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坂の上の雲 第8話「日露開戦」

 兄・秋山好古と同じく独身主義だった秋山真之も、明治36年(1903年)6月、ついに年貢の納めどきとなった。相手は愛知県豊田市出身の宮内省御用掛・稲生真履(まふみ)の三女・秋山李子(すえこ)。華族女学校に通う才媛である。仲をとりもったのは、ドラマのとおり八代六郎大佐だったらしい。真之36歳、李子21歳のときだった。媒酌人は侯爵・佐々木高行。兄・好古に影響された真之は、「家庭を持てば研究心が衰える」と常々人に語っており、このとき祝いの手紙をくれた友人の山屋他人中佐にも、次のような手紙を送っている。
 「日頃より軍神の化身と自身せる小弟が物騒なる昨今の時節に急に思立たる妻定めは別段平和と見せて敵方に油断させる大計略にも無御座。 唯この一生の大道楽の中途における、ほんのウサ晴らしにて候。しかしこの入道が偶然にも女房持つ気になった事はこの頃北天の一隅に現れたる彗星と共に少しは異変の沙汰とも申し、天下太平の吉兆か将また大乱の徴候か時に取っての判じ物に候。」
 自分のことを仏門にでも入った気分で「入道」ととなえ、結婚する気になった理由については、対露戦の気配が日本の政府当局恐露病によって回避の方向へと動いていることに憤慨し、「高輪の仮寓にて昼寝をむさぼる」つもりで家庭を持った、という。本心なのか照れ隠しなのか、いずれにせよ戦術の天才・秋山真之も、女性攻略戦術のほうは不器用だったようである。

 明治36年(1903年)4月、清国から帰ってきた秋山好古は騎兵第一旅団長となっていた。好古が清国の任務を解かれて帰国したのは、日本陸軍が取りつつあった対露戦に向けての臨戦体制の表れだった。いざ、開戦となれば、日本騎兵を率いて世界一を誇るロシア騎兵にあたり得る者は、好古の他ないというのが、すでに定評だった。同年9月、好古はロシア陸軍の演習に招待され、ウラジオストックを経て、ロシア陸軍の演習地ニコリスクに渡った。ロシア陸軍が、わざわざ日本人の武官に大演習を見せようとしたのは、その実力を見せることによって、日本人にとてもかなわないという気をおこさせ、対露戦へ容易にふみ切らせないようにする意図があった。これは特にロシア皇帝自身の指示によるものであったという。
 「猿が驚くだろう。」と、つぶやいたことであろう。

 好古はロシア騎兵将校たちによほど気に入られたようで、旧知の友のように慕われ、互いに火酒を酌み交わした。騎兵は歩兵と違い、その性質が特異なだけに、国境を超えて互いに戦友のような思いがあったようだ。現代でいえば、同じ種目のスポーツ選手のような感覚だろうか。しかし戦争はスポーツではない。やがて彼らは戦場において殺し合う運命にあるわけだが、まるで戦場という競技場で相まみえるかのように、互いにフェアプレイを望んだ。
 「ロシアにもまだ騎士道は残っていたし、好古にも武士道が残っている。日露ともに戦場での勇敢さを美とみる美的信仰をもっていたし、自分が美であるとともに、敵もまた美であってほしいと望む心を、論理的習慣としてつねにもっている。そういう習慣の、この当時は最後の時代であった。」
と、作者・司馬遼太郎氏はいう。

 司馬氏が小説の中で絶賛する二人の高官。山本権兵衛児玉源太郎
 「山本権兵衛は海軍建設者としては世界の海軍史上、最大の男の一人であることは紛れもない。彼はほとんど無に近いところから、新海軍を設計し、建設した。」
と、司馬氏が評する山本は、日清戦争後の10年で世界五大海軍の末端に名を連ねるまでの大海軍を創り上げた人物だが、それ以前に、彼のやった最大の仕事は、海軍省の老朽、無能幹部の大量リストラだった。維新の功績や薩摩藩出身というだけでそれなりの階級に座っていた者を容赦なく切り捨て、藩閥にとらわれず、正規の兵学校教育を受けた有能な若い士官を充当し、実力海軍を作り上げた。ドラマ中、東郷平八郎日高壮之丞の首をすげ替える際にも、「個人の友情を国家の大事に代えることはできない。」と言っていたが、彼の改革はまさに言葉どおり、国家の大事を最優先としていた。おそらくこの当時、彼を恨んでいた者は数えきれなかったのではないだろうか。司馬氏はいう。
 「明治史という場合、海軍にかぎっては山本権兵衛ひとりのはたらきをよほど過大にみても、見すぎることはないようである。」と。

