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龍馬伝 第47話「大政奉還」

 慶応3年(1867年)10月3日、土佐藩参政・後藤象二郎は、「大政奉還建白書」を二条城ににいる15代将軍・徳川慶喜のもとに提出した。土佐に帰国していた坂本龍馬が京都入りしたのは、その直後である。幕府ではこれを採用するか否か、議論百出のおりだった。もしこれを拒否すれば、薩摩、長州、芸州の連合軍の砲門が直ちに開かれるだろう。もしこれを受け入れれば、260年続いた徳川政権の終焉を意味する。慶喜は迷っていた。

 そんな時期、龍馬は土佐藩参政・福岡藤次の紹介で、在京中の幕府大目付・永井玄蕃頭尚志のもとを頻繁に訪ね、しきりに建白書の採用をすすめていたという。龍馬も必死だった。あるとき龍馬は永井に対して、「甚だ露骨な質問であるが、貴下は幕府の兵力をはかって能く、薩長連合軍を制しうると思われるか。」と問いかけたところ、永井は少し考え込んで「遺憾ながら勝利を保し難い」と答え、すかさず龍馬は「しからば今日、建白を採用なされるよりほかにとるべき道がないではないか。」とせまり、永井を沈黙させたという。永井尚志はのちに人に向かって、「福岡は真面目な人物」と評し、「後藤は確実正直」と語り、そして龍馬を評して、「後藤よりもいっそう高大にて、説くところもおもしろし」と言ったという。京での建白運動の表面に立っていたのは後藤象二郎だったが、その黒幕として龍馬がいかに重きをなしていたかが、永井の評からうかがい知ることができる。

 徳川慶喜は、10月13日に二条城に在京諸藩の重臣を招集して会議を開くと発表した。龍馬はこの時期、後藤に向けて二度手紙を送っている。一度目の手紙は、10月10日頃に送られたと思われるもの。
 「幕中の人情に行はれざるもの一ヶ条これあり候。其義は江戸の銀座を京師に移し候事なり。此一ヶ条さへ行はれ候へバ、かへりて将軍職は其まゝにても、名ありて実なれば、恐るゝにたらず奉存候。」
 大政奉還を将軍が受け入れようが受け入れまいが、江戸にある造幣局をすぐに京都に移せという。逆に造幣局さえ移してしまえば、将軍職などそのままにしていてもかまわない・・・と。つまり、徳川家から日本の経済権を一気に奪い取れというのだった。造幣権さえ奪ってしまえば、幕府は貨幣を作ることが出来ず、すぐに財政は破綻してしまう。幕府財政の破綻はそのまま幕府の崩壊に繋がり、有名無実のものとなる。そうなれば、大政奉還など成されなくとも、幕府は実体を失う・・・というものである。血で血を争う武力討幕よりも、はるかに先見性がある龍馬の経済眼。このあたりにも、龍馬の政治センスがうかがえる。

 二通目の手紙は、二条城登城の当日に送った手紙。その内容は、後藤象二郎の覚悟を促すための激励状とも脅迫状ともいえるものだった。
 「御相談被遣候建白之儀、万一行ハれざれば固(もと)より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受、社稷(しゃしょく)の為、不戴天の讐(あだ)を報じ、事の成否ニ論なく、先生ニ地下ニ御面会仕候。○草案中ニ一切政刑を挙て朝廷ニ帰還し云々、此一句他日幕府よりの謝表中ニ万一遺漏有之歟(か)、或ハ此一句之前後を交錯し、政刑を帰還するの実行を阻障せしむるか、従来上件ハ鎌倉已来武門ニ帰せる大権を解かしむる之重事なれバ、幕府に於てハいかにも難断(だんじがたき)の儀なり。是故に営中の儀論の目的唯此一欸已耳(のみに)あり。万一先生(後藤象二郎)一身失策の為に天下の大機会を失せバ、其罪天地ニ容るべからず。果して然らバ小弟亦、薩長二藩の督責を免れず。豈(あに)徒(いたずら)ニ天地の間に立べけんや。  誠恐誠懼
十月十三日  龍馬
後藤先生」

 もし、大政奉還が成らなかったときは、下城する慶喜公の列に海援隊を率いて斬り込み、慶喜を殺して自分も死ぬ、というのだ。龍馬は決死の覚悟だった。この10ヵ月前、姉・乙女に宛てた手紙の中で、「人と言ものハ、短気してめつたニ死ぬものでなく、又人おころすものでなし」といっていた龍馬とは別人のようだ。それだけ、龍馬にとってこの日は、自身が推し進めてきた仕事の最大のヤマ場だったのである。

 この日、海援隊士および在京の同志たちは、皆、龍馬の下宿に集まっていた。後藤からの連絡はなかなか届かない。龍馬はイライラしながら待った。そしてその夜、ようやく後藤からの一報が入る。
 「大樹公、政権を朝廷ニ帰スの号令を示せり。」 龍馬は慶喜の英断に感動した。このときの龍馬の言動を最初に筆したのは、坂崎紫欄が明治27年に著した容堂伝『鯨海酔候 』で、 「坂本は何に思ひけん、傍なる中島作太郎に向ひて、慶喜公が今日の心中左こそと察し申す、龍馬は誓て此人の為めに、一命を捨つべきぞと、覚えず大息したり。」と記されており、また、渋沢栄一が編纂し大正7年に刊行された『徳川慶喜公伝』では、「将軍家今日の御心中さこそと察し奉る、よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな、余は誓つて此公の為に一命を捨てんと、覚えず大息したり。」という。時代が進むにつれ、多少オーバーになってきているようだが、少なからずこれに似た言葉を龍馬は言ったようだ。

 徳川慶喜が大政奉還にふみ切った理由については、様々な見方がある。内乱を避けるために一旦は政権を返上するも、朝廷はこれをもてあまし、結局は徳川家の手に戻ってくるという計算だったという説もある。そうだったかもしれない。しかし、少なくとも龍馬はそうは思っていなかったことが、上記の言動でもわかる。このときの龍馬の感情を、司馬遼太郎氏は小説『竜馬がゆく』の中でこう記す。
 「この男のこのときの感動ほど複雑で、しかも単純なものはなかったといっていい。日本は慶喜の自己犠牲によって救われた、と竜馬は思ったのであろう。この自己犠牲をやってのけた慶喜に、竜馬はほとんど奇蹟を感じた。その慶喜の心中の激痛は、この案の企画者である竜馬以外に理解者はいない。いまや、慶喜と竜馬は、日本史のこの時点でたった二人の同志であった。」
 
 大政奉還は、坂本龍馬と徳川慶喜の合作だったといっていいだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-22 02:38 | 龍馬伝 | Comments(0)  

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