間があるときにゆっくり読ませていただきます。

実は、本稿のタイトルに大きな誤りがあることに気付きました。
考えて見れば、龍馬の命日は11月15日ですが、慎太郎の命日は2日後の17日、つまり今日でした(汗)。
で、当初のタイトル「坂本龍馬と中岡慎太郎の命日に再考する、暗殺犯の諸説。」を、上記に修正させていただきました。
なぜ気付いたかというと、本日朝から仕事で京都に行っておりまして、一昨日だったら龍馬の命日だったのになぁ・・・なんて考えていたところ、そうだ!・・・今日は慎太郎の命日だったと・・・。
で、せっかく京都まで来たんで、近江屋跡に立ち寄ってきましたので、後ほど起稿します。
Commented by 升屋伊三郎 at 2013-07-02 05:41 x
海援隊の長岡謙吉も狙われていたという記事があります
「寺村左膳道成日記」慶応3年11月18日の記事。

今夜、御国脱走人長岡謙吉ト申者、福岡へ対面之為松本ヘ来候処、素リ才谷、石川同断之者ニ付、会、桑、新選組等之目をソソグ所となり、既ニ今夜右長岡之跡付来候者有之よし密ニ告るもの有り、依而俄ニ松本より裏道を開キ河原へ出し、立退カセタリ。
Commented by 升屋伊三郎 at 2013-07-02 05:53 x
日本史籍協会の雑4にある龍馬斬殺記述。

「…初メ盗(暗殺者たち)、谷干城・毛利某(恭助)ノ旅館ヲ窺フ、二人見エス。転シテ坂本ノ寓ニ到リ変ニ及フ」

襲撃者たちは、谷干城や毛利恭助宅(共に上士)を窺ったが、2人はいなかったので、或いは、そこに龍馬がいなかったので、やはり龍馬は近江屋だろうと。

暗殺者たちが見当をつけ、近江屋に向かったとすれば、それは土佐藩官僚指図絡みでしかあり得ません。

「盗ハ短刀ヲ用フリモノニ似タリ。石川ハ双手頭垂シテ、皮相牽連シ体ニ刺傷アリ…創重ク、口云フコト能ハス。…坂本、京都ニ於テ難ニ罹ル時、典籍身辺ニ散乱シ、血痕ヲ印セシモノ若干冊アリ」
Commented by sakanoueno-kumo at 2013-07-02 19:20
< 升屋伊三郎さん

コメントありがとうございます。
長岡謙吉も狙われていたという話があったんですね。
もし、土佐藩が黒幕だとすれば、あり得る話だと思います。
近年では薩摩藩黒幕説が主流ですが、これは比較的新しい推理だそうですね(司馬さんが「竜馬がゆく」を執筆した昭和40年代あたりでは、この説を主張する歴史家はほとんどいなかったとか)。
一方で、土佐藩黒幕説は当時からあったようです。
そう考えれば、土佐藩黒幕という推理はなくもないですが、でも、結果的に龍馬と慎太郎を失ったことで、新政府において土佐派は薩長の後塵を拝すことになったわけで、土佐は何も得してないわけで・・・。

ケネディ暗殺もそうですが、大物の暗殺というと、どうしても穿ち過ぎてしまいますが、真相は意外と単純なものだったりするように思います。
平成の現代では幕末きっての英雄・坂本龍馬ですが、そもそも、当時の龍馬が、薩摩や土佐から煙たがられるほど大きな存在だったかも微妙ですしね。

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