 児玉源太郎は現役の陸軍中将ながら、その政治的才腕を買われて畑違いの分野も主管した。台湾総督陸軍大臣を経て、日露戦争前のこの時期には内務大臣文部大臣を兼任していた。日露戦争開戦を前に、日本陸軍にとって重大な事態がおこった。参謀本部次長・田村怡与造が病死してしまったのである。田村は対露戦の研究の権威だった。参謀総長は大山巌だったが、総長はいわば最高責任者で、実務のいっさいは次長がやる慣例になっていた。日本陸軍はたちまち後任に頭を悩ました。対露戦が目前である以上、誰でもいいというわけにはいかない。この次長職に児玉は自ら手を上げた。能力からいえば、児玉は田村より数段上だった。が、児玉は次朝職につくには偉くなりすぎてしまっている。ちなみに死んだ田村は少将。児玉は陸軍大臣までやった古参の中将で、来年は大将に昇進する予定でもあり、現在内務大臣でもある人物が本来なら少将がやる次長職に就くというのは異例の職階降下だった。しかし児玉は生来そういうことには頓着しない人柄で、見渡したところ、対露戦の作戦をたてうるのは前陸軍で自分以外にはないとみると、さっさとそう決意した。司馬氏は児玉源太郎をこう評する。
 「性格が陽気で屈託がなく、しかも作戦家であるほかに経綸の才があり、さらには無欲であるがためにその政治的才能は同時代のたれよりもすぐれていた。」と。
 児玉の作戦家としての名はすでに各国に聞こえていたから、この人事が公表されたとき、「日本は対露戦を決意した。」という情報が、駐日各国公使館からそれぞれの本国に打電されたという。

 明治の軍人たちは、山本権兵衛や児玉源太郎のように客観的に事実をとらえ、常に物理性を重んじ、合理的だった。のちの昭和期の日本軍人が、敵国と時刻の軍隊の力をはかる上で、秤にもかけられない忠誠心精神力を、最初から日本が絶大であるとして大きな計算要素にしたということと、まるで違っている、と司馬氏はいう。

 日露戦争に日本が勝利した影の立役者、明石元二郎が登場。ロシア駐在武官の明石は、山県有朋の意をうけて、ひそかにロシアの革命工作を展開する。つまり、ロシアを内側から崩壊させようという作戦だった。当時の国家予算は2億3000万円ほどだった中、明石に支給された工作資金は、当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)だったというから驚きである。その金を明石は主にヨーロッパ全土の反帝政組織にばら撒き、暴動やストライキを煽ったという。叛乱が頻発したロシアでは、やがて血の日曜日事件が起こり、そこから10年以上かけて帝政崩壊につながっていくわけだが、それは日露戦後のこと。しかし明石の行った工作活動はロシアの政情不安を招き、対日戦の継戦を困難にさせたことは間違いないといわれている。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は陸10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もあるそうだ。

 山県有朋が影の工作員として明石をロシアに送った同じころ、伊藤博文はアメリカに外交工作をはかるべく、金子堅太郎を特使として送った。伊藤が金子に託した策は、アメリカ大統領とアメリカ国民の同情を煽り、ほどよいところでアメリカの好意的な仲介で停戦講和に持ち込む、というものだった。金子は書生時代、ハーヴァード大学に留学しており、そのときの同窓が、この時期のアメリカ大統領・セオドル・ルーズベルトだった。ルーズベルト大統領は新渡戸稲造「武士道」をこよなく愛した日本びいきの大統領だったという。金子は日露開戦に至った経緯をアメリカの政治家や経済人を集めた会合で理路整然と説明し、アメリカの世論を味方につけることに成功した。金子堅太郎もまた、明石元二郎と同じく影の立役者だった。

 ここで注目したいのは、伊藤博文をはじめとする日露戦争時の指導者たちは、開戦前から戦争を終わらせることを考えていたことだ。そのことだけみても、彼らは日本の国力を実に客観的にとらえ、なによりも日本を守ろうとしていたことがわかる。のちの昭和期の指導者たちは、はたしてどうだったか・・・。一億玉砕・・・どう考えても、戦争を終わらせることを考えていたとは思えないし、日本を守ろうとしていたとも思えない。

 明治37年(1904年)2月4日、最後の御前会議で明治天皇聖断を下された。

 秋山真之、秋山好古、山本権兵衛、児玉源太郎、明石元二郎、金子堅太郎、伊藤博文、東郷平八郎・・・それぞれの日露戦争が始まろうとしている。


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-21 00:54 | 坂の上の雲 | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2010-12-22 14:45
例によって、まだ、見てないのですが、ついに明石元次郎が出てきましたか。
誰がやっているのか興味があるところですが、それは見てのお楽しみ・・・として、この辺については、以前、書いたものがありましたので、すこし多くなりましたがTBさせていただきました。
Commented by sakanoueno-kumo at 2010-12-22 18:33
< heitarohさん。
コメント&TBありがとうございます。
TBはのちほど読ませてもらいますね。

明石元次郎は、貴兄と同じ福岡人ですよね。
そして金子堅太郎も。
さらに、ドラマではまだ出てきていませんが、奥保鞏司令官もそうですよね。
秋山兄弟は松山ですが、薩長閥に牛耳られていたこの時代に、福岡や松山といった旧幕府側出身で活躍したこれらの人たちは、いかに優秀だったかがわかります。

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